大根役者

大根役者

日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

広島駅から西へ向かうと京橋川に架かる常葉橋がある。広島は、三角州の中に建設された町で、城下には七つの川が流れている。
藩政時代には、架橋が抑えられていたため、明治以降に各河川への架橋が進んだ。常葉橋もその一つだ。常盤橋ではなく、常葉橋が正しい。藩政時代には、京橋川にが架かる橋は、広島城内から、京口門を出て、西国街道に至る京橋が、唯一の橋で、川を渡る交通インフラは、渡船しかなかった。
常葉橋の西詰に妙風寺がある。
現在は、本堂改修中だが、来年、6月30日に、工事が完了し、新しい境内風景が生まれる。
HP記載の縁起を転記する。

この寺はもと紀州(和歌山県)名艸郡にあって大乗院と云い、天正十四年の頃、妙蔵院日経上人が関東弘通の折、鬼子母尊神を感得し一宇のお堂を建立し開創せられたもので浅野藩士達のお寺でありました。ところが元和五年藩主但馬守長晟公が芸州(広島)に移られることになりお寺も共に引き移り、藩士達の屋敷に隣接して現在の地が与えられ、お寺を建てて大乗院とも云ったが、日経上人の号から妙蔵院とも云ったのです。

然しこの時日経上人はすでに無く、第二祖の本行院日意上人の代でした。日意上人は能書家であり、また茶道にも達しておられたので、文人墨客と云われるような人々との交際も多く、その中でも加藤風庵公や上田宗固翁などは代表的な人々でありました。

 加藤風庵公は加藤右典廐正方と云い加藤主計頭清正公の一族で肥後(熊本)八代の城主でありました。しかし清正公が薨去せられた後しばらくして忠広公の後見をしておられましたが、加藤家が治世を奉還することになったので、公も肥後の地を去って京阪の地に住み、名を妙風庵と云って風流を友として暮らすようになりました。後に浅野家の客分として広島に下り、旧知であった日意上人を扶けて堂塔を建て清正公の御恩に報いると共に自らも檀頭となって法の為に尽くされたのです。 

慶安元年九月二十三日卒去せられた公の為に、日意上人は妙風院正方大居士という法号を贈られ、寺号も妙風寺と改め、山号は待春山となりました。

補足すると、入国次年の年頭御禮帳に寺名が見えず、元和6,7年頃に移ったと考えられる。本行院とも呼ばれていた。妙蔵院は、日意上人の院號であり、妙像院の字が、用いられることが多かった。
加藤右典厩正方は正保元年、浅野家より、百俵の石高を賜り、当寺の檀越となっている。慶安元年9月、病没し、その法號により、当寺名が妙風寺に改められた。
 
浅野家との密接な関係が、伺われる。広島藩前藩主・福島正則の盟友・加藤清正との関係も浮かび上がってくる。浅野家の14代当主である浅野長政(長吉)は、浅野家当主・浅野長勝の婿養子であり、同じく、養女として迎えられた寧々の弟でもあった。
実子のいない寧々が福島、加藤を実の息子のようにかわいがり、育てたことは、よく知られている。
妙風寺では、7月24日の加藤清正公命日に、清正公祭が、行われる。法華経の熱心な信者であった加藤清正を祀り、所願成就を願う清正公信仰が。加藤清正の死後、全国に広まった。
 
妙風寺では、この日に、清正公坐像や陣羽織など、ゆかりの品が特別公開される。
 
享保7年六世・日臺の時に、白島火災があり、境内は、灰燼に帰した。宝暦9年七世・日秀の時に再興されたが、明治44年8月13日、再び。火災に見舞われ、明治45年に再興。その後、寺は衰退し、現在に伝わるものは、日秀が、再興時に改鋳した梵鐘が
あったのだが、伝わっていない。
 
昭和20年8月6日の被爆により、灰燼に帰した妙風寺だが、墓石に、歴史が残されている。
 
加藤右典厩正方の墓
木村主馬の碑
田中仁山(儒家)の碑
佐々木角次(剣術家)の墓
 
藩政時代から、軍都時代から、今につながる広島の歴史の線を墓石に追おうとしている。浄土真宗信仰で知られる広島だが、藩政時代、日蓮宗の武家信仰から、ランダムではあるが、線をたどろうとしている。