2014.4 NO.34  ッズ と ッズ

ウッズと言えば、さすがに今となっては野球の熱狂的な中日ファンでもタイロン・ウッズ(2005年~2008年中日の大型スラッガーとして活躍)とは言わないだろう。ゴルフのタイガー・ウッズだ。今年も410(日本時間11)からマスターズが始まる。すっかり猫になったと揶揄されるタイガーが久しぶりに優勝するかと期待されたが、腰痛でそれどころではないようだ。

 私自身は25歳から44歳まで20年間ゴルフを嗜んだ。ゴルフ練習場からタクシーに乗ったら「プロゴルファーですか?」と聞かれたこともあるように恰好だけは一人前。スコアは100切れば上機嫌の下手の横好きだった。年平均15ラウンドとして20年間で300ラウンドはプレイしたと思うが、その中で後にも先にも1回だけキャディーさんから「お上手ですね!」と言われたことがあった。

舞台は、神戸市の北区にあり都心から至便の兵庫カンツリー俱楽部。距離はないが狭くOBが出やすいコースだ。

 INコース出だしの10番ホールはミドルでバーディー。続く11番のロングもスリーオンして長いパットが入った。3ホール目は12番ショートでワンオン、ワンパットでこれまたバーディーとなり3連続バーディー。盆と正月が一緒に来たような騒ぎであった。続くミドルもバーディー逃しのパーで、続くロングもパー。なんと5ホール廻って3アンダー。

茶店に寄る途中でキャディーさんに褒められたのだが、あきれた様子の同伴同級生たちはやけ酒を呷っていた。冬の寒い中私はじっと何も飲み喰いせず後半のホールに臨もうとした。それが却ってよくなく、ティーショットはドスライス。40㎝ほどのパットも緊張のあまりちびってしまった。あの時ばかりはプロのしびれとはどういうものか実感できた気がした。ハーフ後半人が変わったように荒れ結局30台で廻れなかったのは今となっても誠に残念に思う。

 ゴルフに勤しんだ最後は1995年の11月末宮崎フェニックスのトムワトソンコースでのプレイ。最終ホールで、会心のドライバーを放ち開眼したと思った。そのゴルフ場から北海道のゴルフ場へゴルフ道具を送ったのだが、北海道入りする前に悪天候で中止が決まり返してもらうよう連絡した。ところが、宅配業者の内部でキャディバッグもろともレフティー用のゴルフ道具一式が忽然と消えてしまった。結局20数万円弁償してもらったが、そのお金も消えてなくなった。胃袋に消えてしまったのだ。お蔭で今もドライバーを開眼したと思い続けられている。

 

 ウッズにあこがれてゴルフを始めたキッズが世界中にたくさんいると思うが、日本では石川遼君が真っ先にあがるだろう。遼君が登場したとき10年いや50年に一度の逸材と言われた。イケメンで思いっきりドライバーをたたく姿は、大好きだった若き日のセべ・バレステロスを彷彿し、私もファンになった。

 ツアー最年少記録や1ランド58の世界最小記録を持ちプロとして順風満帆と思われたが、アメリカツアーでもがいている。遅れてやってきた同い年の松山英樹君に追い越されたと、気の早い人ならそう思うだろう。

技術的なことはヘボゴルフファーの私に分かる訳がないが、誤算というか惜しむらくは、思うほど身長が伸びなかったことであろうか。世界に名を知られた日本のトッププロ、青木功プロ、中嶋常幸プロは180㎝、尾崎将司プロは181㎝。松山英樹君も180㎝あるが、石川遼君は175㎝しかなく体の線も細い。私と変わらない様な体で300ヤード以上飛ばすのはコントロールが難しいし腰に負担がかかるだろう。

「薬師寺広のノーカット放送室」というネット記事(2012.11)によると、2002年シーズンのドライバーディスタンスでウッズは293.3ヤードで第5(1位はJ・デーリーの306.8ヤード)であったが、ドライバーやボールの進化した10年後の2012年シーズンではあの

ウッズですら35(297.4)に落ちている。2002年頃であれば技で勝負する丸山茂樹プロでも太刀打ち(アメリカで3)できたが、今は平気で300ヤード以上かっ飛ばすプロが多くなった中で優勝するのは容易ではない。ボクシングに例えると、日本人ボクサーは、フライ級、バンタム級のチャンピオンにはなれるが、ミドル級以上の世界チャンピオンになることは至難の業と言える。陸上の100m走では、日本チャンピオンは世界ではファイナリストを目指すとし、決して金メダルとは言わない。今のゴルフ界も同じでは。石川遼君も世界の上位ではなく、日本の金メダルを目指してほしい。

 石川遼君はゴルフスタイルや性格が尾崎プロに似ていると言われる(松山英樹君は青木プロに)。尾崎プロのように日本のスーパースターになって、日本のキッズたちのあこがれの的になってほしい。女性ファンも多いので、早く帰ってきて男子の日本プロゴルフ界を再興してもらいたいと思う。

2014.3 NO.33   イニチ と イニチ

 在日と言えば、在日韓国人、朝鮮人と続くだろう。亡くなった劇作家のつかこうへいさんのペンネームは「いつかこうへい」に由来していることは有名な話だ。

作家の伊集院静さんは夏目雅子さんと再婚したということだけで毛嫌いし、作品も読んだことがなかった。ある時雑誌かなんかである作家の大御所を大嫌いとか書いてあったのを見て興味が涌き、『お父やんとオジサン』で伊集院さんのルーツを知り、『いねむり先生』で雀聖と謳われた阿佐田哲也さん、私の寂しい青春時代を癒してくれた井上陽水さんの知遇を得ていると知り、親しみを覚えた。

 孫正義さんは自身の評伝『あんぽん』をかの佐野真一氏が書くにあたって取材協力している。日本が好きで日本で成功すればこそ、祖国の血のルーツを思わざるを得ないのか。アメリカから日本に帰化した人などはそんな感慨は湧いてこないのだろう。

 南北朝鮮人に対する差別問題は関東より関西の方が根が深い。

 神戸で育った私は、子供の頃、「朝鮮、朝鮮、バカするな! 同じ飯くってどこ違う!?」と日本人がからかって口マネしているのをよく聞いたものだ。平成の世になって支店長として赴任した地域でも取引先の社長が嫌厭しているのを耳にした。

