2013.9 NO.27  ウクライナ と ユウクライナ

 旧ソ連時代にはソ連連邦の一地方にすぎなかったウクライナ共和国は日本人には馴染みが薄い。それでも、少し頭をめぐらすと意外に日本と縁があると分かり、興味が湧いてくる。

 「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた大横綱(大鵬親方)が今正月に亡くなられたが、お父さんはウクライナ人ということだ。

 昨年のオリンピックで体操団体の決勝で内村選手が最後のあん馬で着地に失敗し、メダルを逃したと思われたが、採点に抗議して4位から銀メダルを日本が獲得した。あおりをくらって、ウクライナが銅メダルを逃してしまったのは記憶にあたらしい。

 原発大事故で周知のチェルノブイリ原子力発電所もウクライナにある。フクシマも事故処理に参考になることが大いにあるだろう。

 旅行雑誌「Trabelers Digest(トラベラーズ・ダイジェスト」が選んだ 「世界10大美女都市」で、ウクライナのキエフが1位に選ばれている。そう言えば、ウクライナのティモシェンコ前首相は美人過ぎると評判を呼んでいた。

 

ジャニーズ事務所の喜多川社長が『you 暗いな!?』って言うことがあるかどうか知らないが、今日暗い日本人が多い。

世界自殺予防デー(9月10日)があるぐらいなので、世界共通の問題であるが、旧共産圏で自殺率が高い中で、ウクライナ(8位)よりも日本(5位)は高い。

2012年は15年ぶりに自殺者数が年間3万人(2万7千人)を下回ったが、20代の自殺者が増えているという。東京では相変わらずブルーマンデーには毎週どこかの線路で人身事故が起きている。

無残に変わり果てた自身の親不孝、残された遺族の慟哭と自責の念、後始末する駅員の困惑、通勤客が被るはた迷惑。自殺を自死と言い換えて済む話ではない(大体「死」の文字は忌み嫌われて「亡くなる」とか「逝く」を使うのに)。

かの絶望的なナチス強制収容所での実体験を『夜と霧』で綴ったヴィクトール・フランクルは「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない」と語る。

それでも、本を読んでもカウンセリングを受けても言葉が心に沁みていかないのなら、その人を救うことは容易くない。



そんなことなら、誤解を恐れずに言えば、癌になった方がよいと思う。確かに、白血病やすい臓がんなどは怖い。前立腺がんへの不安や愚痴を聞いてもらっていた町医者の女院長が6か月ぐらいかであっという間にすい臓がんで亡くなった。その時は大きなショックを受けた。

 男なら前立腺がん。女なら乳がん。一般論として、癌になっても、再燃しても、だらだらと生きられる確率が高いとのことだ。

 癌になれば考え方や生き方が変わる人もいる。私の場合はこうだ。

第1に、「生」に対する執着心が湧いた。生検で癌細胞が一つ見つかり、れっきとした癌患者になり、ここ5年ほどの前立腺がんではないかとの不安は解消された。しかし、転移しているかもしれないとの不安がもたげてきた時、初めて「死」を強く意識し自問した。まだ生きたいかと。これまで、学者や研究者ほどの高みを求められてはいなかったとはいえ、能力の問題もありややストイックな人生を歩んできた。他人様より人生を謳歌していない。一度きりの人生もっと楽しみたいと思うと、生に対する執着心がふつふつと湧いてきた。

 第2に、姿勢を正す気になった。家族や周りの人たちに良い思い出を残したい。今まで子供達にフザケタ態度でしか接しておらず、常日頃妻から「すこしは子供たちに尊敬されることをしたらどうなの!?」とよく叱られていた。子供達にどう思われようと、そんなの関係ない!そんなの関係ない!と高を括っていた。だが、死と向き合ったとき、このままバカボンのパパで終わってしまっていいものかと思案した。「これでいいのだ!!」とはとても言えない。真摯な態度も見せ、家事の手伝いも男の運気が下がると嘯きしなかった洗濯物の取り込みもするようになった。本ブログエッセイを子供達への遺言として残すのもこの思いからだ。

 最後に、かえって明るくなった。生きていること自体が喜びとなり、金銭欲や物欲はより薄くなった。高橋ジョージさんが歌う『ロード』ではないが「なんでもないようなことが幸せだ」と思える。昨年の結婚記念日には仕事・家事・介護に忙しい妻と久しぶりに二人で映画を観てその後食事をしたが、ほんわかとした幸福感に浸たれた。煩悩に振り回されていた若い頃にはない感覚だった。

 癌になって初めて見えてくるものがある。癌もそんなに捨てたものではない。



2013.8 NO.26 ムスコ と ムスメ

 

 そろそろ今年も同窓会の案内が来る頃だ。今年も出席してみようと思う。

昨秋神戸高校東京支部の同窓会に10年ぶりに行った。神戸一中・県一高女・神戸高校の卒業生が対象となるので、神戸一中の卒業生は80歳をゆうに超え、最年少は東大の現役女学生(神高62回生)で、まさに御爺さんと曾孫が同席しているみたいなものだ。

 神戸一中は戦前西日本一円から受験してくる名門進学校で私のようなボンクラではとても縁があろうハズがないのだが、同じ『質実剛健、自重自治』という校風に培われて現在の自分があると思っているので、不肖の後輩ながら末席を汚させていただいている。

昨年久しぶりに参加しようと思ったのは、微生物学・免疫学分野で新しい研究を行ったものに与えられる、世界的に権威があるロベルト・コッホ賞を2006年に受賞した東京大学科学研究所教授河岡義裕氏(神高26回生)が講師に招かれたからだ。世界で初めてインフルエンザの人工合成を成功させた。アメリカのCIAなどから生物兵器につながらないか徹底マークされており、昨年河岡先生の論文が一時公開禁止となったことが話題となった。

ちなみに、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥先生も2008年にコッホ賞を受賞(利根川進先生は1986年にコッホ賞を受賞した翌年ノーベル賞を受賞)しており、コッホ賞がノーベル生理学・医学賞の登竜門の一つとするならば、作家の村上春樹氏と並んで神高の卒業生からノーベル賞受賞者が誕生するかもしれない。そんな偉い先生が高校の5年後輩にいるのかと知り、ぜひにと同窓会に出席した。

