2017.7 NO.73  二・二八事件 VS 二・二六事件

 よく観る映画もフィクションなので矛盾しているが、私は小説をあまり読まない。とくに推理小説は。小説なら歴史小説がよい。歴史上の人物を題材とし、資料のない所は作者の想像力で補う。作者の思い入れにより少し美化されるのは許容範囲とする。作家城山三郎が文官として唯一A級戦犯に処せられた首相広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』のように。

この前台湾の二・二八事件を題材したノンフィクション『汝、ふたつの故国に殉ず』(以下「当書」という)を読んだ。以前古川勝三氏著『台湾を愛した日本人』(創風社出版)を読んで、八田與一という敬愛すべき日本人がいたこと知った。今回は日本人で台湾に渡った父と台湾人を母とする、畏敬すべき坂井徳章(台湾名・湯徳章)を知ることになった。

1947年の二・二八事件のことは、私の長男が台湾女性と結婚したことを契機に台湾に関心を覚え名前だけは知っていたが、当書により詳しく理解するところになった。帝国陸軍青年将校による二・二六事件とは異なり、六四、つまり天安門事件によく似ている。天安門事件は中国共産党が民衆を武力鎮圧した。二・二八事件では国民党が民衆を弾圧した。

坂井は、当初父親と同じく台湾で警察官になったが、正義を貫き孤立し、日本に渡った。貧苦の中類まれな才能と人並み外れた集中力により奇跡的に当時の司法試験とキャリア官僚試験に合格した。輝かしいエリート人生を約束されたが、それには見向きもせず、父親の遺志を継ぐかのように台湾に戻った。二・二八事件の折、暴動の首謀者として濡れ衣を着せられ拷問されたが、決して台湾人の名前を挙げることなく、多くの台湾人の命を救った。自ら一人が犠牲になればよいと従容に受け入れた最後はキリストの磔を私は連想する。

この事件の前、日本が敗戦し台湾から撤退したと入れ替わりに国民党が入台して来たとき、台湾の人々は天使が去り悪魔が来たとは言わなかった。犬が去って豚が来たと評した。

私は一時期コンサルの真似事をしていたことがある。某ビルメン企業に常駐顧問として入った。社員は、私の存在そのものが不快な上に、自らの仕事のやり方について上から目線で干渉されるのは屈辱にも似た気持ちになっていた。同じ日本人にしてこうだ。民族が違えば、二等国民と差別され、母国語を日本語に替えさられたら、恨みに思って当り前だ。

そんな台湾人をすごいと私が感心するのは、それでも、自分たちが享受したメリットを恩と感じ、その恩をいつまでも忘れないようにしていることだ。

日本は、初めての植民地を得たとして、児玉源太郎、明石元二郎等当代きっての俊傑を歴代台湾総督として台湾に送り込んだ。台湾のインフラ整備、教育向上に尽力した。それは日本側の利害でもあったが、台湾の人々は尽力を惜しまないそんな日本人達に感謝した。

中でも、1930年に完成した台湾南部の烏山頭ダムを造った技師八田與一は日台の絆の象徴として台湾の教科書にも載る。命日5月8日には毎年慰霊祭が開かれる。2013年10月に私らが参った時にも墓に花が手向けられていた。同様に、国民党の恐怖政治時代を潜り抜け、2014年に、弁護士坂井徳章が処刑された命日の3月13日を「正義と勇気の日」と台南市は定め、英雄を忘れないようにした。

 

今や、台湾人が、いや、日本の子供達が尊敬する、日本人がいないのではないか。それとも悪貨が良貨を駆逐しているのと同じことか。日替りのように出現する失言大臣、「共謀罪」を狂暴にも強行採決させようとする与党議員。ポチ犬のごとく忖度して行政を歪め、志が問われる官僚、本分を忘れ政権の親衛隊と化す新聞人・ジャーナリスト、を見て、子供達がこんな人達になりたいと思うだろうか。

突然自民党草案と違う(交戦権が無いまま自衛隊を明記しても意味がない)まやかしの第9条改正案をぶち上げ、2020年憲法改正と東京オリンピックをセットに花道を飾り憲政史上最長首相へと私欲を露にした安倍首相。そのポスト安倍の一番手に浮上した岸田文雄外相は、広島選出議員でありながら核兵器禁止条約交渉への不参加を表明した。外相は、「同盟の強化と大統領の言いなりになることとは違う」と閣外に去ろうとするぐらいの矜持を見せるべきではなかったか。ようやく自民党内でも驕れる安倍一強体制への批判が高まる中、外相を領袖と仰ぐ名門宏池会所属議員は歯がゆい思いをしているのではないか。

70周年を迎えた経団連も、財界総理と言われた会長石坂泰三や土光敏夫は政界ににらみを利かせていた。今は政権に陳情するか媚びを売ることしかできていないのではないか。

 少し古い醜聞だが、みずほコーポレート銀行の頭取が女性記者との路上チューを撮られ、頭取の権威を失墜させた。すぐに辞任しようともしなかった。みずほ銀行初代頭取(富士銀行の最後の頭取)が庇ったと噂されたが、そのみずほ銀行に統合された富士銀行は、私が就活していた昭和47年当時トップバンクで私など高嶺の花だったが、一度何かで歴代頭取の顔写真が時系列に並んでいるのを見たことがある。金融界のナポレオンと称された頭取松沢卓二(昭和50年~56年)を境に人相が変っていき、それに伴い業界での富士銀の地位も低下していったと皮相的とはいえそう感じていた(何も知らないくせにと富士銀OBに叱られるかもしれないが)。

 大企業も、東芝、三菱自動車に限らない。トップが判断を誤る、あるいは、大きな問題が発生したとき、その後の対応がより重大となるが、トップが保身に走り、それを大企業社員が見て見ぬフリし身の保全を図る、その構図が会社を傾城させていく。

これら政財界のトップ層は国民の縮図。底辺をなす私ら庶民の劣化は言うに及ばない。

作家三島由紀夫が1970年11月陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて自決したとき、学生だった私は彼のことを理解できなかった。今は少し分かる気がする。自衛隊員に向けた檄文の中の「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。」は、47年経つ今もそのまま当てはまるではないか。

一億総大人が平和ボケしてしまった今、若い人は歴史上の偉人から日本人としてどう生きるべきか学んでもらうしかないだろう。

ノンフィクション作家門田隆将氏の作品には、当書以外からも、『この命、義に捧ぐ』(集英社)により、中国共産党の攻撃から台湾を救った陸軍中将根本博を知った。『日本 遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』(PHP研究所)で下々に冷淡というか無関心なキャリア外交官の中にも下々のために奔走した秋山進大使のことを教えてもらった。門田氏にはもっと多くの隠れた信愛すべき日本人がいたことを書いてもらいたい。

今こそ過去から世界に誇る日本人の精神的特質を学ぶ時だと思う。 

 

2017.6  NO.72 きんじゅ  VS きじゅ

  2年前の8月65才の誕生日を機に私は卒職し、それ以降髪結いの亭主となった。ほどなく妻と某TVの歌番組を観ていた時、歌手小林幸子さんが『雪椿』を唄うところで、妻にこう告げた。「やさしさとかいしょのなさが 裏と表についてくる そんな男に惚れたのだから その分私ががんばりますと」の歌詞をよく噛みしめるようにと。すぐさま「無理! 惚れてないから」と妻に切り返えされた。

それからというもの、妻が毎朝出勤する度に、今日どこか行くの?と聞かれた。正直に答えるとまた遊びに行くのねとイヤミを言われる。それで、ウソをつかない(本当のことも言わない)私は、次のように返事することにした。映画の時は「勉強」に行く。同様に、美術鑑賞は「見学」。B級グルメ店探訪は「取材」。カラオケは「練習」。麻雀は「試合」。

家で読書するのは文句ないだろうと思っていたら、「本ばかり買って、ちゃんと全部最後まで読んでるの? 近くに立派な図書館があるからせいぜい利用したら!」と叱責された。“働かざる者本買うべからず” なのだ。出版社よ、女房族にプロパガンダが必要だ!

