象の夢を見たことはない -4ページ目

ナイちゃん 診療日記

明日はにゃんにゃんにゃんで猫の日だそうだ。

 

 

お外で咬まれて病院へ連れていく。一回休み。

がんばれ、ナイちゃん。

 

偶然の出会い

図書館へ本を返しに行った。

いつも長居はしないのだが、なにかしらの惹きがあったので、雑誌のコーナーに寄ってみた。

ら、見つけた。

 

 

ので、アマゾンで早速買った。

芸術新潮なんてあるんだ。知らんかった。

 

村上春樹の短編に『七番目の男』というのがある。

この中で波を通してみたある男の姿というのは、シーレのデッサンを思い起こさせる。

シーレのデッサンの速さは、見ていて気持ちがいいだろう。

そういえば、ダリが病床のベッドで驚くべき速さで、針金で立体の像を作る映像を見て戦慄したことがあると大学時代の友人の話。デッサンをするようにモノが作れるって一体なんなんだ。

『めくらやなぎと眠る女』

 

ラスト・バリア―スーフィーの教え

スーフィーを知ったのは、多分この本だと思う。

 

 

 

スーフィズムとはイスラム神秘主義で、イスラム教としては異端になる。異端の宗教というのは、常に自分の興味をそそるもので、宗教自体が人として異端な考えだと子供のころから現在まで生きてきて身についた考えなのだが、その宗教から否定されているって一体どんなものかという興味からなわけで。けれど正直常識の真逆というのがどうしたって生きることの真実につながっているという直観がどこかにあって。だいたい、宇宙の存在とか生命自体が非常識に始まっているわけだから、そこにしか逆に真理はないという意識がオカルト好きへ向かわせるんだと思う。

 

異端の宗教というと、西洋でいうと錬金術とかグノーシス主義的なもので、仏教でいうと密教とか、理趣経とか、チベット密教とか。あるいは西アジアだとミトラ教とか。要は現在のキリスト教、イスラム教、仏教が万人に受け入れられる前に土着で信仰されていたなにか、あるいは高尚な宗教として経典として整理されるときに邪心や邪悪があるとして捨てられたものの中にしか、命と結びついたあるいは神秘と結びついたものはないんじゃないかというところからで、理性で作られたものに命は宿らないというところに本質的な興味の起源があるんだけれど。

 

したがって、宗教そのものに興味がない人にはこの本はまったく、非合理で受け入れられないものだろうし、実際そういう書評も目にする。そういう意味で読む人を選ぶ本。

 

以下本の紹介文

私はその男の不思議な存在感に急速に惹かれていた。ロンドンでふと足を止めた骨董屋。気がつくと、自分でも妙だと思いながら、男にスーフィー(イスラム神秘主義者)のことをたずねていた。男は笑みをたたえながら、お茶でも飲みませんかと私を誘った。ハミッドとのこの不思議な出逢いが、私をイスタンブール、アナトリア高原、そして聖地コンヤへと連れだした。著者自身の人生を変えた神秘に満ちた魂の旅行記。

 

たぶん絶版なので、図書館などでどうぞ。

 

夜の街流れ星 夜の街流れ星 夜の街流れ星 

 

2023/2/12 追記

バンガロールにいたころに土日になると街をオートと徒歩で散策していたのだが、見知らぬ外国の街というのは全く飽きがこなく。そんななかで、イスラム教徒が多くすむ地域とかもあり、やはり住み分けがされているわけで、そこではアザーンが早朝とかに鳴り響くわけでそりゃそうなるなと。インド自身、いろんなところでカーストを見るわけだけど、イスラム教徒というのも宗教が生活を規定しているせいか、やはり資本主義経済の中で覇権を握るというのはこのように制限がある国には難しいという印象がある。イスラム教はこの本も見てもそうなのだが、宗教的に物質的な進歩が生まれることはない土壌となっているようで、インドネシアはそれではなぜ今と思ったのだが、マイナビのサイトをみると中東ほど戒律は厳しくないらしい。あ、ドバイとかもそうか。でも資本があるというのと発明や発見というのは全く別物だから、まあそんなところなんだろう。

