デアゴスティーニ・ジャパン (2018-01-04)
デアゴスティーニ・ジャパン (2018-01-23)
デアゴスティーニ・ジャパン (2018-01-30)
デアゴスティーニ・ジャパン (2018-02-06)
どんどん新作公開に対応してるようだが、
私はそんなに頻繁に映画を観ない。
「映画秘宝」のベストで観たのが半分くらい、
トホホはもっと減る。
「生賴範義 展」
を鑑賞した2018/1/7に、
3回目の『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』
2D吹替版を、
109シネマズ木場 シアター7 I-9で観た。
かれこれ6回目の記事なため、
⑤IMAX 3D『最後のジェダイ スター・ウォーズ』ネタバレビュー
さすがに出がらし状態なので、
鑑賞記は最低限にとどめ、
『最後のジェダイ』の総括をしてみたい。
前に「くり返し鑑賞でも眠くならない」
と書いたが、
この動画評によれば、SWは娯楽アクション作なんだから、アート映画みたいに、
「鑑賞を重ねるごとに味が出る」作りにするなんて間違っている。
「生賴範義 展」でテンションが上がった後、
所用で木場と高円寺を往復したら、
上映時間ギリギリに到着。
さすがに疲れて、
中盤に少しウトウト。
まずは何より、吹替版の気付いた点。
●ルークがカイロ・レンに語りかける言葉、
「殺されたハン・ソロも、常におまえを見守っている」
姿を消す直前に
「また会おう」
で、
『エピソード9』がある程度予測できる。
●いまいちあいまいだった、
ファースト・オーダー対レジスタンスの構図が、
最後にファースト・オーダー対反乱軍(オリジナル三部作の図式)に落ち着く。
●「弟子は師を超えていく」
「未来は若く新しいものに」
という主張がより明らかに。
●BB-8は、頭部とボディが構造的に接続していないが、
冒頭の戦いで、Xウイング機体内の不調な回路に頭突きを喰らわす場面では、
頭部はボディ内部からの棒で突き出されており、
このドロイドには頭部の本来の置き所、
いわゆるホームポジションがあるんだと判明。
●太古のジェダイの書は、ファルコンの収納引き出しの中に、
1冊ではなく全冊まとめてあり、
フィンがローズにかける寝具を探す時に画面に映る。
もう一つ、訂正情報を付け加えると、
アクトー(Ahch-To)は高さの異なる二重太陽の惑星なので、
ルークの臨終間際の二つの太陽のワンカットは、
彼が育ったタトゥイーンを思い出す心象風景ではなく、
その場の実際の風景だった。
ここらへんはざっと流して、
公開たちまちから今も尾を引く、
『最後のジェダイ』への、ファンとマニアの猛烈な反感について。
「思ってたんと違う」というヒステリックな反応の多くには、
そちらに賛同するよりもむしろ逆に、
「よくぞ誰も予想できない作品に仕上げたよな」
とは思う。
『フォースの覚醒』公開時の「ホビージャパン」記事、
●レイはカイロ・レンの妹で父はハン・ソロ、母はレイア
を筆頭に、
陰鬱なマイク・ゼロ(Mike Zeroh)のたび重なる妄言
●レイは腕を戦いで切りおとされ、機械の義手に置き換える
もハズレ、
●「カイロ」は、スカイウォーカーとソロから。
●スノーク(Snoke)はSith No One Knew Existed(知られざるシス)
——も、否定こそされずとも、
まったく映画本編では触れられなかった。
タイトルで引き寄せる技のあるユーチューバーも増え、
「なんだ、またこいつかよ」
という苦い経験を積みながら、
自分なりにざっとまんべんなくチェックした、
YouTubeのネタバレ予想記事がことごとく外れた一方、
「衝撃の」と言う謳い文句から予想された、
トンデモ展開予想もまた外れた。
別の時期に異なるソースから聞いたウワサには、
●レイが暗黒面に堕ちる
というのがあり、
最新版では、
●レイは『最後のジェダイ』劇中で命を落とす
という、さらなるトンデモさえあった。
誰の予想も当たらなかったのは「さすが」だが、
それはさておき、
「いやあ、これは思いつかなかったよ。まいりました」
ではなく、
「こんなのありかよ。ふざけるな!」
と反感を抱かれたのはなぜか?
