2013.2 NO.20  オケ と カオケ

 カンオケは狭くて暗い箱に一人で入る。カラオケは、普通数人で入り、歌や踊りで騒がしい。もっとも最近一人カラオケも流行っているが、電飾が点滅してカンオケのように真っ暗ではない。

銀行の組合の専従時代に組合員関係者の葬式によく参列した。20年以上前であったが、兵庫県の加古川あたりでは文字通り桶に亡骸を入れて運んでいた。土葬だったと思う。

 組合員の家族で天寿を全うし大往生した場合など行かないことが多い。娘が不良に走りそれを苦にしたお母さんの葬式は参列して痛ましかった。若くして父親が亡くなった葬儀では残された母娘を切なくて見られない。普段付き合いがない人がほとんどで「最後のお別れに顔を・・・」と言われると正直つらかった。葬式は何度行っても慣れなかった。


 30年以上の昔、新婚旅行中の沖縄観光タクシーの中で、妻は運転手さんの勧めで歌ったが、私は歌わずそれから20年以上妻の前で歌うことはなかった。

 50歳を過ぎたあたりから、ツッパリが消えたのか、あるいは妻との壁がなくなったのか、妻の前で歌いもし、また涙も見せるようになった。

 55歳以降は夫婦割引になるので映画も一緒に行くようになった。カラオケも夫婦で行っていたが、妻が付き合ってあげたと恩着せがましいので、最近は一人カラオケにも行く。

家の近くのカラオケボックスに一人で最初に行ったときは勇気が要った。帰るとき1時間半で300円と聞き900円を出そうとすると、300(30100)だと念押しされた。あまりの安さにびっくりするやら、悪いやら。それからは焼酎とか日本酒とかを頼むことにしている。それでも野口英世先生1枚でお釣りが来る。

 歌は世につれ、世は歌につれというが、昭和49年前後に流行った歌を聴くと初めて親元を離れ東京の独身寮でさびしい思いしていた当時を思い出す。井上陽水さんの『心もよう』、ばんばひろふみさん(当時はバンバン)の『「いちご白書」をもう一度』を聞いたり、自分で歌ったりするとあの頃の切ない気持ちが蘇ってくる。

 伊勢正三さんやイルカさんが歌う『なごり雪』を聞くと、当時好きだった人を思い出す。お父さんが迎えに来て彼女が関西の故郷へ帰るのを東京駅新幹線ホームで同僚達と見送るとき、「汽車を待つ君の横で・・・東京で見る雪はこれが最後ねと」という歌詞を噛みしめていた。その人に「自分の気持ちは言わないで、相手の気持ちばかり聞こうとする」と言われた。ゴールデンボンバーの歌じゃないけれど、自分は女々しい人間だということを初めて悟って、辛かった。それから男らしくを意識してきた。妻と結婚できたのもこの反省が活きているのではと思う。

 

今若い人たちとのカラオケ会では、演歌唄ってエ~ンカと吉幾三さんの『酒よ』や金田たつえさんのド演歌『花街の母』などを唄うと若い人が引いてしまう。今どきの歌は歌えないので、チェッカーズの『ジュリアに傷心』を歌うが、妻は藤井フミヤさんのイメージ壊れると揶揄する。他にシャ乱Qの『いいわけ』やサザンの『HOTEL PACIFIC』などノリのいい歌を歌うようにしている。

一人カラオケでは気兼ねなく練習できるので、英語の歌もレパートリーに入れることが出来てきた。ビートルズの歌は英語がやさしいので、歌い易い。フランク・シナトラさんの『My Way』も十八番とは言えないまでも歌えるようになったが、高校時代にオペラに進んだ方がよいと煽てられた妻が、この歌はアンタごときが歌える歌ではないと上から目線で水を差す。前に不用意に「歌声はたしかにきれいだが、歌心がない」と言ってしまったのを妻はいまだに根に持っている。

 

歌うことも好きだが、聴くことも好きだ。プロで上手いとなると、女性歌手では、美空ひはりさん→八代亜紀さん→桂銀淑さん→坂本冬美さんが歴代の演歌の女王と思っている。動静が心配された桂銀淑さんも、高校の同級生の弁護士によると、ゴルフ旅行先の済洲島で歌っていたということで安心した。

 男性歌手となると、松山千春さんある番組で森進一さんを挙げ、郷ひろみさんもだれも真似できないだろうと言っていたが、私も同感だ。


日々妻に言わんでよい事をわざと言い、日に1度は死ぬ? 死んで! 死ね!!と言われる。『死ねっと言われってぇ~、その気にぃ~』ならずとも、遅かれ早かれカンオケに入ると思うが、白州次郎先輩に肖り、葬式無用、戒名不要と遺言している。命日には家族でカラオケに行ってダメ親父を思い出してもらえればそれで十分だ。






2013.1 NO.19  タイン と タイ

 

昨年の正月は台湾で元旦を迎えた。私の長男が台湾の女性と結婚することになり台湾で婚約披露宴を挙げるために渡航した。

 所変われば品変わるというが、日本と台湾では一事が万事かなり違う。

 台湾・松山空港に着き、地下鉄で台北駅に向かう時、車中でガムをかんでいたら義娘(新婦)に注意された。車中で食べていけないと(日本でも行儀が悪いが、ガムも駄目らしい)

日本の新幹線を導入した台湾新幹線で台北から台中に向かったが、駅のトイレにも留意が必要と言われた。ホテル以外の駅や民家のトイレでは使用した紙を流してはいけないらしい。そのためか日本より臭いが立つみたいだ。義娘の実家で用を足して出るとき、ドアを閉め切ってはいけないと教えられた(閉まっているのは誰かの使用中を意味するらしい)

 台湾では大晦日がめでたいということで婚約披露宴が行われた(日本で結婚式の日取りに選ぶ「大安」の語源は“泰安”と言われ、台湾の新竹州にあった泰安郷という地名に由来するという説もある)。旧正月の前日の大晦日は爆竹を鳴らしもっと賑やかだということだ。

