昨日、《管弦楽のためのスタディ「illuminance / juvenile」》につきまして、無事、6年越しの初演が叶いましたことをご報告致します。 

一柳慧先生の選曲にはじまり、関係各位のご尽力、東京フィルハーモニー交響楽団の皆様の献身的なご協力がなければ成立しない本番でした。

特にコンサートマスターの近藤薫さんには様々な点で助けられました。

そして、ご来場頂きました皆様ありがとうございました。

 

あのようなパフォーマンスの後ですので杉山洋一さん、一柳慧さんの曲をしっかり鑑賞できませんでしたが、いずれも魂のこもった力作を鈴木優人さんが見事に初演されました。

初演を終えてみたら、鈴木さん、私の作品も上演したいとおっしゃっていたので(聞きましたよ!)、今回も全部お願いすればよかったでしょうかね。笑

 

画像は、終演後に撮影したものを東京コンサーツさんのTwitterより拝借しました。

(撮影時、一瞬だけマスクはずした状態です。)

 

サントリーホールのアカウントでは上演中の写真が掲出されました。

https://twitter.com/SuntoryHall_PR/status/1300695110896644097
https://www.facebook.com/suntoryhallJAPAN/photos/a.1887707671274209/3573055429406083/

写真、転載させて頂きます。

<第1楽章「illuminance」>

 

<第2楽章「juvenile」>1 *指揮者が客席側を向きます

 

<第2楽章「juvenile」>2

 

<第2楽章「juvenile」>3 *後半、第2の楽想(ファンファーレ)

 

<第2楽章「juvenile」>4 *終盤、奏者が徐々に退場した最後の方

 


 

既に本作については前の投稿で解説文を掲載しましたが、第2楽章「juvenile」については、ネタバレしないよう、内容についての踏み込んだ解説をしていませんでした。
初演が済んだということで、このエントリーでは、第2楽章についての補足説明をしておきたいと思います。(また、様々な反響への回答の意図も含みます。)


本作はもとより、賛否両論になることは折込み済みですので、わかって頂けない方、共感できない方などに向けて反論する気はありませんが、一つだけ嬉しかった反響をメモさせて頂くとすれば、コンサートにお子様をお連れだった複数の方から、「子どもがドハマりして大ウケでした」とのお知らせを受けたことですね。
しかも、後半に登場する木管の「タリラリタリラリ」という旋回フレーズを模倣する等、特定の音型の面白さに着眼してもらったようで、そのようなピュアな(しかし本質をついた)聞き方ができる聴衆を得たことは、望外のよろこびです。

それをきいた別の方が「子どもに受けたということは本物です」という趣旨のことをおっしゃいましたが、私が最も重要視したターゲットの心を掴むことができたようで何よりです。

 


 

様々なギミックの中、「指揮者倒れる」「楽員いなくなる」については、それらの元祖であるカーゲルの《フィナーレ》、ハイドンの《交響曲第45番「告別」》は当然踏襲しておりますが、私としてはそれらについては(最近、テレビ番組でそれらを紹介したこともあるくらいですので)、最早「常識」の範疇であり、言うなれば、「プリペアドピアノを使ったからといってわざわざケージのオマージュとは言わない」ということに近い感覚でした。

(そもそもカーゲル《フィナーレ》のいずみシンフォニエッタ大阪による日本初演を提案したのは私ですし、そういえばいずみシンフォニエッタ大阪でも上演歴があるシュニトケ《ハイドン風モーツァルト》は、「告別」由来のネタが仕込まれており、奏者退場は最早伝統的なギミックとすら言えるでしょう。一方の「倒れる」というのは、私としては指揮アクションとしてのものに限らず別作品を含めて常套手段でして、本作においてことさら《フィナーレ》を意識したわけでもありません。)
つまり、それらのことについては、オマージュの意図すらもなかったのですが、敢えて申すなら、それら元祖の作品とは異なる文脈による提示を行うことは意識したつもりです。
 

*ハイドン「告別」を、単に楽員が退場するだけのネタ作品(夏休みを求めるストライキ目的との話だけが流布しています)だと思われているフシがありますが、「告別」は、嬰ヘ短調の楽曲がコーダで突然平行調のアダージョとなり、やがて嬰ヘ長調に至って終わるという、同主調で終止する調設計になっております。多数の交響曲を作曲していたハイドンは、当時、斬新な調設定に果敢に挑んでいました。管弦楽で嬰ヘ長調という設定がいかに困難なことかを考えると、楽員退場というネタと、嬰ヘ長調による終止という前例のない調設定、即ち楽曲コンセプトとが、完全一致しています。人数が減って弦楽のみの室内楽に至ってようやく、そのような終結方法が可能なのです。そのようなことを踏まえず、私の作品をして単に「告別」と被っていると評するならば、むしろ「告別」への浅薄な見識を疑われますのでご注意下さい。

