象の夢を見たことはない -327ページ目

作品

命はすり減らすものじゃなくて、煌かせるものだと。


そういうのは、作品の上に表れる。


宮崎駿監督は読売のインタビュー で、

「スタッフには、手間をかけて描くのが嫌なら、アニメーションを描くのをやめた方がいい、と言っています。人間が描いたものか機械が描いたものかは見れば分かる。しんどい思いをして描かないと、僕たちの豊穣(ほうじょう)さは失われるだろう」

と言っていて、このあいだ見た鉄コン筋クリートを思い出した。

監督:マイケルアリアスはもともとはCGクリエイターということだが、どこも細かく書かれていて、しいて言えば車窓とか風景が移動する場面しか機械で書いてるというのは、ぱっと見には、見あたらなかった。

「この作品ではCGをカメラとしてのみ使っているんです。ちなみに、電車と車は全てCGなんです。あとパースマップという立体的に作った物の間をカメラが移動するっていうのも、CGのやり方です。」と田中栄子さん(スタジオ4℃の代表取締役社長)の

ということで、納得はしたのだが、映画などの実写では、CG技術は進んでいるし、商業的な利用価値という面で、アニメでのCGの利用は、映画以外ではバーチャルな世界を暗示する必要性のあるゲームくらい?でしか再利用されない技術だと思える。のでパイは小さい、その分、発達する速度が遅いのかも知れないが、他方面からの技術流入を考えると、機械が描いたものを見分けられるという自負は今後どうなの?とも思える。監督の目は素人とはぜんぜん違うのだけれど、素人はそうではない。

ただし、「しんどい思いをして描かないと、僕たちの豊穣(ほうじょう)さは失われるだろう」というのは、もうこれは、経験的にわかる。

が、しかし、ただ単にすり減らせばいいっていうものではない。煌かせたあとに、それを磨く必要があるということで、それがなければ無駄骨である。そういうことなんだと思う。

同じインタビューで、宮崎監督は言っている。「頑張ろうっていうのは、うさん臭くてだめ」と。

がんばってる作品にエールを送るっていうが始まったら、その世界は終わる。胡散臭くなるから。

そういう世界は見ててすぐわかる。作品を見てもわかる。

そう考えると、自ずと、自分がなにをすればいいのかというのはわかる。煌け!ということだ。宮崎駿や鉄コン筋クリートが好きなのは、そういうことが伝わるからだと。

メッセージ性?クソくらえである。そういうのに頭で振り回されている作家は、ただ単にすり減らせばいい。

伝えるために生きているわけではないけれど、煌かないと伝わらない。

煌くこと。生きることは、すべて、そこに繋がっていくのだと、今はそう思う。

カイゼンとか、効率とか、基本的に、そういうバックボーンが必要で、そういうことがわかってないと、部下はついて来ない。あたりまえのことだが。

どう、自分が煌くか、部下をどう煌かせるか、そして磨くという辛い作業をどう乗り切るか、どう部下に乗り切らせるか。うさん臭いのは願い下げだ。

いうまでもなく、いのちというのは、その人の作品で、仕事で関わる以上、仕事上では部下にはそういうことを考えてあげないとダメだろうと。そして、その上で、メッセージ性というのもクソくらえであることはキモに命じておく必要があるのは言うまでもない。

音楽について

時間で遊んでいる人ほど、いろんな美学を持っている。


うちのおやじは、建具屋の親方だった。切り込みといって、注文を受け、作った建具をもって、お客さんの家へ行く。そこで、建具の角(運ぶとき、作った建具に傷がつかないように、建具の縦の辺の枠をわざと長く残しておき、現場で切り落とす)を落とし、鉋をかけて、家の敷居などに合うよう調整する。ドアの蝶番をつける位置を決めて、鑿で彫る。ドアの取っ手の穴を空けたり、そこに金具を埋め込んだり。


職人さんの作業を見るのは、楽しかった。働く人が美しいなんてことは、子供のころには考えることはない。

でも、作業を見るのは楽しい。かんな掛けとかで、長いかんなくずがしゅるしゅる音をたてて出てくる様子だとか、鑿打ちや釘打ちのリズムとか。

今だから思うが理にかなったモノにはリズムがあったのだろう。滑らかな動きにはリズムがある。思い切りの良さとか。


音楽が持つ抒情性というのは、いまだにどこから来るのかさっぱり見当がつかないが、リズムは基本的には自然ではなく、人の営みにその快楽を感じる糸口があるのだろうと思う。人の営みに対する賛歌。


そんな切り込みに子供の頃、連れて行ってもらったことがある。青山高原の別荘地だった。

子供だったので、そういう作業の観察にもすぐに飽き、外で遊んだりしてたのだが、遊び方を知っている子供とそうでない子供っていうのは違う。自分でそれを見つけられる天才的な子供もいるが、そうでない子は親にいろいろな遊びを教えてもらう。だが、そういう子は、どうやって遊ぶのかのコツがわからないので、すぐに飽きてしまう。

遊ぶためのコツは知識ではない。なので、教えるのが非常に難しいのだが、なにかを子供に発見させようという姿勢をもっていれば、どう教えればよいかっていうことが身についていく。

ちょっと脱線したが、そういう遊びを覚えるとき、そのとき、時間の感覚というものはない。

メロディーというものには、常々、時間の感覚がないと思っているのだが、なにかそういう遊びを覚えていくときの感じに似ているような気がする。そういう感覚によく寄り添いあうと言ったほうが良いのか。

時間で遊べる人ほど、いろんな美学をもっているのだけれど、メロディーというものの性質はそういう人に似ているような気もする。うまく言えないのだけれど。


そういう切り込みの帰り道、親父は車のラジオはつけない。

代わりに、よく口笛を吹いていた。

浅井健一

詩人だ。


なんじゃ、こいつ。かっこええ。NHK MUSIC JAPAN(1/11 00:40)。声とか。佇まいとか。



音楽じゃないけど、ロックだ。



気配

旅行

ある持続的な緊張のうちに訪れた土地しか、感慨を持って思い出すことはない。

自分にとって、豊饒な土地は、その土地に出会う前の自分の緊張状態にかかっている部分が、思いのほか多いのかもしれない。旅自身をギリギリなモノとしないかぎり。。


仕事をしていて、かなり限界なことをどうにか無理に形をつけて出た旅先の思い出は、次に仕事で同様な状態になったときの支えになる。体や精神がある一定の状態になったときに持ちこたえられるかどうかは、そんな風な思い出に支えられることは多い。無理なときこそ、旅に出るべきで、暇になったときに出た旅なんて、たいして意味などないのかもしれない。