2016.11  NO.65  アイヒマン VS  アイスマン (2)

事あるごとに後付けで仏を作る。いくら仏を作っても国民の生命を守るという魂が抜けていては意味がない。本当に国民の生命を守るとの意思があれば、「侵略戦争はしない。海外邦人が危険さらされているときに助けたいだけだ。それに限定した形で、憲法9条2項(前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない)を改変したい。」「交戦権を認めてもらわない限り、政治家の根源的な、最低限の義務、国民の生命を守ることができない」と国民に訴え、それだけでいいハズだ。

しかるに、自民党の改正草案では、厚かましくも緊急事態条項を設けている(野党の批判を受け改正草案を棚上げ方針も緊急事態条項を取り下げたとは言っていない)。最低限の「義務」も果たせていないのに、他国はほとんど緊急事態条項を持っていると「権利」を、それも他国よりも大きな権利を主張する。しかも、違憲か問題となっている自衛隊の国防力(武装力)の話よりも、災害時での自衛隊の活用をもって緊急事態条項の必要性を説く(PERFECT HUMANのあっちゃん、こういうのを「あざとい!」と声をあげるのだよ)。

フクシクの原発事故時の菅総理の顛末を思えば、災害などは逆に現場に権限移譲する方がよいと思うだろう。

外部テロとか予期せぬ緊急を要する事態 (上述の海外邦人の危機も同じであるが) に陥り、首相が全責任を負うとして憲法を踏み越えて国民の生命と財産を守ろうとした場合、結果オーライとしても責任をとって首相が辞任を表明して政界を去ろうとしているときに国民がこんな立派な首相を辞めさせていいのかという声が沸き起こる。このときこそ、緊急事態条項の必要性が検討されるときだろう。

拉致問題を見ても国民の生命を本気で守る気があるのか分からない(自民党に限らないが)、そんな者達に授権法的な権限を与えてどうなるか、歴史を紐解けば分かるハズ。ヒトラーに独裁を与えた全権委任法がワイマール憲法を有名無実化させたように、国民からすべての権利を奪う方策にすり変えられていくことに帰するだろう。

国民の言論封殺を暗示するがごとく、すでに自民党内では、従来の自由闊達な議論の伝統が失われ言論封殺が行われていると自民党良識派が告発し始めた。村上誠一郎代議士は『自民党ひとり良識派』(講談社現代新書)を上梓した。前自民党参議院幹事長脇雅史氏が文藝春秋2016年8月号に引退の記『参院自民党は死んだ』を寄稿した。ともに自民党が猿の惑星になりつつあると言いたげだ。

 

私自身は、明治憲法に戻すべきとは全く思わないが、国の自立との意味では憲法の改正は必要という立場だ。が、しかし、それを現政権にさせるべきではないと強く思っている。

かつて参議院のドンと呼ばれ、安倍首相を振付していると噂される右派政治団体「日本会議」の生みの親と言われる村上正邦氏でさえ安倍首相を強く批判している。「彼は憲法改正論議を避けて、禁句にしてしまった。憲法の「け」の字も出さなかった。参院選の選挙運動期間中、アベノミクス、カネの話ばかりしていた。それなのに、選挙が終わった途端、憲法改正を言い出している。姑息なんですよ! 姑息すぎる。」「昨年の安全保障関連法制もそうでしょう。集団的自衛権の話をするのにホルムズ海峡の話だとか持ちだして、あんなひどい議論はない。こういう議論は、誰もがわかるように時間をかけ、お互いが納得してやっていかないといけないんですよ。与野党で時間をかけて熟議する。結論が出るまで夜中まで付き合う。それがいまは公明党との数の論理だけです。」とYAHOOニュース編集部のインダビュー(2016.7.14)に答えている(本国会では逆に自民党改正草案に対する民進党の問いに首相はだんまりを決め込んでいる。姑息という点はなんら変わっていない)。

 

今は、軍部の独走を止められなかった昭和の時代にすこし似ているのかもしれない(本国会で自民党の議員の総立ちを見ていると、そのうちハイル・アベラー!と叫びだすのではと心配してしまう)。

石原慎太郎氏は政界を引退後作家として『天才』田中角栄を書いたが、反田中であった石原氏が書いたその訳はなんなのか。「未だに日本は米国から独立していないという事を、田中角栄という人物のロッキード収賄事件から訴えたかった」と穿った見方をする人もいる。田原総一朗氏著『大宰相 田中角栄』(講談社+α文庫)のP622において田原氏に石原氏が早稲田大森元孝教授に勧められたと語っているが、都知事に就任した前後から石原氏を仰ぎ見ない私からすれば、石原氏のこの上梓本は「政治家を引退した今自身を上回る現役政治家はいない」と言っているに過ぎない。たしかに角栄氏の人間的魅力は否定しないが、日本の金権政治の負の側面を一手に引き受けたことも忘れてはならない。

今本当に必要とするのは、その田中首相に仕え、中曽根大勲位を補佐した後藤田正晴官房長官のような人だ。もし、後藤田氏が存命だとしたら、バングラデシュのために尽力した7人の日本人がただ日本人ということだけで(十字軍とみなされ)殺害されることはなかったのではと思う。

昨年の初め、湯川遥菜さんとフリージャーナリストの後藤健二さんが人質となり、水面下で、ISからの身代金要求に対し、(制止を聞かず行ったとしても)人質邦人は救出したいが、新たなテロの原資となる身代金は出せないと政府が対応に苦慮しているときに、わざわざ敵陣近くのカイロでISが敵意を剥き出しにする十字軍側に2億ドル出す(人道援助と言ってもお金に色はついていない)と安倍首相が声高に表明したことは、何を意味し、どういうことになるのか。銀行に人質をとり立て籠もる強盗に対して、人命を最優先とする日本の警察が対応に苦慮しているとき、一国の首相がわざわざ表に出てきて強硬突入しろ!と言うのとどう違うのか。思い至らない首相を諫め、官僚たちも従わすことができる天下のご意見番が今必要なのだ。

むむ、無いものねだりしているのは石原氏と同じかもしれないが。

2016.11  NO.65  アイヒマン VS  アイスマン (1)

昨年から今年にかけてナチス関連の洋画が立て続けに封切された。今や新しい帝国主義の時代に入ったと言われ、映画界は世界がきな臭くなってきたと警鐘を鳴らしているのであろうか。本ブログ先月号(『ナチス VS マチス』)で紹介した『ヒトラー暗殺、13分の誤算』『ミケランジェロプロジェクト』『黄金のアデーレ 名画の帰還』に続いて、アウシュヴィッツ収容所で同胞をガス室に送る任務に就くユダヤ人の特殊部隊・ゾンダーコマンドの人間の尊厳を取り戻す行動と悲劇の結末を描いた『サウルの息子』と『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』が公開された。初夏には現代にタイムスリップしたとする『帰ってきたヒトラー』も封切された。来年1月には『アイヒマンを追え!』が公開される。

アイヒマン・ショーは、何百万ものユダヤ人を収容所送りとしたナチス戦犯アドルフ・アイヒマンに対する裁判を題材にしている。1961年4月からのその裁判において、氷のように心を閉ざしたアイヒマンは相すまんとは決して言わなかった。アイヒマンはさも「自分は犬に過ぎない。命令に忠実な犬だったから人間を取り締まる法律で私を裁くな」と言っているようなものだ。

ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント女史が誰にでもアイヒマンになる危険性があると世に警鐘をならすのは意味があるが、だれしもアイヒマンになるものではないと私は思う。アイヒマンはアイヒマン。ホロコーストに勝るとも劣らない、原爆の日本投下を決定したトルーマンはトルーマン。晩年の眼鏡をかけた痩せ型の風貌が似ているからと言って、みんなこんな顔をしている人は危険ということにはならない。

ただ、権力を持つと人が変わることは事実としてある。金融証券界にも、おとなしく茶坊主とみられた者が望外にもトップに立ったら豹変(本来良い意味に用いるのだが)した社長もいた。政治家も同じだ。

故に、もっと大きな権力を有する国のトップが暴走するのを規制すべく憲法がある。従って、憲法解釈の変更は、本来為政者がしてはいけない、主権の国民が許してはいけないこと。過去官僚出身の歴代首相はそれがよく分かっているから、極力そうしたことを避けてきたのでは。後世に恥をさらすことはしないものだ。しかし、賢者でない為政者はそうとは限らない。

 

一方、邦画では、あの文科省がタイアップした『海難1890』を観た。観終えて「なにが美談だ! 日本の恥ではないか!?」と腹を立て席を立った。三笠宮寛仁親王が生前「約100年の時を経て、海で受けた恩を空で返してくれるとはトルコの人たちは粋だ」と仰ったとする題材なのだが。1890年にトルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県沖で遭難した折漁村の人々が献身的に救助にあたり、それを機にトルコが大の親日国になったことは前から知っていた。しかし、イラン・イラク戦争についてはよく覚えていない。1985年3月と言えば、私は銀行の組合専従を離れ本業に戻る (同年6月) 直前で、銀行員としての将来を少し不安に思っていた頃でイラン・イラク戦争についてはあまり関心が向かなかった。

そこで調べてみようと思い、本を探すと、『この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の軌跡~』を読んで知っていた門田隆将氏が『エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』を昨年末上梓されたことを知った。早速読んでみたが、ますます腹が膨れることになってしまった。

映画では、当時のオザル首相が職を賭して、独断で、自国民をさておき昔の大恩に報いようとの男気を見せ、一方当時大蔵大臣が50%前後の大株主という半官半民の航空会社日航が救援機として救援に向かうことを拒み、自衛隊機も出せないと、なんとも対照的な対応が描かれていた。

トルコは、イランの我が邦人だけではなく対応に苦慮し窮地にあった日本政府も救ったわけだが、本を読めばその裏には一民間人(伊藤忠イスタンブール事務所長故森永堯氏)が10年来の友人関係にあったオザル首相に日本人のために救援機を出すことを懇願し、それに首相が応えたものだ(救援機を出すだけではなく、領空侵犯の危険を犯してまでトルコの戦闘機が救援機の両サイドを護衛した。救援機に乗ったCAは妊娠を夫と会社に伏せて志願した)。その真相は映画からすっぽりと抜け落ち、日本政府等の薄情ぶりを棚に上げ、いかにも自民党の改憲草案の緊急事態事項が必要といわんばかりとの印象を受けた。

同書はこのイランの話で終わらない。1990年イラクのクウェート侵攻による在留邦人が人間の盾にされ、人質とその家族が、解放に尽力したアントニオ猪木氏に感謝し、外務省に反発した事件。1994年イエメン内戦で青年海外協力隊が孤立した際秋山進イエメン大使が「なぜ自国の救援機が来ないのか?」と不思議がる各国大使館に頭を下げまくり、なんとかドイツの軍用機に救出してもらった事柄。2011年リビア動乱から民間人が脱出する際リビア大使館員の不誠実、つれなさに憤る一方帰国に利用した全日空のCAの暖かさに涙する話。「自国民の生命を何だと思っているのか!」という話が続き、怒りを通り越し悲しくなる。

後追いで、1994年11月自衛隊法百条の改正、2015年9月安保関連法の一つ「在外邦人等の保護措置」の新設(自衛隊法第八十四条の三)をなしても、危険に晒されている邦人の「救出・保護」行為をとるにはまだ三要件を満たすことが必要という。著者は次のように要約する。当該国が安全と秩序を「維持」しており、当該国の「同意」があり、さらに当該国との「連携・協力」の確保が見込まれる場合にのみ、自衛隊は、在留邦人の「救出・保護」を行うことができる、という(なお、保護と救出は違うという意見もある)。

これでは、著者でなくとも本気で救出する気があるのかという疑心を抱いてしまう。

憲法第9条がネックなのかもしれないが、こういう側面を顧みず、国会で安倍首相が呼びかけ自民党議員が立って感謝の拍手を送った。海上保安庁らと一緒に感謝された自衛隊員、とくに心ある自衛隊員は複雑な思いをしたに違いない。

 

 

 

 

 

 2016.10  NO.64   ナチス VS  マチス

1963年にケネディ大統領が暗殺された。その前年には大統領と噂のあった、永遠のセックスシンボル・マリリンモンローが不審死している。そのモンローさんと似て、金髪でかわいく、甘い歌声のコニー・スティーヴンスさんがヒロインの米TVドラマ『ハワイアン・アイ』が同じ1963年(私が中一の頃)から日本で放映されていた。ハワイでのロケはなかったらしいが、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』の歌詞に擬えれば、ねえちゃんはきれいし、明るくリッチなハワイは天国かと丸坊主くそガキの私はあこがれた。その後もハリウッドの戦争映画を見て、かつて同盟していたドイツ軍が敵役になっていても少しも違和感はなかった。40年以上の職業生活においてもドイツと関わることがなく、ドイツには関心がなかった。

ところが、昨秋、VWの排ガス不正問題が起こり、その前には本ブログの『ドイツ VS トイツ』(2016年2月号)で紹介したようにドイツに関する新書が2冊発刊され、また、ナチスに関連する映画が3作相次いで封切されるにおよび、今頃になってドイツ及びドイツ人に興味を覚えることになった。

映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』は平凡な大工職人がひとりでヒトラー暗殺を実行しようとして失敗に終わる話(暗殺計画は42あったがすべて失敗。成功したのはヒトラー本人、自殺という形で)。1939年11月と言えば、ポーランド侵攻後でヒトラーが絶頂期を迎え、庶民もインテリも軍人も、胡散臭い政治家ではなく救世主として仰ぎ見ていた。その中で、一人きりで成し遂げようとした、その信念・覚悟と職人としての技巧の高さに驚かされる(テロでありドイツ人のようには英雄視はできないが)。

その映画の中で、民衆の前で、ユダヤ人と交流した人が、嘲笑の文言が書かれたブラカードを首からぶら下げられ、民衆からあざけりを受けていた場面があった。

この民衆が敗戦後手のひらを返すかのごとく反ナチスとなったことだろう。それが大衆の本質と言ってしまえばそれまでだが、それでも、ナチスを熱狂的に歓迎した大衆の中には戦後も隠れナチスシンパや親がナチスにかかわりそれを隠している人も少なくないであろう。それが、ナチスがユダヤ人等から奪った美術品60万点の内10万点もまだ見つかっていない要因の一つのようだ。

映画『ミケランジェロプロジェクト』は、敗戦間近のナチスが略奪した美術品を爆破する恐れがあるとしてアメリカ民間人がヨーロッパの戦地に赴き、特殊部隊「モニュメンツ・メン」として命の危険を顧みず奮闘した話。なお、その美談の陰には、名もない鉱夫たちがいたことも忘れてはならない。日本博学倶楽部編の『「世界の名画」謎解きガイド』によれば、ナチスが、岩塩坑に隠していた『ゲントの祭壇画』を初め、レオナルド・ダ・ヴィンチやフェルメール、マチス等の名画等約2万点の美術品を爆破する計画を岩塩坑に働いていた13人の鉱夫が阻止した。決死の覚悟で爆弾を運びだし、逆に誰も入れないよう岩塩坑の入り口を爆破した。諸説あるのか、篠田航一氏著書『ナチスの財宝』によれば、上官に願い出て爆弾を撤去したとしている。

