「演じる音楽」

 

 1994年に発表したヴァイオリン独奏のための《夢の構造 III》で私は、「演じる音楽」というコンセプトを確立し、以来現在に至るまで、常にこのテーゼを掲げて創作活動を継続してきた。

 

 従来、音楽とは「音」の連接によって構造をなすものであり、演奏とはそれを具現するための手段であった。それに対し「演じる音楽」では、結果的にどのような音が出るかよりも、どのような行為が作用して発音するのか、ということをまず考える。つまり、「演奏行為」の連接が、結果的に鳴り響く音を導くのである。

(「演奏行為の連接」による音楽作品は、V, グロボカールやM. カーゲルの諸作品にもそうした例を見出すことができるし、実際、そうした諸作品の多大な影響を否定しないが、ここでは、そうした先行例を更に一般化した概念として「演じる音楽」を提唱するものである。)
 具体的には、「一行為」の単位ごとに、演奏行為を巡る様々な要素(例えば管楽器なら、運指、呼吸と運舌、構え等)のそれぞれが、どのように伝統からの距離をもっているかが測られる。

 ヴァイオリン独奏のための《夢の構造 III》を例にとるなら、まず、弦楽器における演奏行為は、調弦、運指、運弓、姿勢……といったパラメーターに分解可能である。

 

 その中の例えば「運弓」であれば、次のような具合に、伝統的な奏法から非伝統的な拡張奏法への階層を設定できるであろう。

 

 通常の運弓(伝統的な奏法)

  ↓

 スル・ポンティチェロ(駒の近くで弾く)

  ↓

 コル・レーニョ(木の部分で弾く)

  ↓

 特殊な持ち方で圧力を余分にかけるノイズ奏法

  ↓

 弓を空中で振り回す(最も非伝統的な拡張奏法)

 

 演奏者にとって、伝統的奏法から離れれば離れるほど、より緊張が生じる。逆に、拡張された奏法から伝統的な奏法に移行すれば、そうした緊張は解かれる。その度合いが、運弓というパラメーターにおける伝統との距離と認定され、その移行によって演奏する身体における緊張と弛緩が常に生じることになる。(そのようにして体感される時間は、伝統的な和声語法における緊張と弛緩が織りなす時間になぞらえることもできる。)

 このように、演奏行為の分析・位置付けを様々なパラメーターで行うことで、あらゆる演奏行為を様々な観点で「伝統との距離」によって定義することができる。

 そうは言っても、聴き手はもちろん、その楽器の演奏者であっても、これらのパラメーターが果たして正確で客観的な数値的「距離」を持った分析をもって計れるものかといえば、実際には無理であろう。(上記の運弓における演奏行為の階層ですら、奏者によって順序については見解が異なるかもしれない。)ここで目指すことは、伝統と非伝統の階層についての厳密な定義ではなく、あくまでもそういった視点を持って演奏行為を体感することである。

 聴き手は、そのような視点をもってそこに繰り広げられる演奏行為を注視することで、その行為者に移入し、体験を共有することができるはずである。端的に言うなら、「あたかも自分が演奏しているかのように」鑑賞する(演奏行為の共有体験化)ということである。

 このような体験を通じて、演奏行為の全瞬間を、全感覚的に「活きた時間」として共有できる……「演じる音楽」が目指すものは、そのような時間体験である。

 


 

「演じる音楽の三つの構造視点」

 

 1994年に《夢の構造 III》で「演じる音楽」を初めて意識的に実践した直後、1995年の《ポリプロソポス I 》では、「演じる音楽」を巡る三つの構造視点を提唱、実践した。

 

■川島素晴《Brain Flute Cycle》*14:53からが《ポリプロソポス I 》(1995)

 

○視点A「線的構造と同期和音」

 この視点では原則的に拡張奏法は用いられず、主たる楽器が伝統的な奏法のみで線的構造を示す。特徴的な音型のまとまりによるグルーピング(K. シュトックハウゼンの「群の音楽」に示唆される)で分節され、音の進む先の予測とその異化(近藤譲による「線の音楽」に示唆される)によって得られる聴取体験が生じる。

