2013.12 NO. 30 イバ と イバ

 ケイバとは言わずと知れた競馬。年末には1年を締めくくる有馬記念が行われる。今年は凱旋門賞で2年連続で2着となったオルフェーヴルがラストランを飾れるか楽しみだ。カイバは競争馬がたべる餌としての飼葉ではなく、人間の脳の海馬をここでは取り上げる。

 競馬というギャンブルはバイト先で覚えた。高校ではクラブにも属さず受験勉強に明け暮れた生活を続けていたので、大学に合格した後昭和44年春頃から世間を広く知るという目的で多くの職種のバイトをしようと考えた。家庭教師が一番多かったが、せっかちですぐにイラつくので、良い家庭教師とは言えなかった。喫茶店のウエイターでは安定の悪い山盛りになった氷のフラッペを登山帰りの女性客の太ももに溢したりした。ストップオッチで数える市場調査やポリシャーを使った床清掃も経験した(数多くバイトした中で職業に貴賤はないとはいえ私には無理と一日で音を上げたバイトが2つあった)

 神戸港の日雇労働を午後5時まで行い、その後神戸新聞社旧社屋の8F?にあった系列のスポーツ紙で阪神タイガース命のデイリースポーツでパシリのバイトもしていた。パソコンを駆使する今と違い原稿作成班が起こした原稿を植字するところに走って持っていき、帰りに別の校正原稿を持って帰る作業を反復していた。それで自然と競馬に興味を覚えた。

昭和48年に銀行に就職が内定すると、当時仁川競馬場の近くに研修所があり、入行前研修を受けた。研修の冒頭トップの挨拶でいきなり「君たち、金持ちになることは諦めて欲しい!(顧客の繁栄を第一義とする「利他」の精神を訓示したものだが、後年「利他」とは他人を利用することかと訝ったこともあった」)と言われて面食らったが、研修担当からは「お金を扱う仕事だからギャンブルはしないように」と言われた。お金が消えた時や収支が合わない時原因が判明しなければ普段の言動により疑いの眼を向けられるとのことだった。入行当時は素直で良い子だった私は、言いつけを守り賭けることは余りしなかった。もっぱらミーハー的にTVで好きな馬や騎手応援するのを楽しみにしていた(40年間で好きだった馬BEST3は、古い順に、のど鳴りで三冠を逃したタニノムーティエ、競馬ファンが涙に暮れたテンポイント、日本競馬界の至宝ディープインパクト)

 銀行に入行当時関西競馬界では高橋成忠騎手がリーディングジョッキーでタマミ、リキエイカンなどの馬でG1も多く勝っていた。「東の郷原(洋行)、西の高橋」と剛腕で鳴らし好きだった。その陰にかくれて騎手としてぱっとせず、逃げと牝馬で評価されるに過ぎなかった池江泰郎騎手がいた。

 この三人とも騎手から調教師に転身したが、一昨年揃って調教師を卒業した。野球やサッカーでは「名選手必ずしも名将にあらず」と言われるが、競馬界においても同じだ。池江調教師はメジロマックイーンや競馬ファンでもなくても名前を知っているディープインパクトなど数々の名馬を育て名伯楽と呼ばれ(今年馬主にもなった)、騎手時代とは大きく立場が逆転した。

 競馬は記憶のゲーム(あるいはスポーツ)と言われることがある。本気で儲けようと思えば覚えなければならないことがいくらでもある。コースの特徴、騎手の特徴、血統データー、馬の能力・過去の実績、レースでの馬の位置づけ(昇級戦、自己条件戦)、過去のレース展開、パドックでの馬の状態等挙げたら切りがない。金持ちならいざしらず、小金では頭、とくに記憶力を駆使しなければ勝てるものではない。

 

その記憶力と言えは、将棋棋士がすごい。脳の海馬部分が発達しているのだろう。海馬は記憶や空間学習能力をつかさどる器官で、アルツハイマー病において最初に病変が現れるとされている。とくに、羽生善治三冠は、天才と言われる将棋棋士(現役は162名ほどしかいない)の中で天才中の天才と呼ばれる。羽生二冠は早指しのNHK杯で24連勝、4連覇し、10回の優勝で得られる名誉NHK杯選手権者の称号を手にした。

かつてNHKの番組で羽生三冠の脳を解析していたが、実験中他の棋士とは違って羽生三冠だけが海馬近くの嗅周皮質が反応していると紹介されていた。記憶を迅速に働せる能力が際立って高いということだ。

 それは天賦の才能に加えて不断の努力がもたらしたものと思う。神武以来の天才と言われた棋士加藤一二三元名人も上梓した『羽生善治論-「天才]とは何か』の中で羽生三冠は秀才型の天才と評している。

我々凡人は「才能」+「努力」だが、天才は「才能」☓「努力」で、努力次第で天才の中では乗数的に差が付く。天才も磨かなければダイヤモンドにはならない。

将棋の世界以外でも同じで野球の長嶋選手、イチロー選手、体操の内村選手など天才中の天才は努力なしに生まれない。努力している姿を見せないだけだ。

天才の世界は厳しい。勝つことを宿命づけられた、馬の芸術作品と呼ばれるサラブレッドは2歳でデビューし3歳の秋までに1勝しないと原則引退(過酷な運命が待っている)。それと同じように厳しいのが将棋の世界。将棋棋士も三段になって26歳までに四段に上がらないと引退させられる。佐藤慎一現四段は、ラストチャンスの年に昇段できなければ馬に関する仕事をすると決めていたと故米長前会長が書いていた。同じ厳しい勝負の世界に身を置く競争馬に共感を覚えていたのであろうか。

2013.11 NO.29 ルス と スルス

 この春北朝鮮の金正恩第一書記の居所の上を監視網潜って飛び回ったと噂されるのは米国のステルス戦闘機。スキルスと言えばスキルス胃癌。ともに潜航し見つけ難い。急に眼の前に現れる戦闘機も怖いが、気が付いた時既に手遅れの癌もまた恐ろしい。

 1988年元来白ポチャが好きでファンだった堀江しのぶさんが23才の若さでなくなった。本人にも伏せられていたほどで当時スキルス胃癌とは知らなかった。スキルス胃癌が世に知れるのはなんといっても人気アナウンサーの逸見政孝さんのケースだ。弟さんが先にスキルス癌で亡くなっており、逸見さん本人もその怖さを知っておられたと思うのだが、1993年末同じスキルス癌で惜しまれながらこの世を去った。

