2017.10 NO.76 いむしょう VS いむしょう

 横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて今11月で満40年を迎える。親御さんの横田夫妻の悲痛な思いは北朝鮮に届かない。北朝鮮にとっては、日銀マンの娘という不都合な子供を拉致してしまい日本での騒ぎを大きくしてしまったと思っているだけなのか。

これまで外務省はただ手をこまねいていたわけではない。しかし、外務省のH.Pを見ると、「拉致問題は、我が国の国家主権及び国民の生命と安全にかかわる重大な問題であり、この問題の解決なくして日朝の国交正常化はあり得ません」とある。この一節だけを切り取れば、日朝国交正常化が目的であり、拉致問題はそれに向けての障害とも読みとれる。国民の生命と財産を直接守るのは、警察であり防衛省の仕事のハズだ。

小泉首相時代、当時の外務省田中均アジア大洋州局長は、首相と一緒に帰国した拉致被害者を北朝鮮に戻さなければならないと主張して、人でなし呼ばわりされた。拉致被害者家族にとっては当然かもしれないが、我々はもう少し冷静に考える必要がある。

戦前警察力も有した巨大官庁として戦後GHQに解体された内務省ならまだしも、武器を持たない外務省は外交テーブルにつくことしかできない。

警察官を前にして「拉致しました」と故金正日総書記が言えば、それは自白であり、そのあとに続くのは、少なくとも実行犯の逮捕だ。外交テープルだからこそ、密約があればこそ、認めたのだ。ミスターXに「拉致被害者を一旦返すからまた戻してほしい」と言われ、田中氏は「わかりました。これで日朝国交正常化が進展するでしょう」と答えても不思議ではない。しかし、拉致被害者蓮池薫氏の兄蓮池透氏の(本人曰く)強硬な意見もあり政府は返さなかったことから、北朝鮮は日本が約束を破ったと盗人猛々しい態度に出た。盗人にも三分の理だが、もともと外交テーブルは筋違いなのだ(それなのに、またぞろ拉致被害者の為ではなく政権浮揚策として二匹目のドジョウを狙うかとの噂が立っている)

 

 かつて外務省の外交官で国家よりも人命、それも第三国の人命を尊重した人物がいた。一昨年末公開された映画『杉原千畝 スギハラ チウネ』その人である。私が日本の過去の人物で尊敬するベスト3の内の1人である杉原は、外務省の訓令に反してリトアニアで6千人ものユダヤ難民にビザを発給し、日本のシンドラーと呼ばれた。しかし、その杉原は戦後外務省を追われた。外務省の論理からすれば、杉原のとった行動は国を危うくする重大な規律違反。杉原もそれを理解しているから黙って身を引いたのであろう。

助けられたユダヤ人が杉原を長年探し求め、1985年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰されるに至り、日本人にも広く知られるようになる。

それでも外務省がなかなか杉原の名誉回復に動こうとしなかった。外務省が重い腰を上げ杉原の名誉を回復させたときは杉原が外務省を辞めてから44年も経っていた(映画を観てキャリアであればもっと早かったものをとの印象を一層強くした)

杉原がとった行動はだれにでも真似できるものではない。田中氏は、ミスター外務省としての自負を持ち、日朝国交正常化に向けて忠実に職務を遂行しただけという思いかもしれない。(小泉首相との二人三脚による)独断専行や記録がないこと、そこに見え隠れする私欲は、責められても仕方がないと思うが。

 

拉致問題については、本ブログの20147NO.37(「らち ふらち」)で言及した。軍事ジャーナリストの鍛冶俊樹氏は、著書の『国防の常識』の中で「日本国憲法」があるから国民を守れないのではない。自衛隊に救出する気がないのではない。政府や国会などの国家中枢にその気がないのであると言う。

金正男不法入国・拘束が千載一偶のチャンスであったが、みすみす解放したのは田中真紀子外務大臣の軽挙?に責めを帰するのではなく、当時の国家中枢の総意だと私は思う。

その時に戦略転換をすべきだった。米国や中国をもってしても手を焼く北朝鮮に、自らを安全なところに身を置き、経済制裁やあるいは経済援助を見返りにというスタンスでは、いい様に舐められるだけだ。従前の対応を囲碁に例えるなら、北朝鮮にとっては花見コウ。将棋への戦略転換が必要だが、日本側の思惑に関係なく、北朝鮮の方が将棋スタンスに既に変えている。米国空母への形だけの護衛を安保法制の実績作りとしたが、見返りに、北朝鮮から、米国の同盟国日本も攻撃対象にされ、平気で日本の上空にミサイルが飛ぶ。

 

拉致被害者蓮池薫氏の兄蓮池透氏は一昨年『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)を上梓した。東電を辞め、家族とも離縁し、拉致問題に全霊を捧げたが、政治家らに翻弄され、被害者家族達の間でも孤立した透氏の断末魔の叫び(首相をはじめ中山恭子官房参与ら拉致問題に登場するほとんどの人を名指しで批判)が聞こえる。

ただ、一方的な内容でもあり、諸手を挙げては賛同できない(拉致被害者が戻らない家族達が、透氏の北朝鮮に対する宥和的発言を変節だと怒るのも、無理からぬこと)。だが、透氏が安倍首相を「拉致を使ってのし上がった男」と表現したことは正鵠を射ていると思う。

今春めぐみさんの母横田早紀江さんが「何もできなかった40年は国家の恥!」と訴えた。40年の全責任を負う必要はないが、難題の解決を高らかに謳った安倍首相は、今のままでは「首相の、友達による、友達のため」の政治を志向したと歴史に刻まれる。レガシーになるのは、党是のための憲法改正ではなく、拉致被害者を取り返すことではないのか。

可能性は高くない米朝衝突を期して拉致被害者救出を米側に協力依頼するのではなく、自らの手で取り戻すことが米国の核の傘にいるといえども日本の自立の第一歩となろう。その場合、危惧される北朝鮮からの日本本土への報復攻撃は、在日米軍人が一人でも死ねば米国が北朝鮮を総攻撃するから、その危険性は高くない(甘い素人考えだろうか)

世界では当たり前の、自衛隊による救出作戦プログラム及びその完全遂行態勢の確立が焦眉の急だ。そのために憲法改正が不可避と言うのなら、大義がある。自国民を取り戻すことは、国家の義務であり、平和国家と矛盾しない。世界も侵略と難癖をつけないだろう。

首相は「国民を守る最低限のことが我が国ではできない。拉致被害者や紛争地に取り残された邦人を救出する際には、許されるなら自らが乗り込む覚悟であるので、自衛隊機派遣制限の撤廃、攻撃に応戦するための交戦権を認めてほしい」と自衛隊員を含む全国民に時間をかけて切々と訴え続ける。それが首相としての晩節を飾る花道になるのではないか。

我々も覚悟が必要だ。「拉致被害者及びその家族は気の毒だが、そのために我々の生活が脅かされることになるなら嫌だ」と言うのなら、田中均氏を批判する立場にない。ただ、拉致被害者家族達は、それでもすがるしかない国から煮え湯を飲まされ続けるだけだろう。

 

 

2017. 9 NO.75   VS す

 年末恒例の流行語大賞に今年は「忖度」が選ばれるとの呼び声が高い。元々、正しいこと、少なくとも悪いことでないことを、上を気遣って、上の了解を得ずに行うことを言うと思っていた。森友・加計学園問題を機に、悪いことと知りながら、上からの圧力を感じ、あるいは、上を怖いと思い、勝手にやってしまうことを忖度したと呼ぶことに変わるのだろうか。本来いい意味で使われていた「豹変」と同じか。これからは「正義感に燃えていたある官僚は、豹変し、忖度したことにより、公正・公平であるべき行政を歪めてしまった。」といった言い回しに使われることになるのであろうか。

もっとも元経産官僚の古賀茂明氏は『日本中枢の狂暴』(講談社)P389390で官僚文化の中では忖度とはもともと後者の意味であったと言っている。官僚は泥水を呑まないと生きていけないものなのか(私が所属していた公益社団法人の監督官庁はそんな感じは受けなかった。ほんの上辺しか見れないのだろうけれども)

その忖度で揺れた森友・加計学園問題で、菅官房長官は傷ついた。大下英治氏の『清和会秘録』(αイースト新書)によれば、菅氏が安倍元首相を強力に説得し再出馬させ第2次安倍政権を誕生させたという。その時には、影の首相だけではなく、真の首相にもと想い馳せたとしても、よもや後でスカを喰うとは菅氏は想像もしなかったであろう。