婚約披露宴も、日本では披露宴等親族が末席に座っているが、台湾では新郎新婦と親らが一番前の中央テーブルに陣どる。台湾では一人に案内すると10人前後一緒に集まってくる。祝金も日本のようには必ずしも必要ではないらしい。10人席用のテーブルが30用意されたが、余ったのは1テーブルだけであった。主宰の新婦のご両親はさぞかし大きな散財になったことだろう。結婚式ならもっと凄いという話だ。

 当初は各テーブルにお酌に回ると聞きいていた。酒が強くない私は各返杯を受けていたらダウンしてしまうと心配した。が、新婦のご両親に付き添われて各テーブルに挨拶すればよいということになり、安心した。それでも28テーブルも廻りそれなりに大変だった。

 

 たった4日間での台湾滞在ではあったが、文明の恵みと引き換えに我々が失った、古きよき時代の日本の原風景がそこにあった。

 私どもが台湾に渡ったとき、向こうの親戚一同で熱烈な歓迎を受けた。帰るとき妻が感激のあまり泣いてしまうほどだった。日本統治時代の小学校で一時期日本語を話していた新婦の祖父達は、言葉の通じない私達を気遣って、日本語を思い出しながらなにかと話しかけてくれた。また、新婦の母方の祖父は風光明媚な日月潭に向かう貸切バスの中で日本の歌謡曲を歌ってくれた。日本に来たことがなく訪日を希望しているということなので、是非実現させたいと思っている。

 週刊文春で旅のエッセイの特集があったが、作家の角田光代さんは「はじめての一人旅をするなら」と題して、真っ先に台湾を薦めると書いてある。してその心は「台湾で感じる、ごくふつうだけど得難い善意」と言う。私も同感だ。我が妻は亡き岳父に似てやじろべぃのごとくやや体を左右に揺らしながら歩く。歩く後姿を見て、日本人なら「足でも悪いのかしら」と陰口で留まるが、台湾の親戚の女性達は、さぁーと駆け寄ってきて「足が痛いのかい? サンダルを買ってあげようか」と心配して声をかける。事情が分かって大爆笑だ。

 明るくて親切な台湾の人々と今般姻戚関係になったことを心から嬉しく思っている。

子供の結婚に際し国際結婚について聞かれることがあるが、火星人なら考えるが同じ地球人なのでと答えている。ましてや親日の台湾なので、無問題。

 結婚した長男は私の4つ上の実兄に良く似ている。DNAはシャッフルして継がれるので、兄に似ていても不思議ではないが、その兄も若いとき結婚まで至らなかったが中国人を好きになった。私の家系には漢民族?の血が入っているのではないかと思う(だからといって親中派ということではない)

 お笑いコンビ「ピース」の吉本イケメンランキング1位、熟女好きの方でなく、キモカワ系の又吉直樹さんは、超がつく文学青年で、エッセイ『第2図書係補佐』上梓した。その中で、こんなくだりがある。沖縄で生まれた又吉さんの祖父はハワイに渡り、当時としては珍しくアメリカ女性と結婚し、終戦後に又吉さんの祖母と再婚した。又吉さんの姉は子供の頃外人、外人と他人から言われ、又吉さん自身も小学校3年生まで金色の体毛が生えていたと書いている。祖父の前妻とは当然関係ない。私は又吉さんの祖父にはアメリカ人と同じ血が入っているからなのではと思う。

 TVで長く生き別れた親子が再会を果たした場面は涙なしには見られないが、探し求め合うのも、互いのDNAが呼びあっているのだと私は勝手にそう納得している。

2012.12 NO.18 ネ と 


  印象派画家マネ(Manet)とモネ(Monet)は日本語でもフランス語でも一字違いで紛らわしい。駆け出し当時のモネのサロン入選作品をマネの作品と間違えられ、しかもマネ自身は落選という、先輩マネとしては憤懣やるかたなしの事件も起きている。

 印象派の父と称せられるマネ(1832年~1883)と印象派を代表するモネ(1840年~1926)。後輩のモネがマネをマネしたわけではなく、あくまでマネはマネで、モネはモネということらしい。吉川節子女史の労作『印象派の誕生~マネとモネ』を読むと屋外制作についてはモネが先駆者でマネの方がマネしたと言えるとしている。

 日本人は総じて印象派の画家が好きだが、私は白ポチャで健康的な裸婦を多く書いたルノワールが好きで高校生?の時に画集を買った(やや小太り気味の妻に他人ほど違和感を覚えないのはその為かもしれない)

 昨年6月国立新美術館にて印象派・ポスト印象派展を観に行ったが、印象派の絵はある程度は離れて見ないと輪郭等がよく分からない。だが、私は目が悪くかえってぼやけてしまうので展示画集を買うことにした。

 印象派は日本の浮世絵にも影響を受けたとされる。モネの自宅には日本庭園を造り、また浮世絵も多数購入したと言われる。

 最初の浮世絵師菱川師宣が亡くなった1694年の100年後1794年に謎の絵師東洲斎写楽が登場した(その200年後の1994年に私が居を東京に移したが、何の関係もないか)

 上記印象派展の一か月前(昨年5)には上野国立博物館の写楽特別展に行ったが、世界から浮世絵が集められ、また現歌舞伎役者所蔵の版画も展示されていた。

写楽の作品が第1期から第4期に分かれて展示されていた。第1期は人気の高い大首絵で、それ以降作風が変わり次第に良さが消えていくのだが、第4期になると、第1期のカリカチュア的な個性がなくなり別人の作とも思えるほど変わってしまっている。

 浮世絵は今で言うプロマイドなのに、写楽の絵は例えば男が女役を演じたそのままを書いた。美人と映らないので役者自身や贔屓筋からブーイングを浴びてしまったらしい。

華々しくレビューしたにもかかわらずたった10ヶ月で筆を置くことになったが、版元の蔦屋重三郎がクビを言い渡したのか本人が自分の意思で筆を折ったのかは分からない。

浮世絵に触発された印象派はマネの『草上の昼食』のごとく当初の非難の嵐をもろともせずそれまでの写実主義から解き放たれたが、逆に写楽は非難に耐えられず花火のようにさっと消えてしまったのは画家としての信念の差なのだろうか?

