1本の国際電話により、出発するはめに・・
いわゆる「40歳にして惑わず」のはずの人生が、それまで人並み程度の興味しか抱いていなかったアメリカに、友人や知人があきれるほど入れ込むようになった最初のきっかけは、1本の国際電話から始まった。
電話の主は、語学留学で渡米していた友人であり、当時フリーアナウンサーのYさんからだった。
「授業のスケジュールが予定より早く終わっちゃって、暇になったから遊びにこない?」
こんな突然かつ突拍子もない誘いに乗れたのは、職業が売れっ子とはほど遠い、フリーランスの雑文業だったからである。差し当たり抱えている仕事はなく、家庭という名の荷物を背負っているわけでもないので、都合はどうにでもなる気楽な身分が幸いした。
それに駄目押しをかけたのが、テレビCMでしつこく「日本を休もう」と叫ぶものだから、ついその気になってしまったのも事実である。なにせ生まれ変わったら、朝寝朝酒朝湯が大好きな、“身しょうを潰す前の小原正助さん”になるのが夢という、根っからの怠け者なのである。
電話をもらうや、すぐさま旅行情報誌をチェックして安売りチケットを買い求めた。手に入れたのは、マレ
ーシア航空60日間のフィックスでロサンゼルス往復6万円台のチケット。今なら3万円台で見つかるが、当時はこれでも安い方だった。
いずれにしても、いつでも好きなときに旅行に出かけられるのが、フリーランスの最大の長所だと思ってい
る。よく「人生の幸福の量は、金持ちでも貧乏人でも変わらない」というが、会社員なら当然あるはずの有給
休暇もないし、ボーナスも、昇級も、社内恋愛も、退職金もない。
航空券だけを買って、あとは自分で切り盛りするほど、達者な語学力も度胸も持ち合わせてない。要するに、絵に描いたようなぐーたら旅行者だったのである。
過去最高の冒険旅行といえば、中学2年の春休みに慣行した一人だろうか。ナップザックを肩にかけ、ポケットには1万円。親には「金がなくなったら帰ってくる」と告げ、西に向かう夜汽車に飛び乗り、あてもない
旅に出たことがある。海外旅行となるとがくっと落ちて、友人から借りたコンドミニアムの鍵を持ち、ひとりでハワイへ飛んだくらいである。その際も、帰りのリコンファームを他人に頼んだほどの不案内ぶりである。
こんな風なので、このアメリカ旅行をどう楽しんだらいいのか、なんのプランも思いつかない。出発当日は、家を出る前に何度も、航空券とロス在住の2人の電話番号だけを確認して、成田に向かった。この旅が人生の転機になるとは夢にも思わず、日本を後にしたのは日毎に秋の気配が近づく10月の後半だった。
長時間のフライトの後、ロス到着。心配していたイミグレーションでなにか聞かれたが、意味が分からないので、あてずっぽうに「サイト・シーイング(観光)」と答えて、係官の顔色を伺った。なにかいいたげだったが、あきらめ顔にポンとスタンプを押して通してくれた。一瞬躊躇したうえで思い直した風に見えた、係官の胸のうちを憶測するとこうなる。
「こいつは英語がしゃべれないのか。どうせ別の質問しても分からないだろう。日本語のできる仲間を呼んでも、無駄な時間がかかるだけだから、さっさと済ませてしまおう」
記念すべきアメリカ合衆国本土上陸は、コロンブスに遅れること4世紀と96年にして果たした、これが名もなき中年男が、この後アメリカン・フリークになってゆく幕開けである。
40歳にして、初上陸
子供の頃に、テレビにしがみつくように観ていた『パパは何でも知っている』『家のママは世界一』などりホームドラマに登場する、特大の牛乳瓶やジュース、それが何本も並んでいる冷蔵庫の巨大さ、生活の豊かさにただただ圧倒され、憧れいたアメリカ。
かろうじて、進駐軍のジープを追いかけながら、「ギブ・ミー・チョコレート」と叫ぶ世代ではなかったが、目が眩むほど豊かなアメリカの生活は、夢のまた夢というような気分で育った団塊の世代である。
少年期から青年期にかけては、雑誌『平凡パンチ』や『ポパイ』をはじめ、VANヂャケットなどに影響されたものの、映画やテレビや雑誌の情報を鵜呑みにしていた人間は、現実のアメリカの大いなるギャップに驚き、幻影ではなく実像のアメリカをもっと知りたいという思いが募り、ブレーキの壊れた車のようにアメリカのハイウェイを地平線の彼方へ走り続ける自分がいたのである。
その後も機会がある度に、はたまた無理矢理機会を作っては、太平洋の向こう側まで出かけているのに、その思いは一向に薄まることもなく、「いつでも、チャンスがあればアメリカへ行きたい」と思い続けて10数年がたってしまった。