2016.5  NO.59 ップ VS  ップ

卒職後以前よりBSを観ることが多くなると、韓流の時代劇、とくに李氏朝鮮(王朝)時代の政治を舞台にしたドラマが繰り返し再放送されていることを知った。

『大王世宗』は、ハングルの制定を成し、歴代最高の君主として今も国民的英雄と崇められる第4代世宗の物語。テーマは「賢者が王になるべし」。『トンイ』は、賤民の出ながら王の母になり、息子(後の第21代英祖)に身をもって賤民のために尽くすことを教える。『イ・サン』では、今度は英祖が孫の第22代正祖に教える。「聖君が備えるべき徳とは"民を慈しむ心を持つこと"である」と。これらTVドラマの韓国の視聴率はいずれも高い。韓国民がトップの理想像として見ているのだろう。

現実はどうか。現職の大統領はかの頑迷な朴槿恵氏で、その後釜と目されているのは歴代最低と批判されている国連事務総長の潘基文氏。韓国民に対し同情を禁じ得ない。

 かくいう日本も韓国のことを言える立場にない。子供の頃国のトップのあるべき姿として、民のかまどより煙がたちのぼらないのを見て、「貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうなら、地方はもっとひどいだろう」と思いを馳せられた仁徳天皇を教えられた。生類憐みの令で悪名高い徳川綱吉将軍でさえ、気鋭の論客古谷経衡氏の新書『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』によれば、「あくまで犬を媒介とした弱者救済の思想と解釈すべきで、犬のために人を殺したとする解釈は不正解」と再評価される。

国民、とくに底辺にいる民に目をかける精神は建前にしろ小泉政権が誕生する前までは守られていた。今の安倍政権は、一億総活躍と言っても一億総幸福とは言わない。佐藤優氏は池上彰氏との雑誌対談で一億総活躍では2千数百万人を切り捨てるのかと揶揄する。

拉致被害者の兄蓮池透氏は自著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』で安倍首相の冷血な一面を暴露した。ネット上の「保育園落ちた。日本死ね!!!」との若き母親の叫びに対する国会答弁に首相の下々に対するつれなさを垣間見た気がした。

私も当初拉致問題で頭角を現し、第一次安倍内閣ができた前後は、首相の家庭教師をしていた平沢勝栄議員が言っていたように頭はよくないかもしれないが、いい人だと思っていた。しかし、今は両方悪いと思っている。上述の正祖と違って、祖父から、能力は隔世遺伝していないが、人の悪さは引き継いでいるのかも。とても賢者とは言えない。

賢者とは何か。①頭が良い、②私心がない、③あまねく民を慈しむ、④常に賢者にふさわしいかと自問する、ということである。①頭が良いと②私心がないは、表裏一体かもしれない。頭のよくない者は、私もそうだが、見方が偏ることと自分のことしか考えない。誰にでも活躍する権利はあるが、分をわきまえることが肝要。リーダーシップ(leader + ship )を発揮する、大きな船、つまり、国を導くトップは賢者でなければならない。

30年ほど前か銀行員時代に読んだ司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』で登場する東郷平八郎海軍大将は世界から称賛されるほどの賢者とは描かれていなかった。トップは賢者でなくてもよいのかと思い、今度は下村寅太郎氏の『東郷平八郎』を読んでみた。1943年に書かれ漢字にルビが振られている。講談社学術文庫の文庫本では1981年の初版から13版まで増版される名著だ。表紙の海軍大将の正装?のポートレートは、威風堂々というか、威圧感すら感じる。とても凡庸に見えない。作者の下村氏は「天才秋山真之あっての東郷平八郎であり、東郷平八郎あっての秋山真之」と言う。賢者に求められる頭の良さは、IQとか学歴とは関係ない。私心がなく、寡黙、沈着冷静、決断力、そこから生まれる部下を心腹させる力が東郷大将にはあった。軍人と政治家は違うかもしれないが、東郷大将が、今の首相であったとしたら、不用意にバカな発言をする自民党代議士もいないし、女性票に媚びてか、実力が伴っていない女性議員を大臣することもないことだろう。

自民党のゆるみ、たるみ、驕りと言うが、トップが賢者であれば「勝って兜の緒を締めよ!」と言うだろう。首相の悲願・憲法改正を成し遂げるまではと引き締めを図るだろう。

トップは、賢者でなくとも、それを自覚して、賢者を広く登用すれば、賢者に近づくことはできるかもしれない。しかし、賢者でないことを認めようとせず、賢者を遠ざけ、類が類を呼ぶのであれば、そんな者達に憲法改正をされてはたまらない。ましてや、戦争の悲惨さを知らない世代の賢者でない者たちに(私も戦後5年経って生まれた戦争を知らない世代だが、それでも子供の頃白木綿の着物を着て傷痍軍人がハーモニカやアコーディオンを奏で街角に托鉢僧のように立っていたのを見て戦争は嫌だと肌で感じていた)

コンプレックスをもち、批判に耐えられない者は、規律と従順のシンボルとしての犬を偏愛したヒトラーのように、言論を封殺していく。現に犬好きをトップにもつ自民党の憲法改正草案も、ワイマール憲法で唯一の盲点を悪用しヒトラーを独裁者にした、まさにその緊急事態条項を持ち出すのは、頭かくして尻隠さずにもなっていない。

かの佐高信氏は、興味深いタイトルほどの内容はなかったが、『安倍晋三と岸信介と公明党の罪 新・佐高信の政経外科』(河出書房新社)を新年早々上梓した。『世界』4月号は「アベノミクス破綻」をテーマに特集を組んだ。『新潮454月号(P7576)で「『戦後レジームからの脱却』もすっかり色あせ、“変節安倍首相を保守層が見限り始めた」とジャーナリスト風間進氏は論難する。有識者も舌鋒が鋭くなってきた。

しかし、大衆の大勢はまだまだ「安倍さんはよくやっている」「お上のすることに盾突くのはよくない」「長いものに巻かれてりゃいい」と思っている。

数をおさえれば、賢者でない者でも、賢者にはなれないとしても、ヒトラーもどきになることはできる。民主主義は独裁者を生む危険性を孕んでいる。

 

2016.4 NO.58 キムヒ VS キム

 キムヒとキムヒ。キムヒョジュとキムヒョジュ。ともに前者が韓国女優で後者が韓国出身の女子プロゴルファー。韓国では一字違いの名前が多い。女優の一例を挙げても、パクシヨン、パクセヨン、パクソヨン、パクチヨンと続く。判別するのが難しい。

日本で再放送された人気韓流ホームコメディー『家族なのにどうして~ボクらの恋日記~』のヒロイン・キムヒョンジュさん(髪を結んだ顔が好みだが、演技も上手い)をネットで検索したら、キムヒョンジュさん(人気男性歌手兼俳優)が混じり、すこし混乱した。

韓国は学歴社会で、女優もプロゴルファーも大卒が多い。高学歴の韓国女優NO1と言えば、ソウル大学卒のキムテヒさん。日本で匹敵するのは東大(工学部)卒の菊川怜さんだが、TVの報道番組で福澤朗MCに弄られて女優としての神秘性が薄れてしまったのは残念だ。

