2015.11 NO.53 おんなのでね VS おんなので

 小学生の頃から連珠(五目並べ)が少し強く、と言っても高校2年の別府行き修学旅行の船中余興トーナメントで優勝する程度だが。そんなこともあり、囲碁への乗り替えが遅れ大学生になってから囲碁を覚え始めた。1970年代の当時頂点に立っていた棋士が同世代の石田芳夫二十四世本因坊や武宮正樹九段らでスーツが似合いスマートでかっこよかった。TVの囲碁番組もよく見ていたものだ。

一方、将棋は、大山康晴十五世名人から中原十六世名人の時代に代わりつつあったが、着物を着て古臭い、泥臭くさいイメージが好きではなかった。

 それから45年余り人生の起伏を味わうと、より厳しい世界の将棋に関心が移ってきた。陣地を取り合う囲碁よりも敵将を攻め取る将棋の方がゲームとしては激しい。しかも将棋棋士は一定年齢までに四段に上がらなければ引退させられる。我々凡人からすれば天才に違いないのに。青春のすべてを捧げてきた当人とっては過酷すぎる。

 歌も同じだ。若い頃演歌は聴かなかったし、唄わなかった。宴席ではさだまさしさんの『無縁坂』で押し通した。プライベートでは、井上陽水さんの『心もよう』『傘がない』、かぐや姫の『22歳の別れ』『僕の胸でお休み』などフォークソングが中心だった。

 その頃は年をとっても演歌を唄うことはないと思っていたが、今や、大川栄策さんの『さざんかの宿』、北島三郎さんの『北の漁場』はカラオケでの定番だ。

 歌手も同様だ。昔は演歌歌手に興味はなかったが、今や大月みやこさんがお気に入りだ。レコード大賞をとった『白い海峡』を妻に頼んで唄ってもらう。歌詞の「二度ともどって来るなよと言われた言葉が耳にのこる。ああ・・・」は、東京で夢破れた女が故郷に戻る船の中で別れた夫か元彼に許しを請う情景が目に浮かび、切なくなる。非日常の気分に浸れる。

 若い頃から唯一心に残っていた演歌『嫁入り舟』(野路由紀子さん)も妻に唄ってもらいたのだが、DAMでもJOYSOUNDでも選曲できない。名曲だと思うのだが。

昭和486月の初め銀行の新人研修を終え神戸駅前の配属店に初めて出勤したとき、開店前どこから入ってよいものか思案していたら、後ろから女子行員に声をかけられた。細身だが美人だと思った。その女子が社員旅行のバスの中で、嫁入り舟を唄った。まだ発売からそんなに日が経ってないハズなのだが、よほどの思い入れがあるのかすっかり持ち歌にしていた。後で分かったことなのだが、同じ職場の先輩との結婚話が破談になったとのことだった。「いちどだけ彼にあげた唇かみしめて 雨の中にかすんでゆく幸福見送る 今日の最終でこの町出たいけど老いた母ひとり残して出られない」と哀愁に満ちたこの歌をバスに同乗していたハズの元彼がどういう想いで聴いていたのかが気になった。

今も歌の題名を思い出しただけで当時のことが蘇ってくる。男はロマンチストなのだと妻に言うと、「いつまでも覚えているのは、アンタが女々しいだけよ!」と妻からバッサリ切られた。そう言えば、高校の同窓会で、思い出話にと片思いのマドンナなど失恋話を披露すると、“男前”な女子、と言っても同じ60代半ばのおばさんなのだが、「未来のある話をしろ!」と、女々しいと言わんばかりに叱られたこともあった(男子と女子の未来の意味は違うのかもしれないが、それにしても加齢なる女子達は何歳まで生きるつもりなのだろうか?) 。


妻も最近演歌にはまっている。平成のお鹿婆さんか!とツッコミたくなる妻が演歌の情念を理解しているとは思えない。カラオケのLIVEDAMで採点95点以上をとることに執心しており、演歌の方が点数を取りやすいと思っているのだろう。

妻のモテ期と言えるのは、高校時代(男子に実際にモテたかどうかは不明だが)。女子高の文化祭で映画『サウンドオブミュージック』のジュリー・アンドリュースさんが演じた主人公マリア役を演じ、義兄によると拍手喝采だったとのことだ。その時に担任の先生からオペラの方に進んではとお褒めの言葉を頂戴したらしい。

妻は子育てが終わり仕事もリタイアが近づいてきた今日この頃、歌を余生の生きがいにしたいと思っているらしい。高齢者施設で歌で慰問することを夢みているのかもしれない。


毎週のように練習を兼ねてカラオケに行く妻とは3週間に一度程度一緒にカラオケに行く。「ストレスを解消しに行くのに、どうしてストレスの元凶と一緒に」と嫌がるが、そこはそれ宥めすかして連れて行ってもらう。

LIVEDAMの精密採点DXでは採点が90点台と80点台以下では採点が出るときのBGMが違う(95点以上だとまた違うらしい)。妻は採点が出る前にBGMが流れた途端「やった!」と喜ぶ。こちらは90(下手の壁)を出したことがないので、分からない。だんだん面白くなくなり、茶茶を入れだす。妻が松原のぶえさんの『おんなの出船』を選曲すると、妻の顔を見ながらぼそっと「女のデブね」とつぶやく。石川さゆりさんの『天城越え』では、妻が「あまぎ~ご~え~」と絶唱する横で「あえぎ~ご~え~」と絶叫する。

 妻は「下品! だからアンタと来るのは嫌なの!」と怒り出す。が、まさに煽てりゃナントカも木に登るタイプなので、ヨイショ、ヨイショすれば直ぐ機嫌が直る。毎回その繰り返しだ。

ある時、妻が私に「なぜ最近カラオケ、カラオケと言い出したの?」と聞いてきた。毎日が日曜の私は「嫁さんに遊んでもらうには嫁さんの趣味に合わせるのが一番」と答えた。それに対する妻の返答はなかった。身にまとわりつく濡れ落ち葉を想像したかどうかは分からない。




2015.10 No.52
うじゅう VS うじゅう

 今政治家の志が問われ、国家の百年の計を担う官僚がその自負と気概を薄れさせる中で世に警鐘を鳴らし、喝!を入れてくれるご意見番として、『国家の品格』でお馴染みの藤原正彦先生と外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優先生を挙げたい。

 ただ、私がお二人を信奉しているとはいえ、盲従するつもりはない。私は誰かに操縦されるパペット(操り人形)になるのを嫌う。何事も是是非非で臨む。

 東京五輪で揺れる文科省は、俗にいう三流官庁だとしても、我々より数段賢い官僚たちがなぜかくも首をかしげる政策を打ち出していくのか。

 藤原先生は、前々から低年齢層からの英語教育に反対している。さらに、週刊誌の連載等において、文科省による大学入試の変更に疑問を呈するとともに、国立大学に対する人文系、社会科学系、教員養成系の規模縮小や統廃合する方針を財界のビジネス一辺倒の提言に屈従していると批判し、返す刀で、そんな文科省に大学側が卑屈していると嘆く。まさに正論だ。

