it' my america -3ページ目

居候生活の始まり

 恩師再会のドライブ旅行から戻ってわずか3日、一番頼りにしてたYさんが帰国の日を迎えてしまった。本来なら一緒に帰るべきなのだろうが、帰りを待つ人もなく、すぐにでも片づけなければならない仕事も抱えてない。なにせ売れっ子とは程遠い、自由になる時間をいかに沢山持っているかが、唯一自慢できるフリーランサーなのである。
 一緒に帰るべきか、はたまた残るべきか、ハムレットのように悩む必要もなく選んだ道は、「もう少し居候のまま
滞在しよう」ということだった。

 そう決意させたのは、旅行で親しくなったばかりのT君の誘いがあったからだ。
「よかったら、家にきませんか」
 このひと言が無かったら、多分Yさんと一緒に帰国していたように思う。

 そうでなければ待っているのは、外出するにも一大決心を必要とする、見えない鉄格子で守られた檻のなかの生活である。せっかく海外に来ているのに、これでは意味がない。時間と金どころか、人生の浪費である。それが一転、“天国”とまではゆかなくても、比較的安全な地域に建つプール付きのアパートに移れるわけである。これこそ渡りに船、窮すれば通じる、人間万事塞王が馬である。結局Yさんが帰国した後、さらに25日間もT君の部屋に居候してしまうことになる。

 T君のアパートは、通学しているシーサン(カリフォルニア州立大学ノースリッジ校)と同じ、サンフェルナンド・ヴァレーに位置する。町の名前でいうとシャーマン・オークス。ユニヴァーサル・スタジオのあるスタジオ・シティとは隣町にあたる。ロスの象徴的な景色のひとつに、山肌に白い文字でHOLLYWOODと書かれた看板があるが、その山のちょうど向こう側を想像してもらうと、分かりやすいのではないだろうか。
 2階建てで小さなプール付きのアパートだが、ロスではプールがあるからといって特別高級なわけではない。家賃が月10万円以下でも、プール付きはザラに捜せる。そう断言できるのも、T君に誘われるまま、彼が操縦する飛行機に乗って上空から下を見たら、プールのない住宅を捜すのが難しいほど、プール付きは当たり前の光景を知っているからだ。 ちなみにT君に飛行機に乗せてもらうと、セスナのような単発エンジンのもので1時間あたり、たったの15ドルぽっきり。もちろんこれは実費だが、東京でタクシーに乗るより安く、アメリカでは飛行機に乗れることを知って驚いた。
 それどころか、シーサンの近くにあるヴァンナイズ・エアポートの道路沿いのフェンスには、セール(売りたし)の看板を掲げた中古飛行機が、ずらりと並んでいる。その価格も新車のベンツよりずっと安く、その気になれば手が届く価格である。
 マイカーならぬマイプレーン(飛行機)通勤となると、社長や重役クラスと思いがちだが、係長や課長クラ
スでも十分実現可能。片道6車線(現在は最大9車線)のフリーウェイが、朝晩の大渋滞するロスでは、慢性的な交通ラッシュを避けるため、自宅のそばにある飛行場まで家から車で行き、オフィスのそばの飛行場まで飛んで、そこから車で会社に出勤するサラリーマンも少なくないという。

 話しを元にもどそう。両方のアパートを比べるには、鍵の数を比べるのが手っ取り早い。前の8個に対て、
新しい所は玄関とガレージに通じる門と部屋の3個だけ。いかに安全度が高いかは、これで瞭然である。T君の部屋は2DK。居候の役割りとしては、食べることにあまり感心のなかったT君に代わって、永年の一人暮らしで培った料理作りを担当することにした。自慢じゃないが日に3食、1ヶ月くらい違うレパートリーを作るくらいの腕はあるのである。とにかく、驚くほど安い物価が気に入った。巨大なスーパーでカートに溢れるほど食料品を買っても、100ドルでお釣りがくる。
 インスタント・ラーメンなら6~8個で1ドル。野菜や果物類は、どれも1ポンド(約460g)当たり60~90セントという安さ。缶ビールも、有名銘柄でなければ1本30~40円。ラベルがずれたりボトルが少し歪んだワインなら1本1ドル。日本で買うのが、馬鹿らしくなるような値段が付いている。その安さゆえ、つい飲みすぎてしまうのが唯一欠点だろうか。
 またYAOHANという日本の食材がそろったスーパーもあるので、味覚の面でホームシックになることもない。比較的安全なアパートに、感激するほどの安い物価。居候にとって、やっと快適なロス暮らしスタートした。そして、さらなる幸運が舞い込んだ。

