2018.5臨時号 NO.93 ゴーストライダー VS ゴーストライター

 米国人気俳優ニコラス・ケイジさん主演の映画『ゴーストライダ―』は、人間と悪魔が合体したアメコミ・アンチヒーローの実写版。罪なき命から血が流れるとき燃え盛る火に包まれた骸骨とバイクの火の玉ライダ―に変身する。女が怒髪天を衝くほど怒ったとき相手を含め周りを大やけどさせるが、その時私はこのゴーストライダ―を想起する。

 余談だが、続編の『ゴーストライダ―2』では、『ラスト・ターゲット』でジョージ・クルーニーさんと共演した、私好みのセクシーな伊歌手兼女優のヴィオランテ・プラシドさんがケバイ母親役で登場していたのには吃驚仰天した。

 GhostRiderが火の玉に変身するのには火をつけるLighterは不要だが、アイドルが本を出版するには代わりに書いてくれるWriterが必要。これをGhostWriterという。

 天然で知られる歌手松本伊代さんはアイドル時代自身の出版本について聞かれ、「まだ読んでいない」と答えたのは有名な話。しかし、誰もそんなものだと思っているので問題にならない。企業や団体でも、筆が立つトップは下が書いた駄文を自身の名前で出されてはと自身で書く。が、それは少数で、普通年頭の挨拶など下の者が代わりに書くものだ。本当にトップが執筆したかなど、掲載する雑誌側や業界紙側も気にもかけない。

 書くことを本業とする作家や作曲家になると大きな問題になる。2014年に発覚した佐村河内事件をまだ覚えておられる人も多いのではないか。その事件の全貌を記した『ペテン師と天才』(文藝春秋)で著者神山典士氏が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

 地に落ちた佐村河内氏と天才作曲家新垣隆氏との関係は、偶然時を同じくして2014年に全米で公開された映画『ビッグ・アイズ』とそっくりだ。ペテン師の画家の夫を相手どり妻が「大きな瞳をもつ子供の絵はすべて私が描いたものだ」と訴えた話。1950年代の実話で裁判に及んでも夫はペテン師らしくなかなか認めようとしない。裁判官は業を煮やし、その場でビッグ・アイズの絵を描けと命ずるに及んで妻の主張が認められるに至った。

 有名になればなるほど、世間を欺いているという罪悪感、表に立つものに対する不信感と嫌悪感、本来ならば自分がとの自負心などが煮えたぎり沸点を超えた時、ゴーストライターはゴーストライダ―に大変身する。

勝訴した妻のマーガレット・キーンは世間から歓迎され、ペテン師の夫は無一文で寂しくこの世を去ったという。同じように、世間を欺いたのは共犯であるが、その作曲家としての才能と優しい人柄で新垣氏は世間から受け入れられた。告白した後に完成した新垣隆氏の新作交響曲「連祷─Litany─」がクラシックの世界的名門レーベル「Decca」から世界配信されるまでになった。

ミュージカルの世界にもゴーストシンガーがいる。『マイ・フェア・レディ』や『ウエスト・サイド物語』、『王様と私』など往年の大ヒットミュージカル映画でゴーストシンガーを務めハリウッドを救った陰の立役者と呼ばれる、マーニ・ニクソンだ。1950年代の当時ゴーストシンガーの存在はタブーで本人も絶対口外できないし待遇もひどいものだったらしい。ただ、『王様と私』が公開される直前の1956年3月に地元紙に主演デボラ・カーが暴露して大問題になる。マーニと友情を育んだデボラがその境遇に同情してのことだ。

 その後映画が下火になると、マーニはニューヨークに進出し、ゴーストシンガーとしてではなくミュージカル舞台女優として活躍し続けた。後輩たちに多大の影響を与えたが、2016年(86歳)に没しレジェンドとなった。

 

 書く仕事に隠し事がつきものだ。ゴーストライターは珍しくないとなると、作品の熱狂的なファンの想いは次のようにエスカレートしていく。別人が書いた可能性もある→別人ならあの人であってほしい→あの作品の作者は絶対あの人でなくてはならない。

