7月6日。
2年ぶりの空。
青く澄んだ空。
あの日と似たような綺麗な空。
時間だけが流れたようだけど。
私はあの日から時間が止まったままです。
今でも優しく背中を押してくれています。
たまにバカなことを言って、怒られて。
それでも
あの向日葵のような明るい笑顔が
たまにどうしようもなく恋しくなって
上を向いては溢れてしまう。
私のたった1人の大切な人。
今日も変わらず、あなたを見上げます。
July 6 2024
7月6日。
2年ぶりの空。
青く澄んだ空。
あの日と似たような綺麗な空。
時間だけが流れたようだけど。
私はあの日から時間が止まったままです。
今でも優しく背中を押してくれています。
たまにバカなことを言って、怒られて。
それでも
あの向日葵のような明るい笑顔が
たまにどうしようもなく恋しくなって
上を向いては溢れてしまう。
私のたった1人の大切な人。
今日も変わらず、あなたを見上げます。
July 6 2024
みなさんこんにちは、Seiraです。2024年も上半期が過ぎ、今月から後半が始まりましたね。今思えば、今年は珍しくもお正月に抱負を立てていました。ちなみに抱負は「更に向こうへ!」とまあ某プルスウルトラのようなものですが、そのための細かな目標が6つありました。せっかく半分を過ぎたいい頃合いなので、どこまで達成できているか、一度振り返ってみようと思います。
抱負を発表した記事書きになる方はこちらのリンクからどうぞ。
ではここから1つずつ振り返りや今後の予定などを話したいと思います。
・ハリポタファンタビ全作鑑賞
えー、早速ですがウィザーディング・ワールドシリーズはまだ一切鑑賞できていません。今加入しているストリーミングサービスにこれらの作品がラインナップされていないというのもありますが、にしても見れていません。ハリー・ポッターシリーズ、ファンタスティック・ビーストシリーズはいずれもワーナー・ブラザーズ製作のため、Max系のサブスクに配信されています(カナダだとCrave)。そのため、特定のサブスクに加入後、鑑賞しようかなと思います。別に嫌いなわけではないんですよ!一応、ハリポタは3作目までは見た記憶がありますし、ファンタビにおいてはジュード・ロウやジョニー・デップ、マッツ・ミケルセンなどのイケおじたちが出ているのでかなり見たいです。後半期には見たいと思います。はい。
・ワイスピ全作鑑賞
こちらはなんと目標達成しています。1月から1作目の「Fast and Furious」を見始め、5月にスピンオフの「Hobbs and Shaw」を見れたので大体5ヶ月ほどで完了しました。この間ですっかりワイスピファミリーにどハマりしてしまい、特にブライアンのGTRのデザインがとても好きです。ちなみに推しキャラはサン・カン演じるハンとジェイソン・ステイサムが演じるデッカード・ショウです❤︎ 作品だとやはり「Hobbs and Shaw」ですね。
・バイトを始める
こちらは残念ながらまだできていません。というのも学生ビザの都合でまだ働けないとのことなのです。語学学校にいる間は働けないというシステムと同様に4月まで在籍していたENLAでは私はバイトをすることができませんでした。ですが現在は大学プログラムにいるため働けると思われていたのですが、フルタイムの学生であることがバイトができる条件であり、5月から7月までは1クラスしか取っていないため私はフルタイムではなくパートタイムの学生となります。そのため、現時点ではまだ私はバイトができる条件をクリアできていないのです。ですが、9月からはフルタイム学生になるため、働けると思われます。そんなこんなで、今のところ8月から履歴書を書き、バイト探しを始めて9月から働けるように予定しています。なので年内には目標達成ができそうです。
・デスクトップPCを購入する
なんと無謀な目標でしょう。稼ぎもないくせに夢を見るんじゃない。そして今は円安でとてもじゃないけどデスクトップを用意する余裕なんてありません。普段ご飯が食べれているだけでもありがたく思いなさい!
・人物ポートレートを100人分描く
今年から毎月2人〜4人のポートレートを描いています。今大体20人ほど描いてきていますが、正直年内100人達成は厳しいと思われます。せめて60は行きたいですが...。なんとも言えません。ちなみに最近だと「スター・ウォーズ」のユアン・マクレガーやキャリー・フィッシャー、Netflixドラマ「ONE PIECE」の麦わらの一味5人、「アベンジャーズ」のロバート・ダウニー・Jrやスカーレット・ヨハンソンなどを描きました。
一応絵はこんな感じです。少しは上手くなってるといいなぁ。。。
・アナハイムのディズニーランドへ行く
誰かこんなバカなことを言った1月の私を殴り飛ばしてください。自分の稼ぎもなく、親の仕送りをもらってる中でディズニーランドに行きたいなどとほざくのは万死に値します。無理です。夢見る前に金を稼ぎましょう。
みなさんこんにちは、Seiraです。突然ですがみなさんは調理をする機会は多い方ですか?私はカナダに来てからというものほぼ毎日自炊をしているため、キッチンに立つ時間はそこそこ多い方だと思います。火や包丁を使った凝った物からお湯を沸かして茹でるだけの簡単な物まで色々作りますが、どんなものにも私が好んで使う調味料、ブラックペッパーについて今日はお話したいと思います。
まずはブラックペッパーが活躍するグルメ紹介をします。色々あるので今回は選りすぐりの三つを教えます。
1つ目は 「卵かけご飯」です。めっちゃシンプル。おすすめの食べ方は白米に卵をのせ、そこにわさびとレモン汁をよく混ぜた醤油を卵とご飯によく混ぜます。そして仕上げにブラックペッパーです。私が思春期の頃はほぼ毎朝これを食べて学校に行っていました。ちなみに、卵がない時は卵なしでも美味しくいただけます。
2つ目は「グリル風 ステーキ」です。こちらも作り方はものすごく簡単で牛、豚、鳥、その他なんの肉でも合うと思います。まず下拵えに2cmほどの厚みに切った肉にフォークで穴を沢山開けます。そして、縁を作ったアルミホイルに、お肉とスライスしたニンニク(もしくはペースト)を乗せ醤油を満遍なくかけ、お肉に浸透させます(すりおろしたりんごがあれば甘味を加えることができると思いますが私はアレルギーなのでしません)。20~30分浸けておくとより染み込むと思います。その後、上からキャノーラ油、ブラックペッパーをかけ、アルミホイルのままフライパンで強火にかけます。表面が焼けてきたら裏を返し、切りながら中の火の通りを確認してください。中までしっかり火が通ったら完成です。大体所要時間1時間ほどかかりますので、余裕がある時に調理するか、事前に下準備だけして冷蔵庫にぶち込んでおくのもいいと思います。また、私は洗い物がめんどくさい人なのでアルミホイルを使いますが、ガラス容器などに浸けておいて、焼く際にフライパンに直接乗せてしまうのもありです。
