韓国映画
韓国映画『チャンピオン』を観た。監督は、クァク・キョンテク。RVR で、村上龍が対談している。
龍:「…(略)。この役者もすばらしかったんだけど、もうほんと、なんていうか、教養がなくて、こう貧乏で、無学で無知な若者がボクシングだけが救いになっていくっていうのが、すごくよく描かれていたと思いますよ。」
クァク:「俳優が自ら役作りしたんです。」
龍:「あー。演出もしたんでしょ、もちろん」
クァク:「もちろんそうです」
龍:「でも、ああ、まあ、そういうのは、むず、難しいんだよね。その、彼の演技っていうのは、なんか。彼は教育があるはずだから、ほんとに教育がない人を演じるっていうのは難しいんですよね。」
クァク:「彼は一日中何も考えないで運動だけに没頭しました」
龍:「うーん」
一日中何も考えないで運動だけに没頭するというのは、結構すごい。それを自分に課すところもそうだが、役作りとして、こういうことをしないとわからないだろうという発想がすごいなあと。
実際、運動をしてみる。長時間運動していると疲れてなにも考えられなくなってくる。で、ただガムシャラにやってるだけだと限界が来る。意思力というのがそこから必要になってくる。
なにも考えずにバカみたいに泳いでいて、体力の限界がくるとアップアップ状態になる。そこから立て直すのは、もう意志力しかない。
動物的になってみる。自分が思っているような体育バカのイメージに沿って。だれでも、ある種、そういう考え方というか卑下したイメージを持っていると思う。でも、実際は、それではどこかで限界が来る。
そう、なにか違う。人によって違うのだろうか。運動してるだけでは、できないような気がする。教育がない人の演技というのは、また違うとこから生まれるのだろうか。
環境や身体を作りかえることによって変えられるもの。そういうもののなかに、入らない何かというものがどうやらあるようだ。生まれ持った性向?
そんなことを考えて、彼の演技を見直したが、やはり、教養がなくて、貧乏で、無学で無知な若者に見える。呼吸から、口の開けかたから、身体を動かすタイミングから、すべての佇まいから。いったいどうやったら、こういう風に振舞えるのか。さっぱりわからない。
うーん。韓国映画、ただ単にうわべだけではないものがあるような気がする。
おなじく、韓国映画の『マラソン』も観たのだけれど、ただ、映画のシステム云々だけじゃなく、役者さんのレベルとか、日本とは根本的なレベルが違うような気がしてきた。もうすこし、いろいろ観てみなくてはわからない。
便宜的
NHKの新日曜美術館で日本画家・高山辰雄の特集をしていた。
そのなかで、彼の作品を評する際、誰かがリルケの詩を引用していた。
「りんごに芯があるように、 人は生まれながらに死の種を宿して、この世に生を受ている」
高山辰雄は生の深遠を描こうとした画家である。いのちを描こうとした画家といったほうがよいのか。
死の種。人は成熟するにつれ、内部に宿すその種も大きくなっていく。
人はいろいろな不安を抱えていきていくのだが、畏れというものは制御不可能なものである。その恐怖に打ち克つために、それらを意識化しよう、合理化しようとつとめてきた。
死の種。「便宜的な」という言葉を、村上春樹は、その小説のなかでよく使う。死の種、便宜的な言葉。間に合わせで、だいたいあってるからまあいいやっていう感じの言葉。本質を含みながらも、間に合わせのもの、こういう便宜的なもので本質を代替することで、人は恐怖をやわらげられる。
人は本質的なものに恐怖する。無意識がつかみとっているのは、生の本質である。
ときどき、タガがはずれてあふれだす、人のその心的エネルギーは、意識上で便宜的に扱うことによって、どっか別の場所に仕舞い込めるらしい。
いったん、意識に引き上げて、「便宜的」に別の場所へ置いておく。そのとき、無意識が持っていた心的エネルギーはカタルシスへと変わって、人は涙したり、歓喜に震えたりする。一部は、芸術などのような創造のエネルギーとなったりすることもある。エネルギー不変の法則はここでもかわらない。
便宜的。ライトで代替がきくというこの「便宜的」なモノが持つ意味っていうのは、村上春樹の小説の上では、そういうふうに使われているらしい。
便宜的なものは、所詮便宜的なものであって、メタファーではない。本当のメタファーは、活きたイメージを喚起する。そのあたり、ほんとうに便宜的なものが、村上春樹の作品には多すぎる。彼はいったい何をしたいのだろうか。
滅びの美学
YOMIURI ONLINEを見ていたら、面白い記事があった。
「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画(http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20071225i302.htm )
なんでも原作は、「欧州では、「負け犬の死」(ボルカールトさん談)としか映らず、評価されることはなかった。」そうで、「悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。」らしい。
で、ベルギーの映画監督のディディエ・ボルカールトさんが結論づけた原因は、日本人の心に潜む「滅びの美学」だったと。プロデューサーのアン・バンディーンデレンさんは「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけたと。
そうか、負け犬の死なんだ。ふむ。
これって日本人だけなんだろうか。大義のためにっていうのは、中国でもあると思うのだが。
中島敦の「李陵・山月記」。「弟子」を読んだ。やはり子路の生き方に共感する中島敦がいたのだろうと思う。