まずは何より、
「レイの両親はガラクタあさりで、飲み代がわりに娘を引き渡した」
というのは、ファンの二次創作からの拝借らしい。
読んだ記憶が飛んだのか、
本編に採用すれば、アイディアの持ち主が喜ぶと考えたのか…。
↓この動画では、
先行きが見えない指針の無さ(Directionless)が、
『7』で築いた土台をぶち壊し、
もはや『8』が文字通り「台なし」なだけでなく、
すでに『9』にも乗り切れない
——と分析している。
冷静で面白い見解をかいつまむと、
↓この動画では、
54:00あたり。
無重力で上下がないはずの宇宙空間なのに、
地球の地上と同じ物理法則が働く、
SWフシギ宇宙なら、
レジスタンス・ボマーから
「投下」された爆弾は、
ドレッドノートが船首(艦首)を下げさえすれば、
ゴロゴロと「前に」転げ落ちてくれたはずと分析する。
一方、他とは全く違う見解が
↓これで、
『最後のジェダイ』は、
「お気に入りのスープを飲んでたら、
すくったスプーンの中に髪の毛が混ざっていた気分だ」
と形容し、
「また髪の毛が混ざってるんではとビクビクせずに、
おいしくSWスープを飲むための考え方」
を提案している。
この人の主題は映画の「シンボリズム」
つまり映画の筋立てや設定は、
作り手が観客に訴えたいことが伝わるように、
意図的にそうなっている=象徴されている、
という考えに基づくもの。
自分なりの言葉で説明し直して、
11:20あたりからの要点をまとめておこう。
「誰もが特別な存在で、その人ならではの個性(資質や才能)=自己実現の可能性を秘めている。
自分のなりたいものになりぬく自己実現の自由があるから、気が済むようにやれば良い。
もしもそれができない場合、問題はその人自身にではなく、自己実現を阻む社会体制の方にある。
不公平や不平等がはびこったり、いびつな体制に迫害されたり、親から受けつぐ立場(身分)が社会的弱者の創造性を制限する」
「この考え方だと、個人に責任や問題がないので、もはや修行だとか鍛錬という自分磨きの必要がなくなり、社会的抑圧から解き放たれれば、すんなりと自己実現にたどりつく」
レイが完全無欠で、目立った欠点や弱点がない一方、
サイテーな身の上が原点なのは、
この構図を反映するためなのだろう。
この「逆転の構図」を理解できると、
『最後のジェダイ』への拒絶反応も、
いくぶんやわらぐのではないか。
思慮に富む考察だが、
そこまで考えて『7』と『8』が作られたというのは買いかぶりだと思う。
この分析どおりに『最後のジェダイ』が熟考の末の産物ならば、
SWファンにこれほどの反感を抱かれ、
嫌われなかったのではないか。
そもそも、人は何に対して怒るのか?
あるいは、誰かに猛烈に怒られた場合、
それはどうしてだったろう。
おそらくは、
ある人が大切にしていること、考えている領域に他者がズカズカと立ち入り、
シッチャカメッチャカにぶち壊すとか、
ないがしろに扱ったりすれば、
守る立場の人は猛然と抗議し、怒ると思う。
『最後のジェダイ』がこれほどSWファンの反感を買ったのは、
つまりはそういうことで、
SWで誰もが大切にしてきたことを
「いいじゃん、そんなの別に」
とぶち壊しまくったわりには、
では代わりにあてがわれたものがオリジナルを超えるかと言えば、
どうにも見劣りする、お粗末なものだったからではないか。
とにかくライアン・ジョンソンが提供したモノは、
ことごとく浅知恵で無造作で雑、
海岸沿いにたたずむ奇怪生物から「搾乳」し、
観客は笑っていいのか戸惑ってドン引き。
しかも悪趣味。
「そういうのがアリなのはわかるが、
なにもよりによってSWでは見たくない」
ものばかりで、
「変えるのは歓迎でも、
こういう変え方はちょっと…」
と幻滅された。
中国では、公開わずか数週で、
あまりの不入りに上映打ち切り。
『ワイルドスピード』『トランスフォーマー』最新作がヒットするお国柄で、
SW熱は低いとは言え、
本作でしかけたこと、
すなわち、
重要キャラに中国/アジア系女優を起用したことが、
中国市場にまるで響かなかったのが大問題。
世界中が「なんで?」と疑問視した、
ローズ・ティコ/天童よしみ(ケリー・マリー・トラン)が、
中国で効果が出なけりゃ、どこで出る?
