刹那 plastic romance
酔った目で景色を眺める。
景色と言っても、PC上に現れるアンビエントな写真だ。海辺の景色。茶色の岩場と中景には打ち寄せる波と砂浜、遠景には陽がまだ残る水平線の海。自分の経験とその景色を重ねる。
水平線に目をやる。岩場に目を向ける。波の音が聞こえる。
人間の脳の能力というのには、制限がある。
ある能力を伸ばそうとするのなら、一時的にある能力を非活性化することが必要だ。
トレードオフの関係にあるというふうなことを池谷裕二氏の本で読んだ。
酒に酔ってマヒした能力は別の能力に転嫁されて、醒めた脳の回路に灯をつける。
エネルギー普遍の法則なのか。そんな時にしか見えない景色がある。
いつぞやから、そんなふうに感じてしまう。
だが、長続きしないスタミナ。モチベーションに貯金はないように、酔った思考は刹那的であって。
さらに現実とのつながりを切ってしまっているがゆえの非条理が素面のときに鼻につく。
実際に自分が見た景色に、今見ている景色を、無意識に寄せて行ってしまっているだけだ。
実際に見たのは河で、場所はメキシコではない。インドだ。
何かができそうで、ありえそうだが、どこにも足はついていない。
そんな時間を過ごすことの贅沢さに気付くのは、いつになるだろう。
1回指を弾く間に60あるいは65の刹那があるとされる。
刹那。漢訳では「念」という。語源となったサンスクリットにおける刹那は、この世の最も短い時間を意味している。人を含む世の中のすべては、その短い時間のなかで千変万化しており、生死や物事も変化しているという。また、人間の意識は、刹那の中で生成と消滅を繰り返す運動であるという考え方もあるようだ。
刹那の中で、意識は生成と消滅を繰り返す。
意識に一貫性などなくていい。
生きて死ぬのだ。刹那の間に。
PERFECT DAYS
影って重なると濃くなるんですかね。
何にもわからないや。わからないまま、死んでいくんですかね。
異なる光源からだと、どうなるんだろう。
光は濃くなるんだろうか。
子供たちと話していて、彼らの幼さを感じてはいる。
が、自らがその時だったときの世界の色の濃さと、年を取ってからの色濃さというのは変わらない。
光源が複数になっても、影の濃さの上限は変わらない。
解像度は、変わっていくのだが。。
光の強烈さと影の濃さは子供のころと変わらないのだ。
感情はすでに振り切れていた。
そう思う。
世界一流エンジニアの思考法 単行本 – 2023/10/23
ぬるま湯につかる。その偕楽。
それは決して快楽ではない。ぬるま湯とは偕楽だと。
なぜかそう感じて辞書をみてみる。
偕楽…多くの人と楽しむこと
とある。
一方で、サウナで冷水を浴びて整う。
そっちが快楽だよなと。
快楽…心地よく楽しいこと。官能的な欲望の満足によって生じる、快い感情。
忖度とか、持ち帰って皆と検討しますとか。偕楽志向だ。
英検1級の試験(2023-1)の筆記試験で
Is investment from foreign companies necessary for the success of Japan's economy?