映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』は、ナチスに奪われた、故郷オーストラリアのモナリザと呼ばれるクリムトの名画『黄金のアデーレ』を巡って、82才の一女性がオーストリア政府を相手どって裁判を起こし勝訴した逸話を基にしている。最初は主人公のマリアというアデーレの姪が名画を取り戻すことを思いつき、最初は駆け出しの弁護士もお金になると一緒に闘うが、苦戦する。しかし、次第に同じオーストリア人の血を引くその弁護士の方がより強い気持ちで、ナチスに蹂躙された祖国と亡くなった人々の尊厳を取り戻すべく闘う様が描かれ、観る者の心を打つ。四面楚歌の二人に現地のジャーナリストが協力を申し出る。父親がナチスの党員で子としてその贖罪をしなければという想いからだった。

 

ドイツを代表する世界のVWに排ガス不正問題が発覚した折、VW不正の一報をネットで見た時、内部告発だと直感した。ナチスの時代でも命がけで権力に立ち向かった人たちがいるからして、一流企業の社員ならと思ったのだが。実際は、米ウェストバージニア大学の研究者が発表したレポートが発端で、その結果がネット上で公表され、それに基づきEPAが独自調査をして発覚した。内部告発ではなかった。

日本の東芝の不正会計事件は、動機は正義感からではなさそうだが、「内部告発」(内部から外部への監督官庁やメディアに)。VWも数年前に社内技術者から「内部通報」(内部から内部の上層部に)はあったらしい。経営トップに問題がなければ内部通報も有効であるが、トップ自身が不正を主導している場合は、自浄作用は期待しえない。無視されるか潰されておしまいだ。差し違え覚悟で監督官庁とかメディアに内部告発しなければ、不正や悪弊は止められない。

トップが姿勢を正さなければ内部告発されてしまうと内部告発の正当化・保護がトップ不正の抑止力となればよいのだが。現実は、日本おいても、トップの業と言うべきか、内部告発をさせない態勢に注力する企業が多いのが現状だろうか。

ドイツは、ナチスのゲシュタボや分裂後の東ドイツの秘密警察シュタージ(監視網はゲシュタボやソ連のKGBにも勝ると言われる) 下における「密告」のトラウマが内部告発をよしとしない土壌を培っているのであろうか。そうだとすれば、ドイツはいろんな面でナチスの呪縛からまだ脱し切れていない、まだ戦後処理にあるというのが、ドイツのことを知る入口段階での私の感想だ。

これで文章を終えたと思っていたら、三菱自動車も不正が発覚した。25年前から不正に手を染めていた。過去リコール隠しもあった。助っ人ゴーン社長率いる日産自動車に支援を仰ぎ、天下の三菱グループの元老院(金曜会)をしてこの体たらく。バブル期不動産融資に他行が狂奔しても手を出させなかった三菱銀行の大王・山田春頭取時代とは隔世の感。

ドイツが戦後処理なら、日本は戦争を忘れた平和ボケと言えるだろう。企業のみならず地方自治体の雄東京都まで前知事だけでなく職員もサンドバック状態。公益よりも我が身ならば。


2016.9  NO.63  おとこ VS  おとめ

昔昔その昔、我妻のような小太りの女が別の女のほっそりした長い脚を得たいと思った。女の執念はすごい。気の遠くなるような年月をかけて女性器を男性器に替え遺伝子を移す使い走り(以下「パシリ」という)としての男を造った。旧約聖書はアダムからイブができたとするが、生物学的にはイブからアダムができたと福岡伸一先生は『できそこないの男たち』(光文社新書)で説いていた。しかし、パシリを目的に造ったハズの男は、体力と知恵がつき過ぎたと女はさすがに気がついた。男女平等ではとても治まらず、男社会への女の逆襲が始まることになった。日本でも、かつて、代表の男を差し置き、女同士が争い、国民的男グループを解散させてしまった。また、野党の代表の男も配下の女につまらない男と一刀両断された。その頃から女の長い一生の中で一瞬きらりと光を放つ乙女心は死語になっていった。

当時米、英、独ぐらいしか国のトップが女でなかったが、今や全世界のトップが女だ。大和撫子の奥ゆかしさの名残りを留めた日本の女はずいぶんと遅れて首相になったが、主要先進国のトップが女になった時点で女首相サミットが創設された。年一回各国輪番で開催されるサミットの究極の目的は男を本来のパシリの存在に戻すこと。今世紀末2100年に第50回記念サミットが女都(旧東京)で開催された。大干ばつ時代における役立たない男人口増大に伴う食糧不足問題がテーマだ。その対策として、密告システムを強化し、政治犯を増やすこと。わざとヒステリックになり紛争地を増やし戦地に政治犯の男ども送り出すことが採択された。慈悲深くある女は、愚かで残忍な男と違って、アウシュヴィッツのような直接手を下すことは決して行わないと言う。その陰で『世界悪女大全』(文春文庫)を初め淫乱で残虐で強欲な悪女を書いた書籍や電子書籍はすべて焚書とされた。悪女ぶりはとても口にできない。おぞましい当の悪女、則天武后、呂太后(劉邦の妻)、エリザベート・バートリ(16世紀ハンガリーの大貴族の娘)らは歴史のページから抹消された。 

男はいつも女に騙される。武器を取り上げられた男たちは女支配に抵抗できない。アーノルドシュワルツェネッガーのような男でも腕力だけでは女の言うことしか聞かないロボット兵士に敵わない。

女の支配する世界では、法律はあるが、女が女に対して罪を犯した場合のみ適用される。女が男に暴力をふるっても、その原因を作った男が悪いとして適用されない。もっとも、女が男に素直に謝らないのは昔からの話だが。

基本的人権が保障されない男たちは、能力や従順さ等から4つの階層に分類される。「優層」とその下の「良層」が上層。人間扱いされぬ下層は「可層」と「不可層」とからなる。

優層は、頭も顔もよく運動神経も秀逸。学者、プロの野球選手、プロ棋士等いわゆる天才の男たち。男としてではなく種として評価され、唯一自身のDNAを後世に伝えることができる。選ぶのは女の権利。女は、現役からも死後凍結保存された過去の偉人からの精子も選択できる。人気の高い精子に集中するのはサラブレッドの世界と同じだ。ただ、今世紀の初め日本競馬界の至宝ディープインパクトは1年に250頭前後、これまで何千頭の牝馬に種付けしたが、それでも自身を超えるような子馬は生まれなかった。

限りのある数少ない卵子で極めて優秀なDNAを受け継いだ子供、それも男の子ではなく女の子を得るのは至難で、それだけに女はいい種さがしに必死。神頼み、占いも盛んだ。

女は出産の労苦から解放されている。昔で言うところの試験管ベービーが人工子宮にて胎児として育っていく。女の子が生まれたときは自身の手元に置くことができるが、男の子であれば国家の所有物となる。

妊娠・出産をしないことに伴い、子孫繁栄行為の褒美としての快楽を喪失することに対しては、男のハーレムが用意されている。上層の良層の男たちからイケメンが選抜される。パイプカットされた良層の男は自身を指名した女を拒否する権利がない。とてもその気になれない相手に精神的EDに陥り性交が成功しなかった場合は女様を侮辱したとして不可層に転落させられる。そのために医療用の禁止薬物が認可されているのだが。