 このように主たる楽器によって示された線的構造に、他の楽器は完全に同期随伴して和音構造を示す。ここでいう和音構造とは、和声的な連結によって形成されるシンタックスではなく、線的構造にどの程度の協和的、あるいは不協和的な縦の和音が同期して存在しているかということそのものである。一連の音型ごとに同一の音程関係によって形成され、各音型の分節を明確にするとともに、その協和度合が元の線的構造におけるそれと相似であったり、異なっていたりすることで、それぞれのニュアンスを補強、或いは反転させる。(上記動画の14:53〜16:12、つまり《ポリプロソポス I 》の冒頭部分を参照。)

《ポリプロソポス I 》では、線的構造は一定のテンポで示されているが、その後の実践、とりわけ独奏曲においては、線的構造を、例えばアルペジョ、跳躍音型、順次進行等のように、様々な特徴を持つ音型で次々と示していき、その際に各音型を「なるべく速く」演奏(ただしそれらの音型の特徴を認知できることが前提)することで、結果的に音型ごとにテンポが異なるものとなる場合が多い。そういった場合、それらの音型はその音程構造以上に奏法としての側面が強調され、聴覚的な「音型」である前に「演奏行為」として認識され得るであろう。(つまり「なるべく速く」演奏することにより、聴覚的な「音運動」としてだけでなく、身体的な演奏行為にも注視することになり、「演奏行為の共有体験化」が実現し易いのである。拡張奏法が存在しないとなれば前項「演じる音楽」の定義で述べた「伝統との距離を測る」ということによる体験にはならないが、そもそもの音型に注視することで「演じる音楽」の体感をもたらすことになる。)
 例えばチャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番》冒頭の低・中・高音域と両手で和音を続けて演奏する音型等、既存の曲から特定の音型を引用する場合もあるが、そういう場合は必ずしも「なるべく速く」演奏しているわけではない。しかし、それがその楽器特有の奏法に基づく音型であれば、一種の「演奏行為」として認識され得るであろう。

 

■川島素晴《Presto Capriccioso》(2004)

(最初、ヴァイオリン・ソロはパガニーニで開始し、続くピアノ・ソロはチャイコフスキー的な和音で開始する。)

 

○視点B「音色/リズム構造とポリフォニー」
 この視点では様々な奏法を用いることで様々な音色が提示される。そのとき、示される各音色は、同種の音色ごとに繋がりリズム構造を形成する。逆に言えば、同種の音色的なネットワークを通じて一連の線として認識することで、その連接をリズム構造として認知する。主たる楽器が示すものを、随伴する楽器は音響転写(模倣)する場合が多く、呼応、追走等の構造を示す。(上記《ポリプロソポス I 》動画の16:19〜17:49を参照。)

 ここでいう模倣は、例えばスペクトル分析を経た完全な模倣(近年はそういったオーケストレーションをシミュレーションできるソフトウェア等も存在しているが)を意味するのではなく、あくまでも作曲者の耳と手作業に基づく。むしろ、完全一致を追求するよりも、不完全な(もっと言えば、無理矢理なこじつけ、カリカチュアライズや誇張、歪曲を含む)場合に、一層、聴取の興味を増すものと言える。

 これらのリズムネットワークが同時的に複数存在する場合は、ポリフォニックな構造となる。ポリ構造を伴うことで差異が明確になり、それぞれの音色のネットワークのリンクがより強化される効果を持つ。

 なお、この視点Bの考え方は H. ラッヘンマンのそれに近似であるが、「演じる音楽」としては、より平明なパルスで明確なグルーピングを成すことで、より体感的な時間を形成することに配慮している。それにより、ラッヘンマンのそれ(拡張的な奏法により得られた音響に対するアプローチ)とは異なり、そういった拡張奏法を実践する身体への眼差しを強調する姿勢となっている。

 