 というのも、またひとり後に居候先としてお世話になる、大阪出身のR子さんと出会ったのである。R子さんは、T君がシーサンに転校する前に在籍していた、UCLA時代の知り合いである。

有名人のお宅訪問・・!?

 わずか数日間だったが、この旅で学んだことは、「アメリカは大いなる田舎の集合体である」ということだ。多くの日本人がイメージするアメリカは、ニューヨークやサンフランシスコやシカゴなどの大都市中心だが、アメリカは実は田舎だらけの国なのである。

 そして田舎を旅して分かったことは、「素朴」で「安全」で「安上がり」の3拍子そろった旅が堪能できる、ということである。テレビでは、「田舎に泊まろう」という番組で、芸能人が民泊するのに苦労しているが、アメリカを旅行中日本からの旅行者だと知ると、「モーテルは高いから、家に泊まりに来ないか・・?」という誘いを何度もされたことがある。

 「そんな危険な誘いに乗ったら、何が起こるか分からない」と反対する声も聞こえてきそうだが、その場の空気にそんな気配は微塵も感じなかったし、むしろ「お前がOKなら、家に電話してベッドメイクさせるから」と、遠回しに「俺はゲイじゃないから安心しろ」という、気配りさえ感じたものだ。

 それでも「OK」しなかったのは、語学力のなさから会話が通じない事や、既にチェックインしているモーテルをキャンセルする場合も、英語での交渉という普段の会話以上に語学力が必要になるからだ。いずれにしても、この旅を経験して以来、好んで田舎を旅することをくり返して、今日に至る。
 当時を振り返り手帳をめくって見たら、ドライブ旅行の終わった翌日が、10月の最終日曜日=ハロウィンになっていた。この日もYさんとT君と一緒にいて、なにかの話しの弾みで、Yさんの知り合いだという、“ヒロ”の愛称で呼ばれる緻密かつ極彩色の画を描くことで有名な画家の家に行ってみようということになった。
 住まいは、ビバリー・ヒルズにあるベル・エアに並ぶ高級住宅地のマリブ海岸。防犯対策上、ひとつしかない出入り口にはゲートがあり、なかは袋小路状態になっている。そこへ車を進め、家の前まできてチャイムを鳴らしたが、留守のようだ。
 門扉の向こうには、大型車が20台は停められる車寄せのスペースがある。家の内部や庭がどうなっているのか、前に来たことがあるYさんに説明してもらった。
「平屋の住宅の向こう側は、プールとテニスコートがあって、さらに奥にはもっと広い芝生のスペースが広がっているの。あそこは何に使うのとHさんに聞いたら、返ってきた答えがなんと『馬場』。さすが、アメリカの金持ちは違うと感心しちゃった。筋向かいは、ダスティン・ホフマンの家で、近所付き合いしているみたいよ」
 いわゆる、アメリカン・ドリームを手にしたリッチな人の暮らしが、闇に包まれた門の向こう側にあるのかと思うと、自分にはなんの縁もゆかりもないのに、夢の間近に居るというだけで心が豊かになるような錯覚に
包まれた。
 日本でも有名なこの版画家をまるで知らないT君に、後日ショッピング・モールのなかにあるギャラリーに入り、この絵がそうだと教えてあげたことがある。
 T君は、その絵の値段の高さには驚いたが、「へぇ、そんなに有名なの」と、あまり関心がない。
 そこに店の人が寄ってきて、とてもそんな高額な版画を買うようには見えない2人に、お世辞なのかそれと
も追い払いたいのか、声をかけてきた。
「メイ・アイ・ヘルプ・ユー」
 面倒臭いので、店員追い払いの常套文句である、
「ジャスト・ルッキング(見てるだけです)」
 ですますつもりだったのに、T君がすかさずこう答えた。
「僕たち、この絵を描いた人と知り合いなんだ」
 すると、こんなにも見事に豹変できるものかと感心するくらい、見る間に手のひらを返し、お前は浪花の商人かというくらい変身した。
「それはそれは、ようこそうちの店へ。ぜひぜひ、そのお友達を紹介してください」
 こんな歯の浮くようなお世辞を言いつつ、ほとんど揉み手状態で擦り寄ってきて、名刺を差し出すではないか。こんな態度の急変ぶりが、T君には一番分かりやすかったらしく、
「そんなに凄い人なんだ」と、やっと納得した。