謎の絵師写楽の正体は昨年NHKの特番で明らかにされていた。ギリシャで肉筆画が見つかり、筆のタッチで有名絵師との相違を調べていった結果、消去法で残った、阿波の能役者斉藤十郎兵衛ということになった。元々江戸時代にそれを示す記述があったにもかかわらず素人がこんな見事には描けないとして有名絵師等の別人説が長らく流布されてきた(推理小説の作家達は、一つのネタがなくなり、がっかりしているかもしれない)


 写実性の高いカメラの発明も大きな転機となり印象派が生まれたのだが、その期間はそれほど長くなく、セザンヌ等ポスト印象派を経てキュービズム、抽象画へと現代絵画につながっていく。

印象派台頭以降写実絵画はすっかり衰退したかと思っていたら、最近また見直されてきて、日本でも写実画専門のホキ美術館が一昨年誕生し注目を集めている。先月千葉のJR土気(とけ)駅の近くにあるその美術館に行ってきた。

石黒賢一郎氏作の廃坑の立坑櫓を描いた『SHAFT TOWER』などの静物画もすごいが、なんといっても人物画に目を見張る。当館の代表作品とも言える森本草介氏作『横になるポーズ』は他所に貸出中であったが、新作裸婦像『NUDE』が展示されていた。写真と見紛うごとく極めて精緻、リアルに描かれており、人がなせる技かと驚嘆する。芸術作品なので当たり前とはいえ、前立腺がんホルモン療法で男性ホルモンが枯渇している私は上気することもなく冷静に見られるのは幸か不幸か分からない(いや、きっと不幸に違いない)


美術館めぐりは貧乏人にとってはありがたい贅沢だ。とくに東京は大きな展示イベントが多く世界中の美術館所蔵の名画が居ながらにして鑑賞できるのがうれしい。

 夫婦での旅行や出張で地方へ出かけるときも美術館に行くことにしている。少し前富山県の近代美術館(アンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー画も展示)に行って来た。

 次は、夫婦とも金沢の街が好きなので話題の金沢21世紀美術館(20043月に金沢に行ったが、その約半年後にオープンした)に行きたい。さらに、夫婦ともまだ広島で降りたことがないので、原爆ドームに近い、ひろしま美術館(広島銀行頭取故井藤勲雄氏の原爆犠牲者への鎮魂と文化の復興への想いが結実)に行きたいと思っている。



2012.11 NO.17 つね と つね

 

 激太りが話題となった親日派ポップシンガーレディー・ガガさんが来日の際立ち寄るという東京の立ち喰い店で「きつねをください」と言うと、店主から、そば、うどんのどちらと聞かれる。一方関西では、「けつね!」(きつねの関西方言)と言うときつねうどんが出でくる。関東のきつねそばは、関西では「たぬき」という。天かすがいっぱい入った関東のたぬきは関西では「ハイカラ」という。そばなら「ハイカラそば」と注文する。

 うどんの出汁は、関東は鰹節と濃口醤油。関西は鰹節・昆布と薄口醤油がベースとなる。

 銀行に入行した翌年昭和49年1月に転勤で神戸から上京し神田の独身寮に入った。寮の朝食がない時は近くの麺チェーン店に立ち寄った。店には申し訳ないが、出汁が真っ黒で、すくなからずショックを受け、ホームシックになってしまった。神戸に居るときは青ねぎが臭くて嫌いであったが、東京に来てからは懐かしさからか好んで食べるようになった。

 現在東京に居を移して18年になるが、やはり関西風のきつねそばが懐かしく、出張で新幹線で大阪へ行くときは、新大阪駅構内の立ち食い店に寄る。

 関西は牛食文化で子供の頃カツと言えばビフカツであった。関東は豚食文化でポークカレーは関西人の私にとって最初は不思議に感じた。

 お好み焼きでも、今は東西関係なく豚玉(キャベツが入った生地に生卵を混ぜ込む)が主流であるが、私が子供の頃神戸では牛天が定番だった。当時お好み焼きのことを「にくてん」と称していたが、卵が入っていない生地に牛肉をのせ、その上に生卵をのせて裏返す月見天が好きだった。ただ、牛肉は火の通りが早いので、じっくりと焼くお好み焼きには向いていない。

 私が子供の頃関西ではウスターソースが主流だった。立ち喰い串かつ屋の二度付け禁止のソースもウスターソースがベースになっている。東京はトンカツソースが主流で、我が家でも私しかウスターソースを使わないので、隅に追いやられている。

 すし屋でメニュー札の一番は、関西では魚の王様たい()で、関東はまぐろだ。

 周知のことだが、うなぎは関西は腹開きであるが、関東では武士の切腹イメージを嫌い背開きになっている。関東はタレをつけて焼く前に蒸して柔らかくするが、関西では蒸さない。

私が最後の晩餐にはこれと決めている河豚は、東のアンコウ、西のフグと言われるように関西に限る。関西の食物の方がほとんど美味しいと思うが、うなぎ、煮穴子、まぐろは東京に敵わない。

 ハンバーガーチェーン・マクドナルドは関東ではマックと略称するが、関西ではマクドと言う。マイド(毎度おおきに)、オイド(お尻)、ゴクド(極道)と同じ調子だ。

 関西出身の私は、感謝の意味で「すみません」を多用する。すると東京生まれの妻はなぜ謝るのかと訝るが、武家社会で商人が謙ったなごりであろうか。

 東京にあこがれを抱く東北人をうい奴と思う東京人は、関西人を生意気と思っている。

 関西人は、関西弁のどこが悪いねんと言って直そうとしない。「東京はせいぜい太田道灌の時代からや。関西は2千年も前から日本の中心なんや」と東京に対抗意識を燃やす。

 所変われば品変わるというが、狭い日本でたった500キロメートルでこんなにも違う。

 

これが宇宙のスケールになると、想像もつかない。

都市伝説の番組では、宇宙人は存在し、ケネディー大統領は約50年前にこれを公開しようとしてCIAに殺されたとする。スピルバーグ監督の映画『E.T』は宇宙人が地球人に友好的であることを知らしめるために作られたと言っているが、ホンマかいな!?