李下に冠を正すオシドリ夫妻の尻ぬぐいに、弁慶の仁王立ちさながら全身で野党、メディアからの質問の矢を受け続けた。その忠誠心の強さは敬服に値するが、その対応が悪いと党内で非難を浴びた。私なら、やってられるか!と辞表をたたきつけるところだが、さすが苦労人である菅氏は辛抱した。ただ、報われるとは思えない。国民は「菅官房長官は気の毒だ、被害者だ」とは見ていない。安倍首相が(ヒトラーに擬え)アベラ―なら菅官房長官はアムラー(ヒトラーに仕えた親衛隊全国指導者・全ドイツ警察長官のヒムラー)との印象を受けただろう。首相への道は遠くなってしまったと言えるだろう。

腹心の友の為に苦境に陥った安倍首相の股肱之臣でありながら逃げて首相の盾にならない官房副長官(内閣改造での幹事長代行起用に田原総一朗氏がTVで怒髪天)やヤンキー先生のなれの果てのような文科副大臣等類が友を呼ぶ旧政権の男たちは揃って男を下げた。

男を上げ、いや女を上げたのは、前国会でMVPと報じられた自由党森裕子議員と木で鼻をくくるような官房長官に質問で食い下がり続けた東京新聞記者の二人の女史だけだろう。

 

かつて自民党が政権与党を独占し続けていた時代、各派閥が切磋琢磨して競い、その中から少なくとも幹事長、外務大臣、大蔵大臣(現財務大臣)の主要三役を歴任して首相の資格を得ていた。いわば大企業の社長レースと同じだ。テストを潜り抜けた首相は、とくに官僚出身の首相は何事もわきまえていた。一方、官僚も強かった。自分たちが天下・国家を牽引しているとの矜持と気概が官僚にはあった。国民には安心感があったものだ。

今はどうか。小選挙区になり、公認をもらうためには官邸に自民党議員がものを言えなくなった。族議員も弱体化した。官僚も、2014年に官邸が中央省庁の幹部(審議官級以上約600)人事を一元管理する内閣人事局を創設して以来蛇に睨まれた蛙になったという。

官邸が、政治主導を通り越して、オーナー会社の二代目社長が独裁するがごときになった。国民に範を示す天皇から任命を受ける首相は「お上」として過ちを犯さないという性善説は立ちいかなくなったと言っても過言ではない。

森友・加計学園問題が表面化し首相権限が私物化されているとの疑念が湧き起こった。首相が謝罪した驕りが問題なのではなく、週刊新潮は、8/10号にて加計氏との奢り、奢られは贈収賄か否か!?と報じた。加計氏の証人喚問は与党の反対で召喚できそうにない。強制捜査権もない。渦中の大臣は皆交代してしまった。国会では真相解明が期待できない。立法府としての国会が空転するだけと理解した。

ならば、真相解明を司直の手に委ねるべきなのか。現行検察は行政機関とはいえ政治的圧力を避けるため検事総長に対する指揮権は法務大臣に限られる。だが、田中首相の時と時代背景が違う。法務大臣が任命者の首相に背を向けられるのか。また、指揮権乱用に対しては、与党が過半数を握る状況では内閣不信任決議案の発議も意味をなさない。警察・検察を「行政」から「司法」に完全移行させ、政権をチェックさせることが必要なのか。

「それは大ごとすぎる。米国歴代大統領を手玉に取ったとされるフーバーFBI長官の例もある。今般の内閣改造が内閣支持率を戻させたとしても首相自身への信頼回復に直結するわけではない。遅かれ早かれ森首相以降の自民党清和会系首相による政治支配が終焉するハズ。それを待てばよい」という意見もあろう。

 

どちらにしろ、官僚体制は変わらない。私は官僚に幻想を抱いているとは思わない。官僚がもっとしっかりしてもらいたい。何のために同い年生まれの中で最も賢い人達が国に集まっているのか。内閣人事局ができて、皆ヒラメになったというのは本当にそうなのか?

人事が意のままにならないのは、民間企業では当たり前の話。例えば業務部長が後任を自分で決められることはない。人事部長が担当役員、社長と相談して決める。

社長というものは取締役会で解任されることを警戒して何人かは意のままになる茶坊主(腰巾着、イエスマンともいう)を重用しても不思議ではない。

それなら社員は皆茶坊主を目指すのか。否、できる社員は社長に隷従などしないものだ。それでは能力が高いが意に沿わない社員は社長にスポイルされるものなのか。公私の区別ができる賢者のトップならそんなことはしない。会社にとって有益なのだから。

逆に賢者でないトップがお手盛り人事をしても、トップはオーナー会社でなければ、定期的に交代する。トップが代われば、しっぺ返しされるだけだ。

加計学園問題では、森裕子議員らに内閣府の審議官が国会で罵倒されてもグーの音も出ない不甲斐ない姿がTVに晒されていた。こんな姿を見て、官僚と接点を持たない一般市民は、官僚は皆そんなものかと見下げるのかもしれない。

私は一時公益社団法人に居たので、キャリア官僚の国家権力を身に纏った威圧感と能力のすごさ、そこから来る強烈な自負心と責任感を垣間見てきた。

官僚を目指した志は、事務方とはいえ、政権のポチ犬になることではないだろう。省益ではなく国益に反することなら、面従腹背など弱腰な態度をとる必要はない。

経済界を震撼させたリーマン・ショックは不幸なことではあったが、金融・証券界に流れていた理系の学生に日本の生きる道は物づくりだと目を覚まさせた。この森友・加計学園問題を奇貨として官僚たちが公僕を目指した初心に戻ることになると信じたい。

 

2017.8 NO.74 ゅうもく VS ゅうもく

本日81日は私の誕生日(どうでもよいか)85日はマリリン・モンローの命日。亡くなったのは1962年だが、その前後中学生?の私は兄が買った何かの雑誌(『平凡パンチ』なら創刊が19644月なのでそれ以降)で室内プールに佇むモンローのセミヌードを見ていた。奥手でもオスの本能かもうセックス・シンボルとして認識していた。それ以来私は海外セクシー美女に興味を覚えていくことになった。

「ゴッホよりふつうに・・」でお馴染みのキモカワ芸人『永野』さん流に言うと、ブリジット・バルドーよりもふつうにジーナ・ロロブリジーダが好き。ソフィア・ローレンよりもふつうにクラウディア・カルディナーレが好き。高校で好きだったマドンナは清純な感じだったが、映像の世界ではセクシー女優を追いかけていた。

社会人になる頃には、本ブログ20164月号(『キムテヒ VS キムソヒ』)で書いたように色白の日本のセクシー女優のファンになっていた。とくに、ウルトラセブンのアンヌ隊員として人気を博した清純派女優からセクシー女優に転身したひし美ゆり子さんが好きだった。昭和484月からの2ヶ月合宿の入行後研修で、銀行の研修所の部屋ロッカーの扉裏にお宝のひし美さんのセミヌードポスターを貼っていたら、黙って、勝手に、母親みたいに、研修担当に撤収されてしまった。堅物の銀行員の中でも人事部の研修担当は石頭の最たる者だと心の中で侮蔑したが、返せとも言いづらく、手元に戻らなかった。

こんな男性ホルモンに支配された私だったが、それでも清純派女優に心を奪われることが起きた。スェーデン出身の大女優故イングリッド・バーグマンだ。東京の銀行独身寮にいたときに観た記憶があるので、19763月にリバイバル上映されているその折に観たと思う。その『誰がために鐘は鳴る』を観てバーグマンがいっぺんに好きになった。

昨年はモンローの生誕90周年であったが、一昨年バーグマンは生誕100周年を迎えた。モンローは36歳の若さで亡くなったので、今でも永遠のセックス・シンボルと呼ばれる。一方、バーグマンは67歳まで生きたが、年輪を重ねても気品ある美しさは健在だった。

昨年渋谷のBUNKAMURAでバーグマン生誕100周年ドキュメンタリー映画を観た。スウェーデンにいる頃からその美貌が注目の的になり衆目を集めていた。175cmと背が高く当時それは逆にハンディであったが、もろともせずバーグマンはハリウッドで成功した。