旅の終わりの大感動は、ミルキーウェイ

 このインター・ステイツ・ハイウェイを、直訳すると州間道路とでもいうのだろうか。数字が偶数だと東西
に走る道路で、奇数は南北に結ぶ道という決まりがある。地図では赤い色の道として記され、40号線や80号線を使えば東海岸から西海岸まで、信号で1度も止まらずに走り抜けられる(体力とガソリンが続けばの話しだが)。
 もちろん、高速道路料金は無料。アメリカのフリーウェイは、ドイツのアウトバーンのように速度無制限
(フリー)の道ではなく、通行料金がフリー(無料)の道なのである。これ等をふまえると、カラオケでユーミンの「中央フリーウェイ」を歌うと、なんかしっくり来ない。

 南北に走る5号線の場合は、同じようにメキシコの国境からカリフォルニア、オレゴン、ワシントンの3つの州を縦断して、カナダの国境に到達できる。そのなかでもサクラメントからロサンゼルスの手前までは、前にも紹介したセントラル・ヴァレーのうちの、サンウォーキン・ヴァレー(これは南半分の名称で、北はサクラメント・ヴァレーと呼ばれている)を走るので、延々地平線の彼方へと走り続けることになる。
 安全な車間距離を保っていれば、ハンドルを切るのも希で、アクセルを踏むのももどかしい。時速100kmのスピードが、嘘のように麻痺してノロノロ運転している気になり、眠気も襲ってくる。こんなときのために、車にはオートクルージング・システムが付いている。車の巡行速度を一定にロックするシステムで、これをオンにすればアクセルから足を離してもOK。つまり両足が自由になり、あぐら座りすることも可能なわけである。
 そんな5号線の真っ只中にいて、陽がゆるやかに西に傾き夕闇が迫ってきた。すると対抗車線を走るライトを点灯した車の帯が、地平線の彼方から次々に湧き出てくる。この光景が、これぞ代表的なアメリカの風景として忘れられない。
 アメリカの広さを思うとき、この景色が脳裏に蘇ってくる。この旅でアメリカが好きになり、「また行きたい」と心で念じながら瞼を閉じると、自分が走ってない5号線に、今日もあのおびただしい車の洪水が展開されていると思うと、なぜか心がそわそわして浮き足立ってくる。
 それにしても、人の目の視力と地球の丸みにより見える地平線とは、現地点から何キロ先のことをいうのだろう。10kmなのか20kmなのか、それとも50km先まで見えているのだろうか。地平線を見るのも初めてなら、さっき見えていた地平線の彼方に車が到達すると、その先に次の地平線が待っていて、それが何度もくり返される想像を超えた広さは、衝撃ともいえる驚きだった。
 走り疲れてレスト・エリアで車から降りれば、この先危険の標識にその正体である毒蛇の絵が描いてあった。延々という言葉の実感がぴったりの、サンウォーキン・ヴァレーをやっと抜けるころには、陽もとっぷりと暮れてテハチュピ山脈にさしかかった。ここまでくれば、もう1時間足らずで帰り着けるので、最後のひと休みをとることにした。車から降りて、新鮮な空気を吸おうと背伸びをしたら、伸ばした両手がそのまま固まった。驚いたことに、見上げた夜空には満天の星がきらめいているではないか。
「わぁ~ぉ」
 3人そろって歓声をあげた。満天星の夜空が迫ってくるようで、思わずその場にへたりこんでしまった。原寸大のプラネタリュウムに感激してそのまま見続ければ、20と数えないうちに流れ星が糸を引く。そんな銀河系宇宙が繰り広げるページェントに見入っていたら、神の存在を信じたくなった。地球という星の小ささ、その星に誕生した人類の歴史の短さ、小ささ、哀れさ、危うさなどが次々と脳裏を駆け巡った。
 これほど見事な星空は、20年以上も前に伊豆でキャンプした夜に見て以来のことだ。都会育ちの悲しさと、単なる無知が重なって、ミルキーウェイこと天の川は、なにも七夕の日じゃなくても見えることを、40歳にして初めて知った。我ながら情けない。驚き呆れた口が、しばらくふさがらなかった。