高度に文明が発達した異星人が地球人を同じ人間と思ってくれるかどうか分からない。

昔トワイライトゾーンというアメリカのテレビ番組があった。出術室で患者がこんな醜い顔を見たことがないと医師達に言われている。番組の最後にいよいよ顔が明かされると、なんと患者は超イケメンで、医師達の顔が怪物だったという内容をよく覚えている。

心やさしき我妻もゴキブリには容赦がない。「子供達が大騒ぎしているから、なんとかして!」と言いに来るが、「ゴキブリも生きる権利がある」と相手にしないと、「なにバカなことを言ってるの、害虫なのに。もう役立たず!」と言って自分で処理してしまう。

 異星人が地球人を大きなゴキブリだと思えば、慈悲なく殲滅させられる。

 筋萎縮性側索硬化症という難病と闘いながら宇宙論を思索する、かのホーキング博士が地球外生命体を探すべきではないと主張しておられたが、頷けるところだ。





 2012.10 NO.16 アントキノイノ と アントキノイノ

 アントキノイノチは、歌手で、作曲家で、作詞家で、しかも作家という天才さだまさしさんが書いた小説である。遺品整理業を題材とし、昨年映画化された。題名のアントキノイノチは偶然ではない。主人公の二人が海に向かって元気ですか!?と叫んでいる。アントニオ猪木→アントキの猪木→アントキノイノチとつながる。

 さださんがフォークデュオ「グレープ」としてデビューし最初に出したシングル『雪の朝』は昭和48年銀行に入行して初めて給料で買ったレコード(ちなみにLPでは井上陽水さんの『氷の世界』)。私は好きだったのだが、あまり売れなかったらしい。

 2時間ぐらい続けて歌えるほどレパートリーが増えた現在と違い、30歳から50歳までの私は、宴会では『無縁坂』1曲でほぼ切り抜けてきた。たいへんお世話になった。

『精霊流し』とか哀調のある歌のほうが、ユーモアのある『関白宣言』などより私は好きだ。某裁判官が極めて異例だが歌の題名を挙げて被告を諭したことで話題を呼んだ『償い』はとても素人では唄えない。初めて聞いた時のアントキノオノノキは尋常ではなかった。

アントニオ猪木さん(190cm)をものまねする芸人には、春一番さん、アントニオ小猪木さんなど数多くいるが、アントキの猪木さんは背も高く(183cm)、見た目では私は一番似ているのではと思う。

アントキの猪木さんは芸人になる前公務員だったことは有名な話だ。千代田町役場(現かすみがうら市)に勤めていた。役場を辞めて芸人になると親御さんに告げたときはさぞかし親御さんも心配したに違いない。

 脱サラするためには今の給料の3倍の収入が見込めないと失敗すると言われる。

 人気商売のアナウンサーも局アナからフリーになる場合もリスクを負う。女子アナでは大きく収入を減らした人もいるとか。

 自営業になった場合、年金も厚生年金から国民年金に変わり、国民年金だけでは最高でも月7万円にも満たない。老後まで考えて転職する人はまずいない。若くして脱サラし蕎麦屋などなにをするのも勝手だが、絶対に成功しないと惨めな老後が待っている。

 アントキの猪木さんは、明治記念館で結婚披露宴を行ったとき1,750万円も費用をかけたとTVに出ていた。芸能人としての見得もあろうが、転身が成功したと言えるだろう。

 大企業でくすぶり、中小企業に転職する人もいる。大企業で我慢、我慢の人生を送らざるを得ないとしても居座り続ければ、老後は企業年金もある3階建ての年金生活。家庭も平穏だ(世の奥方たちは変化を嫌う)。中小企業なら年金は大企業のようには期待できないので、頑張って出世して自分で貯蓄を増やし、老後資金を蓄えるのが正解だ。

 43歳での私自身の転職は、収入面から見れば成功したとは言えない。もっとも、転職の目的は、もうひと花咲かせたいということではなかった。井の中の蛙として足掻くより、広く公益に資する仕事がしてみたい。自身調査はできないとしてもアカデミックな世界に身を置いてみたいということであった。銀行員では無縁の人たちと会うことも出来てよかったと思っている。ただ、銀行員と結婚し生涯楽チンと思っていた妻は、兼業主婦に変更を余儀なくされ、いい迷惑だと思っている。

身勝手な亭主は、職業人生からリタイアするときはどんな目に遭うだろうか?

 財産があれば、退職祝にと離婚届をもらうかもしれない。蓄えもなく、年金もさほど期待できない亭主を持つ妻は何を考えるか? そして、その亭主はどんな運命を辿るのであろうか?

話を分かりやすく、夫婦は同い年とする。仮に65歳から貰える年金が夫は月16万円(老齢厚生年金10万円、老齢基礎年金6万円)、妻は月8万円(老齢厚生年金2.5万円、老齢基礎年金5.5万円)とする。

毎日呪いをかけて夫が首尾よく早く逝った場合、妻は自身の年金を選択するとか3つの選択肢があるが、当然一番多い方法を選択する。その場合の遺族年金は13万円(夫の老齢厚生年金10万円×0.75+妻の老齢基礎年金5.5万円)となる。

死ぬまで待てないと熟年離婚を選択した場合、婚姻期間中の厚生年金の保険料納付記録の夫婦の合計(夫婦それぞれの標準報酬の総額)を算出し、標準報酬総額の多い方から少ない方へ移される。分りづらいが結局のところ妻の取り分は夫婦合算の年金24万円の半分12万円にも満たないかもしれない。遺族年金の権利も当然なくなる。それなら離婚するより死んでもらった方がましということになる(自営業のみの夫と結婚した妻は、夫は国民年金だけなので、離婚しても一銭も貰えない)

一番良い方法は、別れないで夫婦合算の24万円を一人占めすることだと妻は気がつく。

生かさず殺さず夫を座敷牢のごとく蟄居させる。夫が文句の一つでも言おうものなら、子供達を味方につけた妻から「アンタも遺品整理業の方のお世話になりたいの!?」と脅される。 

かくして、粗大ゴミ寸前の夫は、ひとり寂しく窓から叫ぶ。「元気ですかぁ~!?」 


2012.9  NO.15  ブ と  


羽生と書けば、今やハブと読む。日本が誇る天才羽生善治ニ冠を真っ先に思い浮かべる。私が子供の頃はハニュウと読むのが一般的であった。女子体操界の元祖アイドル羽生和永さんもいた。