 

10年前は本ブログエッセイの初回(2011年7月)で紹介した、当時国立がんセンターの胃癌手術の名医で同級生の笹子三津留君が講演すると聞いて出席した(兵庫医大病院に移った現在も、第50回日本癌治療学会学術集会の会長を昨年務めるなど大いに活躍している)。

 その頃は、私ら神高21回生だけの東京支部同窓会も行われていた。当時52、53歳で男子は、子会社への転出やリストラに遭う中で大学生の子供をまだ抱えるという経済的にも精神的にもしんどい時期であった。女子はというと、男子よりも3、4歳早く結婚することもあり、更年期も過ぎ、子供も巣立っているので、同窓会に参加した女子は精神的にゆとりがあり、第2、第3の人生を謳歌している風情でうらやましいと感じた。

 ところが、数年経ってみると、子供の世話から解放されたのは束の間で、今度は亭主のお母さんや自身のお母さんの介護が始まった(終わっても一番難儀な亭主の介護が待ち受けている)。同窓会で求心力がある世話役の女子も自身の親の介護のため神戸に帰ってしまい、最近は21回生の同窓会が開かれなくなってしまった。やっぱり娘に生まれた人生は大変なんだと思い直したものだ。


 私には二人の息子と末娘がいる。

 子供達が幼い頃、息子たちにとって子煩悩でない父親は大好きな母親にまとわりつくハエのような存在だったに違いない。

 娘は2~3歳の頃「お父ちゃん、カッコイイ!」と言っていた。幼稚園に通う頃になるとピタッと言わなくなった。今では妻と一緒になってこの世で一番ブサイクと毒づく。

 娘とは妻をめぐってずっとライバル関係にあった。産院から戻ってきて以来妻と娘は一緒に寝ていたが、私が割って入ろうものなら「アッチに行って!」といつも娘に足蹴にされた。

それでも、他の親子と同じように、娘の父親への思いは特別のようだ。

 「子はかすがい」と言うが、娘はまさにそうだと思う。30年以上も夫婦として連れ添っていれば一度やそこら夫婦の間に波風は立つものだ。が、私が波風と思っていたことは妻は気に留めず忘れていた。「もう附いて行けない」と私の知らないところで妻は子供たちに聞きていたらしい。当時小6か中1の娘に強硬に反対されたから思い留まったと妻は強弁する。娘が「あんなお父さんでも・・・」と言ったという。“あんな”とはどんな酷いお父さんかと思うが、周りで親が離別して辛い思いしている同級生が多かったらしい。

妻は事ある毎勝ち誇ったように「娘に感謝しろ! 感謝しろ!」を繰り返す。反対するのを分かっていながら聞いたくせにと思うが、してやられたとの感は拭えない。

 今でも夫婦で冗談にてそんな話をすることがあるが、27歳にもなる娘だけはいつも本気で怒って取り合わない。


 逝けば後顧の憂いなく後事を息子達に託すことができるが、生き長らえる間は介護福祉士の娘が居ることが心強い。もっとも、娘には「お利口さんにしていないと看てやらんからね」と言われているが。



2013.7 NO.25  カイガ と エイガ  


絵画と映画。優れた作品はともに名画と呼ぶ。アナログとデジタルみたいに関係なさそうだが、映画には撮影の前の設計図のごとく絵コンテを使う。巨匠故黒澤明監督の絵コンテは有名だが、生涯2,000点以上も描いたとされている。

私が映画館で観たという最初の記憶は、神戸新開地で両親に連れられて観た『喜びも悲しみも幾歳月』(主演佐田啓二さん)で、封切が1957年なので7歳か8歳の頃である。

 当時の新開地は全盛期には及ばないもののまだ賑やかだった。そのシンボルが「ええとこ、ええとこ聚楽館」と謳われた松竹系の大きな映画館で、たしか最上階はスケートリンクだったと思う。映画を見たあと、「春陽軒」で豚マンを食べるか、「赤のれん」でオムライスかビフカツを食べさせてもらうのが子供としての贅沢だった。

大正時代には「東の浅草、西の新開地」と称された面影を浅草は今も十分留めているが、新開地はその名に反し見る影もなく寂れてしまったのは、諸行無常の感がある。

中学生になると、ゴジラが好きだったので、新開地の東宝で、加山雄三さんの若大将シリーズとの二本立てなどを一人で観に行った。 

 高校生になると東宝の向かいにあった映画館でリバイバル物3本立てをよく観ていた。『十戒』や『ベンハー』など長編物や『隠し砦の三悪人』、『椿三十郎』などの黒澤監督作品もよく観たものだ。 

大学生の頃は日活ロマンポルノとか今としては他愛もないR指定映画も多く観ていたが、人はパンとパンツのみに生きるにあらず。名女優キャサリン・ヘプバーンの『冬のライオン』やリバイバル上映の『シェーン』やイングリット・バーグマンが眩しい『誰がために鐘が鳴る』など名画も観ていた。

 社会人になると、元来怠け者の私でも一心不乱に仕事をしていたこともあり、長男を連れてドラえもんとか幼児向けの漫画を見に行くぐらいであまり映画館に足を運ぶことはなかった。

 子育てが終わって55歳ぐらいになると、夫婦だけでの外出が出来て、夫婦割引を利用して二人で映画を観ることが多くなった。

その頃の5~6年間で妻と見た映画を中心に心に残る映画を挙げれば、まず『今度は愛妻家』。男は妻を亡くして妻への愛を知る。幽霊となった妻は生前に口に出して欲しかったと言う。面白ろうてやがて切なきこの映画かな、盗作かつ季語なし字余り。強面の石橋蓮司さんのオカマ役も想定外で笑えた。『シンデレラマン』は元世界ヘビー級チャンピオンの実話だ。どん底から家族のために這い上がるサクセスストーリー。当時の私の心境にフィットしていた。妻役のレニー・ゼルウィガーの英語も魅惑的だった(洋画は字幕に限る)。『男たちの大和』も涙に暮れ、妻がそっとハンカチを寄せてくれた。『ドリームガールズ』はアカデミー賞助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンがビヨンセより目立ち、エディー・マーフィーの歌が上手いのに驚いた。2008年度アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』も泣けた。翌年の同外国語映画賞を受賞したのが『瞳の奥の秘密』。アルゼンチンの軍政下での検察の不正、キャリア女検事と主人公のノンキャリ事務官とのロマンスがテーマであるが、死の捉え方に興味を覚えた。

 妻を惨殺された銀行員が、検察が不当に釈放した犯人を自分で捕まえて25年も納屋の牢に押し込めた。普通は殺すのに。理由は、死んだらそれで終わり。生き地獄を終生味わせるためだ。ストーリー上そうなるのか、それともアルゼンチンは死刑廃止国なのでそうなるのか。はたまた、クリスチャンの世界では死ねば神に救済されてしまうと映画監督は問題提起をしているのだろうか?