メイヤー(市長)は、映画俳優だった。

 ロスアラモスを後にして、サンルイオビスポでUS101号線を降り、海沿いを走るPCHことパシフィッ
ク・コースト・ハイウェイに出た。運転免許証を持ってなかったこのときは、後部座席に座りながら「なんと
曲がり道の多いルートか」と、右に左に曲がり続ける車に辟易したものだが、昨年夏自分でハンドルを切りな
がら北から南へと逆に辿ったところ、あっけないほどそのルートが終わってしまい、拍子抜けしたものだ。
 ずっと太平洋を眺めながら、西海岸沿いに走りカーメルへ到着。海岸に出てみて野鳥の多さに驚いた。カモメをはじめ、黒く艶のある羽の色が光線の加減で緑色に見える、黄色い目のブリュワーズ・ブラックバード。大きなペリカンさえひょこひょこと近づいてきて、手に乗せたポテトチップを食べにくる。焼き鳥は大好きなくせに、生きている鳥は「鳥肌がたつほど嫌い」だというYさんが、こんな様子を見て10m向こうで悲鳴をあげている。
 この高級リゾート・タウンの市長が、ちょうど俳優のクリント・イーストウッドだった時期で、ビジター・センターを訪ねてみたら、壁には彼の横顔の写真が誇らしげに飾ってあった。モーテルの一覧表をもらうついでに、Yさんは市長の写真の前ですかさず記念にパチリ。さすが西海岸でも有数の観光地だけに、宿泊代の最低価格が昨日の倍以上する。

 節約がモットーの3人組みは、さっさとあきらめて街を出るしかない。近くで安いモーテルに泊まり、翌日はサンフランシスコで観光客になった。大のブランド好きのYさんは、ユニオン・スクエァにあるバリーに吸い寄せられてバッグを買い、ケーブルカーに乗ってはしゃぎ、サビ止め色した赤いの金門橋に「黄金色じゃないじゃないか」と文句をたれ、ピア(桟橋)で乗った人力3輪車のマッチョマン(筋肉男)に金をぼられ、単なる観光客はマヌケなお上りさんに転落した。
 夕方、サクラメント近郊のディクソンに住む先生のお宅に伺い、Yさんは念願の再会を果たし旧交を暖めた。離婚して母娘の2人暮らしの先生は、アルバムに載っている日本にいた頃の写真とは見違えるほど太っていた。離婚というストレスが、食欲に向かったのだろうか、それとも単に遺伝子の成せる技なのか。14歳の娘さんも同じように太りかけていて、あまり幸せそうに見えなかったのが気になった。
 ディクソンでも、モーテルを捜して1泊した。旅の目的を果たして「ホッ」とひと息、モーテルの部屋で酒を飲みながら話しているうちに、なぜか涙があふれたきた。2人の若さに嫉妬したのか、英語のできない自分を情けなく思ったのか、はたまた日本からはるばる離れてホームシックになったのか。

 モーテルの廊下に出て座り込み、ひとり悲しみに包まれて泣いたことだけを覚えているだけで、その原因や理由となるとまるで記憶にない。 帰り道のインター・ステイツ・ハイウェイ5号線では、レイク・タホの標識に「学校休んでもう一泊して帰ろうか」と、何度もハンドルを切ろうかどうか迷いながらも、断念して後ろ髪を引かれるように南下した。