 ただ、息子さんの私立への受験失敗の話だけはいただけない。藤原先生が落胆し、神社詣でをもっとやればよかったとかいう話は、藤原家のことをおもしろおかしく披露しておられるだけとしても。

 俳優の石田純一さんは、テレビで泣いていた。不倫は文化と言う発言で、娘のすみれさんが名門私立に入れなかったと。浮気をして妻娘に悲しい思いをさせたのは懺悔して当然だ。しかし、受験失敗のことを後悔する必要はない。どこの名門私立か知らないが、親子面接で妻娘がいる前で、石田さんに不倫文化発言を詰問するのは、不見識もいいところ。そんな非常識な学校に学んでまっとうに育つと思うのか。現にそんなところに行かなくてもすみれさんは立派に成長したではないか。

 古い話だが私が神戸大学に入った頃、専門課程の前なので教育学部の学生とかが一緒で食堂にも女子がたくさんいた。男子に見苦しくへばりついているのが結構目についたが、ほとんどが女子高出身者であった。

 都立日比谷高校が復権しつつあるように公立高校の意義をもっと見直されてしかるべきと思う。

 佐藤先生が本年5月に上梓された『知性とは何か』(祥伝社新書)を読んで、違和感を覚えた。先生の本は結構読んできたつもりだったが、変節されたのか、それとも、今まで抱いておられた想いが先鋭化してきたということなのか、疑問に感じた。

 自他ともに認める反知性主義の私は、本ブログのかつての号で日本のトップは官僚出身の大物がいいと言い、今はいないのか、それとも頭角を現す機会が与えられていないのかと書いた。知性主義の権化ともいえる佐藤先生は、今回の本の中で現政権を反知性主義と批判している。ともに時の政権に対する見方は同じだ。

 しかるに、沖縄の問題では、母方により沖縄にルーツを持つ佐藤先生が沖縄と日本政府の間でのレフリー役を担ってくれるのではと(勝手に)期待していたが、いつのまにか沖縄サイドのセコンドについてしまわれたかのようだ(私の思い過ごしであればよいが)。 

同書の4章で、沖縄人の自己意識を4つのカテゴリーに分け、佐藤先生自身は、沖縄系日本人ではなく、日本系沖縄人というカテゴリーに属するとしている。沖縄県と日本政府との対立から沖縄人と日本人との対立へと民族問題をクローズアップさせたように映る。

 さらに、第5章において、「このような状況において、日本系沖縄人という自己意識を持つ多くの沖縄県民が、中央政府への反発を強め  (中略)  スコットランド型の分離独立運動に向けて沖縄が舵を切っていく可能性も排除できない」と書いている。

 スコットランドの独立騒動は、スコットランド王国が「グレートブリテン(イングランド、スコットランド、ウェールズ)及び北アイルランド連合王国」、いわゆるイギリスから連合条約を廃棄し離脱・独立するかという問題で、いわば民間企業における対等合併の解消、というよりは業務提携の解消に似ている。現に1922年にはアイルランドの南部がイギリスから離脱できている。

沖縄の独立はそれとは違うと思う。1879年「琉球処分」(処分とはいかがなものか。何かもっとよい表現はなかったのか)で沖縄は日本に組み入れられた。民間で言えば、日本企業が沖縄企業を吸収合併したということだ。沖縄企業の社員が自分たちだけの会社を創りたいと言えば、日本企業を辞めて出ていくしかない。沖縄に秋波を送る中国の広大な大地の一隈に中国朝鮮族と同じように中国沖縄族として生きていくのかもしれない(もっとも中国は沖縄の人ではなく、領土が欲しいだけだと思うが)

カタルーニャ人(カタラン人ともいう)が多く住みスペインから独立したいとするカタルーニャ州では、この9/26に州会議選挙が行われ、独立派が過半数の議席を獲得した。しかし、裕福なバルセロナを州都とするカタルーニャ州に自治拡大を許しても、それでなくても高失業率等経済不振に苦しむスペイン政府が国からの独立を認めるわけがない。どうしてもとなれば内戦に行き着く。他国からの援軍がなければ大弾圧に帰する。

沖縄県知事も国連などで民族対立の問題として言ってはいけない。あくまで、国と県双方、日本の親子の問題と捉えるべきだ。

子供が文句を言えば、多すぎる小遣いを与える。愛情のある親ならそんなことはしない。子供もそんなことで親の愛情を感じるわけがない。子供も言い過ぎれば、母親が子供の頬をたたき、「お父さんに謝りなさい!」というハズだ。

心が離れてしまった親子、まず親が子に真の親心を示さなければならない。

2015.9 NO.51 んかんろん VS んかんろん

 北朝鮮のかくいき(核兵器)に、かくいき(拡声器)で対抗する韓国。

『悪韓論』(室谷克実氏)は日本人が書いた嫌韓論。『韓国人による沈韓論』はベストセラーになった『韓国人による恥韓論』に続いて韓国の一市民が上梓した韓国の「自嘲・自責」。

 親日的な言動をすれば血祭りにされそうな今の韓国社会にあって、その勇気と教養の高さには、戯言しか書けない私にとっては敬服に値する。

 著者のシンシアリーは匿名だが、日本で日本語で出版してもベストセラーを韓国諜報員が見ていないハズはない。沈韓論の著者プロフィールだけでも、1970年台生まれ、歯科医、何度も日本へ出国と的を絞ることができる。韓国当局は本人を既に特定していると思う。今もブログ(「シンシアリーのブログ」)を続けているのであれば、韓国外向けならばいいのか。それとも、怒れる日本国民のガス抜きになればと見ているのであろうか。

余談だが、私の本ブログも名前を公表していないが、私自身匿名だとは思っていない。神戸高校21回生と名乗っており、生年月日もブログの中で特定できる。調べればすぐに誰だか分かる(それだけの値打ちがあるかだけの問題)。ネットの怖さについては少しは知っているつもりだ。年明け『ネットVSシット』で身近に起こった悲劇を紹介したいと思う。

 それはさておき、日韓双方の韓国論を読み私が思う韓国の大きな問題点の一つは下記の点だ。

 中国から伝来した朱子学の影響か、汗水たらすことを嫌い、物づくりを見下し、昔の両班になりたがる。それが高学歴社会を生み出すのか。白鳥になりたがるが、白鳥の水面下の足の動きは見ようとしない。来月またノーベル賞の発表があるが、韓国は受賞を悲願と言うが、そのための地道な基礎研究はやろうとしているとは思えない。