中国のガッキーこと、
栗子(龍夢柔=ロン・モンロー)さんの発掘がテレビ番組だったように、
中国だって、テレビや映画の主役は美男美女。
「フィン役がウィル・スミスだったら、SW新作も見るかも知れない」
という感覚があたりまえの国に対して、
ケリー・マリー・トランは、あまりにナメたキャスティングでは?
もしもローズ・ティコ役が栗子さんだったら、
『最後のジェダイ』も、
まだ中国で公開が続いていたことだろう。
ようやくというか、
脚本/監督のライアン・ジョンソンへの糾弾や責任論とは別に、
プロデューサーのキャスリーン・ケネディを疑問視する声も急増中。
作品がダメなのは、全てが監督のせいじゃない。
たとえばSWのトイは売れ行きが落ちまくっているが、
この責任は、キャスティングミスと、
「ローズのブサイクフィギュアなんて、誰が買うねん?」
アメリカ本国では、在庫処分でたったの1ドル!
ひとえにデザイナーのセンスの無さに起因しており、
立体感の凸凹に乏しい薄っぺらな二次元的デザインに、
ひっかき傷みたいな筋彫りが走っているだけでは、
カイロ・レンのTIEサイレンサーとか、
レジスタンスのスキースピーダーも、
セールならともかく、
正価で買う人の正気を疑う。
配下のダメデザイナーたちなのは明らかで、
これは新三部作の『1』『2』(ついでに『3』も)から一向に改善していない。
『2』(2002)で解任されたダグ・チャンは、
『7』(2015)からの復帰について、
「自分の創作的自由を阻む障壁(プロデューサーのリック・マッカラム)が取り外された」
なんて都合の良いことを言ってるが、
自己鍛錬や精進もなしに、問題解決のスキルを習得しないままでは、
周囲の環境が改善されただけで、
事態打破の実力が身につくわけがない。
左から『ローグ・ワン』(2016)のAT-ACT、『最後のジェダイ』(2017)のAT-M6、『ジェダイの帰還』(1983)のAT-ST、『帝国の逆襲』(1980)のAT-AT。
ということを、
本ブログの開設以来、
なんどもくりかえし訴えて来たのに、
私がデザイナー志望だったのにかなわなかったイキサツから斜め読みして、
「ダグ・チャンへの羨望から愚痴っているに過ぎない」
という屈折した「2ちゃんねる的」認識には、
ほとほとイヤな気分を味わわされた。
私が猛然と腹が立ったのは、
自分が大切にしていること、考えている領域に他者がズカズカと立ち入り、
シッチャカメッチャカにぶち壊すとか、
ないがしろに扱われたから、
守る立場のこちらは猛然と抗議し、怒ったわけよ。
そしたらついこの前、
2015年10月19日の記事(復帰の経緯/『フォースの覚醒』に期待できない!〈その4〉)に、
英語のコメントが!
いわく、
先ほどのシンボリズムに話を戻すと、
私は「大成しないのは社会の仕組みのせいだ」などとひねくれずに自己鍛錬や修行を行い、
問題解決の技能を習得したが、
リドリー・スコットですら、「創作的な自由を発揮できる体制にない」とそっぽをむき、
キャスリーン・ケネディ支配下のルーカスフィルムが、
「そうなってない」状況はオレの責任じゃないだろう?
オレの抗議や作品批判が、
自分がやれなかった妬みが生み出すウップン晴らしだとしたら、
ついに、49パーセントまで落ち込んだ、
一般客の否定意見も全て、
自分がやれないことへのウップン晴らしとなるんでは?
あるいは
『フォースの覚醒』では、
ジョン・ウィリアムズの音楽が生彩を欠いた。
と評した人は全て、
自分がSWの音楽を担当できなかった腹いせだなんて、
どこのバカが曲解するのか?
原因の特定が明らかなのに、
問題人物がのさばり続ける、
ルーカスフィルムの腐敗体制が、
『最後のジェダイ』で噴出したといえよう。