この当時、NHKのニュースを見ていると、なんと高校時代の同級生で当時から秀才の誉高かった笹子三津留君が出ているのに驚いた。東大入試中止の翌年東大医学部に入り直したとは便りに聞いていたが、ブラウン管を通して20数年振りに尊顔を拝した。確か「逸見さんは本当のことを教えられておらず、頓珍漢なことを言っておられる」と話していたと思う。

癌の存在が認知され始めた当時不治の病だとされ医師は患者には本当のことを言わなかった。その後医療が発達し治療法も確立されて来たのに、依然として先輩たちが本当のことを言わないことに若手医師たちは疑問を感じていた。そんな心ある若手の先頭に立ち国立がんセンターの臨床医をしていた笹子先生は『家族がガンになったとき』(199211月発刊)を上梓し、告知およびインフォームド・コンセント(正しい説明と同意)の重要性を説いていた。

 私の義母も昨年末スキルス胃癌で亡くなった。主治医からではなくひょんなことから告知を受けてしまうのだが、昔近所に住んでいたあの人やこの人に会いたいと言い出かけて行った。最後は子供や孫たちに感謝の言葉だけが続いた。奇しくも一日遅れで亡くなった私の母は癌ではなく自分の寿命が分からなかった。内心では感謝していたと思うのだが、1年半もの看病していた兄や姪に感謝の意を伝えることなく逝ってしまった。

 命に限りが迫っていると本人が知れば後顧の憂いなく始末したいだろう。中小企業のオーナーならなおさらだ。

 患者等が正しい情報を得ることになった功労者には近藤誠医師もいる。

 近藤先生の著作を読んだ私も、白血病などを除いて抗がん剤は効果が疑問だということと癌には転移する本物の癌と癌もどきがあることを知った。前立腺がんと分かる前から、手術はせず放射線治療と心に決め、そのとおり実践した(78歳にもなる俳優北村総一朗さんが舞台を降板してまでも前立腺がん手術を急いだ理由を聞けるものなら聞いてみたい)。

 近藤先生の功績はなんといっても医療界の愚民政策に風穴を開けたことにあるが、異端児どころか当初は魔女扱いであった。それゆえ慶応大医学部の万年講師に甘んじることになったが、それでも辞めず居続けたのは、慶応大の懐が深いというよりは先生がそれほど怖く、強かったのだろう。

 精力的な情報発信を続けた近藤先生は、『ホンマでっか!?TV』でお馴染みの生物学者池田清彦先生も20年来の信奉者となるほどで、昨年菊池寛賞を受賞し完全に市民権を得た。

 医師の言うことを盲信する患者たちの眼を覚まさせるために、『患者よ、がんと闘うな』や『抗がん剤は効かない』と先生の著書には衝撃的なタイトルが躍るし、口調も強い。目から鱗の話も多いが、それでも私は自己責任で取捨選択する。先生は前立腺がんのホルモン療法より睾丸を取れと言うが、私は宦官になるつもりはない。

 近藤先生の著作がベストセラーになっている今日、逆に今度は近藤先生に盲従する大衆が出てくる。それなら肉を食べるな、牛乳を飲むなと言う教祖と変わりがなくなる。それは先生の本意ではないだろう。メジャーになった今先生の情報発信のやり方が変わってくるのかもしれない。



笹子先生や近藤先生の尽力により告知やインフォームド・コンセントが義務のようになると、逆になんでもかんでも医師が本人に告知してしまうことが起きてくる。家族が反対するのを押し切って本人に告知しそれがもとで早く逝ってしまったケースは裁判沙汰になっている。患者や家族の立場に立って何がベストかを考えようともせず、保身的な言動に終始するのなら、医は仁術とは言えない。ロボットの方が余計なことを言わなくてよい。

個人情報保護法で私も眼に見えぬストレスを感じたことがある。数年前某大学教授がすい臓がんで亡くなり、その教授が会長をしていた団体から訃報が回ってきた。が、肝心の喪主欄が空欄となっており、FAXしてきた団体に聞き返すのも嫌味と思い、八王子方面の斎場に弔電を打ちたく喪主名を教えて欲しいと電話した。するとそれは個人情報だから喪主側に聞けと言われ、やり切れぬ思いで電話を切った(若い頃なら罵倒していたが、私も大人になったものだ)

 法律になってしまうと、逆にその法律を作った趣旨や想いが忘れ去られてしまい、保身だけに走ってしまうのを見るのは、実に面白く、ない。






2013.10 NO.28 ゴビンダ と ゴビン

 東電OL殺人事件のゴビンダさんの再審が昨年8月に確定した。早々と日本を離れたゴビンダさんはまっぴらゴメンダと二度と日本の土を踏むことはないだろう。

 19973月事件が発生した当時のその前後私は渋谷の昼間人口に数えられていたので、事件ゆかりのネパール料理屋にも何度か行ったことがあった。

殺されたWなる女性が大企業東電のOLという昼の顔だけではなく、江戸の夜鷹のような夜の顔を持っていた。まさに小説より奇なりとして当時私も関心が高かったが次第に記憶の片隅に消えて行った(当初からゴビンダさんの無実を信じ支援してきたボランティアの女性達には頭が下がる)

 ゴビンダさんは日本の司法に5度ビンタされた。1度目は、19973月入管難民法違反で逮捕。2度目は、20005月無罪勾留は人権侵害だとする弁護団の異議棄却。3度目は、200012月のT裁判長による逆転有罪判決(無期懲役)4度目は、2003年上告棄却(刑務所での服役生活開始)5度目は、2005年の弁護団の再審請求から再審決定まで7年の歳月が経過(もっとも司法界の常識からすると異例ともいうべき短さだという)

1度目のビンタはゴビンダさんが悪い。不法滞在していなければ、Wと面識がないとのウソをつく必要もなかった(このため捜査関係者はクロとの心証を強く抱くことになった)

 銀行でも取引先が粉飾していると分かると手のひらを返した対応をすることがある。警察・検察の方は銀行なんかと一緒にするなと怒るかもしれないが、私などはすごく親近感持っている。若い頃「警察官は人を見たら泥棒と思え。銀行員は決算書を見たら粉飾と思え」と教えられた。一昔旅館業界では三コウ(銀行、ポリ公、先公)と呼び、固い職種だけに却って宴会で乱れる要注意職種の代表としてブラックリストに載っていたという。