子育ても良層の男の仕事。女支配社会を批判する言動を子供たちにすれば下層に転落させられる。原則不可層行きだが、貧弱で男らしくない者は可層へ落ちることもある。

下層の男は悲惨だ。可層の、頭も顔もよくない、取り柄のない男たちは、去勢され、宦官になるか働き蜂になるしかない。一生同じ境遇で上層に上がる機会も与えられていない。

不可層は、女支配社会転覆を企てる政治犯やそれに準ずる大罪を犯した、この世から排除されるべき男たち(『21世紀の戦争論』(文春新書)で半藤一利氏に佐藤優氏が話した、第二次世界大戦敗戦前後真っ先に満州入りし日本人を理不尽に蹂躙したソ連兵の懲罰部隊、いわゆる囚人部隊に似ている)。

不可層の男は、去勢されない。隔離されているし、なにより兵士として戦争に駆り出されるか文字通りの金網デスマッチの闘士にされるので、男性ホルモンは欠かせない。古代ローマの剣闘士のごとく、奇跡的に最後まで生き残った者は、上層に上がれる道もある。

私自身は、一見人畜無害に見え、美しい誤解もあってか、上層の良層にて、ハーレムに呼ばれることもなくのんびりと暮らしていた。が、それでも持ち前の反骨精神がもたげてきて、女児たちに男の優秀さ、女支配社会の矛盾について話してしまった。

ある日突然、妻と見間違う女警察長官がやってきて「頭も顔も悪い可層のハズのお前が偉そうな態度をとるのは許さない。袋も竿も完璧に去勢させてやる!」と言い放った。

「ままっ、待ってください。白髪が少ないけどもう老人ですよ。第一放射線治療で故障しています。いや、予後不良なんですよ!」と(まだこんな体形の女がいたかと思うほど)太短い足にすがらんばかりに哀願しているところで目が覚めた。夢でよかった。どうしてこんな怖い夢を見てしまったのだろう。昨晩ナチスのドキュメンタリーと映画『ハンガーゲーム』を観たためか。台所に立つ妻はいつものように明るく優しそうで安心した。


2016.8  NO.62   ピペット VS  パペット

SMAP解散とSTAP細胞はともに幻に終わった。SMAPファンには僥倖だが、STAP細胞の理化学研究所笹井芳樹医学博士は亡くなった。早くも2年が経つ。一体STAP細胞騒動は何だったのか。門外漢の私に問題の本質が分かるハズはないが、世紀の大発見でノーベル賞も夢ではないとTVインタビュアーがハーバード大のバカンティ教授にそう振った時、受賞は小保方氏だけでよいとの発言をしたことに、違和感を覚えた。バカンティ教授が2001年に発表した論文が原点であり、弟子の手柄を横取りしても不思議でない世界で、奇特というよりなんか変だとひねくれ者の私は直感した。それに前後して、科学者として純粋に関心を持った人や自身の苦節の研究人生を愚弄するのかと憤怒と嫉妬に狂わんばかりの人が入り混じり、ネット上にソーシャル査読があふれ問題点が噴出した。そして、非難の矢面に立った笹井博士は追い詰められ自害した。

笹井博士は、渦中の2014年4月16日の記者会見の場において第4段階にあたる論文の執筆やまとめの段階から参加したと弁明し、また、STAP細胞はあるとまだ発言している。

『ホンマでっか!?TV』でお馴染みの池田清彦先生は、その記者会見の直前の3月の時点で、STAP細胞はインチキだとわかっていたハズという。著書『生物科学の「ウソ」と「ホント」』のP62~63において、「小保方、笹井、丹羽の3名の共著のプロトコルの中でSTAP幹細胞にはTCR再構成が見られなかったとしている。それがなぜSTAP細胞がインチキと言えるのか」を我々にも分かるように解説している。

それでは、その3月の時点で理研内部でどういう話し合いが行われたのであろうか?

月刊誌『新潮45』(2014年5月号)で作家小畑峰太郎氏はP29にてこう記す。「理研は、小保方を切ったが、笹井は守った。その意味するところは、大きく深い闇の中にある真相に直結する。今、理研は笹井に真相を語られることが最悪の事態なのだ。理研という組織が崩壊しかねない。」

笹井博士が亡くなる一週間ほど前、NHKが特番で「調査報告 STAP細胞 不正の深層」を放送した。それも自殺に追いやった原因の一つとする声もある。天下のNHK科学班が笹井博士と小保方氏の個人的なメールに声色をつけて放送したという。民放のワイドショーでもあるまいに(番組にクレジットを入れなかったのは、指示した上司に対するせめてもの意地、矜持を見せたということであればまだ・・・)。

2014年の8月9日(土)の安住アナMCの『新・情報7DAYS ニュースキャスター』では、ゲスト解説者が、笹井教授の小保方さん宛ての遺書を本人の了解をとらずに、警察?がマスコミに流し、マスコミがそのまま公表してよいのかという趣旨のことを言っていた。

死人に口なし。小保方氏には刑事訴追しないから余計なことを言うなと口止めか(実際手記、対談等で発信しているが、核心的なことは暴露していない)?

マスコミは、知ってか知らずか、不適切な関係?(笹井教授の妻は手記で否定)の笹井教授と小保方氏とで蓋をしようとする者たちに加担したことになるのか。韓国で2005年に発覚した元ソウル大学の生物学者・黄禹錫博士が起こしたES細胞捏造事件の時は、MBCテレビ局が、国や局上層部からの圧力、国民やスポンサーからの非難殺到の四面楚歌の中「真実が国益」と国民的英雄黄博士の疑惑の仮面を剥いだ。日本のテレビ局は情けなくないか。

理研の野依理事長は、客寄せパンダの位置づけではなく、風貌からしても君臨し、理研を超成果主義に変えたと言われているのだから即刻辞任すべきだった。①日本の科学界の信用を著しく損ねた。②速やかに鎮火させるところを笹井教授を亡くしスキャンダルをさらに拡大させた。③世界をリードする再生医療の有為な研究者を失わせた、その責任は重い。後になって辞任したが、野依理事長本人は引責辞任とは認めようとしない。

そうならば、ノーベル賞学者は、名誉だけではなく金が絡む生臭い場所には立ち入らぬ方がよいかも知れない。晩節を汚したくないのであれば。

 

そんな偉い人のことよりも若い研究者が心配だ。私は社会や将来は若い人たちの為にあると思っている。私は若い人と議論して負けてやる度量はない。それもあって私は卒職した。大切にすべき若者を過去一番若者を粗末にしたと思うのは、神風特攻隊(断れないのを承知しながら手を挙げさせた)。

私は学生の頃就職することしか頭になかったが、文系と理系の違いがあるとはいえ、大学院に行く人をすごいと思っていた。ところが現実はどうか。ワーキングプアとはどういうことだ。ポスドク(ポストドクター)は、たとえ日々ピペット(スポイトに類する実験器具)を使い単純な作業を繰りかえし、教授の意のままにパペット(操り人形)になっても、成果があがらなければ無職となる。

白物家電メーカーが苦戦しているように、日本が生き残るのは、先端技術の開発とそれを知的財産としても守ること。それを担う若い人材を大切にしてもらいたい。人数を増やして競争させれば良いというものではない。博士課程修了者を増やしても、企業は見向きもせず、学歴ロンダリングに利用されるだけかもしれない。

将棋界は25歳までに四段に上がらなければ退場。青春を捧げた棋士には過酷と言える。だが、見方を変えれば、一度きりのかけがえのない人生を棒に振ることを慮った親心ともいえる(天才の世界では努力すればなんとかなるものではない)。