ゴルフの4大メジャータイトルを同じ年度内でとることをグランドスラムと言うが、羽生ニ冠は将棋の全7大タイトルを年間で征した。今7月には棋聖位を防衛し、生涯のタイトル数も81個(現在82個)となり故大山康晴十五世名人の大記録(80)30年ぶりに塗り替えた。生涯勝率もベテラン棋士中で唯一7割を超える。この先若手が台頭し世代交代の掟には逆らえないとしても、史上最強の棋士に変わりはない。

日々対局に追われる中将棋の普及・広報活動にも先頭に立ち講演、対談など精力的にこなしておられる。ゆくゆくは谷川浩司九段(十七世名人)をはさんで日本将棋連盟の会長になり将棋界をリードされるのは間違いない。

 関西棋界では谷川九段が登場する前は内藤國雄九段がスーパースターだった。

 私が銀行の組合専従をしていた昭和55年頃組合の大会に内藤九段を記念講師としてお迎えした。控え室で応対したときに緊張からか大失着をしてしまった。知らないハズはなかったが、碁を少し嗜むこともあり、つい将棋を打つと言ってしまった。すると内藤先生は穏やかな口調で「碁は打つ、将棋は指すと言うんですよ」と仰られた。周りに将棋好きが居れば頭をぽかりと殴られたと思うほど恥ずかしいポカだった。内藤先生には講演の終わりにご自身のミリオンセラー曲『おゆき』も披露していただいた。内藤先生も天才のお一人だ。


 将棋が一対一の戦いなら、株も同様だ。売り手と買い手に分かれて勝負する。同じ株価チャートを見ても売り時と買い時との見方が分かれる。

長い間右肩上がりに上昇し続けていた日経平均株価が平成元年の年末に史上最高値(38,915)をつけ大納会では来年4万台の大台に乗るかと囃し立てていたが、平成2年初から暴落し3月には平均株価は3万円を割った。さらに9月には2万円割れ寸前になり、半年間で日経平均が半値となる大暴落となった。

先行き不透明で舵取りが難しい大変な折、平成210月新宿支店長から証券部長へ私は異動することになった。周りから「なぜあんなど素人に任せるのか」と言われるまでもなく、私自身が青天の霹靂。まだ新宿支店に移って8ヶ月しか経っておらず、業績もバブル末期に咲いたあだ花であるが支店開設以来の最高益があがっており、なにか逆鱗でも触れることがあったかと疑心暗鬼になった。あれこれ理由を考えても、「組合専従時代からみて剛速球しか投げない不器用なアイツなら都合の悪いことが起こっても隠し事はしないだろう」(前任者がそうだったということではない)と思われたとしか思いつかない。

「勝ったのは自分の手柄、負けたのは相場のせい」がまかり通る株の世界で、誰か分からないが私に白羽の矢(毒矢に近いが)を射た人のためにも、“勝ったのは相場のおかげ、負けたのは自分の腕”ということを肝に銘じた。

着任後すぐに野村證券がバカ殿状態の私を自社の研修所に招いてくれた。とくに国債担当のKさんには研修後もお世話になった。優秀な方で長らく指導してもらいたいと思っていたが、ほどなく持病の糖尿病を悪化させ、第一線を引かれ、福利厚生の部署に移られた。当時ノルマ証券と揶揄される野村證券だったが企業戦士を一生面倒見る懐の深さがあった。

着任後34月も経つとすこし相場が回復したのとビギナーズラックもあり、私の周りも静かになっていった。

翌年の平成3年には相場の下落だけではなく、1月に第一次湾岸戦争があり、6月には4大証券の巨額損失補填問題の発覚、8月にはゴルバチョフ露大統領の失脚に伴うレッドマンデーもあり、当時の4大証券の株式部長は皆胃を摘出して無いと言われていた。10年ぐらいの出来事がいっぺんに来たような1年であったが、翌平成4年に入っても年初から株価が下がり4月に入ると壁一面のボードにある全銘柄においてグリーンランプが点灯し売り一色となった。

私もいつでも辞表を出す覚悟ではいた。一喜一憂するなというが、いくら能天気な私でも憂、憂、憂、憂と毎日続くとおかしくなる。強度なストレスは癌の誘因になるし、癌にならなくともその人の弱点を攻撃する。私は持病の蓄膿症が悪化し、右側の頬が鼻の高さまで膨らんだ。対処療法で膿を注射器で抜くのだが、医者が痛いよと言うときは本当に痛い。顔の骨がきしむような痛さで一回で音をあげ手術することにした。

 平成410月何とかクビにもならず神戸大附属病院に入院中に証券部から融資企画部(より問題は深刻だったのだが)に横滑りした。退院後すぐの月曜日に担当役員に挨拶に出向いたところ、その担当役員は入院して不在だった。なんと!入れ替わりに、担当役員は網膜はく離で私が土曜日に退院したその日に同じ病院に入院していた。

その役員に昨年18年ぶりに東京で再会した。「生きているだけで儲けもの」と互いの達観ぶりを確認し合うことになり、なんとなく嬉しかった。


2012.8 NO.14  さつ と けさつ

 警察は被疑者を逮捕する仕事。検察は警察が逮捕した者を起訴するかを吟味・判断する仕事。建前は対等なのだが、検察に起訴してもらうのだから警察に分が悪いらしい。

 警察のキャリアとノンキャリの対立を風刺したのが、織田裕ニさん主演のドラマ映画『踊る大捜査線』。木村拓哉さん主演のTVドラマ『ヒーロー』はキャリアの検察官とノンキャリの検察事務官の掛け合いを描いた。

 かつて北海道県警の本部長を経験した原田宏二氏が裏金問題で告発した。ノンキャリであったがキャリア扱いで警視長までに処遇されていたのだから反旗を翻すのはよほどのこと。公憤からで裏切り者呼ばわりは覚悟の上だ。その経緯については原田氏自著『警察内部告発者(2005)に詳しく書かれている。この筋の話は風化せず、当時道警の裏金問題を追及していた元北海道新聞担当デスク高田昌幸氏が7年の月日を経て今般『真実~新聞が警察に跪いた日』を上梓し、私憤を晴らすというより記者としての意地と矜持を見せている。

 検察の裏金を告発した暴露本もある。『検察の大罪』の著者とは一期一会の縁があったが、上役との諍いで出世が閉ざされた腹いせのような裏金告発には、共感を覚えない。

 裏金問題は想像するより根が深そうだが、当初は組織上の必要悪として生まれたものが一部の不届きなキャリアに乱用され、それが常態化したのか?