 銀行は大衆の大事な金を預かる。警察・検察は、財産だけではなく命も守る。ともに公共性の高い仕事であるが、ともに数字を持たされている。銀行も預金量、貸出量を上げんがために勇み足をしたり、越えてはならぬ一線を踏み外す場合がある。それを防止したりチェックするために、銀行内部の検査があり、さらに数年に一度日銀考査や大蔵検査(現金融庁検査。TBSドラマ『半沢直樹』の舞台にもなった)を受けることになる。

警察・検察も検挙率等数字をもたされている。とくに、マスコミや作家達の好奇心をいたく刺激する事件では絶対に犯人を起訴し、有罪にしなければならない。証拠が十分でないとしても一旦起訴したからには、DNAがなんであれ秘密の暴露をして真犯人が自首でもしない限り「今もって彼が犯人だと信じて疑わない」と言うほかはない。

 裁判官の役割は、刑事裁判の場合検察官が有罪の証明を成し得たかどうかを判断することであり、その立場からして警察・検察の行き過ぎ・暴走をチェックする機能も本来有してしているのではと私は思う。しかるに、起訴するか否かの裁量権が検察にあり、起訴できると確信をもったものだけを起訴すればほとんど100%近くが有罪となる日本の裁判においては、あたかも東電と経産省の関係のごとく検察官と裁判官の関係が逆転しているかのような感がある。『犬になれなかった裁判官』(安倍晴彦著)によれば、社会の秩序維持の観点から警察・検察・裁判所は三位一体の関係と言う。若い判事補などは警察・検察の意向に沿わなければ時には罵声を浴びせられる場合もあるとのことだ。

 一審で無罪判決を言い渡した大渕敏和裁判長はその後左遷させられたとみられている。まるで、「よくも警察・検察に大恥をかかせたな」と上層部の逆鱗に触れたかのようだ。当時作家の佐野眞一氏は渾身の取材を経て『東電OL殺人事件』を書き、司法の判断に真正面から挑んでいた(週刊朝日の橋下市長特集記事を書いた同じ人物とは信じられない)

 償うかのような逆転有罪判決等あとの4度に亘るビンタは酷い。不法滞在の外国人であったとしても、その人の命、人生が虫けらのように扱われて良いハズはない。

 それでも、弁護団等の粘り強い支援により再審の道は拓かれた。2011年の3.11以降エスタブリシュメントの一角から東電がすべり落ちたその同じ時期の20117月に第三者の犯行を示唆するDNA鑑定結果が判明したことは、まるで、同じ東電社員であったWの父親の遺志を継いで原発の危険性を指摘したレポートを作成し社内で孤立し、最後は変死していったWの怨念がそうさせたかのようで、因縁めいていると思う。

 かくして、再審を決定した小川正持裁判長は正義の味方となり、一審無罪を破棄し逆転有罪判決を下したT高裁判長は昨年の週刊誌での特集『冤罪 ゴビンダさんからの手紙』の中でこう酷評された。「狭山事件の第二次再審請求を棄却し、足利事件の被告側控訴も棄却している。これほど多くの冤罪事件にかかわっている以上、裁判官としての資質を疑わざるをえない」と。ここまで言い切られるかとネットで調べようとしたところ既に鬼籍に入っていた。読売新聞社会部が上梓した『東電OL事件~DNAが暴いた闇』等からすると、T裁判長は、検察の言い分を丸呑みするとの評価と当時の刑事裁判を代表する裁判官の一人との評価に分かれている。犬になれなかったとする安倍元裁判官ならどう評定するのであろうか。

2013.9 NO.27  ウクライナ と ウクライナ

 旧ソ連時代にはソ連連邦の一地方にすぎなかったウクライナ共和国は日本人には馴染みが薄い。それでも、少し頭をめぐらすと意外に日本と縁があると分かり、興味が湧いてくる。

 「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた大横綱(大鵬親方)が今正月に亡くなられたが、お父さんはウクライナ人ということだ。

 昨年のオリンピックで体操団体の決勝で内村選手が最後のあん馬で着地に失敗し、メダルを逃したと思われたが、採点に抗議して4位から銀メダルを日本が獲得した。あおりをくらって、ウクライナが銅メダルを逃してしまったのは記憶にあたらしい。

 原発大事故で周知のチェルノブイリ原子力発電所もウクライナにある。フクシマも事故処理に参考になることが大いにあるだろう。

 旅行雑誌「Trabelers Digest(トラベラーズ・ダイジェスト」が選んだ 「世界10大美女都市」で、ウクライナのキエフが1位に選ばれている。そう言えば、ウクライナのティモシェンコ前首相は美人過ぎると評判を呼んでいた。

 

ジャニーズ事務所の喜多川社長が『you 暗いな!?』って言うことがあるかどうか知らないが、今日暗い日本人が多い。

世界自殺予防デー(910)があるぐらいなので、世界共通の問題であるが、旧共産圏で自殺率が高い中で、ウクライナ(8)よりも日本(5位)は高い。

2012年は15年ぶりに自殺者数が年間3万人(27千人)を下回ったが、20代の自殺者が増えているという。東京では相変わらずブルーマンデーには毎週どこかの線路で人身事故が起きている。

無残に変わり果てた自身の親不孝、残された遺族の慟哭と自責の念、後始末する駅員の困惑、通勤客が被るはた迷惑。自殺を自死と言い換えて済む話ではない(大体「死」の文字は忌み嫌われて「亡くなる」とか「逝く」を使うのに)

かの絶望的なナチス強制収容所での実体験を『夜と霧』で綴ったヴィクトール・フランクルは「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない」と語る。

それでも、本を読んでもカウンセリングを受けても言葉が心に沁みていかないのなら、その人を救うことは容易くない。



そんなことなら、誤解を恐れずに言えば、癌になった方がよいと思う。確かに、白血病やすい臓がんなどは怖い。前立腺がんへの不安や愚痴を聞いてもらっていた町医者の女院長が6か月ぐらいかであっという間にすい臓がんで亡くなった。その時は大きなショックを受けた。