という問題が出て、32点満点で23点というひどい結果。まあ基本的にいろいろひどかったが、そこが分岐点となったな。2勝2敗というていたらく。また新たな気持ちで。
模範解答的にはこれ。
なのだが、自分的にはinvestmentというのが支配というものと被っていてこの意見とは逆。なのだが、それを具体的に落とし込むことができず、反証に欠けていた。では、日本人がなにを手に入れる必要があるのか。そのヒントがこの本にあった。
スピードが酷いというのが2004年にインドから帰ってきたときの日本に対する印象で、しかもそれは当時から日本のシステムが持つ欠点。すでにそのときには日本の会社は下請けから派遣という分岐点を構造的に超えてしまっていた。つまりシステムにその欠陥は不可逆的に落とし込まれていて、もはや壊せなくなってしまっていたのさ。
その後、会社辞めて、違う会社でデンソーに外注で入り込んだのだが、デンソーの会社の階層構造たるや名札の色から入れる部屋の階にまで。それが2009年で。まあトヨタもそうなんだろうけど、実際に下になってみると、もはや、その身分たるやヴァルナ的に表れているのだなとかなりひいた。インドのカーストは、結局インドが国際的に上に上がれないという歴史的で感情的で構造的な欠陥であって、彼の国が人口が中国を超えようが永久に発展途上国家であることは定められた運命なのだが、日本も片足どころかそういう状態に両足をつっこみつつある。
結局は、それはマインドの変化なくしては整うことはない。
マインドセットとは何かということを含めて、この本、今の時代の良書であることは間違いない。そう、間違いないな、結局はマインドセットなのだ。あとは英語でどう書くかだな。ちょっと考えてみよう。
https://twitter.com/i/status/1783613603406590321
マインドセットというのは行動様式であって、感情に裏打ちされた仲間意識では決してない。世界が良くなるために、何が必要かという設定が結果的にそれぞれ同じ方向になるかもしれないという楽観的な希望だ。
波よ聞いてくれ
日常生活はしていたのだが、心が、というより、生活がかつかつだったのかもしれない。
とはいえ、なにかが潜っていたのか死んでいたのか、潤いなかったのは確かで、潤いというのは生命の余剰のことであって、余剰というのはいつでも悪者にされがちだ。だが、余剰とはなにものか。
今、「波よ聞いてくれ」にはまっている。
小芝風花もそうなのだが、「まれ」から気になっていた中村ゆりかが出ているから見ている。
なぜか、気になる存在なのだ。なぜ自分は彼女が気になるのか。「自分のことをなにも知らないのに…。」的な言葉で、なにかを拒否された(なにかとはあえて言わない)ことがある人にはわかることだが、気になる理由というのは正直ない。ないはずなのだが、なぜ好きなのかということにふと気づくことがある。
言語化することは、その過程でそぎ落とされる部分の多さによって嘘となることは多々あるし、そしてそれが常なのだが、あえていうと、この番組を自分が見るのは彼女たちが主役級ではないからだ。逆にいえば、主役になる人というのは、多くの人の最大公約数でしかない。最も売れるのは、作品だろうが人であろうが世の中の最大公約数で、それはそのボリュームゾーンによる。要は、統計的に魅力が評価されることでしかない。家系ラーメンかインスタントラーメンか的な議論は結論に実はない。実はないのだけれど、自分がどっちなのかというのを考えてみることは、その人が生きる上での芯の発見につながることがある。
さて、日本。ガラパゴスだの、辺境の国だの、ファーイーストだの言われてきて、GDPは今時、実質体感世界20位くらいで。豊かさで台湾にもマレーシアにもぬかれてしまっている感がある昨今。ジャパンアズ№2である必要性というレーゾンデートルすら消えつつあるこの時代に放り込まれたテレビ番組。ラジオというもはや媒体としての魅力は全くなくなってしまった、ある種Iいまの日本とかぶるかつてテレビに次ぐ№2であった位置であがく人々が主人公なのだが、この人たちがある意味自分にとって象徴なのである。サブカルチャーとしての人選の極地として。北村一輝もそうだし。いや、失礼なことを言っているのかもしれないが、尖りぐあいがサブカルチャーであって、サブカルを極めて境地を作り出すというのが本来の日本の、あるいは辺境の国としての№2のトップの座としての在りようなのじゃないかと。
このドラマを見ていると衣装や照明、小道具にいたるまでかなり推敲されているのがわかるのだが、そういうプロフェッショナルさ加減が、あるいはその探求熱すらなくなってしまっていたのだ、ここのところ。なにをするべきなのかということにとらわれず、むしろどうあるべきかというのが重要で。そこに必要なのは信仰というもので、理解とかどうとかではない。気になるものを追求する。それが一番大事だということに気付かされたのである。
どうでもいいことだが、言語化するということは表現することではなく、その本質は自分の信仰を見つけることである。生命の余剰というのが信仰になるし、信仰が戦争を生むのだが、そのエネルギーなくして何物をもつなげていくことはできない。それが生命の本質であって、ただそういうことなのだったとやっと思い出した。