 キムテヒさんのような知性と清楚な容貌を兼ね備える、あるいは、そんなイメージの女優は、韓国には他に韓国の吉永小百合と言われたイ・ヨンエさんや若手ながら千万女優と呼ばれるハン・ヒョジュさん(TVドラマ『トンイ』、映画『監視者たち』に主演)がいる。韓国以外にも、中国では女神と呼ばれるファン・ビンビンさんがいる。インドの吉永小百合・シュリデヴィさんはとても50代と思えない。残念ながら日本ではすぐに思いつかない。

 昔はサユリスト(吉永小百合さんファン)とコマキスト(栗原小巻さんファン)とで男性ファンが競い合っていた。しかし、1986年頃後藤久美子さんが国民的美少女として人気を博し、それ以降全国美少女コンテストが行われるようになり、対象が若年化していった。

 私自身は、サユリストでも、コマキストでもなかった。子供の頃は、若尾文子さん、五月みどりさんがきれいだと思った。今は叶わぬ夢となった、男性ホルモンが湧きいずる泉のごとくであった頃には、ひし美ゆり子さん、叶和貴子さん、佳那晃子さん、原日出子さんらが好きだった。皆さん男心をそそる色白美人だ。

 今は私が高尚になって嗜好が変わったなどと言うつもりはない。単に男性ホルモンが枯渇してきて、知的で清楚なタイプの女優にも関心が高まってきたに過ぎない。

 韓国の女優は、大学卒業後デビューして韓国内で人気が沸騰し日本でも名前が知られるようになる頃には30歳を超えることになる。私の対象としてはちょうどよい年恰好なのだ。前期高齢者入りのジジィのくせに!と言われる筋合いはない。眺めているだけだから。若い人は自分の相手として捉えるから整形か? 性格は?とうるさいが、そんなことどうでもよい。

 キムテヒ(36)さんは反日女優のレッテルを貼られ来日出来ないのが残念だが、他にも、慶応大の某教授が「韓国女優ソン・ユリのような清楚な女優は日本には・・・」と題して書いたブログ(2010.10.29)で知ったソン・ユリ(35)さんは、画面を通しても肌の綺麗さが分かる美人だ。韓流ドラマ『怪しい三兄弟』『笑ってトンヘ』に出演していたオ・ジウン(34)さんも明るくて可愛いく、オジンの私好みだ。


ミセスのキムソヒさんは日本で2勝をあげた女子プロゴルファー。まだ33歳と若いのにクラブよりも鍋をふることを選び一昨年引退し家庭に入った。日本で活躍した韓国女性プロとしては何と言っても1983年日本に来た故具玉姫プロ(日本で23)が有名だ。今は李知姫プロ、全美貞プロ、それから日本男性ファンも多い昨年賞金女王イ・ボミプロがいる。

女子プロとしては、私は実力と女性らしさを兼ね備えた選手を好きになる。1988年のルーキーイアーで全米オープンを優勝したリサロッテ・ノイマンさんは、同じスェーデン出身の往年の名女優イングリッド・バーグマンさんを彷彿させ、ファンになった。

今は今年の米女子ツアー開幕戦を制した、二十歳のキムヒョージュプロがお気に入りだ。身長は165センチ色白で流れるようなスイングが美しい。一昨年のメジャー『エビアン・チャンピオンシップ』において、最終日最終ホールで逆転優勝した時、キャディーから優勝したよと声をかけられたとき、ホント!?と恍けたようなしぐさがなんとも愛らしかった。米国から日本に主戦場を移した申智愛プロのように、キムヒョージュプロも日本でプレーしてほしいものだ(昨年日米の両女子オープンに優勝した、才色兼備のチョン・インジプロは、体格もあるから米ツアーで)

 日本女子ゴルフ界では、最近渡邉彩香プロ、鈴木愛プロや勝みなみアマのように馬力のある選手が出てきて頼もしい限りだが、私好みのプロも頭角を現してくれたら嬉しい。


 ここまで書いているのを我妻が見たとしたら、「だったら、韓国の女性と結婚すればよかったでしょ!?」ときっと怒るにちがいない。

 私は、男性から見た女性ランキングは、日本女性が世界一だと思う。体操の世界チャンピオンの内村航平さんと同じだ。球技は、50年前と較べても、野球の神様ベーブ・ルースの時代とそんなに変わっていない。サッカーの王様ペレのプレーも現在と遜色ない。ところが、体操界は飛躍的に技の難度が高まり、1964年東京オリンピックの時の演技を見ると、現在とでは失礼ながら子供と大人ぐらいの差がある。それで、現在かの体操王国中国もオールラウンダーではなく、各種目のスペシャリストを育てる方針をとっている。そんな中、内村選手は、「あん馬」「つり輪」「ゆか」「平行棒」「跳馬」「鉄棒」の6種目各項目必ずしもトップではないが、個人総合では断トツのKing of gymnastics(世界選手権6連覇)だ。

日本女性も内村選手と同じだと本当にそう思う。スタイルは体操のあん馬のようなもので日本人はやや苦手と言えるが、「スタイル」「美顔」「肌の綺麗さ」「貞潔」「勤勉」「気遣い・優しさ」「奥ゆかしさ」の7項目の総合点ではQueen among women of the worldだ。

妻の実家を建て替え、ポチ犬としての部屋を充てがわれている身の上としては、これぐらいの気遣いは欠かせない。




2016.3 NO.57 メン VS メン

 国会議員の育児休暇取得問題はどうなったのであろうか?

言い出しっぺの議員自身は不倫騒動で議員辞職し、議論の外へ退場してしまった。

昨年末TVのニュース番組を見ていたら、イケメンと美人とのカップルの結婚披露宴が映し出されていた。国会議員同士の結婚は珍しくもないのにと思ったが、国会議員たる新郎が育児休暇を宣言したことが話題で、放映の尺が結構長かった。

 来賓の二階総務会長は、めでたい席ということで言葉を選びながらも苦言を呈していた。重鎮らしい挨拶と思った。驚いたのが、次に挨拶に立った菅官房長官。なんと議員立法へと発言した。解せぬ。女性の社会進出支援の政府の立場というより何か下心があるのかとゲスの勘繰りをしたくなった。

新郎(宮崎謙介衆議院議員)はもとより新婦(金子恵美衆議院議員)の方も、夫の育児休暇を肯定する祝辞には笑顔になり、否定的な発言には不満げな顔をしていたとお見受けした。

 育児・介護休業法における育児休業は、育児における男女平等を謳っているのであり、夫婦両方の育児休暇取得を認めていない。両方とも国会議員であれば、夫の議員が育児休暇をとるということは、最大1年、数か月の間妻が議員活動することを意味する。

妻の金子議員にすれば、出産後速やかに国政に復帰でき、しかも夫がイクメン議員として名を馳せる。一石二鳥にすることもできたハズだ。だが、そんな目論見書があったとしても、夫の妻への裏切りに対する世間のバッシングが燃え盛り、灰燼に帰してしまった。夫に怒り心頭ながらも、恥をかいてきなさい!と金子議員は懐の大きさを見せていたのに、なぜか妻が夫を辞職させたみたいに報じられてしまう。議員の育休を論外と思う私でも、産後の肥立ちは?と心配な気持ちになった。

国会議員の取得が議論を呼んでいる育児休暇はそもそも法律で定められた労働者の権利。組合員と非組合員の分かれている大手企業では組合員の権利ではないのか。国会議員は企業の組合員と同じと言えるだろうか?

