世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book)
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ぬるま湯につかる。その偕楽。
それは決して快楽ではない。ぬるま湯とは偕楽だと。
なぜかそう感じて辞書をみてみる。
偕楽…多くの人と楽しむこと
とある。
一方で、サウナで冷水を浴びて整う。
そっちが快楽だよなと。
快楽…心地よく楽しいこと。官能的な欲望の満足によって生じる、快い感情。
忖度とか、持ち帰って皆と検討しますとか。偕楽志向だ。
英検1級の試験(2023-1)の筆記試験で
Is investment from foreign companies necessary for the success of Japan's economy?
という問題が出て、32点満点で23点というひどい結果。まあ基本的にいろいろひどかったが、そこが分岐点となったな。2勝2敗というていたらく。また新たな気持ちで。
模範解答的にはこれ。
なのだが、自分的にはinvestmentというのが支配というものと被っていてこの意見とは逆。なのだが、それを具体的に落とし込むことができず、反証に欠けていた。では、日本人がなにを手に入れる必要があるのか。そのヒントがこの本にあった。
スピードが酷いというのが2004年にインドから帰ってきたときの日本に対する印象で、しかもそれは当時から日本のシステムが持つ欠点。すでにそのときには日本の会社は下請けから派遣という分岐点を構造的に超えてしまっていた。つまりシステムにその欠陥は不可逆的に落とし込まれていて、もはや壊せなくなってしまっていたのさ。
その後、会社辞めて、違う会社でデンソーに外注で入り込んだのだが、デンソーの会社の階層構造たるや名札の色から入れる部屋の階にまで。それが2009年で。まあトヨタもそうなんだろうけど、実際に下になってみると、もはや、その身分たるやヴァルナ的に表れているのだなとかなりひいた。インドのカーストは、結局インドが国際的に上に上がれないという歴史的で感情的で構造的な欠陥であって、彼の国が人口が中国を超えようが永久に発展途上国家であることは定められた運命なのだが、日本も片足どころかそういう状態に両足をつっこみつつある。
結局は、それはマインドの変化なくしては整うことはない。
マインドセットとは何かということを含めて、この本、今の時代の良書であることは間違いない。そう、間違いないな、結局はマインドセットなのだ。あとは英語でどう書くかだな。ちょっと考えてみよう。
https://twitter.com/i/status/1783613603406590321
マインドセットというのは行動様式であって、感情に裏打ちされた仲間意識では決してない。世界が良くなるために、何が必要かという設定が結果的にそれぞれ同じ方向になるかもしれないという楽観的な希望だ。
日常生活はしていたのだが、心が、というより、生活がかつかつだったのかもしれない。
とはいえ、なにかが潜っていたのか死んでいたのか、潤いなかったのは確かで、潤いというのは生命の余剰のことであって、余剰というのはいつでも悪者にされがちだ。だが、余剰とはなにものか。
今、「波よ聞いてくれ」にはまっている。
小芝風花もそうなのだが、「まれ」から気になっていた中村ゆりかが出ているから見ている。
なぜか、気になる存在なのだ。なぜ自分は彼女が気になるのか。「自分のことをなにも知らないのに…。」的な言葉で、なにかを拒否された(なにかとはあえて言わない)ことがある人にはわかることだが、気になる理由というのは正直ない。ないはずなのだが、なぜ好きなのかということにふと気づくことがある。
言語化することは、その過程でそぎ落とされる部分の多さによって嘘となることは多々あるし、そしてそれが常なのだが、あえていうと、この番組を自分が見るのは彼女たちが主役級ではないからだ。逆にいえば、主役になる人というのは、多くの人の最大公約数でしかない。最も売れるのは、作品だろうが人であろうが世の中の最大公約数で、それはそのボリュームゾーンによる。要は、統計的に魅力が評価されることでしかない。家系ラーメンかインスタントラーメンか的な議論は結論に実はない。実はないのだけれど、自分がどっちなのかというのを考えてみることは、その人が生きる上での芯の発見につながることがある。
