2013.6 NO.24 
い と 

 昨年度の女の赤ちゃんの名前ランキング1位は結衣(ゆい)。若い男子ならガッキーこと新垣結衣さんを連想するだろう。私のようなオジンとなると夏川結衣さんを思い浮かべる。一時イケメンお笑い芸人と噂になっていたが、別れたとのことで得意然とした彼の顔を想像しなくて済むのはなによりの僥倖だ。

 「ぬい」という名前は今時あまり聞かない。思い浮かべるのは大阪の料亭「恵川」の尾上縫女将しかいない。平成の初め一料亭女将が北浜の天才相場師とし脚光を浴びるも巨額詐欺事件を起こし世間を大きく騒がせた。小説(女帝 小説尾上縫』)にもなった。

 この女将を私たちに紹介してくれたY君との出会いは遠き日の大学時代に遡る。

 昭和44年の新年早々東大安田講堂を占拠する全共闘と機動隊との攻防をTVにてかたずを飲んで見守っていた。なんとか東大入試が中止にならないように願っていたが、結局東大校内は荒れ果て東大入試は中止に決定してしまった。

 当時私は京大経済学部を志望していたが、東大入試が中止になれば東大志望者が多数都落ちしてくるとの噂で、私より成績の良い人たちが次々と神戸大学(神大)経済学部に志望を変更していった(理系の人の多くは阪大へ)。当時神戸高校の生徒はせめて神大ぐらいはとの認識をみな持っていた。私はせっかく人一倍受験勉強したのにと23日ふて寝して抵抗を試みたが、担任の先生のちょっとした反撃に遭い早々と武装解除した。

 他校と同様神大も合格後半年ほど学校が閉鎖されていた。封鎖が解け登校してもそれほどうれしくもなかったが、ほどなくして麻雀を覚え、下宿している学生のところに行くことが多くなった。下宿先では有名画家の絵画を模写した絵を飾る人や、同じ麻雀を覚えたてのハズなのにもう理牌せずに難しい手が読める人などが居て驚いた。一番親しかった麻雀仲間には、灘中・灘校出身のT君がいた。2つ年上で京大受験に2度失敗し、3度目の正直と思っていた矢先東大入試中止のあおりで神大に来ていた。ある種オーラを放ち、就活でも東京海上保険、三井物産、第一勧銀と超一流企業すべてに内定を得ていた。一つ年上のO君は体は小さいが才気立ち、ナポレオンタイプというべきか。卒業後損保に行き将来を嘱望されていたが、母親の病気を機に故郷岡山に帰り不動産鑑定士として活躍している。豊かな才能を持つ人がゴロゴロ居ると分かり、受験勉強しか取り柄のない自分はこの大学で本望だと思えるようになり、それ以降身の不運をかこつことはなかった。

親しい麻雀仲間のもう一人がY君で、ともに現役でおとんぼ(関西弁で末っ子)同士ということもあってお互いバカにしあったり、よく口喧嘩していた。

 Y君は某都銀に入行したので、同業のよしみで折にふれ連絡を取り合っていた。女性にまつわる話も聞いたが、あの顔でよくもと思うが、それも彼の才能なのであろう。

 その彼が大阪の支店にいた頃(平成元年前後?)、恵川の女将を当時私が居た銀行で取締役大阪支店長をしていたI支店長に紹介したいと連絡してきた。

なぜY君が紹介したいと思ったかその理由は定かではないが、ともあれI支店長と一緒に女将の料亭に向った。女将のお酌で当時人気の高かった越乃寒梅を賞味した後女将の行きつけのスナックでカラオケに興じたのだが、京大出のI支店長に対し死んだお父ちゃんも京大出と女将が言ったのを横で聞いて、思わず眉に唾をつけそうになったことを覚えている。

 女将は当時何十億単位のお金を動かしており(当時理由はよく分からなかった)、手形や小切手の当日他券過振りという銀行の掟破りをさせて、支店がそのリスクを負ってまでそれに応えるとより大きな預金をもらえるという仕組みになっていた。某都銀の支店長は日参していたが、Y君やI支店長は一目置かれていて、札びらで頬を叩かれるようなことはなかったようだ(もっとも日参した都銀支店長も女将に頭を下げずにお金に頭を下げていたのであろうが)

 こんな多額の個人預金をする人はめったにいないので、銀行内の個人預金獲得コンペではI支店長も大いにメリットを享受したが、その時は私の紹介だとは一言も言わなかった。バブルがはじけ女将の窮地を間違った形で救おうとした某信金の定期預金偽造発覚を機に一大事件として表面化すると、今度は女将を私が紹介したとあちこちにI支店長は言いまくった。それはないよと思ったが、高校の先輩で無理を頼んで仲人をお願いした経緯もあり、また、I支店長は偽造事件の関連で地検に呼び出され、(当然無関係なのだが)極めて不愉快な目に遭ったらしいので、まぁいっかと不問に付した。

 当時某週刊誌は大阪府警がパンドラの箱を開けそうになってあわてて蓋を閉じたと書いていた。Y君に素顔を垣間見せていた女将はダミーとしか私には思えない。

 産業金融の雄ともいうべき天下の日本興業銀行が、一女将に深入りし、後発取引ながらなぜ大きなババを掴む羽目に陥ったのか、その真相は闇に葬られた。そして数年後興銀の名はこの世から消え失せた。


2013.5 NO.23   ンベイ と ンベイ

第二次世界大戦敗戦後日本は戦争放棄を宣言した。というより、米国に戦争放棄させられた。戦争を放棄すればどうなるか。農薬を撒かない畑を想像してみよう。周りの農薬畑から害虫が一斉に押し寄せ野菜は虫食いだらけになってしまう。隣国の中国、ロシア等がこれ幸いと攻めてくるのが普通だ。

 1815年のジュネーブ会議で国際的に認められた永世中立国のスイスでさえ、国民皆兵であり、『黒いスイス』(福原直樹氏著)によれば、冷戦時代には核兵器の開発さえも一時進めていた。自国を焦土にしても国を守り切るという強烈な防御意識と覚悟のほどは他国が手を出す気持ちを萎えさせるに余りある。