 銀行の先輩たちも在日韓国人等との取引は難しいと言っていた。「イザとなれば半島に逃げる」「うまく行っている時はよいが、トラブルと大変だ」

それは偏見、そういうことは言うべきではないと私は思っていた。しかし、ほどなくしてやはり難しいものだと実感させられてしまった。

 平成に入った頃人を介して在日韓国人系の金融機関出身のA君とB君と知り合った。

A君は日本に帰化しており、韓国語は喋れない。就職や結婚を考える段になって初めて出自の問題を思い知ることになる。B君は韓国語が喋れるので、通訳になってもらいバブル末期の頃よく韓国に皆で繰り出した。

 分け隔てしない私の居る銀行ならと思ったのだろう。A君は自身の会社の立ち上げに梅田支店に融資を申し込んだところ、支店長にお前みたいな若造にとの扱いを受けたということだ。B君は京都支店長に「韓国人に金貸せる訳ないだろう!」と言われたとさびしいそうに私に報告しに来た。返す言葉がなかった。それは初めから分かっていること。何か他の理由で本部が否決したのであろうが、そんな心無い言い方をするとは。両支店長ともよく知っている真っ当な先輩たちだけに悲しくなったことを覚えている。

 ある時A君に良かれと思い某物件を斡旋しようとした。ところが後になって横やりが入り、つっぱねたらよかったのだが、理由も告げずキャンセルを申しでた(自分自身が弱かったと後悔している)。本人よりもお父さんが激怒した。過去幾度かそういう目に遭ったことがあるのだろう。それを機に疎遠になって行った。

 対日といえば、対日感情と続き、反日感情を連想するだろう。韓国の反日の声が喧しいが、日本の新大久保辺りのヘイトスピーチも日本の声を代表しているわけでもないように、韓国の過激な意見も同じことだ。韓国では「古代中国を宗主国として日本が韓国の弟分だ」という思いが根底にあるのだろうが、民間人の多くは「現代ではいわばアメリカを宗主国として韓国が弟分である」ことも理解しているハズだ。反日プロパガンダに対して、国が看過せず適切に対処しようとしているのだから、我々庶民は日本人としての品位を守り大人の態度を見せるべきではないか。

韓国の人気女優のキムテヒさんが過去スイスで独島(竹島)のキャンペーンをやったからと言って、反日女優のレッテルを貼り、日本に来るな!と言うのはやり過ぎだと思う。彼女が歴史をねつ造したわけでもなく、子供のころからそういう教育を受け愛国心から行動した、あるいは芸能人としての踏み絵を踏んだのかもしれない。本当に反日であれば、日本語を覚え、日本に来て日本男優とキスをするドラマには出演しなかっただろう。

私はむしろ日本人が、日本のメディアが日本を貶め国益を損なうその言動こそが「反日」で問題だと思う。慰安婦強制連行等西岡力氏や高山正之氏らが糾弾する朝日新聞のねつ造記事問題が事実とすれば、大手メディアとしての、「権力は腐敗する」とアクトンが言う「権力」に対して監視・批判するとの役割をはき違えている。社として総括しなければ、社会的影響力はじり貧となって行くだろう。

 

 韓国の前大統領の竹島上陸、天皇への謝罪要求に端を発して、近くて遠い関係に逆戻りしてしまった。支持率アップと退任後の逮捕を恐れての行動だとみられている。現朴大統領も自らの政権基盤の脆弱さから反日を通り越した嫌日を全面に押し出す。トップの私心が国際軋轢をもたらし、自国民を不幸にする。日本の首相も前首相時代に靖国に参拝できなかったことが痛恨の極みとして参拝し物議をかもした。「日本よ、お前もか」とトップの私心を「失望した」とアメリカは言ったのだと私はそう思う。

プリンスの子はプリンス。マスクにならんとする、そう見えるのは、国民にとってどうなのか?

 今世論が過度に右傾化し、時の政権を後押しするのではなく、冷静に時世を注視していくことが肝要であろう。

2014.2 NO.32 んゆう と んゆう

 テレビドラマ『半沢直樹』がすごい好評を博した。これまで金融業界を舞台にしたドラマはあったが、これほど注目されたものはない。なにしろあの『家政婦のミタ』の瞬間最高視聴率42.8 を超え、最終回の関西地区の瞬間最高視聴率は50.4%と年末恒例の紅白歌合戦と見間違える驚愕の数値だ。

 普段くだらない番組しか見ない我娘も、真面目な顔をして初回から見ていた。企業戦士が奮闘する男性向けの番組だが、女性の共感も得ることができたのが大ヒットとなった要因だろう。

 私の周りでも原作を読んでドラマも観ている人が結構いたので驚いた。私は直木賞の受賞作となった『下町ロケット』を読んでいた。原作者が三菱銀行のOBと知っており、さすが都銀マンは違うと畏敬の念を抱いていたが、さすがに銀行員ものは読む気がしない。

 私は銀行時代大蔵省から天下りしてきたキャリア官僚Y(故人の方ではない)にタメ口や小馬鹿にした物言いをしたことに対して、どんな事情があったにせよ礼節を欠いてはと今となって反省しているので、半沢の言動は他の視聴者と違って心地よく感じない。主人公よりもミッチーこと及川光博さんが扮する親友・渡真利忍に興味を覚えた。同期は一番身近なライバルであり、しかもどう見ても渡真利の方がエリートコースを歩んでおり、あれほど半沢を助け、同期の中から頭取がでるかもしれないと嬉しそうに半沢のことを言う様は不思議に感じる。

 もっと違和感があるのは、大和田常務が半沢のお父さんの自殺をよく覚えていないという設定だ。殺しを生業にしている者ならともかく、融資を拒絶したばかりに自殺に追いやったとなれば覚えていない銀行員はいない。銀行員でなくてもそうだろう。一生重い十字架を背負っていくのだから。銀行OBの作者がなぜと訝ったが、原作にはないと聞いて安心した。

 このほかにも何点か気になったことがあった。

 まずは、『銀行は日傘は貸すが、雨傘は貸さない』とのフレーズ。これは倒産した中小企業の恨み節だ。たしかに日傘は貸したがる。貸し倒れのリスクの低い先に借りてもらえればそれに越したことはない。一方雨傘は貸さないのかと問われれば、時と場合によると答える。貸したいのは山々なのだ。金利がもっと高くとれる。取引先のピンチを救ったときはえも言われぬ醍醐味となる。在任中は倒産企業を出したくないのでリスクはあるが融資を続けるという支店長もいるかもしれない。