 男なら前立腺がん。女なら乳がん。一般論として、癌になっても、再燃しても、だらだらと生きられる確率が高いとのことだ。

 癌になれば考え方や生き方が変わる人もいる。私の場合はこうだ。

1に、「生」に対する執着心が湧いた。生検で癌細胞が一つ見つかり、れっきとした癌患者になり、ここ5年ほどの前立腺がんではないかとの不安は解消された。しかし、転移しているかもしれないとの不安がもたげてきた時、初めて「死」を強く意識し自問した。まだ生きたいかと。これまで、学者や研究者ほどの高みを求められてはいなかったとはいえ、能力の問題もありややストイックな人生を歩んできた。他人様より人生を謳歌していない。一度きりの人生もっと楽しみたいと思うと、生に対する執着心がふつふつと湧いてきた。

 第2に、姿勢を正す気になった。家族や周りの人たちに良い思い出を残したい。今まで子供達にフザケタ態度でしか接しておらず、常日頃妻から「すこしは子供たちに尊敬されることをしたらどうなの!?」とよく叱られていた。子供達にどう思われようと、そんなの関係ない!そんなの関係ない!と高を括っていた。だが、死と向き合ったとき、このままバカボンのパパで終わってしまっていいものかと思案した。「これでいいのだ!!」とはとても言えない。真摯な態度も見せ、家事の手伝いも男の運気が下がると嘯きしなかった洗濯物の取り込みもするようになった。本ブログエッセイを子供達への遺言として残すのもこの思いからだ。

 最後に、かえって明るくなった。生きていること自体が喜びとなり、金銭欲や物欲はより薄くなった。高橋ジョージさんが歌う『ロード』ではないが「なんでもないようなことが幸せだ」と思える。昨年の結婚記念日には仕事・家事・介護に忙しい妻と久しぶりに二人で映画を観てその後食事をしたが、ほんわかとした幸福感に浸たれた。煩悩に振り回されていた若い頃にはない感覚だった。

 癌になって初めて見えてくるものがある。癌もそんなに捨てたものではない。



2013.8 NO.26 ムス と ムス

 

 そろそろ今年も同窓会の案内が来る頃だ。今年も出席してみようと思う。

昨秋神戸高校東京支部の同窓会に10年ぶりに行った。神戸一中・県一高女・神戸高校の卒業生が対象となるので、神戸一中の卒業生は80歳をゆうに超え、最年少は東大の現役女学生(神高62回生)で、まさに御爺さんと曾孫が同席しているみたいなものだ。

 神戸一中は戦前西日本一円から受験してくる名門進学校で私のようなボンクラではとても縁があろうハズがないのだが、同じ『質実剛健、自重自治』という校風に培われて現在の自分があると思っているので、不肖の後輩ながら末席を汚させていただいている。

昨年久しぶりに参加しようと思ったのは、微生物学・免疫学分野で新しい研究を行ったものに与えられる、世界的に権威があるロベルト・コッホ賞を2006年に受賞した東京大学科学研究所教授河岡義裕氏(神高26回生)が講師に招かれたからだ。世界で初めてインフルエンザの人工合成を成功させた。アメリカのCIAなどから生物兵器につながらないか徹底マークされており、昨年河岡先生の論文が一時公開禁止となったことが話題となった。

ちなみに、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥先生も2008年にコッホ賞を受賞(利根川進先生は1986年にコッホ賞を受賞した翌年ノーベル賞を受賞)しており、コッホ賞がノーベル生理学・医学賞の登竜門の一つとするならば、作家の村上春樹氏と並んで神高の卒業生からノーベル賞受賞者が誕生するかもしれない。そんな偉い先生が高校の5年後輩にいるのかと知り、ぜひにと同窓会に出席した。

 

10年前は本ブログエッセイの初回(20117)で紹介した、当時国立がんセンターの胃癌手術の名医で同級生の笹子三津留君が講演すると聞いて出席した(兵庫医大病院に移った現在も、50回日本癌治療学会学術集会の会長を昨年務めるなど大いに活躍している)

 その頃は、私ら神高21回生だけの東京支部同窓会も行われていた。当時5253歳で男子は、子会社への転出やリストラに遭う中で大学生の子供をまだ抱えるという経済的にも精神的にもしんどい時期であった。女子はというと、男子よりも34歳早く結婚することもあり、更年期も過ぎ、子供も巣立っているので、同窓会に参加した女子は精神的にゆとりがあり、第2、第3の人生を謳歌している風情でうらやましいと感じた。

 ところが、数年経ってみると、子供の世話から解放されたのは束の間で、今度は亭主のお母さんや自身のお母さんの介護が始まった(終わっても一番難儀な亭主の介護が待ち受けている)。同窓会で求心力がある世話役の女子も自身の親の介護のため神戸に帰ってしまい、最近は21回生の同窓会が開かれなくなってしまった。やっぱり娘に生まれた人生は大変なんだと思い直したものだ。


 私には二人の息子と末娘がいる。

 子供達が幼い頃、息子たちにとって子煩悩でない父親は大好きな母親にまとわりつくハエのような存在だったに違いない。

 娘は23歳の頃「お父ちゃん、カッコイイ!」と言っていた。幼稚園に通う頃になるとピタッと言わなくなった。今では妻と一緒になってこの世で一番ブサイクと毒づく。

 娘とは妻をめぐってずっとライバル関係にあった。産院から戻ってきて以来妻と娘は一緒に寝ていたが、私が割って入ろうものなら「アッチに行って!」といつも娘に足蹴にされた。

それでも、他の親子と同じように、娘の父親への思いは特別のようだ。

 「子はかすがい」と言うが、娘はまさにそうだと思う。30年以上も夫婦として連れ添っていれば一度やそこら夫婦の間に波風は立つものだ。が、私が波風と思っていたことは妻は気に留めず忘れていた。「もう附いて行けない」と私の知らないところで妻は子供たちに聞きていたらしい。当時小6か中1の娘に強硬に反対されたから思い留まったと妻は強弁する。娘が「あんなお父さんでも・・・」と言ったという。“あんな”とはどんな酷いお父さんかと思うが、周りで親が離別して辛い思いしている同級生が多かったらしい。