 日本はスパイ天国といわれているし、大きな地下道があるとも聞いたことがない。核兵器の不発弾ともいえる原発も所狭しと配置する。国士故猪木正道氏に40年以上前から空想的平和主義だと警鐘を鳴らされておきながらまったくと言っていいほどに無防備なのはひとえに最強のアメリカがバックにいると思うからだ。

 したがって、日本には真の意味での反米派などいない。『戦後史の正体』を書いた孫崎亨氏の言を借りれば、親米派の中に対米追随派と自主路線派が存在するだけだ。

 孫崎氏は米国に対し自主路線派であるべきとするが、それは当然として、ならば中国に対しても自主路線派であるべきで、『アメリカに潰された政治家たち』を執筆するのなら『中国に籠絡された政治家たち』も上梓してもらいたい。

 

黒船の来航により200年の鎖国の眠りから眼を覚ました。

朱船の尖閣諸島への襲来により平和ボケから眼を覚まそうとしている。

 将来の問題として、仮に日出る中国と日没する米国と仮に選択せざるを得ないとするなら、どちらを元祖日出る国日本は選択すべきであろうか?

中国の傘下に入った場合はどうなるか。13億人もいる中国なら、1億程度人口が増えてもさして問題にならない。自治国とか一見自主性を尊重するふりをするが、格段の軍事力を背景に日本女性は漢民族との婚姻を強要され、日本人男性は日本人女性と結婚できず、長い年月をかけて男系日本人は根絶やしにされてしまうかもしれない。チベットやウイグルを見ればそれは妄想だと一笑に付すことはできまい。

米国はキリスト教の布教が進まないのは分かっているし、51番目の州にすると総人口の3分の1にあたる日本人が市民権を持つことになる。そんなことは考えない。

米国にいまだ支配されているという向きもあるが、だとしても間接統治だ。日本政府には厳しい要求をしているかもしれないが、我々庶民が直接強要されることはない。影響は、ハンバーガーチェーンが蔓延し、子供達の味覚が劣化?したぐらいだ。

米国は日本と絶対に戦争をしたくない。再度戦争しても負けるとは思わないが、日本兵の優秀さ、特攻隊へのトラウマからしても絶対に敵に回したくないと思っているハズだ。日本の特攻隊は、「愛する人を残して死にきれぬがお国のため死んでいかねばならぬ。犬死してなるものか」と砲弾の嵐の中を掻い潜り、鬼気迫って体ごとぶっかってくるのでアメリカ兵は恐れおののいた。

 今の若者は軟弱になったと言われるが、この前のWBCでの内川選手の号泣をはじめ世界で戦う石川遼君や浅田真央さんやオリンピック選手たちを見て分かるとおり、日の丸を背負ったときのプレッシャーや責任感は昔と全く変わってはいない。韓国の前大統領は、竹島上陸を強行した後図に乗り天皇を侮辱する発言をし、それに対する日本国民の怒りの凄まじさを知って愕然としたことだろう。戦後ベネディクトが書いた『菊と刀』での日本人とコアな部分で変わっていない。日本人のDNA60年そこらで変わるものではない。だから米国は日本を自分の弟分にし続けているのだ。



中華思想及び「漢賊並び立たず」の中国とアメリカアズNO1の米国が手を結ぶことはない。落日の米国は弟分の日本に軍事負担の増強を求めてくるだろう。日本は防衛力を強化し自分の国は自分で守るという気概を見せなければ、声高に叫んでも沖縄県民の悲願である日米地位協定の撤廃は成し得ない。

尖閣の先の沖縄を見据える中国は挑発を止めないだろう。かつて勝海舟は暴漢に襲われ時、刀の柄に手をかけただけで暴漢たちをビビらせたと伝えられている。竹光やさや侍では舐められて当然だ。真剣ならばこそ威圧できる。戦争を暴発させないためにも防衛力強化への体制変革が焦眉の急だ。

 聖徳太子は身の程知らずで隋の皇帝に日没するとタメ口をきいた訳ではない。隋を取り巻く情勢を理解した上のことだという。読みどおり隋は怒ることができなかった。

日米の今後の関係も、聖徳太子に笑われぬよう、一時の愚兄愚弟のズブズブの関係ではなく、腕っぷしの強い兄を賢弟が諌めるそんな関係を目指してもらいたいものだ。






2013.4 NO.22 ら と さ

 桜は春を代表する季語。木ヘンに春と書けば「つばき」。歌手の小林幸子さんが歌う『雪椿』は雪がつくが新潟で4月から5月に花が咲くので春の季語。「寒椿」は冬の季語となる。

 魚ヘンに春と書いて「さわら」。春子(かすご)は魚の王様鯛の稚魚。秋の稚魚は小鯛と呼ぶとのこと。

 清少納言は『枕草子』で「春は曙と謳い。中国の孟浩然は「春眠暁を覚えず」と言ったが、寒さのあまり夜明けに起きるということがなくなってきたという意味らしい。私も前立腺肥大&癌で寒いとよけいに頻尿になり辛い。北欧の人々と同じく首を長くして春の到来を心待ちする。

 春が来たと感じるのは、若い頃はキャンディーズの歌う『春一番』。2月頃から「もう直ぐ春ですね・・・」と曲が流れるとうきうきした気分になったものだ。銀行員時代住んでいたところは、新幹線新神戸駅から北へ7キロのトンネルを抜けた山間の新興住宅街で、鶯がホーホケキョと鳴くと春が来たと実感した。

 東京に居を移した今では墨田川の桜並木。たらの芽、ふきのとうの天ぷら。ゴルフのマスターズの開催に春を感じる。4大メジャーの一つであるこのゴルフトーナメントが毎年4月上旬に開催され、Well, it's spring time in the valley on Magnolia Laneから始まりWooden-shafted legend, Bobby Jones.で終わるマスターズのテーマソングを聞くと春本番を意識する。

 