死刑廃止が世界の趨勢だが、死刑実施国からアメリカが完全に抜けてしまうと、日本が中国や北朝鮮と同列に並べられてしまい、ちと分が悪いが、私は死刑存続に賛成だ。昔のハンムラビ法典に「眼には眼を。歯には歯を」と書いてあるのは、復讐を煽っているではなく、復讐がエスカレートしないように歯止めをかけているのだ。

人が殺されたら、殺した人に死ね、そして地獄に落ちろ!と言ってはいけない。人の命を奪ったら、地獄に行かなくとも自分の命も無くなるというのは法典の趣旨に適うだろう。

 邦画の『幸福の黄色いハンカチ』では、高倉健さんが扮する主人公が妻の流産を機に夫婦喧嘩となりそのむしゃくしゃから路地ですれ違った男をはずみで殺してしまう。

たしかに、高倉健さんへの贔屓目でなくとも仮に死刑を適用するとすればそれは極刑すぎるのかもしれない。

 しかし、最近死んでしまいたいが自分では死にきれず、駅前などで無差別殺戮を起す事件か少なくないが、加害者の人権ばかり主張する人権派弁護士を許さなかった天才犯罪心理学者故小田晋先生によれば、それもまさに自殺行為だという。巻き添えにて命を落とした方は浮かばれない。死んでお詫びするしかないだろう。


2013.6 NO.24 
ゆい と ぬい

 昨年度の女の赤ちゃんの名前ランキング1位は結衣(ゆい)。若い男子ならガッキーこと新垣結衣さんを連想するだろう。私のようなオジンとなると夏川結衣さんを思い浮かべる。一時イケメンお笑い芸人と噂になっていたが、別れたとのことで得意然とした彼の顔を想像しなくて済むのはなによりの僥倖だ。

 「ぬい」という名前は今時あまり聞かない。思い浮かべるのは大阪の料亭「恵川」の尾上縫女将しかいない。平成の初め一料亭女将が北浜の天才相場師とし脚光を浴びるも巨額詐欺事件を起こし世間を大きく騒がせた。小説(『女帝 小説・尾上縫』)にもなった。

 この女将を私たちに紹介してくれたY君との出会いは遠き日の大学時代に遡る。

 昭和44年の新年早々東大安田講堂を占拠する全共闘と機動隊との攻防をTVにてかたずを飲んで見守っていた。なんとか東大入試が中止にならないように願っていたが、結局東大校内は荒れ果て東大入試は中止に決定してしまった。

 当時私は京大経済学部を志望していたが、東大入試が中止になれば東大志望者が多数都落ちしてくるとの噂で、私より成績の良い人たちが次々と神戸大学(神大)経済学部に志望を変更していった(理系の人の多くは阪大へ)。当時神戸高校の生徒はせめて神大ぐらいはとの認識をみな持っていた。私はせっかく人一倍受験勉強したのにと2~3日ふて寝して抵抗を試みたが、担任の先生のちょっとした反撃に遭い早々と武装解除した。

 他校と同様神大も合格後半年ほど学校が閉鎖されていた。封鎖が解け登校してもそれほどうれしくもなかったが、ほどなくして麻雀を覚え、下宿している学生のところに行くことが多くなった。下宿先では有名画家の絵画を模写した絵を飾る人や、同じ麻雀を覚えたてのハズなのにもう理牌せずに難しい手が読める人などが居て驚いた。一番親しかった麻雀仲間には、灘中・灘校出身のT君がいた。2つ年上で京大受験に2度失敗し、3度目の正直と思っていた矢先東大入試中止のあおりで神大に来ていた。ある種オーラを放ち、就活でも東京海上保険、三井物産、第一勧銀と超一流企業すべてに内定を得ていた。一つ年上のO君は体は小さいが才気立ち、ナポレオンタイプというべきか。卒業後損保に行き将来を嘱望されていたが、母親の病気を機に故郷岡山に帰り不動産鑑定士として活躍している。豊かな才能を持つ人がゴロゴロ居ると分かり、受験勉強しか取り柄のない自分はこの大学で本望だと思えるようになり、それ以降身の不運をかこつことはなかった。

親しい麻雀仲間のもう一人がY君で、ともに現役でおとんぼ(関西弁で末っ子)同士ということもあってお互いバカにしあったり、よく口喧嘩していた。

 Y君は某都銀に入行したので、同業のよしみで折にふれ連絡を取り合っていた。女性にまつわる話も聞いたが、あの顔でよくもと思うが、それも彼の才能なのであろう。

 その彼が大阪の支店にいた頃(平成元年前後?)、恵川の女将を当時私が居た銀行で取締役大阪支店長をしていたI支店長に紹介したいと連絡してきた。

なぜY君が紹介したいと思ったかその理由は定かではないが、ともあれI支店長と一緒に女将の料亭に向った。女将のお酌で当時人気の高かった越乃寒梅を賞味した後女将の行きつけのスナックでカラオケに興じたのだが、京大出のI支店長に対し死んだお父ちゃんも京大出と女将が言ったのを横で聞いて、思わず眉に唾をつけそうになったことを覚えている。