 戦前は職業軍人、今では職業裁判官は耳にするが、職業代議士とは聞き慣れない。議員活動の対価としての支給金を、歳費という。それはなぜか?  Wikipediaで歳費を見ると、「近代に入って議員の立場が身分代表から国民代表へと変化して一種の名誉職とされるようになると、議員の活動に要する費用は自ら支払うべきものとして無報酬とする無償主義がとられることとなった」としている。歳費の法的根拠を費用弁償説(歳費には生活の保障という意味はなく職務遂行上必要となる出費について弁償したもの)に求めるものだ。

民間においても、私が所属した二つの社団法人の役員も無給であり、手弁当だった。民間企業の取締役も、会社との関係は委任であり、民法上は無償となっている。

名誉職及び費用弁償説に従えば、子育てを含め私生活の問題を国会に持ち込むことはないだろう。

しかし、費用弁償説に立てば、財力がない若い有為な人材が国会議員への道を閉ざされるという弊害が生じるとして、現在は報酬説が有力とのことだ。

議員が歳費として受け取る報酬は、月額1294千円。ボーナス等を加算すると年収は2,400万円ほどになる。これだけの金額を民間で得られるのは大企業でも50才前後の取締役であろう。さらに文書・交通費として月額100万円支給されることや党からの政党交付金を勘案するとなんと年収は4,000万円以上。金額だけで言えば大企業の社長並みとなる。そんな高い地位と高禄を食む者にとって育児休暇が問題なると思うのか。

そんなに育児休暇を!と労働者としての権利を国会議員が主張するのであれば、民間と同じように、国会議員も若葉議員(当選12回、年齢加味)とそれ以外の青葉議員に分ければよい。若葉議員の歳費とボーナスの合計は800万円以下。大臣、副大臣等の役職は青葉議員からと提案すれば、少なくともサラリーマンからの非難は避難できるかもしれない。

私からすれば問題は、当の宮崎前議員だけではなくこれに同調する若手議員が少なからずいたということだ。若気の至りとするなら、悩み苦しむ民がいる拉致問題や介護問題等について突拍子もない解決策を提案して呆れさせることの方がよほどましというものだ。

今どきの国会議員はどうなのかと思い巡らした矢先、警視庁OBで作家の濱嘉之氏の小説『頂上決戦』(文春文庫:20161月発刊)を読んだ。本のP249にて主人公の警視庁公安部・青山望に作家は次のように言わせる。「議員給与も半分に減額して国会議員は名誉職にしてしまう。それに政党助成金を廃止することだな」「金目当ての議員なんていらない・・」「・・あまりに無能な議員が増えて、この国の将来はどうなることやら・・」

米国の大統領選予備選挙を見ても、政治家の質の低下は日本に限ったことではなさそうだが、志のない薄っぺらな議員を選んだ選挙民の責任だと言ってもはじまらない。

数を目当てに、志や国家観もなく、ただ“国会企業”に就職したいだけの者を代議士にする。志や高い見識を持つならまだしも無理やりに芸能人やスポーツ選手を参議院議員にするぐらいなら、議員数を減らし少数精鋭にした方が日本の政治にとってよほどプラスになろう。官僚支配に対抗するためと言うが、「数」で「質」は補えない。減って困るのは、国民ではなく、政治家だけだ。

平和ボケから目覚める今求められるのは、衆院定数(10)減大幅前倒しではなく、衆院定数大幅削減だ。




2016.2 NO.56 イツ VS イツ

 ドイツと日本が防共協定を結んで今11月で満80年を迎える。

 そのドイツに関して昨秋対子(トイツ:麻雀用語)をなして新書が上梓された。一冊は熊谷徹氏の『日本とドイツふたつの「戦後」』(集英社新書、20157)。もう一冊は三好範英氏の『ドイツリスク』(光文社新書、20159)。内容は、ドイツ(以下「独国」)に学ぶべきか否かで対置している。前者は独国に学ぶべきだとするスタンスであり、後者は副題に『「夢見る政治」が引き起こす混乱』と付けているように独国を見習うことに警鐘を鳴らしている。本ブログの読者も読み比べされてはと思う。

 戦後70年経った今独国は日本に反省が足りないと言う。独国の反省は、国民全体の戦争犯罪ではなく、ナチスによるホロコースト(その残忍極まりない現実を描いた映画『サウルの息子』が今公開されている)。そうであるならば、独国が言うべき相手は、勝るとも劣らない残虐な原爆を投下した米国に対してであろう。原爆「マンハッタン計画」の関係施設を国立歴史公園化する暇があるのなら、広島に行き原爆死没者慰霊碑文の「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」のあとにby Americaと刻むようにと。

 日本が反省すべきはナチス・独帝国と同盟を結んだこと。米国のルーズベルト大統領は対独戦争の参戦のためその口実として独国の同盟国日本を戦争に引き込んだとの見方がある。そうでなくても、そもそも幕末から尊王攘夷に走りだしたのは、列強国に清国が蹂躙されているのを目の当たりにして、列強国から、とくにロシアから日本を守ることにあった。第二次世界大戦前夜においてもロシア(ソ連)が脅威だったので、ソ連と敵対する独国と組んだ。しかし、その時点で民主主義を錦の御旗とする連合国から日本も他国を侵略する賊軍扱いされてしまった(関東軍の暴走は侵略と言われても仕方がないが)

 日本は植民地にされたくないというのが富国強兵の第一義であった。よって、統治、併合した台湾や韓国に同化政策を採り、列強国のような奴隷扱いはしなかった。韓国は認めないが、台湾は日本の敗戦後「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」との諺が市井に流れた。日本に統治されたことは許し難いが、今日の台湾の基礎を日本が造ったと評価もしている。

 1994年にマレーシアに当時の村山首相が訪問したとき、謝罪する村山首相にマハティール首相は「日本が50年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ」と言った。その当時他の日本国民も同じだと思うが、私も「ありがたいが、そう言われても」という感じであった。

 しかし、その後20年経ち、中国共産党(敵の国民党の敵日本は味方)、韓国(日本人として一緒に戦った)は、建国が「抗日」「反日」なので、その矛盾を覆い隠すためには次々と反日カードを切り謝罪を要求していかざるを得ないと理解した。謝罪外交は意味を持たない。とりあえず謝るという愚は繰り返してはならない。毅然と史実で対抗する一方、反日で自国経済が疲弊すれば日本にすり寄ってくる。それを待つだけでよいではないか。

 それよりも日本がどういう国を目指して行くのかを考え、世界に発信していくべきだ。改憲せず安保法制だけを急いだのは、国民だけではなく、世界を訝らしただけだ。

尖閣に紅船が来襲したが、米国は日本を守るというより米国の利益に反するから中国に手を出させない。米中二大強国時代が続く限り米国は日本を切らない。切れば、オセロのごとく日本が中国と一緒になって敵対してくることになる。安倍首相は安保法制を現宗主国米国に朝貢したにすぎない。自身に対する覚えをめでたくするために。私心なく尊王攘夷に命を投げ出し、明治の大舞台に立てなかった吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞等の長州人と同じDNAを安倍首相が引き継いでいるとは思えない。