親しくしていた融資先の経営が急変し、社長から土下座をして懇願されたら、融資に応じてやりたいと思うのが人情の常だろう。しかし、回復の見込めない公算が極めて大きいということが分かっていながら融資に応じることは、情実融資であり、背任行為なのだ。これを事前に避けるべく、問題先は支店長決済ではなく本部決済に替わるようになっている。本部が否となれば助けたくとも助けられないのだ。銀行が貸せない先をどんどん貸して行けばどうなるかは、石原前都知事肝いりの新銀行東京の顛末を見れば明白だろう。

『部下の手柄は上司のもの!上司の失敗は部下の責任!』と言う上司も、人材が多く競争の激しい都銀では減点主義なので、たしかに実在するのかもしれない。

私が居た銀行では、人材が少ないので、良い所を見つけては引っ張りあげる得点主義を採っていた。最初は学歴がものを言う。まだ仕事していないので、それぐらいしか判断材料がないのだから。10年も経てば学歴に関係なく幹部候補として大事に育てるか否か分別されていく。それに乗ればある程度の将来は見込めていたので、どちらかというと、『部下の手柄は部下のもの!部下の失敗は上司の責任!』を信条として、部下に慕われる、部下から尊敬されることを心がけようとした人が多かったように思う。

主人公の『やられたら、やりかえす。倍返しだ!』というセリフも引っかかる。他行のOBと居酒屋で飲んでいた折に話題になった。「倍返し」は、本来不動産取引や結納の折安易な契約不履行を牽制するためにあり、不履行の場合貰った手付金や結納金の倍をお返しするというお詫びのしるしのハズである。倍返しの復讐は、復讐がエスカレートすることを戒めたハンムラビ法典の趣旨にも反する。まさか流行語大賞に選ばれると思っていなかったが、これにより、反対の意味に捉えられやすい、「役不足」「気が置けない」「流れに掉さす」らと同じ仲間入りをすることになるだろう。

ともあれ、あれだけ視聴率が高かったのだから、続編が近々放映されるのであろう。堅いだけが取り柄の唐変木との印象を持たれがちな銀行員にも、熱い血が通った奴も居るものだと思ってくれるのであれば、観る価値があるということになろうか。

2014.1 NO.31  いなん と いなん

  昭和5653日に神戸で華燭の典を挙げその日は宝塚ホテルに宿泊した。翌54日の朝ホテルで新聞を見ると、でかでかと当銀行員の不祥事がスクープされていた。前日臨席いただいた銀行からの主賓たちは急遽本部に集まり善後策を協議することになった。せっかくのGWが連日つぶれてしまい、私一人が浮かれて申し訳ないと思いながら、伊丹空港から宮崎空港に飛び、宮崎フェニックスホテルに宿泊した。翌日観光タクシーで鹿児島に向かい宮崎神宮、霧島高原、西郷隆盛南州洞窟を経由して城山観光ホテルに逗留した。

 翌日は鹿児島空港から南西方向に400マイル(643)先にある沖縄に向かった。

宮崎、鹿児島の宿泊ホテルはよく覚えているのに、2日間も泊った沖縄のホテルが思い出せない。着いた日妻は水着を買い翌日泳ぐのを楽しみにしていたが、事態が急変し不機嫌となった妻に散々なじられたのを思い出したくないのかもしれない。

 覚えているのは、観光タクシーで沖縄を縦断しているとき、沖縄返還から9年の歳月が流れていたが、①米軍基地が沖縄の一等地を占有している、②本土より10年開発が遅れているとの印象をもったということだ。

 その後も仕事で2度ばかり沖縄を訪れたが、あまり印象は変わらなかった。

 

それだけに沖縄の人々の気持ちも分からなくはないが、地元メディア等反日的な言動をする人たちには共感を覚えない。県外!県外!と言うが、自身が嫌なことを他県に押し付けるというのはいかがなものか?
 米軍基地の負担も真実なら、沖縄も日本国として米軍に守られているのも事実だ。

第二次大戦での犠牲も沖縄だけではない。戦艦大和も撃沈されるのを覚悟の上で沖縄に向かった。赤紙で召集された庶民は各戦地で砲煙弾雨の盾となった。『少年H』に描かれた神戸の大空襲もあり東京大空襲もあった。広島や長崎は原爆を落とされた。核兵器の廃絶は今も訴えて続けているが、米国への直接的な恨み、つらみは今や言わないだろう。

 いつまでも反省を強要し見返りを求める隣国を反面教師としたい。

 国も、米国にものが言えないからといって、いつまでも一部の芸能人のように負い目から子供に不相応な小遣いだけを与え続けるようなマネは止め、国益と県益、健全な形で向き合ってほしいものだ。 

 米ソ冷戦時代での沖縄の米軍基地の意味合いは歴史的評価を待つとして、現在の米中二大強国時代にあっては、沖縄は双方の好点、囲碁で言うところの要石だ(沖縄の人々を石呼ばわりしているわけではない)

 中国が橋頭堡と狙う尖閣諸島において仮に軍事的小競り合いが起きたとしても、多分今の段階なら日本が征することができるのだろう。しかし、それは中国の核兵器に対するカウンターパワーがあることが前提だ。好むと好まざるとにかかわらず今はアメリカの核の傘に入っておくしかない。嫌なら、それに替わる強力なカウンターパワーを独自開発するしかない。軍事的衝突は絶対に回避し外交努力による解決を目指すとしても、前提は同じだ。



中国は防空識別圏を設定しゆさぶりをかけてきているが、日米同盟における米国の強い意志を知って、また、北朝鮮から眼が離せなくなったことから、暫くの間中国は尖閣、沖縄への直接的な侵略行為は控えざるをえないだろう。今後は沖縄の土地を買い占めるとか沖縄の春?を扇動する方向に向かうのかもしれない。

そんな折、能天気に「琉球民族独立総合研究学会」という沖縄独立学会が昨年5月に旗揚げされた。内部からの離脱の動きは中国とって渡りに船だ。

佐藤優氏らは今や新帝国主義時代に入ったと言っており、そんな中、平和的に独立し理想郷を創るなどあり得ない。すぐに中国に包含されてしまうだろう。

 沖縄が独立する動きがあれば、強く阻止されることになるだろう。1959年“地上の楽園”北朝鮮への帰還事業で北へ帰る同胞を体を張って止めようとした人達と同じ思いだ。最悪は、130数年前の日本最後の内戦“西南の役” の二の舞。新西南の役の勃発だ。その時は沖縄の西郷隆盛として誰が担がれるのか?