宗教的な悟りというのは、常に時間がかかるのが定番で必ずステップがあるのだが、時短とかタイパとかとは真逆の位置にあり、そこをなんとかというところがあるのだが、本当に人生で必要で使えるのはそんなふうにして身につけるものだし、逆に今時の日本の若者や子供たちは将来何ができるんだろうとも最近よく思う。インドでソフトウエアをインド人に作ってもらっていたのだが、そのころも思ったのだが、自分で作るよりネットで検索した情報でものを作らずに返答してくることがあり、現場で地道に作るという意識も欠けていた。実際には日本人よりもずっと粘り強く忍耐強い面もあるのだけれど、そこの社長はインド人なのだが、インド人は知識を得て知恵(wisdom)を無くしてしまったのだと言っていた。たぶんインドは経済大国にはなれない。イスラムの国もそうだろう。『そこには独善的な価値観があり、結果として失われるものがある』。すべてを手に入れることなど無理だし、多様性を実現するというのはいったいどんなステップで可能になると言っているのか自分にはまだ想像もつかない。

自然現象と心の構造

C・G・ユング W・パウリ 共著

 

この本はたまたまユングの言う偶然の共時性により手に取ることになった。偶然の共時性というのは、心のベクトルからいえば無意識内の興味がたまたま目の端に見えたものに引っかかるようなものであって、ある意味インターネットの広告はそれを強化するように働いているわけであるが、それは人が探し物をしているときにセレンディビティ的に何かを見つける方向とは少し異なる気がする。

 

無意識の持つ全体性は、宗教的な悟りとどこまでかは相似なのだが、その論理化という点で心の全体性として考えるのか、宗教的に段階的に得られるものであるというような知見に基づいて修行としてとりいれていったのかなどで、全く別々の理論体系になっており、前者はユングに代表されるし、後者は井筒俊彦氏の「意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」などがその例にあたるのかと思う。

 

そのあたりまでが自分のこれまでの自然現象と心の構造に対するおおよその考え方で、ならばこれを科学的にとらえなおすとどうなるのかという点がこの本の白眉であって、それはW・パウリの論文である後半にあたる。

 

「純粋に経験的な考え方によれば、自然法則は、ひたすら経験という素材だけから、ある見かけの確からしさをもって導かれることになるが、これに反し、近来多くの物理学者は、直観とか関心の方向といったことが、概念や理念の発展に重大な役割を果たしており、それは通常単なる経験などをはるかにしのいで、自然法則の体系(つまり科学理論)の構築に必須のものである、ということを、更めて強調するようになっている。」

 

そしてこのように考えた場合、1つの問題が生じる。すなわち、感覚知覚と概念の間の橋渡しをするものの本性は何か。という問題である。

 

W・パウリは先のリンクからたどれるように、スイスの物理学者でスピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。

 

量子力学はこれまでの物理学とはまったく異なる物理学であり、無から有ができるなどという、あるいは観測者の存在が物理現象に影響を与えるというあのシュレーディンガーの猫に代表されるような、いやいやそれはどうなの的な過去の常識からはなれた学問であって、でもそれは実は色即是空空即是色と相似じゃね?なんていうオカルト好きの好奇心をそそる側面も持っている。

そんなわけで、このあたりに興味がある人には必見の本だと思う。

 

 

昨日借りた本

とりとめなく

 

英単語の語源図鑑

授業で使えるか。英単語が苦手なのは、覚えるのがめんどいから。なら掛け算で覚えられるほうがよかろう→接頭語・接尾語・語幹を覚えれば。しかし、じつは接頭語自体変化したり、前置詞みたくコアイメージからの展開がある。なんとなくの感覚はつかめるけれど。ボキャブラリービルダーに挫折した人向けかも。

 

 

ラスト・バリア

数の魔力

自然現象と心の構造

 

このあたり、量子力学と宇宙への興味からの変節で。

結局物理って認知の限界へもどるんじゃないかと従来からのオカルト好き方向へ。

ちょっと借りすぎた。2月20日までに返せるのか。