 世界を麻雀に例えると、麻雀牌は数牌、字牌合わせて34種類あるが、数字、漢字いずれも刻まれていない牌は白牌(俗にパイパンと言う)だけである。日本は白牌、Only Oneを目指そう。發、中、白の3種という最少の種類で役満を構成する大三元。發(はつと読む。青とも呼ぶ)、中(チュンと呼ぶ、字は赤い)、それと白だ。米国を發牌と擬えれば中国は中牌にあたる。NO1争いは發と中でやってくれ。日本としては、青の色を少しずつ落としていき、赤にも染められず、それでも環太平洋での平和という大三元の役満には白という日本が不可欠という、そういう存在を目指してほしいものだ。

 しかし、Only Oneといっても、“独善”になってはいけない。イギリス人アナリストで日本の美術関連企業の社長でもあるデービッド・アトキンソン氏が著書『イギリス人アナリストだからわかった日本の「強み」「弱み」』で、言葉を選びながら問題点を指摘してくれる。日本人が各国の料理を日本人の口に合うようにアレンジしているのに、和食が海外でアレンジされるのを声高にあげつらうのはとの旨を読んで、なるほど!と思った。

また、大虐殺とは決して容認できぬとはいえ、白髪三千丈の国からの南京失陥事件を記憶遺産から削除することを求めるなら、シベリヤ抑留も登録すべきでない。加害者と被害者がいる事をユネスコにさも競うかのように登録する風潮に、日本は乗るべきではない。

 

3.11の東北大地震の折日本に暴動が起こらないことに世界は驚嘆した。しかし、その真珠のごとく輝くべき白牌(日本)がくすんできた。貧富格差の拡大。人が人を裁く(裁判員制度)。人が人を売る(司法取引)。洋の東西を問わぬ、“罪を憎んで人を憎まず”の普遍的信条・価値観を勝手に変え、罪でなく人を憎む(暴力団排除条例)

マスコミも、野々村元兵庫県議の号泣会見の動画を何度も何度も放映するところをみると、罪よりも人が憎くいようだ。実話に基づく映画『ビリギャル』で主人公の母は「娘が仲間を売らなければ退学との学校方針なら、それで構わない!」とタンカを切った。庶民に息づいているものをお上がなぜ壊そうとするのか。守るのがお上の役目ではないのか。

かくして、白牌としての資格たる「和の精神」が揺らぐ。

大衆は、長いものに巻かれることはできても、お上を正すことなどできない。官僚もお上で矛盾するかもしれないが、官僚しかいない。若き官僚達は何思う。官僚を目指した者は城山三郎氏の『官僚たちの夏』を皆読んでいるハズ。時代が違うと逃げるのか。

ノブレス・オブリージュの意味を今一度噛みしめてほしい。


2016.1 NO.55  いぶさき VS いぶさき

あいぶさき。愛撫先の話で、人気若手女優とは関係はない。

若い頃は夫婦諍いしても共寝すれば、それで仲直りして、言葉は必要なかったかもしれない。体の結びつきがなくなれば、心の結びつきがより大事となる。心の結びつきにはまず言葉の愛撫が欠かせない。

10年前の秋渡哲也さんと松坂慶子さん共演のTVドラマが人気を博し流行語となった『熟年離婚』は今も少なくない。2013年の「20年以上連れ添った熟年夫婦が離婚する件数」は38千件を超えているとか。

どうして何十年も一緒にいて今更別れるのか理解できないと言う人は少なくない。20年間で2つの非営利団体の事務局長をしていた私はその妻の気持ちが何となく理解できる。事務局長もトップを支える妻のような立場だ。考え方や性格が違っていても主人のために尽くし、我慢もする。

十分尽くしてきたからもういいだろうという妻の気持ちを亭主は理解できず、離婚を切り出されると、驚愕し困惑する。Why Japanese wives!?

労りとか思いやりの言葉があれば続けられるかもしれないが、言わなくてもわかるだろうというのは男の論理。妻は口で言ってもらわないと分からないと言う。

トミー・リー・ジョーンズさんとメリル・ストリープさんとの名優2人が共演した『31年目の夫婦げんか』を数年前妻と観た。名女優が扮する妻は今は夫が触ってもくれないとカウンセラーに訴える。妻が年を重ね容姿が衰え女としての自信を無くしていくことに、夫の無関心さが追い打ちをかける。

私は、妻の天気予報ではないが、毎朝おはよう!の代わりに台所に立つ妻のお尻を触る。機嫌が良ければなにも言わない。ふつうだと「や・め・て」。機嫌が悪い時は「だから嫌だと言っているでしょ!」と怒る。私は映画の話を持ち出すが、妻は「人それぞれ。私は迷惑!」と言う。

読者から家庭内セクハラと言われかねない、こんな私とて日本男子の端くれ、面と向かって感謝の意を伝えることは苦手だ。しかし、ブログエッセイの中ではてらいもなく思いを吐露できるものだ。

あるとき、高校の東京同期会で、本ブログエッセイを読んでくれている同期生の岩木君が「あの話は奥さんにぜひ読んでもらった方がよい」と言ってくれた。たぶん「かけがいのない かけがえのない」(20153 NO.45)のことだと思うが、妻に同期生がそう言っているよと伝えた。

どうせ私のことを小馬鹿にしているだけだから(まぁ、そのとおりなのだが)と読もうとしなかった妻でも読んでみる気になったのだろう。ブログの字が小さく目が痛くてあまり読めなかったと弁解していたが、きっとその号は読んだにちがいない。それ以来こころなしか私への扱いが良くなったと思う。

しかし、夫婦というもの言葉の愛撫があれば安心というわけでもない。霊長類の人間はそんなに単純ではない。とくに女はややこしい。

週刊誌によると、いまどきの老人はお盛んらしい。品行方正に夫がしてさえすれば妻が離れない、不倫しないかというと、そうでもない。夫が安全牌(麻雀用語)と解ると、つまらなくなり、ほかの男に眼が移りがちだ。何歳になっても隙あらばいつでも浮気するぞと見せかけることも必要だ。眼を放すと何をするか分からないと妻に思わせ、心の余裕をもたせないのが正解だ。残念にも私は前立腺がん放射線治療の副作用でこの手は通用しないが。


熟年離婚なんてまだだいぶ先だと高を括っている亭主達、今から態度を改めないと後の祭りだ(寂しく一人で正月を迎える姿を想像するとよい)

誰のおかげでと私が言おうものなら3倍にして言い返してくる我妻なら大丈夫だが、反論もせずぐっと堪えている妻なら、その夫婦は間違いなく熟年離婚予備軍だ。

離婚すれば夫婦の共有財産を分けるだけではなく、年金も分割される。妻が不貞を働いたとしても関係ない。

熟年離婚すると、捨てられた夫は孤独と慣れない家事で途方に暮れる。さらに妻へ分割された分受け取る年金額が減り、想定していた生活レベルは維持できないかもしれない。そうなると、著書『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』で藤田孝典氏が命名した「下流老人」(生活保護基準相当で暮らす高齢者及びその恐れがある高齢者)への転落もありうる。大病でもすれば「老後破産」さらには「孤独死」に至る。

国民のためではなく、自身の野望ために、大企業や富裕層に資する施策を採る時の政権は、一億総活躍ではなく、一億総老後崩壊に拍車をかける。

女のホームレスは少ない。女はなにかとつぶしが利く。つぶしの利かない老亭主達、元旦に神や仏に感謝するのもよいが、もっと“かみさん”に言葉に出して感謝をしよう!