 女将は当時何十億単位のお金を動かしており(当時理由はよく分からなかった)、手形や小切手の当日他券過振りという銀行の掟破りをさせて、支店がそのリスクを負ってまでそれに応えるとより大きな預金をもらえるという仕組みになっていた。某都銀の支店長は日参していたが、Y君やI支店長は一目置かれていて、札びらで頬を叩かれるようなことはなかったようだ(もっとも日参した都銀支店長も女将に頭を下げずにお金に頭を下げていたのであろうが)。

 こんな多額の個人預金をする人はめったにいないので、銀行内の個人預金獲得コンペではI支店長も大いにメリットを享受したが、その時は私の紹介だとは一言も言わなかった。バブルがはじけ女将の窮地を間違った形で救おうとした某信金の定期預金偽造発覚を機に一大事件として表面化すると、今度は女将を私が紹介したとあちこちにI支店長は言いまくった。それはないよと思ったが、高校の先輩で無理を頼んで仲人をお願いした経緯もあり、また、I支店長は偽造事件の関連で地検に呼び出され、(当然無関係なのだが)極めて不愉快な目に遭ったらしいので、まぁいっかと不問に付した。

 当時某週刊誌は大阪府警がパンドラの箱を開けそうになってあわてて蓋を閉じたと書いていた。Y君に素顔を垣間見せていた女将はダミーとしか私には思えない。

 産業金融の雄ともいうべき天下の日本興業銀行が、一女将に深入りし、後発取引ながらなぜ大きなババを掴む羽目に陥ったのか、その真相は闇に葬られた。そして数年後興銀の名はこの世から消え失せた。


2013.5 NO.23   ハンベイ と シンベイ

第二次世界大戦敗戦後日本は戦争放棄を宣言した。というより、米国に戦争放棄させられた。戦争を放棄すればどうなるか。農薬を撒かない畑を想像してみよう。周りの農薬畑から害虫が一斉に押し寄せ野菜は虫食いだらけになってしまう。隣国の中国、ロシア等がこれ幸いと攻めてくるのが普通だ。

 1815年のジュネーブ会議で国際的に認められた永世中立国のスイスでさえ、国民皆兵であり、『黒いスイス』(福原直樹氏著)によれば、冷戦時代には核兵器の開発さえも一時進めていた。自国を焦土にしても国を守り切るという強烈な防御意識と覚悟のほどは他国が手を出す気持ちを萎えさせるに余りある。

 日本はスパイ天国といわれているし、大きな地下道があるとも聞いたことがない。核兵器の不発弾ともいえる原発も所狭しと配置する。国士故猪木正道氏に40年以上前から空想的平和主義だと警鐘を鳴らされておきながらまったくと言っていいほどに無防備なのはひとえに最強のアメリカがバックにいると思うからだ。

 したがって、日本には真の意味での反米派などいない。『戦後史の正体』を書いた孫崎亨氏の言を借りれば、親米派の中に対米追随派と自主路線派が存在するだけだ。

 孫崎氏は米国に対し自主路線派であるべきとするが、それは当然として、ならば中国に対しても自主路線派であるべきで、『アメリカに潰された政治家たち』を執筆するのなら『中国に籠絡された政治家たち』も上梓してもらいたい。

 

黒船の来航により200年の鎖国の眠りから眼を覚ました。

朱船の尖閣諸島への襲来により平和ボケから眼を覚まそうとしている。

 将来の問題として、仮に日出る中国と日没する米国と仮に選択せざるを得ないとするなら、どちらを元祖日出る国日本は選択すべきであろうか?

中国の傘下に入った場合はどうなるか。13億人もいる中国なら、1億程度人口が増えてもさして問題にならない。自治国とか一見自主性を尊重するふりをするが、格段の軍事力を背景に日本女性は漢民族との婚姻を強要され、日本人男性は日本人女性と結婚できず、長い年月をかけて男系日本人は根絶やしにされてしまうかもしれない。チベットやウイグルを見ればそれは妄想だと一笑に付すことはできまい。

米国はキリスト教の布教が進まないのは分かっているし、51番目の州にすると総人口の3分の1にあたる日本人が市民権を持つことになる。そんなことは考えない。

米国にいまだ支配されているという向きもあるが、だとしても間接統治だ。日本政府には厳しい要求をしているかもしれないが、我々庶民が直接強要されることはない。影響は、ハンバーガーチェーンが蔓延し、子供達の味覚が劣化?したぐらいだ。

米国は日本と絶対に戦争をしたくない。再度戦争しても負けるとは思わないが、日本兵の優秀さ、特攻隊へのトラウマからしても絶対に敵に回したくないと思っているハズだ。日本の特攻隊は、「愛する人を残して死にきれぬがお国のため死んでいかねばならぬ。犬死してなるものか」と砲弾の嵐の中を掻い潜り、鬼気迫って体ごとぶっかってくるのでアメリカ兵は恐れおののいた。

 今の若者は軟弱になったと言われるが、この前のWBCでの内川選手の号泣をはじめ世界で戦う石川遼君や浅田真央さんやオリンピック選手たちを見て分かるとおり、日の丸を背負ったときのプレッシャーや責任感は昔と全く変わってはいない。韓国の前大統領は、竹島上陸を強行した後図に乗り天皇を侮辱する発言をし、それに対する日本国民の怒りの凄まじさを知って愕然としたことだろう。戦後ベネディクトが書いた『菊と刀』での日本人とコアな部分で変わっていない。日本人のDNAが60年そこらで変わるものではない。だから米国は日本を自分の弟分にし続けているのだ。



中華思想及び「漢賊並び立たず」の中国とアメリカアズNO1の米国が手を結ぶことはない。落日の米国は弟分の日本に軍事負担の増強を求めてくるだろう。日本は防衛力を強化し自分の国は自分で守るという気概を見せなければ、声高に叫んでも沖縄県民の悲願である日米地位協定の撤廃は成し得ない。

尖閣の先の沖縄を見据える中国は挑発を止めないだろう。かつて勝海舟は暴漢に襲われ時、刀の柄に手をかけただけで暴漢たちをビビらせたと伝えられている。竹光やさや侍では舐められて当然だ。真剣ならばこそ威圧できる。戦争を暴発させないためにも防衛力強化への体制変革が焦眉の急だ。