 子供が「夏は暑い。冬は寒い。春秋は気候が良すぎる。家庭教師をつけてくれない、隣の家がうるさい。だから勉強できない」と言ったとすると、私なら甘ったれたこと言うな!と張り倒す。バカ親は、隣の家に文句を言いに行く。隣の住人は「うるさくしていない。かえって気を遣っている」と反論する。バカ親は「申し訳ないけど謝ってくれないか。それで本人は納得して勉強してくれる」と言い、隣人は応諾した。それで済んだハズなのに、後で受験に失敗したのは謝った隣人のせいだと親子一緒になってわめき立てる。慰安婦問題における河野談話の顛末もこれと同じ構図だ。

 日本の国益を大きく損なうとともに韓国にとっても為にならない。

韓国の歴史を見ると、ずっと隣国に支配されている。地勢的には中国大陸の盲腸みたいものだが、中国に同化せず、朝鮮民族としての誇りと独立心を持つも、大国に属国を強制され、朝貢を続けてきた歴史を見れば、シンシアリーさんが述べているように被害妄想に韓国人がなってもおかしくはない。また、長らくの中国支配は北朝鮮の問題とばかりに知らんぷりし、韓国は、小中華思想に戻り(9/3中国・抗日戦勝記念行事に朴大統領と藩国連事務総長が出席予定)日本をののしるのは、屈折しているとも言える。

島国日本は恵まれている。蒙古襲来のときには神風が吹き、第二次世界大戦で連合国に敗れたが、占領したのは米国だった。当時父は神戸で母の住む家の二階に下宿していた。近くに米軍キャンプがあり、敗戦が決まると、私の祖父は、慌てて二十歳になったばかりの母を二階に住む父に嫁がせそのまま所帯を持たせた。その1年後に兄が生まれ、その4年後に私が生を受けた。パンパンと呼ばれた女性たちに盾になっていただいた面もあるが、米国でまだ助かった。占領したのがソ連や中国であれば、黄文雄氏は『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』(20115月発刊)を書く気が起こらなかったことだろう。

 私など足元にも及ばないほど辛口の高山正之氏は週刊新潮の連載『変見自在』(2015.8.1320)で沖縄は朝鮮に似ているとし、『韓国人翁長』と題し沖縄県知事を皮肉っている。去年の同コラム(2014.10.23)では、『嫌蘭論』と題してオランダ人の狼藉ぶりを披露し、オランダ人の祖は韓国人だと聞いても驚かないと結んでいる。

 諸悪の根源と言わんばかりだが、遠いオランダはまだしも、韓国とは昔は陸続き、DNAも一番似ているだろう。いわば遠い親戚なのだから、関わりを持ち続けざるをえない。

しかし、シンシアリーさんは、沈韓論のP130にて話しても無駄だと断じている。反日ありきで、歴史的事実も証拠も関係ない。反日教となれば恋愛と一緒で反対すればするほど燃え上がる。とすれば、どうすればよいのか。

私は長男をよく叩いた、小学校の低学年までは。話しても分からないから痛さと怖さで止めさせた。遅くとも中学生にあがってからは長男に手をあげたことは一度もない。

反日プロパガンダには看過せず適切に対応し、金融・経済面にて痛みを感じさせるしかないのではないか。

社会のものさしは、韓国では「上下」 (中国は「貴賤」、日本はさしずめ「和」か?)と言われる。下手(したて)に出ても何もいいことはない。私の身近な体験においても(妻が読むかもしれないので子細は書けないが)そう思う。

お人よしの日本はすぐに甘い顔を見せるが、兄弟の関係よりも距離のある、厳しくて怖い“伯父”の姿勢を貫き続けることが、日本の国益にも韓国の為にもなるのではないか。たとえ反発されたとしても。


2015.8 NO.50 コンクラベ と コンクラベ

 コンクラーベと根競べ。本ブログが50号を迎えた記念として一字違いの定番をテーマとした。コンクラーベとは、カトリック教会の新教皇を枢機卿の中から選ぶ選挙が長引き、見守る信者が(根競べに)根負けし、外から鍵を掛けたことに由来する。

 1978年のコンクラーベも時間がかかり、3回目にヨハネ・パウロ1世が選出された。それはある勢力にとって最も都合の悪い教皇が誕生したことも意味した。

 カトリックに縁のない私でも好々爺的な感じのよい教皇だと思ったが、たった在位33日で逝去した。バチカン銀行の不透明な財政を改革するため人事の刷新が発表される直前亡くなったため、暗殺説が根強い。私も暗殺されたとみている。

米国ではケネディ大統領が暗殺された。軍産複合体説、CIA説、FBI説、マフィア説等諸説あるが、アガサ・クリスティ女史の原作を映画化した『オリエント急行殺人事件』ではないが、諸説のすべてが犯人ではないかと思う。身勝手に正義感を振り回す不都合な大統領を表も裏もみんなでよってたかって葬ったように思える。そうならば2039(きっと私は鬼籍に入っている)に証拠が公開されても真相が解明されることはないのかもしれない。

オバマ大統領は始めから黒人大統領として人種差別主義者から命を狙われるハンディがあった。ケネディ大統領とは違いサラリーマン大統領に徹したことにより消されることはなかったが、オーラが消えた。チェンジを旗印に颯爽と登場したが、止めると宣言していた前政権からの盗聴を継続しているのを曝露され、対中弱腰外交やシリア、ウクライナでの不決断と相俟って戦後最低の大統領か?と揶揄されるに至る。昨年の中間選挙では民衆がオバマ大統領にChange!と言った。

日本の場合、戦後暗殺された首相はいない。そういう意味では平和国家だが、そんな手荒いことをしなくともメディアによる世論誘導等により首相の首を簡単に取りかえることができる。海外からはそんなコロコロ首相が替わって大丈夫かと言うが、日本国民はそんなに心配していない。東大法学部の学生が中央官僚を目指すと言えば「おお、そうか!ぜひ日本のために頑張ってくれ」と激励されるが、政治家を目指すと言えば「?」か。松下政経塾も残念ながら松下村塾の役割を担えているとは言い難い。

米国では大統領が民主党から共和党に代われば、またその逆も、事務方も一斉に交代するが、日本では首相が誰に代わろうと事務方は同じ。なにも変わらない。これが不変である限り三蔵法師の掌で踊る悟空に過ぎない。小沢一郎代議士が「神輿は軽い方がよい」と言ったと伝えられているが、本当にそう思っているのは中央官僚かもしれない。首相官邸屋上でのドローンの放置を見れば海外も納得するだろう。

民主党政権は中央官僚と対決姿勢を取ったが、同世代で一番賢い者の専門集団に二世議員というだけでは太刀打ちできるハズもない。日本を牛耳っているのは、東大法学部卒を中心とする官僚・司法・メディア、政財界で構成するエスタブリシュメントと言えまいか。小泉政権、安倍政権に抑え込まれ、結束も弱まり、黒幕としての顔も見えないとしても。