2015.12 NO.54 けつ VS けつ

 警察の威信をかけて何としても解決したい未決事件は20年前の八王子スーパー強盗殺人事件(以下「八王子事件」)15年前の世田谷一家殺害事件(以下「世田谷事件」)である。

 八王子事件に関して、使用された拳銃がフィリピン製と判明したと今7月に報道された。暴力団か外国人しか入手できないだろう。しかも犯人が複数の可能性があるとも報じられた。暴力団でも日本人は恨みもない女性に至近距離から頭を撃つようなことはしないだろう。複数犯であれば暴力団とか日本人が手引きし外国人が撃ったと見るべきだろう。

 一昔なら時効という15年の節目を翌年に控えた昨年の1229日フジテレビの日曜朝の報道番組にて、世田谷事件が取り上げられた。東京都公安委員長がなぜか夜にリビングの床を数分間凝視していたのをメディアに撮らせるのはどういう意味があるのかと訝った。

 事件当初止血用バンドエイド缶付着の指紋等遺留品が多く高を括り初動捜査を誤り迷宮入りさせた失態に対するスタンドプレイとも思えない。隠語でハムと呼ばれる公安となれば外国人か宗教関係者を想起する。犯人が分かっていても壁があり逮捕できないのを犯人に向かって「絶対捕まえてやる!」との強い意志表示を画面を通して行なったと思うべきなのか。仮に宗教関係者だとしてもこんな残虐なことは日本人にはできないだろう。



ちょうどその頃(昨年12)、フランスの深刻な移民問題を映し出した『サンバ』と戦前カナダに移民し差別された日系人が野球に希望を見出していく『バンクーバーの朝日』の映画が封切りされていた。

 両作品により日頃考えることがなかった移民問題に少し関心をもったところ、年明け2月に作家の曽野綾子女史が産経新聞に掲載したコラムがアバルトヘイト政策を推奨する差別的発言と海外から批判された。

人種別に住むところを「区別」してとそれで文を終えれば、それは「差別」と南アフリカ等だけではなく、国内からも、週刊誌で大橋巨泉氏や古賀茂明氏らから批判されるのは仕方がない(今年8月に発刊された『大放言』にて著者の百田尚樹氏は曽野女史のその発言を擁護している。これと韓国に謝罪せよとのくだりはまさに大放言に値する)

 批判に対する回答が書かれているとの触れ込みで、クリスチャン曽野女史の『人間の愚かさについて』を購読したが、またぞろ後悔した(前に『老いの才覚』を購読して後悔したハズなのに)。韓国旅客船セウォル号が沈没し韓国のクリスチャンの子弟も多く海に沈んだままという時期に、第一話のP13で「しかし事故で犠牲になった人たちの遺体捜索のために膨大な人手とお金を使うことに、私は反対だ。・・・」と言う。第五話では、ソチオリンピックの折の森元総理の発言に大人の対応を見せた浅田真央さんの言葉使いがおかしいと水を差す。言論の自由とはいえ、後は真面目に読む気がしなくなった。

本の「あとがき」には、批判されたことに触れているが、女史は、反省も弁明もしているとは思えない。たかが小説家の言うことにと問題をすり替えているように思える。たかがと言うなら週刊現代等での日本のご意見番きどりはお止めになったらよろしかろう。

 安倍総理のアドバイザーか?との疑問には女史は答えている。あとがきにて否定しているが、本文においても同著のP137に「安倍総理が、信頼できる筋にしか武器を売らないという意味の発言をしていたが、そんなことがほんとうにできると思っている人がいたら笑いものだ。」と書いている。

 私も女史がアドバイザーかと思った背景には次のような思いがある。

 安倍政権が小泉政権の格差拡大路線を踏襲し推し進める一方、英語教育の低年齢化が図られている。英語を第二母国語化し、外国労働者の流入を容易し、シンガポールやドバイのように外国労働者に支えられた社会を目指すのかとの疑問が浮かぶ。案の定、名目GDP(国内総生産600兆円」達成のため一手段として移民の受け入れをと言い出してきた。

 日本は過去台湾、韓国を植民地支配したが同化政策を取ってきた。日本は古来から「和の精神」が息づいていたが、区別した社会ではそれが壊れていきはしないか。


きつい介護の仕事を外国労働者にしてもらう考え方もあるかもしれないが、私は、反日感情を抱きながら労働報酬を得るだけの為に日本に来る外国労働者に介護されたくない(反日の国からの輸入食品を食べるが怖いのと同じだ)。日本語を話し、日本を愛し、「和の精神」を理解する人に日本に来てもらいたいものだ。

相撲界は日本社会の近未来予想図とも言える。外国人力士が増える中で相撲道の精神をどう維持していくが難しい。親方問題では大横綱の白鵬関に対しても日本への帰化という条件を譲らない。毅然としていて安心していたが、その北の湖理事長が亡くなった。その遺志を守ってほしい。さらに言えば、横綱の品格が問われる今(元横綱朝青龍関に限らず、白鵬関も、「猫だまし」だけではなく、大鵬親方没後以降の言動はどうなのか)、負け越しても降格しない特別な存在の横綱も、心・技・体を極めることに加え日本国籍を有することに昇進条件を厳しくしてはどうか(外国人横綱の阻止が目的ではなく、日本人に成りきらねば神事でもある相撲の道を究めることはできないと言う意味で)。昔のように実力だけでは大関までとする(大関の報酬を横綱とそん色ないものに改正する)ことがよいと私は考える。



今の日本は同化政策をとっていた時代とは違う。派遣法を改正し日本人においても正社員から賃金の低い派遣労働者に取って代わる。外国人ならもっとつらい思いをし、そこから生まれるのはうらみつらみかもしれない。

肌や目の色が違っても日本人より古き良き時代の日本人の心を持った外国人は大勢いる。当然日本語も覚えてくれる。そんな人たちに来てもらうだけで十分だ。




2015.11 NO.53 おんなのでね VS おんなので

 小学生の頃から連珠(五目並べ)が少し強く、と言っても高校2年の別府行き修学旅行の船中余興トーナメントで優勝する程度だが。そんなこともあり、囲碁への乗り替えが遅れ大学生になってから囲碁を覚え始めた。1970年代の当時頂点に立っていた棋士が同世代の石田芳夫二十四世本因坊や武宮正樹九段らでスーツが似合いスマートでかっこよかった。TVの囲碁番組もよく見ていたものだ。

一方、将棋は、大山康晴十五世名人から中原十六世名人の時代に代わりつつあったが、着物を着て古臭い、泥臭くさいイメージが好きではなかった。

 それから45年余り人生の起伏を味わうと、より厳しい世界の将棋に関心が移ってきた。陣地を取り合う囲碁よりも敵将を攻め取る将棋の方がゲームとしては激しい。しかも将棋棋士は一定年齢までに四段に上がらなければ引退させられる。我々凡人からすれば天才に違いないのに。青春のすべてを捧げてきた当人とっては過酷すぎる。

 歌も同じだ。若い頃演歌は聴かなかったし、唄わなかった。宴席ではさだまさしさんの『無縁坂』で押し通した。プライベートでは、井上陽水さんの『心もよう』『傘がない』、かぐや姫の『22歳の別れ』『僕の胸でお休み』などフォークソングが中心だった。

