みなさんこんにちは、Seiraです!

 

 さて、先月6月は世界的にPRIDE Month というジェンダーへの理解を深めるための月間となっていることを皆さんはご存知ですか?1969年6月にニューヨークで起こったストーンウォール事件という性差別(特にこの時はゲイに対する差別)への反乱活動が起源となっているそうで、この事件を機に世界的にLGBT(当時)への見解が徐々に変化していき現在のジェンダー平等運動へ繋がっています。

 

 2020年代になってからよく聞くようになったPRIDEという言葉やジェンダーフリー、そしてLGBTQ+(現在は2SLGBTQ+と言われたりもします)は世界中の人々の生活や価値観に影響を与えていますが、実は私もそれに強く影響を受けながら生きています。20年を振り返るシリーズ最終回の今回は私のジェンダーについての話をしたいと思います。

 

 

 

 結論から言うと、私の性自認はノンバイナリー、性的嗜好はパンセクシャルです。ノンバイナリーとは男女の二元論にとらわれない性自認で、パンセクシャルとは恋愛対象が性別によって決まっていないジェンダーのことを言います。LGBTQ+は日頃皆さんが聞くゲイやレズビアンのような同性愛者など恋愛対象の話だけではなく、トランスジェンダーやクィアなど自分自身のアイデンティティに関わる内容も含まれています。同じLGBTQ+という言葉の中にも沢山の意味を持つジェンダーが含まれていますが、性自認と性的嗜好は全く別物です。ここまではジェンダーについての大まかな説明でしたが、ここからはより個人的な体験談と考えをお話ししたいと思います。あくまで個人の主観であり世の中には多様な考え方があることをご了承ください。

 

 

 まずは私の過去の体験談を振り返りましょう。以前のブログで小学生時代の時から自分の性自認に対して違和感を感じていたと書いていた通り、当時幼かった私にとって自分のジェンダーはカテゴリーに当てはめられない変なもので、ゲイやバイセクシャル、トランスジェンダーとは何か違う別のものだと思っていました。もちろん当時の日本では今のようなPRIDE運動はなく、多様性に配慮された社会ではありませんでした。LGBTという言葉だけは知っていたのですが、あまり自分と関連性を感じられませんでした。

 

ただ、私がいわゆる一般的な男の子とは違う点がいくつかありました。一つ目は身なりやファッションなど、容姿のことです。肌に持つものへのこだわりが強く、ナイキやプーマなどのスポーツブランドのものを持つことが大嫌いで、それこそディズニーやサンエックスのキャラクターの服や文房具などのアイテムを沢山持っていました(それでも特撮は大好きでしたが)。二つ目は、第三者から「お兄ちゃん」という代名詞で呼ばれることが前者よりこちらの方がひどく苦痛だったということです。私には下に2人の弟がいる3兄弟の一番上なので、母の知人や周りの大人からは「お兄ちゃん」と呼ばれることは当たり前にありました。それについては幼いながらにそれは母の一番最初の子供として言われているからだと理解していました。ただ、親戚や学校の先生からそう呼ばれることが大嫌いでした。男として扱われることの嫌悪感より、誰かの付属品として扱われるようで自分のアイデンティティが壊される感じが辛かったのです。「〇〇(弟)のお兄ちゃん」と言われる時が一番精神的に辛かったです。母はこのことを理解していてくれたので、「お兄ちゃんなんだから譲りなさい、許してあげなさい」という理不尽な言葉は一度も私に言いませんでした(母は子供の時に祖母から言われたことがありそれが嫌で子供には言わないと決めていたそうです)。そして、三つ目は髪の毛のことでした。小学生の頃は3年生ぐらいからずっと伸ばしていて長髪でした。違う学年の先生から「お前は卒業式に袴履いてくるんだろ?」と言われたり、担任から「男なんだから切れ」と言われたことがあります。今このようなことを言えば大問題になるのは間違い無いですが、たっ数年前はこんなことを平気で言えてしまう環境だったのです。クラスメイトからも「オカマだ」と言われたことがあります。このような言葉で傷ついたのはもちろんですが、だからと言って髪を切って短髪になることはしませんでした。髪を短くしてしまうと、自分じゃなくなってしまうような気がしたのです。