「こんなことをするために・・・」と忸怩たる思いのノンキャリと既得権益として当然のごとく自分達で使いまわすキャリアとの構図では、真の信頼関係は生まれない。ただ、これに限らず、そういう気持を捨てなければノンキャリとして生きてはいけないと元外交官で作家の春江一也氏は書いている。3部作の小説「プラハ春」、「ベルリンの秋」、「ウイーンの冬」のストーリーの中で外務省におけるキャリアとノンキャリの対比を垣間見せている。

検察トップ人事では、東大を中心とする法務官僚歴任の赤レンガ派と捜査現場派との対立という側面もある。検事総長の椅子をめぐっては捜査現場派はノンキャリ扱いと言っても過言ではない。捜査現場派で検事総長となった吉永祐介氏がトップであればこの前の大阪郵便不正事件は起こらなかったという見方がある。その吉永氏が後任の検事総長として捜査現場派にこだわったためかえって巻き返しに遭い赤レンガ派の総長が何代も続いたとも言われる(この事件を機に9年ぶりに2010年捜査現場派が就任したが、先月赤レンガ派に交代した)。このため捜査現場派の劣化が進んだという。一部には特捜部に入り、実績を挙げヤメ検になって金儲けしたいという人もいるとかいないとか。それが目的なら真実を曲げてでもひと花咲かせたいということも起こりうるのかもしれない。

私は今塀の中にいるヤメ検として名を馳せたT弁護士にかつて挨拶したことがある。正立方体とも言うべきがっちりした体格で強面と相まって検事時代はさぞかし怖かっただろうと思った。厚い赤レンガに阻まれ巨悪を追求できず挫折感を味わったのかもしれないが、環境を変えても正義に仕えるという志は忘れてほしくはなかった。

今特捜部の存否が問われている。組織防衛からか、あるいは既存エスタブリッシュメントの意を酌んだものなのか、小沢一郎代議士関連の強引かつ無理筋の捜査・裁判が非難の的となっているが、それでも名前を変えるかは別にして私は特捜部を必要だと考える。

これも挫折のエリートがお金に走ったケース。灘中、灘高、東大を経てキャリア官僚と絵に描いた超エリートコースを歩んだM氏(高杉良氏著『虚像』には森川氏として登場)だ。スーパーエリートのM氏が国費でアメリカに留学した後一転ファンド業に転身し、ファンド事件の折りに吼えた。「儲けて何が悪い!?」と。総会屋まがいに老舗企業の社長をバカ呼ばわりし、含み益を吐き出させて市場原理に反するローリスク・ハイリターンを実現させ、それにエンジェルの名に恥じるハイエナのような金持ちどもが群がった。

“青豆”に頼んで闇に葬っても第2、第3の同じ者が現れる。影響力のあるスーパーエリートが扇動する、日本人の美徳・美学に反する拝金主義的な風潮、価値観を払拭するためには、公開処刑ならぬ公開処罰が必要なのだ。超法規的とも言えることが出来るのは地検特捜部だけしかない。

世直しは、外務省の佐藤優氏は自著の『国家の罪と罰』で検察ではなく国民の手でと言っておられるが、過去歴史の節目に世論がミスリードしてきたことをみても国民は担えない。

医師はキャリア、看護師は待遇面からすればノンキャリと言えるかもしれない。看護師、介護士等志がないと続けられない職業は金銭面等労働環境が恵まれているとは言い難いが、皆生き甲斐を感じ頑張っている。ましてや崇高な使命やファッショにもなりうる強権を持つ検察官なら、地位や金に惑わされず生涯志に生きて欲しいと思う(私ごときに言われたくないだろうが)

2012.7  NO.13  ょうしゅうりき と ょうしゅうりき

 プロレスラー長州力とエステーの消臭力。

 私はガチンコ勝負が好きなので、プロレスよりもプロボクシングが好きだ。とりわけ、キンシャサの奇跡(日本の競走馬名にもなった)と言われたアリとフォマンのタイトルマッチで下馬評を覆しアリが勝利したのには興奮した。昭和4910月末青梅街道を挟んで勤めていた新宿支店の斜め迎いのバッタ屋の店先でテレビ観戦していた(勤務時間帯のハズなんだが)。

モハメッド・アリの後はシュガー・レイ・レナードであり、今はなんといってもマニー・パッキャオだ。パックマンの異名をもつパッキャオは体重の壁を乗り越え名立たるチャンピオンを次々と打ち負かし実質10階級を制覇した。世界バンタム級の名チャンピオン長谷川穂積さんが2階級あげて苦しんでいるというのに。今やフィリピンというより全世界の英雄だ。しかし、先月10日のタイトルマッチで判定負けした。次々と番狂わせで強豪を打ち破ってきたが、今回は番狂わせで負けた(WOWOWで見ていて勝ったと思ったが)。負けた場合のリマッチが予め決められており疑惑の判定(本人達はガチンコだか、審判団が?)とも言われるが、一時代の終わりの始まりかもしれない。


私がプロレスを喜んで観ていたのは小学生で力道山が鉄人ルー・テーズやかみつきブラッシーと戦っている頃で終わり。ショーと割り切れば楽しいに違いない。あるいは体操の内村選手の演技を見るように超人技を堪能すればよいのかもしれないが、私は人間に幅がない。徳光アナや古舘アナの煽る実況中継も好きではなかった。

最近の人気プロレスラーをほとんど知らないし、その人のプロレスを見たことがない。武藤敬司さんはものまねタレント神無月さんで知った。高田総統もお笑いコンビのクリームシチューの有田さんの「出てこいや!」のものまねで知るところとなった。

 長州力さんも全然知らなかったが、切れてない!と長州小力さんのものまねで知ることになった。ただ、長州力さんは本当に切れやすいのか私生活で週刊誌に叩かれていた。

 プロレスラーとものまね芸人との関係は共生ともいえる良好な関係だそうだ。プロレスラーにとってもプロレスを見ない女性達にも知られるのでメリットがあるのだろう。

 プロレスそのものは好きではないというものの、貧弱な私はプロレスラーの肉体美や運動神経にはあこがれもある。高田延彦夫人の向井亜紀さんがなんとしてでも夫の遺伝子を後世に繋ぎたいとの執念も分かる気がする。


