パリタクシー
パリでタクシーに乗ったことはない。
話がそれた。
フランスに目覚めたことはあるかと聞かれれば、イエスというだろうか。
同じようにインドに目覚めたことは、インドネシアのバリに、ベトナムに、マレーシアに、ロンドンに、マドリッドに。
そして日本に。
日本に目覚めるならば、それは海外渡航後だろうか。
日本というより日本人に目覚めたことはある。イタリア旅行で、添乗員さんがぶっ倒れた同じツアーの客を介抱するためにピサで一時的に彼女の役を引き受けた時だ。なぜか知らないが、英語が少しできるというだけで、彼女の後釜を命じられて、ピサの案内者(英語話者のイタリア人)のもとへツアーのみんなを連れていき、最後にバスに帰ったときにバスで帰還した客の人数点呼をしたのだった。
結局ぶっ倒れた客は無事で、その日のホテルの晩餐に現れたのだが、ああいうときは日本人は一丸となる。いろいろ助けてもらって事なきを得たのだが、結局ピサでの滞在時間が少なくなってしまって、ピサの斜塔に登るのを楽しみにしていたお客さんにはかわいそうなことをしたように思う。自分のせいではないのだが。。その後、名古屋空港で福岡空港へ乗り継ぐお客さんと、そして名古屋空港で別れるお客さんたちに、なぜだか「ありがとう」と感謝してもらってああ、日本人でよかったと思ったのだけれど。
自らのアイデンティティを試されるから、海外旅行はおすすめなのだけれど、塾の子供たちにそれを言っても暖簾に腕押しな時代なのだ。彼らが自分に出会える瞬間はあるのだろうけど、自分に出会う瞬間などたった一度ではなく、それが何度も何度もあることが必要で。終わりなどない。それに気づくのはもっと先になってのことなのだろうな。
旅先でフランス人によく会う。かれらの自分勝手さは、自分勝手な他の外人が避けるほどで、もうそのあたりはアメリカ人すら自分勝手だと思う自分からすると測定不能。もはやどっちも一緒なのだけれど。ああいう中に入ってしまえば、逆に開放されるのかもしれない。バリでたばこをふかしながらバロンダンスを見てたフランス人に悪態をついてたら、日本人に注意されたのだが、あれもある意味日本人に出会った瞬間だったのかと今思えばそう思わないでもない。
備忘録 音楽
結局、IMAIKE GO NOWも今池遊覧祭もいかず。
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を見たかったので、
でるアーティストをYOUTUBEでさらったのだが…。
ライブも行きたくないし
音楽マーケットも自分も冷めてしまったのかと思っていた。
いいじゃん!見たい!![]()
KPOPに興味はない。
アジアの音楽というのはあんまし聞いてこなかった。
やっぱり、エレクトロとクラブミュージックが好きなのだなあ。
えー、はいそうです。すぐ気づいたけど、なのだが、それがどうだと?
RADWIMPSのあんぱんだって、アルカラなのだし。いまどき…
今時どうだっていいのだよ。もっとやれ!と過去曲キャンセル界隈的な。
そういえば、絵とか写真の場合だとよく似た画像診断はAIでできるはずだが、
音楽だとどうなのか。絵や写真だとパクッても許されるのは、
色と形の因子の数が音と違って認知の閾値を超えるからなのだろうか。
なんなんだ。まったく不条理な話だ。
【タイ / Thailand】バンコクに新たなレコードショップ「CD COSMOS」がオープン
タイか、8月探ってみるか。
っていうか、名古屋飛ばしならぬ日本飛ばしの時代がやってきそう。
そうなったら、日本いっそブータンみたいになればいい。
それはそれで幸せかもしれない。
ルノワール
大学入試でルノアールという喫茶店を初めて見た。
1980年代だった。
当時、喫茶店というのはある種の別世界の響きを持っていた。カレーライスが
こんな容器に出されていた時代だった。このアラビアンナイト的なフォルム。
別に空飛ぶ絨毯などあるとも思っていなかったのだが、「ない」なら「ない」でそれを物語として…。
Chatgptとは無縁な時代ではあった。
幻想の未来なんていう小説が筒井康隆の作品にあったっけ。
幻想はいつしか手に届くが故に死語になってしまった感が今の時代にはある。
ルノワールの有名な少女の絵がある。
最も有名なルノワールの絵の1つなのだが、この絵の少女は誰?