 

*また、カーゲル《フィナーレ》は、カーゲル自身の50歳の誕生日に自演指揮をしていたら倒れるという強烈なブラックユーモアが仕掛けられており、倒れてからも「怒りの日」が引用される等、そのブラックユーモアは最後まで一貫します。その文脈や意図と、私の作品における打撃音とともに生じるアクションの延長としての倒れる展開とが、同じ文脈としか映じないとすれば、ハンマーを使ったベルクに対してマーラーのパクリだと一蹴するのと同じことだと思いますが・・・。
 

様々なご感想を拝見する中で、たぶん誰も指摘しなかったこととして、「楽員によるサボタージュ」については、明確にカーゲル《ディベルティメント?》(2006)へのオマージュとして意識しました。《ディベルティメント?》は、徹頭徹尾、室内管弦楽の奏者がディベルティメントの語源である「気晴らし」を展開していく作品で、シアター要素を楽曲最後の大ネタとしてしか導入しなくなっていたカーゲルが、最晩年に達成した集大成と言える名作です。そこで繰り広げられる様々なネタの中には「楽員が演奏をサボって雑誌を読み始めてしまう」というものも含まれております。
(オーケストラのストライキといえば、フェリーニの「オーケストラ・リハーサル」を想起した方もいるようですが、その手のオーケストラ映画や舞台作品はフェリーニ以前も以後も多数存在しますので、これもまたサボタージュ行為そのものを挙げて特定の映画や舞台作品に結びつける意図はありません。それに、リハーサルや演劇の中ではなく、「音楽作品の本番演奏中に実際に生じる」という衝撃、カーゲルのそれを超えるものは無いのではないでしょうか。)

その《ディベルティメント?》の国立音楽大学における2009年の日本初演の提案も私が行いましたが、その2009年の公演は、「カーゲル追悼」と銘打ったものであり、私の《フルート協奏曲 / cond.act/konTakt/conte-raste II 》も上演した演奏会でした。《フルート協奏曲》における指揮パフォーマンスと多くを共有する今回の「juvenile」ですが、2014年の作曲当時、カーゲルへのオマージュを込めようとした私としては、「倒れる」ことはともかくとして、むしろ、このサボタージュ行為の拡張を試みることを強く意識したのです。

 

もちろんそれも、カーゲル作品が「気晴らし」の拡張であることに対して、「juvenile」においては「遊び(play)」の概念の拡張/交差という、異なる文脈ではありました。ゲームに興じてしまう楽員に、「それ以上に愉しい play を用意しますので戻ってきて下さい」という展開は、前掲解説本文にも書きました通り、「演奏」が「遊び」と分離してしまった日本語における「遊び=play」の復権という意味を端的に示す意図が含まれておりました。

2021年2月6日、《ディベルティメント?》をいずみシンフォニエッタ大阪で取り上げます。この作品は様々な仕掛けが満載で上演困難なため、日本では12年ぶり2度目、関西初演となります。演奏動画もなく、あまり知られていない作品ですが、私見ではカーゲルの最高傑作だと思います。ぜひご来場下さい。)

 


 

なお、この「楽員サボタージュ」を含めて、本当にオケの皆様にはノリノリで上演して頂けました。本番中に写真撮影ができてしまうというこの場面、その一端がTwitter等で垣間見えますので、ご紹介しておきます。

 

https://twitter.com/SaoriYoshida6/status/1300052316901392387

 

https://www.instagram.com/p/CEhGZgNJUri/?igshid=1jh4vym2lyenc

 

https://twitter.com/unkksi/status/1300010005278539776

 