 

私にとってこの三つが性自認について悩んだ核の部分だと思います。そしてその三つには共通して思うことがありました。それは、「女の子として生まれたかった」という思いです。もし、自分が最初から女の子だったら楽だったかな、もっと自分らしく生きれたのかなと思わない日はありませんでした。少々下世話な話にはなってしまい申し訳ないですが、私は自分の体に男性器がついていることが死ぬほど嫌な時期が小学校高学年から高校にかけてありました。正直に言えば、今でも自分のアイデンティティを邪魔するだけの必要のないものだと思っています。男性の体で生まれてきたことで私は自分のことを好きになることができませんでした。だから、服や持ち物で男性の体を隠すことで自分を安心させていたのだと思います。

 

 

中学校の3年間は私は私自身ではありませんでした。誰かに求められる形になろうとして自分を見失っていたのです。長髪は校則で禁じられていたので中学の入学時には短髪にせざるを得ませんでした。髪を切ったあの時からまた戻るまで、私の個性の一つは死んでいたのだと思います。中学とはいい意味でも悪い意味でも周りから強い影響を受けます。まるでタスクのように好きな人はいなければいけない、誰かに告白しなければいけない、そんな雰囲気もありました。そして、それに追い討ちをかけるように思春期の体の成長は私を成人男性に私の意思に反して急激に押し上げていきました。血まみれになるぐらい髭を切ったこともあります。そして、精神的にもおかしくなり、部活がないテスト週間は学校に行かないことも多くありました。この3年間、周りに何か嫌なことを言われたり差別を受けて辛かったというより、理想と現実がかけ離れていく自分を自分で追い込んでしまったんだと思います。ジェンダーの話題を聞くと中学でいじめにあったという話題をよく耳にしますが、正直いじめだったら解決策がある可能性があります。でも、敵が自分だったら距離を置くこともできないし、喧嘩することもできないし、周りに全てを理解してもらえないし、どうしようもないのです。結局は自分でなんとかするしかないのです。それがどんなにつらくとも、向き合わなければいけないことなのだと私は思います。

 

 

そんな私に大きな転機が訪れました。それは、今から2年前(もう2年前)にバンクーバーに滞在していた時のことです。たまたま留学していた時期とバンクーバーPRIDEの時期が重なり、興味本位でPRIDEパレードを見に行ってきました。それまではPRIDEパレードの印象は国内のものしか知りませんでしたし、日本だとパレードもデモも同じものとして社会から冷たい目で見られてしまっている印象が強かったです。ところが、バンクーバーは違いました。パレードという時間、イベントの期間を通してみんながみんな自分自身でいるように見えました。私にとってそれは生きてきた中で最も価値観が大きく変化した出来事の一つになりました。そしてそれと同時に、ノンバイナリーという存在を知り、その特徴を知るにつれて多くの共通点があることがわかり、ようやくこれだと思えるアイデンティティを見つけることができました。多民族国家だからこそ、多様なジェンダーを受け入れてくれるカナダ、そして自分を変えてくれたバンクーバーなら自分が生きづらさを感じることなく自由に生きれるのかもしれないと思ったのです。そうして帰国後、高校卒業後の進路先としてカナダを選び、今後もカナダに永住したいと思っています。

 

 

日本人として生まれてきたこと、日本で育ったことは決して後悔していませんし、日本は好きです。それでも、私がこれまで遭ってきた閉鎖的でステレオタイプな考え方が苦痛であり、それが当たり前とされる地域や国に住み続けることは自分を殺すことだと思っています(自由を求めすぎることで誰かに被害を与えることはまた別の話です)。私はこれからも死ぬまで女に生まれたかったと思い続けると思います。でも、できるだけ自分に生まれてこなければよかったと思わないように、毎日を頑張って生きたいです。

 

 

さて、過去最長クラスになりましたが、今回のブログは以上です。執筆中に6月が終わってました。たくさんの話題を一気に詰め込みましたが、このブログを見た人の誰かの助けになったら嬉しいです。今後は過去のことより今何を想って何をしているのかを中心に発信して行きたいと思います。また留学の話題が増えると思いますので楽しみにしていてください!

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

July 2 2024