○視点C「演奏行為とヘテロフォニー」

 前述の《夢の構造 III》(1994)で実践した、元祖「演じる音楽」の視点。前項に詳述したように、純粋に「演奏行為」の連接として音事象をとらえていく。

 アンサンブルの場合は、主たる楽器の演奏行為を、随伴する楽器がフォロウし、それぞれの楽器なりに「同じこと」を行おうとする。しかし、楽器の構造が異なれば、結果も異なる。(上記《ポリプロソポス I 》動画の16:19〜17:49を参照。)

 例えば上記動画の19:27のところを例にとると、ここではフルート奏者が楽器を構えた後に突如くしゃみをする。それはフルート奏者にとっては発音する呼気自体の異化であるため、マリンバ奏者はバチを後方に投げ、ピアニストは構えた手を太腿に落とすといった、「それぞれの楽器における発音行為自体の異化」を行う。(クラリネット奏者は咳こむという、比較的フルート奏者に近い異化が生じる。)

 このようにして繰り広げられる演奏は、一演奏行為単位で緩く追いかけていく「ヘテロフォニー」の状態となる。(ここではこの「ヘテロフォニー」の語は、音響結果としてのそれではなく、本来的な意味である合奏様態としてのそれとして用いられている。)

 


 

「笑いの構造」

 

「演じる音楽」では、以上三つの視点のいずれか一つ、或いはこれらが融和したものとして、「演奏行為」をとらえていく。そしてここでの演奏行為の配列は、しばしば、「笑いの構造」に依拠して行われる。

 アリストテレスは、ヒトを「アニマル・リデンス(笑う動物)」と評した。人間は知的な動物であり、その結果として「笑う」という行為がもたらされている。「笑い」は知性の結実であり、人類文化の根幹である。だから私の作品では、直接的に「笑う」ことを誘うような瞬間も多い。

 実際、「笑い」のみを素材とした音楽作品《Das Lachenmann》というシリーズも存在する。

 

■川島素晴《Das Lachenmann IVb》(2017/2020)

 

 しかし「笑いの構造」とは、直接的な「笑い」を誘発するもの(あるいは上記のように「笑い」そのものを素材にしているもの)のみを意味しているわけではない。

 例えば、一般な笑いの構造として代表的な「持続とその異化」は、「笑い」を引き起こす時間構造であると同時に、あらゆる瞬間の意味の充実をもたらす構造でもある。それはクラシック音楽(とりわけJ. ハイドンの音楽)にもしばしば確認できるし、ラッヘンマンや近藤譲の音楽にも同様の時間構造を確認できる。

 更に、前項視点Bのように「模倣が誇張を伴うとき興味を増す」という現象についても、文化的コンセンサスを前提として「物まね」を面白いと思うことと同義である。

 かように、時間、意味、社会性、歴史性等、様々な観点から「笑いの構造」を考えることが、作曲の前提となっているのである。

 端的に言うなら、「演じる音楽」に基づく作曲とは、「笑いの構造」を前提に「演奏行為」を配列することである。更に平明に言うなら、自らが面白いと思う通りに演奏行為を紡いでいく、ということに他ならない。

 


 

「視覚と聴覚の齟齬」


 音楽作品とは一般的に聴覚的な現象を構築するものである。しかしながら、現代音楽の歴史においては、M. カーゲルや、D. シュネーベルが実践したムジークテアターの系譜をはじめとして、様々なかたちで「視覚と聴覚」の関係が探究されてきた。
「全感覚的な体験」を前提とした「演じる音楽」では、聴覚のみならず視覚要素もその作品内容として重要な意味を持つ場合が多い。「視覚と聴覚の齟齬」とは、端的には、視覚的情報と、聴覚的情報に食い違いが生じることである。本来同期するはずの両者の関係に「齟齬」を生じさせることにより、それぞれの知覚を意識的に複数のレイヤーを持つものとして扱い、視覚的体験をも、音楽作品における時間構造を体験する手段として重視する。