素人頭で、科学の世界でも、官僚や法曹のように難度の高い国家資格のようなものはないものかと思っていたら、あの文科省が優秀な若手研究者の雇用を確保する「卓越研究員制度」を今年から実施するのを知った。トヨタ自動車が年間13万ドル(14百万円前後)を基本給とする受け入れを表明した。他企業も積極的に卓越研究員を受け入れしてもらいたいものだ。

 


2016.7 NO.61 いまでしょ! VS ひまでしょ!

卒職してもうすぐ一年になる。「今でしょ!」で一世を風靡したカリスマ予備校講師の林修先生は今もテレビに引っ張りだこで忙しい。来年まで正社員として働く妻は「暇でしょ!」と毎日が日曜の私に言い、その後に「良いご身分ね!?」とイヤミを添えるのを忘れない。

暇人呼ばわりされた私はジョン・レノンさんばりにImagine all the people Living for today...と歌ってやる。

卒職すると大きく環境が変わって戸惑う同輩が多いが、私の場合はそうでもない。銀行員時代は大部屋で大勢の人でがやがやしていたところに居たが、それは20年以上も前のこと。団体職員になってからは小人数の中で、とくにここ10年ほどは一人で仕事をしていた。勤務先で机に向かうのと自宅の自室の机に向かうとの違いだけだ。

境遇の変化は、妻が洗濯し干した洗濯物を私が取り込むのだが、妻の雑巾のような???を見たときに少し感じる程度だ。

高校の同級生のT君は、10年ほど上海に在留し現地の中国人労働者500人を抱える日系現地法人の総経理(社長)を務め上げ、3年?前に帰国した。

15分に一度トラブルが発生し、秘書兼通訳の現地女性と二人で問題解決に追われた環境から一転親御さんを介護する日々に変わった。奥さんが、よく出来た人で、関西に住む岳父母を埼玉の自宅に呼び寄せ介護していた(現在ご両親は施設に移っている)。

そのT君が、現在日課として本一冊、1万歩(1時間20分前後)の散歩、WOWOWでの映画1本を掲げている。4つ目は筋トレか何か忘れたが、3つだけでも大変だ。短編にしろ毎日1冊本を読むのは至難。サボるとスマホで未達のサインか出るように自身を追い込んでいる。

私は180度境遇が変化したT君が上海時代のストレスを懐かしみ今そうしているのだろうと彼に聞いてみた。すると、彼は上海時代からそのように課していたと言う。

彼はストレスに強いのだ。体力も、逸話を披露できないのは残念だが、彼の方が断然タフだ。体つきは私と変わらないのに。ご両親も90歳を超えておられる。私とはDNAからして違うのだろう。

私は、他人からストレスに強そうに見られるが、実際は違う。物事には作用と反作用があり、相手を口で打ち負かしても、自身の体も傷つく。尿酸値は必ず上がり、免疫力は下がる。私にはとてもT君のマネはできない。

余生を送るにあたり、何々しない三ヶ条を決めた。一ヶ条は、無理しないこと。私は大きなストレスが癌の引き金かつ癌の餌だと思っているので、無理はせずストレスを溜めないようする。逆にストレスが全くないのもよくない。本ブログのネタを考えることと家事における妻からのダメ出しに堪える(大きな尻をしているくせに小さいこと言うな!とは決して口に出さない)ことぐらいのストレスは許容範囲としよう。二ヶ条は、反省しないこと。後悔はしたくなくてもしてしまう。だけど反省はしたくないと思えばしなくて済む。昔反省だけならサルでもできるというCMがあったが、サル以下で上等だ。三ヶ条は、怒らないことはしないこと。怒ることを我慢することは無理することなので一ヶ条に反する。だから怒ることは続ける。頭の血管が切れない程度に。世の中のことで怒ればブログに書く。これで私の貧弱な体に健全な精神が保たれる。

同世代と言っても、健康な人と癌など大病を患った人と余生への想いは違う。

健康な人たちは未来という言葉をよく使うが、私どものような癌罹患者は未来という漠然とした言葉は使わない。女子プロレスラーを引退し現在タレントの北斗晶さんは、昨秋乳がんで右乳房を全摘手術した。手術するにあたって「愛する子供達の白髪の生えた顔が見たい。パパと二人で、年を取っていつまでも手をつないで歩きたい」とブログに書いた。ささやかで切実すぎる願いだ。

2人に1人は癌になり、3人に1人は癌で死ぬと言われても、癌になった人は、「なぜ自分なのだ。どうして自分が癌に」と思うものなのだ。若い人ならなおさらだ。その日から人生観が変わる。

不公平だと言っても、頭が良いとか悪いとか、かわいいとか不細工とか、人は生まれながらに不公平。しかし、唯一公平なのは、死はみんなに訪れること。死ぬのが少し早いか遅いかの差はあっても必ずみんなこの世を去る。

ピンピンコロリが理想と言っても、そう上手く行くとは限らない。突然のごとく余命何か月と死の宣告を受ければ、スイスの精神科医エリザベス・キュープラー・ロス女史の研究によれば、①否認と孤立→②怒り→③取り引き(神か何かにすがる)→④抑鬱→⑤受容(諦観)の心理プロセスを辿るとされる。

私が放射線治療した前立腺がんは怖くない癌と言われるが、そのかわり直ったと思っても7年後再燃(通常の癌は再発という)することも珍しくない(その時はもう放射線治療も手術もできない)。前立腺がんになるぐらいだから他の癌になるかも知れない。

女々しく往生際の悪い私は、上記心理プロセスの②怒り、③取り引きの段階で家族や周りの人に八つ当たりしたり、他人に騙されたりするのを恐れる。逝く時までも迷惑をかけるのかと家族に言われたくない。人生の冬の時代に心の準備と精神の鍛練に努めようと思うのはそのためだ。

健康に自信がある同輩達、それでも免疫力は落ちていく。明日は我が身かもしれんぞよ。


2016.6 NO.60 ネット VS シット

私は字が汚かった。佐藤優氏の著書『官僚階級論』で紹介されたマルクスほどの悪筆ではないと思うが。左ききなのに右手で書くからではなく元来不器用なのだろう。高校受験のときには「とにかく丁寧に書きなさい」と担任の先生に口酸っぱくして諭された。

若き銀行員時代、行内の創立周年記念の懸賞論文に応募した。出版社などの懸賞論文では字がきたないと読むことすらしてもらえないと聞いていた。そこで、同僚の女子に原稿をたしか一字一円?で清書をしてもらった。当時本部の企画・調査セクションに所属しアドバンテージがあり、応募すれば佳作には選ばれると分かっていた。

思惑どおり入選し、4千字で4千円ほどを支払ったと思う。さらに、神戸のトアーロードに当時あった、文豪谷崎潤一郎氏が命名した洋食店『ハイウェイ』(現在閉店)で名物のオニオングラタンスープと何かメイン料理をごちそうさせてもらった。

自身でも自らの書いた字を見るのが嫌だった。パソコンや一太郎やワードのソフトが出現しなければ、ブログエッセイを掲載することはなかったろうと思う。

昨秋本ブログエッセイの50号を記念して、非売本にまとめた。いっちょまえにペンネームもつけて、親戚や銀行の元同僚、同級生、お世話になった先生などに謹呈した(前から葬式無用、戒名不要と遺言しており、この本が家族にとって私の位牌になるだろう)。

