里見道場は怖くありません。聞いた話ですが、道場は規律が厳しいく、師範が厳しいので敬遠する人が多いので、公共施設の合気道クラブに入る人が多いとのこと。道場により方針があるので全て優しいとは言えませんが、里見道場の雰囲気は平和そのものです。怒鳴り声も生意気な説明も聞こえてきません。体と心がリフレッシュできる道場になることを心がけています。開祖の言である「天の理法を体に移し霊肉一体の至上鏡に至る技で有、道程である」を信条とする稽古は和合、調和、悟りの道だと考えます。この道を歩む人にいじめや恫喝などあるはずがありません。里見道場の波動に合わない人はおのずと足を向けることはありません。59回全日本合気道演武会に群馬を代表して里見道場から小林五段が演武しています。一分五十秒の短い演武ですが、里見道場の合気道の片鱗がが見られると思います。近いうちにユーチューブで見られると思います。
傾斜がある坂を登る姿勢は山の角度に対して前掲姿勢にならないように頭と前足の踵が一直線になるようにします。足は逆八の字にして小股で手足同行(ナンバ)で前に進むと良い。この体の使い方は合気道にも参考になると思います。古武道の範疇にある合気道は手足同行の体の使い方が基本です。右手が前の時は右足が、左手が前の時は左足が連続して動きます。
目付とは相対した時に相手のどこを見るかと言うことですが、剣道の目付けは山の紅葉を見るようにと教わったが、相手全体を観ろということと解釈している、相手全体とは足から頭まで全てとなるとなかなか難しいことで、普段の練習を意識的やるしかない、器官としての目があるならば、見ることは誰にでも出来る。しかし、それを技術としての目付をするには、何よりこころの持ちようが大切であり、心が磐石であり、まず心で相手を見る。相手が何をしようとしているかを心で知る。目付の場所は各流派で相違あるかも知れないが、「心を散らさず、心で観る」ことは、同じだと思う 馬庭念流の兵法心得では「目に見えぬ所へ目を付ける事肝要。これを観見の心持と云う。」目をまたたき心に見る心なり。この観見は容飾を去りて見る心なり。と帰されている。相手の目を見てはいけない、目に気を吸収されてしまうから、相手の太刀、手を見てはいけない、手に気を取られてしまうという植芝盛平開祖の話も伝わっています。
へっぴり 腰 及び腰 腰ぬけ 腰が引ける 粘り腰 腰がある 腰を伸ばす
弱腰 粘り腰 弱腰 他にもあると思いますが腰は月(体)と要(かなめ)で体
の部分で一番重要なところと考えられています。腰は腰骨が大切です。武道
は腰とそれに連なる尻と腹を中心に動いていれば理想の動きになります。
崩しは技をかける前段階です。崩しがないと技に移行することはできません。昔の言い方ですと半殺しにして手打ちにする。つまり攻撃された時に入り身転換でさばき、相手の中心を瞬時に崩す。そして目的の技に移行する
習い始めて最初の頃、ふと思いついて妻を相手に合気道の稽古をしていたら、妻からこういう風に受けろと言う要求が多すぎると疑問を投げかけられて困ったことがある。その時はこういう稽古の方法だと説明したが、実際には受けにあまり要求するのは武道では無いことに気がついた、今まで全く武道と逆のことをやっていたのではないかと思うようになり、この時から稽古方法は一変した。受けに対してこうに受けろ、力を抜けと言い過ぎるのは武道では無い、健康体操や踊りになってしまう。片手取りの裏技の時、必死に低姿勢で掴んでいかないと怒られるので掴む努力が先になり、これが不自然だという事に疑問を持たなくなってしまった。いつまでもこんな事をしていたのでは……お互いに相手の中心を結ぶ稽古はもちろん大切、稽古方法はいろいろですか゛今は受け〔相手〕にあわせることが中心の稽古をしている。