<演奏>
ヴァイオリン:亀井庸州 ゼフィロス:曽我部清典
篳篥:中村仁美 声:川島素晴 ティンパニ:神田佳子
1994年に始め、4年間継続した作曲家同人「現在形の音楽」の、1995年の公演のために作曲。
(「現在形の音楽」は、1994年に藤枝守、1995年に近藤譲、1996年に野平一郎、1997年に松平頼暁に新作を委嘱、1995-1997の3回は、ゲスト作曲家の個展も併催した。)
(「ポリプロソポス」はギリシャ語由来なので、この当時はギリシャ文字で表示していたが、現在はそこにはこだわっていない。)
このときの上演は、ヴァイオリンが佐藤まどかであったが、他は今回と同じメンバーだった。その後2013年に「eX.(エクスドット)」で開催した個展で18年ぶりに再演、その折は今回と全く同じメンバーでの上演であり、今回は、それからさらに10年ぶりの再演ということになる。初演から28年、同じ顔ぶれでの再演ができていることはなかなか凄いことと思う。
1995年の「現在形の音楽」の前年、1994年の「現在形の音楽」立ち上げ公演で発表したヴァイオリン独奏曲《夢の構造 III》(1994)により、今も掲げる「演じる音楽」(音の連接ではなく、演奏行為の連接によって作曲する方法論)を確立した私は、その後発表した《ポリプロソポス I》(1995)により、その概念を3つの構造視点に発展させた。
(このあたりの流れや「演じる音楽」そのものについては、こちらのエントリーを参照されたい。)
本作は、その3つの構造視点を常に行き交うような体験の可能性を探求したものである。発音原理を異にする5つの楽器(声)は、さらに、グリッサンドが得意であるという共通点を持つものの、その実、グリッサンド行為をめぐる視覚性において著しい差異がある。つまり、グリッサンドの体感が、視覚との連動によってなされる度合いが異なることで、それぞれの楽器により奏でられる現象の認知の状況が変わる。一見ナンセンスな様々な演奏行為も、それぞれの楽器間での同義的解釈の結果であるなど、演奏行為の視点から意味を斟酌することができるはずだ。
・・・といった記述は、当時発表したプログラムノートの1割程度の内容である。
以下に、当時のノート(ワープロ原稿なので画像データとなっている)をそのまま掲載する。
さて、、、。
23歳の若者が書いた文章、気負った感じで苦笑いするしかないが、しかしこのとき考えたそのままが、この作品には反映している。
固い文章の後なので、最後に余談を。
自分のパートは、当時できたことを全部盛りで書いてあり、28年を経ての上演、少なくとも自分のパートはかなり大変であった。(他の皆さんが当時と変わらずやってのけているのはさすがとしか・・・。)
とりわけ、「ブリッジをしながら発声」というのは、実に演奏困難であり、1995年は、倒れながらブリッジする、ということができたのだが、2013年の時点で既に、寝た状態からのブリッジしかできなくなっていた。
今回、当初はそれすらできなくなっていたのだが・・・。
少なくとも、寝た状態からのブリッジはできるようになった。
10年前からの劣化は避けられたということで・・・。
→曲目表
→4)ポリプロソポス III(1995)*本投稿
→6)ひひきちり ちちきりひりり ききちりひ(2023/初演)
→7)ギュムノパイディア / 裸の若者たちによる祭典(2016)