さらに、中国が沖縄に加担し、米国が日本政府につけば、まさに、私が生まれた1950年に起こった朝鮮戦争と同じ様相を呈する。

 歴史は繰り返し、沖縄が再度決戦の舞台となり、災難が沖縄の人々に降りかかる。

 自ら禍を招き入れるのか。第二次世界大戦から生き延びた方々を含めサイレント・マジョリティはどう考えているのだろうか。



2013.12 NO. 30 イバ と イバ

 ケイバとは言わずと知れた競馬。年末には1年を締めくくる有馬記念が行われる。今年は凱旋門賞で2年連続で2着となったオルフェーヴルがラストランを飾れるか楽しみだ。カイバは競争馬がたべる餌としての飼葉ではなく、人間の脳の海馬をここでは取り上げる。

 競馬というギャンブルはバイト先で覚えた。高校ではクラブにも属さず受験勉強に明け暮れた生活を続けていたので、大学に合格した後昭和44年春頃から世間を広く知るという目的で多くの職種のバイトをしようと考えた。家庭教師が一番多かったが、せっかちですぐにイラつくので、良い家庭教師とは言えなかった。喫茶店のウエイターでは安定の悪い山盛りになった氷のフラッペを登山帰りの女性客の太ももに溢したりした。ストップオッチで数える市場調査やポリシャーを使った床清掃も経験した(数多くバイトした中で職業に貴賤はないとはいえ私には無理と一日で音を上げたバイトが2つあった)

 神戸港の日雇労働を午後5時まで行い、その後神戸新聞社旧社屋の8F?にあった系列のスポーツ紙で阪神タイガース命のデイリースポーツでパシリのバイトもしていた。パソコンを駆使する今と違い原稿作成班が起こした原稿を植字するところに走って持っていき、帰りに別の校正原稿を持って帰る作業を反復していた。それで自然と競馬に興味を覚えた。

昭和48年に銀行に就職が内定すると、当時仁川競馬場の近くに研修所があり、入行前研修を受けた。研修の冒頭トップの挨拶でいきなり「君たち、金持ちになることは諦めて欲しい!(顧客の繁栄を第一義とする「利他」の精神を訓示したものだが、後年「利他」とは他人を利用することかと訝ったこともあった」)と言われて面食らったが、研修担当からは「お金を扱う仕事だからギャンブルはしないように」と言われた。お金が消えた時や収支が合わない時原因が判明しなければ普段の言動により疑いの眼を向けられるとのことだった。入行当時は素直で良い子だった私は、言いつけを守り賭けることは余りしなかった。もっぱらミーハー的にTVで好きな馬や騎手応援するのを楽しみにしていた(40年間で好きだった馬BEST3は、古い順に、のど鳴りで三冠を逃したタニノムーティエ、競馬ファンが涙に暮れたテンポイント、日本競馬界の至宝ディープインパクト)

 銀行に入行当時関西競馬界では高橋成忠騎手がリーディングジョッキーでタマミ、リキエイカンなどの馬でG1も多く勝っていた。「東の郷原(洋行)、西の高橋」と剛腕で鳴らし好きだった。その陰にかくれて騎手としてぱっとせず、逃げと牝馬で評価されるに過ぎなかった池江泰郎騎手がいた。

 この三人とも騎手から調教師に転身したが、一昨年揃って調教師を卒業した。野球やサッカーでは「名選手必ずしも名将にあらず」と言われるが、競馬界においても同じだ。池江調教師はメジロマックイーンや競馬ファンでもなくても名前を知っているディープインパクトなど数々の名馬を育て名伯楽と呼ばれ(今年馬主にもなった)、騎手時代とは大きく立場が逆転した。

 競馬は記憶のゲーム(あるいはスポーツ)と言われることがある。本気で儲けようと思えば覚えなければならないことがいくらでもある。コースの特徴、騎手の特徴、血統データー、馬の能力・過去の実績、レースでの馬の位置づけ(昇級戦、自己条件戦)、過去のレース展開、パドックでの馬の状態等挙げたら切りがない。金持ちならいざしらず、小金では頭、とくに記憶力を駆使しなければ勝てるものではない。

 

その記憶力と言えは、将棋棋士がすごい。脳の海馬部分が発達しているのだろう。海馬は記憶や空間学習能力をつかさどる器官で、アルツハイマー病において最初に病変が現れるとされている。とくに、羽生善治三冠は、天才と言われる将棋棋士(現役は162名ほどしかいない)の中で天才中の天才と呼ばれる。羽生二冠は早指しのNHK杯で24連勝、4連覇し、10回の優勝で得られる名誉NHK杯選手権者の称号を手にした。

かつてNHKの番組で羽生三冠の脳を解析していたが、実験中他の棋士とは違って羽生三冠だけが海馬近くの嗅周皮質が反応していると紹介されていた。記憶を迅速に働せる能力が際立って高いということだ。

 それは天賦の才能に加えて不断の努力がもたらしたものと思う。神武以来の天才と言われた棋士加藤一二三元名人も上梓した『羽生善治論-「天才]とは何か』の中で羽生三冠は秀才型の天才と評している。

我々凡人は「才能」+「努力」だが、天才は「才能」☓「努力」で、努力次第で天才の中では乗数的に差が付く。天才も磨かなければダイヤモンドにはならない。

将棋の世界以外でも同じで野球の長嶋選手、イチロー選手、体操の内村選手など天才中の天才は努力なしに生まれない。努力している姿を見せないだけだ。

天才の世界は厳しい。勝つことを宿命づけられた、馬の芸術作品と呼ばれるサラブレッドは2歳でデビューし3歳の秋までに1勝しないと原則引退(過酷な運命が待っている)。それと同じように厳しいのが将棋の世界。将棋棋士も三段になって26歳までに四段に上がらないと引退させられる。佐藤慎一現四段は、ラストチャンスの年に昇段できなければ馬に関する仕事をすると決めていたと故米長前会長が書いていた。同じ厳しい勝負の世界に身を置く競争馬に共感を覚えていたのであろうか。