『誰がために鐘は鳴る』に出演したときは既に夫がおり子供がいたとは思いもよらなかった。その後バーグマンの奔放ともいえる男性遍歴が映画界だけでは政治の世界でも問題となる。夫娘を捨て映画監督に走る上、沢木耕太郎氏が『キャパの十字架』(文藝春秋)で疑問を投げかけた戦場カメラマンロバート・キャパとも恋仲になるに及びすこし引いてしまった。動物行動学研究家の竹内久美子女史らは「限られた卵子でよりよい精子を求めていくのはメスとしては合理的な行動」とするが、捨てられる凡人側の男としては身につまされる。それ以上に幼い子供の方を不憫に思う。動物の仔は傷つかないのかもしれないが。

思えば、バーグマンは他にも『カサブランカ』『ガス燈』など数多くの名作に出演していたが、私はWOWOWなどで観る機会があったのに観ようとしなかった。観たいとも思わなかった。ひょっとすると、バーグマン自身よりも、文豪ヘミングウエィが描いた、可憐で、従順なヒロイン・マリアに恋焦がれたのかもしれない。その面影を妻に見た(今は全く可憐でも従順でもないが)ので求婚したのではと思うに至った。

 

バーグマンの声はやや太く好みではない。声でいうなら、レニー・ゼルウィガーさんが好きだ。他の女優とどれほど違うのかと言われても困る。好きになるのは理屈ではない。1996年かのトム・クルーズさんと共演した『ザ・エージェント』が出世作となり、その後当たり役『ブリジット・ジョーンズの日記』や『シカゴ』『シンデレラマン』等に出演。ニコール・キッドマンさん主演の『コールドマウンテン』でアカデミー賞女優となった。

ブレイクしてから20年後の2016年『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』に主演した。チャーミングだった顔をいじるも不評で元に戻したそうだが、映画を観て、何と言ってよいか微妙だが、声はチャーミングのままで安心した。

 この作品には、元彼役でコリン・ファースさんが出演していた。アカデミー賞を受賞した『英国王のスピーチ』(2010年)で知り、それ以来『裏切りのサーカス』『キングスマン』

『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』の出演作など注目して観ている。妻と観た『マンマ・ミーア!』にも出演とのことだが、2008年制作なので、アカデミー賞俳優の代名詞メリル・ストリープさんが歌もうまいと驚くだけで、ファースさんは記憶になかった。

 

 『英国王のスピーチ』の英国王とは、兄が世紀の恋を遂げるべく王位を捨てたため、弟が思いがけず国王となるジョージ6世のこと。幼い時から吃音に悩まされ人前で喋るのは苦手でオーストラリア出身の言語療法士と二人三脚で克服し生涯の友となる話。第二次世界大戦でドイツと戦う際全国民に戦意を鼓舞するラジオ演説をするのだが、国民も国王の吃音のことを知っており固唾を呑んで放送を待っていた。その中で療法士の協力を得ながら見事に演説し終える。却って口の滑らかな人の演説よりも国民に勇気と感銘を与えた。

映画館で観たときは、英語での吃音が今一つイメージできなかったが、WOWOWで吹き替え版を観たら、国王の苦悩ぶりがよく伝わってきた。同時に日本の声優のレベルの高さを再認識した。洋画は字幕に限るという考えを改めた。

映画の中でチャーチル首相も自らも吃音に悩んだと国王に告げていた。口から生まれてきたような小倉智昭キャスターもテレビ東京に入社時吃音に苦しんでいたと知って驚いた。それを克服するために、出にくい音を発声する前に前フリの言葉をつける工夫をしていた。それが今の話術を修得させることになったという。ウサギとカメの寓話を思い起こす。

今春米国ドキュメンタリー映画『ぼくと魔法の言葉たち』を観た。自閉症により2歳で言葉を失った少年が、大好きなディズニーのアニメを通じて現実の世界と向き合えるようになる。恋愛も経験し失恋に終わるもそれを乗り越え、自立を果たしていく。本人の前向きに生きようとする姿と両親、兄の深い愛にじわじわと涙が滲む。

世にいろんなハンディがある。努力してそれを乗り越えることに人生の意味があり、感動も生まれる。映画は本と同じくそれを我々に教えてくれる。

映画評論家故水野晴郎ならずとも、「いやぁー、映画って本当にいいものですね!」

 

 

2017.7 NO.73  二・二事件 VS 二・二事件

 よく観る映画もフィクションなので矛盾しているが、私は小説をあまり読まない。とくに推理小説は。小説なら歴史小説がよい。歴史上の人物を題材とし、資料のない所は作者の想像力で補う。作者の思い入れにより少し美化されるのは許容範囲とする。作家城山三郎が文官として唯一A級戦犯に処せられた首相広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』のように。

この前台湾の二・二八事件を題材したノンフィクション『汝、ふたつの故国に殉ず』(以下「当書」という)を読んだ。以前古川勝三氏著『台湾を愛した日本人』(創風社出版)を読んで、八田與一という敬愛すべき日本人がいたこと知った。今回は日本人で台湾に渡った父と台湾人を母とする、畏敬すべき坂井徳章(台湾名・湯徳章)を知ることになった。

1947年の二・二八事件のことは、私の長男が台湾女性と結婚したことを契機に台湾に関心を覚え名前だけは知っていたが、当書により詳しく理解するところになった。帝国陸軍青年将校による二・二六事件とは異なり、六四、つまり天安門事件によく似ている。天安門事件は中国共産党が民衆を武力鎮圧した。二・二八事件では国民党が民衆を弾圧した。

坂井は、当初父親と同じく台湾で警察官になったが、正義を貫き孤立し、日本に渡った。貧苦の中類まれな才能と人並み外れた集中力により奇跡的に当時の司法試験とキャリア官僚試験に合格した。輝かしいエリート人生を約束されたが、それには見向きもせず、父親の遺志を継ぐかのように台湾に戻った。二・二八事件の折、暴動の首謀者として濡れ衣を着せられ拷問されたが、決して台湾人の名前を挙げることなく、多くの台湾人の命を救った。自ら一人が犠牲になればよいと従容に受け入れた最後はキリストの磔を私は連想する。

この事件の前、日本が敗戦し台湾から撤退したと入れ替わりに国民党が入台して来たとき、台湾の人々は天使が去り悪魔が来たとは言わなかった。犬が去って豚が来たと評した。

私は一時期コンサルの真似事をしていたことがある。某ビルメン企業に常駐顧問として入った。社員は、私の存在そのものが不快な上に、自らの仕事のやり方について上から目線で干渉されるのは屈辱にも似た気持ちになっていた。同じ日本人にしてこうだ。民族が違えば、二等国民と差別され、母国語を日本語に替えさられたら、恨みに思って当り前だ。

そんな台湾人をすごいと私が感心するのは、それでも、自分たちが享受したメリットを恩と感じ、その恩をいつまでも忘れないようにしていることだ。

日本は、初めての植民地を得たとして、児玉源太郎、明石元二郎等当代きっての俊傑を歴代台湾総督として台湾に送り込んだ。台湾のインフラ整備、教育向上に尽力した。それは日本側の利害でもあったが、台湾の人々は尽力を惜しまないそんな日本人達に感謝した。

中でも、1930年に完成した台湾南部の烏山頭ダムを造った技師八田與一は日台の絆の象徴として台湾の教科書にも載る。命日58日には毎年慰霊祭が開かれる。201310月に私らが参った時にも墓に花が手向けられていた。同様に、国民党の恐怖政治時代を潜り抜け、2014年に、弁護士坂井徳章が処刑された命日の313日を「正義と勇気の日」と台南市は定め、英雄を忘れないようにした。

 

今や、台湾人が、いや、日本の子供達が尊敬する、日本人がいないのではないか。それとも悪貨が良貨を駆逐しているのと同じことか。日替りのように出現する失言大臣、「共謀罪」を狂暴にも強行採決させようとする与党議員。ポチ犬のごとく忖度して行政を歪め、志が問われる官僚、本分を忘れ政権の親衛隊と化す新聞人・ジャーナリスト、を見て、子供達がこんな人達になりたいと思うだろうか。

突然自民党草案と違う(交戦権が無いまま自衛隊を明記しても意味がない)まやかしの第9条改正案をぶち上げ、2020年憲法改正と東京オリンピックをセットに花道を飾り憲政史上最長首相へと私欲を露にした安倍首相。そのポスト安倍の一番手に浮上した岸田文雄外相は、広島選出議員でありながら核兵器禁止条約交渉への不参加を表明した。外相は、「同盟の強化と大統領の言いなりになることとは違う」と閣外に去ろうとするぐらいの矜持を見せるべきではなかったか。ようやく自民党内でも驕れる安倍一強体制への批判が高まる中、外相を領袖と仰ぐ名門宏池会所属議員は歯がゆい思いをしているのではないか。