本にするにあたって読み返して、書き始めた当初は気づかなかったが、エッセイを掲載した動機に、家族に精神的遺産(そんないいものか?)を残す意味だけではなく、フクシマの原発事故により自身の内なる怒りが抑えられなくなったこともあるのではと思い始めた。

昔なら庶民が世間に意見を申す手段は新聞に投稿するぐらいに限られていた。今や自由に書くことができ、だれにでも読んでもらうことができる。共感してくれる人もいる。

さらに、外国人がYOU TUBEに歌やダンスなどの特技を披露し、日本のメディア等に認められ、米国人クリス・ハートさんのようにプロ歌手として夢がかなう人も少なくない。

しかし、便利になったこととリスクは表裏一体だ。痴態をネットに公開する人が多いのにびっくりする。素人の中には無名のプロも多いだろうが、本当の素人なら後悔しても後の祭り。消すのは難しい。本人の意思でなくとも、元彼にリベンジポルノとしてネットに流されたり、ウィルスに罹り流出することもある。

女子ハーフタレントも、不倫相手とのLINE内容が流出した。彼女に対する評判が激変してしまったことは記憶に新しい。著名な精神科の女医は、昨年腹立ちまぎれにツイートした。後で「乗っ取られた」「誤作動」と下手な言い訳をして、精神科医に診てもらったらとネット民に皮肉られた。ツイッターでは高ぶった感情そのものが瞬時に流されがちだ。スクリーンショットされれば、消してもネットに流されてしまう。著名人ほど無かったことにするのは困難。長年に積み重ねてきた信用を一瞬にて損なうことになりかねない。

私の身近な所でもネットで悲劇が起きた。業界団体に在籍していたとき、関西の会員が身に覚えのない酷い仕打ちを受けた。誰かの手によって、関西地区の全会員に送られたメールには、誹謗・中傷の文章とともに本人自身がネットにアップした飲み屋での写真と本人と無関係な卑猥な写真とが添付されていた。「2ちゃんねる」への書き込みもなされた。

被害者本人は心当たりが全くなく警察に被害届を出した。私がいる事務局だけにそのメールが着た時もあり、大阪府警の女性警察官がわざわざ上京して私と面談しに来た。可能性のある者すべて潰していくという意味もあろうが、私のパソコンを操作して、見かけないデーターを取り出して帰って行った。利用サーバーを既に特定しており、証拠として利用サーバー先に持って行ったのかもしれない。

それから数か月後被害者本人から犯人が逮捕されたと報告があった。犯人はどうして分かったと驚いたらしい。どう見てもど素人の私よりネットに詳しいと思うのだが、狼狽した上嫉妬に狂い冷静な判断ができなかったのか。夫婦で営む飲食店の主人が、出奔した妻のパソコンから被害者との関係を邪推して、あることないことネットに流出させたとのことであった。被害者本人は、悩みを抱える人のネットサークルに参加し、犯人の妻と知合いとなり親身に相談に乗っていただけだったのだが。

事実無根と分かっても誹謗・中傷された事実は消えず、心に負った傷は一生消えない。数年後半年遅れで亡くなったことが知らされた。死因は尋ねる気にもならない。

事件が解決した時点で私はいち早く協会報で全会員に三箇条にて注意喚起した。

○ 実名、住所等個人情報を無防備にネット上に掲載しない。

○ ネット上から無断でコピーし、著作権侵害となることは慎む。

○ 匿名をいいことに軽い気持ちで他人攻撃に参加しない(匿名でも利用サーバーを割り出し、発信者が特定される)。

読者はそう言うアンタは大丈夫かと思われるかもしれない。知らないうちに他人を傷つけているかもしれない。大丈夫とは言えないが、ブログを書くにあたって次の3点を心掛けている。①他人様を呼び捨て扱いしない。②原則、私憤は晴らさない。③公人やそれに準ずる著名人を批判するが、反権力であって、反日ではない。

プロから見れば、誤字脱字もあり、こんな駄文は一夜づけで書いていると思われるかもしれない。が、やや腹立ちまぎれに書いた、2014年7月号(「らち と ふらち」)でも草稿は1か月前。普通は数か月前。それなりに時間をかけて吟味している。

ただ、いくら気を遣っても、完璧とはいかない。歌の上手い人は音域が上下に広いのと同じように、賢い人は凡人の思いが及ばないところまで気が付き、驚かされる。

 

警察小説『交錯捜査』P226で著者高嶋哲夫氏は「退職して暇を持て余す団塊の世代が、自らの知識で、一方的な考察を加えたブログがますます横行するだろう」と準主役に言わせる。耳が痛いが、戯言と断っているし、もう少しブログを書き進めさせてもらいたい。

2016.5  NO.59 トップ VS  シップ

卒職後以前よりBSを観ることが多くなると、韓流の時代劇、とくに李氏朝鮮(王朝)時代の政治を舞台にしたドラマが繰り返し再放送されていることを知った。

『大王世宗』は、ハングルの制定を成し、歴代最高の君主として今も国民的英雄と崇められる第4代世宗の物語。テーマは「賢者が王になるべし」。『トンイ』は、賤民の出ながら王の母になり、息子(後の第21代英祖)に身をもって賤民のために尽くすことを教える。『イ・サン』では、今度は英祖が孫の第22代正祖に教える。「聖君が備えるべき徳とは"民を慈しむ心を持つこと"である」と。これらTVドラマの韓国の視聴率はいずれも高い。韓国民がトップの理想像として見ているのだろう。

現実はどうか。現職の大統領はかの頑迷な朴槿恵氏で、その後釜と目されているのは歴代最低と批判されている国連事務総長の潘基文氏。韓国民に対し同情を禁じ得ない。

 かくいう日本も韓国のことを言える立場にない。子供の頃国のトップのあるべき姿として、民のかまどより煙がたちのぼらないのを見て、「貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうなら、地方はもっとひどいだろう」と思いを馳せられた仁徳天皇を教えられた。生類憐みの令で悪名高い徳川綱吉将軍でさえ、気鋭の論客古谷経衡氏の新書『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』によれば、「あくまで犬を媒介とした弱者救済の思想と解釈すべきで、犬のために人を殺したとする解釈は不正解」と再評価される。

国民、とくに底辺にいる民に目をかける精神は建前にしろ小泉政権が誕生する前までは守られていた。今の安倍政権は、一億総活躍と言っても一億総幸福とは言わない。佐藤優氏は池上彰氏との雑誌対談で一億総活躍では2千数百万人を切り捨てるのかと揶揄する。

拉致被害者の兄蓮池透氏は自著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』で安倍首相の冷血な一面を暴露した。ネット上の「保育園落ちた。日本死ね!!!」との若き母親の叫びに対する国会答弁に首相の下々に対するつれなさを垣間見た気がした。

私も当初拉致問題で頭角を現し、第一次安倍内閣ができた前後は、首相の家庭教師をしていた平沢勝栄議員が言っていたように頭はよくないかもしれないが、いい人だと思っていた。しかし、今は両方悪いと思っている。上述の正祖と違って、祖父から、能力は隔世遺伝していないが、人の悪さは引き継いでいるのかも。とても賢者とは言えない。

賢者とは何か。①頭が良い、②私心がない、③あまねく民を慈しむ、④常に賢者にふさわしいかと自問する、ということである。①頭が良いと②私心がないは、表裏一体かもしれない。頭のよくない者は、私もそうだが、見方が偏ることと自分のことしか考えない。誰にでも活躍する権利はあるが、分をわきまえることが肝要。リーダーシップ(leader + ship )を発揮する、大きな船、つまり、国を導くトップは賢者でなければならない。