 その代表例がシェイクスピア。河合祥一郎氏の『シェイクスピアの正体』(新潮文庫)では7つの別人説が検証されている。哲学者フランシス・ベーコン説、劇作家クリストファー・マーロウ説、第六代ダービー伯爵ウィリアム・スタンリー説。紅一点として第二代ペンブルック伯爵夫人メアリー・ハーバー説ら。

 こうした別人説が出てくるのは、田舎町出身の役者風情に王族や貴族を題材にした傑作を何作も創作できるハズはないという思いと蔵書も原稿も残っていないということにある。

 別人説を唱える者に頭の良し悪しは関係ない。チャップリンやフロイト博士も別人説を支持していた。中には、狂信的となり、全財産を亡くした医師や終いには気がふれた女性もいた。恋愛、宗教と同じで反対されるとさらに燃え上がる。人間の不可思議で怖いところだ。別人説に共通するのは、ひとえに不都合な事実は無視するか脳が反応しないことだ。

 写楽の場合もよく似ている。美術研究家ユリウス・クルトが1910年に発刊した名著『Sharaku』により、写楽作品の芸術性(大胆な構図や人物のデフォルメ)が絶賛されてから評価が一変する。生きた化石と同じだ。シーラカンスは、不味い魚と漁民に見向きもされなかったが、学術的価値があるとなると俄然脚光を浴びた。

そうなると、本ブログ2012年12月号NO.18(「マネ と モネ」)に書いたが、元々江戸時代に作者を示す記述があったにも拘わらず、阿波の能役者に書けるハズがないと多くの別人説が流布された。その中には後述する写楽のライバルの歌川豊国だとする説もあった。

 江戸時代の庶民にとって、浮世絵はプロマイドみたいなものだから、写楽よりもライバルの歌川豊国の方が断然人気があった。写楽が1年も経たず消えたが、豊国は役者絵の第一人者として浮世絵の最大派閥となる豊国一門隆盛(国貞、国芳等輩出)の礎を築いた。今観ても芸術に疎い私には、豊国作、例えば『四代目市川団蔵の毛谷村六助』の方がだんぜんカッコいいと思う。一応の決着を見た今なら後出しジャンケンで何とでも言えるが、私には豊国が写楽になる必要性が分からない。

 評価が海外から逆輸入されたと言えば、北野武映画監督の作品も同じだろう。我が国では、任侠、バイオレンスのイメージが強く賛否両論の様相を呈する。私は北野氏を映画監督としてではなく、天才芸人として、その才能と遊んても糟糠の妻を大事にする人となりを称賛させてもらっていた(その北野監督に愛人?報道が出たのは残念。不可解に事務所から独立した北野監督と30年来の腹心森社長との反目に影を落としているのでは。殿命のたけし軍団は否定し、元軍団の東国原氏は「その件は訴追の・・」とふざけてはぐらかすが)。

しかし、写楽と同様作品の独創性、芸術性がフランス等で高く評価されている。独立を機に映画製作も終わるなら、それも写楽とそっくりと言えば、しゃらくさい!と叱られるか。

 写楽と違い、シェイクスピアの別人説はまだ決着をみていない。22世紀に向かって論戦がまだまだ続いて行こう。しかし、高度に情報化された現代社会において、天才芸人ビートたけしと映画監督北野武とは別人だとする説は100年経っても現れないことであろう。

 

2018. 5 NO.92 かんりょう VS  まんりょう

 決裁文書の改竄が朝日新聞にリークされた件に関し、本ブログ前号No.91(「かいざん VS たいざん」)で、拙速にも財務省リーク説を採った。その後の報道を見ると大阪地検リーク説が有力になってきた。ただ、朝日新聞が情報源を秘匿している限り、財務省には悪いが、書き換えも訂正もしない。そのまま掲載し続けることにさせていただく。文全体の主旨、結論には影響しないことでもあるので。

 官邸からの改竄指示の有無について、財務省官房長は調査中としていたのに、3/27の証人喚問では、丸川氏の官邸等からの「指示」についての問いに対し、佐川氏は「指示」を全否定した。それでは、なぜ天下の財務省の中で前代未聞の決裁文書改竄がなされたのかについては(捜査対象の身だからと)佐川氏は答えない。「指示」がなかったとしても、官邸から「決裁文書にどうしてこんなに余計なことを書き連ねているのか。官邸に弓を引いているのか!?」と「詰問」されたとすれば、指示以上の改竄プレッシャーを感じたことだろう。

