2015. 2 NO.44  はらたつり と はらたつ

 数年前と言ってもかなり前の話だが、長男が就職し東北に赴任するとき、見送る妻が泣き出した。戦地に送り出すわけでもあるまいしとあきれたが、不覚にももらい泣きしそうになった(涙もろくなったことに老いを感じる)
 普段旅行に誘っても四の五の言う妻であったが、長男のところに遊びに行こうと言うと、二つ返事。数か月後長男と函館で待ち合わせした。

 ロープウェーで親子3人函館山に登ったが、あいにく雨模様で霧がかかり、長崎、神戸と肩を並べる夜景が台無しだ。夢中は楽しいが、霧中は興ざめだ。

 妻と初めて海外に連れ立った時も、香港島のビクトリア・ピークに向かうもあいにく霧がかかり、頂上付近からの眺望は臨めなかった。

 銀行員時代にゴルフをしていたときも、ゴルフ場に向かう車の中で雨が止んでよかったと思った矢先、コースに出るとフェアウエイに霧がかかりスタートができない。なんとも言えず腹立つ霧だ。

 巨人軍の原辰則監督の采配は「はらたつのり!」とは昔の話。監督としての実績は日本一が3度。WBCの優勝もあり、あの長嶋監督を上回っているのだから。昨年も9/26にリーグ優勝を決めた。監督への賞賛一色と思われたが、翌日グループ傘下のスポーツ紙が松井秀樹元選手の来期入閣はないと報じた。11/22には白石オーナーが2016年以降の有力監督候補として松井選手の名を挙げたと報じられ、来期の指揮をとる原監督に失礼とのコメントがネットで寄せられていた。終身監督どころか、巨人軍に複雑な想いの松井選手を恩師として逆らえない長嶋監督を使い原監督の後釜に球団が急ぐと見えるのは、あの1億円口止め問題が尾を引いているとしか思えない。

ファンには申し訳ないが、他山の石として我々が教訓とすべきことは、よからぬ筋に脅されたら、すくに警察に相談すべきだということ。ドラマで弱みを握られた女性が体を求められそれに応じるのを見たとしたら、ゆすられるネタが増えるだけと岡目八目で分かるだろう。自身のこととなると客観的に見れないものだが、同じことだ。大金を出せばと思うかもしれないが、蛇の道はへびであり、こんないいカモはいないとその筋に広まるかネタとして売られてしまう。

相手は警察には相談しないだろうと見くびっているのだから、私ならその場で警察に電話しようとする。背負っているものが大きいとしても、腹をくくり警察に相談すべきだろう。我々庶民も日頃から想定外のことが起きれば親身になって対応してくれる警察、弁護士、医師ら信頼できる相手を地縁・人縁・血縁を駆使し確保しておきたい(依怙贔屓とかの話ではない。知っている人ならばより力になってあけだいと思うのが人情という話)。それが私生活におけるリスク管理というものなのだろう。

 そもそも浮気しなければとは言うつもりはない。人気芸能人でモテるハズなのに妻以外には目もくれぬ、高島忠夫さん、関根勤さん、三浦友和さんら「聖人」たちは稀だ。赤信号は渡るな!てなことを言っても守らない人はいるものだ。英雄色を好むとも昔から言われてもいる。ただ、女は怖いということを肝に銘じるべきであろう。

 か弱い筈の女も怒髪天を衝くほど腹立てれば、怒りの炎をフラッシュオーバーさせる。そうなれば恥も外聞もなく、怖いものが無くなる。元愛人に変な性癖を暴露された政治家やバナナでTVから消えた解説者など潰された男どもは少なくない。

 小沢一郎代議士の和子夫人は「公開離縁状」を支援者に送った。夫人は橋本龍太郎元首相夫人と並び称されるほど賢妻の誉高く、地元の選挙民からも絶大の信頼を寄せられているだけにその衝撃はドラキュラの胸に十字架を杭打ちしたのと匹敵する。かの田中角栄元首相をあれだけ信奉していたのであれば、なぜ私生活においても角栄氏と同じようにできなかったのか。家も守れない者が国を統治することはできないではないか。

 「私の体の上を通り過ぎた」というフレーズは女性固有のもの。女の人は何もなくても後で損をしたと思いがちだ。

 我が大学の先輩故宇野宗佑元首相は、首相としては有能との評されたが、指3本で、あっけなく失脚したとみられている。「浮気は男の甲斐性だ」と思っている人には、呑むならではないが、「ケチるなら、乗るな! 乗るならケチるな!」と言いたい。お金だけではなく、相手が恐縮するほど情愛も注いでもらいたいものだ。間違っても見下してはならぬ。北野武監督はその模範との評判らしい(漢・高倉の健さんがウマが合うのだから、きっとそうなのだろう)。そのようにする自信がないのなら火遊びは止めておきなはれ!

 見かけによらず短気で好戦的な私は、男どもとよくぶつかるが、女の人とは喧嘩しない。何度かきついメールをもらうことがあったが、火に油を注ぎ相手の腹立つキリがなくなってもと反論も言い訳もしない。沈黙を守り、相手が言い過ぎたかと思うのを待つ。さすがに妻とは言い争いはするが、翌朝には「あれ!? まだ怒っているの?」とこちらから歩み寄り怒りの炎をすばやく消し去る。亭主の古傷を妻がフラッシュバックする前に。

限りなく粗大ごみに近い居候としての今の身の上ではもちろんのこと、結婚当初のご主人様扱いのときからそうしていた。それが夫婦和合の秘訣だと思っていたが、親戚によると母親に対してもそうしていたらしい。私は覚えていないのだが、母親が生前「腹立つが、憎めない」と言っていたとのことだ。女は怖いということを最初に母親から教わったのかもしれない。


2015.1 No.43 かんん と かん

エバラは美味いが、エボラは怖い。焼肉のたれのエバラ食品は恐ろしいエボラ出血熱と並べられても有難迷惑だろうから、標題にはしなかった。

2015年の新春を迎えた。ちょうど100年前の1915年に北里研究所が設立された。その頃近代細菌学の父と言われるコッホ博士やその弟子にあたる北里柴三郎博士ら医学者の尽力によりコレラ菌やペスト菌ら怖い細菌を克服した。