 聖徳太子は身の程知らずで隋の皇帝に日没するとタメ口をきいた訳ではない。隋を取り巻く情勢を理解した上のことだという。読みどおり隋は怒ることができなかった。

日米の今後の関係も、聖徳太子に笑われぬよう、一時の愚兄愚弟のズブズブの関係ではなく、腕っぷしの強い兄を賢弟が諌めるそんな関係を目指してもらいたいものだ。






2013.4 NO.22 さくら と さわら

 桜は春を代表する季語。木ヘンに春と書けば「つばき」。歌手の小林幸子さんが歌う『雪椿』は雪がつくが新潟で4月から5月に花が咲くので春の季語。「寒椿」は冬の季語となる。

 魚ヘンに春と書いて「さわら」。春子(かすご)は魚の王様鯛の稚魚。秋の稚魚は小鯛と呼ぶとのこと。

 清少納言は『枕草子』で「春は曙」と謳い。中国の孟浩然は「春眠暁を覚えず」と言ったが、寒さのあまり夜明けに起きるということがなくなってきたという意味らしい。私も前立腺肥大&癌で寒いとよけいに頻尿になり辛い。北欧の人々と同じく首を長くして春の到来を心待ちする。

 春が来たと感じるのは、若い頃はキャンディーズの歌う『春一番』。2月頃から「もう直ぐ春ですね・・・」と曲が流れるとうきうきした気分になったものだ。銀行員時代住んでいたところは、新幹線新神戸駅から北へ7キロのトンネルを抜けた山間の新興住宅街で、鶯がホーホケキョと鳴くと春が来たと実感した。

 東京に居を移した今では墨田川の桜並木。たらの芽、ふきのとうの天ぷら。ゴルフのマスターズの開催に春を感じる。4大メジャーの一つであるこのゴルフトーナメントが毎年4月上旬に開催され、Well, it's spring time in the valley on Magnolia Laneから始まりWooden-shafted legend, Bobby Jones.で終わるマスターズのテーマソングを聞くと春本番を意識する。

 

 春は明るくて良いことばかりだけではない。体も冬モードから夏モードに切り替わる過渡期で体調を崩すことが多い。肝臓も春に負担がかかるという。

 「木の芽どきは・・・・」と昔から言われるが、自律神経が乱れ、環境変化のストレスと重なって鬱になる人も多いらしい。

 男は痛風。女はリューマチと言われるが、リューマチも春から夏にかけて多く発症する。風が吹いても痛いといわれる痛風も梅雨や夏よりも春から初夏にかけて多く発症する。数年前ゴールデンウイーク(GW)の前日に定期的な成人病予防検査のため血液を採取した。今日くらいは羽目をはずしてもと、中華料理店にて餃子と豚の角煮でビールを呷ったら、その夜中トイレに立とうとしたら激痛が走った。プリン体というガラスの破片のようなものが膝の神経を串刺しにするのか。しかたなく四つ這いになってトイレに向かう姿はまさにホラー映画のTV画面から出てきた貞子状態。真夜中で家人が見たら、ギョ!とするに違いない。悪いことに痛みと炎症を抑える薬ロキソニンを切らしていた。おかげで寝正月ならぬとんだGWとなってしまった。妻のいたわり(いたぶり?)の言葉はいつも決まって「罰が当ったのよ!」である。

 

春は別れの季節でもある。有名な杜甫の『春望』に出てくる「國破山河在 , 城春草木深・・・」は囚われの身となって家族との離別を嘆いている。私は逆に平成6年の春休みに家族を東京に呼び寄せた。単身で先に上京していたが、二重生活が困難となり子供達にとって初めての大きな別れを経験させてしまうことになった。友達との別れはつらかったと思うが、今にしてみれば就学、就職にはかえって良かったのではないかと思う。東京出身の妻は喜ばずとも反対しないと思っていたが、大泣きに泣いた。妻にとって家は自身が築いた城なのだろう。当時小学校2年の末娘が風呂から出てきて『ようやく(お母さんが)泣き止んでくれたわ』と言ったとき、可笑しくもあり救われた気がした。妻は東京に居るお蔭で自身の母の介護や最後を看取ることができた。                                                   

 

子供達も社会人となり、自分も癌になって後ろを振りかえるようになると、心の奥底にとげが刺さっているのに気がつき、それがじくじくと痛み始めていた。母は私達家族との同居を楽しみにしていた。その夢を唐突に壊し私と家族は去って行った。

 最後の時も、昨年末義母の亡くなった翌日に思いがけず母も逝き、お通夜・告別式の日程が重なり、ひとり神戸に戻った私は義母の葬儀には出られなかった。亡き母に「アンタの母親はワタシだよ!」と叱られている気がした。

 母が亡くなるまでの1年半の間神戸に住む実兄が「こんなに尽くしてくれるとは思わなかった」と母が言うほどに甲斐甲斐しく母の看病をしてくれた。兄に感謝!感謝!である。

2013.3 NO.21  ポツダム と ポダム

 1945年7月にドイツのポツダムにおいて米国、英国、ソ連の首脳が集まり、日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言が採択された。それを日本に強要するも思惑どおり日本が拒絶し、日本に原子爆弾が投下された。

 アメリカ国民は「戦争を早く終わらせるために原子爆弾を使ったこと」を正当化する。日本の徹底抗戦によるアメリカ兵の犠牲者を増やさないためにはよかったと。

しかし、長崎の政治家ならずとも、日本人がそれを口にしてはいけない。日本兵や日本の一般人ことも考えていたなら、有史上もっとも残忍で、一瞬のうちに数十万人を灰に帰するような原子爆弾は使えない。

トルーマン大統領は、非キリスト教圏・非白人社会で実験するという悪魔の誘惑に負けてしまった。広島でウラン爆弾を投下した3日後長崎にプロトニウム爆弾を投下し、日本を、日本人を実験台とした。