3つ目は「辛口野菜炒め」です。野菜炒めのレシピなのですが、多分独特な作り方だと思うので一応紹介します。カナダだと葉物野菜はキャベツ、ナッパ(中国産が多い)、サニーレタスなど日本で馴染みある野菜たちはもちろん、スピニッチやロメインレタスなど日本では珍しい葉物もあります。割とその2つが主流で家庭によく出されると思います。まあそれらのお好きな葉物、玉ねぎ、ニンニク、グリーンオニオン(短いネギみたいなやつ)を適当なサイズに切ります。バターをフライパンで溶かし、玉ねぎとニンニクを先に炒め、その後葉物を入れます。グリーンオニオンはすぐ焦げるので一番最後に入れます。そして料理酒、チリペッパーやグラムマサラなどの香辛料、ブラックペッパーと塩を入れ、中火(IHなら弱火か火を切った余熱でも大丈夫です)で炒めます。もし味が薄っぺらく感じたら、昆布茶を入れると塩分を控えながらも深みが出ます。玉ねぎの水分で全体的に水っぽくなるので柔らかくなりすぎないように気をつけながら炒めましょう。まあ基本的にキャベツやレタスは新鮮ならシャキシャキ感は結構残りますけどね。焦げ目が少しついてきたら頃合いなので火から下ろして、盛り付けて完成です。
はいということで読んでいただいている時間帯によっては飯テロになりかけているかと思いますが、Seiraキッチンよりちょっとしたレシピをお伝えしました。興味がありましたらぜひ試してみてください。クソうめぇです。
そして、ブラックペッパーに関する話題をもう1つ。粉末のものを使っている方はほとんど関係ないと思いますが私は実家の頃からペッパーミルタイプの容器に入ったものを使っています。そのブラックペッパーに長年悩んでいることがありました。それは、削った時の粒が大きくて歯に挟まってかなり痛い思いをする、ということでした。最初はミルの刃の調子が悪いのだと思っていて、食べる際は痛みを覚悟の上だったのですが、最近になってその解決方法を知りました。なんと、ペッパーミル本体の刃の部分に調節ができるダイヤルがあったのです。マジで知りませんでした。これを知ってるか知らないかだけで歯の運命が変わるんですよ。
はいこれです。この一番上の白い部分がそのダイアルで、矢印の方向に合わせることで粗さを調整できるようです。なんと調整前は二番目に大きい方向に矢印が向いていました。そりゃ痛いって。ですがこの事実を知ったことにより、私の歯は安泰です。よかったよかった。
ということで、今回はレシピと日常生活の中で気づいたブラックペッパーのことについて書いてみました。またこういう感じのブログは書いていこうと思うのでよろしくお願いします。自炊してる学生のみんな、頑張ろうな!
July 5 2024
みなさんこんにちは、Seiraです。今回は久しぶりにAmebaの投稿ネタからトピックを選んでみました。最近SNSで遭った詐欺について書こうと思います。
私はカナダに来てからFacebookを使う頻度が増えました。というのも、Facebookには多機能なコンテンツが入っておりその中の一つマーケットプレイスは日本でいうジモティーに近い個人間の売買を行えるフリマサービスは普通なら高価なものも安く手に入ることができます。そのマーケットプレイスだけでなく、私が住んでいるPrince George(PG)にはマーケットプレイスのよりローカルなバイアンドセールの掲示板がFacebook上にありそちらも頻繁にチェックしています。今回詐欺にあったのは後者のコミュニティの方です。
先日のある日、PGのバイアンドセールでMacBook Pro(割と最近の)が出品されており値段の表記がありませんでした。出品者のコメントを見ると、どうやら彼氏にサプライズプレゼントとして購入した所、彼氏が浮気をしていることが発覚し彼氏と同様にこのMacも捨ててしまいたいとのことでした。もしかしたら低価格で手に入るかもと思い、すぐに出品者にMessengerで問い合わせました。
かなりすぐに返事が来て、「タダでいい。どこに住んでる?」と聞かれました。え?Macがタダなんてことある?それに、マーケットプレイスや今回の掲示板は基本的に出品者の自宅に商品を取りに行くこと主流です。なのでなぜこちらが聞かれるのかが謎でした。この返事からして、なんとなく不信感があり、近くの道の名前だけ伝えました。すると、現在PGではなくアメリカにいると返信がきました。どうやら実家に帰省している所だったそうで、住所を教えてくれればFedexで送ってくれるとのことでした。ローカル掲示板なのにアメリカにいて宅配便...?
どう返事を返すべきか考えていた時、「おい、早く住所を教えて」と言われ、この投稿主は住所目的の詐欺を行なっていると確信しました。もう一度投稿内容を確認しようと掲示板に再度アクセスしてみると投稿が削除されていました。いくらなんでも早すぎないかと思い問い詰めると「だっておたくが連絡してきてるじゃない」と。もう完全に詐欺師の言い分。
そしてまたどう返事を返すか考えていると「聞いてるのか。いつでも送れるようにしてんだから早よ住所教えろ」と。もはや脅迫です。一応確認という程で「本当にタダでいいのか」と聞くと「いい。だから早く住所教えて」と。もうずっと住所を要求してきました。
ここで私は賭けに出ました。「前に同じようなことを言って騙されて個人情報を抜き取られたことがある。あなたを信用できるかわからないんだ」と。ここで相手がどう返すか待っていると、「信用してええよ!」と。いや自分からこういうことを言う人を信じてたまるか。もうこの投稿主が住所目的の詐欺師であると確信しました。その意味を込めて「わかった」と一言伝えると「はいだから住所教えて」と。
その後、シェアハウスの家主に取引をやめるよう言われたと適当に嘘をついてキャンセルを申し出たところ未読無視。散々こちらの早急な返信を求めてきたのに最後は返事を返すどころか既読も付けずに逃げられてしまいました。でも、この行動を取るということは詐欺を自白したようなものです。Macは手に入りませんでしたが、個人情報を守ることができてよかったです。
基本的にマーケットプレイスはFacebookが出品者の在住地や評価などを管理をしているため出品者による詐欺が起こりにくいです(稀にあります)。ただ、今回のような個人による掲示板は管理人の目の行き届かないところで詐欺が起きる可能性があります。自由度が高いと同時に危険性も高いです。国内外問わず、掲示板による詐欺は沢山起こっていると思うのでみなさんもお気をつけください。少しでも怪しいと思ったらしっかり取引を断り、通報しましょう。またどんな取引でも最初から住所を尋ねてきたり自分から教えるなどして相手と共有しないことが大切です。ですが、Facebookはメルカリなどとは違い基本的に個人情報がおおやけにされる匿名性の低いSNSの一つです。出品者と購入者双方に虎の目があるいいツールだと個人的には思うので今後も気をつけながら利用していきたいと思います。
ということで今回は最近遭った詐欺について語ってみました。また何か投稿したらそちらもぜひご覧ください :)
July 3 2024
みなさんこんにちは、Seiraです!
