今回の『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』(以下ジェネシス)の予告をみて感心したのは、
2001年版『PLANET OF THE APES/猿の惑星』が、
1968年の1作目『猿の惑星』のリメイクだったのに対して、
新作『ジェネシス』は、
シリーズの谷間にあって誰も振り返らない、1972年の4作目『猿の惑星/征服』のリメイクになっているところである。
そもそも1作目って、そのただ一度きりしか通用、成立しない寓話で、最後のオチがある限り、厳密にはリメイクどころか、続編すらありえない話だった。
※ここから1作目のネタバレ
というのも、エンディングでそれまでまじめに語っていた話を全部チャラにしていて、
「おれは(地球に)戻って来てたんだ…」
「人間はとうとう(核戦争を)やっちまったのか!」
と主人公テイラーは最後に慟哭するが……
ラストの衝撃は、「そうだったのか」と同時に、
↑いかに2000年後の地球が変わり果てていようとも、
↓宇宙飛行士たるもの、空の星を見れば、ここが地球だとわかるはず。
↓もっともはじめの方で、太陽を別の恒星(ベラクルス?)と誤認する描写は一応あり、
↓不時着してから、囚われの身になるまではずっと日中で、
その後はずっと、
↓屋内の檻の中だった(=夜の星は見られなかった)ということになってるらしい。
↑とはいえ最後にようやく、「地球に戻ってきた」と悟るのもマヌケな話で、サルどもが英語を話し、
↑アルファベットを読み書きする時点で、その星は地球に決まってんじゃん!
「そういう(掟破りの)オチかよ!」でもあったから。
※1作目のネタバレおわり
2001年版も、途中までは別の話を展開しているようで、
最後のオチ、「実は地球は猿の惑星だった」は、結局同じ。
↑エイプラハム・リンカーン(Aperaham Lincoln)
この筋書きは、ピエール・ブールの原作の構成をなぞらえている。
しかしつくづく、2001年版にはガッカリしたよ。
そもそもこの企画は、オリバー・ストーンやジェームズ・キャメロンにたらいまわしされて、
ティム・バートンには、お下がりで回ってきただけ。
サルをCGにせず、従来通りの特殊メイクで行こうと決めたのもバートンで、
↑脚が長く腰高のアメリカ人に演じさせると決まった段階で、
↓腕が長く、短足のサルのプロポーションは望むべくもなくなった。
長期休暇を考えていたリック・ベイカーをかつぎ出したまではいいが、
いかにもやっつけ仕事に終始してしまい、製作の成果と言えば、
↑それまでの恋人、
↓リサ・マリーに代わり、
↓ヘレナ・ボナム=カーターと、
バートンが知り合うきっかけになったことぐらい。
そんなの、観客には何の恩恵もない。
つい先日も、ディズニー幹部に、「話の中身のない映画」の例として、「アリス・イン・ワンダーランド」を引き合いに出されてしまったバートンだが、質を追求する時と、商売と割り切る時の落差が激しすぎる。
それは別にバートンに限ったことじゃなく、スピルバーグだってジョンストンだって、大なり小なりやってることだが、1999年のルーカスの『エピソード1』がボロクソ言われたのに、
↑ようやくスター・ウォーズを過去に葬りうる可能性のあるルーカスの新作、『レッド・テイルズ』は、2012年初頭に公開!
↑これと比べりゃ、先日完成が報告された、『エピソード1』の3D版なんて、もうどうでもいいよ、はっきり言って!
バートンの『猿の惑星』は、あまり叩かれないのは、なぜだろう?
「アリス」の中身のなさには、『パイカリ』以来のディズニーの意向、「とりあえずジョニデを出しときゃヒットする」という見込みも反映されてるんだろうが、
話をようやく『ジェネシス』に戻すと、
スター人気に全く頼らず、もっぱら話の中身で堂々と勝負しているところがすばらしい。
『ジェネシス』を見に来る客は、
ジェームズ・フランコ目当てでも、
またしてもドラコ・マルフォイと似たり寄ったりの、
↑陰険な役回りのトム・フェルトン目当てでもなく、
すっかり手垢のついた感のある本シリーズを、どれだけ斬新なアイディアと、最先端のデジタル技術で蘇らせてくれるかという、期待と興味にこそお金を払うわけだから。
こういう、プロット/ストーリー主導の作品のヒットが続けば、「話はどうでも良くて、見せ場だけあればいいんだよ」なんて傲(おご)った輩(やから)の迂闊な発言も、息を潜めるようになるだろう。