現代においては獰猛なウイルスに対する特効薬を早期に開発してもらい、今年をウイルス制圧の元年としてもらいたいものだ。

 エボラ出血熱制圧作戦の全貌を描き出した迫真のノンフィクション『ホットゾーン』(小学館文庫;上・下)を知ったのは、将棋棋士先崎学現九段のエッセイから。かれこれ67年前だろうか? 当時先崎九段は週刊文春に『浮いたり 沈んだり』というエッセイコーナーを持っておられた(現在は週刊現代で『吹けば飛ぶよな』を連載中)。ある回の中で身の毛もよだつような怖い本として紹介しておられたので、興味が涌き、読んでみた。なるほどショッキングな内容で、知人に推奨して貸し出したところ気持ちが悪いとか言ってそのままになり、今手元にない。

読んだ当時所属の業界団体の会報に私が書いた内容を引用すると、エボラウイルスと言っても種類があり、最も強毒性が高いのがエボラ・ザイール。死亡率90%と言われ、その感染者の悲惨さとアメリカ国内発生時の軍による制圧劇(実体はエボラ・レストン)が同書に描かれた。

エボラ・ザイールほど強毒性は高くないが、空気感染するのが、エボラ・レストンで、これにエボラ・ザイールが混合すれば、中世の黒死病(ペスト菌)と同程度以上の大きな被害が出ると懸念されていた。

昨年ギニア、シエラレオネ共和国等に発生したのもこのエボラ・ザイールに似ていると言われ、ニュースで紹介する折にはまず空気感染しないと断りが入る。医師や看護婦も多く感染しているが、人手不足に伴うミスだけと言えるのか。空気感染しないとしながら治療医らは空気感染対策をしているように見える。ワクチンのない完全無欠な凶悪なウイルスだけに未解明であっても断定的に言わないとパニックが起こるのかもしれない。同様に怖い鳥インフルエンザも空気感染すると言った日本の国の研究者が結局大学に転出した。もっとも、無知な原住民にとっては、宇宙服のような重装備で家や村を封鎖する者の方が悪魔に見えて怖いのかもしれないが。

 エボラウイルスやエイズウイルスも中央アフリカで発生したと言われているが、密林の奥に人間が入り込んだだけなのか。それとも、環境破壊でコウモリなど自然宿主(ウイルスは生きている細胞に寄生しないと生きられない)が減り、環境破壊した人間に復讐しているのか。あるいは、SARSのように突然発生し、突然消えていくのは、ウイルスにとって獰猛な人間に警告を発しているのだろうか(宿主が見つからないので、実験室から逃げたという説もある)

 いずれにしろ、自然環境破壊は、南北問題とも絡んで解決が容易ではないだろうから、今後とも未知のウイルスの出現により人間の生命が脅かされ続けるのかもしれない。

 今回エボラ出血熱が流行したシエラレオネの名を聞くとレジオネラ属菌を想起する。こちらは細菌でウイルスと違い生きた細胞が不要で単独で生きられる。

レジオネラ属菌は、土壌等普通に環境中に存在しているが、免疫力の弱い高齢者や乳幼児などが感染すると、肺炎に似た症状(オレンジ色の粘調な痰が特徴)を引き起こす。健常者では通常感染しないので、日和見感染と呼ばれる。

210日の潜伏期間を経て、高熱、咳、頭痛、筋肉痛、悪寒等の症状が出現し、進行すると呼吸困難となり、下痢、意識障害等併発の上、死に至ることもある。

19767月、米国フィラデルフィア市のホテルで開催された在郷軍人大会で原因不明の221名もの肺炎患者が集団発生し、うち29名の死者を出した事故が起きた。後に、原因は冷却塔で増殖したレジオネラ属菌が外気ダクトから混入し、空調ダクトを経由し室内に飛散したことが原因と判明した。

第二次大戦下銃弾を潜りぬけ生き貫いた軍人達が、見えないほど小さな敵に倒さるという皮肉な結末であるが、この在郷軍人の名にちなんでレジオネラ属菌と後に命名された。

 レジオネラ属菌は、温泉施設などで水しぶきを吸い込むと気道を介して肺に侵入し発病する(タバコのタールは気管の繊毛を塗り固めてしまうので、喫煙者の方が罹りやすいと言われる)。幼児が屋外の噴水で遊ぶのは気をつけた方がよい。一時流行った家庭の24時間風呂の湯でそのまま頭にかけるのは避けた方がよい(6070℃の熱湯でレジオネラ属菌は死滅すると言われる)。折り合いが悪い嫁からの「露天風呂で打たせ湯にあたると気持ちいいですよ」という話には姑は乗ってはいけない。悪天候の日に飛行機に乗れと言っているのと同じだ。温泉の湯を飲み込んでも感染しないが、免疫力の落ちた高齢者が打たせ湯で水しぶきを肺に吸い込むと感染する恐れがある(もっとも最近は打たせ湯を止めている温泉が増えているようだが)

我々はいろんな危険の中に生きている。宇宙人を含む外の人からの侵略や攻撃から守るのが国防。人以外からの害や疾病を防ぐのが予防。ともに危機感と安全にはコストがかかるという認識を持つことが肝要だろう。


2014.12 No.42 こくう と こく

 日本国宝展が今東京国立博物館で催されている。国宝は、国の重要文化財の一種で1,100弱存在する。東京都、京都府、奈良県を中心として全国に点在するので、他国からの侵略よりすべてを守るのは容易ではない。その国宝や領土を守る以上に国民の生命と財産を守るのが国防の目的。人間国宝だけではなく我々庶民も守ってくれなければ困る。

 平和国家を標榜しているから日本は平和が維持できていると思っている日本人は少なくない。本当にそうか。例えば、東京の真ん中で家の玄関に「私どもは他人の物を盗みません」と貼り紙すれば、ドアを開けていてもだれも盗みに入って来ないと言うことと同じではないか。「入って来なかった!」って、それは隣が交番だからだろう。

 日本の平和は世界の警察力としての米国のバックアップが前提。“いつまでもあると思うな親と金”と同じだ。

 尖閣問題の折李登輝元台湾総統が「中国は美人を見ると他人の妻でも自分の妻と言いかねない」と言ったとされるが、中国は本当は「日本は中国の妻だ」というのが本音たろう。日本の領海(:内水)+排他的経済水域は約447万㎢で国土(38万㎢)の約12倍もあり世界第6位と広い。中国はうらやましくて仕方がない。太平洋に出るのに邪魔だし、そこに眠る海洋資源は垂涎の的。中国は本気で尖閣→沖縄→本土と侵略する機を窺っていると思うべきだろう。

中国共産党一党独裁体制の瓦解を期待する向きがあるが、たとえそうなったとしても、国名が変わるだけで、中華思想は中国四千年のDNAに刷り込まれており普遍で不変だ。最悪の場合をも想定し長期的な備えが不可欠だろう。