さて、先月6月は世界的にPRIDE Month というジェンダーへの理解を深めるための月間となっていることを皆さんはご存知ですか?1969年6月にニューヨークで起こったストーンウォール事件という性差別(特にこの時はゲイに対する差別)への反乱活動が起源となっているそうで、この事件を機に世界的にLGBT(当時)への見解が徐々に変化していき現在のジェンダー平等運動へ繋がっています。
2020年代になってからよく聞くようになったPRIDEという言葉やジェンダーフリー、そしてLGBTQ+(現在は2SLGBTQ+と言われたりもします)は世界中の人々の生活や価値観に影響を与えていますが、実は私もそれに強く影響を受けながら生きています。20年を振り返るシリーズ最終回の今回は私のジェンダーについての話をしたいと思います。
結論から言うと、私の性自認はノンバイナリー、性的嗜好はパンセクシャルです。ノンバイナリーとは男女の二元論にとらわれない性自認で、パンセクシャルとは恋愛対象が性別によって決まっていないジェンダーのことを言います。LGBTQ+は日頃皆さんが聞くゲイやレズビアンのような同性愛者など恋愛対象の話だけではなく、トランスジェンダーやクィアなど自分自身のアイデンティティに関わる内容も含まれています。同じLGBTQ+という言葉の中にも沢山の意味を持つジェンダーが含まれていますが、性自認と性的嗜好は全く別物です。ここまではジェンダーについての大まかな説明でしたが、ここからはより個人的な体験談と考えをお話ししたいと思います。あくまで個人の主観であり世の中には多様な考え方があることをご了承ください。
まずは私の過去の体験談を振り返りましょう。以前のブログで小学生時代の時から自分の性自認に対して違和感を感じていたと書いていた通り、当時幼かった私にとって自分のジェンダーはカテゴリーに当てはめられない変なもので、ゲイやバイセクシャル、トランスジェンダーとは何か違う別のものだと思っていました。もちろん当時の日本では今のようなPRIDE運動はなく、多様性に配慮された社会ではありませんでした。LGBTという言葉だけは知っていたのですが、あまり自分と関連性を感じられませんでした。
ただ、私がいわゆる一般的な男の子とは違う点がいくつかありました。一つ目は身なりやファッションなど、容姿のことです。肌に持つものへのこだわりが強く、ナイキやプーマなどのスポーツブランドのものを持つことが大嫌いで、それこそディズニーやサンエックスのキャラクターの服や文房具などのアイテムを沢山持っていました(それでも特撮は大好きでしたが)。二つ目は、第三者から「お兄ちゃん」という代名詞で呼ばれることが前者よりこちらの方がひどく苦痛だったということです。私には下に2人の弟がいる3兄弟の一番上なので、母の知人や周りの大人からは「お兄ちゃん」と呼ばれることは当たり前にありました。それについては幼いながらにそれは母の一番最初の子供として言われているからだと理解していました。ただ、親戚や学校の先生からそう呼ばれることが大嫌いでした。男として扱われることの嫌悪感より、誰かの付属品として扱われるようで自分のアイデンティティが壊される感じが辛かったのです。「〇〇(弟)のお兄ちゃん」と言われる時が一番精神的に辛かったです。母はこのことを理解していてくれたので、「お兄ちゃんなんだから譲りなさい、許してあげなさい」という理不尽な言葉は一度も私に言いませんでした(母は子供の時に祖母から言われたことがありそれが嫌で子供には言わないと決めていたそうです)。そして、三つ目は髪の毛のことでした。小学生の頃は3年生ぐらいからずっと伸ばしていて長髪でした。違う学年の先生から「お前は卒業式に袴履いてくるんだろ?」と言われたり、担任から「男なんだから切れ」と言われたことがあります。今このようなことを言えば大問題になるのは間違い無いですが、たっ数年前はこんなことを平気で言えてしまう環境だったのです。クラスメイトからも「オカマだ」と言われたことがあります。このような言葉で傷ついたのはもちろんですが、だからと言って髪を切って短髪になることはしませんでした。髪を短くしてしまうと、自分じゃなくなってしまうような気がしたのです。
私にとってこの三つが性自認について悩んだ核の部分だと思います。そしてその三つには共通して思うことがありました。それは、「女の子として生まれたかった」という思いです。もし、自分が最初から女の子だったら楽だったかな、もっと自分らしく生きれたのかなと思わない日はありませんでした。少々下世話な話にはなってしまい申し訳ないですが、私は自分の体に男性器がついていることが死ぬほど嫌な時期が小学校高学年から高校にかけてありました。正直に言えば、今でも自分のアイデンティティを邪魔するだけの必要のないものだと思っています。男性の体で生まれてきたことで私は自分のことを好きになることができませんでした。だから、服や持ち物で男性の体を隠すことで自分を安心させていたのだと思います。
中学校の3年間は私は私自身ではありませんでした。誰かに求められる形になろうとして自分を見失っていたのです。長髪は校則で禁じられていたので中学の入学時には短髪にせざるを得ませんでした。髪を切ったあの時からまた戻るまで、私の個性の一つは死んでいたのだと思います。中学とはいい意味でも悪い意味でも周りから強い影響を受けます。まるでタスクのように好きな人はいなければいけない、誰かに告白しなければいけない、そんな雰囲気もありました。そして、それに追い討ちをかけるように思春期の体の成長は私を成人男性に私の意思に反して急激に押し上げていきました。血まみれになるぐらい髭を切ったこともあります。そして、精神的にもおかしくなり、部活がないテスト週間は学校に行かないことも多くありました。この3年間、周りに何か嫌なことを言われたり差別を受けて辛かったというより、理想と現実がかけ離れていく自分を自分で追い込んでしまったんだと思います。ジェンダーの話題を聞くと中学でいじめにあったという話題をよく耳にしますが、正直いじめだったら解決策がある可能性があります。でも、敵が自分だったら距離を置くこともできないし、喧嘩することもできないし、周りに全てを理解してもらえないし、どうしようもないのです。結局は自分でなんとかするしかないのです。それがどんなにつらくとも、向き合わなければいけないことなのだと私は思います。
そんな私に大きな転機が訪れました。それは、今から2年前(もう2年前)にバンクーバーに滞在していた時のことです。たまたま留学していた時期とバンクーバーPRIDEの時期が重なり、興味本位でPRIDEパレードを見に行ってきました。それまではPRIDEパレードの印象は国内のものしか知りませんでしたし、日本だとパレードもデモも同じものとして社会から冷たい目で見られてしまっている印象が強かったです。ところが、バンクーバーは違いました。パレードという時間、イベントの期間を通してみんながみんな自分自身でいるように見えました。私にとってそれは生きてきた中で最も価値観が大きく変化した出来事の一つになりました。そしてそれと同時に、ノンバイナリーという存在を知り、その特徴を知るにつれて多くの共通点があることがわかり、ようやくこれだと思えるアイデンティティを見つけることができました。多民族国家だからこそ、多様なジェンダーを受け入れてくれるカナダ、そして自分を変えてくれたバンクーバーなら自分が生きづらさを感じることなく自由に生きれるのかもしれないと思ったのです。そうして帰国後、高校卒業後の進路先としてカナダを選び、今後もカナダに永住したいと思っています。