70周年を迎えた経団連も、財界総理と言われた会長石坂泰三や土光敏夫は政界ににらみを利かせていた。今は政権に陳情するか媚びを売ることしかできていないのではないか。

 少し古い醜聞だが、みずほコーポレート銀行の頭取が女性記者との路上チューを撮られ、頭取の権威を失墜させた。すぐに辞任しようともしなかった。みずほ銀行初代頭取(富士銀行の最後の頭取)が庇ったと噂されたが、そのみずほ銀行に統合された富士銀行は、私が就活していた昭和47年当時トップバンクで私など高嶺の花だったが、一度何かで歴代頭取の顔写真が時系列に並んでいるのを見たことがある。金融界のナポレオンと称された頭取松沢卓二(昭和50年~56)を境に人相が変っていき、それに伴い業界での富士銀の地位も低下していったと皮相的とはいえそう感じていた(何も知らないくせにと富士銀OBに叱られるかもしれないが)

 大企業も、東芝、三菱自動車に限らない。トップが判断を誤る、あるいは、大きな問題が発生したとき、その後の対応がより重大となるが、トップが保身に走り、それを大企業社員が見て見ぬフリし身の保全を図る、その構図が会社を傾城させていく。

これら政財界のトップ層は国民の縮図。底辺をなす私ら庶民の劣化は言うに及ばない。

作家三島由紀夫が197011月陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて自決したとき、学生だった私は彼のことを理解できなかった。今は少し分かる気がする。自衛隊員に向けた檄文の中の「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。」は、47年経つ今もそのまま当てはまるではないか。

一億総大人が平和ボケしてしまった今、若い人は歴史上の偉人から日本人としてどう生きるべきか学んでもらうしかないだろう。

ノンフィクション作家門田隆将氏の作品には、当書以外からも、『この命、義に捧ぐ』(集英社)により、中国共産党の攻撃から台湾を救った陸軍中将根本博を知った。『日本 遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』(PHP研究所)で下々に冷淡というか無関心なキャリア外交官の中にも下々のために奔走した秋山進大使のことを教えてもらった。門田氏にはもっと多くの隠れた信愛すべき日本人がいたことを書いてもらいたい。

今こそ過去から世界に誇る日本人の精神的特質を学ぶ時だと思う。 

 

2017.6  NO.72 じゅ  VS きじゅ

  2年前の865才の誕生日を機に私は卒職し、それ以降髪結いの亭主となった。ほどなく妻と某TVの歌番組を観ていた時、歌手小林幸子さんが『雪椿』を唄うところで、妻にこう告げた。「やさしさとかいしょのなさが 裏と表についてくる そんな男に惚れたのだから その分私ががんばりますと」の歌詞をよく噛みしめるようにと。すぐさま「無理! 惚れてないから」と妻に切り返えされた。

それからというもの、妻が毎朝出勤する度に、今日どこか行くの?と聞かれた。正直に答えるとまた遊びに行くのねとイヤミを言われる。それで、ウソをつかない(本当のことも言わない)私は、次のように返事することにした。映画の時は「勉強」に行く。同様に、美術鑑賞は「見学」。B級グルメ店探訪は「取材」。カラオケは「練習」。麻雀は「試合」。

家で読書するのは文句ないだろうと思っていたら、「本ばかり買って、ちゃんと全部最後まで読んでるの? 近くに立派な図書館があるからせいぜい利用したら!」と叱責された。“働かざる者本買うべからず” なのだ。出版社よ、女房族にプロパガンダが必要だ!

そんな日々ももうすぐ終わる。妻が今月の誕生日で還暦となり退職する。これで髪結い亭主の負い目、妻からのイヤミから解放されるだろう。

妻と3才になる孫娘と誕生日が同じなので、盛大にお祝いをしてあげることにしよう。

 

私が銀行を辞めてから20数年経つが、妻が20年以上も正社員として働いてくれるとは思わなかった。私が妻の体形を揶揄しようものなら、「蒲柳の質」とは縁のない妻から「だから、アンタはそうやってのうのうとしておれるのでしょ!」といつも反撃され、やぶ蛇になってしまう。

顧みれば、昭和59年夏次男が生まれた頃から翌年夏組合専従を降りたその年末頃までの1年ばかりは、長男と風呂に入っていた。長男が、120を数え、そのあと「おまけのおまけの汽車ぽっぽ ぽーとなったら上がりましょ!」と歌って、湯舟から一緒に上がったものだった。だが、それだけだった。組合行事で土日でも出勤することも多かったが、妻はいつも快く送りだしてくれた(遊びのゴルフの時は文句たらたらだったが)

昭和60年の年末も押し迫った頃娘が生まれた。翌正月明けから2月末まで、私は土日祝日も一日も休まず出勤した。その時私は銀行の融資企画部門で大蔵省検査の窓口を担当していた。その準備と検査開始以降の対応で、徹夜も何日かしていた。妻は冷え込む冬の夜、連日一人で、まず4才になったばかりの長男を風呂にいれ、次に1才半の次男を入れて、着替えさせては、そのあと生まれたばかりの娘を風呂に入れていた。検査が終わっても私が風呂に入れた記憶がない。でも妻は私が仕事なら文句も愚痴も一切言わなかった(今頃になってちくりちくりと責めてはくるが)

2年前私が卒職したとき、妻は私に専業主夫を命じたが、結局以前とあまり変わらなかった。毎日のごとく妻は出勤前の忙しい時に洗濯し、干していた。さすがに取り込むだけでは悪いと思い、干すことも私がやると妻に言ったが、妻は「近所の目もあるし、しなくていい」と言った。妻は私と正反対でなんでも自分でやろうとする。手伝ってくれることより、何もしないとか文句を言って私を凹ましたいようだ。縫ってやりたいほど私の口を憎たらしいと思っているらしい。

妻は退職してもなにかしら働こうとするかもしれないが、これから10年間ぐらいは、これまでの慰労を兼ねて、彼方此方旅行に連れて行ってやりたいと思う。

昭和565月に結婚し、新婚旅行から帰ってきて直ぐに、銀行の後輩に子供が生まれた。こちらも早くという思いは30歳を過ぎていた私の方が若い妻よりも強かった。それで妻が基礎体温を測りだしたら、体温が下がることがなく、1か月も経たないうちに体温を測るのを止めてしまった。それから体温を測ることは二度となく4年半の間に3人の子持ちとなった。長男がお腹にいると分かって、神戸から京都への小旅行を断念した。ハネムーン(蜜月)はあっという間に終わり、父と母の関係になってしまった。夫婦だけで旅行するのは20年後平成13年まで待たなければならなかった。

それ以降、年に一度は夫婦で旅行した。旧婚旅行で平成232月に30年越しのハワイにようやく行けた時は、もっと若い頃に来たかったと少し残念に思った。

 望まなくとも熟年夫婦になった今は、大人の休日倶楽部ジパングで列車の旅に度々出かけよう。定番のクルーズ客船の旅も考えたい。妻は船が嫌いと渋る。行くと言っていても(私が油断して好き放題言っていると)いつ恐怖の「行かない!」攻撃が始まるか分からないが。

 

娘も、いつの間にか大きくなり、ある時甘えることのない妻に私から懐いていく様子を見て鳥肌を立てる仕草をしてナメクジ(蛞蝓)みたいと言った。それ以来私の呼び名はポチ犬からナメクジにさらに格下げされた(ダニよりましか)。嫁ぐ時娘が妻に「私が居なくなったら寂しくならない?」と聞いた。妻は「大丈夫よ。ナメクジがいるから」と返したらしい。

ナメクジならすこしでも長く妻にへばりついてやりたいと思うが、ナメクジの天寿は短い。金寿(100)までは論外。米寿(88)はおろか傘寿(80)も望みえぬ。前立腺がん罹患・治療によりQOL (生活の質)が落ちた身の上喜寿(77)まで生きられたら御の字のような気がする。その時妻は古稀(70)を迎えるにすぎない。妻はそのあと15年は生きる。それは長い。私が亡くなってからも操を立てる必要はない。良い人がいれば再婚してもらって構わない。私と違って妻は人受けが良いので寡のお爺ちゃんの方から言い寄ってくるだろう。

私は、天国はないと思っているが、仮にあるとしたら、『帰って来たヨッパライ』の歌詞のようにこの世に戻る、ことはない。酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗な天国で酒池肉林の生活を送る。妻は慌てて後を追ってくる必要はない。