平和国家が矛や盾を持つことはなにも矛盾しない。他国が侵略してきて、愛する妻、娘や恋人が連れていかれそうになった時、命だけは助けてやってくれと哀願するのか。今故趙紫陽元総書記の『極秘回想録』(光文社)を読んでいるが、天安門事件で自国民に向け無慈悲な武力弾圧をなす中国が他国民に容赦すると思うのか。平和国家だからこそ国防力を他の国よりも強化する必要がある。

そうであるなら、時の政権が進めようとしていることに反対するのはおかしいかもしれない。しかし、積極的平和主義の第一弾がなぜ武器輸出の解禁となるのか。順序や動機に問題があると思っている。

国民に理解を求めなければならないことは、古賀茂明氏が上梓した『国家の暴走』で危惧する「集団的自衛権の行使により米国の戦争に巻き込まれる」ことではなく、「自力でいかに日本を守るかということであり、その為に憲法改正が必要か」ということだろう。

 今はまだ米国は軍事的に日本に助けてもらおうなんて思っていないだろう。日本に求めるのは、米国に対する忠誠と応分の負担だと思う。

去る7/13()の夜、集団的自衛権の閣議決定の舞台裏がNHKで放映されていた。その中で公明党の内でなぜそんなに急ぐのかの内部の問いに幹部が「首相がやりたがっているから」と答えると、(信じられないことに)みんなは押し黙ったと解説されていた。その一方で山口代表は「自民党は従来内部で色んな意見が出されていたが、今回はそのようなことはなかった」と訝しげに発言していた。首相は独裁者と責任転嫁したいのか?

国民の見ているイメージはこうだろう。先代の番頭に愚かなお坊ちゃんと言われても言い返しできない二世経営者が、親しい仲間内だけで先代と違うことを推し進めようとし、従業員がこの経営者について行って大丈夫かなと心配しているのと同じだ。

 ドイツは集団自衛権の行使容認に4年要したとHNKは報じていた。

 日本国民は、夫の転職に反対する妻と同じ気持ちだ。このまま安定した生活を望む。それを70年間も続けてきたのだから。おいそれと考え方が変わる訳がない。  

 しかるに、国会の充分な議論も経ず閣議決定にて集団的自衛権だけを先行させようとした。護憲派メディアの思うツボだ。手続きの不備だけをつつき、本質的な問題から国民の目をそらさせる。

 案の定、支持率が下がるとあれだけ急いでいたのに関連法案は1年間先送り。あの古賀茂明氏は、週刊現代7/268/2合併号の『官々愕々』で、「1年間ほとぼりを冷ました後20156月の国会会期末までに関連法案は強硬採決し、支持率低下を防ぐため拉致被害者10数人を北朝鮮から連れ戻すことをセットにする」のではと首相サイドのシナリオを見透かしていた。

その後9月の女性閣僚が目玉の内閣改造という目くらましは失敗に帰し、もっと大きな目くらましをと消費税増税先延ばしという大義なき衆議院解散(衆院選12/2公示)に首相は打って出た。

国税67百億円をも使うなら、80議席減らしても与党自体は安泰だろうから、姑息の色が付いた集団的自衛権ではなく、堂々と憲法改正の是非を国民に問うてもらいたい。

真に国の将来を憂うるというのであれば、時の首相が私心を捨て捨石となる覚悟が必要だ。国民に訴えるだけではなく、選挙後の国会においても野党とも正々堂々と議論を戦わせなければならない。新設の担当大臣を盾にした“岩陰隊長”では国民は信用しない。

国民は国防力強化とそのための改憲にあくまで反対するだろうが、首相自身が国会で激しい論戦を繰り返す中で国民は次第に首相の確固たる信念を理解し、国民も改憲に向けての心の準備が次第に出来てくるのだろう。そうなった時、祖父と似てきたなと思ってもらえるのかもしれない。


2014.11 No.41 いこく と いこく

 今年の9月にスコットランド独立を問う住民投票が行われ、住民投票を認めた英国のキャメロン首相は危うく売国奴並みのそしりを受けるところだった。

 高を括っていたのか、独立賛成派と反対派が拮抗していると分かると、うろたえ、直前にスコットランド入りした折、「私が嫌いでも英国は嫌いにならないで」みたいな発言を行った。日本のネットの中で英国の前田敦子か?と苦笑された。

 エリザベス女王にあれだけ心配と迷惑をかけながら、すくに責任をとって辞めようとしないのは、騎士道の国も武士道の国と変わらない。

 民主主義の名の下に、ムードに流されやすい民衆に、国の命運がかかった大事な問題の判断を委ねるのは、リスクが大きすぎると思う。

 赤信号みんなで渡れば怖くない。事故が起き死人が出ても、みんなで決めたことだからとして、だれも責任を取らない。

 キャメロン首相は、普段意識することのない国民主権について、我々に再認識する機会与えてくれた。

議会主権の英国と違い、日本は、日本国憲法の第1条において国民主権が謳われているが、実態は国民主権が弄ばれている。

小泉元首相は国民主権を逆手にとった。自身の政治信条として郵政の民営化を何かの一つ覚えのように唱え、国会でうまく事が運ばないとなると総選挙に打って出て、もともと国民が望んでいないものを、国民に判断させた。

狙いは郵貯・簡保だったかもしれないが、郵便事業は公共経済の最たるもの。採算が合わないものだから国でやる。それを民営化するということは過疎地域の切り捨てを意味することにならないか。国民はその是非を考えることもなく、小泉人気になびいた。

なお、民営化するとしても、郵政に限らず、民間に払い下げ社員を入れ替えるのでなければ、民営化の成果は疑問だ。極論かもしれないが、「最小のコストで最大の利益を」になじまない職員の制服を変えるだけで、上から利益、利益と言えば、職員は何もしないで経費を押さえようするだけになる。JR北海道のように。

その頃、私は当時所属していた団体の講演会で大手新聞社の某政治部長を講師に招いた。政治部長は「私の妻は小泉首相をかっこいいと言っている」と話した。こりゃダメだ。政治部長の妻でさえこれでは(口にする政治部長もどうかと思う)。海外から“警察は一流、経済は二流、政治は三流”と揶揄されるのは宜なるかなと思った。