さて、日本。ガラパゴスだの、辺境の国だの、ファーイーストだの言われてきて、GDPは今時、実質体感世界20位くらいで。豊かさで台湾にもマレーシアにもぬかれてしまっている感がある昨今。ジャパンアズ№2である必要性というレーゾンデートルすら消えつつあるこの時代に放り込まれたテレビ番組。ラジオというもはや媒体としての魅力は全くなくなってしまった、ある種Iいまの日本とかぶるかつてテレビに次ぐ№2であった位置であがく人々が主人公なのだが、この人たちがある意味自分にとって象徴なのである。サブカルチャーとしての人選の極地として。北村一輝もそうだし。いや、失礼なことを言っているのかもしれないが、尖りぐあいがサブカルチャーであって、サブカルを極めて境地を作り出すというのが本来の日本の、あるいは辺境の国としての№2のトップの座としての在りようなのじゃないかと。
このドラマを見ていると衣装や照明、小道具にいたるまでかなり推敲されているのがわかるのだが、そういうプロフェッショナルさ加減が、あるいはその探求熱すらなくなってしまっていたのだ、ここのところ。なにをするべきなのかということにとらわれず、むしろどうあるべきかというのが重要で。そこに必要なのは信仰というもので、理解とかどうとかではない。気になるものを追求する。それが一番大事だということに気付かされたのである。
どうでもいいことだが、言語化するということは表現することではなく、その本質は自分の信仰を見つけることである。生命の余剰というのが信仰になるし、信仰が戦争を生むのだが、そのエネルギーなくして何物をもつなげていくことはできない。それが生命の本質であって、ただそういうことなのだったとやっと思い出した。
「何百年もクラッシック音楽の中では太鼓というものをリズムをキープするために使ってなかったわけですよ。ティンパニーというのはあれはリズムじゃないですからね。」
「ドラムというものがリズム楽器として使われ始めたのは、ニューオーリンズのジャズの時代からじゃないかと思って。」とスコラでピーター・バラカン氏が語っていた。西洋音楽の発展という視点で音楽を語るという視座。西洋人の独善さというか、キリスト教的世界観とか、あるいは西洋中心的な学問の考え方というのは昔からあって、学問がいかにもギリシャ起源で考えられているのもそうなのだが、イスラム的な視点だったり、さまざまな文化に視野を広げた場合、それらの考え方がいかに自己中心的かにうんざりさせられることがある。これは、海外でイギリス人とかアメリカ人(とはいわないな、なぜ?)とかと話していると気づかされるのだけれど、んーこいつら結構バカなのかもと西洋人崇拝的な無意識を揺るがされるわけだけど。たとえば、ガムランなんてゴン系の楽器は8-9世紀頃作られたといわれているわけだし、アフリカなんかの土着のリズム系だったらもっと歴史は深いだろうと思うのだが、自分の知っている範囲だけで独断的にものを判断しているのが、あるいは知らない世界の話はないものとして扱う的なあれはどうにかならんものかねとたまに思ってしまう。
まあいいや、自分もそうなのだから。というか、いまだに知らないことが多いなと昔のブログをみて気付く。
ザ・ゴー!チームというのも、実はこのころはじめてしったのだけど、貼り付けたyoutubeが消えていて、まあそういうのはよくあるのだけど、もう一回みたくて探したらあった。まあ、リンクだけ。
そのゴーチームなのだが、まだ活動していて、なんとアルバムをこないだリリースしたのだとか。不勉強なことこの上ないな、自分。
このアナログ感。世界がまだインターネットでつながれていなくて、そこにしかないものはそこへ行くしかなかったころの世界へのトリップ感というか、なんかまだあったんだというありがたさに包まれた瞬間だった。リンク先にあるのだけど、備忘のため貼り付けておこう。
いい時代にはなったんだけど、失われたものも多いですね。無知というのは、希望とか冒険心とか想いとかとかなり重なっていたのだなとあらためて。
去る3月28日、坂本龍一さんが亡くなった。