日本人として生まれてきたこと、日本で育ったことは決して後悔していませんし、日本は好きです。それでも、私がこれまで遭ってきた閉鎖的でステレオタイプな考え方が苦痛であり、それが当たり前とされる地域や国に住み続けることは自分を殺すことだと思っています(自由を求めすぎることで誰かに被害を与えることはまた別の話です)。私はこれからも死ぬまで女に生まれたかったと思い続けると思います。でも、できるだけ自分に生まれてこなければよかったと思わないように、毎日を頑張って生きたいです。
さて、過去最長クラスになりましたが、今回のブログは以上です。執筆中に6月が終わってました。たくさんの話題を一気に詰め込みましたが、このブログを見た人の誰かの助けになったら嬉しいです。今後は過去のことより今何を想って何をしているのかを中心に発信して行きたいと思います。また留学の話題が増えると思いますので楽しみにしていてください!
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
July 2 2024
みなさんこんにちは、Seiraです。
2024年も半分が過ぎようとしていますね。ご報告が遅れましたが、4月をもって2 semester在籍していたEnglish Language(ENLA: 大学進学のための英語を学ぶコース)を卒業し、5月からENGL103というカレッジの正式な大学アカデミッククラスで学び始めています。以前から私がなぜ留学をしているのかは触れてきていますが、今回はバックグラウンドも含めて中学卒業後から現在に至るまでのストーリーをお話ししたいと思います。留学をしたい方、美術系を志している方の参考になれば幸いです。
私は子供の頃からウォルト・ディズニーに強い憧れを抱いており、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオでアニメーターとして働くことを夢見ています。他の同級生たちよりも早い段階で自分のやりたいことが明確になったため、行きたい大学もかなりすぐに決まりました。その大学とは、カリフォルニア芸術大学(CalArts)という美術専門の学校で、ウォルト・ディズニーが創立者のため多くのディズニーアニメーターたちがこの大学を卒業後にディズニーやピクサーで働いている実績を持っています。ディズニーで働きたいのならここに行けば夢を叶えるためのコネクションを得られるチャンスがある可能性が高いのです。そうして私は「ディズニーのアニメーターになるためにCalArtsに進学する」という自分の未来のヴィジョンを小学生の時に既に持つことができました。
中学になると周りから様々な刺激を受け、それまでディズニーにしか興味がなかった私がアニメや漫画、洋画などエンターテイメント全体に興味を持つようになりました。前回のブログで話したように、吹奏楽に出会ったことも自分自身が最も大きく変化した出来事の一つです。そして中学3年生の時に、今まで通り同じディズニーへの夢を追い続ける美術を取るか、新しく出会った吹奏楽を極めに音楽の道へ行くかという2択を母から出されました。正直、吹奏楽を選んでいたら学校推薦で強豪校へ進学していた可能性もあります。ですが、自分にはディズニーしかないし、同じ夢を貫き通したいという思いから美術の方を取りました。中学3年間吹奏楽部で活動できたことは自分にとって最高の思い出で後悔もありません。だからと言って長年の夢から新しい方を取るようなことはしたくありませんでした。美術を取ると決めた後は、高校で英語の勉強とアルバイトと絵のことに時間をかけるために、通信制高校への進学を検討し3校ほど個人面談をした後、角川ドワンゴ学園N高等学校、週1 通学コースに進学することになりました。
N高では最初の2年間だけ通学コースに在籍し週1で代々木キャンパスに通学するつもりでした。ところが、中学を卒業した2020年春はちょうどパンデミックのスタートと重なり、学校のある東京と地元山梨を行き来することが困難になってしまい1年生のうち半年はオンライン授業になってしまいました。元々通信制の学校だったので学業の遅れは心配ありませんでしたが、バイトがなかなか始められなかったり通学できない期間が長く続いたりそれなりに大変でした。2年生の後半はほぼ問題なく通学し、3年生からは留学の関係でネットコースに変更しました。この3年生(18歳)の夏に、私はトビタテ留学JAPANという文科省の奨学金制度を利用して現地の美術大学のサマープログラムに参加するため40日間バンクーバーへ行きました。カナダという新しい環境、出会った人々、気付かなかった自分の内面など、この留学は自分の運命を大きく変えるものとなりました。これがきっかけとなって今もまたカナダのカレッジに在籍しているのです。帰国後、高校卒業後の進路確定のために第一希望であるCalArtsとサマープログラムで訪れた大学を第二希望に、両校へ出願しましたが結果は両方ともダメでした。ポートフォリオなどのフィードバックはもらえなかったのであくまで自己分析にはなりますが、その時の自分に圧倒的に足りなかったのが英語力だったと思います。
N高卒業後、ウェブで調べたり留学フェアに足を運んだりして2ヶ月ほど学校探しを行いました。美術を学ぶ前にまず英語をどうにかしなければならない。かといって語学学校に行くのは何かもったいないような気がする。そう思ってたどり着いたのが、大学内にある英語学科を卒業してから美術のクラスに行く手段でした。まさに私が今行っていることです。そうして何件かの大学に問い合わせた後、いろいろ考えた結果今のカレッジに至っています。
私の今後の予定は秋からカレッジの美術クラスを取り来年の今頃にFine Arts Cerfiticateを取得し、大学受験の際に落ちてしまったバンクーバーの方の大学に編入という形で進学を目指しています。またその間にブリティッシュコロンビア州の永住権取得のためにPost Graduation Permitというカレッジ卒業後に取得できる就労ビザを利用して1年ほど働く予定です。正直まだ未確定な部分で不透明な事が多いですがゆっくり解明していこうかなと思います。ですが、どんな形であれど、ちょっとずつ夢に近づいているような気がします。これからもめげずに頑張っていきたいです。
ということで今回は主に進路について語りました。いかがでしたでしょうか。一応今年20歳になりましたが、まだまだ両親の助けも借りているので、子供でいるような気がしてなりません。少しずつ自立した大人になれるようにします
ちなみにこれはこの前PGで咲いていた桜(と思われる花)
次回は私のジェンダーについて語る回を予定していますが、20年を振り返るシリーズは一旦終了にしたいと思います。次回の更新もお楽しみに!