そんな日々ももうすぐ終わる。妻が今月の誕生日で還暦となり退職する。これで髪結い亭主の負い目、妻からのイヤミから解放されるだろう。

妻と3才になる孫娘と誕生日が同じなので、盛大にお祝いをしてあげることにしよう。

 

私が銀行を辞めてから20数年経つが、妻が20年以上も正社員として働いてくれるとは思わなかった。私が妻の体形を揶揄しようものなら、「蒲柳の質」とは縁のない妻から「だから、アンタはそうやってのうのうとしておれるのでしょ!」といつも反撃され、やぶ蛇になってしまう。

顧みれば、昭和59年夏次男が生まれた頃から翌年夏組合専従を降りたその年末頃までの1年ばかりは、長男と風呂に入っていた。長男が、1~20を数え、そのあと「おまけのおまけの汽車ぽっぽ ぽーとなったら上がりましょ!」と歌って、湯舟から一緒に上がったものだった。だが、それだけだった。組合行事で土日でも出勤することも多かったが、妻はいつも快く送りだしてくれた(遊びのゴルフの時は文句たらたらだったが)。

昭和60年の年末も押し迫った頃娘が生まれた。翌正月明けから2月末まで、私は土日祝日も一日も休まず出勤した。その時私は銀行の融資企画部門で大蔵省検査の窓口を担当していた。その準備と検査開始以降の対応で、徹夜も何日かしていた。妻は冷え込む冬の夜、連日一人で、まず4才になったばかりの長男を風呂にいれ、次に1才半の次男を入れて、着替えさせては、そのあと生まれたばかりの娘を風呂に入れていた。検査が終わっても私が風呂に入れた記憶がない。でも妻は私が仕事なら文句も愚痴も一切言わなかった(今頃になってちくりちくりと責めてはくるが)。

2年前私が卒職したとき、妻は私に専業主夫を命じたが、結局以前とあまり変わらなかった。毎日のごとく妻は出勤前の忙しい時に洗濯し、干していた。さすがに取り込むだけでは悪いと思い、干すことも私がやると妻に言ったが、妻は「近所の目もあるし、しなくていい」と言った。妻は私と正反対でなんでも自分でやろうとする。手伝ってくれることより、何もしないとか文句を言って私を凹ましたいようだ。縫ってやりたいほど私の口を憎たらしいと思っているらしい。

妻は退職してもなにかしら働こうとするかもしれないが、これから10年間ぐらいは、これまでの慰労を兼ねて、彼方此方旅行に連れて行ってやりたいと思う。

昭和56年5月に結婚し、新婚旅行から帰ってきて直ぐに、銀行の後輩に子供が生まれた。こちらも早くという思いは30歳を過ぎていた私の方が若い妻よりも強かった。それで妻が基礎体温を測りだしたら、体温が下がることがなく、1か月も経たないうちに体温を測るのを止めてしまった。それから体温を測ることは二度となく4年半の間に3人の子持ちとなった。長男がお腹にいると分かって、神戸から京都への小旅行を断念した。ハネムーン(蜜月)はあっという間に終わり、父と母の関係になってしまった。夫婦だけで旅行するのは20年後平成13年まで待たなければならなかった。

それ以降、年に一度は夫婦で旅行した。旧婚旅行で平成23年2月に30年越しのハワイにようやく行けた時は、もっと若い頃に来たかったと少し残念に思った。

 望まなくとも熟年夫婦になった今は、大人の休日倶楽部ジパングで列車の旅に度々出かけよう。定番のクルーズ客船の旅も考えたい。妻は船が嫌いと渋る。行くと言っていても(私が油断して好き放題言っていると)いつ恐怖の「行かない!」攻撃が始まるか分からないが。

 

娘も、いつの間にか大きくなり、ある時甘えることのない妻に私から懐いていく様子を見て鳥肌を立てる仕草をしてナメクジ(蛞蝓)みたいと言った。それ以来私の呼び名はポチ犬からナメクジにさらに格下げされた(ダニよりましか)。嫁ぐ時娘が妻に「私が居なくなったら寂しくならない?」と聞いた。妻は「大丈夫よ。ナメクジがいるから」と返したらしい。

ナメクジならすこしでも長く妻にへばりついてやりたいと思うが、ナメクジの天寿は短い。金寿(100歳)までは論外。米寿(88歳)はおろか傘寿(80歳)も望みえぬ。前立腺がん罹患・治療によりQOL (生活の質)が落ちた身の上喜寿(77歳)まで生きられたら御の字のような気がする。その時妻は古稀(70歳)を迎えるにすぎない。妻はそのあと15年は生きる。それは長い。私が亡くなってからも操を立てる必要はない。良い人がいれば再婚してもらって構わない。私と違って妻は人受けが良いので寡のお爺ちゃんの方から言い寄ってくるだろう。

私は、天国はないと思っているが、仮にあるとしたら、『帰って来たヨッパライ』の歌詞のようにこの世に戻る、ことはない。酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗な天国で酒池肉林の生活を送る。妻は慌てて後を追ってくる必要はない。

こういうことを言う亭主に限って長命して妻をうんざりさせるのかもしれないが。

 

2017.5  NO.71  ロクサン VS  ロクヨン

昨年9月ソウルに一人旅に出た。大学の同級生と大阪で会った折、韓国に行ったことがないと言うので、私が案内すると約束した。こちらは早々と飛行機も宿も手配したが、同級生は奥方の了解が得られなかったようだ。各々夫婦の形、力関係があるので詮方無い。

これまで何度か訪韓していたが、金浦空港から一人でタクシーに乗ってソウルの中心街・明洞に向かうのは初めて。一般タクシーより模範タクシーの方が安心とのことでそれに乗った。Googleマップで金浦空港から明洞への走行を追っていると、最短ではなく最長のコースを進んでいた。これが模範?かと思った。また、帰国の日にワタリガニの醤油づけを食べにホテルからタクシーに乗り、運転手にハングルで店名と住所が書かれた紙を渡した。ここだと降ろされたが、店名と同じハングル文字を探したが見つからなかった。

「だから、この国は嫌いだ!」と、これしきのことで言うほど狭量ではない。通りすがりの若い女性に尋ねたところ、少し日本語が話せる人だった。スマホで探してくれて、現在地から道順を表示した画面をアップしこれを写メすればと言ってくれた。お陰で何とか店に辿りつけた。その後東大門のデパートで孫娘の服を購入した後、金浦空港への帰り道、タクシーを拾い63ビル(60階地下3階、地上249mで、1985年完成当時日本のサンシャイン60を抜いてアジア一)に向かった。63ビルは日本人向けの観光コースには入っていないらしく珍しく日本語が全然通じない。帰るべく展望台でタクシー乗り場はどこかと係員に聞くとなぜか飲物売り場に連れていかれた。ヒヨコのような小学生でごったがえしている中一人しかいない女性店員は流暢な日本語で「この辺にはタクシー乗り場はない」と。つれない返事に凹んだが、そうではなかった。子供達の相手を後回しにしてスマホで検索し「やっぱり最寄りの駅まで出て拾うのがよいみたい」と助言してくれた。

異国の地ではこんな気遣いでもありがたさが身に染みる。親日的な両女性に偶然出会っただけとは思わない。悪い人もいれば良い人もいる。それは日本とて同じことだ。

 

今回キャンセルをせず一人旅した目的は、がん治療の後遺症で今や方正之士の身の上、4年前に来たときに利用した日本人御用達の店に再訪すること。当時韓国の地元民もこんな美味な店があったのかと感心していた。しかし、4年間思い続けて実際に再訪して、世に言う、同窓会に出て「美しい思い出は思い出のままの方がよい」と後悔するのと同じだった。

日本人の訪韓数は、韓国観光公社によると、李前大統領が竹島に上陸した2012年352万人をピークに2015年183万人と半減している。その影響は日本人御用達の店に直撃する。

明洞の中心部にある明洞餃子の斜め向かいの細い路地の先に日本人御用達の『明洞多島海鮮』(今回不訪)がある。その路地の手前の一角に日本人向けの屋台の雑貨店が2012年9月には存在していた。男優・歌手のチャン・グンソクさんや歌手グループKARAのブロマイド等がよく売れていた。私も土産に利用した。今回その場所を覗くと帽子屋に替わっていた。明洞の中心街をそぞろ歩きしたが、日本語がそんなに飛び交ってはいなかった。4年前も平日だったが、カタツムリ美容パックを買い求めて日本女性がかまびすしかったものだが。何よりも違和感を覚えたのは、ロッテヤングプラザの対面にある明洞のメインストリートに夕方から屋台がびっしり出没したこと。台湾の夜市かと見間違う。日本の旅行代理店は明洞をソウルの原宿とか形容するのは見直した方がよいのかもしれない。