 安倍首相は、特定秘密保護法を来月12/1より施行させる。特定秘密の判断は内閣内の機関が行うという。国民主権とは程遠い。

 裁判員制度も国民主権を愚弄している。裁判官がおかしいと財界、弁護士会らから陪審制度の導入を求められると、主権者たる市民も入れて独善ではないと装う。市民は経済行為を行っているから民事裁判の方が対応しやすいのに、あえて、裁判員になる善良な市民には無縁のハズの刑事裁判を担当させる。その舞台裏については『絶望の裁判所』(元裁判官瀬木比呂志氏著)P6677に書かれているので一読願いたい。しかも、死刑判決もありうる重大犯罪を担当させる。何の因果で、惨殺された被害者の惨状を見ないといけないのか。人の命を奪うことに関わらないといけないのかと裁判員の心を苦しめさせる。その理由が、「裁判は死刑になるようなことは犯さないから、間違っても素人の裁判に裁かれることはない」とするなら、なにをか言わんとあきれるほかはない。

 

国民主権だからと言って、全能の神や聖徳太子でもあるまいし国民がすべてできるわけはない。政治には代議士がおり、裁判には職業裁判官がいる。国民からの信託に応えるべく責任を持って自らの職責を全うする。それが出来なければ国民から罷免されるのが国民主権のあり様。 

代議士の頂点、すなわち日本のトップが、バカで頑固(私のことか)なタイプでは困る。隣国を見てつくづくそう思う。そういう意味では、官僚出身の大物政治家がよいのかもしれない。日本の存否の鍵を握るトップは賢くなければならぬ。また、官僚出身のほうがより私心を抑える術を知っているハズという意味で。戦後、吉田、岸、池田、佐藤、大平、中曽根等官僚出身の首相が多かったが、今はいないのか。それとも頭角を現す機会が与えられていないのか。

 司法を支配する最高裁裁判官については、憲法改正(国民投票)と並んで特別に国民審査をすることになっているが、茶番もいいところだ。名前だけ見て判断できる訳がない。『絶望の裁判所』に書かれている酷い状況であるからこそ、江川詔子さんが問題提起していたように、最高裁裁判官の任免については国会の俎上にあげるべきであろう。

 さらに、国民主権が機能するためには、チェックする我々市民も経済オンリーでなく政治的ステージを引き上げることが不可欠と言える。


2014.10 NO.40 ゴ と エゴ

 4年ほど前楽天の三木谷浩史社長が英語を社内の公用語にすると発表した。

 その折、世界のHONDAの伊東社長が「ばかな話だ」と一蹴したとネットで見た。同感だ。

 ひと昔日本長期信用銀行から新生銀行に変わるとき外資が入ってきて会議は英語で行うと噂で聞いた。事実はともかくとして、能力があろうとなかろうと旧幹部を辞めさせるにはいい方法だと思った。クビと言い渡さなくても英語を聞き取りできず話ができない幹部は自ら辞表を提出するしかない。

 日本人としてのアイデンティティの最たるものが日本語を話すこと。日本に居ながら日本人社長が日本人社員に英語を強いるのはどうかしてると思う。オーナー会社の勝手だとしても。

 私は大学生の頃三木谷社長のお父さんに教わった。昭和46年か47年かに故三木谷良一先生が神戸大学の助教授の時アメリカ経済論を受講した。お母さんも帰国子女らしいので、三木谷社長は子供の頃からアメリカナイズされているのだろうか。

 ドイツの鉄血宰相ビスマルクが言ったとされる「愚者は経験に学び、 賢者は歴史に学ぶ」(経験は経済と読み替えたい)を聡明で教養のある三木谷社長が知らないハズはない。

 第二次世界大戦敗戦当時GHQから英語を公用語にする要求に対し重光葵外相が自らの命を賭してはねつけたことは周知の事実。それならばと今度は日本語のローマ字化を進める動きも先人達はなしくずしにしたと佐藤優氏の『人間の叡智』(文春新書)に出てくる。

 先人たちによって守られてきた日本語をなぜ粗末にするのか。なぜ文化人は声をあげないのかと思っていたら、三木谷社長は薬のネット販売規制問題でエゴ丸出しの単なる政商に過ぎない、馬脚を現したと誌面に書かれた。

 なーんだ、日本語文化まで壊されることはない。これで一安心と思っていたら、文科省がバカなことを言いだした。2020東京オリンピックを見据え小学校での英語教育(現行5年生から)を前倒しして3年生から始め、英語教育を強化していくと。東京オリンピック時の外人観光客向けホスト、ホステスを養成するつもりなのか?

 2016年から正式種目に復帰するゴルフには、東京オリンピックに向け、全国の小学生、中学生全員にゴルフを始めようとは呼び掛けはしないだろう。英語も同じだ。すべての子供が意思疎通のツールにすぎないものをなぜやらなければいけないのか。日常会話ならスマホを使って簡単に意思疎通できる時代がすぐそこまで来ている。週刊新潮も9/4号で有識者に意見を求め小学3年生からの英語教育を批判した。

どう見ても欧米人としか見れないが英語が話せないハーフタレント兼歌手のウエンツ瑛士さんは、自身の体験から英語の幼児教育は無意味と声を大にしてTVで力説していた。さらに、北大の山口二郎教授は大学においてさえこう述べている。東京新聞の数年前の夏の「本音のコラム」欄で『若者の現在』と題して、「・・大学改革の議論では、英語が話せるグローバルな人材の育成が叫ばれているが、なんとも的外れな話である。欧米でも、大学の基礎教育は歴史と哲学が中心である。安直なハウツーを身に着けるのではなく、答えの出ない問題を必死で考え続ける知的基礎体力を持った人間を育てるのが大学の仕事である。・・」

 英語をよけいに教える時間があるのなら、人の命の大切さをもっと教えて欲しいと私は思う。子が親に、親が子に、簡単に手を掛ける。遠慮がない分エスカレートしがちであるが、諍いがあっても、つらい事情があるにせよ、命だけは奪うことがないよう小さい頃から強く戒めて欲しい。

 いじめによる自殺も同様だ。人を助けるのは勇気が要り容易ではないが、いじめるのは卑怯でた易い。いじめがこの世の中から消えてなくなるとは思わない。いじめられたら、闘わなくてよい。逃げても転校してもかまわない。あのカッコいいキムタクだっていじめに遭って転校したんだよ。世の中のこと、人生のことも分からないくせに勝手に死ぬな! 未成年なのだから親の同意を得てから死ねと言ってもらいたい。そう言って解決するなら苦労はしないが、いじめを減らす取り組みもよいが、それ以上にいじめられる側の視点での取り組みを強化してもらいたい。