 その頃は年をとっても演歌を唄うことはないと思っていたが、今や、大川栄策さんの『さざんかの宿』、北島三郎さんの『北の漁場』はカラオケでの定番だ。

 歌手も同様だ。昔は演歌歌手に興味はなかったが、今や大月みやこさんがお気に入りだ。レコード大賞をとった『白い海峡』を妻に頼んで唄ってもらう。歌詞の「二度ともどって来るなよと言われた言葉が耳にのこる。ああ・・・」は、東京で夢破れた女が故郷に戻る船の中で別れた夫か元彼に許しを請う情景が目に浮かび、切なくなる。非日常の気分に浸れる。

 若い頃から唯一心に残っていた演歌『嫁入り舟』(野路由紀子さん)も妻に唄ってもらいたのだが、DAMでもJOYSOUNDでも選曲できない。名曲だと思うのだが。

昭和486月の初め銀行の新人研修を終え神戸駅前の配属店に初めて出勤したとき、開店前どこから入ってよいものか思案していたら、後ろから女子行員に声をかけられた。細身だが美人だと思った。その女子が社員旅行のバスの中で、嫁入り舟を唄った。まだ発売からそんなに日が経ってないハズなのだが、よほどの思い入れがあるのかすっかり持ち歌にしていた。後で分かったことなのだが、同じ職場の先輩との結婚話が破談になったとのことだった。「いちどだけ彼にあげた唇かみしめて 雨の中にかすんでゆく幸福見送る 今日の最終でこの町出たいけど老いた母ひとり残して出られない」と哀愁に満ちたこの歌をバスに同乗していたハズの元彼がどういう想いで聴いていたのかが気になった。

今も歌の題名を思い出しただけで当時のことが蘇ってくる。男はロマンチストなのだと妻に言うと、「いつまでも覚えているのは、アンタが女々しいだけよ!」と妻からバッサリ切られた。そう言えば、高校の同窓会で、思い出話にと片思いのマドンナなど失恋話を披露すると、“男前”な女子、と言っても同じ60代半ばのおばさんなのだが、「未来のある話をしろ!」と、女々しいと言わんばかりに叱られたこともあった(男子と女子の未来の意味は違うのかもしれないが、それにしても加齢なる女子達は何歳まで生きるつもりなのだろうか?) 。


妻も最近演歌にはまっている。平成のお鹿婆さんか!とツッコミたくなる妻が演歌の情念を理解しているとは思えない。カラオケのLIVEDAMで採点95点以上をとることに執心しており、演歌の方が点数を取りやすいと思っているのだろう。

妻のモテ期と言えるのは、高校時代(男子に実際にモテたかどうかは不明だが)。女子高の文化祭で映画『サウンドオブミュージック』のジュリー・アンドリュースさんが演じた主人公マリア役を演じ、義兄によると拍手喝采だったとのことだ。その時に担任の先生からオペラの方に進んではとお褒めの言葉を頂戴したらしい。

妻は子育てが終わり仕事もリタイアが近づいてきた今日この頃、歌を余生の生きがいにしたいと思っているらしい。高齢者施設で歌で慰問することを夢みているのかもしれない。


毎週のように練習を兼ねてカラオケに行く妻とは3週間に一度程度一緒にカラオケに行く。「ストレスを解消しに行くのに、どうしてストレスの元凶と一緒に」と嫌がるが、そこはそれ宥めすかして連れて行ってもらう。

LIVEDAMの精密採点DXでは採点が90点台と80点台以下では採点が出るときのBGMが違う(95点以上だとまた違うらしい)。妻は採点が出る前にBGMが流れた途端「やった!」と喜ぶ。こちらは90(下手の壁)を出したことがないので、分からない。だんだん面白くなくなり、茶茶を入れだす。妻が松原のぶえさんの『おんなの出船』を選曲すると、妻の顔を見ながらぼそっと「女のデブね」とつぶやく。石川さゆりさんの『天城越え』では、妻が「あまぎ~ご~え~」と絶唱する横で「あえぎ~ご~え~」と絶叫する。

 妻は「下品! だからアンタと来るのは嫌なの!」と怒り出す。が、まさに煽てりゃナントカも木に登るタイプなので、ヨイショ、ヨイショすれば直ぐ機嫌が直る。毎回その繰り返しだ。

ある時、妻が私に「なぜ最近カラオケ、カラオケと言い出したの?」と聞いてきた。毎日が日曜の私は「嫁さんに遊んでもらうには嫁さんの趣味に合わせるのが一番」と答えた。それに対する妻の返答はなかった。身にまとわりつく濡れ落ち葉を想像したかどうかは分からない。




2015.10 No.52
うじゅう VS うじゅう

 今政治家の志が問われ、国家の百年の計を担う官僚がその自負と気概を薄れさせる中で世に警鐘を鳴らし、喝!を入れてくれるご意見番として、『国家の品格』でお馴染みの藤原正彦先生と外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優先生を挙げたい。

 ただ、私がお二人を信奉しているとはいえ、盲従するつもりはない。私は誰かに操縦されるパペット(操り人形)になるのを嫌う。何事も是是非非で臨む。

 東京五輪で揺れる文科省は、俗にいう三流官庁だとしても、我々より数段賢い官僚たちがなぜかくも首をかしげる政策を打ち出していくのか。

 藤原先生は、前々から低年齢層からの英語教育に反対している。さらに、週刊誌の連載等において、文科省による大学入試の変更に疑問を呈するとともに、国立大学に対する人文系、社会科学系、教員養成系の規模縮小や統廃合する方針を財界のビジネス一辺倒の提言に屈従していると批判し、返す刀で、そんな文科省に大学側が卑屈していると嘆く。まさに正論だ。

 ただ、息子さんの私立への受験失敗の話だけはいただけない。藤原先生が落胆し、神社詣でをもっとやればよかったとかいう話は、藤原家のことをおもしろおかしく披露しておられるだけとしても。

 俳優の石田純一さんは、テレビで泣いていた。不倫は文化と言う発言で、娘のすみれさんが名門私立に入れなかったと。浮気をして妻娘に悲しい思いをさせたのは懺悔して当然だ。しかし、受験失敗のことを後悔する必要はない。どこの名門私立か知らないが、親子面接で妻娘がいる前で、石田さんに不倫文化発言を詰問するのは、不見識もいいところ。そんな非常識な学校に学んでまっとうに育つと思うのか。現にそんなところに行かなくてもすみれさんは立派に成長したではないか。

 古い話だが私が神戸大学に入った頃、専門課程の前なので教育学部の学生とかが一緒で食堂にも女子がたくさんいた。男子に見苦しくへばりついているのが結構目についたが、ほとんどが女子高出身者であった。

 都立日比谷高校が復権しつつあるように公立高校の意義をもっと見直されてしかるべきと思う。

 佐藤先生が本年5月に上梓された『知性とは何か』(祥伝社新書)を読んで、違和感を覚えた。先生の本は結構読んできたつもりだったが、変節されたのか、それとも、今まで抱いておられた想いが先鋭化してきたということなのか、疑問に感じた。