こういうことを言う亭主に限って長命して妻をうんざりさせるのかもしれないが。

 

2017.5  NO.71  ロクン VS  ロク

昨年9月ソウルに一人旅に出た。大学の同級生と大阪で会った折、韓国に行ったことがないと言うので、私が案内すると約束した。こちらは早々と飛行機も宿も手配したが、同級生は奥方の了解が得られなかったようだ。各々夫婦の形、力関係があるので詮方無い。

これまで何度か訪韓していたが、金浦空港から一人でタクシーに乗ってソウルの中心街・明洞に向かうのは初めて。一般タクシーより模範タクシーの方が安心とのことでそれに乗った。Googleマップで金浦空港から明洞への走行を追っていると、最短ではなく最長のコースを進んでいた。これが模範?かと思った。また、帰国の日にワタリガニの醤油づけを食べにホテルからタクシーに乗り、運転手にハングルで店名と住所が書かれた紙を渡した。ここだと降ろされたが、店名と同じハングル文字を探したが見つからなかった。

「だから、この国は嫌いだ!」と、これしきのことで言うほど狭量ではない。通りすがりの若い女性に尋ねたところ、少し日本語が話せる人だった。スマホで探してくれて、現在地から道順を表示した画面をアップしこれを写メすればと言ってくれた。お陰で何とか店に辿りつけた。その後東大門のデパートで孫娘の服を購入した後、金浦空港への帰り道、タクシーを拾い63ビル(60階地下3階、地上249mで、1985年完成当時日本のサンシャイン60を抜いてアジア一)に向かった。63ビルは日本人向けの観光コースには入っていないらしく珍しく日本語が全然通じない。帰るべく展望台でタクシー乗り場はどこかと係員に聞くとなぜか飲物売り場に連れていかれた。ヒヨコのような小学生でごったがえしている中一人しかいない女性店員は流暢な日本語で「この辺にはタクシー乗り場はない」と。つれない返事に凹んだが、そうではなかった。子供達の相手を後回しにしてスマホで検索し「やっぱり最寄りの駅まで出て拾うのがよいみたい」と助言してくれた。

異国の地ではこんな気遣いでもありがたさが身に染みる。親日的な両女性に偶然出会っただけとは思わない。悪い人もいれば良い人もいる。それは日本とて同じことだ。

 

今回キャンセルをせず一人旅した目的は、がん治療の後遺症で今や方正之士の身の上、4年前に来たときに利用した日本人御用達の店に再訪すること。当時韓国の地元民もこんな美味な店があったのかと感心していた。しかし、4年間思い続けて実際に再訪して、世に言う、同窓会に出て「美しい思い出は思い出のままの方がよい」と後悔するのと同じだった。

日本人の訪韓数は、韓国観光公社によると、李前大統領が竹島に上陸した2012352万人をピークに2015183万人と半減している。その影響は日本人御用達の店に直撃する。

明洞の中心部にある明洞餃子の斜め向かいの細い路地の先に日本人御用達の『明洞多島海鮮』(今回不訪)がある。その路地の手前の一角に日本人向けの屋台の雑貨店が20129月には存在していた。男優・歌手のチャン・グンソクさんや歌手グループKARAのブロマイド等がよく売れていた。私も土産に利用した。今回その場所を覗くと帽子屋に替わっていた。明洞の中心街をそぞろ歩きしたが、日本語がそんなに飛び交ってはいなかった。4年前も平日だったが、カタツムリ美容パックを買い求めて日本女性がかまびすしかったものだが。何よりも違和感を覚えたのは、ロッテヤングプラザの対面にある明洞のメインストリートに夕方から屋台がびっしり出没したこと。台湾の夜市かと見間違う。日本の旅行代理店は明洞をソウルの原宿とか形容するのは見直した方がよいのかもしれない。

 

今回の旅は、北朝鮮の5回目の核実験を行った直後であったが、同じ頃女子ゴルフ「ザ・エビアン選手権」でチョン・インジプロがメジャー最少スコアで優勝、凱旋帰国したことをTVが大きく取り上げていた。当然街行く韓国の人に緊張感は微塵も感じられなかった。

現時点では韓国メディアに煽られ米国の先制攻撃の返り血を浴びるのかと韓国民は不安がっているのだろう。

しかし、米韓の斬首作戦も本気ならそんな名をつけて合同演習しないだろう。熱りが冷めた頃北朝鮮は6回目の核実験をするだろうが、実験はしょせん実験に過ぎない。既核保有国も米国以外は実験しかしていない。

浅学非才・短絡思考の私から戯言を吐かしてもらうと、北朝鮮と米国の敵対関係は、暴君同士のチキンレースに見えても、私には茶番としか思えない。もともと、なにも北朝鮮が核武装しなくても、米国は、イラクのような石油利権もなく、宗教も関係ない、後ろに中国がついている、北朝鮮にわざわざ攻撃しようとは思わない(トランプ大統領とて同じ。家族思いのトランプ氏は真の暴君にはなりえない。排除されるのが歴史の常だから)

六四(198964日天安門で民主化を求めた学生らを人民解放軍が武力弾圧した)がタブーの中国は、『「暗黒・中国」からの脱出』(文春新書)を読めば、今も民主化運動の人民を弾圧していることが分かる。英雄死はさせない。もっと狡猾に、家族を人質にして民衆の面前で自己批判させる。そんな中国は、民主化された韓国と国境を接することを嫌い、北朝鮮を死守するだろう。その中で、北朝鮮は金王朝の承認と兵器の売込み・外貨稼ぎでミサイル発射と核実験をデモンストレーションとして繰り返す。米国の軍産複合体も渡りに船。危機感を煽り、韓国、日本等にTHAADや最新戦闘機を買わせ配備させる。昨日の東京メトロ等の一時運行停止は、まさに米朝の思うつぼだろう。

けだし、21世紀を環境の時代とするならば、20世紀は環境破壊の時代。その象徴が核兵器。前世紀の遺物だ。そんなものを人民の生活を犠牲にして保有しても核保有国と対等という大きな盾を得るだけにすぎない。矛としては使えない。あのソ連でも使えないから冷戦となった。北朝鮮の米国本土核攻撃など米国は本音ではなにも心配していないと思う。

戦争とは、相手国の人を攻撃し相手国の人間社会を制圧し組み替えること。だとすれば、20世紀のゴジラみたいに、なにも立派な建物群をなぎ倒し、大気も放射能で汚染させる必要などない。環境の時代の戦争は、サイバー攻撃と化学・生物兵器になるのかもしれない。

オウム事件のごとく、金正男暗殺事件にVXが使用された。先月シリアがサリンを使用したと報道された。国際条約で禁止されているのにも拘らず。

『世にも奇妙な人体実験の歴史』(文春文庫)P159によれば、「ワシントンDCの風上で炭疽菌の芽胞百キログラムが散布されれば、最大5百万人が死亡する」とする報告書があるという。圧倒的優位への野心を持つ国が核兵器の陰に隠れて人間に対して猛毒で蔓延しやすい生物兵器を開発するのを、米国は真に恐れていると思う。

 

2017.4  NO.70 ジョシロ VS ジョシ

 私は小学校3年生まで母親と銭湯に行っていた。ある時脱衣場で同級生の可愛い女の子が下着をつけて大き目の椅子に座っていたが、裸で背を向けて座りその子の下着の背中側を濡らしてしまった失敗談を覚えている(他にも覚えていることはあるが言わぬが花だ)。

奥手の私だったが、神戸下町の当時の相場なのか条例なのか4年生からは男湯に入っていた。中学生に上がり、性毛が生え始めたとき兄と近所の子らにはやし立てられた。

ある日、風呂屋の主人が、玄関の工事をするので今日だけサービスと言った。裏口から男の脱衣場に行くには女の脱衣場を通り番台の前に垂れているのれんをくぐって男の脱衣場にたどり着く。帰る時も女の脱衣場を通り裏口に向かう。意外にも女の人たちはタオルを縦にして隠していたものの平然としていた。男の方が照れくさそうに出入りしていた。もっとも、50年以上も前のこと、当時番台には店の主人つまり男も座っていた(江戸時代まで男女混浴で黒船のペリー提督が風習の違いに驚いたという、その名残りなのか昭和30年代では今ほどには女に抵抗感がなかったのかもしれない)。