トルーマン個人の狂気だとしても、アメリカはとりかえしのつかない、類をみない残虐な蛮行を覆い隠すために、被爆敗戦国日本に原子力の平和利用を押し付けに来たと思っていた。当時の東電木川田社長は「そんな危ないものを他の地域には置けない。故郷の福島に」とそのような美談的な話だとお人よしの私はそう思っていた。が、『原発・正力・CIA』(有馬哲夫著)、『日本の原爆』(保阪正康著)等を読む限りにおいて、そうでもないらしい。

 原発導入の歴史を振り返ると、当初アメリカは敵対国だった日本に核兵器製造につながる原発の動力炉を与えるつもりはなかった。CIA文書でポダムと暗号化された正力松太郎氏(読売新聞社中興の祖)がマイクロ波通信網による日本メディアの独占という自らの野望のため、総理大臣をめざし、その手段として原発導入を推し進めようとした。その正力氏をCIAは日本の反米運動及び共産主義化の阻止の目的に利用しようとしたことがCIA文書に書かれているらしい。福島県も、ウラン鉱石採掘候補地として戦前から注目されていた土地柄で、敗戦の日まで中学生が動員され、採掘作業に従事していたとのことである。

当の読売新聞は3.11以降内部検証したのであろうか。昨年の5月29日付け朝刊にて、1面から数面にかけて前日の国会の原発事故調査委員会での菅元総理に対する意見聴取の模様を伝えながら、社説欄においては次のように書いていた。「原発ゼロでは立ちゆかない」と題して、エネルギー比率を論じたあと結びにこう書いている。「中国をはじめ新興国は原発の新設を計画しているが、日本が『原発ゼロ』に向かえば、原発の輸出ビジネスは展開できなくなる。原子力技術を維持し、安全向上で国際貢献することも、忘れてはならない視点である。」と。思わず政府の広報機関かと愚痴ってしまった。福島の事故原因の調査もままならぬ折、当の東電がその記事の1か月後に事実上原発輸出事業から撤退を表明したというのに。大手メディアのあるべき姿とは到底思えない。

翻って、戦前核開発に携わり、戦後水爆実験に反対していた、物理学者武谷三男氏が「原子力の平和利用は被爆国の権利だ」と主張して、石油が枯渇すると予測されエネルギーの自給が当時の命題となっている中で、安全性、問題点を棚上げにしながら原発を強力に推進していく者たちに免罪符を与えてしまった。科学者としての良心の呵責から発したことかもしれないが、結果として戦前戦後と二度に亘って政治に利用されることになったのは皮肉である。

保坂氏は上記著書の中でノーモアヒロシマ、ナガサキにフクシマを加えるべきでないと言うが、責任主体の違いがあるにせよ、原子力の軍事利用と平和利用とはコインの裏表しかでないことを理解したからには、脱原発は、もはや経済効率や事故の確率論の問題ではなく、被爆国日本人の矜持に関わる問題なのだと思う。

ドイツはしたたかだ。いち早く脱原発を宣言しながら、ちゃっかりと隣国フランスから原発エネルギーを買うつもりだ。島国日本はそうはいかない。「武士は喰わねど高楊枝」と揶揄されようとそれがあるべき日本の矜持だと思う。

 それが正論だと思うのだが、それでも、一部有識者の中には、国防の観点から、全廃するのではなくカウンターパワーとしての核武装への道を残すべきという意見もある(もっとも、『国防の常識』の著者鍛冶俊樹氏は今の日本の体制では核武装は難しいと言っているが)。百歩譲って仮にその路線で進もうとも最新鋭の実験炉が一基(他国から狙い撃ちされないよう米軍基地の近くに)あれば足りるだろう。他の先進国が研究を断念した核燃料リサイクルも必要なくなるだろう。

 研究費をもらうメーカーや族議員にとって重要なのは核燃料リサイクルが完成できるかどうかではなく、毎年800億円以上の予算が確保できるか否かだと言えば言い過ぎだろうか?

そんなお金があるのなら、被災地復興や支援に回してもらいたい。

2013.2 NO.20  カンオケ と カラオケ

 カンオケは狭くて暗い箱に一人で入る。カラオケは、普通数人で入り、歌や踊りで騒がしい。もっとも最近一人カラオケも流行っているが、電飾が点滅してカンオケのように真っ暗ではない。

銀行の組合の専従時代に組合員関係者の葬式によく参列した。20年以上前であったが、兵庫県の加古川あたりでは文字通り桶に亡骸を入れて運んでいた。土葬だったと思う。

 組合員の家族で天寿を全うし大往生した場合など行かないことが多い。娘が不良に走りそれを苦にしたお母さんの葬式は参列して痛ましかった。若くして父親が亡くなった葬儀では残された母娘を切なくて見られない。普段付き合いがない人がほとんどで「最後のお別れに顔を・・・」と言われると正直つらかった。葬式は何度行っても慣れなかった。


 30年以上の昔、新婚旅行中の沖縄観光タクシーの中で、妻は運転手さんの勧めで歌ったが、私は歌わずそれから20年以上妻の前で歌うことはなかった。

 50歳を過ぎたあたりから、ツッパリが消えたのか、あるいは妻との壁がなくなったのか、妻の前で歌いもし、また涙も見せるようになった。

 55歳以降は夫婦割引になるので映画も一緒に行くようになった。カラオケも夫婦で行っていたが、妻が付き合ってあげたと恩着せがましいので、最近は一人カラオケにも行く。

家の近くのカラオケボックスに一人で最初に行ったときは勇気が要った。帰るとき1時間半で300円と聞き900円を出そうとすると、300円(30分100円)だと念押しされた。あまりの安さにびっくりするやら、悪いやら。それからは焼酎とか日本酒とかを頼むことにしている。それでも野口英世先生1枚でお釣りが来る。

 歌は世につれ、世は歌につれというが、昭和49年前後に流行った歌を聴くと初めて親元を離れ東京の独身寮でさびしい思いしていた当時を思い出す。井上陽水さんの『心もよう』、ばんばひろふみさん(当時はバンバン)の『「いちご白書」をもう一度』を聞いたり、自分で歌ったりするとあの頃の切ない気持ちが蘇ってくる。