 自他ともに認める反知性主義の私は、本ブログのかつての号で日本のトップは官僚出身の大物がいいと言い、今はいないのか、それとも頭角を現す機会が与えられていないのかと書いた。知性主義の権化ともいえる佐藤先生は、今回の本の中で現政権を反知性主義と批判している。ともに時の政権に対する見方は同じだ。

 しかるに、沖縄の問題では、母方により沖縄にルーツを持つ佐藤先生が沖縄と日本政府の間でのレフリー役を担ってくれるのではと(勝手に)期待していたが、いつのまにか沖縄サイドのセコンドについてしまわれたかのようだ(私の思い過ごしであればよいが)。 

同書の4章で、沖縄人の自己意識を4つのカテゴリーに分け、佐藤先生自身は、沖縄系日本人ではなく、日本系沖縄人というカテゴリーに属するとしている。沖縄県と日本政府との対立から沖縄人と日本人との対立へと民族問題をクローズアップさせたように映る。

 さらに、第5章において、「このような状況において、日本系沖縄人という自己意識を持つ多くの沖縄県民が、中央政府への反発を強め  (中略)  スコットランド型の分離独立運動に向けて沖縄が舵を切っていく可能性も排除できない」と書いている。

 スコットランドの独立騒動は、スコットランド王国が「グレートブリテン(イングランド、スコットランド、ウェールズ)及び北アイルランド連合王国」、いわゆるイギリスから連合条約を廃棄し離脱・独立するかという問題で、いわば民間企業における対等合併の解消、というよりは業務提携の解消に似ている。現に1922年にはアイルランドの南部がイギリスから離脱できている。

沖縄の独立はそれとは違うと思う。1879年「琉球処分」(処分とはいかがなものか。何かもっとよい表現はなかったのか)で沖縄は日本に組み入れられた。民間で言えば、日本企業が沖縄企業を吸収合併したということだ。沖縄企業の社員が自分たちだけの会社を創りたいと言えば、日本企業を辞めて出ていくしかない。沖縄に秋波を送る中国の広大な大地の一隈に中国朝鮮族と同じように中国沖縄族として生きていくのかもしれない(もっとも中国は沖縄の人ではなく、領土が欲しいだけだと思うが)

カタルーニャ人(カタラン人ともいう)が多く住みスペインから独立したいとするカタルーニャ州では、この9/26に州会議選挙が行われ、独立派が過半数の議席を獲得した。しかし、裕福なバルセロナを州都とするカタルーニャ州に自治拡大を許しても、それでなくても高失業率等経済不振に苦しむスペイン政府が国からの独立を認めるわけがない。どうしてもとなれば内戦に行き着く。他国からの援軍がなければ大弾圧に帰する。

沖縄県知事も国連などで民族対立の問題として言ってはいけない。あくまで、国と県双方、日本の親子の問題と捉えるべきだ。

子供が文句を言えば、多すぎる小遣いを与える。愛情のある親ならそんなことはしない。子供もそんなことで親の愛情を感じるわけがない。子供も言い過ぎれば、母親が子供の頬をたたき、「お父さんに謝りなさい!」というハズだ。

心が離れてしまった親子、まず親が子に真の親心を示さなければならない。

2015.9 NO.51 んかんろん VS んかんろん

 北朝鮮のかくいき(核兵器)に、かくいき(拡声器)で対抗する韓国。

『悪韓論』(室谷克実氏)は日本人が書いた嫌韓論。『韓国人による沈韓論』はベストセラーになった『韓国人による恥韓論』に続いて韓国の一市民が上梓した韓国の「自嘲・自責」。

 親日的な言動をすれば血祭りにされそうな今の韓国社会にあって、その勇気と教養の高さには、戯言しか書けない私にとっては敬服に値する。

 著者のシンシアリーは匿名だが、日本で日本語で出版してもベストセラーを韓国諜報員が見ていないハズはない。沈韓論の著者プロフィールだけでも、1970年台生まれ、歯科医、何度も日本へ出国と的を絞ることができる。韓国当局は本人を既に特定していると思う。今もブログ(「シンシアリーのブログ」)を続けているのであれば、韓国外向けならばいいのか。それとも、怒れる日本国民のガス抜きになればと見ているのであろうか。

余談だが、私の本ブログも名前を公表していないが、私自身匿名だとは思っていない。神戸高校21回生と名乗っており、生年月日もブログの中で特定できる。調べればすぐに誰だか分かる(それだけの値打ちがあるかだけの問題)。ネットの怖さについては少しは知っているつもりだ。年明け『ネットVSシット』で身近に起こった悲劇を紹介したいと思う。

 それはさておき、日韓双方の韓国論を読み私が思う韓国の大きな問題点の一つは下記の点だ。

 中国から伝来した朱子学の影響か、汗水たらすことを嫌い、物づくりを見下し、昔の両班になりたがる。それが高学歴社会を生み出すのか。白鳥になりたがるが、白鳥の水面下の足の動きは見ようとしない。来月またノーベル賞の発表があるが、韓国は受賞を悲願と言うが、そのための地道な基礎研究はやろうとしているとは思えない。

 子供が「夏は暑い。冬は寒い。春秋は気候が良すぎる。家庭教師をつけてくれない、隣の家がうるさい。だから勉強できない」と言ったとすると、私なら甘ったれたこと言うな!と張り倒す。バカ親は、隣の家に文句を言いに行く。隣の住人は「うるさくしていない。かえって気を遣っている」と反論する。バカ親は「申し訳ないけど謝ってくれないか。それで本人は納得して勉強してくれる」と言い、隣人は応諾した。それで済んだハズなのに、後で受験に失敗したのは謝った隣人のせいだと親子一緒になってわめき立てる。慰安婦問題における河野談話の顛末もこれと同じ構図だ。

 日本の国益を大きく損なうとともに韓国にとっても為にならない。

韓国の歴史を見ると、ずっと隣国に支配されている。地勢的には中国大陸の盲腸みたいものだが、中国に同化せず、朝鮮民族としての誇りと独立心を持つも、大国に属国を強制され、朝貢を続けてきた歴史を見れば、シンシアリーさんが述べているように被害妄想に韓国人がなってもおかしくはない。また、長らくの中国支配は北朝鮮の問題とばかりに知らんぷりし、韓国は、小中華思想に戻り(9/3中国・抗日戦勝記念行事に朴大統領と藩国連事務総長が出席予定)日本をののしるのは、屈折しているとも言える。

島国日本は恵まれている。蒙古襲来のときには神風が吹き、第二次世界大戦で連合国に敗れたが、占領したのは米国だった。当時父は神戸で母の住む家の二階に下宿していた。近くに米軍キャンプがあり、敗戦が決まると、私の祖父は、慌てて二十歳になったばかりの母を二階に住む父に嫁がせそのまま所帯を持たせた。その1年後に兄が生まれ、その4年後に私が生を受けた。パンパンと呼ばれた女性たちに盾になっていただいた面もあるが、米国でまだ助かった。占領したのがソ連や中国であれば、黄文雄氏は『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』(20115月発刊)を書く気が起こらなかったことだろう。

 私など足元にも及ばないほど辛口の高山正之氏は週刊新潮の連載『変見自在』(2015.8.1320)で沖縄は朝鮮に似ているとし、『韓国人翁長』と題し沖縄県知事を皮肉っている。去年の同コラム(2014.10.23)では、『嫌蘭論』と題してオランダ人の狼藉ぶりを披露し、オランダ人の祖は韓国人だと聞いても驚かないと結んでいる。