ロスアラモスの思い出

 少し話しがそれるが、このロスアラモスという町も、「初めて見たアメリカの田舎町」という意味で、とても思い出深い。

 翌早朝、あたりを散歩して分かった町の様子といえば、メインストリートにカフェと雑貨屋とガソリンスタンドが、それぞれ離れ離れにポツンとあるだけという、殺風景さ。他に店らしいものが見当たらず、信号もないどころかその必要性さえ感じられないほど閑散としていた。
 町というより、「集落」といった方が当たっている感じで、目抜き通りの突き当たりは牧場になっていた。
15分ほど歩いてみたが、時間が早いせいもあってか、出会ったのは犬と猫と牛だけ。さすが、人口150人の町である。日本では、3000人でも“過疎”と騒がれる村があるのに、アメリカで100人未満の町を捜す
のは、そう難しいことではないらしい。
 しばらく町を歩いていて、「あれ、変な建物がある」と思ったのが、そこだけぽつんと1ヶ所、西部劇に出
てくるような板張りの歩道付きの木造家屋が、歴史を語る記念物のような風情で建っているのを発見。近づいてみると、古ぼけた看板には「ユニオン・ホテル」とある。ユニオンとあれば、南北戦争では勝利した北軍側についた事を意味する。

 創業は19世紀末。詳しい年代は忘れたが、確か明治維新と10年と違わない年だった。人の気配はまったくないが、ガラス窓に顔を近づけて薄暗い室内をのぞいてみたら、当時のファッションを身に着けた婦人の蝋人形が1体、ソファに腰かけていて一瞬ドキッとした。周囲の調度品も昔のままで、タイムスリップした世界がガラスの向こうにある。
 廃屋だとばかり思っていたこのホテル、現在も週末のみ営業していて、ガーデン・パーティ形式の結婚披露宴に使われているらしい。他には、遠目に見ると営業しているのかどうか不明の、アンティーク・ショップが数軒あることがわかった。大きい所は巨大な納屋をそのまま利用している感じで、体育館ほどの店内にはストーブや柱時計などの家具から、街路灯まで所狭しと並んでいた。
 どうやらロスアラモスは、知る人ぞ知るアンティーク・タウンのようだ。20マイル足らず南にあるソルバン
グは、デンマークからの移民が作った町として、観光スポットになり尋ねる日本人も多いが、ロスアラモスに
はその後4回立ち寄っているが、いつ訪れてもひっそりとしている。たぶん21世紀になっても、同じたたずま
いで迎えてくれそうな、なにもないことが印象的なアメリカの田舎町のひとつである。

 ロスアラモスと同名の町が、ニューメキシコ州にあり、その町こそ第二次世界大戦時に広島と長崎に落とした原爆を作っていた町と知ったのは、帰国後しばらく立ってからのこと。また町外れは、どこまでも牧草地帯だったのに、21世紀になった頃からブドウ畑に変貌し、今ではセントラル・カリフォルニアの一大ワイナリーエリアになってしまった。

初めての車旅

 迷子騒動の次は、女1人男2人の“ドリカム”状態でのドライブ旅行が待っていた。旅の目的は恩師との再
会。中学時代のYさんが、英語を習っていたアメリカ人の先生が帰郷して、サクラメント郊外の小さな田舎町
に住んでいるので、会いに行こうというわけである。

 Yさんは、片道約600kmのロング・ドライブの交替要員の必要性から、
「安心してハンドルを任せられる、スペア・ドライバーが欲しい」
 と、シーサンで仲良しになったT君を連れて、アパートに迎えにきた。
 当時のT君は20代前半の若者で、アメリカで飛行機の免許を取るために英語の勉強をしながら、パイロット・スクールに通っていた。なんでも不動産会社から派遣され、免許を取得したら帰国してお客さんをセスナに乗せ、空から物件を案内する仕事につくという。 とてもスケールの大きい話だが、バブル経済崩壊とともに、その仕事も立ち消えになってしまった。