 少し前「らっららら」と甲高い声で歌い始め最後にショウシュウリキ!と絶叫する子供のコマーシャル(CM)が人気になっていた。子供といってもポルトガルのれっきとした歌手らしい。このエステーと役所広司さんや唐沢寿明さんなど大物俳優を起用したダイワハウスのCMが不況下目立っていた。

 昨年の大震災の前にはオール電化で攻める電力会社と受けて立つガス会社がCM合戦をしていた。不況下民間企業のCMが減っている中で基幹産業のCMが目立つので「そんな金があるなら公共料金を値下げすべし」と思っていたら、東日本大震災が起きた。基幹産業だけではなくほとんどの企業がCMを自粛してしまった。ACジャパン作成のCMが数ヶ月も続き、「・・・こだまでしょうか。いいえ、だれでも」は耳にタコが出来た。おかげで詩人の故金子みすゞさんも再脚光を浴びることになり、何が幸いするか分からないものだ。

民間企業はCMを自粛し、震災当初は民放局がすべて震災の特番でアナウンサーが腕のみせどころとばかりにアドレナリンを全開し競っていた。他人の不幸に・・・とまでは言わないが、ひねくれ者の私は不愉快な気分になった(阪神大震災の折故郷の神戸が壊れたのを見たくなかったし、好奇な目にさらされたくはなかった。だから壊れた東北の姿も見たくない)。俄か総NHK化に対し、民放こそが自粛し、NHKに応援に行けばいいではないかと悪態をつきたくなった。

世の中の動きや消費者の嗜好が分かるCMの自粛は長すぎた。かえって世相が暗くなり沈鬱になった。

 TVCMは民間企業の販促やイメージアップ手段には違いないが、暗い世相に勇気づけるものもある。私は取引銀行の支店に電話をかけ、桑田佳祐さんが歌う「月光の聖者達」(『・・現在(いま)はどんなにやるせなくても、明日は今日より素晴らしい。・・』)を使った銀行CMは今の世相にマッチしているので遠慮せずCMを再開してはと言った。

 

長らくの不況下広告収入が減るに伴い取材コストも抑えられ、ニュースもワイドショーの内容もみな似たり寄ったり。

 番組で毎週観たいと思うのはテレビ東京の土曜日番組「アド街ック天国」とその後の『美の巨人たち』ぐらい。BSにて映画やボクシング等を観ることが多くなり、以前よりCMを見る機会は減ってしまった。


2012.6 NO.12 Pen is  と Penis

 

一字違いと言えるか分からないが、今回は英語を取り上げた。しかも下ネタだ。

  The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりも強し)

  The penis mightier than the sword  (剣より強いペニス)

 上記は神戸高校の国語授業中先生から教わった。駄洒落が好きな先生で、次のフレーズも忘れられない。

 「(句点)でダメならまるでダメ。 (読点)でダメならてんでダメ。」

 40年以上の前のこと。こんなくだらないことしか覚えていない。国語以外の時間も同じで、ほとんど授業内容は記憶にない。とにかく授業中先生の話を聞いていない。眼を盗んで弁当を食べているか、半分寝ているか、ぼ~っと好きな女の子のことを考えているか。とにかくうわの空で、一度数学の授業で先生に私のカバンで思い切り頭をなぐられたこともあった。

 中高一貫教育の灘高等私学と違って授業の進み具合が遅く、大学受験に間に合わない。自分で先に先にと家で勉強していた。参考書には答えが載っている。大学入試テストの過去問も後に答えが掲載されている。大した大学も出ておらず偉そうなことは言えないが、塾も家庭教師も不要だった。



 こういう答えのある世界でのチャンピオンが東大生だ。とりわけ東大法学部(理系なら医学部)。聞けば、法学部の中でも「公法」と「私法」とのランク付けがあるらしい。

『官愚の国』の著者は、同じ東大卒の大蔵キャリアでありながら理系出身のため本流の法学部卒に長年に亘って相手にされなかった積年の恨みを同著で晴らしている。実社会には答えがない。正解がない。だから、答えのある学業の世界でのチャンピオンが必ずしも実社会のチャンピオンであるとは限らないと著者は力説する。

 現行キャリア制度は、譬えて言えば、国語、英語、数学3科目とも90点計270点のバランスのとれた東大秀才タイプを欲する。国語100点、英語100点、数学50点の天才肌は総点数で負けるが、実社会では勝るとも劣らない能力を発揮できるのだが。

 元々明治維新以降の「薩長に非ずんば人にあらず」という風潮に対抗するために出身地と関係のない学閥が登場したとされる。それが嵩じて東大法学部出身者を中心とする日本のエスタブリッシュメントが形成された。その中核が国の官僚組織であり、キャリア官僚という特権階級であるのだが、元外交官春江一也氏は小説『プラハの春』の中で権力というものは腐敗すると書く。

既得権益・既存秩序を守りたいエスタブリッシュメントとしては、東大出であれば逮捕されなかったものをと言う田中角栄元首相の怨念を受け継ぎ、ドラスティックに変革させるかもしれない小沢一郎代議士の総理大臣就任の芽を未然につぶし事なきを得た(無罪判決でも元には戻れない)と見えた。が、しかし、あろうことか東大法学部卒の現役キャリア官僚から内部批判が出てきた。経産省の古賀茂明氏(昨年9月末に退職)だ。古賀氏の著書『日本中枢の崩壊』、『官僚の責任』の中で、公務員制度改革(キャリア制度の廃止、人事評価・実力主義への移行)等を訴えている。

 

私は、すべてのキャリア官僚が腐っているとは思わない。東大法学部卒の、答えのない世界でも力を発揮する優秀な方がいるハズだ。その者が民間大企業の社長でなく、天下国家のために大所高所に立ってリードするのは結構なことだと思う。