 伊勢正三さんやイルカさんが歌う『なごり雪』を聞くと、当時好きだった人を思い出す。お父さんが迎えに来て彼女が関西の故郷へ帰るのを東京駅新幹線ホームで同僚達と見送るとき、「汽車を待つ君の横で・・・東京で見る雪はこれが最後ねと」という歌詞を噛みしめていた。その人に「自分の気持ちは言わないで、相手の気持ちばかり聞こうとする」と言われた。ゴールデンボンバーの歌じゃないけれど、自分は女々しい人間だということを初めて悟って、辛かった。それから男らしくを意識してきた。妻と結婚できたのもこの反省が活きているのではと思う。

 

今若い人たちとのカラオケ会では、演歌唄ってエ~ンカと吉幾三さんの『酒よ』や金田たつえさんのド演歌『花街の母』などを唄うと若い人が引いてしまう。今どきの歌は歌えないので、チェッカーズの『ジュリアに傷心』を歌うが、妻は藤井フミヤさんのイメージ壊れると揶揄する。他にシャ乱Qの『いいわけ』やサザンの『HOTEL PACIFIC』などノリのいい歌を歌うようにしている。

一人カラオケでは気兼ねなく練習できるので、英語の歌もレパートリーに入れることが出来てきた。ビートルズの歌は英語がやさしいので、歌い易い。フランク・シナトラさんの『My Way』も十八番とは言えないまでも歌えるようになったが、高校時代にオペラに進んだ方がよいと煽てられた妻が、この歌はアンタごときが歌える歌ではないと上から目線で水を差す。前に不用意に「歌声はたしかにきれいだが、歌心がない」と言ってしまったのを妻はいまだに根に持っている。

 

歌うことも好きだが、聴くことも好きだ。プロで上手いとなると、女性歌手では、美空ひはりさん→八代亜紀さん→桂銀淑さん→坂本冬美さんが歴代の演歌の女王と思っている。動静が心配された桂銀淑さんも、高校の同級生の弁護士によると、ゴルフ旅行先の済洲島で歌っていたということで安心した。

 男性歌手となると、松山千春さんある番組で森進一さんを挙げ、郷ひろみさんもだれも真似できないだろうと言っていたが、私も同感だ。


日々妻に言わんでよい事をわざと言い、日に1度は死ぬ? 死んで! 死ね!!と言われる。『死ねっと言われってぇ~、その気にぃ~』ならずとも、遅かれ早かれカンオケに入ると思うが、白州次郎先輩に肖り、葬式無用、戒名不要と遺言している。命日には家族でカラオケに行ってダメ親父を思い出してもらえればそれで十分だ。






2013.1 NO.19  タイワン と タイアン

 

昨年の正月は台湾で元旦を迎えた。私の長男が台湾の女性と結婚することになり台湾で婚約披露宴を挙げるために渡航した。

 所変われば品変わるというが、日本と台湾では一事が万事かなり違う。

 台湾・松山空港に着き、地下鉄で台北駅に向かう時、車中でガムをかんでいたら義娘(新婦)に注意された。車中で食べていけないと(日本でも行儀が悪いが、ガムも駄目らしい)。

日本の新幹線を導入した台湾新幹線で台北から台中に向かったが、駅のトイレにも留意が必要と言われた。ホテル以外の駅や民家のトイレでは使用した紙を流してはいけないらしい。そのためか日本より臭いが立つみたいだ。義娘の実家で用を足して出るとき、ドアを閉め切ってはいけないと教えられた(閉まっているのは誰かの使用中を意味するらしい)。

 台湾では大晦日がめでたいということで婚約披露宴が行われた(日本で結婚式の日取りに選ぶ「大安」の語源は“泰安”と言われ、台湾の新竹州にあった泰安郷という地名に由来するという説もある)。旧正月の前日の大晦日は爆竹を鳴らしもっと賑やかだということだ。

婚約披露宴も、日本では披露宴等親族が末席に座っているが、台湾では新郎新婦と親らが一番前の中央テーブルに陣どる。台湾では一人に案内すると10人前後一緒に集まってくる。祝金も日本のようには必ずしも必要ではないらしい。10人席用のテーブルが30用意されたが、余ったのは1テーブルだけであった。主宰の新婦のご両親はさぞかし大きな散財になったことだろう。結婚式ならもっと凄いという話だ。

 当初は各テーブルにお酌に回ると聞きいていた。酒が強くない私は各返杯を受けていたらダウンしてしまうと心配した。が、新婦のご両親に付き添われて各テーブルに挨拶すればよいということになり、安心した。それでも28テーブルも廻りそれなりに大変だった。

 

 たった4日間での台湾滞在ではあったが、文明の恵みと引き換えに我々が失った、古きよき時代の日本の原風景がそこにあった。

 私どもが台湾に渡ったとき、向こうの親戚一同で熱烈な歓迎を受けた。帰るとき妻が感激のあまり泣いてしまうほどだった。日本統治時代の小学校で一時期日本語を話していた新婦の祖父達は、言葉の通じない私達を気遣って、日本語を思い出しながらなにかと話しかけてくれた。また、新婦の母方の祖父は風光明媚な日月潭に向かう貸切バスの中で日本の歌謡曲を歌ってくれた。日本に来たことがなく訪日を希望しているということなので、是非実現させたいと思っている。

 週刊文春で旅のエッセイの特集があったが、作家の角田光代さんは「はじめての一人旅をするなら」と題して、真っ先に台湾を薦めると書いてある。してその心は「台湾で感じる、ごくふつうだけど得難い善意」と言う。私も同感だ。我が妻は亡き岳父に似てやじろべぃのごとくやや体を左右に揺らしながら歩く。歩く後姿を見て、日本人なら「足でも悪いのかしら」と陰口で留まるが、台湾の親戚の女性達は、さぁーと駆け寄ってきて「足が痛いのかい? サンダルを買ってあげようか」と心配して声をかける。事情が分かって大爆笑だ。

 明るくて親切な台湾の人々と今般姻戚関係になったことを心から嬉しく思っている。

子供の結婚に際し国際結婚について聞かれることがあるが、火星人なら考えるが同じ地球人なのでと答えている。ましてや親日の台湾なので、無問題。

 結婚した長男は私の4つ上の実兄に良く似ている。DNAはシャッフルして継がれるので、兄に似ていても不思議ではないが、その兄も若いとき結婚まで至らなかったが中国人を好きになった。私の家系には漢民族?の血が入っているのではないかと思う(だからといって親中派ということではない)。