 

今回の旅は、北朝鮮の5回目の核実験を行った直後であったが、同じ頃女子ゴルフ「ザ・エビアン選手権」でチョン・インジプロがメジャー最少スコアで優勝、凱旋帰国したことをTVが大きく取り上げていた。当然街行く韓国の人に緊張感は微塵も感じられなかった。

現時点では韓国メディアに煽られ米国の先制攻撃の返り血を浴びるのかと韓国民は不安がっているのだろう。

しかし、米韓の斬首作戦も本気ならそんな名をつけて合同演習しないだろう。熱りが冷めた頃北朝鮮は6回目の核実験をするだろうが、実験はしょせん実験に過ぎない。既核保有国も米国以外は実験しかしていない。

浅学非才・短絡思考の私から戯言を吐かしてもらうと、北朝鮮と米国の敵対関係は、暴君同士のチキンレースに見えても、私には茶番としか思えない。もともと、なにも北朝鮮が核武装しなくても、米国は、イラクのような石油利権もなく、宗教も関係ない、後ろに中国がついている、北朝鮮にわざわざ攻撃しようとは思わない(トランプ大統領とて同じ。家族思いのトランプ氏は真の暴君にはなりえない。排除されるのが歴史の常だから)。

六四(1989年6月4日天安門で民主化を求めた学生らを人民解放軍が武力弾圧した)がタブーの中国は、『「暗黒・中国」からの脱出』(文春新書)を読めば、今も民主化運動の人民を弾圧していることが分かる。英雄死はさせない。もっと狡猾に、家族を人質にして民衆の面前で自己批判させる。そんな中国は、民主化された韓国と国境を接することを嫌い、北朝鮮を死守するだろう。その中で、北朝鮮は金王朝の承認と兵器の売込み・外貨稼ぎでミサイル発射と核実験をデモンストレーションとして繰り返す。米国の軍産複合体も渡りに船。危機感を煽り、韓国、日本等にTHAADや最新戦闘機を買わせ配備させる。昨日の東京メトロ等の一時運行停止は、まさに米朝の思うつぼだろう。

けだし、21世紀を環境の時代とするならば、20世紀は環境破壊の時代。その象徴が核兵器。前世紀の遺物だ。そんなものを人民の生活を犠牲にして保有しても核保有国と対等という大きな盾を得るだけにすぎない。矛としては使えない。あのソ連でも使えないから冷戦となった。北朝鮮の米国本土核攻撃など米国は本音ではなにも心配していないと思う。

戦争とは、相手国の人を攻撃し相手国の人間社会を制圧し組み替えること。だとすれば、20世紀のゴジラみたいに、なにも立派な建物群をなぎ倒し、大気も放射能で汚染させる必要などない。環境の時代の戦争は、サイバー攻撃と化学・生物兵器になるのかもしれない。

オウム事件のごとく、金正男暗殺事件にVXが使用された。先月シリアがサリンを使用したと報道された。国際条約で禁止されているのにも拘らず。

『世にも奇妙な人体実験の歴史』(文春文庫)のP159によれば、「ワシントンDCの風上で炭疽菌の芽胞百キログラムが散布されれば、最大5百万人が死亡する」とする報告書があるという。圧倒的優位への野心を持つ国が核兵器の陰に隠れて人間に対して猛毒で蔓延しやすい生物兵器を開発するのを、米国は真に恐れていると思う。

 

2017.4  NO.70 ジョシブロ VS ジョシプロ

 私は小学校3年生まで母親と銭湯に行っていた。ある時脱衣場で同級生の可愛い女の子が下着をつけて大き目の椅子に座っていたが、裸で背を向けて座りその子の下着の背中側を濡らしてしまった失敗談を覚えている(他にも覚えていることはあるが言わぬが花だ)。

奥手の私だったが、神戸下町の当時の相場なのか条例なのか4年生からは男湯に入っていた。中学生に上がり、性毛が生え始めたとき兄と近所の子らにはやし立てられた。

ある日、風呂屋の主人が、玄関の工事をするので今日だけサービスと言った。裏口から男の脱衣場に行くには女の脱衣場を通り番台の前に垂れているのれんをくぐって男の脱衣場にたどり着く。帰る時も女の脱衣場を通り裏口に向かう。意外にも女の人たちはタオルを縦にして隠していたものの平然としていた。男の方が照れくさそうに出入りしていた。もっとも、50年以上も前のこと、当時番台には店の主人つまり男も座っていた(江戸時代まで男女混浴で黒船のペリー提督が風習の違いに驚いたという、その名残りなのか昭和30年代では今ほどには女に抵抗感がなかったのかもしれない)。

町内会で須磨のヘルスセンター?に行った時も、混浴で、男達が先に入っていたが、女達がぞろぞろと同じ湯舟に入ってきたら、男連中がすごすごと隅の方に後ずさった。裸で一対一ならともかく群れになると女の方が度胸がよく男の方が気恥ずかしがると理解した。

遠い日のことですっかり忘れていたが、昨年男性教師が女装して女子風呂に入ろうとして見つかったというネット記事(女達の群れに囲まれて惨めに蹲いていた)を見て、遠き日の当時のことを懐かしく思い出した。

 

 社会人となってから、女子風呂には当然縁がなかったが、女子プロとは話す機会があった。といっても口を利いた程度だが。平成元年宝塚の支店長の折、取引先のゴルフ場から招待された。男子プロと違い当時の女子プロは飛ぶ人でもドライバーの飛距離が240ヤード前後で素人の我々とそんなに変わらないので参考になると出かけて行った。

旭国際のコースのパット練習場に歩み寄り「黄璧洵さんですか?」と声をかけた。当時ファンだった台湾の黄璧洵プロは韓国の李知姫プロ(日本ツアーで活躍中にて生涯獲得賞金10億円超)をもう少し小さく華奢にした感じの天才肌で日本で13勝をあげた。今はどうしておられるかと案じていたら、香妻プロファンのブログ・香妻琴乃.com(2016.9.1)で紹介されていた。アリナミンVカップ 「グランドシニアの部」に出場し2位になったとのことだ。黄プロが還暦を迎えても元気なご様子で安心した。

新宿支店長の時、熊本で平成2年春に開催されたマルコーレディスのプロアマに参加した。名前は忘れたが、台湾出身の女子プロと談笑して回った。その時膝を痛めていたがせっかくなので強行出場した。足を引きずりながらのプレーでチームには貢献できなかった。プレー後の授賞パーティにて、バブル期のあだ花となるが、その時はまだ不動産業マルコーの金澤社長ともに時代のプチ寵児であった日長銀(現新生銀行)のH部長の尊顔を初めて拝した。バブルをはじけさせた不動産融資総量規制がまさに発動される直前だった。

プロアマだったか何の時か思い出せないが、吉川なよ子プロと高村博美プロだったと思うが前の組で回っていて、後ろから声をかけ二言三言話をしたら「おっかねぇ!」と思った。しかし、それでこそ勝負の世界でトップを走れるのだろうと思ったことを覚えている。

岡本綾子プロとは口を利いたことはないが、流れるような綺麗なスイングと「フニャ」とあだ名される性格はプロの中では優しそうとの印象で長年ファンになった。

この3人のトッププロの時代は社会人になってからゴルフを始めている人が多い。30歳前後からピークに向かっていくので結婚するか一生ゴルフに捧げるか悩む時代でもあった。

今の女子のトッププロは、30歳で引退と表明するプロも少なくない。世界ランク1位のリディア・コプロは17歳で30歳での引退希望を口にした。韓国出身のアン・ソンジュプロも30歳での引退をほのめかしている。横峯さくらプロも30歳引退を表明したことがある。そこには、2006年から始まったワールドランキング初代女王のアニカ・ソレンスタムプロが38歳で引退し、結婚・出産したこと。それ以上に、その後の絶対女王(158週世界ランク1位)ロレーナ・オチョアプロが29歳の若さで引退したことが衝撃的で強く影響していると思う。