ちょっとネタバレしておきますと、今回、10名ほど、タブレットやスマホ等でゲームを行って頂きましたが、ほとんどの方は、実際にはゲームを実行していたのではなく、プレイ画面の撮画映像を再生していました。ゲーム音楽が鳴ってしまうと著作権に関わってしまいますが、音楽オフモードでのプレイでも、どうしても音楽が再生されてしまう瞬間があったりしますので、事前にプレイしておいて、そういった音楽部分をカットする編集が必要でした。(なぜか演奏会の準備で、普段めったなことでは行わない、10種類ものゲームをプレイする羽目に・・・。私一人ではなく、協力も仰ぎましたが。なお、2014年当時はゲーム機を用意してもらうつもりでしたが、今回はタブレットにプレイ動画を仕込んでおくということがたやすくできたわけで、6年の間にそういうことはかなり変化していますね。)
 

コンマスをはじめ、ゲームに興じた人々は仕込みでしたが、後は、サボタージュの方法はお任せしました。本番、とても面白い結果になっていたようなので、私自身が見られなかったことが残念です。

(私自身、本番の皆さんの様子を見ておりませんので、こうして垣間見えること、ありがたいです。)

 


 

なお、このようなアイデア、カーゲルというよりはドリフターズを思い出す、という方もおられたと思います。(確かに、カーゲル《ディベルティメント?》以前のドリフネタにも、そのようなものは多数あったと思います。)

「楽員サボタージュ」についてはさておき、私の提唱する cond.actor は、ドリフターズはもちろんのこと、ダニー・ケイ、ホフヌング音楽祭、Mr.ビーン等、様々な指揮ネタ、音楽コントを研究し、それらへのリスペクトはもちろんありますが、その上で、そういったものでは成し得ない要素(「音楽家」が音響・音型とともにリアライズすることでしか表現し得ない内容)を盛り込むことで、それらとは全く異なる方向性を実行しようと考えているものです。
「ドリフの方が面白い」というご感想がありましたが、そういった方には、音楽的表現として意図した本質を聴き取って頂けなかったようです。
一方で、音楽的表現として感得して下さった方も(前述のような子どもさん達を含めて)多く見られ、安心致しましたが・・・。

*音楽学者、沼野雄司さんのツイートを引用させて頂きます。
https://twitter.com/numanoyuji/status/1300067852641120258

 

そういった「音楽的な表現内容を指揮アクションのヴァリエーションのみで伝達しきる」という意味では、私としては、お笑い方面の先人による指揮パフォーマンスよりも、井上道義さんへのリスペクトが最も強いです。
実は、本作で登場したほとんどの動きは、井上道義さんの指揮の動きを意識したと言えます。(もちろん、本家には足元にも及ばないとは思いますが・・・。)

 

それにしても、指揮者が客席側を向いて演奏してしまうという設定は(様々な音楽コントを見渡してみても)、他にはあまり無いですね。


個人的には、オーケストラのコンサートで、いつももどかしく思っている点です。指揮者の一挙手一投足を、表情も含めて「見たい」と思ってしまいます。サントリーホールのような場所であれば後方側の席から見る方法もありますが、それだとオケの音があまり良いバランスにならないし・・・。

最近はモニターで映し出すこともあったりましますが、滅多にお見かけしませんよね。
(シュトックハウゼンの《グルッペン》は3人の指揮者が客席側を向きますが、オケが背を向けてますので・・・。)

 

*前述の通り、この作品のギミックばかりに眼が奪われ、本質的な部分である、指揮アクション(音楽的身体性)と音響・音型との関係についてアクセスして頂けていないご感想が散見されましたが、もう少し、このことについては、一般聴衆にも普段から啓蒙していかないといけないのかな、等とも考えます。オーケストラ音楽を指揮のアクションを想起せずにオーディオのみで聴く習慣が定着してしまった20世紀の弊害なのだと思います。そうした環境でしか音楽に接していないと、音楽に従来備わる身体性とか、指揮アクションと音楽の連動性といったことへの眼は養われないのだと思いますが、動画視聴が一般化してきた今の時代からは、少しずつ改善されていくのかもしれません。

 


 

<「juvenile」前半部分>

 

冒頭、1音のみで1楽章、という体裁で幾つか発音しますが、この段階ではかなり伝統的な指揮の手法によりつつ、既に指揮アクションと音響の連携を示します。

 

付点リズムの木管の音型を示す左手、倍速で弦のピツィカートを示す右手に分解された次のシーンでは、次第にそれが融合する過程が描かれます。

 

その結果生成されるメロディは、実は12音(最後の1音のみ重複音)からなるものなのですが、この元ネタは、実は2011年に震災復興プロジェクトで作曲した小さな作品《グラウンド》に遡ります。