 春は明るくて良いことばかりだけではない。体も冬モードから夏モードに切り替わる過渡期で体調を崩すことが多い。肝臓も春に負担がかかるという。

 「木の芽どきは・・・・」と昔から言われるが、自律神経が乱れ、環境変化のストレスと重なって鬱になる人も多いらしい。

 男は痛風。女はリューマチと言われるが、リューマチも春から夏にかけて多く発症する。風が吹いても痛いといわれる痛風も梅雨や夏よりも春から初夏にかけて多く発症する。数年前ゴールデンウイーク(GW)の前日に定期的な成人病予防検査のため血液を採取した。今日くらいは羽目をはずしてもと、中華料理店にて餃子と豚の角煮でビールを呷ったら、その夜中トイレに立とうとしたら激痛が走った。プリン体というガラスの破片のようなものが膝の神経を串刺しにするのか。しかたなく四つ這いになってトイレに向かう姿はまさにホラー映画のTV画面から出てきた貞子状態。真夜中で家人が見たら、ギョ!とするに違いない。悪いことに痛みと炎症を抑える薬ロキソニンを切らしていた。おかげで寝正月ならぬとんだGWとなってしまった。妻のいたわり(いたぶり?)の言葉はいつも決まって「罰が当ったのよ!」である。

 

春は別れの季節でもある。有名な杜甫の『春望』に出てくる「國破山河在 , 城春草木深・・・」は囚われの身となって家族との離別を嘆いている。私は逆に平成6年の春休みに家族を東京に呼び寄せた。単身で先に上京していたが、二重生活が困難となり子供達にとって初めての大きな別れを経験させてしまうことになった。友達との別れはつらかったと思うが、今にしてみれば就学、就職にはかえって良かったのではないかと思う。東京出身の妻は喜ばずとも反対しないと思っていたが、大泣きに泣いた。妻にとって家は自身が築いた城なのだろう。当時小学校2年の末娘が風呂から出てきて『ようやく(お母さんが)泣き止んでくれたわ』と言ったとき、可笑しくもあり救われた気がした。妻は東京に居るお蔭で自身の母の介護や最後を看取ることができた。                                                   

 

子供達も社会人となり、自分も癌になって後ろを振りかえるようになると、心の奥底にとげが刺さっているのに気がつき、それがじくじくと痛み始めていた。母は私達家族との同居を楽しみにしていた。その夢を唐突に壊し私と家族は去って行った。

 最後の時も、昨年末義母の亡くなった翌日に思いがけず母も逝き、お通夜・告別式の日程が重なり、ひとり神戸に戻った私は義母の葬儀には出られなかった。亡き母に「アンタの母親はワタシだよ!」と叱られている気がした。

 母が亡くなるまでの1年半の間神戸に住む実兄が「こんなに尽くしてくれるとは思わなかった」と母が言うほどに甲斐甲斐しく母の看病をしてくれた。兄に感謝!感謝!である。

2013.3 NO.21  ポダム と ポダム

 19457月にドイツのポツダムにおいて米国、英国、ソ連の首脳が集まり、日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言が採択された。それを日本に強要するも思惑どおり日本が拒絶し、日本に原子爆弾が投下された。

 アメリカ国民は「戦争を早く終わらせるために原子爆弾を使ったこと」を正当化する。日本の徹底抗戦によるアメリカ兵の犠牲者を増やさないためにはよかったと。

しかし、長崎の政治家ならずとも、日本人がそれを口にしてはいけない。日本兵や日本の一般人ことも考えていたなら、有史上もっとも残忍で、一瞬のうちに数十万人を灰に帰するような原子爆弾は使えない。

トルーマン大統領は、非キリスト教圏・非白人社会で実験するという悪魔の誘惑に負けてしまった。広島でウラン爆弾を投下した3日後長崎にプロトニウム爆弾を投下し、日本を、日本人を実験台とした。

トルーマン個人の狂気だとしても、アメリカはとりかえしのつかない、類をみない残虐な蛮行を覆い隠すために、被爆敗戦国日本に原子力の平和利用を押し付けに来たと思っていた。当時の東電木川田社長は「そんな危ないものを他の地域には置けない。故郷の福島に」とそのような美談的な話だとお人よしの私はそう思っていた。が、『原発・正力・CIA(有馬哲夫著)、『日本の原爆』(保阪正康著)等を読む限りにおいて、そうでもないらしい。

 原発導入の歴史を振り返ると、当初アメリカは敵対国だった日本に核兵器製造につながる原発の動力炉を与えるつもりはなかった。CIA文書でポダムと暗号化された正力松太郎氏(読売新聞社中興の祖)がマイクロ波通信網による日本メディアの独占という自らの野望のため、総理大臣をめざし、その手段として原発導入を推し進めようとした。その正力氏をCIAは日本の反米運動及び共産主義化の阻止の目的に利用しようとしたことがCIA文書に書かれているらしい。福島県も、ウラン鉱石採掘候補地として戦前から注目されていた土地柄で、敗戦の日まで中学生が動員され、採掘作業に従事していたとのことである。

当の読売新聞は3.11以降内部検証したのであろうか。昨年の529日付け朝刊にて、1面から数面にかけて前日の国会の原発事故調査委員会での菅元総理に対する意見聴取の模様を伝えながら、社説欄においては次のように書いていた。「原発ゼロでは立ちゆかない」と題して、エネルギー比率を論じたあと結びにこう書いている。「中国をはじめ新興国は原発の新設を計画しているが、日本が『原発ゼロ』に向かえば、原発の輸出ビジネスは展開できなくなる。原子力技術を維持し、安全向上で国際貢献することも、忘れてはならない視点である。」と。思わず政府の広報機関かと愚痴ってしまった。福島の事故原因の調査もままならぬ折、当の東電がその記事の1か月後に事実上原発輸出事業から撤退を表明したというのに。大手メディアのあるべき姿とは到底思えない。

翻って、戦前核開発に携わり、戦後水爆実験に反対していた、物理学者武谷三男氏が「原子力の平和利用は被爆国の権利だ」と主張して、石油が枯渇すると予測されエネルギーの自給が当時の命題となっている中で、安全性、問題点を棚上げにしながら原発を強力に推進していく者たちに免罪符を与えてしまった。科学者としての良心の呵責から発したことかもしれないが、結果として戦前戦後と二度に亘って政治に利用されることになったのは皮肉である。

保坂氏は上記著書の中でノーモアヒロシマ、ナガサキにフクシマを加えるべきでないと言うが、責任主体の違いがあるにせよ、原子力の軍事利用と平和利用とはコインの裏表しかでないことを理解したからには、脱原発は、もはや経済効率や事故の確率論の問題ではなく、被爆国日本人の矜持に関わる問題なのだと思う。