June 5 2024
みなさんこんにちは、Seiraです!
本当は4月後半に投稿しようと書き始めたものの、気づいたら6月になっていました...。恐るべし時の流れ。
さて、前回に引き続き今回のブログも私の20年を振り返るシリーズをお送りしたいと思います。今回は、私が中学の時に出会った吹奏楽について語りたいと思います。
中1の時に私が入った吹奏楽部はその後の人生に大きく影響するものになりました。元々小学1年生の頃からピアノを習っていたこともあり、楽譜は読むことができたので先輩部員からもかなり有望な人材として扱われていました。本当はアルトサックスを吹きたかったのですが、体格のせいでチューバを任されてしまいました。夏のコンクールは毎日厳しい練習が続いていましたが、休日や夏休みの1日練習をみんなとできたことは一番青春を感じられた瞬間だと思います。うちの部は強豪校ではなかったのですが、それでも1年目のコンクールでは金賞を獲れました。
中2の時、夏のコンクールの結果が銅賞でした。銅賞とは吹部にとって空気として扱われたも同様、ただの参加賞にすぎない最も屈辱的な賞です。来年、自分たちが最後の年には絶対に銅賞だけは嫌だと思って、私は外部に指導を受けに行ったりしてなんとか部を再開拓しようとしました。その事もあり後期からは部長を任されて外部活動と同時にその仕事も始まりました。そしてその年の冬にはアンサンブルコンサートという少人数での大会に出場し、そこでは金賞を獲ることができ、約4ヶ月弱で銅賞から一気に舞い戻ることができました。学校の体制の変化に伴って部活ができる時間もかなり限定されましたがその限られた時間の中でできるだけのことに取り組んでいました。
中3の間は部内でひどく温度差がついてしまいました。部長だった私は春の新入生歓迎会ではどれだけ1年生を迎えられるか、そのプレッシャーが半端なかったです。そしてすぐやってきたコンクールの時期。ですが、この最後の一年は毎年9月に行われる学園祭でのステージを考えなければならなかったので部内ではコンクールに専念する方と学園祭の方とで2分化されてしまいました。部長の私にとっては先にあるコンクールのことがやはり重要でした。やはり昨年と同じ悔しい思いを絶対に繰り返したくないし、自分の代にそんな思いはさせたくないという強い思いがありました。当時15歳の私にその熱量を伝え切れるほどの能力があれば、よかったのですが、現実はそううまくいかず、何度も空回りしては迷惑ばかりかけてしまいました。コンクールをなんとか乗り越えることはできても、結果は銀賞。銅賞にはならずとも、金賞で心地よく終えたかったのとアンサンブルの時よりも落ちてしまった無力感でいっぱいでした。いい結果を出すためにもっと何かできたんじゃないか、今でもたまに思い返すことがあります。コンクールが終わった後の学園祭も、演出で同期や顧問と揉めたりして、なんとかギリギリ本番を迎えたような感じでした。正直、学園祭が終わって部活を引退した時は、全ての責任から全て解放されたような気がして本当に心スッキリでした。この1年間の大半はストレスと鬱で苛まれていて、音楽を楽しむことができなかったように思います。
中学卒業後は自分の進路の関係で、通信制高校に通っていたため学校の部活を続けるのではなく地域の吹奏楽団へ所属し、そこからは担当楽器をトランペットへ変更しまた新しい楽器をはじめました。トランペットは中学時代に元々母親が買ってくれたものでその時から高校からトランペットを本格的に始めることを決めていました。この楽器は吹奏楽やオーケストラにおいても花形と言われる楽器ですが、実際技術の取得は非常に難しいです。特に私の場合3年間低音のチューバを吹いていたことでそこから高音のトランペットに変えるのはものすごく苦労しました。ですが、私が高校生になった年は2020年、パンデミックで全て大きな活動ができなくなってしまった年です。そのおかげでステージには出ることはできずとも、基礎から学ぶ時間を取ることができました。そして、段々と日常が戻るにつれ再びステージに戻れるようになったのと同時に音楽を楽しさをまた思い出すことができました。
昨年8月をもって7年続いた私の吹奏楽人生は一旦ピリオドを打ちましたが、今でも吹奏楽を聞くことやピアノを通して音楽を楽しんでいます。音楽は音を楽しむと書きますが、私の中で音楽は楽しいことだけではなく、理不尽なこと、嫌なこと、トラウマ、他にネガティブなこともたくさんありました。でもそれらをひっくるめて吹奏楽は今の私にとって重要であり影響し続けるコンテンツだと思います。
いつも通り長くなりましたが、これが私の人生の一部、吹奏楽編です。今はセーブ中のチャプターですが、また再始動する日が来るかもしれません。ですが今は一旦美術の方に集中したいと思いまーす!!!
ということで、次回は自分の進路、美術編になります。お楽しみに!!
June 1, 2024
こんにちは!Seiraです!