 それならばこそ、日本は他国に比べてまだ正義がまかり通っているのではと思う。だが、権力は腐敗する。キャリア・ノンキャリの慣習による特権階級、裁判員制度、原発利権などはエスタブリシュメントの驕り、欺瞞ともいうべき産物と言える。特権階級で言えば、警視庁OBの作家濱嘉之氏は小説『警視庁情報官 サイバージハード』(P49)で登場人物に「残念ながらFBIは警察庁という組織を捜査機関とも情報機関とも思っておりません。」と言わせる。戦後日本の共産化が強く懸念された折反国家の兵力に転じる可能性がある全国の警察組織を監視監督する監督官庁としての意味は大きかったのかもしれないが、今では特権階級としての意味合いが色濃いのではないか。

 原発事故問題も、戦前の軍部と同じ構図だ。戦地の司令官は殉死し、トップはA級戦犯に処せられるが軍参謀は責任を問われない。東電の吉田元所長は殉職し、トップは起訴されたが、経産省は責任を取らないし、焼け太りを図る。

これらを一度ガラガラポンにすることも一つの方向性ではあるが、本当にそうするかもしれない者は未然に潰される。小沢一郎元民主党代表は検察により総理就任の芽を摘まれ、妻にトドメを刺された。橋下徹大阪市長は刺激を与えられると自爆した。

 世直しできる本物の実力と気概のある傑出した人物がいないとなると世直しはゆっくりとしたスピードでしか進捗しないだろう。

 ただ、権力者としてのエスタブリシュメントに媚びず巻かれずの人たちが出てきた。内部告白、暴露という手段を持って。これらは一昔負け犬の腹いせと見られ忌み嫌われていた。ところが、スノーデンは恋人や未来ある人生を自ら捨て命を狙われても米国の機密を曝露した。日本のおいても古賀茂明氏はエリートキャリア官僚の身分でありながら官僚システムを内部から批判した。さらに、取る物を取ってから後ろ足で砂をかけるのかというそしりを受けても、義憤を抑え切れない人も出てきた(それだけ酷いということか)。北海道県警の原田宏二元道警本部長は道警の裏金問題で声をあげた。元裁判官の瀬木比呂志氏は『絶望の裁判所』を上梓し、裁判員制度創設の内幕を暴き時の最高裁長官をやり玉に挙げた。

これらの流れは特定秘密保護法で下火になることになるのか。時の政権と官僚は情報統制、言論統制では一枚岩だろう。少し前、降板をめぐる報ステバトルで古賀氏はミソをつけたが、朝日が反省すべきは、反権力ではなく、反日だったハズだ。メディアが去勢されていけば孫の代が心配だと言えば、私も被害妄想と思われるのだろうか(第一部 )

2015.7 NO.49 アンナカレーニナ VS アンナカレーニ

 一昨年妻の実家を立て替えて住むために家財を整理していたところ、河出書房の『世界文学全集』が出で来た。妻に聞くと、中学生の頃か父に買ってもらったが全然読んでいないと言う。私も子供の頃本を読むのが好きでなく、純文学などはほとんど読んでいない。もうすぐ毎日日曜日になるからと思い全25巻残しておいた。

 分厚いものからと思ったのが大間違い。文豪トルストイの『アンナカレーニナ』を読み始めたが、なんとも長い(907頁、約122万字)。文学者は完全無欠と称賛するが、浅学非才かつ短絡的思考の私にとっては、典型的なキリスト教啓蒙小説にすぎない。要するに、不倫する主人公は悲劇的な末路を辿り、貞潔な妹は幸せな人生を送るとしか読めない。

 日本の妻は、キリスト教信者でなくとも貞節を守る。日本でも、夫の留守中に自宅のベットに男を誘い入れる肉食系妻も出てきたが、そんなのは稀だ(と思いたい)

 夫の浮気、妻の不倫、という呼び方が似合うように、妻に対しての方が世間の風当たりは強いようだ。

夫のおイタと違い、子供がいる妻が不倫、ひいては離婚に走るのは相当の覚悟がいるだろう。踏み切るのは夫への強い不満、とくに夫の裏切り、浮気であろう。夫の浮気に対し堪忍袋の緒が切れあてこすりの意味で不倫するのではないか。故ダイアナ妃しかり、フックンと別れた奥さんもきっとそうに違いない。

経済的な問題だけでは妻は揺るがない。やくざや借金取りが家に乗り込んでくるようなことがない限りは。夫の中身をみて結婚した妻というものは家計が悪化し生活レベルが急落したからと言って、他の男に走ったり離婚するものではないと思う。妻は自分が働いて家計を助けようと思うだけだ。夫の才能を信じ夫の目が死んでいない限り妻は夫を見捨てない(と信じたい)

 「杏奈カレーにしな!」とレイザーラモンHG(本姓住谷正樹)さんは夕食の献立で妻に偉そうに言えるだろうか。ハードゲイの恰好と「フォー~」と両手をあげるパフォーマンスで一世風靡したHGさんはその後プロレスの道に行ったのが悪かったのか怪我をして一発屋芸人の仲間入りしてしまった。HGさんに第二の有吉弘行さんになってもらうことを願い、妻の住谷杏奈さんがママタレとして奮闘し、家計を支えている。なりふり構わない言動はネット攻撃の餌食にされた感もあるが、その姿は私には健気と映る。

世界的演出家蜷川幸雄さんは、売れない俳優から演出家に軸足を変え、「その頃長女(映画監督の蜷川実花さん)が生まれ、それから6年間専業主夫をしていた」とテレビで言っておられた。1978年に奥さんの真山知子さんが女優休業を宣言するまで。結婚自体周りから反対されていたらしいが、奥さんは蜷川氏の才能を見抜き惚れていたのだろう。

それでは、妻からリスペクトされていない夫はどうなるのか。ダメよ~ではなく、ダメよ!ダメダメと私をよく叱責する我妻は「何か一つでも自分の事で良いと思うことがあれば言ってみて!?」と毒づく。「甘やかしすぎていたと今反省しているの」とのたまう。妻は私のことを今や出来の悪い子供と思っているのかも。私は母性に救われているだけかもしれない。

 乳飲み子をおんぶしながらの家事を厭わなかった敬服すべき蜷川氏と違い、出来の悪い私は自ら進んでではなく、妻から命じられて仕方なく専業主夫になる。料理は好きだが、掃除、洗濯は嫌いだ。妻が勤めを辞めれば済む話なのだが、60歳定年まで少なくとも2年間は働くと言う。今頃になって仕事に対する意欲と責任感をみせる。こちらは「すまじきものは宮仕え」の心境。我慢料(給料)の為に我慢するのが我慢ならなくなってきた(周りから我慢していたのはこちらの方だと怨嗟、怨嗟の合唱が聞こえてきそうだが)

 職業欄は「無職」となるのか。65歳で年金生活に入るまで40年以上に亘る企業活動等を通じて少しぐらいは世の中のお役に立てたのではないか。今別居とは言わず結婚生活を卒業するとの「卒婚」と言う言葉が生まれているが、職業生活を卒業するという意味で「卒職」と書かせてもらいたいものだ。

