みなさんこんにちは、Seiraです。8月もとうとう下旬に入りましたね。私の夏休みもあと2週間をきりました。
さて、最近気になるニュースを見つけました。Netflixで日本とアメリカを除いた国と地域で1988年にスタジオジブリより公開された高畑勲監督のアニメーション映画「火垂るの墓」が配信が始まったそうです。多くの人が知っていることだと思いますが、ほぼ全てのジブリ作品は日本国内で配信を行なっておらず劇場以外では基本的に地上波放送もしくは円盤で鑑賞するのが主流です。ですが、欧米などではNetflixが主にジブリ作品を配信しています。そんな中で、今回飛び込んできたニュースがこの「火垂るの墓」の配信決定。この報道に対し、多くの人々が「なぜメインである日本で配信されないのか」「アメリカ人こそ見るべき映画だ」という声をあげています。まあそれはそうですね。
私自身、「火垂るの墓」は人種関係なく全ての人間に見てほしい映像作品、スタジオジブリの最高傑作だと思っています。今回のNetflixでの配信スタートは今作がより世界中の人々の目に焼きつく非常に意義のある出来事だと受け止めています。
今回のブログではなぜ私が今作をそこまで推しているのか、感想を交えながら語っていきます。
冒頭の衝撃
私が初めて「火垂るの墓」を見たのはおそらく小学校低学年ぐらいの時、金曜ロードショーか何かで放映されていたときでした。小さい頃から、戦争や未解決事件などを題材にしたドキュメンタリーや映画ドラマを見るのが好きだったので(普通に考えたらやばいですね)今作に興味を持ったのも自然なことでした。多くの人が共感することだと思いますが、今作は非常にショッキングな描写やセリフが多く取り入れられており、従来のジブリ映画のファンタジーさとは全くかけ離れたリアリティのあるホラー寄りの作品です。
物語の一番最初、「昭和20年9月21日、僕は死んだ。」という主人公の青年清太のセリフが私の中でどのシーンよりも印象に残っています。アニメーションといえば、本来明るく楽しい描写で溢れたものですが、今作は序盤から観客に衝撃を与えます。この映画の主人公はすでにこの世にいないもの、亡霊として描かれているわけです。そこから清太の遺体の周囲が見えていき、通行人がおにぎりを与えたり、駅員が近寄ってきたりします。そしてその駅員が清太が握りしめていたサクマドロップの缶を取り上げ、駅の外の草むらへ放り投げて落ちた衝動で、缶から妹の節子の遺骨が出てくるというここだけで1本のドラマが描かれています。この数十秒で私は「火垂るの墓」の世界に引き込まれました。この冒頭ほど衝撃を受けた映画はそうそうありません。
節子が死んだのは戦争のせいなのか
この「火垂るの墓」は戦時下で家族と家を失った清太と節子が二人で生きるストーリーですが最終的には節子は栄養失調による餓死、清太も節子を失った後同じく餓死します。私が子供の頃に見た時、二人が不幸になってしまったのは戦争というもののせいだと思っていました。ですが、どうやらそんな単純な理由ではないようです。どうやら、節子が死んでしまったのは、清太の行動や考え方も影響している可能性があるのです。
私がその考えに至ったのは、オタキングの愛称で有名なアニメの専門家、プロディーサー、ガイナックス初代社長の岡田斗司夫さんの生放送動画(正確にはアーカイブ)でした。彼によると、監督である高畑勲は「この映画は反戦映画ではない」と明言していたそうです。流れている映像を見ていれば、あの映画は戦争によって齎された悲劇を描いていると見て取れますが、実際に登場人物の人間性や行動を見ると「はだしのゲン」とは全くもって異なるストーリーになるのです。岡田斗司夫さん曰く、「清太は元々、当時高級だったカルピスが飲めるような裕福な家庭の子供でいきなり全てを奪われ何もできなかった」そうで、彼はある種生きることに困ったことがない人間だったのだと思います。だからいきなり家や街が燃え、母親が全身火傷で死亡、自国を守るために戦っていた尊敬する父親も戦死した状況では清太は何もできなかったのだと思います。疎開先のおばさんもよく酷い人だと言われていますが、居候させてもらっているのにあまり感謝の態度が見られなかったりなど実は清太の方が色々良くない部分があったりするのです。最終的に二人はおばさん宅を出て二人で暮らしますが、生きるためとはいえ清太は農家の野菜を盗んだりしてしまいます。当時の状況が状況とはいえ、不便な状況になったことがない清太は働いてお金をいただいて妹を養うという考えに及ばなかったのかもしれません。最終的に節子が餓死した理由は大変酷ですが、二人で生きていくと決めた清太が責任を果たせなかったことにあると思います。そう考えると、この映画は「戦争はいけないことだ」「戦争によって二人は死んでしまった」という観点だけでは見ることはできないのではないでしょうか。
この映画は清太の贖罪の話だった
