昨日はジョージさんの最初のバンド、パワーハウスの事をお話しましたが、パワーハウスは短命に終り、1970年ジョージさんはベーシストとして、後期のゴールデンカップスに参加しました。しかしメンバーのドラッグによる逮捕を経て、1972年1月にカップス解散。その後、フライドエッグのボーカルとしてサポートを経て、成毛滋とともに渡英するなどしていましたが、1975年に自身のバンド、レイニーウッドを結成します。このバンドのレコード・デビューは1978年、日本武道館でのさよなら公演を行う1981年まで、約6年間の活動期間に、「雨に泣いている」「微笑みの法則~スマイル・オン.ミー」「青い瞳のステラ、1962年夏」など多くのヒットを生み出しました。

(2005年のレイニーウッド再結成コンサートのDVD)
その後、ソロ活動に入りますが、彼のバックを務めていたナイト・アウル・バンドはほぼ固定メンバーのパーマネント・グループとして活躍していました。そのメンバーの一人が、私の昔のバンド仲間であったことから、ジョージさんとは親しくさせてもらったのですが、あの渋い声とは対照的に、本当に楽しい人でした。
特に記憶に残っているのが、楽器フェアのフェンダー・イベントにジョージさんに出演いただいた際のこと、マスタービルダーのトッド・クラウス氏と一緒にステージに上がってもらい、トーク・ショーを行いました。トッドは当時、エリック・クラプトンやジェフ・ベックなどのアーティストのためにギターを製作しているビルダーでした。そのトッドが、ジョージさんのことを気に入り、以前エリック・クラプトンのために製作した、ゴールドリーフ・ストラトキャスターと全く同じ仕様のギターを作り、翌年にジョージさんにプレゼントしてくれたのです。
このギタープレゼントを本当に喜ばれたジョージさんは、それ以後、晩年のメインギターとして、このストラトをずっと使用し続けていました。このストラトはその名の通り、金箔を施した豪華なボディ、そしてクラプトン・モデルに装備されているものと同じミドル・ブースターを搭載し、ネック・プレートにはジョージさんの名前が刻まれていました。

(そのギターがジャケットに使用された、ジョージさん晩年のアルバム『Still Crazy』。絶品のボーカルが聴ける名作です。)
ジョージさんはまた無類のお酒好きで、常にビールを水代わりに飲んでおられたのですが、それが災いして身体を壊し、2011年に残念ながら他界されました。元ナイト・アウル・クラブ・バンドのメンバーだった私の友人と一緒に、再活動の予定も決まっていたところであり、新たな一歩を踏み出そうとする直前のことでした。本当に残念です。
日本のロック黎明期の話は、また日を改めて!