「愛川欽也さんは息を引き取る寸前まで仕事に行こうと言っていた」とチクリと言う妻は私が銀行を辞める折一生働くからと言ったことを忘れていない。「ろくでもないブログエッセイを書いている暇があるなら、お兄さんを見習って何かボランティアでもすればどうなの!?」と嫌味を言う。私の兄は長年の趣味のエレキギターをスチールギターに持ち替えて、仲間とハワイアンバンドをつくり、老人向け施設の高齢者を慰問する演奏活動に勤しんでいる。 

そう言われても、特技はないし、大した資格も持たない。強いて言えば事務局代行ぐらいか。20年間2つの団体で事務局長をしていたから。しかしそれに入れ込んでしまえば卒職した意味がなくなる。

四季のある人生の冬の時代に死出の旅の準備と思うのだが、そう妻に言えば、「準備なんか要らないから、とっとと逝けば!」と言われるのがオチだ。





2015.6 NO.48 ケメン と ケメン

 『ラーメン、つけ麺、僕イケメン』とは、お笑い芸人狩野英孝さんのキャッチフレーズ。イケメンとは言い難いがブサ男でもないところに狩野さんの妙味がある。

 私は、ラーメンは好きだか、ツケメンは嫌い。イケメンはもっと苦手だ。

 神戸っ子だった私は、薄口醤油がベースの透き通ったスープと芯のあるストレート麺が好きで、その芯が消えて伸びてしまわないうちに一心不乱に食べ切るのが常だった。

 今までで一番美味しいと思ったのは、昭和46年頃大学生の時家庭教師のバイトからの帰り道みぞれまじりの寒い夜道を23キロほど歩いて、やっとの思いでたどり着き食べた一杯のラーメン。屋台に毛の生えたラーメン屋で週に一度は食べに行くにもかかわらず、こんなに美味しいものだったかと驚いた。高額な物を食べてもアントキほどの感慨は得られていない。

 冷え切った体に、あったかいんだから、そう感じたのかもしれない。その頃『人間の條件』がTVで再放送されていた。最終回加藤剛さん扮する主人公が屋台の饅頭を盗み妻への土産としてそれを握りしめて雪の中で死んでいった。あの夜のラーメンの経験で私は「アツアツの饅頭を食べておれば妻と生きて再会できたのに」と歯ぎしりしたものだ(作家にとっては主人公が死なないと物語が完結しないのであろうが)

 昭和33年ラーメンに革命がおこった。日清のチキンラーメンの誕生だ。私はコマーシャル通り、どんぶりに即席めんを入れ3分間待つのが待ち遠しかった。勇んで蓋のお椀を開け一口食べたが、チキン味が合わなかったのか油なのか頭が痛くなってしまった。大きすぎた期待の反動でトラウマとなりそれから56年間は味付け油麺を食することができなかった。それで乾麺のマルタイ棒ラーメンをよく口にしていた(スープが濁っていると思ったが、とんこつ味いうことは当時知らなかった)

チキンラーメンは私の落胆をよそに半世紀以上のロングセラーを続けており、芦田愛菜ちゃんの「チッキンラメーンちょっぴっとだっけ、好っき~になってってっとってっと・・」の愛らしいコマーシャルソングは記憶に新しいが、いまだにCMに力を入れている。

 昭和46 年第二のラーメン革命が起こる。今度も日清食品によるカップヌードルの誕生だ。またしても、普通の人が味わえる小さな喜びを自分は共有できないのかと恐る恐る口にしたが、セーフだった。それでも定番のコンソメ味ではなくカレーヌードルを好んで食べていた。

つけ麺は、食べない。文字通り「つけ麺の神」となった故山岸一雄氏の東池袋「大勝軒」も行ったことがない。アツアツのつけ汁に冷やした麺を入れるのが分からない。家庭料理研究の第一人者故土井勝先生は、「体温に近いのが一番まずく感じるものなんですよ。冷たいものは冷たく、熱いものは熱く」と海軍経理学校出身の強面の顔をこれ以上ないほどにこやかにしていつも言っておられた(イケメン、と言っても今や白髪交じりのオジサンになってしまったが、次男の善晴氏が後を継いでいる)

麺が冷たいのが嫌なら「あつもり」があると言われる。それならラーメンでいいじゃないかと私は理屈をこねる。

 副都心として再開発が急ピッチに進むJR大崎駅の近くで品川区大崎2丁目12と西品川3丁目21との間を西に上ると百反坂通り(近くには商店街に銀座名の使用が初めて許された戸越銀座商店街)がある。再開発とは無縁の昔ながらの通りにランチにたまに寄る天ぷら屋があった。数年前そこに行くときに斜め向かいにすごい行列の連なった店があり驚いた。店の前ではなんと列がどくろを巻いていた。噂に聞く六厘舎がこんなところにあると知りまた驚いた。近所迷惑ということでこの本店は閉鎖された。意を決して一度ネット通販で注文したが、結局食べることなく子供達の胃袋に消えた。喰わず嫌いはいまだ続いている。



女というものはそもそも面喰いだ。もっとも男も美人が好きだ。違いと言えば、女はイケメンに振られた直後は「男は顔ではない。優しさと生活力だ」と思い直す。

 かれこれ40年近く前私がまだ独身の頃、僚店のイケメン行員が閨の睦言ならぬ失言をして傷ついた当店の新入女子行員が辞めて故郷に帰るという事件が起こった。そうとは知らず支店長に応接間に呼ばれた。「お前のことを二番目に好きだと言っている」と高校の大先輩でもある支店長に言われたが、藪から棒で頭が○☓△となり、裏をとった。新入行員を早々と辞めさせては人事部への聞こえが悪いと支店長は思ったらしい(まったく!)

こんなのは論外だが、イケメンにあたって砕けるとこちらに好意の眼差しを向けてくれることもあった(「もしかしてだけど、もしかしてだけど」の歌マネと同じで妄想だと妻は相手にしない)が、何だかイケメンの尻拭いをさせられる気分になったものだ。

 人気者のイケメンもそれを維持するは容易くない。美人は飽きると言われる。顔が商売のイケメン俳優もたいへんだ。速水もこみちさんは、趣味の料理で、美木良介さんはブレスダイエット(どっちが本業か分からないほど)で新しい商品(俳優)価値を生み出している。

 人気のラーメン店も顧客が味に慣れてしまうと味が落ちたと足が遠のいてしまうと言われる。すぐれた店主は日々味を進化させて客に味が変わっていないと思わせる。

 企業も同じだ。少しでも胡坐をかいたり、ゆるんだりすると外資に狙われるスキが生まれる。1960年前後の即席めん業界の草創期から日清食品とライバル同士しのぎを削っていた、チャルメラでお馴染みの明星食品が50年後他社の子会社になった。よりによって日清食品の軍門に下った。友好的TOBにより日清食品に救われたとはいえ、明星食品の社員の忸怩たる想いはいかばかりか。その気持ちは痛いほど分かる。