妻は事ある毎勝ち誇ったように「娘に感謝しろ! 感謝しろ!」を繰り返す。反対するのを分かっていながら聞いたくせにと思うが、してやられたとの感は拭えない。

 今でも夫婦で冗談にてそんな話をすることがあるが、27歳にもなる娘だけはいつも本気で怒って取り合わない。


 逝けば後顧の憂いなく後事を息子達に託すことができるが、生き長らえる間は介護福祉士の娘が居ることが心強い。もっとも、娘には「お利口さんにしていないと看てやらんからね」と言われているが。



2013.7 NO.25  イガ と イガ  


絵画と映画。優れた作品はともに名画と呼ぶ。アナログとデジタルみたいに関係なさそうだが、映画には撮影の前の設計図のごとく絵コンテを使う。巨匠故黒澤明監督の絵コンテは有名だが、生涯2,000点以上も描いたとされている。

私が映画館で観たという最初の記憶は、神戸新開地で両親に連れられて観た『喜びも悲しみも幾歳月(主演佐田啓二さん)で、封切が1957年なので7歳か8歳の頃である。

 当時の新開地は全盛期には及ばないもののまだ賑やかだった。そのシンボルが「ええとこ、ええとこ聚楽館」と謳われた松竹系の大きな映画館で、たしか最上階はスケートリンクだったと思う。映画を見たあと、「春陽軒」で豚マンを食べるか、「赤のれん」でオムライスかビフカツを食べさせてもらうのが子供としての贅沢だった。

大正時代には「東の浅草、西の新開地」と称された面影を浅草は今も十分留めているが、新開地はその名に反し見る影もなく寂れてしまったのは、諸行無常の感がある。

中学生になると、ゴジラが好きだったので、新開地の東宝で、加山雄三さんの若大将シリーズとの二本立てなどを一人で観に行った。 

 高校生になると東宝の向かいにあった映画館でリバイバル物3本立てをよく観ていた。『十戒』や『ベンハー』など長編物や『隠し砦の三悪人』、『椿三十郎』などの黒澤監督作品もよく観たものだ。 

大学生の頃は日活ロマンポルノとか今としては他愛もないR指定映画も多く観ていたが、人はパンとパンツのみに生きるにあらず。名女優キャサリン・ヘプバーンの『冬のライオン』やリバイバル上映の『シェーン』やイングリット・バーグマンが眩しい『誰がために鐘が鳴る』など名画も観ていた。

 社会人になると、元来怠け者の私でも一心不乱に仕事をしていたこともあり、長男を連れてドラえもんとか幼児向けの漫画を見に行くぐらいであまり映画館に足を運ぶことはなかった。

 子育てが終わって55歳ぐらいになると、夫婦だけでの外出が出来て、夫婦割引を利用して二人で映画を観ることが多くなった。

その頃の56年間で妻と見た映画を中心に心に残る映画を挙げれば、まず『今度は愛妻家』。男は妻を亡くして妻への愛を知る。幽霊となった妻は生前に口に出して欲しかったと言う。面白ろうてやがて切なきこの映画かな、盗作かつ季語なし字余り。強面の石橋蓮司さんのオカマ役も想定外で笑えた。『シンデレラマン』は元世界ヘビー級チャンピオンの実話だ。どん底から家族のために這い上がるサクセスストーリー。当時の私の心境にフィットしていた。妻役のレニー・ゼルウィガーの英語も魅惑的だった(洋画は字幕に限る)。『男たちの大和』も涙に暮れ、妻がそっとハンカチを寄せてくれた。『ドリームガールズ』はアカデミー賞助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンがビヨンセより目立ち、エディー・マーフィーの歌が上手いのに驚いた。2008年度アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』も泣けた。翌年の同外国語映画賞を受賞したのが『瞳の奥の秘密』。アルゼンチンの軍政下での検察の不正、キャリア女検事と主人公のノンキャリ事務官とのロマンスがテーマであるが、死の捉え方に興味を覚えた。

 妻を惨殺された銀行員が、検察が不当に釈放した犯人を自分で捕まえて25年も納屋の牢に押し込めた。普通は殺すのに。理由は、死んだらそれで終わり。生き地獄を終生味わせるためだ。ストーリー上そうなるのか、それともアルゼンチンは死刑廃止国なのでそうなるのか。はたまた、クリスチャンの世界では死ねば神に救済されてしまうと映画監督は問題提起をしているのだろうか?


死刑廃止が世界の趨勢だが、死刑実施国からアメリカが完全に抜けてしまうと、日本が中国や北朝鮮と同列に並べられてしまい、ちと分が悪いが、私は死刑存続に賛成だ。昔のハンムラビ法典に「眼には眼を。歯には歯を」と書いてあるのは、復讐を煽っているではなく、復讐がエスカレートしないように歯止めをかけているのだ。

人が殺されたら、殺した人に死ね、そして地獄に落ちろ!と言ってはいけない。人の命を奪ったら、地獄に行かなくとも自分の命も無くなるというのは法典の趣旨に適うだろう。

 邦画の『幸福の黄色いハンカチ』では、高倉健さんが扮する主人公が妻の流産を機に夫婦喧嘩となりそのむしゃくしゃから路地ですれ違った男をはずみで殺してしまう。

たしかに、高倉健さんへの贔屓目でなくとも仮に死刑を適用するとすればそれは極刑すぎるのかもしれない。

 しかし、最近死んでしまいたいが自分では死にきれず、駅前などで無差別殺戮を起す事件か少なくないが、加害者の人権ばかり主張する人権派弁護士を許さなかった天才犯罪心理学者故小田晋先生によれば、それもまさに自殺行為だという。巻き添えにて命を落とした方は浮かばれない。死んでお詫びするしかないだろう。


2013.6 NO.24 
い と 

 昨年度の女の赤ちゃんの名前ランキング1位は結衣(ゆい)。若い男子ならガッキーこと新垣結衣さんを連想するだろう。私のようなオジンとなると夏川結衣さんを思い浮かべる。一時イケメンお笑い芸人と噂になっていたが、別れたとのことで得意然とした彼の顔を想像しなくて済むのはなによりの僥倖だ。

 「ぬい」という名前は今時あまり聞かない。思い浮かべるのは大阪の料亭「恵川」の尾上縫女将しかいない。平成の初め一料亭女将が北浜の天才相場師とし脚光を浴びるも巨額詐欺事件を起こし世間を大きく騒がせた。小説(女帝 小説尾上縫』)にもなった。