 その後、T君は現地解雇という形で会社を辞め、そのままアメリカに居残って教員用のパイロット免許を取得。いまでは、パイロットを育てる教官として生計を立てている。
 ともあれ、20代の若者と30歳になったばかりのYさんと、40代の中年男の3人を乗せたレンタカーは、黄昏
時に危険地帯のアパートを出発。まずはサンタモニカに出て、海沿いの道を北上した。サンタバーバラを過ぎてしばらく、「この辺で泊まろうか」とモーテルのネオンサインを頼りに降りた町が、ロスアラモスだった。
 誤解のないように伝えておくと、日本では「車で行く郊外型のラブホテル」というイメーシがあり、実際そ
ういった使われ方をしているが、アメリカではモーターヴィークルとホテルの合成語として、「車で旅すると
きに泊まるホテル」という本来の意味あいのまま、発展かつ定着している。

 そして、どんな田舎町にも旅籠的感覚でモーテルがあるからこそ、予約してなくてもなんの不安もなく旅することができるわけである。
 モーテルの親父さんがいうには、
「ここは人口150人の町で、日本人を泊めるのは初めて・・」
 だそうだ。

 これはもちろん、YさんやT君から聞いた話しの受け売りである。宿泊代を割り勘にすると1人20ドルに満たない。日本では、カプセル・ホテルにも泊まれない値段である。旅行費用を節約するため1ルーム2ベッド・ルームの部屋を確保したが、エキストラ・ベッドもない部屋で、問題はどう寝るかである。初対面の男と同じベッドで寝るのもなんだし、どちらかがYさんと寝れば、残る1人は気になってきっと眠れなくなる。
 結果どうなったかというと、椅子に座って足をベッドの上に投げ出し、酒を飲んでいるうちに寝てしまった。
朝方近く目が覚めたら、T君の姿が見当たらない。バスタブに毛布でも敷いて寝ているのかと思い、バスルームをのぞいてみたが不在。外に出たら、車のなかで毛布にくるまり熟睡していた。
 そうなった原因の大半は、「鼾」からの非難ということらしい。が、かいている本人にまるでその自覚はな
い。しかし、周囲の噂を集めるとかなり凄い、らしい。
「普通の人のいびきは吸うか吐くかの片道なのに、往復でとぎれない」
「ブルーサンダー(ジェット・ヘリコプターが活躍する映画のタイトル)が、耳元で飛んでいる夢を見た」
「ドアを開けると襖の引き戸がある旅館で、廊下を隔てた向かいの部屋で寝ても五月蝿くて眠れなかった」
 ・・等々。
 他にも某放送局の慰安旅行では、特別に作られた“鼾部屋”に寝ることが義務づけられていた、などエピソードには事欠かない。結局この旅も、本人だけが知らない聞きしに勝る鼾による騒音と、低血圧で信じられないくらい寝起きの悪いT君に悩まされつつ、珍道中が続くことになったのである。

ロスの広さは、関東平野ほど・・

 迷子になって分かったのは、ロサンゼルスという世界でも希な都市の規模である。いくつもの町や村が集まって形成されたロサンゼルスという都市の面積は、ほぼ関東平野と同じ大きさがあるのをご存知だろうか。東京の世田谷区と目黒区を合わせたくらいといわれる、ニューヨークのマンハッタン島に比べると、いかに巨大かが分かるはずだ。

 皆が気軽にロスといっているが、ロスのどこなのか、エリアを絞らないと話が通じない場合もある。例えば、サンタモニカなのかロングビーチなのか、それともパサディナなのか。ダウンタウンだけでなく、これ等の都市も巨大なロサンゼルス・カウンティ(郡)の衛星都市の一つに過ぎない。さらに言えば、「ロスのディズニーランド」という言葉を耳にするが、ディズーランドはロサンゼルス・カウンティ(郡)ではなく、オレンジ・カウンティ(郡)に位置するので、この言い方は間違いになる。

  迷子の時に待ち合わせたのは、山肌に「HOLLY WOOD」の看板がある山の向こうで、シーサンの愛称がある、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校である。と言ってもイメージしにくい人には、映画『E.T.』で地球にやって来たE.T.が、夜景を眺めたのがこのヴァレーであり、ロスを襲った巨大地震の震源地だったのが、ノースリッジ校の地下だったと言えば、何となく分かるのではないだろうか。

 ロスの広さをストレートに感じるのは、この都市で世界初に生まれたフリーウェイの凄さだ。04年の段階で、片道9車線(つまり往復18車線)のフリーウェイが走っているのだ。それでも朝晩渋滞が起きるため、その内の二車線を有料化して、スムーズに走れるような対策を採用している。