2015.5 NO.47 ブル と ブル (2)

こうした状況下、政策投資の評価損の問題だけではなく、私自身の運用も傷ついていた。平成4年の正月休みの間ずっと「正月明けの大発会では日経平均の先物を売るぞ!」と心に決めておいたのに、1/6大発会で場が立つと、どうした訳か、買ってしまった。それから株が下がり続けるのだが、ナンピン(難平)し続けた。所詮大口の売れない株を所有している以上「相場はいずれ回復する」との希望的見立てしかできない。「下手なナンピン素寒貧」との格言があるが、最初は周りの部下の人たちも心配して声をかけてくれていたが、事態が深刻になってくると近づかなくなった。運よく後に相場が回復し8月から9月にかけて手仕舞いができ無限難平(無限地獄)にならずに済んだが、その時は知る由もなく、頭も心も痛かった。それに追い打ちをかけるように大蔵省検査が入った。その前に決算対策として、企画担当役員から国債先物で1兆円単位の両建てを命じられることがあった。相場が動き、どちらか含み益が出た方をクロスを振り益出しする。証券部長に就任したときから変なことはしないと心に決めており「そんなことをすれば大問題になる」と抵抗したが、押し切られた。案の定、大阪証券取引所から連絡が行き大蔵省の出先機関近畿財務局からお叱りを受ける羽目に陥った。その後の大蔵省検査であるから、何か変なことをしているハズだと検査官に色眼鏡で見られた。我々実務家の新しい手法が後追いの検査官は理解できず、なにか裏があるだろうとの見方に終始した。私はともかくとして部下はみな優秀で真面目な者たちだったので、口惜しさで一杯になった。

 それに前後して、出来の悪い天下りトップが、何を勘違いしたのか、出張中の、生え抜きトップの会長に、証券部に関することで告げ口したものだから、大騒ぎとなったこともあった。

 そんなこんなで、前編(1)の冒頭の「最低! 三途の川!」発言に至る。


 平成48月ぐらいになると、これまで私がすることを静観していた総合企画部がいろいろと口出ししてきた。非常にやりづらくなったと思っていた矢先蓄膿症が悪化し、9月中旬入院することになった(その時の経緯は20129月掲載の15号「ハブ カブ」に記載している)

 私に好意的な役員らが入院のどさくさに紛れて融資企画部に横滑りさせてくれた。

 しかし、融資企画部に行って、愕然とした。プロジェクタに大口の不良債権の内容が映し出されるのだが、ゴルフ場の造成段階でとん挫している案件や、竣工し運営しても決してランニングコストが賄えないリゾートホテル案件(設計段階で設計変更もなされ十数億のお金が既に出てしまっている)など債権回収が不可能と思える案件のオンパレード。

 そんな債権をどう回収するのか、件の天下りのトップが陣頭指揮をとっていた(わざわざ進んで火中の栗を拾うのだから人は悪くないのかもしれない)

 私は絶望してしまった。証券部では元本の問題はさほどなく利益の問題たけであったが、融資部門においては、不良債権により金利が入って来ないP/L上の問題とそれ以上に問題な、顧客から預かった大事な預金に見合うハズの融資債権が紙切れとなるB/S上の問題とダブルに銀行を傾城させる。

 私の必死さは怒りに変わった。もはや建設的な意見は言わなくなって行った。さすがに好意的な役員たちも捨てておけぬとなり、平成55月に私を支店に放出させた。その年の年末に20年間務めた銀行を退職した。

 私に好意的だった役員らは皆平均余命をかなり余らして他界している。銀行全体の内情を把握しなんとかせねばというプレッシャーやストレスは私の比ではなかったことだろう。癌で逝ったのだが、つくづく癌の餌はストレスだと思い知った。

 好意に報おうとしなかったお詫びはもうできないが、墓参りはしたいと思っている。

 退職のつい3年程前では、都銀が関係会社の運営を視察に来ており、小さい銀行も捨てたものではないと内心喜んでいた。このまま役員になればいずれ実務から遠ざかっていくだろうが退屈しないか。若い頃何も知らずあこがれたアカデミックな世界に身を移すことはどうかと能天気に考えていた。抜け出せないブラックホールへの軌道に入り込んでいるとも知らずに。

 平成61月社団法人の設立に参画すべく上京した。たしかにアカデミックな組織の事務局に身を置いた。しかし、地位を捨てての華麗なる転身ではない。敵前逃亡と言われても、そのそしりは甘んじて受けざるを得ない。

 それでも、ともに株価に翻弄された戦友として、小さくない金額だったが、山一を除く大手3証券が餞に4口入会してくれた。

証券部の2年間は、生前母親が妻に向かって私の事を「のんきやろ!?」と評したこの私でも、土日は居ても立っても居られないという気持ちになっていた。職業人生を振り返ってみて、あれほど真剣に仕事をしたのは後にも先にもほかにはなかった。







2015.5 NO.47 ブル と ブル (1)

 銀行の証券部時代の一時期私の部下となり、その後総合企画部に移った後輩と十数年振りに再会したとき、「(銀行の生え抜き)トップ3を三途の川と呼んだらしいですね」と言われ、そんなこともあったなと思い出した。

平成4年に大蔵検査が入った。その主任検査官との部長面談の折確かにそう言った。その頃大蔵省から天下りでトップが来ていた。人質なのだからできの悪い人を招へいしたと噂されていた。たしかに、平時では問題ないが、有事には大事な局面で出来の悪さを発揮して困らせた。私も迷惑を被り腹に据えかねていたので、主任検査官の面談で、最低だ!と言い、返す刀で、当時生え抜きトップ3人がH川会長、I川副社長、H川専務と姓に川がつくのでそう呼んだ。今考えてみれば大蔵省の検査官にそんなことを言っても何もいいことはないのに、それだけ追い詰められていたのだろう。銀行を助けてくれと何度も言った。主任検査官は「何様のつもりか!?」とあきれて印象に残っていたのだろう。

 その時はまだ辞職する気持ちにはなっていなかったが、帰属意識はすでに薄くなっていたのかもしれない。また、その頃からキャリア官僚としての特権階級を疑問視し始めた。優れた人が処遇されるのは特権でもなんでもない。一度国家上級試験を通っただけで、できの悪い人も終身処遇されるのはコストが無駄であるし、第一周りが迷惑する。

新宿支店から証券部に移って1年が過ぎた平成3年の秋頃か、私自身は日経平均先物で日々勝負し、さらに、日経平均先物のオプション取引をしていた。6ヶ月後に日経平均が想定水準を割っていなかったら5億円がタダ取り(プットの売り)できるもので、5億円を2本タダ取りしたこともあった(噂によると、某投資顧問事件でこれを私の100倍の単位で勝負し負けたと聞く)。ただ、大蔵省検査では褒められるどころか銀行経営になじまないと叱られた。