ドイツはしたたかだ。いち早く脱原発を宣言しながら、ちゃっかりと隣国フランスから原発エネルギーを買うつもりだ。島国日本はそうはいかない。「武士は喰わねど高楊枝」と揶揄されようとそれがあるべき日本の矜持だと思う。

 それが正論だと思うのだが、それでも、一部有識者の中には、国防の観点から、全廃するのではなくカウンターパワーとしての核武装への道を残すべきという意見もある(もっとも、『国防の常識』の著者鍛冶俊樹氏は今の日本の体制では核武装は難しいと言っているが)。百歩譲って仮にその路線で進もうとも最新鋭の実験炉が一基(他国から狙い撃ちされないよう米軍基地の近くに)あれば足りるだろう。他の先進国が研究を断念した核燃料リサイクルも必要なくなるだろう。

 研究費をもらうメーカーや族議員にとって重要なのは核燃料リサイクルが完成できるかどうかではなく、毎年800億円以上の予算が確保できるか否かだと言えば言い過ぎだろうか?

そんなお金があるのなら、被災地復興や支援に回してもらいたい。

2013.2 NO.20  オケ と カオケ

 カンオケは狭くて暗い箱に一人で入る。カラオケは、普通数人で入り、歌や踊りで騒がしい。もっとも最近一人カラオケも流行っているが、電飾が点滅してカンオケのように真っ暗ではない。

銀行の組合の専従時代に組合員関係者の葬式によく参列した。20年以上前であったが、兵庫県の加古川あたりでは文字通り桶に亡骸を入れて運んでいた。土葬だったと思う。

 組合員の家族で天寿を全うし大往生した場合など行かないことが多い。娘が不良に走りそれを苦にしたお母さんの葬式は参列して痛ましかった。若くして父親が亡くなった葬儀では残された母娘を切なくて見られない。普段付き合いがない人がほとんどで「最後のお別れに顔を・・・」と言われると正直つらかった。葬式は何度行っても慣れなかった。


 30年以上の昔、新婚旅行中の沖縄観光タクシーの中で、妻は運転手さんの勧めで歌ったが、私は歌わずそれから20年以上妻の前で歌うことはなかった。

 50歳を過ぎたあたりから、ツッパリが消えたのか、あるいは妻との壁がなくなったのか、妻の前で歌いもし、また涙も見せるようになった。

 55歳以降は夫婦割引になるので映画も一緒に行くようになった。カラオケも夫婦で行っていたが、妻が付き合ってあげたと恩着せがましいので、最近は一人カラオケにも行く。

家の近くのカラオケボックスに一人で最初に行ったときは勇気が要った。帰るとき1時間半で300円と聞き900円を出そうとすると、300(30100)だと念押しされた。あまりの安さにびっくりするやら、悪いやら。それからは焼酎とか日本酒とかを頼むことにしている。それでも野口英世先生1枚でお釣りが来る。

 歌は世につれ、世は歌につれというが、昭和49年前後に流行った歌を聴くと初めて親元を離れ東京の独身寮でさびしい思いしていた当時を思い出す。井上陽水さんの『心もよう』、ばんばひろふみさん(当時はバンバン)の『「いちご白書」をもう一度』を聞いたり、自分で歌ったりするとあの頃の切ない気持ちが蘇ってくる。

 伊勢正三さんやイルカさんが歌う『なごり雪』を聞くと、当時好きだった人を思い出す。お父さんが迎えに来て彼女が関西の故郷へ帰るのを東京駅新幹線ホームで同僚達と見送るとき、「汽車を待つ君の横で・・・東京で見る雪はこれが最後ねと」という歌詞を噛みしめていた。その人に「自分の気持ちは言わないで、相手の気持ちばかり聞こうとする」と言われた。ゴールデンボンバーの歌じゃないけれど、自分は女々しい人間だということを初めて悟って、辛かった。それから男らしくを意識してきた。妻と結婚できたのもこの反省が活きているのではと思う。

 

今若い人たちとのカラオケ会では、演歌唄ってエ~ンカと吉幾三さんの『酒よ』や金田たつえさんのド演歌『花街の母』などを唄うと若い人が引いてしまう。今どきの歌は歌えないので、チェッカーズの『ジュリアに傷心』を歌うが、妻は藤井フミヤさんのイメージ壊れると揶揄する。他にシャ乱Qの『いいわけ』やサザンの『HOTEL PACIFIC』などノリのいい歌を歌うようにしている。

一人カラオケでは気兼ねなく練習できるので、英語の歌もレパートリーに入れることが出来てきた。ビートルズの歌は英語がやさしいので、歌い易い。フランク・シナトラさんの『My Way』も十八番とは言えないまでも歌えるようになったが、高校時代にオペラに進んだ方がよいと煽てられた妻が、この歌はアンタごときが歌える歌ではないと上から目線で水を差す。前に不用意に「歌声はたしかにきれいだが、歌心がない」と言ってしまったのを妻はいまだに根に持っている。

 

歌うことも好きだが、聴くことも好きだ。プロで上手いとなると、女性歌手では、美空ひはりさん→八代亜紀さん→桂銀淑さん→坂本冬美さんが歴代の演歌の女王と思っている。動静が心配された桂銀淑さんも、高校の同級生の弁護士によると、ゴルフ旅行先の済洲島で歌っていたということで安心した。

 男性歌手となると、松山千春さんある番組で森進一さんを挙げ、郷ひろみさんもだれも真似できないだろうと言っていたが、私も同感だ。


日々妻に言わんでよい事をわざと言い、日に1度は死ぬ? 死んで! 死ね!!と言われる。『死ねっと言われってぇ~、その気にぃ~』ならずとも、遅かれ早かれカンオケに入ると思うが、白州次郎先輩に肖り、葬式無用、戒名不要と遺言している。命日には家族でカラオケに行ってダメ親父を思い出してもらえればそれで十分だ。






2013.1 NO.19  タイン と タイ

 