 もう一つ学校で教えてもらいたいことがある。人としての生き方。人の道というべきか。今トルコ、ブータンなど親日国が少なくないが、そこには一人のあるいは数人の日本人の善行が深く関わっている。台湾では、戦前世界規模の灌漑用ダムを造った八田與一という日本人土木技師の墓で、毎年命日の58(1942年殉職)に追悼式典が催される。70年以上経った今日でも台湾の人々に敬愛され続け、台湾の教科書にも登場する。しかし、私は台湾に親戚が出来ていなかったら『台湾を愛した日本人 土木技師八田与一の生涯(古川勝三氏)を読むことはなかったかもしれない。

私が子供の頃子供心に自虐史観の教育を受けたとは感じなかったが、貧しさから立身出世した豊臣秀吉や松下幸之助社長のような成功者の話しか学校で聞かされていなかったように思う。

台湾出身の評論家黄文雄氏に『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』を発刊してもらっているが、この前のワールドカップのサッカーの試合後のごみ拾いもそうだが、世界から認められた日本人の特性のルーツを日本の教師が教科書で子供達に教えてもらいたい。

過去の行為を正当化するためにではなく、反省すべきことと同じように過去の善行や日本人の特性も知らしめ、子供たちが誇りある日本人としていかに生きるべきかを考えてもらうために。

2014.9 NO.39  かせいふみた と かせいふみた

 女優市原悦子さんの主演で19837月を初回としてテレビ朝日系で人気シリーズ化したのが、ドラマ『家政婦は見た!』。市原さんが扮する主人公が「大沢家政婦紹介所」から上流家庭に家政婦として派遣されるのであるが、その家政婦紹介所のモデルが介護事業所の大手㈱やさしい手の前身()大橋サービスと言われている。㈱やさしい手を紹介した本によれば、社長の香取眞恵子さんは、それまで個人事業であった家政婦紹介所を法人経営にした先駆者で、しかも女子学生事業家のはしりということだ。

 私は、公益法人に勤務していた頃、飛び込みで㈱やさしい手の門をたたいた。㈱やさしい手の香取社長は、こちらをやましい手の者のようにはすこしも疑わず、快くお会いしてくれた。そして、こちらの表彰事業に賛同し数年協賛いただいた。今も感謝している。

 

 日本テレビ系列で201110月から放映されたドラマ『家政婦のミタ』のタイトルは、当然『家政婦は見た!』をオマージュして付けられている。

 TBSドラマ『半沢直樹』に抜かれたとはいえ、最終回は視聴率40%と20%を超えるのが難しい昨今では脅威的なヒット作となる。テレビ離れが進んでいるとはいえ脚本が良ければ数字はとれるのだということを再認識させられた。

 主人公に扮する松嶋奈々子さんが言う決まり文句「承知しました」はその年の流行語大賞に選ばれてほしいと思った。が、放映の時期が遅かったためか、ノミネートには至らなかった。

 最近若者を中心として目上の人にも平気で「了解しました」を使っている。我妻は携帯メールで私に向かって「了解です。」と返信してくる。「承知しました、ご主人様!と書くべし」と返信すると、「バカ」と切って捨てられた。知人に話すと、「力関係からすると了解で良いのじゃないか?」とまぜっかえされてしまった。長男はもっとひどく、「了解!」の一言。会社の上司にも了解と返事しているのかと長男に注意した。

 違和感を覚えるのは私だけではなく、世の中高年も同じ思いをしているらしく、週刊誌に採り上げられた。20121214日号の週刊ポストの連載『現場の磁力』で【「了解しました」といってはいけない】と題し、「了解には敬意が含まれていない」と解説している。他誌も【あなたの「日本語」は間違ってます】と題し、うっかり口にしがちな「本当は失礼な物言い」に対し、いの一番に「了解しました」を挙げている。

 かく言う私も講師への礼状の末尾に「ご自愛ください」とよく書いたが、本来上から下に書くものとは知らなかった(今はどちらからでもよいとの意見もあるが)

「生き様」は、本来自身が卑下して使うものだが、他人の立派な生き方にも使うように変わってきたことを最近私が所属する業界団体の研修で知った。

当業界は完全と言っていいほどの受注産業なので、初心者向けの研修において上記記事も活用し、マナー教育にも力を入れている。


 19837月に始まった『家政婦は見た!』から201112月に終わった『家政婦のミタ』まで28年が経過し、その間に、看護婦は看護師に呼称変更された。

 家政婦は30年近く経っても家政婦のままだ。ジェンダーフリーの闘士らは、男の家政婦が増えているのをご存じないのか。それとももう満足されたのか。

数年前某医学会の創立記念の懸賞論文に応募した。賞にはかすりもしなかったが、前立腺生検の体験を題材とした原稿の中で私はこう書いた。

「・・・今回の生検で検査当日一泊したが、検査なのに看護婦さんが夜通し定期的に様子を見に来てくれた。夜勤の任務とは言え、頭が下がる。これまでにも胆のう摘出とか何度か入院を経験したが、その度に看護婦さんに感謝した。下の世話というよりも苦痛や不安に対して癒してくれる役割は女性ならではのものと思う。ジェンダーフリーかなんか知らないが、私は看護師とは言わない。親愛と深い敬意を表して今でも看護婦さんと呼ぶ。・・・」

 週刊文春の連載『悩むが花』で作家の伊集院静氏が看護婦と呼ぶ方がいいと書いておられ、意を強くした。

 テレビ東京系で『YOUは何しに日本へ』と言う番組がある。外国人から日本が好きだと言うのを聞くと何げに嬉しくなる(こんな私でも愛国心があるのか)。ある回同性愛らしき男のカップルが来日し、その一人が職業を聞かれた時ナースと答えた。いわゆるオカマなのでナースと答えたのかと疑問を持ち、Nurseを調べると看護婦とあり、男性にも使うと書いていた。英国はなんと! SisterBrotherにしてと言う野暮な英国紳士はいないのだろう。

 男女平等に今更異を唱える人はいない。だが、男と女は同一ではない(男が子供を産むまで私は認めない)。女性固有の呼称はあってしかるべきではないか。

 英国のエリザベス女王様も、何とか仰っていただくとありがたいのだが。





2014.8 NO.38 むりし と むりし

今日は64回目の誕生日。齢を重ねるだけでめでたくもないが、明日妻娘と3人でちょっと名の知れたインドカレー店に行き、その後カラオケに繰り出す。

この年まで古い話だがずっと覚えていることがある。私が高校生の時に4つ上の兄にお金を借りたときの小話だ。

 私: 無利子で貸すなんて兄弟だから当たり前やろう?

: 『アホか、無理して貸してやると言っているんや!

