一休さんのアニメで「ひとやすみ、ひとやすみ」というフレーズがある。禅語の中に「七走一坐」と「一日一止」という言葉がある。「七走一坐」とは、七回走ったら一度は坐(すわ)れという意味です。ずっと走り続けていないと仲間から後れをとってしまう、ついつい私たちはそんなふうに考えてしまう。しかし、長い目で見れば、ずっと走り続けることは良いことではない。しばらく走ったら休息をとり、自分の走りを見直すのが賢明だと思う。「一日一止」とは、一日に一回は立ち止まりなさいという意味です。ずっと歩き続けるのではなく、一日に一回くらいは自分の歩き方を見つめ直す。そうすることで、正しい歩みをつくっていくことができる。「一止」という字を見てみよう。「止」の上に「一」を乗っけてみると「正」という字になる。一日に一回、止まって自分を省みることは正しい。合気道の上達方法にも参考になる。がむしゃらにただ稽古をすれば良いとは思わない。演武会の後に自分の記録動画を診て反省するのも良い。昨年と同じ失敗をしている人が数多く見受けられます。
1333年の鎌倉攻めの守り本尊である 善光寺式阿弥陀如来が689年ぶりに第二の集結地(7000騎)高崎市八幡町の八幡宮阿弥陀堂に(還座)戻ります。10月16日(日)に一般公開を予定しています。是非お越しください。阿弥陀如来像の本体は善光寺の秘仏で、7年に一度の一般公開の阿弥陀様はレプリカです。この阿弥陀様も同じ鎌倉時代の像で、分身分霊の儀を済ませて安置します。鎌倉時代から新しい日本文化(東山文化や茶道、花道、武道、禅等)の精神文化が生まれました。
武蔵は巌流島で佐々木小次郎と戦ったのを最後に決闘は止めています。その後、姫路藩の武士として大阪の陣に出ますが、当時の社会情勢は個々に戦う剣の時代から、集団戦法や大砲による戦闘の時代に変わっており、剣術についての限界を感じたようです。剣から学ぶことは無いとも言っています、しかし今日の大東流や合気道の基礎をつくった武田惣角は、西郷頼母〔会津藩家老、大東流継嗣者〕に剣の時代は終わった、これからは柔術で身を立てよと諭されたと言われています。武蔵も剣の時代の終わりを感じて、心は別の方向に向かっていたのではないかと考えられます。武蔵の時代、体術の達人になっても世間の評価はそれほどでもなかったでしょう。五輪書に「剣はすたれる」とも書いています。剣で求めた「宇宙的な真理」を絵画や彫刻、お茶、連歌、庭園造りといった芸能の世界に入り傑作を残すことになったわけです。箕郷町にも高田の馬場はまだか、赤穂浪士で有名な剣術家、堀部安兵衛作の庭園が残っています、観覧自由です。
歩くことについては、沖縄空手、本部御殿手の上原師範は「御殿手の全ては歩きの中にある」と語ります、実際歩きつつ迫りくる相手を次々と制しています。「踵をやや浮かせる感じで、足の親指のつけ根に重心をかける。歩く際には、膝をまっすぐ伸ばし、胸を張って身体があたかも一本の棒になったかのような気持ちで歩く。足で歩くのではなく、全身で歩くという感覚が大切で、腹を中心として出て行くような感じで進む」と語っており、歩きの利点について、「相手の中に一瞬たりとも身をおくことの無い移動が可能になる」とのべています。私の歩きは腰腹を前に出す、足の親指を少しねじ込む感じで歩いて
います。いずれにしても、歩くことの利点は、「安定性が保てること」と間断のない移動が可能」という点に集約されます。入り身、転換の足遣いは違う方法です。
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古武道のこうした歩きは、現代剣道や空手などと比較した場合、機動力などの点で疑問を感じる人もいると思いますが、飛び跳ねるやり方は、整備された石ころも傾斜も無い道場やリングでの運足であって、現実である野外ではこんなことをしていたら、転倒か捻挫をしてしまう。戦時中に満州で剣の達人と言われる方がいて、馬賊と戦っていところを見たところ、姿勢はまっすぐで腰の上下運動も無く、歩きながら淡々と切っていたとのこと。実戦の闘いとはこういうものなのか。二天一流〔開祖宮本武蔵〕の兵法三十五か条に足踏みのこととして「足づかひ、時々により、大小遅速は有れども、常に歩むがごとし。足に嫌うこと、飛足、うき足、ふみゆする足、ぬく足、おくれ先立つ、足これみな嫌う足なり。足場いかなる難所なりとも、構え無き様にたしかに踏むべし」とあります。演武会での目の付け所は多々ありますが師範演武では、歩み、姿勢の安定、足幅、目付を注視することが良いと思います。
相手と対峙し、攻撃を受けたり、したりする場合の足の運びについては、他武道と合気道は違うがその説明を受けたことは一度も無い、しかし体の移動ということは基本中の基本なのであえて書きます。ボクシングのフットワーク〔飛び跳ねる〕や剣道の〔寄り足、継ぎ足〕と古流柔術の範疇に入る合気道は寄り足、継ぎ足も行うが、あとは歩く(かかとから着地する)。飛び跳ねるようなことはあまり無い、動き回っても腰の高さが変化しないことが基本です。また、床や地面を蹴ることを嫌う流派もある。濡れた和紙の上で演武しても破れなかったと言う逸話もある。合気道演武会の演武を見ていると「大股」の人が多すぎる。大股は力んでいる証拠、気を付けたい。
里見道場のシンボル 道衣の袖に付けます
相手のいやがることはしない。抵抗されることはしない。反撃の脳を刺激しない。相手を怒らせる(逆鱗「触れてはいけないところ」に触れる)ことはやってはいけないことです。武術は魔術、魔術は奇術です。相手に気づかれないようにだまして制することが肝要です
三日、三月、三年と言う言葉があります。まずは三日続ける。続けられない人は三日坊主と表現します。自分に合うか合わないか三日やれば解るので身切りをつける日数かもしれません。三月もやはり同じ意味と捉えてもいいかもしれない。合うか合わないか、相性、人間関係、楽しいか楽しくないか、この先続けられるかられなすか。判断する人が多いようです。里見道場への入門者はあまり多くないのですが、コロナの影響のため少なくなりましたが、群馬県内では歩留まりがある道場のようです。数ヶ月から数十年の人がコロナに負けないで稽古に励んでいます。