
一休さんのことだね。わたしが、魅かれ続けているひと。
これほど魅力的なひともいない。近づこうとしても、一向に近づくことができない。
「はは!。まだまだ修行が足らぬわ!。」とニコニコしながら、
ずっと言われているような気がするんだ。
単なる宗教者ではない。<破戒のひと><破格のひと><風狂のひと>
また<妖怪><異端のひと>とまで言われてもいる。
わたしが、尊敬する日本人のひとりだ。
日本の文化と芸術を語るときに、このひとを決して忘れてはならないと思う。
一休宗純の生涯を、簡単に紹介しよう。
室町末期の乱世を生きた臨済宗の禅僧。両親は不明だ。
説はあるが確証はないと思っている。
一説によると、母は、5歳の一休を臨済宗安国寺に入れ出家させたとも言われている。
「一休のとんち話」は江戸時代に流行したもので、作り話が多い。
しかし、一休さんと言えば、今でもみんな名前を知っているのはなぜだろう。
このことがヒントだと思っている。
16歳で11年間修行した安国寺を出て、西金寺の謙翁和尚の弟子となる。
22歳瀬田川に、修行に悩んで入水自殺を図ったという説もある。
諸説が多いのは、一休が亡くなった後に弟子が「年譜」を作ったが、
内容が短く、確証を得られる資料が殆どないことだ。
もし事実なら高僧伝で自殺未遂をしたことも、前代未聞のこと。
翌年から、滋賀の華叟禅師に仕える。
26歳、座禅をしていたとき、カラスの鳴く声を聞いて大悟したと言われる。
34歳、師が亡くなり、一休は寺から出て民衆の中に飛び込んで行ったようだ。
今でも親しまれているのは、様々な場所へ行き、民衆と語らい続けたせいではないかとわたしは思う。
こころのところは不明な点が多い。資料がないんだ。
62歳、200年前に大応国師が創建した兵火に焼かれた妙勝寺を、一休は修復し酬恩庵として再興する。
その後、この庵が一休の活動の中心地となり、多くの文化人が一休を慕って訪れた。
73歳、京都で応仁の乱が勃発し、戦火を避け大阪へ行く。
77歳、盲目の旅芸人・森女に出会う。彼女は20代後半。
2人は50歳の年齢差があったが、一休が他界するまで10年間、
2人は酬恩庵にで過ごしたと言われている。
清貧な生活を送っていたようだが、80歳、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、
住職にされてしまうが資金が集まり5年後、大徳寺が落成した。
一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵に住む。
今では、一休寺の名で親しまれている。
<反骨のひと>だと思う。民衆と同じ視点に立ったのではないのか。
当時の民衆は、応仁の乱や、貧困や飢餓にあえぎ、まさに地獄の様相で餓死するひとも多かった。
一休はそれを目の辺りにしていたのではないのか。
彼が、戒律や形式に捉われないのは、彼の肖像画が物語っている。
他の高僧の肖像画と違い、髪の毛やひげが伸びている、まゆげは垂れ下がっている。
頼りない感じすらするほどだ。
一見高僧とは見えない。しかし一休は、それが真実だと言っているように見える。
外見なんか関係ないと言い切っていることが、この絵で証明されている。
わたしは、この絵を観た瞬間に、呆然とした。本物の人間だと思った。
なんて人間臭い顔だろう。
仏はこころのなかにあるのだから外見は関係ないという思想を持っていたと思う。
一枚の絵が、全てを語ってしまうことがある証拠だと思う。
大徳寺を再建するために、立場上住職になっても、資金が集まれば、
住職はやめる。<大伽藍>にいるつもりなんて、さらさらない。
それは、民衆を救うということと関係がないからだ。
この一休の信念に、多くのひとが共感を覚えたはずだ。
このこころを民衆は、語り継いだはずだ。
彼は文化面でも一流のひとでもあった。
茶道の祖、村田珠光、連歌師の飯尾宗祇、能の世阿弥や金春禅竹、曾我蛇足、水墨画の兵部墨溪、
その後の日本の文化を体系立てていった一流の芸術家の多くが、一休に教えを請いに行った。
これが一休文化圏となる。
だから<一休の禅の精神>は、世界に誇れる日本文化の素だとわたしは思っている。
一休を知らずして、日本の文化を語ることなかれ! 。
彼は、破格で、反骨であり、民衆と同じ地平で生きようとするひとだったと思うから、
以外に彼のことは、知られていないと思う。
彼の修行の結果は、「諸悪莫作(しょあくまくさ)」という書から沸きでてくる
鬼気迫るエネルギーで見えてくるはずだ。
そして最も重要な彼の漢詩集『狂雲集』がある。
これについては、加藤周一の「日本の禅語録・一休」・水上勉の「一休」・柳田聖山の「狂雲集の世界」
で、それぞれ解釈が微妙に違う。
この三冊は、一休を知るには必読の書だと言っていい。
どれも、血の出る思いで、一休宗純に近づこうとしている。
水上勉さんの「一休」は、最高傑作だと思う。凄まじい気迫だ!。
ただし、森女のことについては、『狂雲集』は男女の情愛だけを書いたものではないという
柳田さんの考え方に、わたしは近いと思っている。
水上さんの作品も、『狂雲集』も、一見<艶かしい世界>なのだ。
一休と森女の関係は難しい。わたしには、まだ解けない。
この作品は漢詩集なので、奥が深くて理解が届かない。
でも、少しでも彼のこころを学びたい。
わたしが、一休宗純というひとを尊敬するのは、民衆を救済するために修行したはずなのに、
それを忘れ贅沢三昧をして腐敗していた当時の高僧の権威を、徹底的に攻撃した反骨の精神。
権力に執着しない翻弄されないこころ。大変な覚悟のひとだと思う。
己は、欲望や誘惑に振り回されない。<私心がない>ということ。
そしてなんて純粋で、人間くさいひとだろう。
だからいまでも一休さんと言われて親しまれているのだと思う。
そこが大好きだ。こんな日本人がいたということを知ってほしかった。
最後に『狂雲集』から、加藤周一さんの訳でひとつの詩を紹介したい。
「ねどこにさそう。恋うたいくつ。
花のためいき。まこととみたり。
雨よ雲よと、山川かけて、
おしどり流れて、死ぬまで一緒」
道歌から
「なにごとも、夢まぼろしとさとりては、うつつなきよのすまひなりけり」
「はじめなく をわりもなきにわがこころ、うまれ死するも空の空なり」
一休宗純に魅かれ続けている。こういうひとになりたい。
いつまでも、そう思っているだろう。