孔子も大義は大切にするが、時の流れというものには逆らえないことを知っている。それゆえ、便宜的に生き残ることというほうが大切であるというふうにみえてしまうことがある。なぜか納得のいかないものを感じてしまう子路。
やはり、孔子のほうが正しい。どうも、中国人に対しては、どこかあつかましさを感じてしまって、納得できないところもあるのだが、中国の歴史は深い。かれらの人生観は、「強く生きる」うえで、日本人が遠く及ばないところがある。
そういうことを、わかって書いている。自然な文章で、子路の感情の発露の仕方は、中島敦のものでもあり、しかも多くの日本人が納得し共感するものだと思う。
わかったうえで、子路を、孔子よりも子路を選んでしまうのは、日本人の業なのか。こうゆう業っていうのは、トレーニングで変えようとすると、どっかで人生、破綻するんだよなあ。生理やら習慣やら、いろんなところでいろんなものと結びついてしまっている日本人の原始的なコアなんで、持って生まれたものとしてうまく付き合っていくしかないような気がする。
『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』 新潮社
野次馬根性、レポーターの記者根性は、動機や傲慢さ、無神経さはどうあれ、一定の成果をあげる。身の上話を聞いてほしい人もいるということだ。
作者・石井光太とそれぞれの地域、場所で生活している人々との会話について、訳し方と記述の仕方に作為が見える。
そこで、彼がだいたいどんな意識でこれを書いているのかはわかる。
彼の目を通して書かれたものなので、会話相手の感情や、実際にそこであった出来事の印象は、人によって、書かれているモノとはまったくとらえかたが違うものとなる可能性がかなり大きい。
そういう点をとりあえず差し引くことを考えて読まないといけないのだが、彼の意識で現実がどう捻じ曲がっているのか、文章からは判別不能で、虚偽の分離が不可、お手上げだったりもする。
読んでるうちに、バックパッカーによくある手合いの身勝手さや傲慢さが見えてくるので、読み進むうちに気分が悪くなってきたのだが、それは自分も同じ穴の狢だからかもしれない。
そういった意味で、なかなか読むのが手ごわい本である。
身体とイメージ
身体と精神はイメージで繋がっている。
生まれたときから、あるいは生まれたあとの成長の際に、身体の反射反応の発現の仕方が決定されていく。
別ブログ にも書いたが、身体にも民族層というものがあって、成長時の環境だけでなく、民族的に刷り込まれて発現し易くなっている体の反応の仕方がある。日本人におけるナンバの反応とかがおそらくそういうものの一つだとおもうが、こういう動作レベルでの身体の反応はいうまでもなく、生理的な身体の反応まで含めて、イメージトレーニングで書き換えは可能である。
身体と精神はイメージで繋がっているので、お互いからのイメージによって、お互いの制御が可能である。
前にも書いたが、ヨガや呼吸法など、インドや中国などの歴史が長い国では身体イメージを文章化、図表化できているものがある。気というのがそういうイメージの一つなのだが、要は身体に意識を集中する際に身体の中にエネルギー体をイメージするという方法で、これは、なにもエネルギー体をイメージするとまでいかなくても、動作のイメージや、動作そのものを意識するというところでも一定の効果はある。
たとえば、泳いでいて体が疲れてくると筋肉に乳酸が溜まってきて、動かしずらくなってくるのだが、この際、身体からのあがってきた信号を無視して、たとえば腕の振り、身体を浮かせること、腰でキックを打つなど、練習でおこなってきた体の動きのイメージに集中すると、比較的楽におよげるイメージポイントが出てくるので、それを順繰りにまわしながら、身体全体を使うようにしていくと、楽に、長く、速く泳げる。イメージすることによって身体を制御する。
精神的に不安定なときに、たとえば、人前に立つとあがるとか、緊張すると失敗するというのが続く場合は、身体動作によって、身体のイメージから、精神へという方向で精神状態を制御できる。
緊張したときは、目じり、首筋に力が入ってるので、それを抜くと心が安定するとか、呼吸が浅くなっているので、気をお尻から、頭の天辺へ、頭の天辺からお尻へと身体の前面、後ろ面のちょっと奥を這わせるようにイメージしながら呼吸するとよいとかいうアレである。
眠れないときに、身体の足とか手に熱をイメージすることによって身体が実際温かくなって入眠しやすくするとかもそう。身体のイメージで精神を制御する。
ちょっと鬱だなあ、とかパニックになるとかいう場合の、身体イメージの訓練にヨガなどは一定の成果をあげている。
話は飛ぶが、身体の民族レベルの癖なんていうのも、身体のイメージ訓練で塗り替えは可能である。
これは、当たり前のことなんだけど、忘れていることが多い。
なんか身体の調子がわるいとかいう場合にはイメージで制御してみる。鬱になってるなとおもったときには、物理的に身体の状態を変えてみる、たとえば、呼吸の際、気のイメージを持って呼吸することを5分(自分の経験からだが、この5分という時間がけっこう初心者にはミソみたいだ。訓練すれば短くなると思う)続けるということだけで、ちょっと精神状態をステージアップさせることができる。
体内時計の制御みたいに、たぶんに生理的なものから、ナンバみたいに民族的なものまで、身体の法則性というのがあってそれにあったプログラムをケーススタディで書く、あるいは心や身体の状態に応じたプログラムを作るとかすれば、心の病にも効く、普遍的なよいものができると思うのだけれど。。
森田療法とかまでいかないような、もうちょっとライトなマニュアルが作れないかしら。