現時点の疑問は、昨年2/17の夫妻が関係していたらとの後戻りできない首相発言を受けて2/24の佐川理財局長が「学園との交渉記録は破棄し、残っていない」と国会答弁で強弁した後の記者会見で、なぜ菅官房長官が「基本的には、決裁文書は30年保存するのだから・・」と、佐川局長が口にしていない、問題の「決裁文書」にあえて言及したのか、ということ。

記録がないと言い張るなら、わざわざ改竄する必要はない。軽率な私と違いあの菅長官がそう発言した意図は何か。決裁文書を見せろ!と言われるのは明々白々なのに(2/17時点で首相の進退問題になっており改竄前決裁文書の内容を知らなかったとは考えにくい)。

改竄前の決裁文書について官邸と佐川局長との間に事前協議があり、記録はないととりあえず時間稼ぎして、後で急いで改竄するということに決まっていたのか。その上で官邸は関与していないとのそぶりを見せたということなのだろうか。

 

 3/19に若手(3回生)のホープ齋藤健農水大臣の朝食セミナーに参加してきた。20年以上前にほんの少しよしみがあり、以前から『本音で語る朝食セミナー』の案内をもらっていた。10回目で初めて参加したのだが、予想をはるかに上回る400名前後が参加していた。私は年金生活者が場違いな所に来てしまったと感じた。

 齋藤大臣は挨拶の中で、平昌五輪で2連覇した羽生結弦選手の「ケガをしたから、金メダルが取れた」との発言に感銘を受けたと話していた。大臣自身も3年半の浪人生活があればこそ今日があると言うのだ。3年半の浪人生活を支えた人たちが本当の支援者なのだろう。私は何だか恥ずかしくなって、終了後大臣に挨拶もせずそそくさと会場を後にした。

 齋藤大臣は、自民党内で天皇の生前退位に最後までひとり反対し、どんなお咎めがあるかと思っていたら、はからずも農水大臣に抜擢された。理由は分からないと言っていた。私が推察するに、①極めて優秀であり、副大臣としての実績もある、②上記生前退位の件を見ても骨っぽい。従って③敵に回すより、ポスト安倍の石破茂氏をけん制する意味でも石破派に属する齋藤氏を大臣として政権内に取り込んでおく、ということではなかろうか。

参加者が聞きたかったであろう決裁文書の改竄問題には、安倍政権の現職大臣でもあり言葉を濁していたが、元通産官僚の立場から「官僚には官僚道があるハズだ」と述べた。

 

 私は佐川元理財局長が不運で気の毒だと思う。しかし、『葉隠』の山本常朝の「二者択一に際しては、死ぬ確率の高い方を選べ」 (本ブログ2017年12月臨時号NO.82「ぶし VS ぎし」ご参照) も思い起こす。佐川氏は、官邸の意向に逆らえば、左遷させられたに違いない。だが、今は大阪地検に起訴されようとされまいともっとひどい目に遭っている。

 官僚がヒラメになったのは、内閣人事局が出来たからと言う人がいるが、人事局の存在が悪い訳ではない。大企業に人事部がないところがあるのか。内閣人事局の役割は、例えば、内閣が外交を最優先課題とする場合、ある省がこれまで国内派から事務次官を出していたのを今回国際派から登用すべきと、その調整をする、あるいは、ある省で局長人事がある場合、武士道に似た官僚道を貫き、下からの人望も厚い者がいるのに、大した実績もなく上にこびへつらってきただけの者を傀儡として事務次官が局長に推挙することが仮にあるとしたら、それを正す、など人材の適材適所と人事の公正・公平を図ることにある。

問題は、政治主導の行政運営の実現という本来の目的から逸脱しているのではないか。官邸が、官僚道という踏絵を官僚幹部達に踏ませることを人事局にやらせているように見えることにある。隷従し、国民に知られてはいけないことを指示せずとも忖度して上手くやってくれる官僚だけを重用するためかのごとく。

