体主とは目に見える物質、霊とは目に見えない物質、合気道の技は目に見えない霊的なソフトが中心、即ち精神世界において、勝利を目的とする俊敏な動きと強烈なパワーよりも大切なことがあることを稽古の中に全てあると感じるのは私だけでは無いと思います。
合気は受けも取りも力まないことで成立する。受けにリキムナ、忖度しろと言っているようではだめ。囲いの中には敵はいない。一休み、一休み。たぬきは安心して寝られます。桐ヶ丘動物園にて。
メーテルリンクの童話、遠くに探しに行ったが青い鳥はいなかった、戻ってから近くにいることに気が付いた話。私も他の人も、日本のどこかに武道の達人がいるのではないかと本やビデオ、インターネットを頼りに訪問したが本物に会えずに終わった人が多いと聞く。植芝開祖も修業時代、日本中の名人、達人に教えを請うために訪問したと生きていれば86歳の先輩から聞いたことがあります。しかし、たいした成果は無かったとのこと。しかし、この経験と諦めが自分の探求心になってくる。私の諦めは植芝開祖のことば「天の理法を体に移し」に繋がっていきました。青い鳥は自分の中に住んでいると気付いた時に新しい合気の世界が生まれると思います。天の理法とは宇宙の法則が先生であること。人が気がついた宇宙法則、人体の法則(つぼ等)はいろいろな合気を教えてくれます。
正勝、悟勝、勝速日(まさかつ、あがつ、かつはやひ)という三語は植芝翁が理合の要諦を端的に啓示したところの、翁独自の成語だそうです。その意は「正勝」とは正しい義をもって不義なるものに勝つべき信念、「吾勝」とは己の我執我欲を克服してすなわち己に打ち勝つべき信条のこと。そして、「勝速日」とは実践はいっさい遅疑逡巡することなく一瞬にして相手を制すべき機先の動のことを言う。勝負の場において死に体とは相撲用語で体勢が崩れて反撃できない状態を言います。
一瞬にして相手をいかに崩し、死に体にするかの稽古が「戦わずして常に勝つ」の境地にいたりうるとする啓示といわれています。
「鍛」は基礎が定着すること、「錬」は心身が揺るぎなく鍛え上げること。千日の稽古で技を習得し、万日の稽古でその技を練り上げて、よりよいものにしていく。「鍛錬」という言葉の語源です。社会人にとっては難関きわまりありません。とにかく時間を割いて道場に通ってください。私のところはなんちゃって道場なので?です。
塚原卜伝が上泉信綱に新陰流の手ほどきを受けたと伝わる卜伝神社(高崎市箕郷町卜伝)
「適当」という言葉は「適当にやっておいて」と言われると「雑にやっておいていいよ」「いい加減にやっておいていいよ」という意味に解釈する人も多いとおもいますが、「適当」という言葉には「いい加減」という意味の他にも、逆のことを表す意味が含まれます。知らなかったという方もいると思います。そこで今回は「適当」の正しい意味や使い方、語源などについて解説していきます。「適当」は間違った意味で解釈してしまうと、相手に迷惑を及ぼしてします。つまり、合気道の技はいいかげんな適当ではいけません。最適に適切に当たる(理に適った最適な)技を探求、追求してください。そうしないと相手に迷惑をかけることになりますし、怪我をさせることにもなります。
入り身投げの演武で襟首を掴んで回している師範を見ますが、私は違うと思います。まずは受けを掴んではいけません。受けが回るのでは無く、取りが回るから受けがついて回って見えるだけ。師範によって考え方に違いがありますから、好きなようにすれば良いとは思いますが。回すのでは無く、回る。なにを言っているのか解らないかも知れませんが。