 私が兄にお金を借りたのはこれっきり。いつもこちらが兄に貸していたのだが、返してもらった記憶がない。自転車をあげるからと言ってはどこかで盗まれてきて貰えなかった。兄の言う「貸してくれ」の“貸して”は意味のない接頭語で要はくれ!(よこせ!)と言っているだけなのだ。

 兄は親から良いDNAを受け継ぎ、頭もよいし、絶対音感も持ち合わせハーモニカで音を拾っていた。歌も玄人はだし。大学生の頃はベンチャーズにあこがれてエレキギターのバンドをやっていた。ファンなのか寿司屋の娘さんが寿司折を持って貧乏長屋に訪ねてきたこともあった。当時兄はブルーコメッツの故井上大輔さんによく似ていた。

 残りカスを親から貰ったような私は、取り柄もなくアウトドア派でもないことから、しかたなく机に向かって勉強していた。

 社会人になると、まるで入れ替わったように、長男気質なのか兄は財閥系大企業の子会社に入社してからは30余年会社一筋で尽力し生え抜きながらも役員にもなった。

 一方、弟の私は銀行、公益団体、業界団体と渡り歩きやや波乱万丈の人生を歩み、また、バブルの頃は何度か隣国に繰り出し悪い日本人を演じていた。もっとも、兄は兄で、結婚後も相手の女性をその気にさせるだけさせては梯子を外す悪い男を演じていた(女性のハードではなくハートを奪うのが好きなのか、単に意気地がないだけなのか、分からないが)

 兄は子供の頃両親からよく叱られていた。子供ながらに下手だなと思っていた。私の方が可愛がられていると思っていたが、自身が親になってみて気がついた。嫡男としてしっかりしてもらいたいとの思いから厳しくなり、次男には甘くなってしまうものなのだと理解した。

 ガラパゴス諸島などに棲むナスカカツオドリという鳥は、卵を2つ産むが、すぐに兄が弟を追い出すらしい。人間の兄はそんなことをしない。私の兄も、弟には負けたくないと思っているだろうが、可愛げのない弟でも折に触れどうしているかと気に掛けてくれているのを感じる。

2011年終戦記念日の近くでフジテレビが『最後の絆 沖縄 引き裂かれた兄弟~鉄血勤皇隊と日系アメリカ兵の真実~』を放映していた。実話に基づき、沖縄決戦を舞台とした、実の兄弟でありながら兄がアメリカ兵として弟が日本の少年兵として対峙するストーリーだが、やはり兄が弟や家族を心配する姿は絵になるし、しっくりとくる。

 しかし、子供の頃仲のよい兄弟でも、長じて進むべき道が違ってくると弟の方が反駁していくことも少なくないようだ。

過酷な稽古や先輩力士の可愛がりにも二人身を寄せ合って耐え、あんなに仲がよかった若乃花関と貴乃花関でさえ、若乃花関の横綱昇進をめぐる頃から仲が怪しくなった。

 親の遺産相続争いでは眉をひそめたが、お兄ちゃんの若乃花関が譲ったように映る。世の兄ちゃんはいつも我慢させられて損だとアンケート調査の上位に挙がる。

 御多分に洩れず、私の息子達も長じて仲が悪くなってしまった。仕事にかまけ、またデリカシーのない私はナイーブな次男のお守りをちいパパに指名した長男に任せた。

先々月娘が生まれた長男は子煩悩でよきパパになると思うのだが、その長男が大学生で次男が受験の頃長男の干渉やお仕着せがうるさいとして次男は長男と口も利かなくなった(悪者になった長男には悪い事をしたと謝りたい)

 かつて私も人と袂を分かつことがあった。だからと言って、それまでの期間をすべて無益だったと否定するのは卑怯だと思っている。今還暦を優に過ぎてもまだ働く場があり、裕福と言えずとも家族と平穏に暮らせているのはその人のお蔭だと感謝している。仕事の進め方、交渉の仕方、とくに家族との接し方、いわゆる家族愛というものを教わった。お蔭で、15年ほど要したが、銀行時代には「好きになれない」とよく言っていた妻が今では「大嫌い!(怒っているときは単に嫌いとしか言わない)と言うまでに回復させることができた。「本命」の母の日の後の「義理」の父の日にも子供達からプレゼントも貰えるようになった。

たしかに、子供の頃兄は弟に対して総じて横暴なところがあるものだ。弟だった私にも理解できる。しかし、そうだとしても兄の弟に向けてくれた情愛に眼をそむけてはいけない。

次男も社会人になって数年経ており、長男が言わんとした意味が分かってきたのではないかと思う。毎日風呂で頭を洗ってくれたこと、遊んでくれたこと、何かとかまってくれたことを素直にありがたいと思える日が早く次男に来ることを心待ちしたい。



2014. 7 NO.37  らち と らち

 今日北京にて拉致問題における日朝政府間協議が行われる。一ヶ月前の報道では、拉致被害者の返還ではなく、誠実に北朝鮮が拉致被害者の安否を調査すれば経済制裁(人的往来の規制措置、送金に関する措置、人道目的の北朝船舶の入港規制措置)を解除するという。なんとも物分かりの良い話だ。アメリカとの核問題における交渉に対しても不埒な態度を取り続けた北朝鮮が、今度は北朝鮮の暗部を知る拉致被害者を既に逝っていると言わないのか。遺骨を入れ替えるなどの行為はしないと言えるのか。それとも象徴的な横田めぐみさんを戻して幕引きを図ることはしないのか(特定失踪者は8百人を超え、大半が北朝鮮の拉致と見られている)

 小泉首相の折、35名の拉致被害者が帰国した。戻ってきた家族には僥倖であったが、一枚岩だった被害者家族の会にひび割れが生じた。

 今度も首相は訪朝し数名連れて戻ってくるつもりなのか。里子に出した子を迎えに行くのとはわけが違う。どこの世界に自国民が拉致されて大きな土産をもってのこのこと出かけていく国があるのか。国民には子供が誘拐されたら勝手に身代金を払わずに警察に連絡しろと指導しておきながら、大きな土産の中身を隠して電撃的に訪朝する。世界はさすが平和国家はやることが違うと評価すると思うのか。


数年前『アルゴ』という映画が封切られた。1979年のテヘランのアメリカ大使館員救出の実話を描いた映画だ。イラン内のカナダ大使公邸に匿われた6人の大使館員を救出するのは困難の極みで打つ手が難しい。それでも見捨てはしない。CIAは奇想天外ともいうべき架空の映画(『アルゴ』)をでっち上げその6人をロケハンのスタッフに見せかけてイラン国外に脱出させる計画を立て、見事に成功させた。見破られたらCIAの工作人もろとも皆殺しにされる。民間人のためとは言えないが、自国民の命を自らの命を賭して救出させた。

