波よ聞いてくれ | 象の夢を見たことはない

波よ聞いてくれ

日常生活はしていたのだが、心が、というより、生活がかつかつだったのかもしれない。

とはいえ、なにかが潜っていたのか死んでいたのか、潤いなかったのは確かで、潤いというのは生命の余剰のことであって、余剰というのはいつでも悪者にされがちだ。だが、余剰とはなにものか。

今、「波よ聞いてくれ」にはまっている。

 

 

小芝風花もそうなのだが、「まれ」から気になっていた中村ゆりかが出ているから見ている。

なぜか、気になる存在なのだ。なぜ自分は彼女が気になるのか。「自分のことをなにも知らないのに…。」的な言葉で、なにかを拒否された(なにかとはあえて言わない)ことがある人にはわかることだが、気になる理由というのは正直ない。ないはずなのだが、なぜ好きなのかということにふと気づくことがある。

 

言語化することは、その過程でそぎ落とされる部分の多さによって嘘となることは多々あるし、そしてそれが常なのだが、あえていうと、この番組を自分が見るのは彼女たちが主役級ではないからだ。逆にいえば、主役になる人というのは、多くの人の最大公約数でしかない。最も売れるのは、作品だろうが人であろうが世の中の最大公約数で、それはそのボリュームゾーンによる。要は、統計的に魅力が評価されることでしかない。家系ラーメンかインスタントラーメンか的な議論は結論に実はない。実はないのだけれど、自分がどっちなのかというのを考えてみることは、その人が生きる上での芯の発見につながることがある。

 

さて、日本。ガラパゴスだの、辺境の国だの、ファーイーストだの言われてきて、GDPは今時、実質体感世界20位くらいで。豊かさで台湾にもマレーシアにもぬかれてしまっている感がある昨今。ジャパンアズ№2である必要性というレーゾンデートルすら消えつつあるこの時代に放り込まれたテレビ番組。ラジオというもはや媒体としての魅力は全くなくなってしまった、ある種Iいまの日本とかぶるかつてテレビに次ぐ№2であった位置であがく人々が主人公なのだが、この人たちがある意味自分にとって象徴なのである。サブカルチャーとしての人選の極地として。北村一輝もそうだし。いや、失礼なことを言っているのかもしれないが、尖りぐあいがサブカルチャーであって、サブカルを極めて境地を作り出すというのが本来の日本の、あるいは辺境の国としての№2のトップの座としての在りようなのじゃないかと。

 

このドラマを見ていると衣装や照明、小道具にいたるまでかなり推敲されているのがわかるのだが、そういうプロフェッショナルさ加減が、あるいはその探求熱すらなくなってしまっていたのだ、ここのところ。なにをするべきなのかということにとらわれず、むしろどうあるべきかというのが重要で。そこに必要なのは信仰というもので、理解とかどうとかではない。気になるものを追求する。それが一番大事だということに気付かされたのである。

 

どうでもいいことだが、言語化するということは表現することではなく、その本質は自分の信仰を見つけることである。生命の余剰というのが信仰になるし、信仰が戦争を生むのだが、そのエネルギーなくして何物をもつなげていくことはできない。それが生命の本質であって、ただそういうことなのだったとやっと思い出した。