『フーコー入門』 中山元 | 象の夢を見たことはない

『フーコー入門』 中山元

『考えるヒント』で小林秀雄が歴史について語っていた。
なにかがあって、歴史がどうのと言っているのだろうが、いったい何に対して息巻いているのかはっきりしなかった。
中山元の『フーコー入門』を読んでいたら、戦後のフランス思想界の歴史観の潮流について書かれていてその対象がやっとわかった。

当時フランスは第二次世界大戦で屈辱的に敗北し、それに対して戦争という歴史的な事件を理解しようとする気運が高まっていた。サルトルの実存主義にはこうある。
「いかにして人間は、歴史の中で、歴史を通じて、また歴史に対して、自己を人間となしうるか」と。

あるいは戦後の一方の雄である共産主義国家のイデオロギー、それに対する評価としてスターリン、マルクス、ヘーゲルの歴史観も取りざたされる。スターリンの論理によると
「人間の行動の価値は歴史の進路によって決定される」と。

「戦後のフランスの思想界を支配したのは、この歴史の方向という概念を提示したヘーゲル主義と、歴史の方向性を洞察して自己の行動を決定する実存主義とヒューマニズムである(※1)」。
そう中山元は書いている。

そこまでの経緯がわからないと、小林がなにをもって歴史という言葉を持ち出しているのかわからない。『考えるヒント』を読んでいると唐突に歴史やらヒューマニズムやらという言葉がつらなって出てくるものがあるのだけれど、すでにそんなことすら自分のような後世の一般読者にはわかりかねる状況になっている。歴史とはそういうもんである。

フーコー、『言葉と物』でエピステーメー(知の枠組み)とやらを持ち出している。
エピステーメーというのは、物を認識する際、そのものの見方を規定するまなざしであって、時代ごとに一つだけ存在し、時代が転換するとエピステーメーが転換すると。

歴史を語るのに超越論的視座などない。彼が彼のまなざしで分析した中世なり古典主義時代なり近代なりのエピステーメーは、彼の視座から見たものであって彼の主観でしかない。それは別の時代、別の人がみればまったく別の様相を帯びるのは自明。よって彼が語る歴史は彼の恣意的な主観的構成物でしかない。

さらに言えば彼自身はその時代に生きてはいない。消え去ったもの、知りえないものは数知れない。そういう状況で見えないものというのは、自身の盲点レベルのちっちゃさではない。

彼の思想は万事がすべてそういう感じである(※2)。そして彼自身も、成長し変化し続ける彼自身の歴史、彼自身の生涯の中で固定された視点というものを持ちえない。持ち得ないまま思索を続ける。
おそらく、彼自身も読もうとして読めない点があることを知りながら。

中山元氏は第一章ですでに結論を書いている。
眼の構造には、眼自体を見ることができない盲点があるが、フーコーがここで読もうとしているテクストは、その後一生フーコーが探求を続けたテクストであり、彼の読もうとする主体のテクスト、すなわち彼自身である。彼は彼自身の盲点に眼を凝らしている。そして問い掛ける。このテクストを読み得ない<わたし>とは誰かと。

つまらん。
哲学書はそれぞれの哲学者がいかに砂漠でくたばったかを知る上での参考にはなる。それぞれブザマだったりカッコよかったり。
そんな感じで参考にはなるが、そんなものを読むくらいなら自身の人生を歩んだほうが至極まっとうで健全で有意義で健康的である。あたりまえのことだが。

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※1 構造主義と実存主義
さらにその一方でレヴィ=ストロースは、さまざまな未開社会の婚姻規則を分析しながら、当事者には認識されていない一定の規則が社会には存在することを示し、それを構造的に分析して『親族の基本構造』で提示した。
これは、サルトルの実存主義が「人間の決断の重要性を迫るものであり、歴史主義に基づいていかに「疎外状況」から脱出するか」を唱えていたのに対して、決断の無意味さ、社会の無意識の構造の優位を示すものであった。これはサルトルの実存主義には大きな打撃だった。そう中山氏は書いている。
なお、レヴィ=ストロースは1908年生まれ、小林秀雄は1902年生まれ。サルトルは1905年生まれ。
小林はせいぜいサルトルくらいまでしか知りえなかったのか。彼が歴史を語るうえでヒューマニズムとして言及しているのはサルトルの実存主義である。あるいは、彼の専門であるロシア文学を通してのスターリニズムの否定だったりするのか。彼の語るヒューマニズムもそういう面で小林流になっているところが彼のいいとこなのだけれど。
松岡正剛氏が小林の哲学はうんぬんと言っていたが、それはないものねだりだと思う。彼は批評家であって哲学者ではない。日本に哲学者はいない。いるのはせいぜい哲学研究者だけである。

※2
とはいえ、フーコーのおもしろさというのはその彼のまなざし自体だったりする。後半では歴史の系譜学から性(セクシュアリテ)の問題、生の権力へ、さらに彼の最後の課題である統治性プロジェクトへと進む。
この世代のフランス思想家のおもしろいところは、それぞれの思想家が絡み合いながら錯綜するその模様だったりする。それぞれがそれぞれに影響をあたえながら、それぞれの思想を確立しているので、一人の思想家をとりあげてもその哲学はまるで迷宮のようになっていて途方に暮れることがある。ラカンとかもそう。
おもしろい人にはおもしろいんだろうけど、そんなものであやとりしてても面白くもないのでわっしは離脱。ただ、このあたりの思想家の基礎となっている、カント、ニーチェ、デカルトそしてソシュールあたりは押さえといてもいいかもしれない。