昨年の正月は台湾で元旦を迎えた。私の長男が台湾の女性と結婚することになり台湾で婚約披露宴を挙げるために渡航した。

 所変われば品変わるというが、日本と台湾では一事が万事かなり違う。

 台湾・松山空港に着き、地下鉄で台北駅に向かう時、車中でガムをかんでいたら義娘(新婦)に注意された。車中で食べていけないと(日本でも行儀が悪いが、ガムも駄目らしい)

日本の新幹線を導入した台湾新幹線で台北から台中に向かったが、駅のトイレにも留意が必要と言われた。ホテル以外の駅や民家のトイレでは使用した紙を流してはいけないらしい。そのためか日本より臭いが立つみたいだ。義娘の実家で用を足して出るとき、ドアを閉め切ってはいけないと教えられた(閉まっているのは誰かの使用中を意味するらしい)

 台湾では大晦日がめでたいということで婚約披露宴が行われた(日本で結婚式の日取りに選ぶ「大安」の語源は“泰安”と言われ、台湾の新竹州にあった泰安郷という地名に由来するという説もある)。旧正月の前日の大晦日は爆竹を鳴らしもっと賑やかだということだ。

婚約披露宴も、日本では披露宴等親族が末席に座っているが、台湾では新郎新婦と親らが一番前の中央テーブルに陣どる。台湾では一人に案内すると10人前後一緒に集まってくる。祝金も日本のようには必ずしも必要ではないらしい。10人席用のテーブルが30用意されたが、余ったのは1テーブルだけであった。主宰の新婦のご両親はさぞかし大きな散財になったことだろう。結婚式ならもっと凄いという話だ。

 当初は各テーブルにお酌に回ると聞きいていた。酒が強くない私は各返杯を受けていたらダウンしてしまうと心配した。が、新婦のご両親に付き添われて各テーブルに挨拶すればよいということになり、安心した。それでも28テーブルも廻りそれなりに大変だった。

 

 たった4日間での台湾滞在ではあったが、文明の恵みと引き換えに我々が失った、古きよき時代の日本の原風景がそこにあった。

 私どもが台湾に渡ったとき、向こうの親戚一同で熱烈な歓迎を受けた。帰るとき妻が感激のあまり泣いてしまうほどだった。日本統治時代の小学校で一時期日本語を話していた新婦の祖父達は、言葉の通じない私達を気遣って、日本語を思い出しながらなにかと話しかけてくれた。また、新婦の母方の祖父は風光明媚な日月潭に向かう貸切バスの中で日本の歌謡曲を歌ってくれた。日本に来たことがなく訪日を希望しているということなので、是非実現させたいと思っている。

 週刊文春で旅のエッセイの特集があったが、作家の角田光代さんは「はじめての一人旅をするなら」と題して、真っ先に台湾を薦めると書いてある。してその心は「台湾で感じる、ごくふつうだけど得難い善意」と言う。私も同感だ。我が妻は亡き岳父に似てやじろべぃのごとくやや体を左右に揺らしながら歩く。歩く後姿を見て、日本人なら「足でも悪いのかしら」と陰口で留まるが、台湾の親戚の女性達は、さぁーと駆け寄ってきて「足が痛いのかい? サンダルを買ってあげようか」と心配して声をかける。事情が分かって大爆笑だ。

 明るくて親切な台湾の人々と今般姻戚関係になったことを心から嬉しく思っている。

子供の結婚に際し国際結婚について聞かれることがあるが、火星人なら考えるが同じ地球人なのでと答えている。ましてや親日の台湾なので、無問題。

 結婚した長男は私の4つ上の実兄に良く似ている。DNAはシャッフルして継がれるので、兄に似ていても不思議ではないが、その兄も若いとき結婚まで至らなかったが中国人を好きになった。私の家系には漢民族?の血が入っているのではないかと思う(だからといって親中派ということではない)

 お笑いコンビ「ピース」の吉本イケメンランキング1位、熟女好きの方でなく、キモカワ系の又吉直樹さんは、超がつく文学青年で、エッセイ『第2図書係補佐』上梓した。その中で、こんなくだりがある。沖縄で生まれた又吉さんの祖父はハワイに渡り、当時としては珍しくアメリカ女性と結婚し、終戦後に又吉さんの祖母と再婚した。又吉さんの姉は子供の頃外人、外人と他人から言われ、又吉さん自身も小学校3年生まで金色の体毛が生えていたと書いている。祖父の前妻とは当然関係ない。私は又吉さんの祖父にはアメリカ人と同じ血が入っているからなのではと思う。

 TVで長く生き別れた親子が再会を果たした場面は涙なしには見られないが、探し求め合うのも、互いのDNAが呼びあっているのだと私は勝手にそう納得している。

2012.12 NO.18 ネ と 


  印象派画家マネ(Manet)とモネ(Monet)は日本語でもフランス語でも一字違いで紛らわしい。駆け出し当時のモネのサロン入選作品をマネの作品と間違えられ、しかもマネ自身は落選という、先輩マネとしては憤懣やるかたなしの事件も起きている。

 印象派の父と称せられるマネ(1832年~1883)と印象派を代表するモネ(1840年~1926)。後輩のモネがマネをマネしたわけではなく、あくまでマネはマネで、モネはモネということらしい。吉川節子女史の労作『印象派の誕生~マネとモネ』を読むと屋外制作についてはモネが先駆者でマネの方がマネしたと言えるとしている。

 日本人は総じて印象派の画家が好きだが、私は白ポチャで健康的な裸婦を多く書いたルノワールが好きで高校生?の時に画集を買った(やや小太り気味の妻に他人ほど違和感を覚えないのはその為かもしれない)

 昨年6月国立新美術館にて印象派・ポスト印象派展を観に行ったが、印象派の絵はある程度は離れて見ないと輪郭等がよく分からない。だが、私は目が悪くかえってぼやけてしまうので展示画集を買うことにした。

 印象派は日本の浮世絵にも影響を受けたとされる。モネの自宅には日本庭園を造り、また浮世絵も多数購入したと言われる。

 最初の浮世絵師菱川師宣が亡くなった1694年の100年後1794年に謎の絵師東洲斎写楽が登場した(その200年後の1994年に私が居を東京に移したが、何の関係もないか)

