アニメ『ルパン三世』PART5
この記事公開の時点で、
第2話まで放送済み。
と言ってはおいたが、
そこまで記憶が持続する自信もないので、
備忘録代わりに記しておこう。
第1話『
さすがに第1話だけに、ぎっしり中身の詰まった話で、
飽きずに最後まで見とおせた。
2018年にわざわざ新作と言うことで、
ビットコイン(劇中では「デジタル通貨」)や、
スマホ、タブレット、SNSとネットの駆使など、
最先端の世相を反映する姿勢は大いに評価したい。
だが、シリーズのお約束とパターンを盲従しているために、
相反する現象はパート4と変わらず。
タイトルのタイプライター打ち出しって、
いつの時代の作品なの?
時代設定が『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017)の頃ならわかるけど。
それと、名誉職だから1人は残さないとダメなのは承知でも、
いくら絵柄や行動が若々しくても、
85歳の小林清志氏の次元大介の、なんともくぐもった声は、
まるで古い録音環境で別録りしたみたいで、
とにかくそこだけ、それこそ別次元。
アルセーヌ・ルパンの孫と言われながら、それにしては若すぎるため、
「それを証明するものは何もない」
とかごまかしてるが、
「アニメキャラは歳をとらない」
——が、ルパン三世をとにかくダメにしている。
1話冒頭から、
あるあるカットを並べて、
正統な後継作だと主張してるが、
最上段『VS複製人間』(1978)
二段目『カリオストロの城』(1979)
三段目『TVファースト』(1971〜1972)
三段目「TVパート2」(1977〜1980)or「TVスペシャル」(1989〜2013)
四段目「TVパート3」(1984〜1985)
最下段「TVパート4」(2015〜2016)
同じルパン三世として連(つら)なるんなら、
今年2018年で、ちょうど50才も歳を重ねながら、
風貌や容姿がほとんど変わらないのは、
あまりに不自然。
おまけに、旧ルパン(設定年代1971)と
『カリ城』では、たった3歳の年齢差が、
きちんと描き分けられていたのに。
たとえば2日前の4/16に私も57歳になったが、
アニメ「ルパン三世」の世界では、
初老の年齢なのに姿は7歳、小学2年生のままということになるから——
松原D地区にあった北谷小学校が2008年に取り壊されて、
2009年に松原小学校に生まれ変わった。
——いかに珍妙かがおわかりいただけると思う。
ついでながら、乗ってるクルマまで50年前と変わらないのは、
現代なのにスマホやネットを使わず、
黒電話や電報が出て来たらどれだけ時代錯誤かを指摘すれば、
わかりやすいのでは。
例のクルマ、例の服や水着、例の銃を出しとけば、
ルパン通には「わかってるぅ♪」とウケるだろうとの魂胆なわけだが、
50年前と同じクルマや服装や銃のままでは、
実は「何もわかっちゃいない」もしくは「その手に乗るかよ」と思われて当然では?
もういいかげんに、
旧作をなぞって、
正統を気取るのはやめた方がいいんじゃ…。
↓ついで、ではないが、壁際走りの比較。※PART5はありません。
上からパイロット版(1969)
TV 1st(1971)
『カリ城』(1979)
TV スペシャル 血の刻印(2011)
※他にもあるそうですが、これ以上フォローしません。
第2話『ルパン・ゲーム』
緻密で凝縮された1話とは変わり、
ダラダラと引き伸ばし系で、
色々とツッコミどころを発見。
結論から言えば、
ルパン三世って、
事前にこれから起きることを察知できる予知能力者なの?