2013.11 NO.29 ルス と スルス

 この春北朝鮮の金正恩第一書記の居所の上を監視網潜って飛び回ったと噂されるのは米国のステルス戦闘機。スキルスと言えばスキルス胃癌。ともに潜航し見つけ難い。急に眼の前に現れる戦闘機も怖いが、気が付いた時既に手遅れの癌もまた恐ろしい。

 1988年元来白ポチャが好きでファンだった堀江しのぶさんが23才の若さでなくなった。本人にも伏せられていたほどで当時スキルス胃癌とは知らなかった。スキルス胃癌が世に知れるのはなんといっても人気アナウンサーの逸見政孝さんのケースだ。弟さんが先にスキルス癌で亡くなっており、逸見さん本人もその怖さを知っておられたと思うのだが、1993年末同じスキルス癌で惜しまれながらこの世を去った。

この当時、NHKのニュースを見ていると、なんと高校時代の同級生で当時から秀才の誉高かった笹子三津留君が出ているのに驚いた。東大入試中止の翌年東大医学部に入り直したとは便りに聞いていたが、ブラウン管を通して20数年振りに尊顔を拝した。確か「逸見さんは本当のことを教えられておらず、頓珍漢なことを言っておられる」と話していたと思う。

癌の存在が認知され始めた当時不治の病だとされ医師は患者には本当のことを言わなかった。その後医療が発達し治療法も確立されて来たのに、依然として先輩たちが本当のことを言わないことに若手医師たちは疑問を感じていた。そんな心ある若手の先頭に立ち国立がんセンターの臨床医をしていた笹子先生は『家族がガンになったとき』(199211月発刊)を上梓し、告知およびインフォームド・コンセント(正しい説明と同意)の重要性を説いていた。

 私の義母も昨年末スキルス胃癌で亡くなった。主治医からではなくひょんなことから告知を受けてしまうのだが、昔近所に住んでいたあの人やこの人に会いたいと言い出かけて行った。最後は子供や孫たちに感謝の言葉だけが続いた。奇しくも一日遅れで亡くなった私の母は癌ではなく自分の寿命が分からなかった。内心では感謝していたと思うのだが、1年半もの看病していた兄や姪に感謝の意を伝えることなく逝ってしまった。

 命に限りが迫っていると本人が知れば後顧の憂いなく始末したいだろう。中小企業のオーナーならなおさらだ。

 患者等が正しい情報を得ることになった功労者には近藤誠医師もいる。

 近藤先生の著作を読んだ私も、白血病などを除いて抗がん剤は効果が疑問だということと癌には転移する本物の癌と癌もどきがあることを知った。前立腺がんと分かる前から、手術はせず放射線治療と心に決め、そのとおり実践した(78歳にもなる俳優北村総一朗さんが舞台を降板してまでも前立腺がん手術を急いだ理由を聞けるものなら聞いてみたい)。

 近藤先生の功績はなんといっても医療界の愚民政策に風穴を開けたことにあるが、異端児どころか当初は魔女扱いであった。それゆえ慶応大医学部の万年講師に甘んじることになったが、それでも辞めず居続けたのは、慶応大の懐が深いというよりは先生がそれほど怖く、強かったのだろう。

 精力的な情報発信を続けた近藤先生は、『ホンマでっか!?TV』でお馴染みの生物学者池田清彦先生も20年来の信奉者となるほどで、昨年菊池寛賞を受賞し完全に市民権を得た。

 医師の言うことを盲信する患者たちの眼を覚まさせるために、『患者よ、がんと闘うな』や『抗がん剤は効かない』と先生の著書には衝撃的なタイトルが躍るし、口調も強い。目から鱗の話も多いが、それでも私は自己責任で取捨選択する。先生は前立腺がんのホルモン療法より睾丸を取れと言うが、私は宦官になるつもりはない。

 近藤先生の著作がベストセラーになっている今日、逆に今度は近藤先生に盲従する大衆が出てくる。それなら肉を食べるな、牛乳を飲むなと言う教祖と変わりがなくなる。それは先生の本意ではないだろう。メジャーになった今先生の情報発信のやり方が変わってくるのかもしれない。



笹子先生や近藤先生の尽力により告知やインフォームド・コンセントが義務のようになると、逆になんでもかんでも医師が本人に告知してしまうことが起きてくる。家族が反対するのを押し切って本人に告知しそれがもとで早く逝ってしまったケースは裁判沙汰になっている。患者や家族の立場に立って何がベストかを考えようともせず、保身的な言動に終始するのなら、医は仁術とは言えない。ロボットの方が余計なことを言わなくてよい。

個人情報保護法で私も眼に見えぬストレスを感じたことがある。数年前某大学教授がすい臓がんで亡くなり、その教授が会長をしていた団体から訃報が回ってきた。が、肝心の喪主欄が空欄となっており、FAXしてきた団体に聞き返すのも嫌味と思い、八王子方面の斎場に弔電を打ちたく喪主名を教えて欲しいと電話した。するとそれは個人情報だから喪主側に聞けと言われ、やり切れぬ思いで電話を切った(若い頃なら罵倒していたが、私も大人になったものだ)

 法律になってしまうと、逆にその法律を作った趣旨や想いが忘れ去られてしまい、保身だけに走ってしまうのを見るのは、実に面白く、ない。






2013.10 NO.28 ゴビンダ と ゴビン

 東電OL殺人事件のゴビンダさんの再審が昨年8月に確定した。早々と日本を離れたゴビンダさんはまっぴらゴメンダと二度と日本の土を踏むことはないだろう。

 19973月事件が発生した当時のその前後私は渋谷の昼間人口に数えられていたので、事件ゆかりのネパール料理屋にも何度か行ったことがあった。

殺されたWなる女性が大企業東電のOLという昼の顔だけではなく、江戸の夜鷹のような夜の顔を持っていた。まさに小説より奇なりとして当時私も関心が高かったが次第に記憶の片隅に消えて行った(当初からゴビンダさんの無実を信じ支援してきたボランティアの女性達には頭が下がる)