 上記印象派展の一か月前(昨年5)には上野国立博物館の写楽特別展に行ったが、世界から浮世絵が集められ、また現歌舞伎役者所蔵の版画も展示されていた。

写楽の作品が第1期から第4期に分かれて展示されていた。第1期は人気の高い大首絵で、それ以降作風が変わり次第に良さが消えていくのだが、第4期になると、第1期のカリカチュア的な個性がなくなり別人の作とも思えるほど変わってしまっている。

 浮世絵は今で言うプロマイドなのに、写楽の絵は例えば男が女役を演じたそのままを書いた。美人と映らないので役者自身や贔屓筋からブーイングを浴びてしまったらしい。

華々しくレビューしたにもかかわらずたった10ヶ月で筆を置くことになったが、版元の蔦屋重三郎がクビを言い渡したのか本人が自分の意思で筆を折ったのかは分からない。

浮世絵に触発された印象派はマネの『草上の昼食』のごとく当初の非難の嵐をもろともせずそれまでの写実主義から解き放たれたが、逆に写楽は非難に耐えられず花火のようにさっと消えてしまったのは画家としての信念の差なのだろうか?

謎の絵師写楽の正体は昨年NHKの特番で明らかにされていた。ギリシャで肉筆画が見つかり、筆のタッチで有名絵師との相違を調べていった結果、消去法で残った、阿波の能役者斉藤十郎兵衛ということになった。元々江戸時代にそれを示す記述があったにもかかわらず素人がこんな見事には描けないとして有名絵師等の別人説が長らく流布されてきた(推理小説の作家達は、一つのネタがなくなり、がっかりしているかもしれない)


 写実性の高いカメラの発明も大きな転機となり印象派が生まれたのだが、その期間はそれほど長くなく、セザンヌ等ポスト印象派を経てキュービズム、抽象画へと現代絵画につながっていく。

印象派台頭以降写実絵画はすっかり衰退したかと思っていたら、最近また見直されてきて、日本でも写実画専門のホキ美術館が一昨年誕生し注目を集めている。先月千葉のJR土気(とけ)駅の近くにあるその美術館に行ってきた。

石黒賢一郎氏作の廃坑の立坑櫓を描いた『SHAFT TOWER』などの静物画もすごいが、なんといっても人物画に目を見張る。当館の代表作品とも言える森本草介氏作『横になるポーズ』は他所に貸出中であったが、新作裸婦像『NUDE』が展示されていた。写真と見紛うごとく極めて精緻、リアルに描かれており、人がなせる技かと驚嘆する。芸術作品なので当たり前とはいえ、前立腺がんホルモン療法で男性ホルモンが枯渇している私は上気することもなく冷静に見られるのは幸か不幸か分からない(いや、きっと不幸に違いない)


美術館めぐりは貧乏人にとってはありがたい贅沢だ。とくに東京は大きな展示イベントが多く世界中の美術館所蔵の名画が居ながらにして鑑賞できるのがうれしい。

 夫婦での旅行や出張で地方へ出かけるときも美術館に行くことにしている。少し前富山県の近代美術館(アンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー画も展示)に行って来た。

 次は、夫婦とも金沢の街が好きなので話題の金沢21世紀美術館(20043月に金沢に行ったが、その約半年後にオープンした)に行きたい。さらに、夫婦ともまだ広島で降りたことがないので、原爆ドームに近い、ひろしま美術館(広島銀行頭取故井藤勲雄氏の原爆犠牲者への鎮魂と文化の復興への想いが結実)に行きたいと思っている。



2012.11 NO.17 つね と つね

 

 激太りが話題となった親日派ポップシンガーレディー・ガガさんが来日の際立ち寄るという東京の立ち喰い店で「きつねをください」と言うと、店主から、そば、うどんのどちらと聞かれる。一方関西では、「けつね!」(きつねの関西方言)と言うときつねうどんが出でくる。関東のきつねそばは、関西では「たぬき」という。天かすがいっぱい入った関東のたぬきは関西では「ハイカラ」という。そばなら「ハイカラそば」と注文する。

 うどんの出汁は、関東は鰹節と濃口醤油。関西は鰹節・昆布と薄口醤油がベースとなる。

 銀行に入行した翌年昭和49年1月に転勤で神戸から上京し神田の独身寮に入った。寮の朝食がない時は近くの麺チェーン店に立ち寄った。店には申し訳ないが、出汁が真っ黒で、すくなからずショックを受け、ホームシックになってしまった。神戸に居るときは青ねぎが臭くて嫌いであったが、東京に来てからは懐かしさからか好んで食べるようになった。

 現在東京に居を移して18年になるが、やはり関西風のきつねそばが懐かしく、出張で新幹線で大阪へ行くときは、新大阪駅構内の立ち食い店に寄る。

 関西は牛食文化で子供の頃カツと言えばビフカツであった。関東は豚食文化でポークカレーは関西人の私にとって最初は不思議に感じた。

 お好み焼きでも、今は東西関係なく豚玉(キャベツが入った生地に生卵を混ぜ込む)が主流であるが、私が子供の頃神戸では牛天が定番だった。当時お好み焼きのことを「にくてん」と称していたが、卵が入っていない生地に牛肉をのせ、その上に生卵をのせて裏返す月見天が好きだった。ただ、牛肉は火の通りが早いので、じっくりと焼くお好み焼きには向いていない。

 私が子供の頃関西ではウスターソースが主流だった。立ち喰い串かつ屋の二度付け禁止のソースもウスターソースがベースになっている。東京はトンカツソースが主流で、我が家でも私しかウスターソースを使わないので、隅に追いやられている。

 すし屋でメニュー札の一番は、関西では魚の王様たい()で、関東はまぐろだ。

 周知のことだが、うなぎは関西は腹開きであるが、関東では武士の切腹イメージを嫌い背開きになっている。関東はタレをつけて焼く前に蒸して柔らかくするが、関西では蒸さない。

私が最後の晩餐にはこれと決めている河豚は、東のアンコウ、西のフグと言われるように関西に限る。関西の食物の方がほとんど美味しいと思うが、うなぎ、煮穴子、まぐろは東京に敵わない。