当時3歳だった(前妻との間の)子が口ずさんだ歌を聴音した結果なわけですが、それが12音になっているのです。これはつまり、子どもが口ずさむ自然な歌のようなものに、12音の旋律が生じ得ることを意味します。「12音の旋律」というと晦渋なイメージがつきまといますが、さにあらず、「愉快な旋律」も作れるのだ、という証左です。


2011年の《グラウンド》も、この旋律を様々なテンポで演奏する内容でしたが、今回は、基本テンポの80に対し、倍速の160、半分の40を設定、高中低の音域設定にテンポも速中遅と対応させ、3つに分割した管弦楽をそれぞれ充てがい、同じ旋律に異なるテンポ、ニュアンス、オーケストレーションを施しました。
(そういう意味では、この作品は「原曲:山根識」とクレジットすべきかもしれません。)


このように、同じメロディを複数のテンポで演奏する、ということだけで、子どもは笑います。実際、当時3歳だった子が、自らそのように異なるテンポで歌ってゲラゲラ笑っていたのです。
そこに見られる「笑いの構造」は、もちろん、中世、ルネッサンス、バロック、古典〜〜と、脈々と続くクラシック音楽の中にも(例えば定旋律としての拡張、テーマの拡大/縮小といった仕掛け等に見られるように)根付いたものです。そうした構造に接した子どもは素直に「笑い」ますが、大人はそれを文化的に「面白い」と感じるように成長してしまいます。(そして時折、そういう面白さを知的興味でしかとらえられなくなってしまう、あるいは、そもそも知的興味すら失ってしまう悲しい大人も多く見受けられるわけですが・・・。)

 

これが、次々とテンポを変化させて繰り返されるシーンへと続きます。
旋律途中でテンポが変わってしまうということも、子どもは素直に笑ってくれますし、事実、当時、そのようにして遊んでいました。ここではその仕掛けを管弦楽を相手に行っていくわけですから、壮大なソルフェージュコント、「高度なギャグ」(高級な管弦楽という装置を用いた冗談、という意味で)です。

 

ところで、今回、直接頂いたご感想の中で一番多かったのは、「あれ、よく暗譜でできるね、凄い!」というものでした。
はい、確かに大変でした。(作曲直後ならともかく、何しろ6年も時間が経っておりましたから、全くのゼロから譜読みしましたので・・・。)

「指揮者が次々と変化させるテンポに即応してオケが対応する」体裁に見えるように作りましたが、もちろん、全ては記譜通りに進行していますので、指揮者も間違えられません。ゲネではじめて譜面をはずしてやってみて、完奏できましたので本番も暗譜にしましたが、本番直前まで脳内無限ループで暗譜確認をすることに必死でした・・・。

 

で、興に乗じてこれを延々とやっていると、楽員が飽きてきて、前述の「楽員サボタージュ」シーンへと移行します。
(ちなみに、この「飽きる」過程もまた、子どものそれを踏まえた時間構造です。)

 


 

<「juvenile」後半部分>

 

「ゲームよりももっと面白い play を用意したので戻ってきて下さい」と懇願して開始するのが、5種類の楽想を5種類の指揮アクションで指示し、ランダムにそれを提示して5群に分かれたオケがそれに合わせていくというセクションです。

 

1)左下に向かって叩く動き=低音楽器の重厚な刻み

2)左上に向かってラッパの合図=金管楽器によるファンファーレ

3)真横に出した両手が揺らぐ=サックス、ヴィオラ等による気怠いフレーズ

4)右下に向かって激しく上下動=ヴァイオリン、ホルンの連打

5)右上で旋回=木管群と木琴による旋回フレーズ

 

これらの動きは、当然、音響や音型、テンポやニュアンスと連動しています。

前半が、テンポの変化に主眼を置いたのに対し、ここでは異なる楽想をいかにして指揮アクションの範疇で示すか、ということに特化しています。かなり逸脱した指揮アクションに見えるかもしれませんが、これらは、前述の通り、井上道義さんが実際に行ったことのある動きばかりです。

 

これら5つの楽想を上記の順で提示してから後は、順不同となります。私の中では順番を決めていましたが、オケの皆さんは私の指示に従って発音していきます。

 

そこに、ティンパニの上行グリッサンド(のけぞってしまう)、ドラをマレットでトレモロ(電気が走るように震えてしまう)、バスドラムの一撃(前方に倒れてしまう)、という3種の介入が生じることで、指揮者とオケの関係が転倒します。

