201111    サイン と サイ

 

週刊文春の「疑惑の銃弾」というタイトル記事により、一転して悲劇の被害者の夫から妻殺しの被疑者になった三浦和義氏の事件はとっくに終わった事件と思っていた。

ところが、2008年にアメリカ自治領のサイパンで三浦氏がロス市警に逮捕された。20数年間ロス疑惑の犯人を追っていたとはロス市警の執念に驚かされた。

サイパンの裁判にてロサンゼルスへ移送できるか否か一事不再理をめぐって争っていたが、結局日本では審理されていない殺人共謀罪でロサンゼルスへ移送された。その留置場で三浦氏が亡くなっているのが発見され、日本の弁護士サイドは他殺と主張した。

 死なれて一番困るのはロス市警の方である。ロス市警の目的は、疑惑の仮面を剥ぎ取ることであり、それが分かるがゆえに三浦氏は自裁したのではないか。敵対してきたロス市警に対する最後屁として(こういう先入観と独断の私などは裁判員に向かない)


 妻が勤める会社の営業係長に裁判員としての出頭通知が来た。日頃オーナーの思いつきに振り回され社員が疲弊気味の中一人奮闘しているというのに。本人は複雑な心境だろうが、戦前の赤紙のような悲壮な覚悟は要らない(人の命を奪うことがあっても自身の命は奪われない)。最後は選ばれたという一種優越感が勝って出頭するだろう。

 遅まきながら調べてみた。中小企業を巻き込み、裁判員コストに税金を投入する裁判員制度とは何か?

 司法改革をめぐって既存秩序の枠組みを固守したい最高裁サイドと陪審制度の導入を要求して攻める中坊さんや日弁連とが対立する中裁判員制度という鬼手が放たれた。日弁連の推進派は陪審制度への大きな一歩と勝手に解釈し相乗ったものだから、あっという間に国会を通過。かくして呉越同舟の司法船は出帆した。

 しかし、海は大荒れだ。法律のプロが作った制度なのにネット上で疑問、問題点、批判がオンパレード。国民が求めていないものを権利ではなく義務として押し付けるのだから訝るのは無理もない。将来の徴兵制への布石かとのうがった見方まである。

推進派の論拠も希薄で頼りない。主権在民だからといって何でも国民が自分でしないとダメという論旨は無理がある。ましてや控訴審で覆されることもある。司法の良心?を曲げてまで裁判員の一審は尊重されない。

 欧米ではどこでも陪審制度等を導入しているからとの主張もある。マスコミや大勢に流されやすい「大衆」という市民に裁かれたくないと思う人は私だけではないだろう。

 小泉元首相や竹中教授のように欧米か!とツッコミを入れられる人はいるけれど、今やアメリカや民主主義を諸手を挙げて礼賛する時代ではない。

開拓時代にリンチ(私刑)が行なわれていたアメリカで陪審制度が導入されたのは自然の流れだろう。私はトムハンクス主演の映画『グリーンマイル』(白人達が見つめる前で無実の黒人が電気椅子にかけられる)を想起して嫌いだ。

貿易なら世界共通のルールが必要だろう。しかし、国内の裁判制度まで国の生い立ちや民族性の違う欧米先進国に合わせる必然性はない。

世界が羨む日本の「和」の精神に、「人が人を裁く」は馴染まない。

アメリカは神が人を裁く。人が裁く段階はいい加減だ。OJ・シンプソン事件しかり。

 日本は法が人を裁く。法の子(裁判官)が素人でよいハズがない。

司法の監視という点では、個々の裁判に関わらなくとも、検察審査会(透明性が問題視されているが)のように、おかしな裁判については国民も参加して弾劾できる弾劾制度に改変すれば足りるのではないか?

 違う意味で「命」に関わる医師の診断はどうか。『私はサラリーマンの経験がないから、この会社員は本当に鬱でしょうか? 『末期癌から回復された貴方ならこの癌患者の余命をどう判断しますか?』と素人に聞くわけがない。 素人の参加を医師会が認めるとは思えない。

難関の司法試験を夢半ばで諦めた人たちは今の裁判員制度をどう思っているのだろう。「ど素人を使うぐらいなら自分達が参画する参審制を採用すべきだ」と思うのか。

現場の裁判官は沈黙を通している。万が一、下下の理解に下下の参加を必要とするならば、裁判員コストを負担すべく職業裁判官としての報酬の一部を返納するのが筋だろう。

古い日本人は子供の頃から大岡越前や遠山の金さんの名裁きに拍手喝さいしあこがれた。

裁く「お上」の信頼が揺らぐ時、真の改革をせず、大掛かりに批判の矛先をかわすだけなら、「お主も悪よのう」とほくそえむ悪代官を思い浮かべる。

今からでも遅くない。陪審制度なんかとんでもないというのであれば、裁判所の問題は裁判所の内輪で一件落着させてもらいたい。