 お笑いコンビ「ピース」の吉本イケメンランキング1位、熟女好きの方でなく、キモカワ系の又吉直樹さんは、超がつく文学青年で、エッセイ『第2図書係補佐』上梓した。その中で、こんなくだりがある。沖縄で生まれた又吉さんの祖父はハワイに渡り、当時としては珍しくアメリカ女性と結婚し、終戦後に又吉さんの祖母と再婚した。又吉さんの姉は子供の頃外人、外人と他人から言われ、又吉さん自身も小学校3年生まで金色の体毛が生えていたと書いている。祖父の前妻とは当然関係ない。私は又吉さんの祖父にはアメリカ人と同じ血が入っているからなのではと思う。

 TVで長く生き別れた親子が再会を果たした場面は涙なしには見られないが、探し求め合うのも、互いのDNAが呼びあっているのだと私は勝手にそう納得している。

2012.12 NO.18 マネ と モネ


  印象派画家マネ(Manet)とモネ(Monet)は日本語でもフランス語でも一字違いで紛らわしい。駆け出し当時のモネのサロン入選作品をマネの作品と間違えられ、しかもマネ自身は落選という、先輩マネとしては憤懣やるかたなしの事件も起きている。

 印象派の父と称せられるマネ(1832年~1883年)と印象派を代表するモネ(1840年~1926年)。後輩のモネがマネをマネしたわけではなく、あくまでマネはマネで、モネはモネということらしい。吉川節子女史の労作『印象派の誕生~マネとモネ』を読むと屋外制作についてはモネが先駆者でマネの方がマネしたと言えるとしている。

 日本人は総じて印象派の画家が好きだが、私は白ポチャで健康的な裸婦を多く書いたルノワールが好きで高校生?の時に画集を買った(やや小太り気味の妻に他人ほど違和感を覚えないのはその為かもしれない)。

 昨年6月国立新美術館にて印象派・ポスト印象派展を観に行ったが、印象派の絵はある程度は離れて見ないと輪郭等がよく分からない。だが、私は目が悪くかえってぼやけてしまうので展示画集を買うことにした。

 印象派は日本の浮世絵にも影響を受けたとされる。モネの自宅には日本庭園を造り、また浮世絵も多数購入したと言われる。

 最初の浮世絵師菱川師宣が亡くなった1694年の100年後1794年に謎の絵師東洲斎写楽が登場した(その200年後の1994年に私が居を東京に移したが、何の関係もないか)。

 上記印象派展の一か月前(昨年5月)には上野国立博物館の写楽特別展に行ったが、世界から浮世絵が集められ、また現歌舞伎役者所蔵の版画も展示されていた。

写楽の作品が第1期から第4期に分かれて展示されていた。第1期は人気の高い大首絵で、それ以降作風が変わり次第に良さが消えていくのだが、第4期になると、第1期のカリカチュア的な個性がなくなり別人の作とも思えるほど変わってしまっている。

 浮世絵は今で言うプロマイドなのに、写楽の絵は例えば男が女役を演じたそのままを書いた。美人と映らないので役者自身や贔屓筋からブーイングを浴びてしまったらしい。

華々しくレビューしたにもかかわらずたった10ヶ月で筆を置くことになったが、版元の蔦屋重三郎がクビを言い渡したのか本人が自分の意思で筆を折ったのかは分からない。

浮世絵に触発された印象派はマネの『草上の昼食』のごとく当初の非難の嵐をもろともせずそれまでの写実主義から解き放たれたが、逆に写楽は非難に耐えられず花火のようにさっと消えてしまったのは画家としての信念の差なのだろうか?

謎の絵師写楽の正体は昨年NHKの特番で明らかにされていた。ギリシャで肉筆画が見つかり、筆のタッチで有名絵師との相違を調べていった結果、消去法で残った、阿波の能役者斉藤十郎兵衛ということになった。元々江戸時代にそれを示す記述があったにもかかわらず素人がこんな見事には描けないとして有名絵師等の別人説が長らく流布されてきた(推理小説の作家達は、一つのネタがなくなり、がっかりしているかもしれない)。


 写実性の高いカメラの発明も大きな転機となり印象派が生まれたのだが、その期間はそれほど長くなく、セザンヌ等ポスト印象派を経てキュービズム、抽象画へと現代絵画につながっていく。

印象派台頭以降写実絵画はすっかり衰退したかと思っていたら、最近また見直されてきて、日本でも写実画専門のホキ美術館が一昨年誕生し注目を集めている。先月千葉のJR土気(とけ)駅の近くにあるその美術館に行ってきた。

石黒賢一郎氏作の廃坑の立坑櫓を描いた『SHAFT TOWER』などの静物画もすごいが、なんといっても人物画に目を見張る。当館の代表作品とも言える森本草介氏作『横になるポーズ』は他所に貸出中であったが、新作裸婦像『NUDE』が展示されていた。写真と見紛うごとく極めて精緻、リアルに描かれており、人がなせる技かと驚嘆する。芸術作品なので当たり前とはいえ、前立腺がんホルモン療法で男性ホルモンが枯渇している私は上気することもなく冷静に見られるのは幸か不幸か分からない(いや、きっと不幸に違いない)。


美術館めぐりは貧乏人にとってはありがたい贅沢だ。とくに東京は大きな展示イベントが多く世界中の美術館所蔵の名画が居ながらにして鑑賞できるのがうれしい。

 夫婦での旅行や出張で地方へ出かけるときも美術館に行くことにしている。少し前富山県の近代美術館(アンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー画も展示)に行って来た。

 次は、夫婦とも金沢の街が好きなので話題の金沢21世紀美術館(2004年3月に金沢に行ったが、その約半年後にオープンした)に行きたい。さらに、夫婦ともまだ広島で降りたことがないので、原爆ドームに近い、ひろしま美術館(広島銀行頭取故井藤勲雄氏の原爆犠牲者への鎮魂と文化の復興への想いが結実)に行きたいと思っている。