今のプロは、子供の頃からゴルフを初め30歳になる頃には20年以上ゴルフをしていることが多い。ある程度稼げばお金ではなく第ニの人生を歩みたいと思っても不思議ではない。

東尾理子プロは、ある解説で、男子プロと違い30歳、35歳が節目と言っていた(世界を席巻する韓国女子プロ達の大躍進の起点となった朴セリプロは昨年38歳で引退を表明した)。

ゴルフでも花の命は短いようだが、今体格の向上、育成体制の充実、道具の進展等もあり、より若い人がどんどん台頭してきていることも早期引退を後押しするのかもしれない。

2016年度末の世界ランクのトップ5は、すべて19歳と20歳台。とくに、ベスト3は上からリディア・コ(19歳)、アリヤ・ジュタヌガーン(21歳)、チョン・インジ(22歳)という若さで、しかも年下順だ。

5年前の世界ランク上位5人の5年間(2011年VS2016年)の比較を見ると、ヤニ・ツエン(2011年22歳)1位→105位。スーザン・ペーターソン(同30歳)2位→18位。チェナヨン(同23歳)3位→55位。クリスティ・カー(同34歳)4位→30位。ポーラ・クリーマー(同25歳)5位→87位。皆大きく順位を落としている。

 日本では、女子プロが目の色を変え挑む日本女子オープンで、昨年とうとう15歳のアマが優勝する時代が到来したかと思ったら17歳の畑岡奈紗アマ(現プロ)が逆転で最年少優勝した。優勝争いした20歳の堀琴音プロが「プロが勝たないと」と言い人目を憚らず泣いた。

時代の過渡期とも言えるが、もうベテランと呼ばれそうな30歳代の女子プロはどう思っているのだろうか。プレー後の女子風呂のシャワーを浴びながら悔し涙を洗い流しているのであろうか。それとも、海外メジャーを制した樋口久子プロや米国で賞金王になった岡本綾子プロのように大きく羽ばたいてもらったらと年下の子らにもうそう思っているのだろうか。

2017.3  NO.69  いたがり VS  いいたがり

私のことを、妻は痛がりと言って蔑み、知人は言いたがりと揶揄する。

ハリウッドの大女優メリル・ストリープ女史は堂々と新大統領になる権力者を批判した。日本では賢い人は思っていても軽々しく口にはしない。ガキのままの私は、そうではない。

週刊現代は寿新春特大号の特集『天皇陛下「安倍総理への不満」』のP72にて「天皇制について根本から議論してほしい―天皇自らが発した思いは、安倍政権によって、都合よく【矮小化】されてしまっている」と書いた。その頃陛下の神経を逆なでするかのように2019年から新年号を使用すると大々的に報じられた。オーナー会社のカリスマ経営者なら、下が「辞めるんだって。それなら会社のロゴマークを新しくしよう」と言えば、下をどやしつけるだろう。それは象徴天皇には許されない。阿吽の呼吸という言葉がむなしく響く。

最近安倍首相は「戦後レジ―ムからの脱却」とは言わなくなった。変節したと言われるのはまだしも意味が分かっていないのかとの声もあがった。佐伯啓思氏に至っては、著書『反・民主主義論』(新潮新書)の第三章「戦後70年・安倍談話」の真意と「戦後レジ―ム」において、P76で「戦後レジームからの脱却」を唱えていた安倍首相の談話によって、本当に「戦後レジーム」が完成してしまったと断じる。

米国のみ侵略戦争が許される。それは、自由、民主主義、人権、法の支配を守るための正義の戦争だから、その米国に日本が従属するというのが戦後レジームという。安倍首相は、宗主国米国に安保法制を朝貢し、予想に反しトランプ氏が大統領に決まるといち早く尻尾を振りに訪米した(大統領就任後のゴルフ外交で忠犬として暴君から認知された)。

山口出身の大学の同級生に首相は尊王攘夷の長州人のDNAを引き継いでいないではないかと問うと、同級生は首相は山口に住んでいない。東京人だと言った。その山口に舐め切った態度のロシア大統領を招いた。宗主国米国はその真意を測りかねたことだろう。

記者の原真人氏は、著書『日本「一発屋」論』(朝日新聞出版)でアベノミクスは失敗したが、首相はそれを認めず、さらに無駄にエンジンをふかそうとしていると書いた。あの佐高信氏は浜矩子同志社大教授との対談『どアホノミクスの正体』(講談社+&新書)を上梓した。浜女史がアホノミクスと命名したアベノミクスにおけるトリクルダウン理論は、そもそも、上の方に点滴を垂らせば下まで行き渡たる。貧乏人はそれを待ってろという金持ちたちの横暴、傲慢に対する批判からうまれたものだという。

両書を読んで、首相は、下におこぼれが落ちようが落ちまいが、任期中に経団連を初め大企業や富裕層が(ふるさと納税、プレミアムフライデーも含め)満足し、現政権を支えてくれればそれでよいと思っていると理解した。

そんなことが許されるのかとエコノミスト河村小百合女史が『中央銀行は持ちこたえられるのか』(集英社新書)で強い警告を発している。現政権に同調する日銀の事実上の財政ファイナンスにより日銀の総資産は低金利の国債を中心に400兆円まで急激に膨れあがっている。短期金利があがっていけば債務超過に陥り日銀は機能不全に陥ると警鐘を鳴らす(宗主国の暴君が日本の金融政策を否定する発言をしており、その懸念が現実味を帯びてくる)。

日銀が現政権の日銀部に成り下がる現様相に対して、軽部謙介氏は『検証 バブル失政』(岩波書店)にて、永野健二氏は『バブル 日本迷走の原点』(新潮社)にて、(バブルの遠因となったロン・ヤス時代のレーガノミックスと同じ政策をとり始めているトランプ政権からの圧力対して)日銀がどう独立性を守るべきか反面教師として前回バブルから学べと言う。

バブルといえば、私にも苦い思い出がある。平成2年の6月か7月、銀行の全支店長会議の檀上に立っていた。40歳直前の新宿支店長としての晴れ舞台ではあったが、後年しくじったとの思いにかられた。不動産業が地場産業の新宿の支店長として不動産融資に釘を刺すべきであった。地価はまだ下がっていなかったが、不動産融資規制が既に発動されていた。都銀は融資を引き揚げしつつあり、取引先は当行に追加融資を要請していた。壇上からジョーカーを引いてはならないと言うべきであったが、受けを狙うのような話に終始した。私がそう話したからといって銀行がブラックホールに引き込まれる軌道に乗ることを阻止できたとは思わないが。私の銀行員人生における大きな悔恨の一つになった。

バブル当初、明治末期に生まれ昭和2年の昭和恐慌を知っているオーナー然として君臨する会長と昭和40年の証券不況下の就職難で昭和41年に入行した後継者と目される役員と路線対立があった。会長は不動産融資に反対していたが、後進に道を譲る時期でもあり絶対阻止という態度はとらなかった。そんな中、大蔵省検査が入り検査官が「御行はなぜ(他行のように)不動産融資をやらないのか」と問うた。それが不動産融資傾斜への免罪符になってしまった(検査官が存命ならそんなつもりで言った覚えはないと言うだろうが)。

上層部の問題だけではなく、行員の間においても、昭和40年を境に昭和30年代入行者と我々40年代以降の入行者との間に融資スタンスに相違が見られた。我々の方がイケイケドンドンであり、声も大きかった。

歴史上バブルの最初の現象は、1637年オランダのチューリップ・バブル(チューリップの球根投資の過熱と暴落)と言われる。米国が永遠の繁栄と呼ばれた後の1929年の大恐慌(日本は昭和恐慌)もあった。経験のない者が歴史から学ぶことは容易いことではない。ましてや、賢者でなく、歴史に学ぼうとする気がない者にとっては。

今の憲法改正も同じだ。戦後の首相たちが憲法第9条の矛盾に気がついていなかったハズはない。戦地に赴いた、あるいは凄惨な光景を目にした政治家たちはニ度と戦争はしたくないとのその一念であった。

青木理氏の『安倍三代』(朝日新聞出版)を読むと、安倍首相の父方の祖父寛は反骨・反戦の賢く人望の厚い政治家だった。父晋太郎は「岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子だ」が矜持。首相にはこの祖父を師として仰いでほしいものだが、似ても似つかぬようだ。