先日投稿した20代を振り返るシリーズ、今回は第2弾小学校の6年間を振り返っていこうと思います!小学校は今の自分を形成するきっかけとなった出来事がいくつもありました。なのでポジティブなこともあるのですが、その反面ネガティブな部分もかなり出てきます(中学校編よりはマシです)。それでは振り返っていきましょう。
1年生の頃は新しい環境で周りの男の子たちが本当に怖かったのを覚えています。幼稚園のみんなが割と温厚でお互いに思いやりのある友達ばかりだったので、全く違う状況に非常にストレスを抱えていました。TVの話も、ゲームの話も、何も理解できない時期がありました。それもあって、休み時間は校庭で遊んだりするよりも教室の中で絵を描いたりするような日が続いていました。男の子たちと親密になってお互いの家に行って遊んだりするようになったのは入学してから半年ほど経ってからだったと思います。それまでは女の子たちと遊んだり話したりするのが好きだった、というよりもそのほうが安心できたのだと思います。ちなみにその間に一番下の弟が生まれました。一応夏休みには地域の子供クラブのソフトボール大会に出たりしたのですが、熱血系が怖くてずっと日陰のベンチでポカリを飲んでました。
自分の人生の中で最も大きな変化があったのは2年生の8歳の時でした。この頃にはクラスのみんなと仲良くできていて、スポーツは好きではなかったので一輪車や竹馬などを友達とやってました。割と平凡な小学生になりかけていた頃だったと思います。その2年生の時の大晦日に放送されていた紅白歌合戦を録画してみていた時のことでした。その年の紅白はミッキーマウスや沢山のディズニーキャラクターたちがステージに登場する豪華な回でした。この時、嵐の大野智さんによるウォルト・ディズニーの特集が同時に放送され、私はこの時に今まで当たり前に存在していたディズニーというブランド、キャラクター、そしてその他全ての基盤を作り上げたウォルト・ディズニーという1人の男の虜になってしまい、そこから私の人生の夢が決まりました。「彼のような、世界中の人々を笑顔にするものを生み出す人になりたい。そしていつか彼を超えるアーティストになる」わずか8歳の子供は、自分が生まれる約半世紀前にこの世を去った男にまるで魂を吸い取られたかのように、ディズニーの全てにのめり込んでいきました。
3年生の時、もうすでに重度のディズニーヲタク(通称Dヲタ)と化していた私は夏休みの自由研究をウォルト・ディズニーについてのレポートにし、世界各国のディズニーパークの概要、ミッキーマウスの変遷などについてまとめました。当然当時の担任は「こいつ完全にやばいやつだ」と思ったでしょう。最近その当時のレポートが実家で発掘されたのですが。完全に思想の強いヲタクそのものでした。ですが、当時の没頭ぶりは今でも変わらずに続いてると考えるとそれはそれですごいものです。
そして、もう一つこの時期に自分の中でぼんやりと思っていたことがありました。それは髪の毛のことです。周りの男の子たちよりもちょっと長めの髪(女の子のボブっぽい感じ)だったのですが、なんとなく短髪にすることに違和感がありました。明確な理由はなくただ単の好き嫌いの問題でした。また、この頃からぽっちゃりおデブちゃんになり、性格や外見も合わせると中性っぽいような雰囲気になっていた気がします。エピソードを加えると警察署の道場で行われていた空手教室に行っていたのですがそこで「男なんだから我慢しろ」「これぐらい理解しろ」など、かなり理不尽なことを言われたり、性別を理由に決めつけられたりしてメンタルがボロボロになっていきました。今思えば、この時既に自分の性自認について違和感を感じていたのかもしれず、余計に強くストレスを感じていたのかもしれません。そして何より空手とはいえ他人の殴る蹴るという動作を怖く感じていました。完全に武道不向きの人間だったんですよね。結果的に8歳から10歳ぐらいまでの2年くらい通っていたのですが、よく耐えたなと思います。ちなみに、帯は買ってないのでずっと白でしたが6級(緑帯)まで行ってたと思います。今のところ真偽は不確かですが実家に証明証書があります。
4年生の時、髪を短くしました。ところがどっこい、おデブちゃんだったので丸い顔が強調されてしまい大変なことになってしまいました。親や友達にもイジられていたのですがこの頃はそこまで気にしていませんでした。ご飯を食べることは好きだけど、スポーツは好きじゃなく部屋の中で絵を描いている方が好きだったので、これは流石にやばいと思った母は弟と私をスイミングスクールに通わせてくれました。元々幼稚園で通っていたり夏休み限定で行っていたこともあり縁のある場所だったので結構楽しかったです。サッカーやバスケ、野球が苦手で体を動かすことを避けてきた分、疲労はすごかったです。でも正直痩せたりとかはなかったです。
10歳の年だったので授業参観の一環で二分の一成人式がありました。その時にみんなで将来の夢について発表したのですが。そこで私が発表したのは「東京ディズニーランドのバルーンを売るキャストさん」でした。私はこのことをかなり後悔しています。なぜなら本当の夢はもっと壮大で、自分が心からなりたいと思っているものだったのに、周りの目を気にして現実的な夢にしてしまったのです。私が大嫌いだった先生がある時、友達に「〇〇、現実を見ろ」と言ったことが私の中でまるで自分が言われたかのようにトラウマになってしまい、私の夢は現実的ではないのか、そう思い悩んでしまったのが元の原因です。10歳はある意味子供時代の終わりだと私は思っていて、周りの大人たちの中には将来何になりたいのかを聞くときに具体的なものを求め出す人もいます。例えば「サラリーマン」「イラストレーター」「医者」などでしょうか。でもそれまでの子供達というのは大きくなったら何になりたいか聞かれた時に「仮面ライダー」「プリキュア」「お花屋さん」など自分が好きなものやふんわりとした憧れを夢とすることが多いです。私の場合「ウォルトディズニーを超える人になる」という夢を小さい頃から持っていたのですが、それは特定の職業を指しているわけではありません。アニメーター、映画監督、ショー演出、マーチャンタイザー、プロデューサーなど職業を指せば彼を目指すにしても本当に幅広いものがあります。絵を描くことやアニメーション作品を見ることが大好きだったからアニメーターを目指す、というこの答えに辿り着いたのはその二分の一成人式での発表の後でした。周囲の目を気にして自分の本質的な部分、大事な部分を大切にできなかったことに、母はかなりショックを受けたようです。それ以降、私はどんな時でも自分の夢を恥じることなく表に出すようになりました。そして今もその夢を抱き続けているからこそ、海外からこのブログを発信しています。