 このことを意識的に実践した最初の作品は、テーブル一つを叩くパフォーマンス作品《視覚リズム法 I a》であり、「演じる音楽」を最初に実践した《夢の構造 III》と同じ1994年12月に発表された。両手両足と声による5声のポリリズムが、周期的に打つ動作の連続性に対して非周期的に発音が抑制される(視覚的に周期的パルスを叩いているかのように継続した腕の動きがなされる中、実際に叩く瞬間と、実際には叩かない瞬間がある)ことで視覚的なリズム構造と聴覚的なリズム構造が異なる状態を提示する(聴覚的には周期的パルスには聞こえない)ことに始まり、この作品の中で展開する様々な事象は、全てこの「視覚と聴覚の齟齬」による構造として説明できる。

《視覚リズム法 I a》スコア全文

 

■川島素晴《視覚リズム法 I a》(1994)

 

 こうした実践をアルト・フルートの独奏曲として発展させた《視覚リズム法 II》(1996/99)では、運指と発音、様々な奏法やアクシデント等を駆使して「視覚と聴覚の齟齬」が探究され、サクソフォンと打楽器、アクターのための《視覚リズム法III/2つの間奏、終結を伴う変奏曲第2番》(1996)では、器楽による音楽と、それと同期するアクションとが提示される中で「視覚と聴覚の齟齬」が展開する。
 

■川島素晴《視覚リズム法 II 》(1996/99)

 

 そのような取り組みを更に発展させたものとして発表したのが、指揮者と打楽器奏者の2名のみによる《cond.act/konTakt/conte-raste I 》(1996)である。ここでは指揮者(conductor)を「cond.actor」(conductor と actor を合成した造語)と称し、演技的要素も取り込んだ動きを行う。

 そもそも指揮という行為は、歴史的に唯一、演者自身による発音を伴わない演奏行為であり、それ自体が「視覚と聴覚の齟齬」を内包している。例えば、3拍子の3拍目が必要以上に延長されたときに、指揮のアクションが予定以上に拡張されるなら、聴覚体験のみでは気付かない異化効果に注目することができる。つまりここでは、指揮そのものに内包する「視覚と聴覚の齟齬」を顕在化させるだけでも、充分、興味深い体験が実現する。

 なお、こうした取り組みが、D. シュネーベルの影響下に行われていることは申すまでもないが、ここで重要なのは、「視覚と聴覚の齟齬」による異化体験であることを強調しておきたい。

D. シュネーベル上演履歴

 

「cond.actor」の可能性を探求した作品はその後も継続的に作曲され、フルート奏者と室内楽を伴って実践した《フルート協奏曲(cond.act/konTakt/conte-raste II)》(1999)はその代表例である。複雑な変拍子の音楽を実践しようとする cond.actor と、モーツァルトを奏でようとするフルート奏者が、室内アンサンブルを奪い合う構図に始まり、cond.actor がフルート奏者を操るカデンツァ部で徐々にその立場が逆転する等、様々な仕掛けが展開する。

 

■川島素晴《フルート協奏曲(cond.act/konTakt/conte-raste II)》(1999)

 

 さらに、無伴奏「cond.actor」のための作品《cond.act/konTakt/conte-raste
III》(2007)では、発声を伴う演者一人でこのコンセプトを実行する。
 

■川島素晴《cond.act/konTakt/conte-raste III》(2007)

 

 ヴァイオリンとピアノ、cond.actor 2名による《cond.act/konTakt/conte-raste IV》(2009)では、cond.actor2名が異なるテンポを示して2人の演奏者の演奏内容が変質する等、更に複雑な関係が実践される。
 ここでは10年後に書かれた別編成版を挙げておく。

 

■川島素晴《cond.act/konTakt/conte-raste IVb》(2009/2019)

 

 6名の邦楽器奏者と6名の演者のための《手振りの遊び(cond.act/konTakt/conte-raste V)》(2010)では、cond.actor を6名の子供が担い、それぞれが邦楽器奏者を操る前半から、逆に操られる後半へと展開していく。
 そして二つの管弦楽作品からなる《管弦楽のためのスタディ「illuminance/ juvenile」》(2020)の2曲目「juvenile」では、その集大成としてフル編成管弦楽をバックに指揮者が客席側を向いてパフォーマンスを展開した。