 パイロットをしている友人の話によると、係長か課長クラスになると、郊外の住宅から郊外の飛行場に車を走らせ、そこから自分で操縦する飛行機に乗って、会社の側の飛行場に着陸し、そこから会社に通勤するのが、贅沢でも特別なことでもないという。関東平野ほどの面積があるロサンゼルスには、LAXと呼ばれる国際線の飛行場の他に、サンタモニカにロングビーチ、バーバンクにバンナイズなど、知っているだけで6ヶ所の飛行場がある。

 迷子になったときに目印になった、ヴァンナイズの飛行場には、「for sale」の張り紙が貼られたセスナなどの軽飛行機が、ベンツの新車を買うより安い値段でズラリと並んでいた光景が印象に残っている。

ロサンゼルスで迷子になった40歳

 路線バスの乗り方が分かったものの、まだロスという町の何たるかを把握できないまま、Yさんが留学している大学のカフェテリアで待ち合わせることになった。
「ウィルシャー通りのウエストウッドで乗り換えて、550番のバスで飛行場の側を通り過ぎてしばらくしたら降りれば、大学まで歩いても来られる距離だから・・」
 こんな簡単な説明を受けて、当日夜が明けてすぐにアパートを歩いて出発した。ウエスタン通りからウィルシャーに出るまでは良かったが、そこで左折しなければならないのに、右折してしまった。行けども行けどもUCLAのあるウエストウッドは現れず、辿り着いたのはウィルシャー通りの東の外れである、ロスのダウンタウンだった。
 この時点でまだam10:00だから、昼の待ち合わせには十分間に合うと思っていたが、またまた重大なミスを犯してしまった。やっとのことでウエストウッドまでやって来て、550番のバス停を捜して、バスに乗ったものの、やっと飛行場が見えてきたと思ったら、ここが終点だという。
 またまたサンタモニカの二の前かと思って、運転手に行きたい所のメモを見せたら、「あんたは、大人の迷子か」と笑われ、「このままバスに乗っていろ・・」と言われてしまった。どうやら、ウエストウッドで乗らなければならないバスを反対方向に乗ってしまったため、LAXことロサンゼルスの国際飛行場に来てしまったようだ。
 この時点でほぼ約束の時間になっていて、本当の目的地はLAXからフリーウェイに乗り車を飛ばしても、1時間以上かかる距離にある。それを路線バスで行こうとしているわけだから、2時間遅れでも間に合いそうもない。公衆電話に駆け寄ってダイヤルしても、訳の分からないテープが流れて、何度挑戦しても繋がらない。途方に暮れるとはこの事で、同じロス市内でも町の名前が違うと長距離になり、ダイヤルの頭に1を付けないと繋がらないなんて、渡米4日目の旅行者が知るよしもない。
 運転手が休憩を終えて、再び各駅停車のバスが出発したが、その距離の遠いこと。やっとのことでウエストウッドまで戻ってきたものの、さらにそこから1時間近くかかって、本来の目印であるヴァンナイズ飛行場が見えてきた。目指す大学はさらに先、大学名と同じ通りの名前=ノースリッジ通りで下車して、4ブロックほど歩いた先にある。
 待ち合わせ時間に遅れる事、実に生涯最高の5時間半。40歳の迷子は、げっそりと疲れ果てて待ち合わせ場所に到着した。
 

