便宜的 | 象の夢を見たことはない

便宜的

NHKの新日曜美術館で日本画家・高山辰雄の特集をしていた。



そのなかで、彼の作品を評する際、誰かがリルケの詩を引用していた。


りんごに芯があるように、 人は生まれながらに死の種を宿して、この世に生を受ている」


高山辰雄は生の深遠を描こうとした画家である。いのちを描こうとした画家といったほうがよいのか。



死の種。人は成熟するにつれ、内部に宿すその種も大きくなっていく。



人はいろいろな不安を抱えていきていくのだが、畏れというものは制御不可能なものである。その恐怖に打ち克つために、それらを意識化しよう、合理化しようとつとめてきた。



死の種。「便宜的な」という言葉を、村上春樹は、その小説のなかでよく使う。死の種、便宜的な言葉。間に合わせで、だいたいあってるからまあいいやっていう感じの言葉。本質を含みながらも、間に合わせのもの、こういう便宜的なもので本質を代替することで、人は恐怖をやわらげられる。



人は本質的なものに恐怖する。無意識がつかみとっているのは、生の本質である。


ときどき、タガがはずれてあふれだす、人のその心的エネルギーは、意識上で便宜的に扱うことによって、どっか別の場所に仕舞い込めるらしい。


いったん、意識に引き上げて、「便宜的」に別の場所へ置いておく。そのとき、無意識が持っていた心的エネルギーはカタルシスへと変わって、人は涙したり、歓喜に震えたりする。一部は、芸術などのような創造のエネルギーとなったりすることもある。エネルギー不変の法則はここでもかわらない。



便宜的。ライトで代替がきくというこの「便宜的」なモノが持つ意味っていうのは、村上春樹の小説の上では、そういうふうに使われているらしい。


便宜的なものは、所詮便宜的なものであって、メタファーではない。本当のメタファーは、活きたイメージを喚起する。そのあたり、ほんとうに便宜的なものが、村上春樹の作品には多すぎる。彼はいったい何をしたいのだろうか。