町内会で須磨のヘルスセンター?に行った時も、混浴で、男達が先に入っていたが、女達がぞろぞろと同じ湯舟に入ってきたら、男連中がすごすごと隅の方に後ずさった。裸で一対一ならともかく群れになると女の方が度胸がよく男の方が気恥ずかしがると理解した。

遠い日のことですっかり忘れていたが、昨年男性教師が女装して女子風呂に入ろうとして見つかったというネット記事(女達の群れに囲まれて惨めに蹲いていた)を見て、遠き日の当時のことを懐かしく思い出した。

 

 社会人となってから、女子風呂には当然縁がなかったが、女子プロとは話す機会があった。といっても口を利いた程度だが。平成元年宝塚の支店長の折、取引先のゴルフ場から招待された。男子プロと違い当時の女子プロは飛ぶ人でもドライバーの飛距離が240ヤード前後で素人の我々とそんなに変わらないので参考になると出かけて行った。

旭国際のコースのパット練習場に歩み寄り「黄璧洵さんですか?」と声をかけた。当時ファンだった台湾の黄璧洵プロは韓国の李知姫プロ(日本ツアーで活躍中にて生涯獲得賞金10億円超)をもう少し小さく華奢にした感じの天才肌で日本で13勝をあげた。今はどうしておられるかと案じていたら、香妻プロファンのブログ・香妻琴乃.com(2016.9.1)で紹介されていた。アリナミンVカップ 「グランドシニアの部」に出場し2位になったとのことだ。黄プロが還暦を迎えても元気なご様子で安心した。

新宿支店長の時、熊本で平成2年春に開催されたマルコーレディスのプロアマに参加した。名前は忘れたが、台湾出身の女子プロと談笑して回った。その時膝を痛めていたがせっかくなので強行出場した。足を引きずりながらのプレーでチームには貢献できなかった。プレー後の授賞パーティにて、バブル期のあだ花となるが、その時はまだ不動産業マルコーの金澤社長ともに時代のプチ寵児であった日長銀(現新生銀行)のH部長の尊顔を初めて拝した。バブルをはじけさせた不動産融資総量規制がまさに発動される直前だった。

プロアマだったか何の時か思い出せないが、吉川なよ子プロと高村博美プロだったと思うが前の組で回っていて、後ろから声をかけ二言三言話をしたら「おっかねぇ!」と思った。しかし、それでこそ勝負の世界でトップを走れるのだろうと思ったことを覚えている。

岡本綾子プロとは口を利いたことはないが、流れるような綺麗なスイングと「フニャ」とあだ名される性格はプロの中では優しそうとの印象で長年ファンになった。

この3人のトッププロの時代は社会人になってからゴルフを始めている人が多い。30歳前後からピークに向かっていくので結婚するか一生ゴルフに捧げるか悩む時代でもあった。

今の女子のトッププロは、30歳で引退と表明するプロも少なくない。世界ランク1位のリディア・コプロは17歳で30歳での引退希望を口にした。韓国出身のアン・ソンジュプロも30歳での引退をほのめかしている。横峯さくらプロも30歳引退を表明したことがある。そこには、2006年から始まったワールドランキング初代女王のアニカ・ソレンスタムプロが38歳で引退し、結婚・出産したこと。それ以上に、その後の絶対女王(158週世界ランク1位)ロレーナ・オチョアプロが29歳の若さで引退したことが衝撃的で強く影響していると思う。

今のプロは、子供の頃からゴルフを初め30歳になる頃には20年以上ゴルフをしていることが多い。ある程度稼げばお金ではなく第ニの人生を歩みたいと思っても不思議ではない。

東尾理子プロは、ある解説で、男子プロと違い30歳、35歳が節目と言っていた(世界を席巻する韓国女子プロ達の大躍進の起点となった朴セリプロは昨年38歳で引退を表明した)。

ゴルフでも花の命は短いようだが、今体格の向上、育成体制の充実、道具の進展等もあり、より若い人がどんどん台頭してきていることも早期引退を後押しするのかもしれない。

2016年度末の世界ランクのトップ5は、すべて19歳と20歳台。とくに、ベスト3は上からリディア・コ(19歳)、アリヤ・ジュタヌガーン(21歳)、チョン・インジ(22歳)という若さで、しかも年下順だ。

5年前の世界ランク上位5人の5年間(2011VS2016)の比較を見ると、ヤニ・ツエン(201122歳)1位→105位。スーザン・ペーターソン(同30歳)2位→18位。チェナヨン(同23歳)3位→55位。クリスティ・カー(同34歳)4位→30位。ポーラ・クリーマー(同25歳)5位→87位。皆大きく順位を落としている。

 日本では、女子プロが目の色を変え挑む日本女子オープンで、昨年とうとう15歳のアマが優勝する時代が到来したかと思ったら17歳の畑岡奈紗アマ(現プロ)が逆転で最年少優勝した。優勝争いした20歳の堀琴音プロが「プロが勝たないと」と言い人目を憚らず泣いた。

時代の過渡期とも言えるが、もうベテランと呼ばれそうな30歳代の女子プロはどう思っているのだろうか。プレー後の女子風呂のシャワーを浴びながら悔し涙を洗い流しているのであろうか。それとも、海外メジャーを制した樋口久子プロや米国で賞金王になった岡本綾子プロのように大きく羽ばたいてもらったらと年下の子らにもうそう思っているのだろうか。

2017.3  NO.69  いたがり VS  いたがり

私のことを、妻は痛がりと言って蔑み、知人は言いたがりと揶揄する。

ハリウッドの大女優メリル・ストリープ女史は堂々と新大統領になる権力者を批判した。日本では賢い人は思っていても軽々しく口にはしない。ガキのままの私は、そうではない。

週刊現代は寿新春特大号の特集『天皇陛下「安倍総理への不満」』のP72にて「天皇制について根本から議論してほしい―天皇自らが発した思いは、安倍政権によって、都合よく【矮小化】されてしまっている」と書いた。その頃陛下の神経を逆なでするかのように2019年から新年号を使用すると大々的に報じられた。オーナー会社のカリスマ経営者なら、下が「辞めるんだって。それなら会社のロゴマークを新しくしよう」と言えば、下をどやしつけるだろう。それは象徴天皇には許されない。阿吽の呼吸という言葉がむなしく響く。

最近安倍首相は「戦後レジ―ムからの脱却」とは言わなくなった。変節したと言われるのはまだしも意味が分かっていないのかとの声もあがった。佐伯啓思氏に至っては、著書『反・民主主義論』(新潮新書)の第三章「戦後70年・安倍談話」の真意と「戦後レジ―ム」において、P76で「戦後レジームからの脱却」を唱えていた安倍首相の談話によって、本当に「戦後レジーム」が完成してしまったと断じる。

米国のみ侵略戦争が許される。それは、自由、民主主義、人権、法の支配を守るための正義の戦争だから、その米国に日本が従属するというのが戦後レジームという。安倍首相は、宗主国米国に安保法制を朝貢し、予想に反しトランプ氏が大統領に決まるといち早く尻尾を振りに訪米した(大統領就任後のゴルフ外交で忠犬として暴君から認知された)

山口出身の大学の同級生に首相は尊王攘夷の長州人のDNAを引き継いでいないではないかと問うと、同級生は首相は山口に住んでいない。東京人だと言った。その山口に舐め切った態度のロシア大統領を招いた。宗主国米国はその真意を測りかねたことだろう。

記者の原真人氏は、著書『日本「一発屋」論』(朝日新聞出版)でアベノミクスは失敗したが、首相はそれを認めず、さらに無駄にエンジンをふかそうとしていると書いた。あの佐高信氏は浜矩子同志社大教授との対談『どアホノミクスの正体』(講談社+&新書)を上梓した。浜女史がアホノミクスと命名したアベノミクスにおけるトリクルダウン理論は、そもそも、上の方に点滴を垂らせば下まで行き渡たる。貧乏人はそれを待ってろという金持ちたちの横暴、傲慢に対する批判からうまれたものだという。

両書を読んで、首相は、下におこぼれが落ちようが落ちまいが、任期中に経団連を初め大企業や富裕層が(ふるさと納税、プレミアムフライデーも含め)満足し、現政権を支えてくれればそれでよいと思っていると理解した。

そんなことが許されるのかとエコノミスト河村小百合女史が『中央銀行は持ちこたえられるのか』(集英社新書)で強い警告を発している。現政権に同調する日銀の事実上の財政ファイナンスにより日銀の総資産は低金利の国債を中心に400兆円まで急激に膨れあがっている。短期金利があがっていけば債務超過に陥り日銀は機能不全に陥ると警鐘を鳴らす(宗主国の暴君が日本の金融政策を否定する発言をしており、その懸念が現実味を帯びてくる)