 天下りの問題にしても、一面だけを取り上げて大衆の嫉妬心を煽るTV番組の司会者などマスコミに組するつもりはない。

 同じ年に生まれた中で一番賢い人が公僕となり日本のために力を発揮し、成果をあげた(判断は難しいが)とするならば、大企業のトップの報酬と生涯報酬で追いつき肩を並べるのはある意味当然だと思う。今どき立派な勲章だけでは喜ばない。そうでなければ国家公務員を志望する学生が減っていくかもしれない。

 キャリアとノンキャア(俗称ノンキャリ)の給与体系が同じで区別がなく、特定の者を大幅にあげると下も上げないと給与体系がいびつになってしまうので、関係団体等に天下りすることで調整してきたのであろう。

 急に天下りはダメといわれると生涯報酬を見込んでいたキャリア官僚はそれはないよと憤慨もするだろう。現行の給与体系の中で解決しようとすると人件費が膨らみ、それこそ人員削減が必要になるだろう。それを含めて天下り問題を論議すべきだろう(来年度国家公務員新規採用2009年比56%削減は筋違い)

 国家資格もなくノンキャリ未満の私が言うのもなんだが、そもそも公務員は公僕であって下僕ではない。行き過ぎや不正は当然糺すべきだ。が、民間が高度成長期を謳歌しているとき官のことは歯牙にもかけなかったのに、官の給料が民間より上回るのはけしからんという今の論調には違和感を覚える。

マスコミも、時代にあわない既得権を剥ぐのもいいが、高い志を持って入省した優秀な頭脳集団がなぜそれに見合う国益に沿った大きな働きが出来ないのかそれにもっと焦点を当てるべきではないか。



問題の核心は、別々のところで二度とても優秀とは言えないキャリアOBと関わった経験(私憤を晴らすつもりはないので仔細は記載しない)からすれば、①できの悪いキャリアまで終身処遇する慣習(結束を固め省益に寄与するが、国益には資さない)と、②外務省の佐藤優さんのような異能な人がノンキャリの枠に押し込められ、キャリアが夜郎自大に陥りやすい現代の身分制度(キャリア、ノンキャリの慣習的区分)だ。その意味でなら、総理候補として賛否両論ながら人気沸騰の橋下大阪市長を後ろ盾として古賀氏がこれから何を変革できるのかを僭越ながら見届けたいと思う。






2012.5 NO.11  てんちょう と  てんちょう

 

 店長は“しがない”と揶揄しているのではない。店長と支店長と求められている役割が違うのだ。

 ファーストフードなどの店長は20歳そこそこの若い人が多い。アルバイトの模範になり率先垂範するプレイングマネージャーだ。顧客に待たせないスピード感が要求される。片や銀行の支店長は、不惑の40歳代が多い。

 

 証券マンが株屋と呼ばれることがあるのに対して、銀行マンが銀行家とかすこし敬意を払われるのは、株価の変動リスクは顧客が負う(顧客が得しても損しても手数料が証券会社に入る)のに対して、銀行は貸し倒れリスクを自ら負うことに起因している。

 貸付担当になった若い頃よく上司から手形を割引(割引料を差し引いて手形を買い取る)するときは自分のお金を貸すというつもりで手形を見ろ、信用照会をしっかりしろとよく教えられた。商取引の裏づけのない手形を割引すると期日に不渡りになって戻ってくることになり、銀行の損失となる。

 警察官は人を見たら泥棒と思え。銀行員は決算書を見たら粉飾と思えと教えられた。

 支店長は融資できるか否かの決裁者で審査力が必要。分析力と長年に培われた勘が必要だが、ある意味それ以上に必要なのが、揺さぶりをかけられても動じない胆力。

 大手銀行はともかく中小企業や庶民との取引を中心とする銀行では、いろんな人がやってくる。一般市民からやくざ、総会屋、エセ同和、詐欺師まで。

 私が平成2年新宿支店長をしているとき、名をかたり差別意識を逆手にとるエセ同和に遭遇した。素性がよく分からない、返済が滞っている取引先から守秘義務違反だとして呼び出された。その頃私は40歳になったばっかりで突っ張っていたのか、あるいはポストがそうさせたのか(日頃女々しいとののしる妻は信じまいが)単身敵陣に乗り込んだ。外で待機した支店の運転手さんには1時間後に戻ってこなければ警察にと言い残して。筋の悪そうな取引先の連れが同席していて、こちらを非難する。あわよくば返済の免除とか目論んでいる。私は政治家や官僚のように遺憾と言うが非を認めない(仔細は記さないが、実際に悪くない)。業を煮やして、連れの男が、支店長は謝らないから同和の先生に来てもらおうと当時トランシーバーのような大きな携帯で呼び出した。こちらはすぐにエセだと分かったが、向こうも関西人相手では勝手が違ったのか、こちらがタンカを切って折衝を打ち切り帰った。その後もなにもなかった。

 やくざ稼業の方には誠実さをもってしかもしっかりとお断りした。慇懃無礼はもってのほか。プライドを傷つけ損得勘定抜きにやられたらひどい目に遭う。向こうも商売だから時間をかけても取れそうもない所より早そうなところに注力する。逆に、蛇の道はへびで、一旦あそこの支店長はいい鴨だと広まるとろくなことにならない。


なお、私が心配しても仕方がないが、この度の暴力団排除条例を盾に預金まで断るとなるとそのお金は一体どこに行くのだろう。まさにアングラマネーだ。

 総会屋とか新聞屋とか呼ばれる人は支店よりも本店に来る。20年も前の話。本店に来て、たとえば「株主総会で△△するぞ!」と言えば、応対した警察OBの総務担当者は、株主総会で△△するぞ!と復唱しながらノートに書き留める。それを見て、相手はあわてて「一般論でんがな。そういう話もあると言っているだけやがな」と言って冷や汗をぬぐう。

その警察OBはいつもにこやかだが、ひと度事が起きると鬼の形相に変わった。さすがその道のプロは違うと感心したものだ。

 

銀行には店の格に応じて貸出権限が支店長に与えられている。新米の支店長は私が居た銀行では正式には支店長心得と言い、心得違いだと支店長から降格させられる。支店長心得は店格の一番低い住宅地店舗に赴任することが多いが、支店長の一存で無担保で貸せる金額は1百万円でしかない。それは、うろたえて脅し取られる金額は1百万円が限度ということも意味する。

 支店長には、世間を知り、胆力を養う時間が必要なのだ。