節子が死亡した理由が清太にあるとしたら映画の冒頭とラストに全く別の意味が生まれてきます。先述した通り、この物語はいきなり清太が死亡するところから始まります。この時点で節子を失って数十日は経っており、完全に衰弱しきっていますが、これは節子を失ったことによるショックではないようです。映画を見た人ならわかると思いますが、節子はよくいるお兄ちゃん子、清太のことが本当に大好きなのです。でも、その大好きな清太とはお別れをしなくてはいけなくなってしまいました。清太は自分の手で節子を荼毘にふし、最終的に彼女の形見とも言えるサクマドロップの缶の中にわずかな遺骨を入れたのでしょう。岡田斗司夫さんも言っていましたが、私はこの時のシーンに非常に違和感を覚えていました。私は大切な人を亡くした時に火葬場に行くことができなかったので当事者の心情を全て理解することはできませんが、普通なら亡くなった人間を燃やすとき、涙したり悲しい表情をしたりするものです。でも、節子を燃やすときの清太は終始真顔。人形など節子の好きなものを棺桶に入れるときもずっと真顔なんです。このシーンにおいて多くの人の感想は「大切な妹を亡くし心が崩壊しきっている」「ショックで感情を失っている」だと思うのですが、私は捻くれ者なので「清太はこのとき、実はホッとしてたんじゃないか」と思ったのです。今までは少し駄々っ子な節子の面倒を見るのに自分が苦労しなければならなかったけど、その節子が死んだ今、ある意味しがらみから解放されたような気がしていたのではないか、と思います。現実世界でも、例えば闘病の末に亡くなった人のパートナーや子供が「長い介護が終わった、やっと一息つける」と思う時が少なからずあると思います。それと同じで、清太は節子を亡くし、ひとりになったことで文字通り自由に生きれるようになったのです。清太は節子が死んでからも二人で暮らした場所に戻らなかったことから、一人で生きようとしていたはずです。でも実際は節子の跡を追うように死んでしまった。この理由は岡田斗司夫さんの考察ではっきりわかりました。正確には節子を追うように、ではなく節子が清太を呼んだ、のだと思います。だってお兄ちゃんのことが大好きな節子だから。遺骨をずっと肌身離さず持っていたことは、ある意味節子がずっとそばにいたと考えられます。もしその遺骨が清太の生きる活力を奪ってしまっていたとしたら?冒頭シーンに話を戻すと、駅員が投げて落ちたドロップの缶の中から骨が出てきた時、9月ではありえない蛍が出現し、節子の霊を呼び覚ましてしまったのかもしれません。もしかしたら蛍というのは今作において霊のことなのかもしれないですね。
本編のラストで1988年の神戸が映され、霊となった清太と節子はその街を眺めます。でも実際は冒頭の清太と節子が電車に乗ってるところから1988年だったとも言われています。岡田斗司夫さんの考察は、「清太は自らの贖罪として永遠に自分が死ぬ瞬間を繰り返す運命になっている」というものでした。1945年の出来事は全て回想、清太がずっと同じ瞬間を繰り返しているのを私たちは見させられていたのです。大好きだったはずのお父さんやお母さんにも、清太は死後に会うことができていません。清太が死んでから居るのは天国でも地獄でもなく現実そのものだったのです。地縛霊と似た感じですね。ちなみに天国と地獄の中間地点にある場所を煉獄というそうです。
年齢によって見方が変わる作品だった
私が上記のような考えになったのはあくまで今20歳という年齢に達したからでした。初めて見た小学生の頃はとてもそんなところまで考えが及ばずただ悲劇の物語としてしか見れていませんでした。映画の感想や考え方は人それぞれですが、今作は見た時の年齢によって見方が変わる作品の代表例だと思います。それも、「子供の時にはわからなかったけど大人になってみてわかった!」という単純なものだけではありません。多分ですが、子供の頃に見ると節子や清太の目線で見れますし、高校生から大学生ぐらいになれば疎開先のおばさんのキャラクター性や清太に対して批判的な感想を持つと思います。高畑勲がこの話を幅広い年齢層が見るアニメーションとして世に送り出したことには大きな意味があるのかもしれません。
ここまでが本編の考察を交えた感想でした。岡田斗司夫さんの動画はこちらからぜひご覧ください。
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より多くの人に
残念なことに「火垂るの墓」は近年地上波での放送が行われていません。一説では非常にショッキングな内容がコンプライアンス的に良くないと言われていますが、私はできるだけこの作品は世界中の多くの人々に見られるべきだと思います。戦争映画としてではなく、1つの芸術作品として非常に奥が深い作品です。はっきり言いますが「鬼滅の刃」や「チェンソーマン」などグロくてもお子様から大人気な作品が許されて、歴史的背景に基づいた今作のような作品が許されないことは理解ができません。非常に残念でなりません。
反対に、今回Netflixが配信を開始するというニュースはアニメーション映画好きとしても日本人としても非常に嬉しく思います。世界中からジブリ作品は愛されているし、多くの人々が興味を持ってくれるのではないでしょうか。この映画が配信されることで、再評価されることを楽しみにしています。
今回のブログは、清太と節子の二人のイラストで締めくくりたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。次の更新もお楽しみに。
Aug 23 2024



