30年ほど前か銀行員時代に読んだ司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』で登場する東郷平八郎海軍大将は世界から称賛されるほどの賢者とは描かれていなかった。トップは賢者でなくてもよいのかと思い、今度は下村寅太郎氏の『東郷平八郎』を読んでみた。1943年に書かれ漢字にルビが振られている。講談社学術文庫の文庫本では1981年の初版から13版まで増版される名著だ。表紙の海軍大将の正装?のポートレートは、威風堂々というか、威圧感すら感じる。とても凡庸に見えない。作者の下村氏は「天才秋山真之あっての東郷平八郎であり、東郷平八郎あっての秋山真之」と言う。賢者に求められる頭の良さは、IQとか学歴とは関係ない。私心がなく、寡黙、沈着冷静、決断力、そこから生まれる部下を心腹させる力が東郷大将にはあった。軍人と政治家は違うかもしれないが、東郷大将が、今の首相であったとしたら、不用意にバカな発言をする自民党代議士もいないし、女性票に媚びてか、実力が伴っていない女性議員を大臣することもないことだろう。

自民党のゆるみ、たるみ、驕りと言うが、トップが賢者であれば「勝って兜の緒を締めよ!」と言うだろう。首相の悲願・憲法改正を成し遂げるまではと引き締めを図るだろう。

トップは、賢者でなくとも、それを自覚して、賢者を広く登用すれば、賢者に近づくことはできるかもしれない。しかし、賢者でないことを認めようとせず、賢者を遠ざけ、類が類を呼ぶのであれば、そんな者達に憲法改正をされてはたまらない。ましてや、戦争の悲惨さを知らない世代の賢者でない者たちに(私も戦後5年経って生まれた戦争を知らない世代だが、それでも子供の頃白木綿の着物を着て傷痍軍人がハーモニカやアコーディオンを奏で街角に托鉢僧のように立っていたのを見て戦争は嫌だと肌で感じていた)。

コンプレックスをもち、批判に耐えられない者は、規律と従順のシンボルとしての犬を偏愛したヒトラーのように、言論を封殺していく。現に犬好きをトップにもつ自民党の憲法改正草案も、ワイマール憲法で唯一の盲点を悪用しヒトラーを独裁者にした、まさにその緊急事態条項を持ち出すのは、頭かくして尻隠さずにもなっていない。

かの佐高信氏は、興味深いタイトルほどの内容はなかったが、『安倍晋三と岸信介と公明党の罪 新・佐高信の政経外科』(河出書房新社)を新年早々上梓した。『世界』4月号は「アベノミクス破綻」をテーマに特集を組んだ。『新潮45』4月号(P75~76)で「『戦後レジームからの脱却』もすっかり色あせ、“変節漢”安倍首相を保守層が見限り始めた」とジャーナリスト風間進氏は論難する。有識者も舌鋒が鋭くなってきた。

しかし、大衆の大勢はまだまだ「安倍さんはよくやっている」「お上のすることに盾突くのはよくない」「長いものに巻かれてりゃいい」と思っている。

数をおさえれば、賢者でない者でも、賢者にはなれないとしても、ヒトラーもどきになることはできる。民主主義は独裁者を生む危険性を孕んでいる。

 

2016.4 NO.58 キムテヒ VS キムソヒ

 キムテヒとキムソヒ。キムヒョンジュとキムヒョージュ。ともに前者が韓国女優で後者が韓国出身の女子プロゴルファー。韓国では一字違いの名前が多い。女優の一例を挙げても、パクシヨン、パクセヨン、パクソヨン、パクチヨンと続く。判別するのが難しい。

日本で再放送された人気韓流ホームコメディー『家族なのにどうして~ボクらの恋日記~』のヒロイン・キムヒョンジュさん(髪を結んだ顔が好みだが、演技も上手い)をネットで検索したら、キムヒョンジュンさん(人気男性歌手兼俳優)が混じり、すこし混乱した。

韓国は学歴社会で、女優もプロゴルファーも大卒が多い。高学歴の韓国女優NO1と言えば、ソウル大学卒のキムテヒさん。日本で匹敵するのは東大(工学部)卒の菊川怜さんだが、TVの報道番組で福澤朗MCに弄られて女優としての神秘性が薄れてしまったのは残念だ。

 キムテヒさんのような知性と清楚な容貌を兼ね備える、あるいは、そんなイメージの女優は、韓国には他に韓国の吉永小百合と言われたイ・ヨンエさんや若手ながら千万女優と呼ばれるハン・ヒョジュさん(TVドラマ『トンイ』、映画『監視者たち』に主演)がいる。韓国以外にも、中国では女神と呼ばれるファン・ビンビンさんがいる。インドの吉永小百合・シュリデヴィさんはとても50代と思えない。残念ながら日本ではすぐに思いつかない。

 昔はサユリスト(吉永小百合さんファン)とコマキスト(栗原小巻さんファン)とで男性ファンが競い合っていた。しかし、1986年頃後藤久美子さんが国民的美少女として人気を博し、それ以降全国美少女コンテストが行われるようになり、対象が若年化していった。

 私自身は、サユリストでも、コマキストでもなかった。子供の頃は、若尾文子さん、五月みどりさんがきれいだと思った。今は叶わぬ夢となった、男性ホルモンが湧きいずる泉のごとくであった頃には、ひし美ゆり子さん、叶和貴子さん、佳那晃子さん、原日出子さんらが好きだった。皆さん男心をそそる色白美人だ。

 今は私が高尚になって嗜好が変わったなどと言うつもりはない。単に男性ホルモンが枯渇してきて、知的で清楚なタイプの女優にも関心が高まってきたに過ぎない。

 韓国の女優は、大学卒業後デビューして韓国内で人気が沸騰し日本でも名前が知られるようになる頃には30歳を超えることになる。私の対象としてはちょうどよい年恰好なのだ。前期高齢者入りのジジィのくせに!と言われる筋合いはない。眺めているだけだから。若い人は自分の相手として捉えるから整形か? 性格は?とうるさいが、そんなことどうでもよい。

 キムテヒ(36歳)さんは反日女優のレッテルを貼られ来日出来ないのが残念だが、他にも、慶応大の某教授が「韓国女優ソン・ユリのような清楚な女優は日本には・・・」と題して書いたブログ(2010.10.29)で知ったソン・ユリ(35歳)さんは、画面を通しても肌の綺麗さが分かる美人だ。韓流ドラマ『怪しい三兄弟』『笑ってトンヘ』に出演していたオ・ジウン(34歳)さんも明るくて可愛いく、オジンの私好みだ。


ミセスのキムソヒさんは日本で2勝をあげた女子プロゴルファー。まだ33歳と若いのにクラブよりも鍋をふることを選び一昨年引退し家庭に入った。日本で活躍した韓国女性プロとしては何と言っても1983年日本に来た故具玉姫プロ(日本で23勝)が有名だ。今は李知姫プロ、全美貞プロ、それから日本男性ファンも多い昨年賞金女王イ・ボミプロがいる。

女子プロとしては、私は実力と女性らしさを兼ね備えた選手を好きになる。1988年のルーキーイアーで全米オープンを優勝したリサロッテ・ノイマンさんは、同じスェーデン出身の往年の名女優イングリッド・バーグマンさんを彷彿させ、ファンになった。