というのは誰もが知りたいのだろうけれど、わざわざ検索する必要に駆られたことはない。
まあ、肖像画というか絵画というものは、いつの時代もそういう範囲で存在する。
昨日、この絵画の解説動画を見た。
なるほど。
中野信子氏の子供の脳科学の本も同時進行で読んでいたのだが、
この本に美しさの種類についての脳科学的な定義が描かれている。
すなわち、「脳がどんな時にそれを美しいと感じるかについて」
①多くの人が共通して感じる「美しい」
②自分が「かっこいい」「素敵だ」と感じる「美しい」
③みんながそういうから「美しい」と思ってしまう「美しい」
と定義されている。
でも、これだけではなく、この美の定義がプラスの方向としての美であるとするなら、それを倍にもするし相殺してしまうものがある。それが幻想とか秘密とかいうものであって、幻想が美しさを美しさとして成立させているのだとそうも思う。
美しいと感じなくなる、カエル化してしまうというのが実は裏で大きく美に影響をしている。
上のyoutubeを見ると20世紀末のあるいは21世紀初頭の人が感じる美しさと、ルノワールが生きた時代の美しさというものに違いがあるということがわかる。幻想の成立の条件というのは、時代によって違ってくる。カエル化というのはすごい大きな時代の石ころなのだろうが、それはさておき。
神秘のない今からの時代にはどのような美が美となりうるのだろうか。
認知的なまやかしというのが頭ではわかったとしても、それはそれとして、「推し」を「尊い」と思う10代の幼さというのは時代を通じてありうるし、10代でなくても「知識」との乖離を幻想として常に求めてしまうが人間の性で、そう考えると愚かさというのはいとおしいというだけでなく、それ自体が「知」なのではないのかとも思ってしまう。
美は美であることをやめない。いつの時代においても。
そういうことなのだろう。
日常生活とオカルト
「日常生活で、電解質(電気を通しやすいもの)は何か?」
という問いにChatgptは食塩(NaCl)であると。強い電流に対しては避雷針の役割は果たさないけれど、弱い電流を通す働きはあり、生体内の電気信号に使われる「微少な電流を使う場面」では不可欠な存在であると。「電流の通り道を作るイオンの通行路」だとイメージするとわかりやすいですとのこと。
逆に「日常生活で電気を通さない液体は?」との問いには、
純水、アルコール(「エタノールなど」)、油類(サラダ油。機械油)だとか。
魔除けに、塩と酒が使われるのはこの理由だと思う。電気的なエネルギーを避雷針的に分散したり、遮断したりするための品として、手に入りやすいのはこの二つだからで、人体という電気的刺激を神経伝達に使うエネルギー体では、それらが有効であるという先人の知恵なのだろうと。
話は変わる。
意識は無意識による行動の決定の後追いであって、自由意志は幻想だという脳科学実験(リベットの実験)に対する答えとして、意識はホログラムであるという説がある。意識は、無意識のプロセスの後付けの説明に過ぎない可能性について言及されているのだが、その延長上で、意識は、脳内だけでなく、空間的に非局在である、つまり、意識というのは、脳内で、非局所的に、まわりの(電荷的な)環境と脳内情報が干渉しながら、重ねあわせてつくられた情報パターンであって、脳内だけでなく空間的に量子もつれ的に離れた粒子が即座に影響しあって情報処理された結果のホログラムであると考えると、あの界隈の人たちの言うこともなんら嘘ではないんじゃないかと。
オカルトだけではなく、心理学的に、多重人格も、統合の中心を重ね合わせて持っているが故の脳のホログラムの処理結果と考えればわかりやすいような気がする。あるいは、フロイトが言う「魔がさす」的なitというのは結局、無意識と環境との関わりあいで出来上がる、他力と無意識の混合物であって、そりゃ意識側から見たら後追いで理屈をつけるしかないわなと。夢の中の自分が、一瞬で見た不条理なものに理屈をつけるのを考えればわかる話で、そういう処理は瞬きをする間に可能なのだし。