 敗戦国日本は国民を守れない。拉致されたと分かっても手出しができない。沖縄米軍の狼藉に対しても無力に等しい。

経済的な大きな見返りを代償に数人をありがたく北朝鮮から返してもらう。これを訪朝した首相が歴史に名を残したと思うなら、なんという欺瞞だと私は思うのだが、だれもそんな公言はしない。しかし、一人はいることが分かり安心した。

軍事ジャーナリストの鍛冶俊樹氏は、自著の『国防の常識』の中で、「拉致問題はなぜ解決しないのか?」と題して、P7778にかけて、こう書いている。「・・・。一般の日本国民は震災の市民ボランティアを見るまでもなく、国民を守ろうとする気概に溢れている。ところが、日本の肝心の国家中枢にはこの気概が見られない。「日本国憲法」があるから国民を守れないのではない。国家中枢に国民防衛の理念と情熱がないからである。これが典型的に現れているのが、北朝鮮による拉致問題である。政府は一貫して、北朝鮮に対して対話と圧力で臨むという姿勢である。しかし、これは誘拐犯と交渉するということだ。誘拐犯が特定できない段階では交渉は唯一の情報収集手段である。だが、誘拐犯が特定されれば、そこから被害者の位置を特定し、踏み込んで、被害者を救出するのが常套手段だろう。・・・・・・。具体的には各種情報機関により情報収集し、綿密な作戦計画を立て特殊部隊を潜入させ救出する。どこの国でもこうした手段を検討するのは当然だろう。ところが、日本の国家中枢は始めからこうした手段を放棄している。・・・・。自衛隊に救出する気がないのではない。政府や国会などの国家中枢にその気がないのである。」

これを理解する賢い?政治家は拉致問題への言及を避ける。今までの延長線上で全拉致被害者を救出させると高らかに唱える政治家は、ひとが良いというよりむしろ悪いのでないかと思ってしまう。

戦国時代末期ポルトガル人イエズス会士のジョアン・ロドリーゲスが『日本教会史』で「自分の保護と援助の下に身をおいている者のためには無造作に、わが生命を賭ける」と称賛したとされる日本人はどこに行ってしまったのだろうか?

有事に同盟国米国の兵士の命を守る仮定の話で集団的自衛権の行使を議論するのなら、目の前にある拉致被害者の命と家族の苦しみを救うため憲法解釈の変更や憲法改正を議論するべきではないのか。


平和国家、平和国家と言うが、一体誰のための平和国家なのか。武力をもって他国に侵略しないと言ってくれるのは他国にとっては勿怪の幸い。しかし、一方的にそう宣言しているだけで、その代わり絶対攻めて来るなとは言っていない。永世中立国のスイスは、攻めて来たら二度とそんな気を起こさせないほど酷い目に遭わせるとの気概と態勢をとっている。拉致されてもすぐ取り戻せない。侵略されたら個別的自衛権はあるがそんなに武力を行使していいのかと言っているようでは、日本国民にとって平和国家でもなんでもない。

日本国民が日本国に帰属意識を持ち、税金を払うのは、国が自分の生命と財産を守ってくれると思うからだ。平和国家の幻想から目を覚まし、国というものの原点に立ち返って考え直す時に来ていると思う。





2014.6 NO.36  らう と らう

 寓話「アリとキリギリス」。最後働き者のアリが怠け者のキリギリスを助けるという話は教訓として二通りの解釈ができると思う。一つは真面目に働かないと他人様の施しを受けるみじめな目に遭う。二つ目は、怠け者でも救済すべきだということ。

 私は前者の解釈に組みしたい。妻からキリギリス呼ばわりされている私が言うのもなんだが、社会主義イデオロギーの根幹ともいえる「働かざる者喰うべからず」というフレーズは、資本主義の我が国においても通じると思う。

 憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は、働けるけど働かない怠け者を前提としていない。働く意思があっても企業からNEEDがないNEETや差別により就職できない人は国として手を差し伸べる必要があるのは言うまでもない。

 しかし、好きな仕事が見つからない。楽しい仕事がないと言って働かない連中まで国は面倒みる義務はない。

 過去著名な経営者でもあっても第二志望の職業人生で成功している人も少なくない。今所属する業界団体の役員も、長男だからとして親の会社を継いでいる人が多い。父親が亡くなった、亡くなりそうだとして、大企業等に勤めていたとしても辞めて親の会社を継ぐ。「オーナーの長男には職業選択の自由がないものだ。憲法違反だ」と同情申し上げるが、当人たちは会社のため従業員の生活のため先頭に立ち奮闘しておられる。

 

楽しい仕事をしてお金ももらいたいというのは幻想。辛いからお金をもらい、楽しいことにはお金をはらうのだ。

 私たちはゴルフする前の晩はウキウキして寝つきが悪い。楽しいからお金をはらう。プロゴルフのシード選手は、予選落ちが続くとゴルフ道具も見たくないほど落ち込む。辛い稼業だから賞金をもらうのだ。

 ソープランドのソープ嬢も好きでもない男と交わらないといけない、女性にとってこんな辛いことはないから少なくないお金をもらう。惚れた男からはお金をもらわないことがあるのは楽しいからだ。

 ソチ冬季オリンピックの折明治天皇の玄孫の武田恒泰氏が、自身のツイッターで次の発言を行い物議を醸した。「負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」「日本は国費を使って選手を送り出しています。選手個人の思い出づくりのために選手を出しているわけではありません」

 竹田氏が日本オリンピック委員会会長の竹田恆和氏の子息であることも、何様のつもりとさらなる反発を呼んだのかもしれないが、竹田氏の発言自体は私の考えと同じことを言ったに過ぎず、的を射ていたと思う。

 日本人はプレッシャーから大舞台で本来の実力が発揮できないことが少なくない。応援する方もそれが分かっているから、「頑張れ!」とは言わず、「楽しんでこいよ」と声援を送る。選手達もそれを理解しているから、「頑張ってきます!」とは言わずに「楽しんできます」と答える。

 そうすると、それを勘違いして、本当に自分が楽しめばいいのだと思ってしまう人が出てくる。自分が楽しむのなら自分で旅費をはらうのだ。日本を代表し日本国民の期待を一身に集めそのすごいプレシャーに耐えねばならぬ。辛いから国費で行かせてもらうのだ。