だが、どちらにしろ大したことではなかった。当時銀行には売れない株が1,500億円もあった。銀行同士株を持ち合いしていて、下がると分かっていても売れないのだ。その株の管理は隣りの資金部が管理していた。私がいた証券部はそれを先物でヘッジする役割を担っていた。元々1,500億円の半分しかヘッジできないし、ヘッジして逆に株が上がれば多額の評価損を抱えることに理解を示す人はいない。そこで、担当役員に「素人の私が証券部長をやっているぐらいだから、資金部だって先物はできる。資金部に先物の売り買いの権限を委譲したい」と申し入れた。すると意に反して、「君がそこまで言うなら、1,500億円の株を証券部で管理すれば」と言われてしまった。策士、策に溺れるではないが、やぶへびとなってしまった。さぁ大変! 銀行の命運が私の貧相ななで肩にのしかかってきた。

 当時は時価発行増資が行われており、額面50円の株を例えば1,000円の時価で発行することができた。一株当たり950円の返さなくてよいお金が集まるということになる。

 打出の小槌よろしく、私の居た銀行は他行よりも頻繁に時価発行増資を行った。だが、発行すれば株の引き受け手が必要となり、他の銀行に頼むと同じように株を引き受けざるを得ない。それで株価変動リスクに耐えうる銀行体力以上の株が政策投資の名の下に膨らんで行った(時価発行増資の乱発のツケが証券部に押し付けられることになる)

 株が上がっているうちはよいが、バブルが崩壊し、株が下がってくると、銀行全体の利益に影響してくる。バブル崩壊は不良債権の増大をもたらし、本業収益の悪化をカバーすべく政策投資として所有する銀行株等をクロス売買して益出して簿価を上げてしまう。当時株の評価は低価法がとられ、期末に株の簿価より時価が下がれば評価損を計上しなければならなかった。

 平成43月末の決算、できるだけ株価を上げたいとする金融機関の思惑を見透かして外資が売り浴びせてきた。所有する大口の銀行株の売り気配に買いを入れて消そうとしたが、“B29を竹やりで突く”というのはこういうことかと嘆息した。

 一難去ったと思ったら翌日新年度(平成4年度)の初日からほぼ総銘柄において株価が続落し(3/31日経平均19,345円、4/916,598)、ノアの方舟の大洪水のごとく所有株がすべて水浸しになってしまった。1週間で評価損が年間の業務純益の1.5倍まで膨らんだ。期末までに株価が戻らなければ、前代未聞の銀行の大赤字となる。1年間全行員が汗水たらして得た利益を期末1日の株価次第で帳消しして余りあることになる。それは、株式不況の最中、すこぶる現実味を帯びていた。


2015.4 NO.46 せん と ゆせん

入学シーズンが到来した。新入生たちは期待と不安で緊張した面持ちで入学式に臨む。はたして今年はどうなのだろうか?

昨年埼玉の50代の女性教諭が担任の入学式に出席せず自らの子供の入学式に出席して物議を醸した。教育長は自らの子を優先するとは許せんと異例の注意喚起を行った。

子供が小学生にあがるのならともかく高校生の息子に付き添ったということでは私としては同情できない。私が高校受験した49年前の当日の朝、私は進んで勉強するタイプで日頃受験に無関心を装っていた母親が受験会場まで一緒についてくると言い出した。気遣いは嬉しかったが、そんな恥ずかしいことは止めてくれと駅まで走って逃げた。

高校生になった男子なら、心細いというより、母が教師として担任の入学式に出ていることを誇らしげに思うハズだ。母親が子離れ出来ていないだけだと思う。

聖職者としての自覚をもてとの教育長のお達しに対する反応において、いろんな意見があってしかるべきとは思うが、ネットで反対意見が過半数を占めていることには驚いた。

当時の週刊誌によると、それらの反対意見に対して、普段オネエ言葉の尾木ママ(教育評論家尾木直樹氏)が聖職の観点から一人猛然と反論していたのには尾木ママの男気を感じた。

反対意見は、「自分の子供がかわいいのは当たり前だ」「年次休暇を取って何しても勝手だ」「校長が認めている」などで、そこには聖職者としての視点がない。

我々と同じ一労働者と言うなら「教師」ではなく、教えることが仕事の「教仕」でよいだろう。

48年前神戸高校2年の折別府に船で修学旅行に行く際、550名の生徒を講堂に一堂に集め川﨑汽船の担当者がガイダンスした。「万が一の時は船の一番高い所に登ってできるだけ遠くにお飛込みください。」と。不安を煽らないようわざと“お飛込み”と面白く言っていたと同窓の女子が覚えていた。学校側の未来ある命への気遣いと責任感を感じさせた。

昨年416日の韓国の旅客船沈没事故(300名以上の修学旅行学生等が犠牲)の折、最後まで船と運命を共にすべき船長らがさっさと逃げ、助かった引率の教師が首をつって自裁した。前述の教育長に異を唱えた人たちは、「自らに非がないのだから何も死ぬことはないだろう」と言うのか。親から預かった大事な子供達を守れなかったことに対し命で償った。心から冥福を祈りたいと言うほかはないだろうに。

多忙、体罰、いじめ問題、モンスターペアレンツなど教師は疲弊・委縮し、校長はそんな教師のなれの果てなのか? 私が通った中学校は当時神戸市内で3本の指に入る柄の悪い学校だったが、不良たちも先生には逆らわず、ましてや手を出すことは絶対しなかった。

一体どうして教師がこんなに軽い存在になってしまったのだろうか?

教師と並んで先生と呼ぶ代表格の医師も同じだ。「医者の不養生」と言う諺がある。養生を説く割には医師自身はかえって不養生なのを揶揄しているのだが、それは自身の健康よりも患者のそれを優先している為だと思う。私の主治医も前立腺がんを調べる生検を私に再三勧めていたが、自身はすい臓がんで6か月程であっという間に逝ってしまった。好感のもてるよい女医だったが、頭の中は患者のことで一杯だったのだろうと思った。

今さだまさしさんの小説の映画『風に立つライオン』が封切りされているが、現実の世界においても西アフリカでエボラ出血熱の治療にあたる国境なき医師団に頭が下がる。

フクシマ原発事故当時放射能漏れの中逃げずに患者を診続けていた医師がいた。避難した医師の中には罪悪感に苛まれた人がいたという。それでこそ医師というものだ。

 こんなに儲かるのだと言わんばかりに何かにつけスポンサーに名乗りを上げる整形外科医がいるが、美容整形はそんなに儲かるのか。

 これを見て、何かあるとすぐ訴訟される外科を嫌い整形外科に走るなら、医は仁術ではなく算術。ハリー・ポッターの世界ならそんな医師は石に変えられるだろう。

 我々庶民の夫婦のライフスタイルも変わった。我妻が「今は幼児を連れて夫婦が外出するとき夫が抱っこしている。私たちのときは妻が抱いていた」と言った。確かにそう言われればそのようだ。お産の時も今は夫が立ち会うらしい。私は女の正体・本性を見るようで怖く絶対に立ち会いたくはない(無痛分娩なら眠れる森の美女かもしれないが)