初演当日の写真や本作についての解説など
 


 

「発話と音楽」

 

 この「発話と音楽」についての探求を開始したのは、「演じる音楽」を意識的に開始したヴァイオリン独奏曲《夢の構造Ⅲ》(1994)の作曲より少し前に遡る、発声者とティンパニのための《インヴェンションⅠ―音色と表意の可能性》(1994)からである。

 現代音楽の歴史において、H. パーチから S. ライヒに連なるアメリカ実験音楽の系譜、及び V. グロボカールからG. アペルギスに連なるヨーロッパ前衛音楽の系譜、いずれにおいても、それぞれが独自の手法で「発話と音楽」の問題を追求してきたし、彼らによってこの分野での可能性は尽くされていると言える。しかしながら、日本語の発話において、この問題に取り組んできた作曲家は湯浅譲二ら一部の者に限られており、これを開始した1994年当時は日本語の発話の音高を記譜するだけでも珍しい状況だった。(P. アプリンガーによる1998年からのシリーズ《Voice and Piano》は、著名な人物の話し声の録音をなぞるように作曲されたピアノ曲の連作だが、同時期にこうした取り組みが行われていることは興味深い。そしてその後、ヴォーカロイドの発達と普及、人工知能による滑らかな発話の研究等により、この分野は現代音楽以外、あるいは音楽以外の領域から多くの研究や実践が行われることとなる。)

 1994年に大学の作曲科における提出課題として「日本語の詩による歌曲」を作曲することとなった筆者は、それを契機に、日本語の発話と音楽の関係について探求を始めた。以来、この「インヴェンション」のシリーズだけでも、今日に至るまで次のような作品を継続的に作曲してきた。

 

■川島素晴《インヴェンションⅠ―音色と表意の可能性》(1994)

 漢和辞典から「は」と発音する文字を抽出しテキストとする。表意文字として様々な意味を持つ「は」の発音を、様々な発声方法によって発話することで意味との関係を探り、そこに様々な奏法によってそれに反応する1台のティンパニとの関係が加わる。「演じる音楽」のコンセプトにおける「視点B(音高/リズム構造とポリフォニー)」と「視点C(演奏行為とヘテロフォニー)」を先駆的に扱っている。

 

■川島素晴《インヴェンションⅡ―〈音節→単語〉と〈音高→旋律〉の連関》(1995)

 現代日本の詩人の作品から名詞を抽出し、無作為に羅列したものをテキストとする。音節の連なりが単語をなす日本語の構造と、音高の連なりが旋律をなす音楽の構造を結び、そこにヴィブラフォンによって奏でられる和音が同期する。「演じる音楽」のコンセプトにおける「視点A(線的構造と同期和音)」に基づく。

 

■川島素晴《インヴェンションⅢ―発話と模倣の位相》(2004)

 開演時の影アナウンスに始まり国会答弁に至る、様々なシチュエイションにおける文章を抽出し並列していく。そこでは大半の発話が「シュプレヒシュティンメ」として音高を明記しており、プランジャーミュートを駆使したトランペットとトーキングドラムがその発話を模倣する。

 

■川島素晴《インヴェンションⅣ―器楽音とオノマトペ》(2005)

 前作では声を楽器が模倣したが、ここでは、トランペットとコントラバスが発する楽器の音を、声が模倣する。言語に至る前の段階だが、オノマトペは言語圏によって様々な差異が生じる。ここでは、日本語の語感による楽器音の模倣を通じて、日本語のオノマトペに関する探求がなされている。

 

■川島素晴《インヴェンションⅤ》(2006)
■川島素晴《インヴェンションⅤb》(2006/08)

 発話者が次々とシラブルを示し、それに対してアンサンブルがそのシラブルを模倣する。そうやって次々とシラブルを「学習」していき、徐々に話せる単語が増えていく。器楽アンサンブルによって「あたかもそう発音しているかのように」聞こえる可能性を探求した作品。