 ゴビンダさんは日本の司法に5度ビンタされた。1度目は、19973月入管難民法違反で逮捕。2度目は、20005月無罪勾留は人権侵害だとする弁護団の異議棄却。3度目は、200012月のT裁判長による逆転有罪判決(無期懲役)4度目は、2003年上告棄却(刑務所での服役生活開始)5度目は、2005年の弁護団の再審請求から再審決定まで7年の歳月が経過(もっとも司法界の常識からすると異例ともいうべき短さだという)

1度目のビンタはゴビンダさんが悪い。不法滞在していなければ、Wと面識がないとのウソをつく必要もなかった(このため捜査関係者はクロとの心証を強く抱くことになった)

 銀行でも取引先が粉飾していると分かると手のひらを返した対応をすることがある。警察・検察の方は銀行なんかと一緒にするなと怒るかもしれないが、私などはすごく親近感持っている。若い頃「警察官は人を見たら泥棒と思え。銀行員は決算書を見たら粉飾と思え」と教えられた。一昔旅館業界では三コウ(銀行、ポリ公、先公)と呼び、固い職種だけに却って宴会で乱れる要注意職種の代表としてブラックリストに載っていたという。

 銀行は大衆の大事な金を預かる。警察・検察は、財産だけではなく命も守る。ともに公共性の高い仕事であるが、ともに数字を持たされている。銀行も預金量、貸出量を上げんがために勇み足をしたり、越えてはならぬ一線を踏み外す場合がある。それを防止したりチェックするために、銀行内部の検査があり、さらに数年に一度日銀考査や大蔵検査(現金融庁検査。TBSドラマ『半沢直樹』の舞台にもなった)を受けることになる。

警察・検察も検挙率等数字をもたされている。とくに、マスコミや作家達の好奇心をいたく刺激する事件では絶対に犯人を起訴し、有罪にしなければならない。証拠が十分でないとしても一旦起訴したからには、DNAがなんであれ秘密の暴露をして真犯人が自首でもしない限り「今もって彼が犯人だと信じて疑わない」と言うほかはない。

 裁判官の役割は、刑事裁判の場合検察官が有罪の証明を成し得たかどうかを判断することであり、その立場からして警察・検察の行き過ぎ・暴走をチェックする機能も本来有してしているのではと私は思う。しかるに、起訴するか否かの裁量権が検察にあり、起訴できると確信をもったものだけを起訴すればほとんど100%近くが有罪となる日本の裁判においては、あたかも東電と経産省の関係のごとく検察官と裁判官の関係が逆転しているかのような感がある。『犬になれなかった裁判官』(安倍晴彦著)によれば、社会の秩序維持の観点から警察・検察・裁判所は三位一体の関係と言う。若い判事補などは警察・検察の意向に沿わなければ時には罵声を浴びせられる場合もあるとのことだ。

 一審で無罪判決を言い渡した大渕敏和裁判長はその後左遷させられたとみられている。まるで、「よくも警察・検察に大恥をかかせたな」と上層部の逆鱗に触れたかのようだ。当時作家の佐野眞一氏は渾身の取材を経て『東電OL殺人事件』を書き、司法の判断に真正面から挑んでいた(週刊朝日の橋下市長特集記事を書いた同じ人物とは信じられない)

 償うかのような逆転有罪判決等あとの4度に亘るビンタは酷い。不法滞在の外国人であったとしても、その人の命、人生が虫けらのように扱われて良いハズはない。

 それでも、弁護団等の粘り強い支援により再審の道は拓かれた。2011年の3.11以降エスタブリシュメントの一角から東電がすべり落ちたその同じ時期の20117月に第三者の犯行を示唆するDNA鑑定結果が判明したことは、まるで、同じ東電社員であったWの父親の遺志を継いで原発の危険性を指摘したレポートを作成し社内で孤立し、最後は変死していったWの怨念がそうさせたかのようで、因縁めいていると思う。

 かくして、再審を決定した小川正持裁判長は正義の味方となり、一審無罪を破棄し逆転有罪判決を下したT高裁判長は昨年の週刊誌での特集『冤罪 ゴビンダさんからの手紙』の中でこう酷評された。「狭山事件の第二次再審請求を棄却し、足利事件の被告側控訴も棄却している。これほど多くの冤罪事件にかかわっている以上、裁判官としての資質を疑わざるをえない」と。ここまで言い切られるかとネットで調べようとしたところ既に鬼籍に入っていた。読売新聞社会部が上梓した『東電OL事件~DNAが暴いた闇』等からすると、T裁判長は、検察の言い分を丸呑みするとの評価と当時の刑事裁判を代表する裁判官の一人との評価に分かれている。犬になれなかったとする安倍元裁判官ならどう評定するのであろうか。

2013.9 NO.27  ウクライナ と ウクライナ

 旧ソ連時代にはソ連連邦の一地方にすぎなかったウクライナ共和国は日本人には馴染みが薄い。それでも、少し頭をめぐらすと意外に日本と縁があると分かり、興味が湧いてくる。

 「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた大横綱(大鵬親方)が今正月に亡くなられたが、お父さんはウクライナ人ということだ。

 昨年のオリンピックで体操団体の決勝で内村選手が最後のあん馬で着地に失敗し、メダルを逃したと思われたが、採点に抗議して4位から銀メダルを日本が獲得した。あおりをくらって、ウクライナが銅メダルを逃してしまったのは記憶にあたらしい。

 原発大事故で周知のチェルノブイリ原子力発電所もウクライナにある。フクシマも事故処理に参考になることが大いにあるだろう。

 旅行雑誌「Trabelers Digest(トラベラーズ・ダイジェスト」が選んだ 「世界10大美女都市」で、ウクライナのキエフが1位に選ばれている。そう言えば、ウクライナのティモシェンコ前首相は美人過ぎると評判を呼んでいた。

 

ジャニーズ事務所の喜多川社長が『you 暗いな!?』って言うことがあるかどうか知らないが、今日暗い日本人が多い。

世界自殺予防デー(910)があるぐらいなので、世界共通の問題であるが、旧共産圏で自殺率が高い中で、ウクライナ(8)よりも日本(5位)は高い。

2012年は15年ぶりに自殺者数が年間3万人(27千人)を下回ったが、20代の自殺者が増えているという。東京では相変わらずブルーマンデーには毎週どこかの線路で人身事故が起きている。