子供の運動会等も、「父親がいない子もいるのに、(父親が)いるだけで・・・」と休みなのに行かないことが多かった。今は当時変にイキがっていたと後悔しており、オシメも替えるなど夫が積極的に育児に協力する今の流れはよいことだと思う。

ただし、100%の賛同ではない。私の所属する協会での話。子供の卒業パーティーか何かがあると若手委員から連絡が来た。「それはおめでたい。ん、それで?」と聞くと、協会の行事に出られないと言う。学校のか近所でのパーティーか知らないが、奥さんだけが出れば済むだろう。旦那も必要となら土日にすればよいではないかと思うが、部下でもないし、手弁当で協力してもらっているので余計なことは言わない。ただ、遅れても顔出すぐらいの思い入れもないのなら、責任のある協会役員には推薦できないと思うだけだ。

 古い奴だと思われるかもしれないが、時代が変わり日々進化するとしても、変えてはいけないものがあるハズだと思う。



2015.3 NO.45 かけがのない  かけがのない

 少し前四十の独身男が会社を辞し私が所属する団体の委員も辞めた。いろいろあったが有志で送別の宴を催してあげようと声をかけたところ、「出ないといけませんか?」と当人に言われ、35年以上前の遠き日のことを思い出した。

昭和491月神戸から新宿支店に転勤となった。新宿支店の先輩たちはゴルフに夢中になっていたが、その頃若き尾崎将司プロが快進撃を続け日本トッププロの座をかけ登っていた。当時ツイッギー女史に端を発したミニスカートの流行がまだ続いており、新宿支店でも女子行員が少し前屈みになるとパンツが顔を覗かせていた。

パワハラによるセクハラは当時でもあったが、まだ大らかな時代であった。今なら完全にアウトな私だったが、それでもスキンシップとはいえ女子に触るのは躊躇した。ある一人の女子を触ると、触られた本人ではなく、他の女子が「あの子に気があるのだ」「依怙贔屓だ」とうるさかった。他の女子たちにも同じことをさせられる羽目に陥るので、めんどくさいのだ。今の若い人は信じないだろうが、そんな時代だった。

 その頃毎年新卒の女子行員が234月に配属されてきた。3月に入ると既女子行員の雲行きが怪しくなり、われら独身男性は期待に胸を膨らませた。期待に反する年はしかたなく来年に期待しようと思い直すのであった。

 あの年は不作。若手の中では中堅となっていた私は新人の二人の女子に声をかけた。「近々新入行員歓迎会を行いたいのだが」と問いかけると、二人揃って「出ないといけませんか?」と返事がきた。日本語が通じないのか。声のかけ甲斐のない返事に憤慨した。

 既女子行員もユニークだった(今はいいお母さん、いやお祖母さんになっていることだろう)。貸付係りの女子は昼間からにんにく臭をぷんぷんさせている。昼間から餃子を食べないといけないのかと聞くと、悪びれるどころか、「体が求めているの、フフフ」とあしらわれ、夜何してんだとあきれたものだ。

 昼間は淑女で、夜お酒が入ると淫乱(言い過ぎ!)になる、男子にとって理想的な女子(あくまで個人の見解)もいた。こちらも嫌いではなく、私のことだけ好きになってくれたらと言われもしたが、意気地がなかった(今にして思えば・・・・)。もっとすごい女子もいたが、触れるのはさすがに気が引ける。言えることは、男子寮の飲み会などで男どもは自慢したがる。女子よ、職場恋愛に気を付けろ! 本命でなければ言いふらされる。間違いない!!

 そんな飛んでる女子が多い中に、東京育ちなのにまったくと言っていいほどすれていない田舎娘のような女子が昭和534月に入ってきた。それが妻だった。妻と私は歓送迎会で一緒になっただけ。私か送られる方で妻が歓迎される方、ともに主賓席に並んだ。仕事は一日も一緒にしていない。一期一会で終わるハズが、神戸の男と福島をルーツとするあずま女が3年後に:結婚することになった。後年「僕たちは赤い糸で結ばれていたのだ!」と妻に言うと、鳥肌が立つ仕草をした。いつもながら可愛げがない。

 新婚旅行先の宮崎空港で拾った観光タクシーの運転手さんが、見合いか恋愛か聞かずともすぐわかると豪語した。「私たちはどうですか?」と聞いたところ、一瞬間があって「どちらでもない」と答えが返ってきた。恋愛だとペアルックだったり互いの荷物も一緒くたにどちらかにぞんざいに置く。見合いの場合は、服装もばらばらで荷物も自分の脇にしっかりと置くものらしい。私たちは、一応社内恋愛であるが、一緒に仕事はしていないし先輩の仲立ちもあったので社内見合いに近い。運転手さんはさすがに長年カップル(当時はアベック)を見てきたことはあるものだと感心した。

 妻が勤めていた時の銀行の支店長は、妻を頭がいいと言っていた。どう見ても脳ミソよりも脂肪の方が多いと思うのだが、社会的IQ(他人への気遣い、円滑なコミュニケーション力)が高いと支店長は見ていたのだ。道理で、IQは高くないが、社会的IQはもっと低い私は、「学校の勉強なんて社会に出て何の役にも立たないことがアンタを見ててよく分かった!」と七つ年上のアドバンテージもどこへやら妻にいつも見下げられていた。

妻は銀行の女性の先輩たちに騙されたと愚痴る(当時私は独身ということもあり、女子達での評判は珍しく悪くなかった)。「チープすぎる玉の輿に乗ってやったつもりがいつの間にかボロ神輿を担がされていた」とぼやく。

しかし、妻は、口では違うことを言っていても、どんな亭主であれ一旦配偶者となれば添い遂げようと思う人だ。苦労をかけ、見た目は変わってしまったが、心はきれいなままだ。三人の子供に対しても、私のDNAをうまく消し去り、他人を怒らせない気遣いのある子に育ててくれた。

見えない空気とは違い、妻は厭でも目につくが、ともに掛け替えのないものに変わりはない。

早や3年になるか。長男の結婚披露宴の最後に新郎の父としてこう挨拶した。

「・・・私も30年前このような披露宴を開きました。その時銀行のある先輩からこの結婚が君の人生で最大の喜びになると言われました。そのとき意味が理解できず、すこしむっとしたことを覚えています。あれから30年人生山あり、谷ありでしたが、今振り返って、たしかに妻との結婚が一番だったなぁと思うに至りました。新郎も、社会人として成功しても、しなくても、そう思えるように二人して・・・」

 妻は「本当かしら!?」と言っていたが、少しは罪滅ぼしになったと思ってくれただろうか。