世界の常識がそうで無いことが証明されたのは ロシアのウクライナ侵攻です。アメリカが世界の警察官では無くなった証拠です。平和を求めて設立した国連の数少ない常任理事国が一番危険な国であることが日本も含めて皆怖がっています。次になにがおこるか気になるところです。あとから起こる「泣き面に蜂」、「弱り目に祟り目」、「踏んだり蹴ったり」の格言からすると何が起こっても不思議ではありません。国にも、人生にはまさかと言う坂がありますから次におこるかもしれない「まさか」地震、戦争、経済封鎖等に注意を払うのも常に臆病にして細心の注意を怠らないことが肝要です。武道でも大切な心得です。
多くの人は力づくでとか力を入れろとかの表現がしっくりいきますが、力を入れないで、優しく、力を感じないと言う表現には違和感があります。日本柔術は出すことです。出すためには多種の体法則に基づいて動きます。それが合気道の稽古です。達人の体は胴衣のなかに秘密があると思いますが、見た目は普通体です。キン肉マンとは違う鍛え方をしているはずです。何もしていないはずはありませんが、達人それぞれの創意工夫があるはずです。ですから、他人には教えませんが、正しい合気道の稽古そのものが達人への道なのかも知れません。まずは、達人に出会うところから始めないと目的が定まりません。植芝翁の受けを取って感じろとよく言われたそうです。江戸時代の柔術の達人「関口柔心」の手首を掴んだ人いわく、ふぁとしていて掴んでいる感覚が無かったと言っています。
受けがわざと力を入れて崩れまいとする人がいます。確かに、業を掛けて相手が崩れないのは掛け手の未熟ですが、あくまで稽古です。正しい理法、理合の追及でなければなりません。未熟な人にとっては残念な稽古となり、やめるきっかけになります。楽しい稽古にならないからです。業を掛けられている人は相手の弱点、まずいところがよくわかります。「例えば座取り呼吸法の稽古を私とやった場合、私が本気で抵抗したら稽古になりません。」それでいいのでしょうか、答えは違うと思います。倒れなければ私を恨んで帰って行くと思います。「稽古は基本的にゆっくりやっているので抵抗しやすいこともあります」全部倒れることは相手のためにならないし、倒れなければ気分を害して恨んで帰って行くと思います。「正しい倒れ方とは、相手にもしスキや未熟な点があればここは直したほうがいいよということを優しく伝え、倒れてやることです。わざと体を硬くして抵抗するのは、自分にとっても、相手にとっても良いことではありません、あくまで合気道は理合の追求稽古です、力を抜くところは抜く、入れるところはいれる、全部抵抗するなとはいいませんが、せいぜい一回の業の稽古で1回程度で十分です。」合気道は試合がありませんので稽古の姿勢次第で進歩が違います。稽古の時間だけは真剣な気持ちを保持してお互いに違和感の無い和合の合気道を稽古してほしいと思います。
心を落ち着けるとは 対象に対して冷静になること、表現を変えれば上がらない心、無我の境地、冷静沈着などということでしょうが、武道では相手と対峙した時に 浮足立っていてはすぐに負けてしまいます。心を落ち着けている「冷静沈着」である 相手にとっては手玉に取る格好の相手です。心を落ち着けていれば相手の全てが見えてくると言われ、心の修行が必要と、座禅を勧める人もいますが 座禅をして、沈思黙考を何年も続けていても肝心の稽古を怠っていたならば 頭でっかちになるだけで、その境地には達することはありません。どの運動もそうですが、誰よりも多くの稽古、練習が自信につながり上がらない心、無我の境地、冷静沈着の境地になると私は思います
二十代半ばから稽古を始め、三十代から指導をはじめ気づいたら44年、情報収集、出稽古、他流の研究等努力してきたつもりでしたが、最近になって「なんだ、こんな大事なことに気づいていなかった」と後悔。まだまだ未完成であることに「気づく」これからも、反省と改善、探求が続くと思うと飽きてなんかいられない。勝ち負け、強弱にこだわるのは別次元の世界、日本武術の試合は自分のレベルを相手を通じて試みること、高崎市出身の寺田文五郎は木剣の型稽古で名を残しています。当時の日本人の見方(評価)は現在とは違った感覚であった証拠です。日本の技芸は悟道への道、勝つと思うなおもえば負けよ(柔道)、未だ木鶏に至らず(相撲)合気道は動く禅(鈴木大拙)私もこの境地を目指したいと常日頃思いながら稽古をしています。
来年の春を目指して「新田 源義重・清和源氏の嫡流 源頼朝の叔父(源頼朝の兄、義平の嫁の親)」像を高崎市の上野一社八幡町八幡宮境内に建立を私が計画しています。無事に建立できたなら報告します。