 

■川島素晴《インヴェンション VI》(2018)

(筆者自らが作成した陶製のウドゥドラムを含め)あまり一般的ではない小物楽器多数がコンパクトに配置され、その一つ一つを鳴らし、シラブルとして解釈して、打楽器奏者自らが発話することで楽器の音色とシラブルの発音とを結びつける。基本的なアイデアは《インヴェンションⅤ》に準じるが、これまでのシリーズでは初(派生作品を除く)となる、演奏と発話を一名の独奏によって実践する作品となった。

 

■川島素晴《インヴェンション VII》(2021)→詳細

 シリーズ初の不確定作品。しかも、ここでは発話内容ではなく、声が発せられる状況そのものが日本語の文章として規定される。7つの言葉のランダムな組み合わせによって、場合によっては「無茶ぶり」が生じ、聴衆は(あるいは演奏者自身も)その演奏結果を、言葉の連節のみでは想像できかねる。そういう状況の中で演奏が展開することで、与えられた言葉と演奏の間に齟齬(あるいは適合)が生じることが、本作における「日本語と器楽の関係」の探究である。

 

 上記には、様々な派生版もある。一例として、《 I 》のソロ版を挙げておく。


■川島素晴《インヴェンションⅠc ―音色と表意の可能性》(1994/)

 

 以上の他、既述の、笑い声のみを素材とした《Das Lachenmann》シリーズ、日本-ASEAN交流10周年の委嘱で書かれ、11カ国語の挨拶のオーケストレーションで開始する管弦楽作品《シンフォニア「パローレ」》(2003)、《インヴェンション III》同様トランペットのミュート開閉を駆使した《まつだいら家。》(2001)や《ペタコ》(2018)等、「インヴェンション」と銘打たないが「発話と音楽」の問題にアプローチした作品も数多い。 

 以下の、二つの楽器がお互いにお互いの楽器音を模倣した発話をしていく作品2曲では、題名からしてそれらの楽器を融合させた造語になっており、そういった「楽器名を融合させた造語」の作品も一連のシリーズになっている。

 

■川島素晴《チュロとチェバ》(2005)

 

■川島素晴《びックスとサックゎ》(2020)

 



「Exhibition」


 思い返せば、創作活動を見よう見まねで開始した中学時代(1980年代中頃)から、拡張奏法の探求や楽器の分解演奏等、今日に通ずる試行は繰り返していた。東京藝術大学入学前、受験時代に作曲した《Exhibition Ia》(1991)は、そのような探求がある意味で究極的なかたちで実践されたものであり、後の「演じる音楽」に直結する原点でもある。ここでは、美術作品のように、時間的推移を前提としない音楽作品が実践される。立奏可能な8奏者が様々な配置で発音する各「作品」は、それぞれ30秒程度奏でられる一つの「音響」であり、且つ一つの「イメージ」である。(インスタレーション作品等との差異について一言付言するなら、私の作品は人間による「演奏行為」を想定した空間作品であるという点で、従来のものと一線を画している。)そのような「作品」を12編連ねた《Exhibition Ia》は未演奏であるが、その後このアイデアは、《Exhibition Ib》(1996)、《Exhibition Ic》(2005)、《Exhibition Id》(2006)、《Exhibition Ie》(2013)という具合に、私が室内楽作品個展を行う際にしばしば、その時々の全出演者により、それぞれ複数作品ずつ実践してきた。

 また、金管五重奏曲《その森には25の径があった》(1998)、5人の奏者のための《ソナタとエキシビション》(2010)のように、室内楽作品の一部にそのアイデアを組み込んだものもある。つまり、これは私の原点であると同時に、創作人生の全時期に及んで継続的に実践してきたアイデアでもある。

 2020年、「無音」をテーマに開催したリサイタル「川島素晴 plays... vol.2 “無音”」で初演した《Exhibition 2020》は、全編無音で貫かれたコンサートの中で上演され、このコンセプトを更に無音で実行した、ある意味で究極の作品となったが、しかしこれを見ると、このアイデアが「演じる音楽」の原点であることがよく判るのではないかと思う。