 ハンバーガーチェーン・マクドナルドは関東ではマックと略称するが、関西ではマクドと言う。マイド(毎度おおきに)、オイド(お尻)、ゴクド(極道)と同じ調子だ。

 関西出身の私は、感謝の意味で「すみません」を多用する。すると東京生まれの妻はなぜ謝るのかと訝るが、武家社会で商人が謙ったなごりであろうか。

 東京にあこがれを抱く東北人をうい奴と思う東京人は、関西人を生意気と思っている。

 関西人は、関西弁のどこが悪いねんと言って直そうとしない。「東京はせいぜい太田道灌の時代からや。関西は2千年も前から日本の中心なんや」と東京に対抗意識を燃やす。

 所変われば品変わるというが、狭い日本でたった500キロメートルでこんなにも違う。

 

これが宇宙のスケールになると、想像もつかない。

都市伝説の番組では、宇宙人は存在し、ケネディー大統領は約50年前にこれを公開しようとしてCIAに殺されたとする。スピルバーグ監督の映画『E.T』は宇宙人が地球人に友好的であることを知らしめるために作られたと言っているが、ホンマかいな!?

高度に文明が発達した異星人が地球人を同じ人間と思ってくれるかどうか分からない。

昔トワイライトゾーンというアメリカのテレビ番組があった。出術室で患者がこんな醜い顔を見たことがないと医師達に言われている。番組の最後にいよいよ顔が明かされると、なんと患者は超イケメンで、医師達の顔が怪物だったという内容をよく覚えている。

心やさしき我妻もゴキブリには容赦がない。「子供達が大騒ぎしているから、なんとかして!」と言いに来るが、「ゴキブリも生きる権利がある」と相手にしないと、「なにバカなことを言ってるの、害虫なのに。もう役立たず!」と言って自分で処理してしまう。

 異星人が地球人を大きなゴキブリだと思えば、慈悲なく殲滅させられる。

 筋萎縮性側索硬化症という難病と闘いながら宇宙論を思索する、かのホーキング博士が地球外生命体を探すべきではないと主張しておられたが、頷けるところだ。





 2012.10 NO.16 アントキノイノ と アントキノイノ

 アントキノイノチは、歌手で、作曲家で、作詞家で、しかも作家という天才さだまさしさんが書いた小説である。遺品整理業を題材とし、昨年映画化された。題名のアントキノイノチは偶然ではない。主人公の二人が海に向かって元気ですか!?と叫んでいる。アントニオ猪木→アントキの猪木→アントキノイノチとつながる。

 さださんがフォークデュオ「グレープ」としてデビューし最初に出したシングル『雪の朝』は昭和48年銀行に入行して初めて給料で買ったレコード(ちなみにLPでは井上陽水さんの『氷の世界』)。私は好きだったのだが、あまり売れなかったらしい。

 2時間ぐらい続けて歌えるほどレパートリーが増えた現在と違い、30歳から50歳までの私は、宴会では『無縁坂』1曲でほぼ切り抜けてきた。たいへんお世話になった。

『精霊流し』とか哀調のある歌のほうが、ユーモアのある『関白宣言』などより私は好きだ。某裁判官が極めて異例だが歌の題名を挙げて被告を諭したことで話題を呼んだ『償い』はとても素人では唄えない。初めて聞いた時のアントキノオノノキは尋常ではなかった。

アントニオ猪木さん(190cm)をものまねする芸人には、春一番さん、アントニオ小猪木さんなど数多くいるが、アントキの猪木さんは背も高く(183cm)、見た目では私は一番似ているのではと思う。

アントキの猪木さんは芸人になる前公務員だったことは有名な話だ。千代田町役場(現かすみがうら市)に勤めていた。役場を辞めて芸人になると親御さんに告げたときはさぞかし親御さんも心配したに違いない。

 脱サラするためには今の給料の3倍の収入が見込めないと失敗すると言われる。

 人気商売のアナウンサーも局アナからフリーになる場合もリスクを負う。女子アナでは大きく収入を減らした人もいるとか。

 自営業になった場合、年金も厚生年金から国民年金に変わり、国民年金だけでは最高でも月7万円にも満たない。老後まで考えて転職する人はまずいない。若くして脱サラし蕎麦屋などなにをするのも勝手だが、絶対に成功しないと惨めな老後が待っている。

 アントキの猪木さんは、明治記念館で結婚披露宴を行ったとき1,750万円も費用をかけたとTVに出ていた。芸能人としての見得もあろうが、転身が成功したと言えるだろう。

 大企業でくすぶり、中小企業に転職する人もいる。大企業で我慢、我慢の人生を送らざるを得ないとしても居座り続ければ、老後は企業年金もある3階建ての年金生活。家庭も平穏だ(世の奥方たちは変化を嫌う)。中小企業なら年金は大企業のようには期待できないので、頑張って出世して自分で貯蓄を増やし、老後資金を蓄えるのが正解だ。

 43歳での私自身の転職は、収入面から見れば成功したとは言えない。もっとも、転職の目的は、もうひと花咲かせたいということではなかった。井の中の蛙として足掻くより、広く公益に資する仕事がしてみたい。自身調査はできないとしてもアカデミックな世界に身を置いてみたいということであった。銀行員では無縁の人たちと会うことも出来てよかったと思っている。ただ、銀行員と結婚し生涯楽チンと思っていた妻は、兼業主婦に変更を余儀なくされ、いい迷惑だと思っている。

身勝手な亭主は、職業人生からリタイアするときはどんな目に遭うだろうか?

 財産があれば、退職祝にと離婚届をもらうかもしれない。蓄えもなく、年金もさほど期待できない亭主を持つ妻は何を考えるか? そして、その亭主はどんな運命を辿るのであろうか?