さて、長くなりましたがここからが5年生のパートです。ここからは私の内面的なことにフォーカスしていきます。この頃からとうとう私のダイエットが始まりました。きっかけとなったのは、担任や友達から他の肥満児のクラスメートと同類にされたことです。その肥満児のクラスメートを私は心の底から人間的に嫌っていて、その人間と同じカテゴリーにされたことがショックで自分を変えたいと思うきっかけになりました。そこから過度な食事制限はせず、週に一度の水泳とおやつを食べることで夕食を食べすぎないことを意識していました。
林間学校がなどの時に自分の体を見られることを意識してしまう子供は多いですが、私は自分の体を嫌うようになりました。自分の中でこの頃には体の性別と心の性別が大きく違うと気づいていて、男性の体でいることに酷く拒絶するようになりました。生まれた時から持っている自分の体なのに、成長と共に思っていたものと大きくかけ離れていくことが怖かったのだと思います。ある意味、身体的に成人することへの拒絶でした。
6年生の時は一番髪が長くてポニテにできるぐらい長かったです。運動会では組み立て体操があったので髪をしばりましたが、それは私にとって大きな変化でした。「髪を縛るなんて女みたい」と言われたからかもしれませんが、抵抗がありました。また同時期に先生から「髪をきれ」「卒業式に袴履いてこいよ」など今でこそ問題になりそうな言葉は何度も言われたことがあります。身内の中でも「男らしくしなさい」と言われたこともあります。確かに「らしさってなに??」と思うことはありましたが、それでも、その当時はLGBTQ+のことを自分も詳しく知らなかったこともあり、「私はこういうことを言われても仕方がない見た目をしてるんだ」と思うだけでした。もし、私が2020年代の小学生だったら、そんなことで思い悩んだり周囲から言われたりすることもなかったのでしょう。ですが、髪が長くても、心が弱くても、関係なく仲良くしてくれたのは幼馴染たちとクラスの女友達でした。放課後や休み時間の記憶は男の子たちと遊んだ記憶より女の子たちと遊んでいた記憶の方が圧倒的に多いし楽しかったです。当たり前のように感じていましたがこんな変わった人間と友達でいてくれたことは本当に感謝でしかありません。
小学生の後半は体の変化と共に精神的な変化が大きくありました。もちろん見た目の変化が凄まじかったのはいうまでもないですが...。今でこそ「あー、あの時ジェンダーのことで悩んでたんだな」と思いますが、無知というのは恐ろしく、自分が何者であるかすらも未知のままになってしまうのです。周囲の大人から言われたマイナスな言葉は褒められたことよりもよく覚えていますし、若干トラウマにもなっています。一時は不登校寸前まで精神的なダメージがありました。そんな中でも小学校が楽しかったと思えるのはクラスの友達たちの存在でした。光あり闇ありの6年間でしたが生涯忘れられない思い出がたくさん詰まっています。
さて、今回はここまでとなります。次回はさらに闇の底へお連れします。悪夢の中学時代です。
くら〜い話が多くなってしまいましたが、サムネは小6の際にフリグリで撮ってもらったスティッチ&エンジェルとの3ショットです!
April 8 2024
こんにちは!Seiraです!
実は、先日20歳を迎えました。
カナダや他の国の成人年齢は各国やその地域ごとに異なりますが、私は生まれも育ちも日本。ハタチを迎えるということはある意味自分の中の何かが大きく変わるような、そんな気がしています。そういえば日本もついこの前まで成人年齢20歳だったし、成人式(二十歳の集いっていうとこも出てきてるらしい)もタバコやお酒の解禁も20歳なのでやはり特別な1年という感じがしますね。
前置きが長くなりましたが、今回から約4回ほどに渡って私Seiraの20年間を振り返っていこうと思います。初回の今回は、生まれてから小学校入学までの出来事を書こうと思います。
私は今から20年前の春に母の地元である山梨県の病院で出生し、1歳すぎまで父の実家がある神奈川県で過ごしていたそうです。その後、父の転勤がたまたま母の地元になりそれ以降は山梨で育ちました。それから留学するまではずっと山梨で暮らしていたので、神奈川での生活は記憶になく、親から聞いた話やたまに見るアルバム・カセットビデオからの情報しか知りません。
生後半年ごろに初めて東京ディズニーランドへインパークを果たし、それから1年に1度のペースで家族でパークに足を運んでいたそうです。初めてのキャラクターグリーティングはマックス(グーフィーの息子)でした。
1歳過ぎには東京ディズニーシーにも訪れ、その時はちょうど開園5周年だったり「アラジンのア・ホール・ニュー・ワールド」という伝説的なイベントが開催されていました。この頃ちょうど言葉をなんとなくぼやっと呟きはじめていたそうなのですが、パーク内の至る所にミッキーマウスやその形のものがあったので必死に「ミッキー!ミッキー!」と言いたげにそれっぽい言葉を言っていたそうで、後に母はこのことを呼吸発作にならないか心配だったと振り返っています。
ある意味生まれながらにしてDヲタだった私はパーク以外にも日頃からディズニー作品を見て育ちました。「ピーターパン」や「アラジン」「白雪姫」はVHSで何度も繰り返しみていたのを辛うじて覚えています。ピクサー作品もたくさん見ていて「トイ・ストーリー」や「モンスターズ・インク」「ミスター・インクレディブル」辺りは大好きな作品たちでした。
運命が変わったのは4歳になった頃。24時間ずっと一緒にいた親とすこーし離れて、幼稚園に通いはじめた頃でした。毎日登園が嫌で門のあたりで泣き叫んでいたようです。どれくらいの期間かは忘れましたが年少さんの1年間は泣いた記憶ばかりです。母も最初の頃はうるっとなったようですが毎日続いていたので「はい行ってらっさいー(棒)」と気にしなくなったようです。むしろ毎日泣きながら先生に担がれていく私を見て笑っていたようです。まあそうなるわな。
5歳ぐらいの頃、私の中で大きく変化したことがありました。それは特撮ヒーローの存在です。当時放送していた「炎神戦隊ゴーオンジャー」「侍戦隊シンケンジャー」「仮面ライダーキバ」「仮面ライダーディケイド」「仮面ライダーW」はディズニーかアンパンマンで育ってきた私にとってとてつもない刺激だったと思います。親は特撮ヒーローは1年で変わってしまうからという理由で変身ベルトなどのおもちゃをねだっても買ってもらえませんでしたが、とにかく夢中だったことは覚えています。さらには、幼稚園が非常に小規模なクラスで女子が10人に対し男子が3人だったため「セーラームーン」や「プリキュア5」なんかもめちゃくちゃ知っていました。同時期に「ドラゴンボール改」のフリーザ編がやっていたこともあり、そちらにもハマり、色々外の世界を知ったのがこの5歳の頃だったと思います。