■川島素晴《Exhibition 2020》

 

 


 

「補遺」

 

 近年は、上述のような様々な視点やコンセプトを包摂、総合化し、より自由に創作に臨んでいると言える。

 上記のあらゆる要素が含まれていて、且つ時事ネタその他雑多な要素を織り込みつつ、全く新しい表現の可能性に挑んだ作品の一例として、次のものを挙げておく。


■川島素晴《山羊座のモトハルと双子座のピペットン》(2019)

 

 2017年より開始した作品個展のシリーズでの新作は、そういった意味でその時点での最大の意欲作であり、自身の中でも強く前進を意識したものとなっている。

 個展シリーズのための新作でまだ紹介していないものの中から、フルート奏者がテルミンを同時に演奏することに挑戦した次の作品を挙げておく。

 

■川島素晴《木道》(2020)

 

 また、2020年に開始したリサイタルシリーズ(「肉体」「無音」「法螺貝」「100均グッズ」といった具合に、毎回異なる題材で開催)は、その前代未聞の企画内容もさることながら、プログラミングのキュレーションについても創作の一貫と意識している。そして更に、そこで発表する新作は、その濃密なキュレーションの中にあってひときわチャレンジングな内容であることを心がけている。ここで、リサイタルシリーズで初演されたものの中で、まだ紹介していない2曲を挙げておく。

 

■川島素晴《顔の音楽》(2020)

 

■川島素晴《ほらほら、ホラの法螺がちらほら》(2021)

 

 直接的で明確な初期の頃の作品に比し、こうした作品は、一聴して上記のようなコンセプトを判別しにくいかもしれない。

 しかし、常に根幹にあるのは「演じる音楽」であり、その点では全くブレずに現在に至る創作活動を継続してきた。

 

 一貫した姿勢でありながら、常に新しい表現を拓く意識を保ち続けること。

 

 そのため、来年、自分がどんな曲を作曲しているのか、全く想像がつかない。

 

 自分自身が誰よりも一番、自分が書く新作がどうなるか、楽しみである。

 

 ・・・と、死ぬまで言い続けられるようにしたい。

 


 

「ACTION MUSIC」

 

「演じる音楽」を英語にするとしたらどうなるか。

 実は、1995年に初めて「演じる音楽」を言い出したときは、訳語を決めていなかった。

 2000年に作品集のCDを発売することになったときに、ブックレットの翻訳をつけることになり、対訳協力をお願いした後藤國彦さんと相談して「ACTION MUSIC」となり、そのままCDのタイトルにも据えた。つまり、完全に後付けである。

 このときは、音楽ジャンルで先行する例があると思わず、ジャクソン・ポロックらが1940年代から行いハロルド・ローゼンバーグが1952年に用い始めた「Action Painting」なる絵画技法の名称の延長として選択したわけだが、その後、「Action Music」には現代音楽ジャンルで色々と先行例があることが判る。

 

 恐らくこの語を最初に題名に用いたのは、G. シェルシではないかと思われ、《Action Muisc》というピアノ曲を1955年に作曲していた。

 そしてA. ルシエの初期のピアノ曲にも《Action Music》(1962)がある。

 更に、ナムジュン・パイクが1959-1962年に一連のパフォーマンスをこの名で称していたりもした。(意味や用法としてニアミス感が強いのはパイクかな?)

 この当時のこと、まだまだそういう先行例があるかもしれない。そして想像だが、ここに挙げた誰もが、互いにこの語を用いていることを知らずにいたのではなかろうか。(しかも恐らく全員が、「Action Painting」から派生させて考案したに違いない。)
 当時既に読んでいたはずの、松平頼暁の1980年代の著作にも「アクション・ミュージック」なる語が登場するが、読んだ当時はあまり意識していなかったということだろう。

 

 結論。

 行きがかり上、「演じる音楽」の訳語は「Action Music」で行くしかないし、他に良い訳語も思いつかない。

 

 何か良い案があればご連絡を。。。