話を分かりやすく、夫婦は同い年とする。仮に65歳から貰える年金が夫は月16万円(老齢厚生年金10万円、老齢基礎年金6万円)、妻は月8万円(老齢厚生年金2.5万円、老齢基礎年金5.5万円)とする。

毎日呪いをかけて夫が首尾よく早く逝った場合、妻は自身の年金を選択するとか3つの選択肢があるが、当然一番多い方法を選択する。その場合の遺族年金は13万円(夫の老齢厚生年金10万円×0.75+妻の老齢基礎年金5.5万円)となる。

死ぬまで待てないと熟年離婚を選択した場合、婚姻期間中の厚生年金の保険料納付記録の夫婦の合計(夫婦それぞれの標準報酬の総額)を算出し、標準報酬総額の多い方から少ない方へ移される。分りづらいが結局のところ妻の取り分は夫婦合算の年金24万円の半分12万円にも満たないかもしれない。遺族年金の権利も当然なくなる。それなら離婚するより死んでもらった方がましということになる(自営業のみの夫と結婚した妻は、夫は国民年金だけなので、離婚しても一銭も貰えない)

一番良い方法は、別れないで夫婦合算の24万円を一人占めすることだと妻は気がつく。

生かさず殺さず夫を座敷牢のごとく蟄居させる。夫が文句の一つでも言おうものなら、子供達を味方につけた妻から「アンタも遺品整理業の方のお世話になりたいの!?」と脅される。 

かくして、粗大ゴミ寸前の夫は、ひとり寂しく窓から叫ぶ。「元気ですかぁ~!?」 


2012.9  NO.15  ブ と  


羽生と書けば、今やハブと読む。日本が誇る天才羽生善治ニ冠を真っ先に思い浮かべる。私が子供の頃はハニュウと読むのが一般的であった。女子体操界の元祖アイドル羽生和永さんもいた。

ゴルフの4大メジャータイトルを同じ年度内でとることをグランドスラムと言うが、羽生ニ冠は将棋の全7大タイトルを年間で征した。今7月には棋聖位を防衛し、生涯のタイトル数も81個(現在82個)となり故大山康晴十五世名人の大記録(80)30年ぶりに塗り替えた。生涯勝率もベテラン棋士中で唯一7割を超える。この先若手が台頭し世代交代の掟には逆らえないとしても、史上最強の棋士に変わりはない。

日々対局に追われる中将棋の普及・広報活動にも先頭に立ち講演、対談など精力的にこなしておられる。ゆくゆくは谷川浩司九段(十七世名人)をはさんで日本将棋連盟の会長になり将棋界をリードされるのは間違いない。

 関西棋界では谷川九段が登場する前は内藤國雄九段がスーパースターだった。

 私が銀行の組合専従をしていた昭和55年頃組合の大会に内藤九段を記念講師としてお迎えした。控え室で応対したときに緊張からか大失着をしてしまった。知らないハズはなかったが、碁を少し嗜むこともあり、つい将棋を打つと言ってしまった。すると内藤先生は穏やかな口調で「碁は打つ、将棋は指すと言うんですよ」と仰られた。周りに将棋好きが居れば頭をぽかりと殴られたと思うほど恥ずかしいポカだった。内藤先生には講演の終わりにご自身のミリオンセラー曲『おゆき』も披露していただいた。内藤先生も天才のお一人だ。


 将棋が一対一の戦いなら、株も同様だ。売り手と買い手に分かれて勝負する。同じ株価チャートを見ても売り時と買い時との見方が分かれる。

長い間右肩上がりに上昇し続けていた日経平均株価が平成元年の年末に史上最高値(38,915)をつけ大納会では来年4万台の大台に乗るかと囃し立てていたが、平成2年初から暴落し3月には平均株価は3万円を割った。さらに9月には2万円割れ寸前になり、半年間で日経平均が半値となる大暴落となった。

先行き不透明で舵取りが難しい大変な折、平成210月新宿支店長から証券部長へ私は異動することになった。周りから「なぜあんなど素人に任せるのか」と言われるまでもなく、私自身が青天の霹靂。まだ新宿支店に移って8ヶ月しか経っておらず、業績もバブル末期に咲いたあだ花であるが支店開設以来の最高益があがっており、なにか逆鱗でも触れることがあったかと疑心暗鬼になった。あれこれ理由を考えても、「組合専従時代からみて剛速球しか投げない不器用なアイツなら都合の悪いことが起こっても隠し事はしないだろう」(前任者がそうだったということではない)と思われたとしか思いつかない。

「勝ったのは自分の手柄、負けたのは相場のせい」がまかり通る株の世界で、誰か分からないが私に白羽の矢(毒矢に近いが)を射た人のためにも、“勝ったのは相場のおかげ、負けたのは自分の腕”ということを肝に銘じた。

着任後すぐに野村證券がバカ殿状態の私を自社の研修所に招いてくれた。とくに国債担当のKさんには研修後もお世話になった。優秀な方で長らく指導してもらいたいと思っていたが、ほどなく持病の糖尿病を悪化させ、第一線を引かれ、福利厚生の部署に移られた。当時ノルマ証券と揶揄される野村證券だったが企業戦士を一生面倒見る懐の深さがあった。

着任後34月も経つとすこし相場が回復したのとビギナーズラックもあり、私の周りも静かになっていった。

翌年の平成3年には相場の下落だけではなく、1月に第一次湾岸戦争があり、6月には4大証券の巨額損失補填問題の発覚、8月にはゴルバチョフ露大統領の失脚に伴うレッドマンデーもあり、当時の4大証券の株式部長は皆胃を摘出して無いと言われていた。10年ぐらいの出来事がいっぺんに来たような1年であったが、翌平成4年に入っても年初から株価が下がり4月に入ると壁一面のボードにある全銘柄においてグリーンランプが点灯し売り一色となった。

私もいつでも辞表を出す覚悟ではいた。一喜一憂するなというが、いくら能天気な私でも憂、憂、憂、憂と毎日続くとおかしくなる。強度なストレスは癌の誘因になるし、癌にならなくともその人の弱点を攻撃する。私は持病の蓄膿症が悪化し、右側の頬が鼻の高さまで膨らんだ。対処療法で膿を注射器で抜くのだが、医者が痛いよと言うときは本当に痛い。顔の骨がきしむような痛さで一回で音をあげ手術することにした。

 平成410月何とかクビにもならず神戸大附属病院に入院中に証券部から融資企画部(より問題は深刻だったのだが)に横滑りした。退院後すぐの月曜日に担当役員に挨拶に出向いたところ、その担当役員は入院して不在だった。なんと!入れ替わりに、担当役員は網膜はく離で私が土曜日に退院したその日に同じ病院に入院していた。

その役員に昨年18年ぶりに東京で再会した。「生きているだけで儲けもの」と互いの達観ぶりを確認し合うことになり、なんとなく嬉しかった。