RTDに初挑戦

  独り薄暗いアパートに居ても、何のためにアメリカまで来たのか分からないし、このままでは旅の意味がない。電話帳から路線バスの地図を破り取り、独りで外出する決心をした。目的地は、サンタモニカ。ウエスタン通りのバス停からバスに乗り、ウィルシャー通りで乗り換えチケットをもらって下車し、ウィルシャー通りの西の終点であるサンタモニカを目指す事にした。</p><p> バスを降りて数分も歩くと、南北に果てしなく続く西海岸と、陽を浴びてきらめく太平洋に出た。遙か彼方にある日本から、ここまでやって来た感慨を新たにし、ピア(桟橋)に向かった。その入り口には、ルート66号線終点のアーチが架かっている。シカゴからサンタモニカまで続く、ルート66号線は、アメリカのマザーロード(母なる道)と呼ばれ、車社会の黎明期の大動脈だった道だ。</p><p> 日本でも同名のテレビ映画が放映され、ジョージ・マハリスが歌う「ルート66」もヒットした。2人の若者が、シボレー・コルベット・スティングレーのオープンカーに乗って、この道を旅しながら人との出会いやトラブルなどを重ねながら進んでゆくドラマを、テレビにかじり付きながら観ていただけに、ピア入り口に架かるアーチを見上げながら、鳥肌が立つような感動を覚えたものだ。</p><p> ピアに続いてショッピングモールを散策し、ファーストフードを食べてアメリカらしさを満喫していると、早くも4時を回ってしまった。「外出は日没まで・・」の教えを思い出し、帰り支度をしなければとバス停を捜した。すると、ピコと書かれたバスが来たので、その後を追いかけてバス停を見つけ、次のバスに乗り込んだ。</p><p> バスは最初の内は空いていたが、アフター5を過ぎた頃からどんどん乗り込む人が増えてきて、ついには満員すし詰め状態になってしまった。しかも、乗客は黒人とメキシコ人ばかりで、白人は一人としていない。</p><p>自分も有色人種である事を忘れ、その中にポツンと一人居る心細さ包まれ、言いしれぬ恐怖心さえ湧いてきた。しかもあろう事か、下車したいピコ通りの手前で、「このバスはここが終点だ」と全員降ろされてしまい、次のバスを待つ羽目に陥ってしまった。</p><p> 悪霊が跋扈するトワイライトゾーン(黄昏時)に、独りポツンと立っていると恐怖心が増すばかりなので、後ろを振り返りつつ、早足で歩き始めることにした。しかしこの辺りは、高級住宅街とはほど遠い環境で、200mおきくらいに1人ホームレスがいて、「ギブ ミー マネー」と近寄ってくるので、恐怖心は増すばかり。20分近く歩いたところで、やっと後方にバスが見えて来たので、一目散に走ってバス停にたどり着き、汗をかきかき「ホッ」と胸を撫で下ろしたものだ。

居候先は、鍵7個のアパート

 なぜだか覚えてないが、空港には国際電話をかけてきたYさんと、中学高校の同級生Iの2人が出迎えに来てくれた。エアポートから車に乗り、連れて行かれたのは、空港から少し北に走った所にある、世界最大のヨットハーバー、マリナ・デル・レイだった。

 そこで長旅の疲れと時差呆けの頭を抱えたまま、カリフォルニアの青い空の下、テラスでお茶した事だけ覚えている。大学のドミトリーに暮らすYさんの所に転がり込むわけにはゆかないので、Iのアパートが取りあえずの居候先と決まった。

 通りの名前で言うと、ピコとウエスタンの交差点近くのアパートに着くと、門扉を開ける鍵に始まり、アパートの入り口の鍵に続いて、部屋の鍵がふたつ、ガレージに続く裏口の鍵に、ガレージの鍵に、ランドリールームの鍵と、アパートの一部屋を借りるのに、合い鍵が7個必要というのは、かなりのカルチャーショックだった。日本も近頃物騒になってきたが、銃社会のアメリカでは用心するに越したことはないが、これが当たり前というのも、どこまでも不安がつきまとう。

 しかも部屋は北側にあり、一日中陽が差し込まない。外出するなら、車でアパートの前まで送ってもらえる時以外は、「日没前に帰宅した方がいいぞ」とアドバイスされ、日中の外出先は徒歩5分のスーパーマーケットが、とりあえずの行動範囲になった。

 しかしやることのない日は、テレビのCMを見るか、アメリカではOKだが、日本では禁止されている強力なエアガンを、分厚い電話帳に向けて発射するしか、暇つぶしの方法がない。せっかくアメリカに来たのに、映画『BIG』で一夜にして大人に変身したトム・ハンクスが、心細い感じでマンハッタンの安ホテルに泊まっているような心境だろうか。

 こんな状況を打開するべく、電話帳に載っていたバス路線図を破り取り、行動範囲を少しずつ広げていった。