2015.5 NO.47 バブル と ダブル (1)
銀行の証券部時代の一時期私の部下となり、その後総合企画部に移った後輩と十数年振りに再会したとき、「(銀行の生え抜き)トップ3を三途の川と呼んだらしいですね」と言われ、そんなこともあったなと思い出した。
平成4年に大蔵検査が入った。その主任検査官との部長面談の折確かにそう言った。その頃大蔵省から天下りでトップが来ていた。人質なのだからできの悪い人を招へいしたと噂されていた。たしかに、平時では問題ないが、有事には大事な局面で出来の悪さを発揮して困らせた。私も迷惑を被り腹に据えかねていたので、主任検査官の面談で、最低だ!と言い、返す刀で、当時生え抜きトップ3人がH川会長、I川副社長、H川専務と姓に川がつくのでそう呼んだ。今考えてみれば大蔵省の検査官にそんなことを言っても何もいいことはないのに、それだけ追い詰められていたのだろう。銀行を助けてくれと何度も言った。主任検査官は「何様のつもりか!?」とあきれて印象に残っていたのだろう。
その時はまだ辞職する気持ちにはなっていなかったが、帰属意識はすでに薄くなっていたのかもしれない。また、その頃からキャリア官僚としての特権階級を疑問視し始めた。優れた人が処遇されるのは特権でもなんでもない。一度国家上級試験を通っただけで、できの悪い人も終身処遇されるのはコストが無駄であるし、第一周りが迷惑する。
新宿支店から証券部に移って1年が過ぎた平成3年の秋頃か、私自身は日経平均先物で日々勝負し、さらに、日経平均先物のオプション取引をしていた。6ヶ月後に日経平均が想定水準を割っていなかったら5億円がタダ取り(プットの売り)できるもので、5億円を2本タダ取りしたこともあった(噂によると、某投資顧問事件でこれを私の100倍の単位で勝負し負けたと聞く)。ただ、大蔵省検査では褒められるどころか銀行経営になじまないと叱られた。
だが、どちらにしろ大したことではなかった。当時銀行には売れない株が1,500億円もあった。銀行同士株を持ち合いしていて、下がると分かっていても売れないのだ。その株の管理は隣りの資金部が管理していた。私がいた証券部はそれを先物でヘッジする役割を担っていた。元々1,500億円の半分しかヘッジできないし、ヘッジして逆に株が上がれば多額の評価損を抱えることに理解を示す人はいない。そこで、担当役員に「素人の私が証券部長をやっているぐらいだから、資金部だって先物はできる。資金部に先物の売り買いの権限を委譲したい」と申し入れた。すると意に反して、「君がそこまで言うなら、1,500億円の株を証券部で管理すれば」と言われてしまった。策士、策に溺れるではないが、やぶへびとなってしまった。さぁ大変! 銀行の命運が私の貧相ななで肩にのしかかってきた。
当時は時価発行増資が行われており、額面50円の株を例えば1,000円の時価で発行することができた。一株当たり950円の返さなくてよいお金が集まるということになる。
打出の小槌よろしく、私の居た銀行は他行よりも頻繁に時価発行増資を行った。だが、発行すれば株の引き受け手が必要となり、他の銀行に頼むと同じように株を引き受けざるを得ない。それで株価変動リスクに耐えうる銀行体力以上の株が政策投資の名の下に膨らんで行った(時価発行増資の乱発のツケが証券部に押し付けられることになる)。
株が上がっているうちはよいが、バブルが崩壊し、株が下がってくると、銀行全体の利益に影響してくる。バブル崩壊は不良債権の増大をもたらし、本業収益の悪化をカバーすべく政策投資として所有する銀行株等をクロス売買して益出して簿価を上げてしまう。当時株の評価は低価法がとられ、期末に株の簿価より時価が下がれば評価損を計上しなければならなかった。
平成4年3月末の決算、できるだけ株価を上げたいとする金融機関の思惑を見透かして外資が売り浴びせてきた。所有する大口の銀行株の売り気配に買いを入れて消そうとしたが、“B29を竹やりで突く”というのはこういうことかと嘆息した。
一難去ったと思ったら翌日新年度(平成4年度)の初日からほぼ総銘柄において株価が続落し(3/31日経平均19,345円、4/9同16,598円)、ノアの方舟の大洪水のごとく所有株がすべて水浸しになってしまった。1週間で評価損が年間の業務純益の1.5倍まで膨らんだ。期末までに株価が戻らなければ、前代未聞の銀行の大赤字となる。1年間全行員が汗水たらして得た利益を期末1日の株価次第で帳消しして余りあることになる。それは、株式不況の最中、すこぶる現実味を帯びていた。