日銀が現政権の日銀部に成り下がる現様相に対して、軽部謙介氏は『検証 バブル失政』(岩波書店)にて、永野健二氏は『バブル 日本迷走の原点』(新潮社)にて、(バブルの遠因となったロン・ヤス時代のレーガノミックスと同じ政策をとり始めているトランプ政権からの圧力対して)日銀がどう独立性を守るべきか反面教師として前回バブルから学べと言う。

バブルといえば、私にも苦い思い出がある。平成2年の6月か7月、銀行の全支店長会議の檀上に立っていた。40歳直前の新宿支店長としての晴れ舞台ではあったが、後年しくじったとの思いにかられた。不動産業が地場産業の新宿の支店長として不動産融資に釘を刺すべきであった。地価はまだ下がっていなかったが、不動産融資規制が既に発動されていた。都銀は融資を引き揚げしつつあり、取引先は当行に追加融資を要請していた。壇上からジョーカーを引いてはならないと言うべきであったが、受けを狙うのような話に終始した。私がそう話したからといって銀行がブラックホールに引き込まれる軌道に乗ることを阻止できたとは思わないが。私の銀行員人生における大きな悔恨の一つになった。

バブル当初、明治末期に生まれ昭和2年の昭和恐慌を知っているオーナー然として君臨する会長と昭和40年の証券不況下の就職難で昭和41年に入行した後継者と目される役員と路線対立があった。会長は不動産融資に反対していたが、後進に道を譲る時期でもあり絶対阻止という態度はとらなかった。そんな中、大蔵省検査が入り検査官が「御行はなぜ(他行のように)不動産融資をやらないのか」と問うた。それが不動産融資傾斜への免罪符になってしまった(検査官が存命ならそんなつもりで言った覚えはないと言うだろうが)

上層部の問題だけではなく、行員の間においても、昭和40年を境に昭和30年代入行者と我々40年代以降の入行者との間に融資スタンスに相違が見られた。我々の方がイケイケドンドンであり、声も大きかった。

歴史上バブルの最初の現象は、1637年オランダのチューリップ・バブル(チューリップの球根投資の過熱と暴落)と言われる。米国が永遠の繁栄と呼ばれた後の1929年の大恐慌(日本は昭和恐慌)もあった。経験のない者が歴史から学ぶことは容易いことではない。ましてや、賢者でなく、歴史に学ぼうとする気がない者にとっては。

今の憲法改正も同じだ。戦後の首相たちが憲法第9条の矛盾に気がついていなかったハズはない。戦地に赴いた、あるいは凄惨な光景を目にした政治家たちはニ度と戦争はしたくないとのその一念であった。

青木理氏の『安倍三代』(朝日新聞出版)を読むと、安倍首相の父方の祖父寛は反骨・反戦の賢く人望の厚い政治家だった。父晋太郎は「岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子だ」が矜持。首相にはこの祖父を師として仰いでほしいものだが、似ても似つかぬようだ。

そんなトップが、類が友を呼ぶ。今の政権中枢を担う人たちは、戦争を知らない。自身らは間違っても戦場に行くことはないと思っている人たちだろう。

戦前の軍部の独走を反省し戦後文民統制を徹底していた。しかし、今般の防衛省の法改正等で制服組が背広組より優位に立ち、防衛省内での「文官統制」は崩されてしまった。

このような非経済面よりも確実に経済面において悲惨な目に遭わされる無垢な大衆が現政権を支持している。民主主義の限界を感じるし、やりきれない思いがする。

その中で、現政権の長期化を狙って自民党総裁の任期を党内無風の中39年に改変した(賢者のトップならこんなことしない)。自民党の非主流派、昔の主流派は死んだふりをしているのか。それとも総無責任男時代か。都政手腕は?だが小池都知事の方がよほど男気があるというものだ。上述の女性エコノミストたちも同じことが言えるだろう。

2017.2  NO.68   VS 

昨年の新春にふぐ旅行に出かけた。最後の晩餐はふぐと決めていたが、余命何か月を宣告されてから慌てて食べたのでは、美味な物を食しても砂を噛んでいるのと同じになってしまう。最後の最後は、イケメン俳優の向井理さんならずとも卵かけごはんを最後の晩餐と挙げる人は少なくないが、生卵はダメなのでだし巻き卵にしよう。大根おろしを添えて。

元気な内にと思い立ったが、妻を誘えば、もったいない!と即座に却下されるだけでは済まないので、目的は語らず九州一人旅に出た。歌手兼俳優の武田鉄矢さんがひいきの博多にある名店「博多 い津み」(いずみ)と下関にある、明治4年伊藤博文公命名により創業し「ふく料理公許1号店」として名高い春帆楼本店とに、天然ふぐを賞味しに行った。

ふぐは河豚と書く。中国では海よりも河のふぐが親しまれていたことに由来するという。海豚の方が合っていると思うが、海豚はイルカ。ちなみにカバは河馬と書く。フグを海豚、イルカを海馬、カバを河豚に(ついでに我家では家内を家豚に)変えた方が、しっくりとくる。

ふぐの本場下関や九州の方では、ふぐを福とかけてふくと呼ぶ。それぐらいだから肝を食べない。もっとも、大分の臼杵は例外で、警視庁OB濱嘉之氏の小説『頂上決戦』の冒頭に中毒死事件として登場する。実際に平成26年に料亭で中年女性が中毒死している。

関西は鉄砲と別称される(弾にたまに当たる)だけあって、肝を食べて食中毒になった事件が散見される。一昨年神戸でもトラフグの肝を食べて数人が中毒症状で入院している。

阪神大震災の前神戸に住んでいた頃なじみの店では〆のぞうすいに肝が入っていた。ふぐの毒テトロドトキシンはふぐが喰う餌に関係しているとの触れ込みで、養殖のふぐでは当たらないと半信半疑だがそう思っていた。肝の油でコクが出るぞうすいは格別に美味しい。ただ、カワハギの肝を入れられたとしても分かるものではないが。

平成6年に上京して暫くは、宴席や自前でフグ店に訪れたが、1万円台では美味しいと思わず、それ以来東京ではふぐは食べる機会がなくなって行った。

ところが、少し前ある雑誌にて高名な農学博士が紹介しているのを見て、妻を連れ立って都の北西部にあるその店を訪れることにした。行く前に、その店のH.Pをみると、天然とらふぐと書いてある。メニューには内容によるランク差がなく、人数により値段が変わるだけのシステム。一人平均では1万円にもならない。首を傾げながら臨んだが、案の定、悪い予感が当たった。店内には、宇宙人と呼ばれた元首相やゴージャスとの形容が似合う男性歌手らが来店した記念スナップが飾られていた。そんな口の肥えたセレブ達が喜ぶハズがない。きっと裏メニューがあるに違いないと思った。

ただ、白子や唐揚げもついたコースが1万円を切るならなるほどお値打ちで、〆の雑炊は美味しかった。それでふぐは美味しいものだと地元の人が思ってくれるのであればそれはそれで悪いことではないが。

私自身と言えば、天然とらふぐを食べたというはっきりとした記憶がない。今回の旅行では意識して天然物を食することにした。「博多 い津み」の特選天然コースに出されたてっさ(ふぐ刺し)は赤みがかっていた。特選コースの天然とらふぐのてっさだけは、まず塩で味わってもらうと店の女将に言われた。蕎麦と同じかと思ったが、てっさでは天然ものと質の良い養殖ものとの差がよくわからない。てっちり(ふぐ鍋)にするとその違いがよくわかった。ふぐの皮は天然物では分厚く弾力がありすぎてむしろ美味しいとは思えなかった。

翌日関門海峡を望むすこし高台にある春帆楼本店に訪れるべく、下関に移動した。夕刻までに時間があったので、向かいの門司港へフェリーで往復した。寒い海は波荒く暗く不気味だった。平家滅亡の際6歳で入水した安徳天皇のことを思いやった。

春帆楼の個室に案内され、暮れなずむ関門海峡の方をぼんやり眺めていたら、30年以上前神戸の銀行員時代に先輩たちと麻雀の後ふぐ屋に流れこんだ時のことがよみがえってきた。最高級の物を一人で食するのも悪くないが、天然物でなくても皆でわいわい言いながら一つの鍋をつつくのもよいものだったと回想した。