(ですので、これらの介入行為によって生じる動きは、通常の指揮アクションを著しく逸脱しています。まあ、これらとて、井上道義さんならやりかねない動きではあるのですが・・・。)


バスドラが執拗に打たれて倒れ込むと、コンマスが勝手に先に進めてしまいます。
(このあたりの展開は、確かにカーゲル《フィナーレ》と同様ですが、倒れる文脈は全く異なりますので・・・。)

 

5種のモチーフが徐々に再起していくと、指揮者も徐々に復活、再びこの動きを一緒に行いますが、ここではもはや指揮者は「指揮」を行っているのではなく、オケの音に合わせた「振り付け」と化しています。3種の介入打楽器も入り乱れた8種の動きによるパターンになると、徐々にオケが退場していってしまいます。

そして、薄くなっていくオケの音響を口三味線をして補完する指揮者が、徐々に取り残されていきます。

(ここでの退場は、指揮者を操ることに成功した管弦楽が、その場を去ることで指揮者を自動人形化させる、というものなのであり、ハイドンのそれとは全く異なる意図に基づくものであることがおわかりだと思います。管弦楽を操縦するはずの指揮アクションが、管弦楽に操縦されてしまうという転倒です。)
 

最後に残ったバスドラの一撃でとどめを刺されて終了。

 

「取り残されていく」あたりの展開は、《フルート協奏曲》とほぼ同じ(ただしこちらはフルートソロとのからみなので、より細かい動きになっています)ですが、その後はまたちょっと異なるオチなので、9/17の《フルート協奏曲》実演を是非ご覧下さい。

 


 

ところで、この、最後のくだりで私が発声を伴っていたことについて、感染対策として疑問を感じられたご意見を見ましたので申し添えておきます。

 

まずもって、今回のフェスティバル全体の、オーケストラ公演におけるディスタンス設定やマスク着用の有無等は、全ては各オケのガイドラインに従っております。

 

例えば読響さんは一番慎重派で、配置も客席に張り出し、リハーサルも一回しか出来なかったようです。


東フィルさんは本番も全員マスク非着用、舞台面に全員乗る配置と、比較的緩やかでしたが、読響さんが(舞台をはみ出すことで)編成縮小を求めなかったのに対して、こちらは弦楽器の人数を減らすことが求められました。

(弦楽器の縮小が確定したのは7月下旬。開催可否も含め、全てはギリギリまで協議を重ねての開催でした。)

一方、リハーサルは全てブルーローズを提供することにして3回を確保しました。

 

それでも、芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会の終了後に組まれていた土曜日、3回目のリハーサルは、椅子や譜面台の消毒作業の関係で、リハーサル全体で2時間しかとれませんでした。

 

なお、サントリー芸術財団は、弦の縮小作業のためにかかった楽譜作成費を支払って下さいましたので、その意味では、この公演は一番、感染症対策についての対応によるコストがかかっていたと思います。

 

それぞれのオケは、それぞれなりに検証や研究をし、かなりの時間、主催やマネージメントを通じて協議をした上で臨んでいます。

 

私の作品でも、小道具は必ず自前で持参しお互いに貸し借りは無しとか、本来、ボイコットシーンでオケ中に止めに入る予定でしたが、それはNGとか、様々な点で配慮はなされました。

 

問題の、指揮者が前向いて発声を伴っていたにも関わらず、最前列にお客様がいらした点に関しましては、私も気になっておりましたので、透明衝立を立てるなど提案しました。
しかし、主催の判断で、最前列のお客様には、発声があることをお断りした上で、それでも移動なさらない場合はそのまま座って頂くことになったようです。

 

(なお、リハーサル、ゲネプロは全て、私は完全にマスク着用で行いました。あの一連のアクションも、全てマスク着用で通しましたが、最近鍛えていたおかげか、特に問題なく実行できました。本番もマスク着用のままというのは不可能ではありませんでしたが、発話部分があること以上に、やはり表情も重要な要素なので、さすがにはずさせて頂きました。)

 

このように、あらゆる面で、配慮や対応はなされた上での開催であったことは、申し添えさせて頂きます。

 

今回のフェスティバル、国際作曲委嘱シリーズは残念ながら延期となりましたが、それ以外の企画が不幸中の幸い、全てドメスティックな内容として準備されていたために、客席減少や配置調整、編成縮小等はあったにせよ、内容変更は最小限で開催できたこと、関係各位のご尽力に感謝申し上げます。