そんなトップが、類が友を呼ぶ。今の政権中枢を担う人たちは、戦争を知らない。自身らは間違っても戦場に行くことはないと思っている人たちだろう。

戦前の軍部の独走を反省し戦後文民統制を徹底していた。しかし、今般の防衛省の法改正等で制服組が背広組より優位に立ち、防衛省内での「文官統制」は崩されてしまった。

このような非経済面よりも確実に経済面において悲惨な目に遭わされる無垢な大衆が現政権を支持している。民主主義の限界を感じるし、やりきれない思いがする。

その中で、現政権の長期化を狙って自民党総裁の任期を党内無風の中3期9年に改変した(賢者のトップならこんなことしない)。自民党の非主流派、昔の主流派は死んだふりをしているのか。それとも総無責任男時代か。都政手腕は?だが小池都知事の方がよほど男気があるというものだ。上述の女性エコノミストたちも同じことが言えるだろう。

2017.2  NO.68  ふぐ VS  ふく

昨年の新春にふぐ旅行に出かけた。最後の晩餐はふぐと決めていたが、余命何か月を宣告されてから慌てて食べたのでは、美味な物を食しても砂を噛んでいるのと同じになってしまう。最後の最後は、イケメン俳優の向井理さんならずとも卵かけごはんを最後の晩餐と挙げる人は少なくないが、生卵はダメなのでだし巻き卵にしよう。大根おろしを添えて。

元気な内にと思い立ったが、妻を誘えば、もったいない!と即座に却下されるだけでは済まないので、目的は語らず九州一人旅に出た。歌手兼俳優の武田鉄矢さんがひいきの博多にある名店「博多 い津み」(いずみ)と下関にある、明治4年伊藤博文公命名により創業し「ふく料理公許1号店」として名高い春帆楼本店とに、天然ふぐを賞味しに行った。

ふぐは河豚と書く。中国では海よりも河のふぐが親しまれていたことに由来するという。海豚の方が合っていると思うが、海豚はイルカ。ちなみにカバは河馬と書く。フグを海豚、イルカを海馬、カバを河豚に(ついでに我家では家内を家豚に)変えた方が、しっくりとくる。

ふぐの本場下関や九州の方では、ふぐを福とかけてふくと呼ぶ。それぐらいだから肝を食べない。もっとも、大分の臼杵は例外で、警視庁OB濱嘉之氏の小説『頂上決戦』の冒頭に中毒死事件として登場する。実際に平成26年に料亭で中年女性が中毒死している。

関西は鉄砲と別称される(弾にたまに当たる)だけあって、肝を食べて食中毒になった事件が散見される。一昨年神戸でもトラフグの肝を食べて数人が中毒症状で入院している。

阪神大震災の前神戸に住んでいた頃なじみの店では〆のぞうすいに肝が入っていた。ふぐの毒テトロドトキシンはふぐが喰う餌に関係しているとの触れ込みで、養殖のふぐでは当たらないと半信半疑だがそう思っていた。肝の油でコクが出るぞうすいは格別に美味しい。ただ、カワハギの肝を入れられたとしても分かるものではないが。

平成6年に上京して暫くは、宴席や自前でフグ店に訪れたが、1万円台では美味しいと思わず、それ以来東京ではふぐは食べる機会がなくなって行った。

ところが、少し前ある雑誌にて高名な農学博士が紹介しているのを見て、妻を連れ立って都の北西部にあるその店を訪れることにした。行く前に、その店のH.Pをみると、天然とらふぐと書いてある。メニューには内容によるランク差がなく、人数により値段が変わるだけのシステム。一人平均では1万円にもならない。首を傾げながら臨んだが、案の定、悪い予感が当たった。店内には、宇宙人と呼ばれた元首相やゴージャスとの形容が似合う男性歌手らが来店した記念スナップが飾られていた。そんな口の肥えたセレブ達が喜ぶハズがない。きっと裏メニューがあるに違いないと思った。

ただ、白子や唐揚げもついたコースが1万円を切るならなるほどお値打ちで、〆の雑炊は美味しかった。それでふぐは美味しいものだと地元の人が思ってくれるのであればそれはそれで悪いことではないが。

私自身と言えば、天然とらふぐを食べたというはっきりとした記憶がない。今回の旅行では意識して天然物を食することにした。「博多 い津み」の特選天然コースに出されたてっさ(ふぐ刺し)は赤みがかっていた。特選コースの天然とらふぐのてっさだけは、まず塩で味わってもらうと店の女将に言われた。蕎麦と同じかと思ったが、てっさでは天然ものと質の良い養殖ものとの差がよくわからない。てっちり(ふぐ鍋)にするとその違いがよくわかった。ふぐの皮は天然物では分厚く弾力がありすぎてむしろ美味しいとは思えなかった。

翌日関門海峡を望むすこし高台にある春帆楼本店に訪れるべく、下関に移動した。夕刻までに時間があったので、向かいの門司港へフェリーで往復した。寒い海は波荒く暗く不気味だった。平家滅亡の際6歳で入水した安徳天皇のことを思いやった。

春帆楼の個室に案内され、暮れなずむ関門海峡の方をぼんやり眺めていたら、30年以上前神戸の銀行員時代に先輩たちと麻雀の後ふぐ屋に流れこんだ時のことがよみがえってきた。最高級の物を一人で食するのも悪くないが、天然物でなくても皆でわいわい言いながら一つの鍋をつつくのもよいものだったと回想した。

阪神大震災があったとき、壊れた故郷を見るのが忍びなく5年ほど足が向かなかった。ようやく神戸に戻る気になった時、そのふぐ屋を探したが見つけることはできなかった。一緒に鍋をつついた先輩たちも皆もうこの世にいない。なんとも寂しいかぎりだ。

 

松茸もその良さを感じえる関東人は多くないかもしれない。数年前所属していた業界団体のミッションで韓国に行った折お土産に松茸を購入した。他の人は美味しかったと言っていたが、香り(においは、悪い意味でも使う。松茸には失礼)がしないし、割くと中がまっ白すぎる。虫も喰わない物を食べるのかとの気になった。

平成の初め宝塚で銀行支店長をしているとき、取引先のホテルから招待され、歌手川中美幸さんのショーを夫婦で観る機会があった。その間幼い子供達3人を宿泊部屋で面倒みてもらうため地元の女子行員に頼み、少しのお礼を受け取ってもらった。かえって気を遣わせ、お返しにと女子行員の実家の裏山で採れた松茸をたくさん頂いた。結構虫が喰っていた。自然に任せればこれが本当の姿なのだと理解した。

神戸に住む母親から生前毎年のように晩秋に松茸を送ってもらっていた。当然値の高いものではないハズだが、国産の松茸は香りが違う。松茸ご飯は私の出番。味付けは薄口醤油と塩と酒だけでよい。濃口醤油では松茸の香りを損ねる。私の手料理を余り好まぬ子供達でもこれは喜んで食べていた。

 

本籍を東京に移しても関西人の私は、納豆、甘い卵焼き、もんじゃを、いくら努力しても好きになれない(妻は私に対して同じことを言う)ので強くは言えないが、ふぐや松茸を美味しいと思わない人も一度ちゃんとした物を食べてもらいたい。食べて「美味しいけど、こんな高いならステーキや寿司の方がよい」と言っても構わないので。

 

2017.1  NO.67  ルメートル VS  ニメートル (3)

村松剛氏は『帝王後醍醐』(中央公論社)で、「帝王後醍醐のかげが、近代日本の国家理念の基礎に深く浸透している」と結んだ。しかし、小島毅氏の『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)で知った悲劇の北朝第3代崇光天皇の子孫であらせられる明治天皇、昭和天皇ご自身が、南朝第1代後醍醐天皇の親政を理想と思われたハズはないと私は思いたい。

天皇にとって代わる野望を持った足利義満は、明から日本国王として冊封を受け、朝廷の権限を簒奪していった。それでも次男の義嗣を後小松天皇の後釜に据えようとした。義満とて天皇制を否定していない。