事例その1
ルパンは自分の管理下から逃げ出したアミ・エナンを追って、
チンピラにからまれている現場にかけつける。
そのうちの一人の口に銃口をねじこみ、
じゅうぶんに脅した後に引き金を引くが、
弾は込められておらず、銃は撃たれない。
弾倉に弾ごめしてないということは、
ルパンは、アミがチンピラにからまれ、
それに自分が対処すると先に知っていて、
あらかじめ銃から弾を抜いていたことになる。
事例その2
その後、アミとルパンは、
岸辺のボートによりかかりながら、
なぜルパンが助けに来たかを語り合う。
するとルパンの姿を捕捉したドローンからの情報で駆けつけた追っ手が、
いきなり発砲。
ルパンはとっさにボートを盾代わりに身を隠し、
すかさず狙撃者に向けて撃ち返す。
この時には弾倉に弾ごめしている。
ということは、
ルパンは、ボートでのアミとの会話中に、
狙撃されることを先に知っていて、
あらかじめ銃に弾ごめしていたことになる。
事例その3
アミ・エナンがらみの上記2点より前、
ルパン・ゲームに追いつめられて、
空港からの脱出に行き詰まったルパン。
移動手段として駐車場でクルマを盗むが、
次元が屈強なランドクルーザーを推すのに、
なぜか流行りの電気自動車を選ぶ。
空港では、離陸に滑走路の不要な
AW609という、ティルトローター機に行き着くも、
起動には大電源が必要。
機はすんなり離陸。
起動電源は電気自動車からだった。
ということは、
ルパンは、脱出手段として使うのは、
ティルトローター機だと先に知っていて、
あらかじめそれに電源供給できる、電気自動車を選んでいたことになる。
ただしここでの銭形のセリフどおり、
これに関しては、
あくまでもルパンが先を見越して(先見の明があって)のことかもしれない。
しかし同じエピソードで3回も同じ手を使われ、
すべてを先見の明でかたづけられちゃ、
さすがにつきあいきれないと言おうか…。
初回放送でこれじゃ、ホント先が思いやられるし、
こちらも見抜けるぐらいに歳をとっただけかも知れないが、
あらためて何度再放送を観ても感心しきりだった、
旧ルパンの名作ぶりが思い出されて…。
やっぱ、大隅(おおすみ)正秋と、
高畑勲は偉大だったよ。
でもって、ここから高畑勲つながりで、
追悼として急遽4/13に「金曜ロードショー」で放映された『火垂るの墓』について。
是枝裕和監督の『誰も知らない』(2004)とともに、
名作なのはわかっていても、
二度と観たくない映画ではあるけれど、
さすがに再見のまたとないチャンスなので、
せっかくの機会だからと、
怖いモノ見たさ的な気分で、
何年かぶりで、
人生二度目の鑑賞に臨むことにした。
初回鑑賞がテレビ放送(金曜ロードショー)だったのは覚えちゃいるが、
いつだったかは定かではなく(たしか1992年頃)、
なにしろその時とは大きく印象が異なった。
一度目はとにかくラストカットが衝撃で、
つらい話の内容を忘れ去りたくもあって、
ここにひたすら記憶が集中していた。
成仏しきれず地縛霊となった兄妹(清太と節子)が、
全ての経緯をふり返った後、
こしかけた姿勢で眠りにつく。
二人が座っているのは、
二人が死に至った戦中戦後の焼け野原とはすっかり様相が異なり、
繁栄を謳歌している。
この対比が強烈で、作者のニヒリズムを感じた。
清太と節子は極限状況の中で生きようともがきながら、
救いの手をさしのべられず、とうとう息絶えてしまう。
病気や飢えなどの、
生命や生存の危機に何度もさらされながら、
死と隣り合わせで生き抜く経験もなしに、
現代人は本当に生きているといえるのか。
そう問いかけられているように思えてならず、
とにかくこのラストカットは強烈に心に焼き付いていた。
ところが…。
今回の放送では、
もう忘れていた本編の展開を食い入るように見つめ、
とにかく二人の身に迫る苦難の連続にいたたまれぬ思い。
CMのたびに時間を確認して、
「まだこれしか時間が経過してないのか…
あとXX分も、つらい鑑賞が続くなんて、
心理的拷問だよ、やれやれ」
とキツイ時間が続いて涙また涙。
鉄棒のシーンの音楽(間宮芳生)だけは、
正直、ちょっと謎だった。
さあ、いよいよあのラストシーンだぞ
と構えていたのに、
なぜかそこだけ見のがして、
気づけばエンドクレジットが流れていてガクゼン。
なぜあんな大事な場面をカットする?