 この女将を私たちに紹介してくれたY君との出会いは遠き日の大学時代に遡る。

 昭和44年の新年早々東大安田講堂を占拠する全共闘と機動隊との攻防をTVにてかたずを飲んで見守っていた。なんとか東大入試が中止にならないように願っていたが、結局東大校内は荒れ果て東大入試は中止に決定してしまった。

 当時私は京大経済学部を志望していたが、東大入試が中止になれば東大志望者が多数都落ちしてくるとの噂で、私より成績の良い人たちが次々と神戸大学(神大)経済学部に志望を変更していった(理系の人の多くは阪大へ)。当時神戸高校の生徒はせめて神大ぐらいはとの認識をみな持っていた。私はせっかく人一倍受験勉強したのにと23日ふて寝して抵抗を試みたが、担任の先生のちょっとした反撃に遭い早々と武装解除した。

 他校と同様神大も合格後半年ほど学校が閉鎖されていた。封鎖が解け登校してもそれほどうれしくもなかったが、ほどなくして麻雀を覚え、下宿している学生のところに行くことが多くなった。下宿先では有名画家の絵画を模写した絵を飾る人や、同じ麻雀を覚えたてのハズなのにもう理牌せずに難しい手が読める人などが居て驚いた。一番親しかった麻雀仲間には、灘中・灘校出身のT君がいた。2つ年上で京大受験に2度失敗し、3度目の正直と思っていた矢先東大入試中止のあおりで神大に来ていた。ある種オーラを放ち、就活でも東京海上保険、三井物産、第一勧銀と超一流企業すべてに内定を得ていた。一つ年上のO君は体は小さいが才気立ち、ナポレオンタイプというべきか。卒業後損保に行き将来を嘱望されていたが、母親の病気を機に故郷岡山に帰り不動産鑑定士として活躍している。豊かな才能を持つ人がゴロゴロ居ると分かり、受験勉強しか取り柄のない自分はこの大学で本望だと思えるようになり、それ以降身の不運をかこつことはなかった。

親しい麻雀仲間のもう一人がY君で、ともに現役でおとんぼ(関西弁で末っ子)同士ということもあってお互いバカにしあったり、よく口喧嘩していた。

 Y君は某都銀に入行したので、同業のよしみで折にふれ連絡を取り合っていた。女性にまつわる話も聞いたが、あの顔でよくもと思うが、それも彼の才能なのであろう。

 その彼が大阪の支店にいた頃(平成元年前後?)、恵川の女将を当時私が居た銀行で取締役大阪支店長をしていたI支店長に紹介したいと連絡してきた。

なぜY君が紹介したいと思ったかその理由は定かではないが、ともあれI支店長と一緒に女将の料亭に向った。女将のお酌で当時人気の高かった越乃寒梅を賞味した後女将の行きつけのスナックでカラオケに興じたのだが、京大出のI支店長に対し死んだお父ちゃんも京大出と女将が言ったのを横で聞いて、思わず眉に唾をつけそうになったことを覚えている。

 女将は当時何十億単位のお金を動かしており(当時理由はよく分からなかった)、手形や小切手の当日他券過振りという銀行の掟破りをさせて、支店がそのリスクを負ってまでそれに応えるとより大きな預金をもらえるという仕組みになっていた。某都銀の支店長は日参していたが、Y君やI支店長は一目置かれていて、札びらで頬を叩かれるようなことはなかったようだ(もっとも日参した都銀支店長も女将に頭を下げずにお金に頭を下げていたのであろうが)

 こんな多額の個人預金をする人はめったにいないので、銀行内の個人預金獲得コンペではI支店長も大いにメリットを享受したが、その時は私の紹介だとは一言も言わなかった。バブルがはじけ女将の窮地を間違った形で救おうとした某信金の定期預金偽造発覚を機に一大事件として表面化すると、今度は女将を私が紹介したとあちこちにI支店長は言いまくった。それはないよと思ったが、高校の先輩で無理を頼んで仲人をお願いした経緯もあり、また、I支店長は偽造事件の関連で地検に呼び出され、(当然無関係なのだが)極めて不愉快な目に遭ったらしいので、まぁいっかと不問に付した。

 当時某週刊誌は大阪府警がパンドラの箱を開けそうになってあわてて蓋を閉じたと書いていた。Y君に素顔を垣間見せていた女将はダミーとしか私には思えない。

 産業金融の雄ともいうべき天下の日本興業銀行が、一女将に深入りし、後発取引ながらなぜ大きなババを掴む羽目に陥ったのか、その真相は闇に葬られた。そして数年後興銀の名はこの世から消え失せた。


2013.5 NO.23   ンベイ と ンベイ

第二次世界大戦敗戦後日本は戦争放棄を宣言した。というより、米国に戦争放棄させられた。戦争を放棄すればどうなるか。農薬を撒かない畑を想像してみよう。周りの農薬畑から害虫が一斉に押し寄せ野菜は虫食いだらけになってしまう。隣国の中国、ロシア等がこれ幸いと攻めてくるのが普通だ。

 1815年のジュネーブ会議で国際的に認められた永世中立国のスイスでさえ、国民皆兵であり、『黒いスイス』(福原直樹氏著)によれば、冷戦時代には核兵器の開発さえも一時進めていた。自国を焦土にしても国を守り切るという強烈な防御意識と覚悟のほどは他国が手を出す気持ちを萎えさせるに余りある。

 日本はスパイ天国といわれているし、大きな地下道があるとも聞いたことがない。核兵器の不発弾ともいえる原発も所狭しと配置する。国士故猪木正道氏に40年以上前から空想的平和主義だと警鐘を鳴らされておきながらまったくと言っていいほどに無防備なのはひとえに最強のアメリカがバックにいると思うからだ。

 したがって、日本には真の意味での反米派などいない。『戦後史の正体』を書いた孫崎亨氏の言を借りれば、親米派の中に対米追随派と自主路線派が存在するだけだ。

 孫崎氏は米国に対し自主路線派であるべきとするが、それは当然として、ならば中国に対しても自主路線派であるべきで、『アメリカに潰された政治家たち』を執筆するのなら『中国に籠絡された政治家たち』も上梓してもらいたい。

 

黒船の来航により200年の鎖国の眠りから眼を覚ました。

朱船の尖閣諸島への襲来により平和ボケから眼を覚まそうとしている。

 将来の問題として、仮に日出る中国と日没する米国と仮に選択せざるを得ないとするなら、どちらを元祖日出る国日本は選択すべきであろうか?