南北朝時代頃より天皇の権威は地に落ちたに見えたが、『室町の王権』(中公新書)の今谷明氏は、既成権威よりも高次の調停者としての地位という新しい権威を得たとする。

戦国時代を終わらせた三傑、あの信長でさえ窮地を天皇に救ってもらい、出自にコンプレックスを抱く秀吉は進んで天皇を取り込み、家康も天皇の権威を借りて江戸幕府を正当化した。明治政府も錦の御旗をもって徳川幕藩体制を終わらせた。日本では天皇を味方にできなければ賊軍となり敗軍となる。

明治政府は王政復古を唱えたが実際は権威と権力の二重構造は変わっていない。明治天皇も大正天皇も昭和天皇も“君臨すれど統治せず”を受け入れた。

15歳で即位した明治天皇に政治の実権を持てるハズがなく、成人されてからも、天皇を補佐する、佐々木高行ら侍補グループによる天皇親政運動が展開(明治10年~12年)されたが、それ自体がその証拠ともいえる。二・二六事件も、陸軍皇道派青年将校よる、“君側の奸” (政財界の要人)を排し天皇親政を求めてのクーデターだが、昭和天皇が叛乱軍と断じたのは、立憲君主の立場をわきまえておられる証左といえる。

保坂正康氏の『秩父宮』(中公文庫)にP105よれば、大正天皇は、山形有朋公と食卓を囲む際山形公の品のない所作に日頃からいらだちを覚えていた。山形公が天皇家は自分たちの力で存在しているとの傲りを見せるのが宮中では怨嗟の的になっていたという。

明治維新から満州事変までは政党内閣制への移行における過渡期と言えるが、天皇の信頼を得るも政党政治を推し進める、明治天皇における伊藤博文公、昭和天皇における西園寺公望公ら元老が内閣と立憲君主としての天皇との間に立ち、うまく調整機能が働いていた。しかし、日本の最も重大なる局面において、最後の元老たる西園寺公が高齢よる病弱で、さらに逝去したことは、昭和天皇にとっても、日本国においても、大きな痛手となった。軍部にも迎合しない西園寺公に代わる人材がおらず、期待された近衛首相は胆力と決断力に欠けてその器にあらず、軍部独裁政治に対する歯止めがきかなくなってしまった。

20年以上前に発刊された吉田裕氏の『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)に共感し今でも昭和天皇の戦争責任を問う者は、近衛首相が天皇に終戦を上奏したとき、「もう少し戦果がと天皇が同意しなかった」ことを金科玉条のごとく取り上げる。しかし、それは浮世絵の局部誇張表現と同じだ。そんなことを言えば、天皇と同じく戦争に反対していた近衛首相自身が政権を投げ出さず尽力しておれば、日米開戦自体なかったかもしれない。

いずれにしろ、昭和天皇の独白(『昭和天皇独白録』【文藝春秋】)に見られるように、不敗神話を妄信し戦争を支持する大衆とそれを煽った部数至上主義のメディアに後押しされより暴走する陸軍に対して大元帥としての天皇もNO!が言える状況にはなかった。軍部、とくに陸軍は、軍の意向に沿えば天皇の御意に従うが、そうでなければ無視する。加藤陽子東大教授の『戦争まで』(朝日新聞社)によると、日米開戦直前のルーズベルト米大統領からの昭和天皇宛ての親書を陸軍が勝手に届くのを遅らせた。これは統帥の崩壊といえるとしている。陸軍にとっては、現人神でも神聖不可侵ではなく、いざとなれば天皇を代えてしまうことも辞さない、そんな傲慢不遜さがあった。

終戦においても、結果を知っている今の我々は「あの時こうすればよかった」と言うのは容易い。当時天皇が終戦を聖断するということは、敗色が濃厚となり手負いの獅子として殺気立つ軍部に対して死ね!と面罵するのと同じだ。やはり軍部の大勢がもうこれ以上は無理だと諦観する時間が必要であり、あの8月15日まで待たなければならなかった。

ただ、先の独白録を見ると、昭和天皇は、単なるお飾りではなく、政治に積極的に意見を述べられたことが分かる。戦争責任を問われなかったとしても、昭和天皇ご自身としては、誰に求められるわけでもなく好物を断つがごとく、戦後沈黙を守り続け、象徴天皇としてひたすら国民の幸福を祈られたことにより、半生を通してご自身なりのけじめをつけられようとされたのではと思う。その中で、目覚ましい経済復興を成し遂げ豊かな日本になった今日において、天皇制を否定する理由は何があろうか。

 

私は、為政者に失望しても、国民に範を示す天皇がおられる限り、愛国心を捨てることはない。古くから天皇は表裏を問わず日本人の精神的支柱であり、かえって権力を持たないこそ1,500年以上に亘ってその「権威」が揺るぐことがないものと言えよう。

パナマ文書に中国やロシアの最高権力者の名前が取り出されたが、日本では私がよく批判する現首相や元首相でも載っていないだろう。伊藤之雄氏の『元老』(中公新書)によると、明治天皇が質素な生活を奨励し、天皇、伊藤博文公、山県有朋公ら元老から日本全体に浸透していき、腐敗の少なさが日本の近代化を成功させたとする。その明治天皇を師と仰ぐ昭和天皇が、『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』(米窪明美氏著)で垣間見られるように、慎ましやかな生活をされ国民に範を示され続けられた。それを引き継いでおられる今上天皇から任命を受ける首相が私腹を肥やすことなどできようか。そこは信頼に足る。

3.11の東北大地震で暴動が起きないことに世界が驚嘆し、台湾の黄文雄氏が『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』と書いた、その根幹にあるものが、天皇の下における平等な日本人の和の精神。

言論、思想、宗教の自由の現代において、帰化の条件にはできないかもしれないが、日本語を愛しみ、天皇を敬い、和の精神を理解する人に日本人になってもらいたいと思う。

 

2017.1  NO.67  ルメートル VS  ニメートル(2)

日本人における天皇とは。週刊新潮連載『変見自在』でお馴染みの超辛口の高山正之氏は古今東西の要人をボロカスに言う。故マッカーサー連合国軍最高司令官(以下「司令官」という)も天下の朝日新聞もかたなしだが、天皇には触れない。

反権力の私も権力者の現首相や元首相をミソカスに言うが、天皇を揶揄することはない。私にとって天皇は「権威」であって権力者ではない。私には古代からの日本人のDNAを引き継いでいる。戦後生まれの私は天皇を敬えとの押付けや教育を受けた記憶はない。

著名S評論家は皇室を揶揄したとしてネトウヨ?に在日外国人だと書かれた。ご丁寧にも外国人名までカッコ書きされて。そのネットに載せた行為は許されるものではないが、天皇を敬うのがごく普通だと思う者にとってはつい信じてしまうかもしれない。それほど皇室をなじる行為には違和感を覚えるものだ。

過日友人の弁護士と天皇について話す機会があった。天皇制に反対と言われ、よもやの返事でひどく困惑した。日弁連に洗脳されたのかと聞くとそうではないと言う。極めて常識人の彼がと思うと、言論の自由とはいえなんとも腑に落ちぬ。

弁護士業がそう言わしめるとしか考えられない。彼は明治政府が日の丸と天皇という国体を国民に押し付けたと言うが、皇国史観は明治時代にはそれほどのものではない。第二次世界大戦前に国民に軍部が押し付けた。明治維新で着物から洋服に変わったとしても日本人の精神性がそんなに簡単に変わるものでない。天皇の権威は聖徳太子以前から千数百年経った今日まで延々と続いている。

江戸時代の百姓は天皇のことを知らない? そんなことはない。ムスリムのメッカ巡礼のごとく、一生に一度伊勢詣することが夢とされた。伊勢御師(信徒を相手に祈祷や世話をする者)が全国各地に派遣され、伊勢参りに訪れる百姓たちの世話をした。御師が説明する伊勢神宮に祭られた天皇の皇祖神天照大神の話を百姓たちが耳を塞いだわけではないだろう。

第二次世界大戦敗戦の折キリスト教布教のチャンスでもあったが、マッカーサー司令官は天皇制存続に舵を切った。反共対策として天皇制を利用する意味もあったが、国民の激烈な抵抗を危惧しそうせざるを得なかった。敗戦の翌年5月の世論調査(毎日新聞)でも国民の85%が象徴天皇制を支持した。マッカーサー長官が去っても変化することもなく、のちに学生運動は起こったが学生の抑えがたきエネルギーの塊が天皇に向くことはなかった。

