2017.1 NO.67 ルメートル VS ニメートル(2)
日本人における天皇とは。週刊新潮連載『変見自在』でお馴染みの超辛口の高山正之氏は古今東西の要人をボロカスに言う。故マッカーサー連合国軍最高司令官(以下「司令官」という)も天下の朝日新聞もかたなしだが、天皇には触れない。
反権力の私も権力者の現首相や元首相をミソカスに言うが、天皇を揶揄することはない。私にとって天皇は「権威」であって権力者ではない。私には古代からの日本人のDNAを引き継いでいる。戦後生まれの私は天皇を敬えとの押付けや教育を受けた記憶はない。
著名S評論家は皇室を揶揄したとしてネトウヨ?に在日外国人だと書かれた。ご丁寧にも外国人名までカッコ書きされて。そのネットに載せた行為は許されるものではないが、天皇を敬うのがごく普通だと思う者にとってはつい信じてしまうかもしれない。それほど皇室をなじる行為には違和感を覚えるものだ。
過日友人の弁護士と天皇について話す機会があった。天皇制に反対と言われ、よもやの返事でひどく困惑した。日弁連に洗脳されたのかと聞くとそうではないと言う。極めて常識人の彼がと思うと、言論の自由とはいえなんとも腑に落ちぬ。
弁護士業がそう言わしめるとしか考えられない。彼は明治政府が日の丸と天皇という国体を国民に押し付けたと言うが、皇国史観は明治時代にはそれほどのものではない。第二次世界大戦前に国民に軍部が押し付けた。明治維新で着物から洋服に変わったとしても日本人の精神性がそんなに簡単に変わるものでない。天皇の権威は聖徳太子以前から千数百年経った今日まで延々と続いている。
江戸時代の百姓は天皇のことを知らない? そんなことはない。ムスリムのメッカ巡礼のごとく、一生に一度伊勢詣することが夢とされた。伊勢御師(信徒を相手に祈祷や世話をする者)が全国各地に派遣され、伊勢参りに訪れる百姓たちの世話をした。御師が説明する伊勢神宮に祭られた天皇の皇祖神天照大神の話を百姓たちが耳を塞いだわけではないだろう。
第二次世界大戦敗戦の折キリスト教布教のチャンスでもあったが、マッカーサー司令官は天皇制存続に舵を切った。反共対策として天皇制を利用する意味もあったが、国民の激烈な抵抗を危惧しそうせざるを得なかった。敗戦の翌年5月の世論調査(毎日新聞)でも国民の85%が象徴天皇制を支持した。マッカーサー長官が去っても変化することもなく、のちに学生運動は起こったが学生の抑えがたきエネルギーの塊が天皇に向くことはなかった。
天皇制に反対し天皇条項がある現憲法制定に唯一反対していた日本共産党の矛先もいつのまにか萎えている。「憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」(日本共産党創立81周年記念講演)とする。天皇制を変えず共産党のスタンスを変えている。
コメディアンのなべおさみ氏は、任侠学というものがあれば大学で教鞭をとれるほどよく研究しておられ驚く。氏の著書『やくざと芸能と私の愛した日本人』( イースト・プレス)によれば、やくざでもいざとなれば天皇の盾になるという(網野義彦氏の『異形の王権』[平凡社]を読めば合点がいく。後醍醐天皇は悪党、非人などの「異形の輩」と接触し貴賤を問わない政治ネットワークを構築しようとした)。
高校の同窓会に出席した弁護士にも聞いてみたところ、天皇制に反対と言われた。けだし、弁護士というものは、難関の司法試験に合格した偉い人達だが、日頃憲法や法律とにらめっこし過ぎて、日本人の精神性に加え日本の政治システムの歴史を軽視している面があるのではないか。我々庶民は法律に寄り沿って生きている訳ではない。家族愛、隣人愛、郷土愛、愛国心、社会的使命、信条、矜持に基づき生きている。
50年弱の弁護士業を営む戸田等弁護士が書いたエッセイ本『弁護士物語』(新潮社)の冒頭に「人は、人を愛すると優しくなる。法律を愛すると冷たくなる。」とある。そのあとに「愛しすぎて餓死した裁判官がいた。」と続くのだが、これは、私が指摘する側面に対する戸田弁護士自身の自戒だと私は捉えている。多方面に見聞を広め知見を深め、バランス感覚を維持・向上させているのはそのためだと勝手に思い込んでいる。
だが、かく偉そうなことを言ってみても、私自身「天皇」について改まって勉強した記憶はない。この際書籍を乱読してみた。近著『日本人と天皇』(田原総一朗氏著)、『「日本人の神」入門』(島田裕巳氏著)、『格差と序列の日本史』(山本博文氏著)等より、古代からの日本の政治システムの歴史を振り返った。
天皇を中心とする中央集権を確立するうえで身内や豪族たちと血と血で洗う抗争を繰り返し、それを正当化するためにも、もっと好戦的な荒ぶる皇祖神天照大神が必要であり、神話が作られたと思う。その神の存在とその恐ろしさを当時の人々は本当に信じ、平安時代には藤原氏が天皇に取って代わるのではなく、天皇から摂政・関白に任じられ、それ以降権威としての天皇と権力としての為政者との二重構造の政治システムが、一時期を除いて、長らく続くことになる。京の貴族がルーツの武家の棟梁が為政者となるには天皇から右近衛大将や征夷大将軍の任命を受ける(源氏のあと幕府の実権を握った北条氏は血筋が低いとして、征夷大将軍にもなろうとしなかった)。今も同じだ。天皇から首相が任命される。
武士政権の中で、後醍醐天皇による建武の新政と呼ばれる天皇親政が3年だけ行われた。かえってそれで天皇の権威を大いに失墜させた。であるのに、水戸の光圀公は、後醍醐天皇とその忠臣楠木正成を持ち上げた。かの光圀公でさえ天皇の権威は絶対であり、天皇に任命されるにふさわしい血筋を足利氏と並ぶ新田氏に求め徳川幕府の正当性を明確にしようと『大日本史』編纂に着手した。その新田義貞が南朝の後醍醐天皇についていたことから南朝正統説を採った。200年後それに感化された尊王志士によって葵の御紋が印籠を渡されることになるとは黄門様も予見できなかった。