阪神大震災があったとき、壊れた故郷を見るのが忍びなく5年ほど足が向かなかった。ようやく神戸に戻る気になった時、そのふぐ屋を探したが見つけることはできなかった。一緒に鍋をつついた先輩たちも皆もうこの世にいない。なんとも寂しいかぎりだ。

 

松茸もその良さを感じえる関東人は多くないかもしれない。数年前所属していた業界団体のミッションで韓国に行った折お土産に松茸を購入した。他の人は美味しかったと言っていたが、香り(においは、悪い意味でも使う。松茸には失礼)がしないし、割くと中がまっ白すぎる。虫も喰わない物を食べるのかとの気になった。

平成の初め宝塚で銀行支店長をしているとき、取引先のホテルから招待され、歌手川中美幸さんのショーを夫婦で観る機会があった。その間幼い子供達3人を宿泊部屋で面倒みてもらうため地元の女子行員に頼み、少しのお礼を受け取ってもらった。かえって気を遣わせ、お返しにと女子行員の実家の裏山で採れた松茸をたくさん頂いた。結構虫が喰っていた。自然に任せればこれが本当の姿なのだと理解した。

神戸に住む母親から生前毎年のように晩秋に松茸を送ってもらっていた。当然値の高いものではないハズだが、国産の松茸は香りが違う。松茸ご飯は私の出番。味付けは薄口醤油と塩と酒だけでよい。濃口醤油では松茸の香りを損ねる。私の手料理を余り好まぬ子供達でもこれは喜んで食べていた。

 

本籍を東京に移しても関西人の私は、納豆、甘い卵焼き、もんじゃを、いくら努力しても好きになれない(妻は私に対して同じことを言う)ので強くは言えないが、ふぐや松茸を美味しいと思わない人も一度ちゃんとした物を食べてもらいたい。食べて「美味しいけど、こんな高いならステーキや寿司の方がよい」と言っても構わないので。

 

2017.1  NO.67  メートル VS  メートル (3

村松剛氏は『帝王後醍醐』(中央公論社)で、「帝王後醍醐のかげが、近代日本の国家理念の基礎に深く浸透している」と結んだ。しかし、小島毅氏の『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)で知った悲劇の北朝第3代崇光天皇の子孫であらせられる明治天皇、昭和天皇ご自身が、南朝第1代後醍醐天皇の親政を理想と思われたハズはないと私は思いたい。

天皇にとって代わる野望を持った足利義満は、明から日本国王として冊封を受け、朝廷の権限を簒奪していった。それでも次男の義嗣を後小松天皇の後釜に据えようとした。義満とて天皇制を否定していない。

南北朝時代頃より天皇の権威は地に落ちたに見えたが、『室町の王権』(中公新書)の今谷明氏は、既成権威よりも高次の調停者としての地位という新しい権威を得たとする。

戦国時代を終わらせた三傑、あの信長でさえ窮地を天皇に救ってもらい、出自にコンプレックスを抱く秀吉は進んで天皇を取り込み、家康も天皇の権威を借りて江戸幕府を正当化した。明治政府も錦の御旗をもって徳川幕藩体制を終わらせた。日本では天皇を味方にできなければ賊軍となり敗軍となる。

明治政府は王政復古を唱えたが実際は権威と権力の二重構造は変わっていない。明治天皇も大正天皇も昭和天皇も“君臨すれど統治せず”を受け入れた。

15歳で即位した明治天皇に政治の実権を持てるハズがなく、成人されてからも、天皇を補佐する、佐々木高行ら侍補グループによる天皇親政運動が展開(明治10年~12)されたが、それ自体がその証拠ともいえる。二・二六事件も、陸軍皇道派青年将校よる、“君側の奸” (政財界の要人)を排し天皇親政を求めてのクーデターだが、昭和天皇が叛乱軍と断じたのは、立憲君主の立場をわきまえておられる証左といえる。

保坂正康氏の『秩父宮』(中公文庫)にP105よれば、大正天皇は、山形有朋公と食卓を囲む際山形公の品のない所作に日頃からいらだちを覚えていた。山形公が天皇家は自分たちの力で存在しているとの傲りを見せるのが宮中では怨嗟の的になっていたという。

明治維新から満州事変までは政党内閣制への移行における過渡期と言えるが、天皇の信頼を得るも政党政治を推し進める、明治天皇における伊藤博文公、昭和天皇における西園寺公望公ら元老が内閣と立憲君主としての天皇との間に立ち、うまく調整機能が働いていた。しかし、日本の最も重大なる局面において、最後の元老たる西園寺公が高齢よる病弱で、さらに逝去したことは、昭和天皇にとっても、日本国においても、大きな痛手となった。軍部にも迎合しない西園寺公に代わる人材がおらず、期待された近衛首相は胆力と決断力に欠けてその器にあらず、軍部独裁政治に対する歯止めがきかなくなってしまった。

20年以上前に発刊された吉田裕氏の『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)に共感し今でも昭和天皇の戦争責任を問う者は、近衛首相が天皇に終戦を上奏したとき、「もう少し戦果がと天皇が同意しなかった」ことを金科玉条のごとく取り上げる。しかし、それは浮世絵の局部誇張表現と同じだ。そんなことを言えば、天皇と同じく戦争に反対していた近衛首相自身が政権を投げ出さず尽力しておれば、日米開戦自体なかったかもしれない。

いずれにしろ、昭和天皇の独白(『昭和天皇独白録』【文藝春秋】)に見られるように、不敗神話を妄信し戦争を支持する大衆とそれを煽った部数至上主義のメディアに後押しされより暴走する陸軍に対して大元帥としての天皇もNO!が言える状況にはなかった。軍部、とくに陸軍は、軍の意向に沿えば天皇の御意に従うが、そうでなければ無視する。加藤陽子東大教授の『戦争まで』(朝日新聞社)によると、日米開戦直前のルーズベルト米大統領からの昭和天皇宛ての親書を陸軍が勝手に届くのを遅らせた。これは統帥の崩壊といえるとしている。陸軍にとっては、現人神でも神聖不可侵ではなく、いざとなれば天皇を代えてしまうことも辞さない、そんな傲慢不遜さがあった。

終戦においても、結果を知っている今の我々は「あの時こうすればよかった」と言うのは容易い。当時天皇が終戦を聖断するということは、敗色が濃厚となり手負いの獅子として殺気立つ軍部に対して死ね!と面罵するのと同じだ。やはり軍部の大勢がもうこれ以上は無理だと諦観する時間が必要であり、あの815日まで待たなければならなかった。

ただ、先の独白録を見ると、昭和天皇は、単なるお飾りではなく、政治に積極的に意見を述べられたことが分かる。戦争責任を問われなかったとしても、昭和天皇ご自身としては、誰に求められるわけでもなく好物を断つがごとく、戦後沈黙を守り続け、象徴天皇としてひたすら国民の幸福を祈られたことにより、半生を通してご自身なりのけじめをつけられようとされたのではと思う。その中で、目覚ましい経済復興を成し遂げ豊かな日本になった今日において、天皇制を否定する理由は何があろうか。

 

私は、為政者に失望しても、国民に範を示す天皇がおられる限り、愛国心を捨てることはない。古くから天皇は表裏を問わず日本人の精神的支柱であり、かえって権力を持たないこそ1,500年以上に亘ってその「権威」が揺るぐことがないものと言えよう。

パナマ文書に中国やロシアの最高権力者の名前が取り出されたが、日本では私がよく批判する現首相や元首相でも載っていないだろう。伊藤之雄氏の『元老』(中公新書)によると、明治天皇が質素な生活を奨励し、天皇、伊藤博文公、山県有朋公ら元老から日本全体に浸透していき、腐敗の少なさが日本の近代化を成功させたとする。その明治天皇を師と仰ぐ昭和天皇が、『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』(米窪明美氏著)で垣間見られるように、慎ましやかな生活をされ国民に範を示され続けられた。それを引き継いでおられる今上天皇から任命を受ける首相が私腹を肥やすことなどできようか。そこは信頼に足る。

3.11の東北大地震で暴動が起きないことに世界が驚嘆し、台湾の黄文雄氏が『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』と書いた、その根幹にあるものが、天皇の下における平等な日本人の和の精神。

言論、思想、宗教の自由の現代において、帰化の条件にはできないかもしれないが、日本語を愛しみ、天皇を敬い、和の精神を理解する人に日本人になってもらいたいと思う。