天皇制に反対し天皇条項がある現憲法制定に唯一反対していた日本共産党の矛先もいつのまにか萎えている。「憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度だ」(日本共産党創立81周年記念講演)とする。天皇制を変えず共産党のスタンスを変えている。

コメディアンのなべおさみ氏は、任侠学というものがあれば大学で教鞭をとれるほどよく研究しておられ驚く。氏の著書『やくざと芸能と私の愛した日本人』( イースト・プレス)によれば、やくざでもいざとなれば天皇の盾になるという(網野義彦氏の『異形の王権』[平凡社]を読めば合点がいく。後醍醐天皇は悪党、非人などの「異形の輩」と接触し貴賤を問わない政治ネットワークを構築しようとした)。

高校の同窓会に出席した弁護士にも聞いてみたところ、天皇制に反対と言われた。けだし、弁護士というものは、難関の司法試験に合格した偉い人達だが、日頃憲法や法律とにらめっこし過ぎて、日本人の精神性に加え日本の政治システムの歴史を軽視している面があるのではないか。我々庶民は法律に寄り沿って生きている訳ではない。家族愛、隣人愛、郷土愛、愛国心、社会的使命、信条、矜持に基づき生きている。

50年弱の弁護士業を営む戸田等弁護士が書いたエッセイ本『弁護士物語』(新潮社)の冒頭に「人は、人を愛すると優しくなる。法律を愛すると冷たくなる。」とある。そのあとに「愛しすぎて餓死した裁判官がいた。」と続くのだが、これは、私が指摘する側面に対する戸田弁護士自身の自戒だと私は捉えている。多方面に見聞を広め知見を深め、バランス感覚を維持・向上させているのはそのためだと勝手に思い込んでいる。

 

だが、かく偉そうなことを言ってみても、私自身「天皇」について改まって勉強した記憶はない。この際書籍を乱読してみた。近著『日本人と天皇』(田原総一朗氏著)、『「日本人の神」入門』(島田裕巳氏著)、『格差と序列の日本史』(山本博文氏著)等より、古代からの日本の政治システムの歴史を振り返った。

天皇を中心とする中央集権を確立するうえで身内や豪族たちと血と血で洗う抗争を繰り返し、それを正当化するためにも、もっと好戦的な荒ぶる皇祖神天照大神が必要であり、神話が作られたと思う。その神の存在とその恐ろしさを当時の人々は本当に信じ、平安時代には藤原氏が天皇に取って代わるのではなく、天皇から摂政・関白に任じられ、それ以降権威としての天皇と権力としての為政者との二重構造の政治システムが、一時期を除いて、長らく続くことになる。京の貴族がルーツの武家の棟梁が為政者となるには天皇から右近衛大将や征夷大将軍の任命を受ける(源氏のあと幕府の実権を握った北条氏は血筋が低いとして、征夷大将軍にもなろうとしなかった)。今も同じだ。天皇から首相が任命される。

武士政権の中で、後醍醐天皇による建武の新政と呼ばれる天皇親政が3年だけ行われた。かえってそれで天皇の権威を大いに失墜させた。であるのに、水戸の光圀公は、後醍醐天皇とその忠臣楠木正成を持ち上げた。かの光圀公でさえ天皇の権威は絶対であり、天皇に任命されるにふさわしい血筋を足利氏と並ぶ新田氏に求め徳川幕府の正当性を明確にしようと『大日本史』編纂に着手した。その新田義貞が南朝の後醍醐天皇についていたことから南朝正統説を採った。200年後それに感化された尊王志士によって葵の御紋が印籠を渡されることになるとは黄門様も予見できなかった。

 

2017.1  NO.67  ルメートル VS  ニメートル (1)

フランス人クリストフ・ルメートル陸上競技選手は日本人の夢を壊した。2010年に白人ランナーとして初めて陸上100m走において10秒の壁を破った。当時日本陸上短距離界では、黒人ランナーに次いで10秒の壁を突破するのは日本人選手だと心に決めていた。

2002年アジア競技大会で優勝、翌年の世界選手権で銅メダルを獲得した200m走の末續慎吾選手が、今後は100m走に注力すると発言したとき、高野進監督との師弟コンビはなにを勘違いしているのかとど素人の私はその時は思った。後になって、レジェンド人見絹江(1928年アムステルダム五輪800m銀メダル)が、100メートル、200メートル、走り幅跳びの元世界記録保持者であったことから、遺志を継いでいるのかと理解した。

しかし、アジアに限っても、中国の蘇炳添選手に2015年先を越されてしまった。

現在桐生祥秀選手(175 cm、21歳)や山縣亮太選手(176 cm、24歳)に10秒を切ることが期待されているが、未知数ながらサニブラウン・ハキーム選手(187 cm、17歳)の方により期待がかかる。さらに、昨年6月の日本選手権100メートル走にて日本一となったケンブリッジ飛鳥選手(180cm、23歳)もいる。サニブラウン選手はガーナ人の父と、ケンブリッジ選手はジャマイカ人の父と、それぞれ日本人の母とのハーフ。

私が子供の頃バスケットでも2メートルほどの大男の選手は動きが緩慢だと思っていた。今や大きくてもマイケル・ジョーダン選手(198 cm)のように俊敏このうえない。陸上においても、黒人選手特有の筋繊維をもち、ピッチ数も変わらないのであれば、体が小さくスライドが狭い日本人は短距離では歯が立たない。世界一早いボルト選手は196cmで、9秒58の世界新記録の時の歩数が41歩で平均ストライドは244 cmと言われる。身長比の極めて単純な計算だが、ボルト選手が100メートルのテープを切ったとき、桐生選手が同走していたら90メートル (244 cm×175÷196×41歩)にも達していないことになる(もっとも、ボルト選手のいない次の東京五輪の4×100mリレーでは金メダルが期待されるが)。

陸上に留まらず日本スポーツ全体で見てもアフリカ系のハーフの活躍が目立つ。楽天のオコエ瑠偉野球選手はナイジェリア人の父と日本人母とのハーフ。女子バレー日本代表の宮部藍梨選手もナイジェリア人と日本人の母とのハーフ。ラグビー日本代表の松島幸太朗選手の父はジンバブエ人。

国際結婚が珍しくないフランスで、一昨年春に日本で劇場公開された仏映画『最高の花婿』は、フランス人四姉妹の結婚相手が中国人、ユダヤ人、アラブ人、アフリカ人というブラック?ホームコメディー。さすがに日本ではこんなことは考えられないが、2014年に我が国で生まれた約102万人の赤ちゃんの内3.4%、約29人に1人が国際結婚で生まれたと新聞紙面に載っていた。私は、本ブログ2016年4月号(『キムテヒVS キムソヒ』)で書いたように、男から見た日本女性は世界一だと考えるので、日本人女性と結婚したい、日本に住んでもよいとする外国人男性はもっと増えていくに違いないと思う。日本女性は、我々男子のように体格的に気おくれを感じるということもない。平和ボケで軟弱になった日本男子より頼もしいと思っているのかもしれない。

受け入れ側の日本の親においても国際結婚に対する拒否感は薄れつつある。“将軍家御用達”京都・宇治茶老舗がスイス人婿を受け入れているし、長野県戸倉上山田温泉の温泉旅館の若旦那はシアトル出身米国人の婿養子だ。

ミスコンテストにおいても、2016年ミス・ワールドの日本代表に吉川プリアンカさん(インド人の父と日本人の母のハーフ)が選出された。2015年ミス・ユニバースの日本代表も宮本エリアナさん(アフリカ系米国人の父と日本人の母のハーフ)が選ばれている。

もともと、日本人の祖先は、Y染色体で辿ると、他の民族と同じくアフリカの一人のアダムに帰する。そのアダムの子孫はアフリカを出て3つの出アフリカ系統に分岐していくが、その3系統すべてが日本人には見られ、それは珍しいことらしい(日本人が洋食、和食、中華等雑食なのはそのためかもしれない)。当時の日本列島は今でいうところの多民族国家だと言える。