そして6歳の頃。年長となってながーく感じていた幼稚園も最後の一年でした。先生や友達ともまるで第二の家族のように思っていたのでどんなことで遊んだとか何を話したとか、何で怒られたか、など人並み以上に記憶が残っています。最初はあんなに嫌に感じていたのにいざ卒園となると少し悲しかったです。
幼稚園の3年間の間に実は色々やっていたことがありました。
1つは外部の英語クラスに通っていました。同年代の子達とネイティブスピーカーの先生で簡単なアクティビティをするような感じのクラスで、リアルの英語で楽しめるならと親が通わせてくれていたそうです。当然英語がペラペラではなかったはずなのですが、どうやってコミュニケーションをとっていたのか今考えれば謎です。もしかしたら他の子達と一緒に日本語で押し通していたかもしれませんが、それでも毎週1時間といえども、ネイティブと話せる機会があったことはすごいと思います。それもあって、小学校までにはアルファベットは一通り書けるようになっていましたし、ある程度の超基本的な単語は覚えていました。もちろんアカデミックなものや日常会話を習得したわけではありませんが...。
もう一つはフィギュアスケートでした。こちらは冬のシーズンだけでしたが地元のアイスリンクで行われているスケート教室で週末滑りに行っていました。多分4歳から始めたと思うのですが、そこから小学校6年生の12歳までずっと通っていました。小さい頃から滑っていたのもあって基本的なことは一通り習いました。最後にはジャンプ+スピンの練習もしたりしたのですがそれはできずに終わってしまいました...。プロを目指していたわけではないのですが、浅田真央さんや高橋大輔さんのパフォーマンスを見てこんな風に滑れるようになりたいと言っていたそうです。そんなんで一時期はマイシューズも持っていました。成長とともにすぐに履けなくなりました。
そんな色々な経験や興味があった幼少期ですが、何よりも夢中だったのは絵を描くことでした。スケッチブック(もしくは紙や広告の裏)、クレヨン、色鉛筆を握らない日はなかったと思います。スケッチブックや紙の使用量が半端なかったらしく、母が広告の裏紙を集めてスケッチブックを作ってくれたのはすごく思い出に残っています。ちなみにパチンコの裏紙はツルツルのプリント用紙なので色鉛筆やクレヨンと相性が悪く大嫌いでした!とはいえ、もらったスケッチブックはすぐに使い切るし、挙げ句の果てには弟のスケッチブックや落書き帳の紙をとってそれに描いていたりしました。絵を描くことは他の遊びをすることよりも私にとって重要だったんだと思います。
ちなみに絵を描くこと以外だと最初に言ったようにディズニー作品を見ることや、おままごと、ぬいぐるみなど女の子向けのものがかなり好きでむしろベイブレードとかポケモンは知識が皆無でした。特撮とドラゴンボールだけで男の子っぽいが出てた気がしますね。ちなみに親の教育方針でゲームはない環境で育ち、DSやWiiの存在を小学校に上がるまで詳しくは知りませんでした。
0歳から6歳までの期間を今回は振り返ってみました。共感してもらえたりしたら嬉しいです。また、アメブロはお母さん達がたくさん利用してると思うので、子供の立場になって一つ発信したいと思います。幼少期に抱いた興味関心は10年後20年後、また人生において強い影響を及ぼすことがあります。やってみたい、見てみたい、こういった声にぜひ耳を傾けてあげて欲しいです。イヤイヤ期と重なってわがままだなと思う気持ちもものすごくわかります(下の弟の時は本当に地獄でした)。でも本当に幼少期のインプレッションは子供たちの人生に関わる大切なものなので、ぜひチャンスを多く与えてあげて欲しい、そう思います。
なーんかめちゃくちゃ長くなりましたね。6年間を3000字にするとこうなるわけですか...。1年あたり500字...。本当はまだまだ書きたいこともあったのですが、書ききれなってしまうので今回はこの辺で。また思い出したら追記したり、別の記事でその事を描こうかなと思います。
では次回は小学校入学から卒業までの6年間を振り返ります!
今回もお付き合いいただきありがとうございました!!
April 4 2024
こんにちは、Seiraです!
ここのところ学業の方で忙しくなかなか更新ができていませんでした。
そんな間にPrince Georgeでは冬から春になりつつあります...!! あっという間に季節が過ぎてしまうので、まだかろうじて雪が残っている間にこの冬の厳しさをレポートしておきたいと思います。
12月から降り始めた雪はホリデーの時期と重なり、住宅街のイルミネーションとのコラボレーションによって幻想的な世界を作ってくれていました。これはぜひ、私の年末年始をまとめた以前のブログを参照していただきたいと思います。
1月の半ばには-30°とかいう訳のわからない数値の気温に達し、もうシベリアでもアラスカでもどこでも生活できそうな気がしてきました。雪というより、吹雪に近いような感じでした。ほぼ毎朝、除雪車が列になって道路の雪をかき分けていたので通学時にその光景を見るとまるでディズニーのパレードのような...。でも音楽はないし、めちゃくちゃ寒いし...。
そんな中でもバスは遠回りで時間もかかるので毎日片道20分、歩いて通学。我ながらよく生きていたなと思います。
2月には-30°まではいかないにしろ、-25°を記録した日もありました。この頃には寒い気温にも慣れてきてしまって「今日は寒いからこれ着ていこう」「今日はそんなにでもないからTシャツにダウンジャケットを羽織ればいいか」と、自分の中で感覚が定まってきました。ちなみに、学校のキャンパス内やモールなど屋内施設は非常に暖かいため夏の格好でも全然余裕です。むしろ重ね着したままだと汗をかいてしまいます。こちらの写真はとある2月の日の夕方の光景...。
そして、3月。ここ1週間は本当に心地よい天気が続いており、春の兆しが見えてきました。寒さが特徴のカナダ、Nothern British Columbia のPrince Georgeですが、もうすぐうさぎたちが活躍する季節になります。いやぁたのしみだ!!
March 11 2024