と憤慨しながら、
Twitterを確認すると、
例のカットを貼ってる人もチラホラ。
『火垂るの墓』の上映時間は88分なので、
追悼映像を新規追加しても、2時間の放送枠でノーカット放送は可能。
一応、確認のために最後だけ動画チェックすると、
音楽のつながりから、この場面のカットはけっこう面倒。
となると、どうやら見のがしたらしい。
いくら自分の記憶では強烈でも、
実際はさりげないあっさり味で短く、
ほとんど目立たない。
記憶の風景が肥大化するのは、
見る側の心理的背景が大きく作用する。
幼稚園の時の、ある体験が思い出された。
幼い頃は昆虫好きで、
「昆虫図鑑」や「昆虫の生態図鑑」を何度もながめていた。
の表は、
今のブログ用画像「ウルトラマン一覧」に影響を与えている。
図鑑でしかその姿を見たことがなかったカマキリ。
実物を幼稚園の野外学習(遠足)で見たときの衝撃はすごかった。
実物のカマキリは、想像よりもずっとデカかった。
しかしその後、同じ大きさのカマキリには二度と出遭わず、
あの大きさは、図鑑でしか見たことのないカマキリの実物に初めて接した衝撃で、
実際よりも何倍も大きく見えたんだと結論づけた。
『火垂るの墓』の最終場面も、同じことなんだろう。
視聴率はさして奮わず、
さしもの永遠に価値のある名作でも、
現代の若い視聴者には響かなかったらしい。
まさに「13日の金曜日」
放送中にTwitterをながめても、
的外れでピントのずれたカキコミしか見かけない。
なんでと勘ぐるに、
YouTubeが若者や子供たちの動画視聴環境をすっかり変えてしまったらしく、
HIKAKIN(ヒカキン)やマックスむらい(村井 智建)と言った、
ユーチューバーの動画配信のパターンじゃないと、
受け付けなくなってしまっているんでは?
こちらはユーチューバーのゴミ動画なんて意地でも見ないし、
あんなのと『火垂るの墓』をいっしょにすんなと、
嘆かわしく腹立たしい思いだが、
子供にとって認識は正反対なんだろう。
そもそも映画鑑賞のルールが身についてないYouTube世代が多く、
映画館でもマナー違反が目立つ。
現役アイドルでも映画から足が遠のく層がいて、
『火垂るの墓』と彼女は直接関係ないが、
ラジオ番組での断片的な証言を拾うと、
「映画館で映画を観ることはほとんどない」
「展開が冗漫に感じられ、早く結論を知りたいとイライラして集中できない」
「エンドクレジットが流れ始めたら、終わりなんだからさっさと席を立つ」
「その部分にオマケ映像があったり、追加のオチがあることなんて知らなかった」
——等々、
動画鑑賞のルールがすっかりユーチューブ基準で、
映画鑑賞の基本姿勢がまったく備わっていない。
つまり、映画ファンが「こんなの、ちっとも面白くない」
と感じる部分が面白いと反応し、
逆もまた然(しか)りなんである。
これじゃあなあ。
『ラピュタ』のテレビ放送で「バルス!」と一斉コールのような、
イベント性が皆無の『火垂るの墓』は、
幼稚すぎる視聴者には「猫に小判」「ブタに真珠」なのかもね。
更なる問題は、
YouTube世代は、
動画から短時間で瞬発的に情報収集するクセがついてしまい、
明らかな事実誤認や曲解、
印象操作に、いともあっさりと引っかかりやすい。
大阪府知事や大阪市長時代の橋下徹が、
意見の対立する相手をやり込める動画に、
「ハイ論破」「(攻撃された相手の)涙目ざまあ」等の、
間違った支持のカキコミがひっきりなしで、
それが、現自民党政権の「言い逃れ」や「論点ズラし」までの支持肯定につながってしまい、
長年にわたり、
正当な抗議の方が否定され続けた。
この絶望的な事態を変化させたのは、
東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者なのに、
中には、スガを支持して、
望月記者を否定する意見があるから信じられない。
最近こそ、
これほど事実が露見した今ならさすがに…
と思ってたのに、
ケント・ギルバートと共に加計学園の客員教授に就任したことからも、
立場があからさますぎる
上念司や、
日本会議系のネトウヨ議員、
和田政宗の、
与党擁護、野党攻撃にあっさりなびくバカがいることに驚き、呆れる。
こういう人たちに、
『火垂るの墓』が理解できる日なんか、
永遠に訪れるはずもないだろう。
追悼映像に出て来た、
九段下の昭和館は、
場所こそ靖国神社の隣にあっても、
生前の高畑勲監督が訪れたことからもわかるように、
反戦の志が貫かれた立派な展示館で、
一度は訪れる価値がある。
昭和館が心に響くか、ポカンとするかで、
その人がまともか、狂っているかが判定できる。
もしも昭和館を訪問する人は、
かなり最上階の、ガラスケースの中の作文を、
読み逃すことのないように!
あなたの心を映し出す鏡です。