ホモ・サピエンスがアフリカを出て違ったルートで方々から東の果てにたどり着ついた。四季のある美しい自然の島国日本という樽の中で数千年の熟成を経て、ピュアでまろやかな「日本人」が形成されていった。

その日本が、たかだか240年の、貧富の格差さにより歪な社会となりあのトランプ氏をトップに選ばざるを得ないほど病める米国社会を指向していたと見えるのは、小泉・安倍政権は、いかがなものかとしか言いようがない。

 

  日本人で国際結婚が増え、肌、髪、目の色が多様になると、見た目では日本人と分からなくなる。何をもって日本人とするか。そのアイデンティーが問題となってくる。

日本国籍を有すれば、なんでも構わないというものではない。日本人のアイデンティティとして「日本語を使う(書く・話す)」ことに異論がある人はいないだろう。英語が常識な科学界においても、科学評論家の松尾義之氏は『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)と言う。実際毎年のようにノーベル賞を受賞しており日本語が不利になっていない。アニメ、マンガ、ジャパンホップス等今や世界が日本語を学ぶ時代だ(それは言い過ぎか?)。

そのあとは、武士道、あるいは神道にそれを求める人もいるだろう。私は、“天皇の下に平等なる人民による和の精神”を挙げたい。

山口謠司氏著の『日本語を作った男』(集英社インターナショナル)その人である明治時代の上田万年帝大教授は「日本語は日本人の精神的血液なり」と言った。私は“天皇の下に平等なる人民による和の精神”は「日本人の背骨」だと言いたい。

 

 

 

2016.12  NO.66  ふりん VS  ふしん 

少し早いが今年1年を振り返ると、政界、芸能界を問わず不倫騒動が世間を賑わした。中国では不倫がステータスらしいが、日本でも雨後春筍のごとく発現するとなると不倫が文化になったかと錯覚する。だが、社会的地位の高い者ほど代償が高くつくことに変わりがない。社会問題として分析、整理した『初めての不倫学』(坂爪真吾著)という本も登場した。同書では、不倫を「既婚者が、配偶者以外の相手と恋愛感情を伴った肉体関係を持ち、かつその関係を継続する意思を相手側と共有していること」と定義している。

継続性のない一夜限りの関係、性風俗や売買春による金銭を介した関係は、不倫の定義から除外すると著者坂爪氏は記す。これを我々は「遊ぶ」と呼ぶ。

誇れることではないが、遊びなら私自身覚えがある。バブル華やかりし頃海外視察と称して銀行の僚店の支店長らと隣国に繰り出したこともあった。中には気にいった相手の女性に「今度日本に遊びにお出でよ。案内するから」とリップサービスする人もいた。銀行の先輩に聞いた昔話では、勢い余って「面倒見るから」と言って銀行の名刺を渡した先輩がいたらしい。すると本当に来日し、大きな荷物を両手にぶらさげ銀行の窓口に訪ねて来たという。仰天した色男は思わず机の下に潜りこんだという嘘のような逸話がある。

不倫の中で、妻を大事に思いつつも夫がオスの性で他の女性をつまみ食いするのを私はあえて「浮気」と別記したい。妻に対する背信行為には違いないが、浮気者を強く非難できない自分がいる。私は、遊ぶぐらいだから、高島忠夫さんや三浦友和さんなどの聖人とは違う。米問屋?を潰した遊び人、母方の祖父の血を継ぐ私は、浮気願望がなかったと言えばウソになる。東に色白美人がいると聞けば、飛んで行き懇ろになりたい。西に私好みの女性が子供を欲しいと言っているのを知れば甲斐性もないのにぜひ協力したいと思ったものだ(過去形なのがチト物悲しい)。

してその現実は、「色男、金と力はなかりけり」との諺があるが、私は男の色香もなく三重苦。吾輩の辞書に側室、愛妾、二号、愛人、情婦、セフレの単語が載ることはなかった。

There is no accounting for the taste.(蓼食う虫も好き好き)は受験勉強で覚え未だ忘れ得ぬ英熟語。万が一物好きな女性がいたとしても、何事も杜撰な私の不審な行動など鼻が利く上とりわけ観察力の鋭い妻にすぐに見破られてしまう。平成のお鹿婆さんか?と思う妻はお金のことになるとキーキー煩いが、男女の問題はからきし意気地がない。包丁を持って追いかけまわす気の強い女なら投げ捨てることもできようが、しくしくと泣き伏すタイプの妻を置き去るマネはできない。女々しい男でもそれぐらいの矜持は持ち合わせている。

世界の北野武映画監督は女性にモテる。据え膳喰わぬはとの格言もある。しかし、奥さんと離婚したと聞かない。芸人として売れない時代に支えてくれた、いわゆる糟糠の妻を大事にするのは(男からすれば)見上げたものだ。生涯それを通してもらいたい。

 

夫の遊びに対する妻の反応は一様ではない。他の女性に心を移した訳ではないが不潔だと許せず別れる妻もいる。銀行時代の後輩には、新婚後まもなく遊んで奥さんに病気を移し、それ以来夜は没交渉となった者もいる(無理もないか)。

我妻は、少々波風が立つことがあっても(露悪家ではないが、その一端をそのうち披露する)、一生忘れない亭主への怒りを仕舞っている心の箪笥には入れていないようだ。

夫が浮気した場合はどうか。他の女に心が向いたらどんな妻でも腹を立てるだろう。それでも、芸能人の妻は、芸の肥やしと割り切りきろうとする。故中村勘三郎さんも生前よく女優等と浮名を流したが、週刊誌によると、夫人は、「浮気はダメだが浮き体ならいい」と自身に言い聞かせていたという。今年9月に京都芸妓との不倫報道を認めた中村橋之助(現・八代目芝翫)さんの妻三田寛子さんも、激怒しても、梨園の妻は離縁を無縁と心得る。

妻が怒髪天を衝くほど本気で怒るのは、妻の座が脅かされたとき。LINE流出で発覚した女子ハーフタレントの不倫騒動は、相手の妻サイドが、妻の座が奪われると分かり、牙をむいたと見られている。北海に棲む天使のようなクリオネが餌を捕獲する時にパッカラコーンと頭が割れバッカルコーンと呼ばれる触手が現れ悪魔の様相に変身するのに似ている。男達は肝に銘ずるべっきーだ。

 

 

今の若い妻たちは、すぐに別れる。理由がDV、借金苦ならともかく、夫の浮気であれば、子がいるならよく考えてもらいたい(生活力のある金子恵美衆議院議員でさえ思い留まったようだ)。一人で育て切る覚悟はあるのか(我が長男が荒れた中学校で一時心がすさんだとき妻では抑えが利かなかった。幸い長男は私の言うことを聞いたので、その時ばかりは妻は私を見直した)。直ぐに新しい男を見つければ済むと思っていないか。明石家さんまさんや船越英一郎さんのように妻の連れ子を我が子のようにかわいがる。それが当り前と思っていないか。理性も知性も低い男はそうとは限らない。某金融業界紙の社長が言っていた。「自分の体は面倒見てくれるが、子供の面倒は見てくれない」と真理を突く。

人間の男もオスであることに変わりはない。野生の世界では、例えば、ライオンの群れ(プライドという)で、ボスとの決闘に勝ち新しいボスとなった雄ライオンはまず旧ボスらの子供を皆殺しする。雌ライオンは、それに抵抗することは難しいとしても、よもや虐殺に加担することはあるまい。捨てられたくないとの思いからか、愛人や再婚相手と一緒になって自身の連れ子を虐待するのは、人間の女だけ。畜生以下と言われても仕方がない。

男というものは、有り余る男性ホルモンをガソリンとして冒険の旅に出ても、燃料が少なくなれば母なる港にちゃんと戻ってくるものだ(浮気未経験者が保証も補償も出来ないが)。上述の中村勘三郎夫妻も、晩年の仲睦まじい暮らしぶりがTVで放映されていた。落語家初代林家三平師匠の浮気でさんざん泣かされた妻の海老名香葉子さんも戻ってきたと週刊新潮(今年8月11・18日夏季特大号)に書いていた。

夫の浮気が許せないのは分かるが、まだ愛が残っているのに女の意地だけで別れるのなら、考え直した方がよい(以上、男の身勝手な視点による浮気の一考察ならぬ戯言を記す)。