無残に変わり果てた自身の親不孝、残された遺族の慟哭と自責の念、後始末する駅員の困惑、通勤客が被るはた迷惑。自殺を自死と言い換えて済む話ではない(大体「死」の文字は忌み嫌われて「亡くなる」とか「逝く」を使うのに)

かの絶望的なナチス強制収容所での実体験を『夜と霧』で綴ったヴィクトール・フランクルは「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない」と語る。

それでも、本を読んでもカウンセリングを受けても言葉が心に沁みていかないのなら、その人を救うことは容易くない。



そんなことなら、誤解を恐れずに言えば、癌になった方がよいと思う。確かに、白血病やすい臓がんなどは怖い。前立腺がんへの不安や愚痴を聞いてもらっていた町医者の女院長が6か月ぐらいかであっという間にすい臓がんで亡くなった。その時は大きなショックを受けた。

 男なら前立腺がん。女なら乳がん。一般論として、癌になっても、再燃しても、だらだらと生きられる確率が高いとのことだ。

 癌になれば考え方や生き方が変わる人もいる。私の場合はこうだ。

1に、「生」に対する執着心が湧いた。生検で癌細胞が一つ見つかり、れっきとした癌患者になり、ここ5年ほどの前立腺がんではないかとの不安は解消された。しかし、転移しているかもしれないとの不安がもたげてきた時、初めて「死」を強く意識し自問した。まだ生きたいかと。これまで、学者や研究者ほどの高みを求められてはいなかったとはいえ、能力の問題もありややストイックな人生を歩んできた。他人様より人生を謳歌していない。一度きりの人生もっと楽しみたいと思うと、生に対する執着心がふつふつと湧いてきた。

 第2に、姿勢を正す気になった。家族や周りの人たちに良い思い出を残したい。今まで子供達にフザケタ態度でしか接しておらず、常日頃妻から「すこしは子供たちに尊敬されることをしたらどうなの!?」とよく叱られていた。子供達にどう思われようと、そんなの関係ない!そんなの関係ない!と高を括っていた。だが、死と向き合ったとき、このままバカボンのパパで終わってしまっていいものかと思案した。「これでいいのだ!!」とはとても言えない。真摯な態度も見せ、家事の手伝いも男の運気が下がると嘯きしなかった洗濯物の取り込みもするようになった。本ブログエッセイを子供達への遺言として残すのもこの思いからだ。

 最後に、かえって明るくなった。生きていること自体が喜びとなり、金銭欲や物欲はより薄くなった。高橋ジョージさんが歌う『ロード』ではないが「なんでもないようなことが幸せだ」と思える。昨年の結婚記念日には仕事・家事・介護に忙しい妻と久しぶりに二人で映画を観てその後食事をしたが、ほんわかとした幸福感に浸たれた。煩悩に振り回されていた若い頃にはない感覚だった。

 癌になって初めて見えてくるものがある。癌もそんなに捨てたものではない。



2013.8 NO.26 ムス と ムス

 

 そろそろ今年も同窓会の案内が来る頃だ。今年も出席してみようと思う。

昨秋神戸高校東京支部の同窓会に10年ぶりに行った。神戸一中・県一高女・神戸高校の卒業生が対象となるので、神戸一中の卒業生は80歳をゆうに超え、最年少は東大の現役女学生(神高62回生)で、まさに御爺さんと曾孫が同席しているみたいなものだ。

 神戸一中は戦前西日本一円から受験してくる名門進学校で私のようなボンクラではとても縁があろうハズがないのだが、同じ『質実剛健、自重自治』という校風に培われて現在の自分があると思っているので、不肖の後輩ながら末席を汚させていただいている。

昨年久しぶりに参加しようと思ったのは、微生物学・免疫学分野で新しい研究を行ったものに与えられる、世界的に権威があるロベルト・コッホ賞を2006年に受賞した東京大学科学研究所教授河岡義裕氏(神高26回生)が講師に招かれたからだ。世界で初めてインフルエンザの人工合成を成功させた。アメリカのCIAなどから生物兵器につながらないか徹底マークされており、昨年河岡先生の論文が一時公開禁止となったことが話題となった。

ちなみに、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥先生も2008年にコッホ賞を受賞(利根川進先生は1986年にコッホ賞を受賞した翌年ノーベル賞を受賞)しており、コッホ賞がノーベル生理学・医学賞の登竜門の一つとするならば、作家の村上春樹氏と並んで神高の卒業生からノーベル賞受賞者が誕生するかもしれない。そんな偉い先生が高校の5年後輩にいるのかと知り、ぜひにと同窓会に出席した。

 

10年前は本ブログエッセイの初回(20117)で紹介した、当時国立がんセンターの胃癌手術の名医で同級生の笹子三津留君が講演すると聞いて出席した(兵庫医大病院に移った現在も、50回日本癌治療学会学術集会の会長を昨年務めるなど大いに活躍している)

 その頃は、私ら神高21回生だけの東京支部同窓会も行われていた。当時5253歳で男子は、子会社への転出やリストラに遭う中で大学生の子供をまだ抱えるという経済的にも精神的にもしんどい時期であった。女子はというと、男子よりも34歳早く結婚することもあり、更年期も過ぎ、子供も巣立っているので、同窓会に参加した女子は精神的にゆとりがあり、第2、第3の人生を謳歌している風情でうらやましいと感じた。

 ところが、数年経ってみると、子供の世話から解放されたのは束の間で、今度は亭主のお母さんや自身のお母さんの介護が始まった(終わっても一番難儀な亭主の介護が待ち受けている)。同窓会で求心力がある世話役の女子も自身の親の介護のため神戸に帰ってしまい、最近は21回生の同窓会が開かれなくなってしまった。やっぱり娘に生まれた人生は大変なんだと思い直したものだ。


 私には二人の息子と末娘がいる。

 子供達が幼い頃、息子たちにとって子煩悩でない父親は大好きな母親にまとわりつくハエのような存在だったに違いない。

 娘は23歳の頃「お父ちゃん、カッコイイ!」と言っていた。幼稚園に通う頃になるとピタッと言わなくなった。今では妻と一緒になってこの世で一番ブサイクと毒づく。

 娘とは妻をめぐってずっとライバル関係にあった。産院から戻ってきて以来妻と娘は一緒に寝ていたが、私が割って入ろうものなら「アッチに行って!」といつも娘に足蹴にされた。