量子論と多次元についても、多重なふるまいを量子が持つならば、ふるまいの多重性が現実世界と影響を与え合って、世界には多次元があると考えたくなるんじゃねえかと考えた方が個人的にはすっきりするのだけれど。シュレーディンガーの猫的に現実世界は観察者によって決定されていくだけの話とか。むにゃむにゃ。
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない
という言葉を三度目に聞いた。
どこだったっけ、「街とその不確かな壁」を読んでいたときに意識に入ってきた。
加藤典洋氏やら読者からの手紙やらで、自らは意図しないところで自らの作品が読まれ解釈されていることに対しての拒否反応なのだろう、最初はそう思った。だが、本当のところは…。
アタッチメントとデタッチメント。デタッチメントというのは上の言葉から明らかだ。河合隼雄氏との対談からも、彼の作品からも明らかなように、世界と自分との断絶を感じている。世間が見ているのは、彼の影であって、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の影のように、世界から見られている村上春樹は「彼の影」であって、彼からひっぺがされると街の外で簡単な作業に従事させられながら、いつしか精気を無くして死んでしまう。少なくとも村上春樹自身にとっては。
だから空気さなぎのように、世界と自分との間に膜を作る。その中でとりあえず世界と対処する。自我と世界との間のトワイライトゾーン。そこでとりあえずバッファをと。だがしかし、若いときにはその膜をうまく作れない。だから鼠のように実生活においては自殺に追い込まれる。直子のように犠牲を必要とした。自我の強さは、外部に犠牲を要求する。だから喪失感を伴わざるを得ない生き方であるのか。
そう考えるとなんて自己中心的な存在ではないだろうかと村上春樹を思わないではいられない。実際、おそらく自分は面と向かって付き合えそうにない人ではある。だが、自分が彼に同時に惹かれるのは、その有り様としてのすがすがしさなのか、わりきりの良さなのかもしれない。
自らと社会や世界で自らが評価される鏡としての有り様との乖離に不条理さを感じるが故の影であり、鼠である。彼の自己の二重性や作品内によく現れる6つの指を持つ女の子やらは、そのメタファーなのだが、結局は理解されない自分と世界とのデタッチメントに対する呪詛なのだと。
詮無いことになにを今さらと。
そうとれなくもないが、果たしてそれだけなのだろうか。ある種のそう思う自身に対する諦念やおこがましさというのも入れ子のように意識している筈で、結局は鏡に映ったものも含めて「理解というものは、常に誤解の総体である」という言葉に集約されたのかもしれないといまは思いつつある。
だが、それを悟ってしまうと小説というものはただのお話しになってしまうのでは…ていうのが「街とその不確かな壁」。
かつて筒井康隆が老境に差し掛かったときの自己の小説、1980年代以降の彼の作品に対する自己弁護が、あとがきを書くようになった村上春樹と被っている。自分が生涯で20年を超えてコミットメントした小説家2人の小説の有り様を概観するとそう。
新陳代謝というのは若いときにしかない。「村上春樹が英語で楽しく読める本」を同時に読みながらだと小説家としての技術とか歴史とかいう自己の賛美というものがいかに自己弁護のありようとしてさもしいものか思い知らずにはいられない。彼の若いころの作品の表現は、テクニックでは補えない。視線が違えば、みずみずしさも違う。パプリカでそれを取り戻したと思った筒井康隆は、文書化できる以上、技術でそれを再現できるはずだと語ったのだが、そう上手くは行かなかった、結局は。
若さに自己評価など不要なのだ。