 

フィギュアスケートの浅田真央さんのSP後の顔面蒼白の姿が忘れられない。そこには微塵も私心などなく日本国民の期待を裏切ってしまったと茫然自失していた。

 気持ちを切り替え自らを叱咤し臨んだ翌日のFPでのパーフェクトな演技後彼女から出た言葉は「恩返しできた」。

その人となりと生き様は、日本国民だけではなく他国の有力選手からも金メダル以上の賞賛が彼女に向けられた。

 大舞台で緊張しすぎるという日本人の性格は弱点だけではない。責任感の強い裏返しであり、愛国心の強さでもある。そこに我々は感動をもらい、敬意をはらう。

これがオリンピックでなく、戦争となれば日本人の特性がもっと顕著に表れるだろう。平和ボケの日本とは対極の米国は同盟国日本をも戦争相手と想定するとき、「神風特攻隊や人間魚雷など同じ事はしてこないだろうが、必ずやわが身を犠牲にしてでも国のために死に物狂いで挑みかかってくるだろう」と恐れる。

その日本の怖さの本質を知る米国は、尖閣をめぐる日中の武力衝突が米中戦争に引き込まれることを憂慮する。

 集団的自衛権を急ぐ安倍首相が靖国神社に参拝すると、米国は憂鬱をもらい、注意をはらう。

2014.5 NO.35 っちゃん と っちゃん

さっちゃんは、童謡「さっちゃんはね~さちこっていうんだ、ほんとはね・・・・にあるように、小さくてかわいい、さちこの愛称。

やっちゃんと言えば、「やっちゃんはね~やくざというんだ、ほんとはね。だけどおっかないからやっちゃんというんだね、へつらってるよね。やっちゃん」。

昭和30年代の初め、神戸の下町では「みっちゃん道々ばば(ウンチ)こいて、さっちゃん皿持て受けに来た」とよく口ずさんでいた。そのため、さっちゃんには童謡のような愛くるしいイメージは当時感じられなかった。

 今の灘区とは違いJR神戸駅の西の方に当時広域暴力団山口組の本拠地があった。神戸駅の北側には北朝側には負けたのに戦神として楠正成を祀っている湊川神社(愛称:楠公さん)がある。当時その神社から見て西南側に米軍キャンプ地が残っており、その近くに山口組配下?の某組長の自宅があった。その組長の悪がき(私が6,7歳のころで5つか年上のハズ)は、おもちゃのピストルで近所の子供の鼻先に至近距離から弾を撃って嫌われていた。私は遭遇しなかったが、おもちゃの弾といえどもそれなりに痛かったらしい。

 ある日、米軍キャンプの跡地にあったガソリンスタンドの裏手の空き地で、4上の兄と一緒に近所の子供とすすきのような雑草にガソリンを撒いて火をつけては消す、文字通りマッチ・ポンプの悪ふざけで遊んでいた。ところが、撒いたガソリンの量が多かったのか、子供たちには手に負えなくなってしまった。隣のガソリンスタンドに引火すれば、最悪少年院(実際23キロほど北側にある)送りになっていたかもしれない。

 みんながパニクりだしたまさにその時に、どこからともなく月光仮面のように現れて、ささっと消し止めてくれた。なんと!あの組長の悪がきが消してくれたのだ。

 爾来私は還暦を迎えるまで、幸いなるかな、一度もやくざにひどい目に遭わされたことがない。一度だけやっちゃんジュニアに助けてもらったことがあるだけだ。



 だからといって、やくざを擁護するつもりはないし、関わりたくもない。ただ、暴力団排除条例はいかがなものかと思う。

 憲法21条の結社の自由に基づき暴力団の存在を認めながら、暴力団排除条例で暴力団の人間性を否定する。何人も法の下での平等という憲法の精神に違反とする意見もある。昔から「罪を憎んで、人を憎まず」ではなかったか。人権派弁護士のようなことを言うようだが、暴力団の組員も人の子の親。やくざの子は学校に行けないのか? やくざの子は堅気にはなれないのか?

警察の目的は、暴力団の壊滅だ。しかし、それは手段であって、暴力団が無くなっても世の中から「悪」がなくなるとは限らない。

喧嘩早いイメージの俳優哀川翔さんがテレビ番組の中で質問されていた。「やくざに絡まれたら、どうしますか?」と。哀川さんは「こちらは堅気ですからと言う」と返答した。しかし、任侠→やくざ→半グレと市民との垣根が低くなれば、それも通用しなくなるだろう。将来人間国宝になるかもしれない歌舞伎の市川宗家市川海老蔵さんが顔も含めてボコボコされた。本人にも非があるにせよやくざなら顔をなぐったであろうか。かえって、市民が巻き込まれる危険性が高くなるのかもしれない。


飲食店等がみかじめ料を払えば制裁を加えるという。政治家への贈賄とはわけが違う。脅されて払っているだけだ。暴力団と直接対峙しろと言うなら、アメリカ社会のように自衛のための銃使用を認めるのか。

あたかも、裁判官がおかしいと言われれば、ならば一緒に裁判してみろと裁判員制度をつくり、警察官がだらしないと批判されれば、では暴力団と直接対峙しろと言わんばかりだ。やくざから情報が入らず検挙率が下がるので司法取引の検討も視野に入っているとかいないとか。小学校の頃「自らが不利になっても仲間を売るな」と教えられたものだ。

人が人を裁き、人が人を売るようなことになれば、世界が羨む日本の「和の精神」が溶解してしまうだろう(韓国の旅客船沈没への対応を見るにつけ「和の精神」がいかに大事かが分かる)。我が国の司法はどこをめざしているのだろうか? 古来からの日本の良き精神性を守るのは、政治家ではなく、司法の務めと思うのだが。

 かつての花形エコノミストとしての時代の寵児から反権力の鬼と化した感のある植草一秀さんは、暴力団排除条例は、警察天下り利権拡大が目的と看破する。そうでないと思いたいが、一体誰の発案なのだろうか?

ポストをめぐって警察庁キャリアと県警ノンキャリとの確執を描いた横山秀夫氏の『64』をはじめ警視庁OB濱嘉之氏の警視庁情報官シリーズ及び同公安部・青山望シリーズなど書店には警察小説が溢れている。私に限らず、縁のない世界を垣間見ることができるとともに心ある警察官の生き様に酔いしれるのが好きなのだ。

志がないと続かない警察官、とくに心ある者の志気があがる組織に環境整備することが警棒や拳銃を持たぬ「上」の務めのハズなのだが。