中国の傘下に入った場合はどうなるか。13億人もいる中国なら、1億程度人口が増えてもさして問題にならない。自治国とか一見自主性を尊重するふりをするが、格段の軍事力を背景に日本女性は漢民族との婚姻を強要され、日本人男性は日本人女性と結婚できず、長い年月をかけて男系日本人は根絶やしにされてしまうかもしれない。チベットやウイグルを見ればそれは妄想だと一笑に付すことはできまい。

米国はキリスト教の布教が進まないのは分かっているし、51番目の州にすると総人口の3分の1にあたる日本人が市民権を持つことになる。そんなことは考えない。

米国にいまだ支配されているという向きもあるが、だとしても間接統治だ。日本政府には厳しい要求をしているかもしれないが、我々庶民が直接強要されることはない。影響は、ハンバーガーチェーンが蔓延し、子供達の味覚が劣化?したぐらいだ。

米国は日本と絶対に戦争をしたくない。再度戦争しても負けるとは思わないが、日本兵の優秀さ、特攻隊へのトラウマからしても絶対に敵に回したくないと思っているハズだ。日本の特攻隊は、「愛する人を残して死にきれぬがお国のため死んでいかねばならぬ。犬死してなるものか」と砲弾の嵐の中を掻い潜り、鬼気迫って体ごとぶっかってくるのでアメリカ兵は恐れおののいた。

 今の若者は軟弱になったと言われるが、この前のWBCでの内川選手の号泣をはじめ世界で戦う石川遼君や浅田真央さんやオリンピック選手たちを見て分かるとおり、日の丸を背負ったときのプレッシャーや責任感は昔と全く変わってはいない。韓国の前大統領は、竹島上陸を強行した後図に乗り天皇を侮辱する発言をし、それに対する日本国民の怒りの凄まじさを知って愕然としたことだろう。戦後ベネディクトが書いた『菊と刀』での日本人とコアな部分で変わっていない。日本人のDNA60年そこらで変わるものではない。だから米国は日本を自分の弟分にし続けているのだ。



中華思想及び「漢賊並び立たず」の中国とアメリカアズNO1の米国が手を結ぶことはない。落日の米国は弟分の日本に軍事負担の増強を求めてくるだろう。日本は防衛力を強化し自分の国は自分で守るという気概を見せなければ、声高に叫んでも沖縄県民の悲願である日米地位協定の撤廃は成し得ない。

尖閣の先の沖縄を見据える中国は挑発を止めないだろう。かつて勝海舟は暴漢に襲われ時、刀の柄に手をかけただけで暴漢たちをビビらせたと伝えられている。竹光やさや侍では舐められて当然だ。真剣ならばこそ威圧できる。戦争を暴発させないためにも防衛力強化への体制変革が焦眉の急だ。

 聖徳太子は身の程知らずで隋の皇帝に日没するとタメ口をきいた訳ではない。隋を取り巻く情勢を理解した上のことだという。読みどおり隋は怒ることができなかった。

日米の今後の関係も、聖徳太子に笑われぬよう、一時の愚兄愚弟のズブズブの関係ではなく、腕っぷしの強い兄を賢弟が諌めるそんな関係を目指してもらいたいものだ。






2013.4 NO.22 ら と さ

 桜は春を代表する季語。木ヘンに春と書けば「つばき」。歌手の小林幸子さんが歌う『雪椿』は雪がつくが新潟で4月から5月に花が咲くので春の季語。「寒椿」は冬の季語となる。

 魚ヘンに春と書いて「さわら」。春子(かすご)は魚の王様鯛の稚魚。秋の稚魚は小鯛と呼ぶとのこと。

 清少納言は『枕草子』で「春は曙と謳い。中国の孟浩然は「春眠暁を覚えず」と言ったが、寒さのあまり夜明けに起きるということがなくなってきたという意味らしい。私も前立腺肥大&癌で寒いとよけいに頻尿になり辛い。北欧の人々と同じく首を長くして春の到来を心待ちする。

 春が来たと感じるのは、若い頃はキャンディーズの歌う『春一番』。2月頃から「もう直ぐ春ですね・・・」と曲が流れるとうきうきした気分になったものだ。銀行員時代住んでいたところは、新幹線新神戸駅から北へ7キロのトンネルを抜けた山間の新興住宅街で、鶯がホーホケキョと鳴くと春が来たと実感した。

 東京に居を移した今では墨田川の桜並木。たらの芽、ふきのとうの天ぷら。ゴルフのマスターズの開催に春を感じる。4大メジャーの一つであるこのゴルフトーナメントが毎年4月上旬に開催され、Well, it's spring time in the valley on Magnolia Laneから始まりWooden-shafted legend, Bobby Jones.で終わるマスターズのテーマソングを聞くと春本番を意識する。

 

 春は明るくて良いことばかりだけではない。体も冬モードから夏モードに切り替わる過渡期で体調を崩すことが多い。肝臓も春に負担がかかるという。

 「木の芽どきは・・・・」と昔から言われるが、自律神経が乱れ、環境変化のストレスと重なって鬱になる人も多いらしい。

 男は痛風。女はリューマチと言われるが、リューマチも春から夏にかけて多く発症する。風が吹いても痛いといわれる痛風も梅雨や夏よりも春から初夏にかけて多く発症する。数年前ゴールデンウイーク(GW)の前日に定期的な成人病予防検査のため血液を採取した。今日くらいは羽目をはずしてもと、中華料理店にて餃子と豚の角煮でビールを呷ったら、その夜中トイレに立とうとしたら激痛が走った。プリン体というガラスの破片のようなものが膝の神経を串刺しにするのか。しかたなく四つ這いになってトイレに向かう姿はまさにホラー映画のTV画面から出てきた貞子状態。真夜中で家人が見たら、ギョ!とするに違いない。悪いことに痛みと炎症を抑える薬ロキソニンを切らしていた。おかげで寝正月ならぬとんだGWとなってしまった。妻のいたわり(いたぶり?)の言葉はいつも決まって「罰が当ったのよ!」である。

 