それでも、他の親子と同じように、娘の父親への思いは特別のようだ。

 「子はかすがい」と言うが、娘はまさにそうだと思う。30年以上も夫婦として連れ添っていれば一度やそこら夫婦の間に波風は立つものだ。が、私が波風と思っていたことは妻は気に留めず忘れていた。「もう附いて行けない」と私の知らないところで妻は子供たちに聞きていたらしい。当時小6か中1の娘に強硬に反対されたから思い留まったと妻は強弁する。娘が「あんなお父さんでも・・・」と言ったという。“あんな”とはどんな酷いお父さんかと思うが、周りで親が離別して辛い思いしている同級生が多かったらしい。

妻は事ある毎勝ち誇ったように「娘に感謝しろ! 感謝しろ!」を繰り返す。反対するのを分かっていながら聞いたくせにと思うが、してやられたとの感は拭えない。

 今でも夫婦で冗談にてそんな話をすることがあるが、27歳にもなる娘だけはいつも本気で怒って取り合わない。


 逝けば後顧の憂いなく後事を息子達に託すことができるが、生き長らえる間は介護福祉士の娘が居ることが心強い。もっとも、娘には「お利口さんにしていないと看てやらんからね」と言われているが。



2013.7 NO.25  イガ と イガ  


絵画と映画。優れた作品はともに名画と呼ぶ。アナログとデジタルみたいに関係なさそうだが、映画には撮影の前の設計図のごとく絵コンテを使う。巨匠故黒澤明監督の絵コンテは有名だが、生涯2,000点以上も描いたとされている。

私が映画館で観たという最初の記憶は、神戸新開地で両親に連れられて観た『喜びも悲しみも幾歳月(主演佐田啓二さん)で、封切が1957年なので7歳か8歳の頃である。

 当時の新開地は全盛期には及ばないもののまだ賑やかだった。そのシンボルが「ええとこ、ええとこ聚楽館」と謳われた松竹系の大きな映画館で、たしか最上階はスケートリンクだったと思う。映画を見たあと、「春陽軒」で豚マンを食べるか、「赤のれん」でオムライスかビフカツを食べさせてもらうのが子供としての贅沢だった。

大正時代には「東の浅草、西の新開地」と称された面影を浅草は今も十分留めているが、新開地はその名に反し見る影もなく寂れてしまったのは、諸行無常の感がある。

中学生になると、ゴジラが好きだったので、新開地の東宝で、加山雄三さんの若大将シリーズとの二本立てなどを一人で観に行った。 

 高校生になると東宝の向かいにあった映画館でリバイバル物3本立てをよく観ていた。『十戒』や『ベンハー』など長編物や『隠し砦の三悪人』、『椿三十郎』などの黒澤監督作品もよく観たものだ。 

大学生の頃は日活ロマンポルノとか今としては他愛もないR指定映画も多く観ていたが、人はパンとパンツのみに生きるにあらず。名女優キャサリン・ヘプバーンの『冬のライオン』やリバイバル上映の『シェーン』やイングリット・バーグマンが眩しい『誰がために鐘が鳴る』など名画も観ていた。

 社会人になると、元来怠け者の私でも一心不乱に仕事をしていたこともあり、長男を連れてドラえもんとか幼児向けの漫画を見に行くぐらいであまり映画館に足を運ぶことはなかった。

 子育てが終わって55歳ぐらいになると、夫婦だけでの外出が出来て、夫婦割引を利用して二人で映画を観ることが多くなった。

その頃の56年間で妻と見た映画を中心に心に残る映画を挙げれば、まず『今度は愛妻家』。男は妻を亡くして妻への愛を知る。幽霊となった妻は生前に口に出して欲しかったと言う。面白ろうてやがて切なきこの映画かな、盗作かつ季語なし字余り。強面の石橋蓮司さんのオカマ役も想定外で笑えた。『シンデレラマン』は元世界ヘビー級チャンピオンの実話だ。どん底から家族のために這い上がるサクセスストーリー。当時の私の心境にフィットしていた。妻役のレニー・ゼルウィガーの英語も魅惑的だった(洋画は字幕に限る)。『男たちの大和』も涙に暮れ、妻がそっとハンカチを寄せてくれた。『ドリームガールズ』はアカデミー賞助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンがビヨンセより目立ち、エディー・マーフィーの歌が上手いのに驚いた。2008年度アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』も泣けた。翌年の同外国語映画賞を受賞したのが『瞳の奥の秘密』。アルゼンチンの軍政下での検察の不正、キャリア女検事と主人公のノンキャリ事務官とのロマンスがテーマであるが、死の捉え方に興味を覚えた。

 妻を惨殺された銀行員が、検察が不当に釈放した犯人を自分で捕まえて25年も納屋の牢に押し込めた。普通は殺すのに。理由は、死んだらそれで終わり。生き地獄を終生味わせるためだ。ストーリー上そうなるのか、それともアルゼンチンは死刑廃止国なのでそうなるのか。はたまた、クリスチャンの世界では死ねば神に救済されてしまうと映画監督は問題提起をしているのだろうか?


死刑廃止が世界の趨勢だが、死刑実施国からアメリカが完全に抜けてしまうと、日本が中国や北朝鮮と同列に並べられてしまい、ちと分が悪いが、私は死刑存続に賛成だ。昔のハンムラビ法典に「眼には眼を。歯には歯を」と書いてあるのは、復讐を煽っているではなく、復讐がエスカレートしないように歯止めをかけているのだ。

人が殺されたら、殺した人に死ね、そして地獄に落ちろ!と言ってはいけない。人の命を奪ったら、地獄に行かなくとも自分の命も無くなるというのは法典の趣旨に適うだろう。

 邦画の『幸福の黄色いハンカチ』では、高倉健さんが扮する主人公が妻の流産を機に夫婦喧嘩となりそのむしゃくしゃから路地ですれ違った男をはずみで殺してしまう。

たしかに、高倉健さんへの贔屓目でなくとも仮に死刑を適用するとすればそれは極刑すぎるのかもしれない。

 しかし、最近死んでしまいたいが自分では死にきれず、駅前などで無差別殺戮を起す事件か少なくないが、加害者の人権ばかり主張する人権派弁護士を許さなかった天才犯罪心理学者故小田晋先生によれば、それもまさに自殺行為だという。巻き添えにて命を落とした方は浮かばれない。死んでお詫びするしかないだろう。