今は今年の米女子ツアー開幕戦を制した、二十歳のキムヒョージュプロがお気に入りだ。身長は165センチ色白で流れるようなスイングが美しい。一昨年のメジャー『エビアン・チャンピオンシップ』において、最終日最終ホールで逆転優勝した時、キャディーから優勝したよと声をかけられたとき、ホント!?と恍けたようなしぐさがなんとも愛らしかった。米国から日本に主戦場を移した申智愛プロのように、キムヒョージュプロも日本でプレーしてほしいものだ(昨年日米の両女子オープンに優勝した、才色兼備のチョン・インジプロは、体格もあるから米ツアーで)。

 日本女子ゴルフ界では、最近渡邉彩香プロ、鈴木愛プロや勝みなみアマのように馬力のある選手が出てきて頼もしい限りだが、私好みのプロも頭角を現してくれたら嬉しい。


 ここまで書いているのを我妻が見たとしたら、「だったら、韓国の女性と結婚すればよかったでしょ!?」ときっと怒るにちがいない。

 私は、男性から見た女性ランキングは、日本女性が世界一だと思う。体操の世界チャンピオンの内村航平さんと同じだ。球技は、50年前と較べても、野球の神様ベーブ・ルースの時代とそんなに変わっていない。サッカーの王様ペレのプレーも現在と遜色ない。ところが、体操界は飛躍的に技の難度が高まり、1964年東京オリンピックの時の演技を見ると、現在とでは失礼ながら子供と大人ぐらいの差がある。それで、現在かの体操王国中国もオールラウンダーではなく、各種目のスペシャリストを育てる方針をとっている。そんな中、内村選手は、「あん馬」「つり輪」「ゆか」「平行棒」「跳馬」「鉄棒」の6種目各項目必ずしもトップではないが、個人総合では断トツのKing of gymnastics(世界選手権6連覇)だ。

日本女性も内村選手と同じだと本当にそう思う。スタイルは体操のあん馬のようなもので日本人はやや苦手と言えるが、「スタイル」「美顔」「肌の綺麗さ」「貞潔」「勤勉」「気遣い・優しさ」「奥ゆかしさ」の7項目の総合点ではQueen among women of the worldだ。

妻の実家を建て替え、ポチ犬としての部屋を充てがわれている身の上としては、これぐらいの気遣いは欠かせない。




2016.3 NO.57 イケメン VS イクメン

 国会議員の育児休暇取得問題はどうなったのであろうか?

言い出しっぺの議員自身は不倫騒動で議員辞職し、議論の外へ退場してしまった。

昨年末TVのニュース番組を見ていたら、イケメンと美人とのカップルの結婚披露宴が映し出されていた。国会議員同士の結婚は珍しくもないのにと思ったが、国会議員たる新郎が育児休暇を宣言したことが話題で、放映の尺が結構長かった。

 来賓の二階総務会長は、めでたい席ということで言葉を選びながらも苦言を呈していた。重鎮らしい挨拶と思った。驚いたのが、次に挨拶に立った菅官房長官。なんと議員立法へと発言した。解せぬ。女性の社会進出支援の政府の立場というより何か下心があるのかとゲスの勘繰りをしたくなった。

新郎(宮崎謙介衆議院議員)はもとより新婦(金子恵美衆議院議員)の方も、夫の育児休暇を肯定する祝辞には笑顔になり、否定的な発言には不満げな顔をしていたとお見受けした。

 育児・介護休業法における育児休業は、育児における男女平等を謳っているのであり、夫婦両方の育児休暇取得を認めていない。両方とも国会議員であれば、夫の議員が育児休暇をとるということは、最大1年、数か月の間妻が議員活動することを意味する。

妻の金子議員にすれば、出産後速やかに国政に復帰でき、しかも夫がイクメン議員として名を馳せる。一石二鳥にすることもできたハズだ。だが、そんな目論見書があったとしても、夫の妻への裏切りに対する世間のバッシングが燃え盛り、灰燼に帰してしまった。夫に怒り心頭ながらも、恥をかいてきなさい!と金子議員は懐の大きさを見せていたのに、なぜか妻が夫を辞職させたみたいに報じられてしまう。議員の育休を論外と思う私でも、産後の肥立ちは?と心配な気持ちになった。

国会議員の取得が議論を呼んでいる育児休暇はそもそも法律で定められた労働者の権利。組合員と非組合員の分かれている大手企業では組合員の権利ではないのか。国会議員は企業の組合員と同じと言えるだろうか?

 戦前は職業軍人、今では職業裁判官は耳にするが、職業代議士とは聞き慣れない。議員活動の対価としての支給金を、歳費という。それはなぜか?  Wikipediaで歳費を見ると、「近代に入って議員の立場が身分代表から国民代表へと変化して一種の名誉職とされるようになると、議員の活動に要する費用は自ら支払うべきものとして無報酬とする無償主義がとられることとなった」としている。歳費の法的根拠を費用弁償説(歳費には生活の保障という意味はなく職務遂行上必要となる出費について弁償したもの)に求めるものだ。

民間においても、私が所属した二つの社団法人の役員も無給であり、手弁当だった。民間企業の取締役も、会社との関係は委任であり、民法上は無償となっている。

名誉職及び費用弁償説に従えば、子育てを含め私生活の問題を国会に持ち込むことはないだろう。

しかし、費用弁償説に立てば、財力がない若い有為な人材が国会議員への道を閉ざされるという弊害が生じるとして、現在は報酬説が有力とのことだ。

議員が歳費として受け取る報酬は、月額129万4千円。ボーナス等を加算すると年収は2,400万円ほどになる。これだけの金額を民間で得られるのは大企業でも50才前後の取締役であろう。さらに文書・交通費として月額100万円支給されることや党からの政党交付金を勘案するとなんと年収は4,000万円以上。金額だけで言えば大企業の社長並みとなる。そんな高い地位と高禄を食む者にとって育児休暇が問題なると思うのか。

そんなに育児休暇を!と労働者としての権利を国会議員が主張するのであれば、民間と同じように、国会議員も若葉議員(当選1~2回、年齢加味)とそれ以外の青葉議員に分ければよい。若葉議員の歳費とボーナスの合計は800万円以下。大臣、副大臣等の役職は青葉議員からと提案すれば、少なくともサラリーマンからの非難は避難できるかもしれない。

私からすれば問題は、当の宮崎前議員だけではなくこれに同調する若手議員が少なからずいたということだ。若気の至りとするなら、悩み苦しむ民がいる拉致問題や介護問題等について突拍子もない解決策を提案して呆れさせることの方がよほどましというものだ。

今どきの国会議員はどうなのかと思い巡らした矢先、警視庁OBで作家の濱嘉之氏の小説『頂上決戦』(文春文庫:2016年1月発刊)を読んだ。本のP249にて主人公の警視庁公安部・青山望に作家は次のように言わせる。「議員給与も半分に減額して国会議員は名誉職にしてしまう。それに政党助成金を廃止することだな」「金目当ての議員なんていらない・・」「・・あまりに無能な議員が増えて、この国の将来はどうなることやら・・」

米国の大統領選予備選挙を見ても、政治家の質の低下は日本に限ったことではなさそうだが、志のない薄っぺらな議員を選んだ選挙民の責任だと言ってもはじまらない。

数を目当てに、志や国家観もなく、ただ“国会企業”に就職したいだけの者を代議士にする。志や高い見識を持つならまだしも無理やりに芸能人やスポーツ選手を参議院議員にするぐらいなら、議員数を減らし少数精鋭にした方が日本の政治にとってよほどプラスになろう。官僚支配に対抗するためと言うが、「数」で「質」は補えない。減って困るのは、国民ではなく、政治家だけだ。

平和ボケから目覚める今求められるのは、衆院定数(10)減大幅前倒しではなく、衆院定数大幅削減だ。