 諸悪の根源と言わんばかりだが、遠いオランダはまだしも、韓国とは昔は陸続き、DNAも一番似ているだろう。いわば遠い親戚なのだから、関わりを持ち続けざるをえない。

しかし、シンシアリーさんは、沈韓論のP130にて話しても無駄だと断じている。反日ありきで、歴史的事実も証拠も関係ない。反日教となれば恋愛と一緒で反対すればするほど燃え上がる。とすれば、どうすればよいのか。

私は長男をよく叩いた、小学校の低学年までは。話しても分からないから痛さと怖さで止めさせた。遅くとも中学生にあがってからは長男に手をあげたことは一度もない。

反日プロパガンダには看過せず適切に対応し、金融・経済面にて痛みを感じさせるしかないのではないか。

社会のものさしは、韓国では「上下」 (中国は「貴賤」、日本はさしずめ「和」か?)と言われる。下手(したて)に出ても何もいいことはない。私の身近な体験においても(妻が読むかもしれないので子細は書けないが)そう思う。

お人よしの日本はすぐに甘い顔を見せるが、兄弟の関係よりも距離のある、厳しくて怖い“伯父”の姿勢を貫き続けることが、日本の国益にも韓国の為にもなるのではないか。たとえ反発されたとしても。


2015.8 NO.50 コンクラベ と コンクラベ

 コンクラーベと根競べ。本ブログが50号を迎えた記念として一字違いの定番をテーマとした。コンクラーベとは、カトリック教会の新教皇を枢機卿の中から選ぶ選挙が長引き、見守る信者が(根競べに)根負けし、外から鍵を掛けたことに由来する。

 1978年のコンクラーベも時間がかかり、3回目にヨハネ・パウロ1世が選出された。それはある勢力にとって最も都合の悪い教皇が誕生したことも意味した。

 カトリックに縁のない私でも好々爺的な感じのよい教皇だと思ったが、たった在位33日で逝去した。バチカン銀行の不透明な財政を改革するため人事の刷新が発表される直前亡くなったため、暗殺説が根強い。私も暗殺されたとみている。

米国ではケネディ大統領が暗殺された。軍産複合体説、CIA説、FBI説、マフィア説等諸説あるが、アガサ・クリスティ女史の原作を映画化した『オリエント急行殺人事件』ではないが、諸説のすべてが犯人ではないかと思う。身勝手に正義感を振り回す不都合な大統領を表も裏もみんなでよってたかって葬ったように思える。そうならば2039(きっと私は鬼籍に入っている)に証拠が公開されても真相が解明されることはないのかもしれない。

オバマ大統領は始めから黒人大統領として人種差別主義者から命を狙われるハンディがあった。ケネディ大統領とは違いサラリーマン大統領に徹したことにより消されることはなかったが、オーラが消えた。チェンジを旗印に颯爽と登場したが、止めると宣言していた前政権からの盗聴を継続しているのを曝露され、対中弱腰外交やシリア、ウクライナでの不決断と相俟って戦後最低の大統領か?と揶揄されるに至る。昨年の中間選挙では民衆がオバマ大統領にChange!と言った。

日本の場合、戦後暗殺された首相はいない。そういう意味では平和国家だが、そんな手荒いことをしなくともメディアによる世論誘導等により首相の首を簡単に取りかえることができる。海外からはそんなコロコロ首相が替わって大丈夫かと言うが、日本国民はそんなに心配していない。東大法学部の学生が中央官僚を目指すと言えば「おお、そうか!ぜひ日本のために頑張ってくれ」と激励されるが、政治家を目指すと言えば「?」か。松下政経塾も残念ながら松下村塾の役割を担えているとは言い難い。

米国では大統領が民主党から共和党に代われば、またその逆も、事務方も一斉に交代するが、日本では首相が誰に代わろうと事務方は同じ。なにも変わらない。これが不変である限り三蔵法師の掌で踊る悟空に過ぎない。小沢一郎代議士が「神輿は軽い方がよい」と言ったと伝えられているが、本当にそう思っているのは中央官僚かもしれない。首相官邸屋上でのドローンの放置を見れば海外も納得するだろう。

民主党政権は中央官僚と対決姿勢を取ったが、同世代で一番賢い者の専門集団に二世議員というだけでは太刀打ちできるハズもない。日本を牛耳っているのは、東大法学部卒を中心とする官僚・司法・メディア、政財界で構成するエスタブリシュメントと言えまいか。小泉政権、安倍政権に抑え込まれ、結束も弱まり、黒幕としての顔も見えないとしても。

 それならばこそ、日本は他国に比べてまだ正義がまかり通っているのではと思う。だが、権力は腐敗する。キャリア・ノンキャリの慣習による特権階級、裁判員制度、原発利権などはエスタブリシュメントの驕り、欺瞞ともいうべき産物と言える。特権階級で言えば、警視庁OBの作家濱嘉之氏は小説『警視庁情報官 サイバージハード』(P49)で登場人物に「残念ながらFBIは警察庁という組織を捜査機関とも情報機関とも思っておりません。」と言わせる。戦後日本の共産化が強く懸念された折反国家の兵力に転じる可能性がある全国の警察組織を監視監督する監督官庁としての意味は大きかったのかもしれないが、今では特権階級としての意味合いが色濃いのではないか。

 原発事故問題も、戦前の軍部と同じ構図だ。戦地の司令官は殉死し、トップはA級戦犯に処せられるが軍参謀は責任を問われない。東電の吉田元所長は殉職し、トップは起訴されたが、経産省は責任を取らないし、焼け太りを図る。

これらを一度ガラガラポンにすることも一つの方向性ではあるが、本当にそうするかもしれない者は未然に潰される。小沢一郎元民主党代表は検察により総理就任の芽を摘まれ、妻にトドメを刺された。橋下徹大阪市長は刺激を与えられると自爆した。

 世直しできる本物の実力と気概のある傑出した人物がいないとなると世直しはゆっくりとしたスピードでしか進捗しないだろう。

 ただ、権力者としてのエスタブリシュメントに媚びず巻かれずの人たちが出てきた。内部告白、暴露という手段を持って。これらは一昔負け犬の腹いせと見られ忌み嫌われていた。ところが、スノーデンは恋人や未来ある人生を自ら捨て命を狙われても米国の機密を曝露した。日本のおいても古賀茂明氏はエリートキャリア官僚の身分でありながら官僚システムを内部から批判した。さらに、取る物を取ってから後ろ足で砂をかけるのかというそしりを受けても、義憤を抑え切れない人も出てきた(それだけ酷いということか)。北海道県警の原田宏二元道警本部長は道警の裏金問題で声をあげた。元裁判官の瀬木比呂志氏は『絶望の裁判所』を上梓し、裁判員制度創設の内幕を暴き時の最高裁長官をやり玉に挙げた。

これらの流れは特定秘密保護法で下火になることになるのか。時の政権と官僚は情報統制、言論統制では一枚岩だろう。少し前、降板をめぐる報ステバトルで古賀氏はミソをつけたが、朝日が反省すべきは、反権力ではなく、反日だったハズだ。メディアが去勢されていけば孫の代が心配だと言えば、私も被害妄想と思われるのだろうか(第一部 )