音楽について | 象の夢を見たことはない

音楽について

時間で遊んでいる人ほど、いろんな美学を持っている。


うちのおやじは、建具屋の親方だった。切り込みといって、注文を受け、作った建具をもって、お客さんの家へ行く。そこで、建具の角(運ぶとき、作った建具に傷がつかないように、建具の縦の辺の枠をわざと長く残しておき、現場で切り落とす)を落とし、鉋をかけて、家の敷居などに合うよう調整する。ドアの蝶番をつける位置を決めて、鑿で彫る。ドアの取っ手の穴を空けたり、そこに金具を埋め込んだり。


職人さんの作業を見るのは、楽しかった。働く人が美しいなんてことは、子供のころには考えることはない。

でも、作業を見るのは楽しい。かんな掛けとかで、長いかんなくずがしゅるしゅる音をたてて出てくる様子だとか、鑿打ちや釘打ちのリズムとか。

今だから思うが理にかなったモノにはリズムがあったのだろう。滑らかな動きにはリズムがある。思い切りの良さとか。


音楽が持つ抒情性というのは、いまだにどこから来るのかさっぱり見当がつかないが、リズムは基本的には自然ではなく、人の営みにその快楽を感じる糸口があるのだろうと思う。人の営みに対する賛歌。


そんな切り込みに子供の頃、連れて行ってもらったことがある。青山高原の別荘地だった。

子供だったので、そういう作業の観察にもすぐに飽き、外で遊んだりしてたのだが、遊び方を知っている子供とそうでない子供っていうのは違う。自分でそれを見つけられる天才的な子供もいるが、そうでない子は親にいろいろな遊びを教えてもらう。だが、そういう子は、どうやって遊ぶのかのコツがわからないので、すぐに飽きてしまう。

遊ぶためのコツは知識ではない。なので、教えるのが非常に難しいのだが、なにかを子供に発見させようという姿勢をもっていれば、どう教えればよいかっていうことが身についていく。

ちょっと脱線したが、そういう遊びを覚えるとき、そのとき、時間の感覚というものはない。

メロディーというものには、常々、時間の感覚がないと思っているのだが、なにかそういう遊びを覚えていくときの感じに似ているような気がする。そういう感覚によく寄り添いあうと言ったほうが良いのか。

時間で遊べる人ほど、いろんな美学をもっているのだけれど、メロディーというものの性質はそういう人に似ているような気もする。うまく言えないのだけれど。


そういう切り込みの帰り道、親父は車のラジオはつけない。

代わりに、よく口笛を吹いていた。