春は別れの季節でもある。有名な杜甫の『春望』に出てくる「國破山河在 , 城春草木深・・・」は囚われの身となって家族との離別を嘆いている。私は逆に平成6年の春休みに家族を東京に呼び寄せた。単身で先に上京していたが、二重生活が困難となり子供達にとって初めての大きな別れを経験させてしまうことになった。友達との別れはつらかったと思うが、今にしてみれば就学、就職にはかえって良かったのではないかと思う。東京出身の妻は喜ばずとも反対しないと思っていたが、大泣きに泣いた。妻にとって家は自身が築いた城なのだろう。当時小学校2年の末娘が風呂から出てきて『ようやく(お母さんが)泣き止んでくれたわ』と言ったとき、可笑しくもあり救われた気がした。妻は東京に居るお蔭で自身の母の介護や最後を看取ることができた。                                                   

 

子供達も社会人となり、自分も癌になって後ろを振りかえるようになると、心の奥底にとげが刺さっているのに気がつき、それがじくじくと痛み始めていた。母は私達家族との同居を楽しみにしていた。その夢を唐突に壊し私と家族は去って行った。

 最後の時も、昨年末義母の亡くなった翌日に思いがけず母も逝き、お通夜・告別式の日程が重なり、ひとり神戸に戻った私は義母の葬儀には出られなかった。亡き母に「アンタの母親はワタシだよ!」と叱られている気がした。

 母が亡くなるまでの1年半の間神戸に住む実兄が「こんなに尽くしてくれるとは思わなかった」と母が言うほどに甲斐甲斐しく母の看病をしてくれた。兄に感謝!感謝!である。

2013.3 NO.21  ポダム と ポダム

 19457月にドイツのポツダムにおいて米国、英国、ソ連の首脳が集まり、日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言が採択された。それを日本に強要するも思惑どおり日本が拒絶し、日本に原子爆弾が投下された。

 アメリカ国民は「戦争を早く終わらせるために原子爆弾を使ったこと」を正当化する。日本の徹底抗戦によるアメリカ兵の犠牲者を増やさないためにはよかったと。

しかし、長崎の政治家ならずとも、日本人がそれを口にしてはいけない。日本兵や日本の一般人ことも考えていたなら、有史上もっとも残忍で、一瞬のうちに数十万人を灰に帰するような原子爆弾は使えない。

トルーマン大統領は、非キリスト教圏・非白人社会で実験するという悪魔の誘惑に負けてしまった。広島でウラン爆弾を投下した3日後長崎にプロトニウム爆弾を投下し、日本を、日本人を実験台とした。

トルーマン個人の狂気だとしても、アメリカはとりかえしのつかない、類をみない残虐な蛮行を覆い隠すために、被爆敗戦国日本に原子力の平和利用を押し付けに来たと思っていた。当時の東電木川田社長は「そんな危ないものを他の地域には置けない。故郷の福島に」とそのような美談的な話だとお人よしの私はそう思っていた。が、『原発・正力・CIA(有馬哲夫著)、『日本の原爆』(保阪正康著)等を読む限りにおいて、そうでもないらしい。

 原発導入の歴史を振り返ると、当初アメリカは敵対国だった日本に核兵器製造につながる原発の動力炉を与えるつもりはなかった。CIA文書でポダムと暗号化された正力松太郎氏(読売新聞社中興の祖)がマイクロ波通信網による日本メディアの独占という自らの野望のため、総理大臣をめざし、その手段として原発導入を推し進めようとした。その正力氏をCIAは日本の反米運動及び共産主義化の阻止の目的に利用しようとしたことがCIA文書に書かれているらしい。福島県も、ウラン鉱石採掘候補地として戦前から注目されていた土地柄で、敗戦の日まで中学生が動員され、採掘作業に従事していたとのことである。

当の読売新聞は3.11以降内部検証したのであろうか。昨年の529日付け朝刊にて、1面から数面にかけて前日の国会の原発事故調査委員会での菅元総理に対する意見聴取の模様を伝えながら、社説欄においては次のように書いていた。「原発ゼロでは立ちゆかない」と題して、エネルギー比率を論じたあと結びにこう書いている。「中国をはじめ新興国は原発の新設を計画しているが、日本が『原発ゼロ』に向かえば、原発の輸出ビジネスは展開できなくなる。原子力技術を維持し、安全向上で国際貢献することも、忘れてはならない視点である。」と。思わず政府の広報機関かと愚痴ってしまった。福島の事故原因の調査もままならぬ折、当の東電がその記事の1か月後に事実上原発輸出事業から撤退を表明したというのに。大手メディアのあるべき姿とは到底思えない。

翻って、戦前核開発に携わり、戦後水爆実験に反対していた、物理学者武谷三男氏が「原子力の平和利用は被爆国の権利だ」と主張して、石油が枯渇すると予測されエネルギーの自給が当時の命題となっている中で、安全性、問題点を棚上げにしながら原発を強力に推進していく者たちに免罪符を与えてしまった。科学者としての良心の呵責から発したことかもしれないが、結果として戦前戦後と二度に亘って政治に利用されることになったのは皮肉である。

保坂氏は上記著書の中でノーモアヒロシマ、ナガサキにフクシマを加えるべきでないと言うが、責任主体の違いがあるにせよ、原子力の軍事利用と平和利用とはコインの裏表しかでないことを理解したからには、脱原発は、もはや経済効率や事故の確率論の問題ではなく、被爆国日本人の矜持に関わる問題なのだと思う。

ドイツはしたたかだ。いち早く脱原発を宣言しながら、ちゃっかりと隣国フランスから原発エネルギーを買うつもりだ。島国日本はそうはいかない。「武士は喰わねど高楊枝」と揶揄されようとそれがあるべき日本の矜持だと思う。

 それが正論だと思うのだが、それでも、一部有識者の中には、国防の観点から、全廃するのではなくカウンターパワーとしての核武装への道を残すべきという意見もある(もっとも、『国防の常識』の著者鍛冶俊樹氏は今の日本の体制では核武装は難しいと言っているが)。百歩譲って仮にその路線で進もうとも最新鋭の実験炉が一基(他国から狙い撃ちされないよう米軍基地の近くに)あれば足りるだろう。他の先進国が研究を断念した核燃料リサイクルも必要なくなるだろう。

 研究費をもらうメーカーや族議員にとって重要なのは核燃料リサイクルが完成できるかどうかではなく、毎年800億円以上の予算が確保できるか否かだと言えば言い過ぎだろうか?

そんなお金があるのなら、被災地復興や支援に回してもらいたい。