 トップが官邸にそう指示し、あるいは黙認しているとしたら、官僚や官僚制組織をよく理解していない、甘く見ていた。それで自らの窮地を招いたと言うこともできようか。

TV歴史番組でもお馴染みの東大教授本郷和人氏の新刊『壬申の乱と関ケ原の戦い』(祥伝社新書)の中で、朝廷での出世コースが紹介されている。本筋のコースは、内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣とする。現代に置き換えると、幹事長(内大臣)→通産大臣or外務大臣(右大臣) →大蔵大臣(左大臣)→内閣総理大臣(太政大臣)となろうか。武家で初めてこの本筋のコースを駆け上ったのが明の臣下として日本国王を名乗った足利義満。現代では今太閤と呼ばれた田中角栄首相が挙げられる。田中首相はちゃんと段階を踏んで総理に上り詰めた。人心掌握術にたけ、官僚を押さえつけるのではなく、自身になびかせていた。

 内大臣から階段を飛ばし直接太政大臣になった格下のコースを進んだのが、「驕る平家は久しからず」の平清盛。今なら幹事長から主要大臣ポストを経ず総理になった安倍首相だ。

 民主党政権時代も同じことが言えるが、小選挙区制になり政権がオセロゲームのように簡単に与党から野党に変わるようになると、じっくり煮込まれず生煮えの総理が出来上がる。それで素材も悪いとくれば、それをありがたくいただく国民はたまったもんじゃない。

 

 佐川氏の証人喚問直後の週刊文春4/5号(3/29発売)を見ると、『安倍政権「暗黒支配」と昭恵夫人の嘘を暴く』と容赦がない。3/30夜首相官邸前での大抗議デモを見て、総理は、5歳の頃岸邸前での祖父に向けられた日米安保改定反対デモの光景を思い出したことだろう。

直接関与の有無はともかく、モリ・カケ問題、裁量労働拡大法案での失態(官僚の忖度か士気低下か面従腹背か)等にて国会が長らく混乱、空転していることに対してトップとして自責の念があり、国民の信がなくなりつつあるのを痛感しているとすれば、安倍総理総裁が「任期満了時に政権を奉還する」といつ宣言してもおかしくはない。

それでも断固総裁3選に立つと言うのであれば、不利だとしても竹下島根藩と石破鳥取藩が合従連衡(薩長連合)して清和会幕府側と9月予定の総裁選決戦で戦うべきだ。象徴天皇は錦の御旗を授けることはできない。小泉進次郎議員がさしずめ竜馬となり国民の声援を背に自民党内で風を吹かせば、勝機は見えてくるのではないだろうか。

私は2019年5月1日に、明治維新ほど大きな変革ではないにしろ、“新元号維新”がスタートし、真の意味で、戦後レジームから脱却し、真珠のごとく白く輝く美しい国に向かって進んでいくことを期待して止まない。

 

2018. 4増刊号 NO.91 かいざん VS  たいざん

 故会田雄次京大教授が書いた『アーロン収容所』(中公新書)を遅まきながら読んだ。教授が学徒出陣し戦後2年間被武装解除軍人としてビルマ(現ミャンマー)の収容所に収監されていたことを初めて知った。1962年に発刊され今まで90回以上も改版されている。戦中派、戦後派等数多くの日本人に読まれたが、どんな感想を持ったのだろう。

 私は次のような感想を抱いた。著名な学者にとって隠してもよい過去をあえてさらけ出しても後世に伝えねばとの著者の強い思いを感じた。年初逝去した野中広務元官房長官が二度と戦争はしてはいけないと言い続けていたが、本を読んでその想いがよく理解できた。

私は、侵略戦争はしてはいけないが、守るべきもののためには戦う時もあるとの立場だが、戦争の生き証人がいなくなって行く今先達の戒めに心しなければと思いを新たにした。

 今年改版された同書のP140に、「戦前も捕虜中も現在(敗戦から17年後)もちょっとも変わりがなさそうだ。私たち日本人は、ただ権力者への迎合と物真似と衆愚的行動と器用さだけで生きてゆく運命を持っているのか。」と会田教授が述べている。それでは現政権に迎合する大衆、忖度する官僚がいても不思議ではない。権力者への迎合が変わらないとするなら、とりわけ日本の権力者自身が賢者でなくてはならない。

 GHQの将校が男女の営みを日本人のメイドに見られても何にも思わなかったという話を聞いたことがあった。同書にも、イギリス女将校が裸に近い状態のときに捕虜の日本兵が掃除で入ってきても驚かない場面が登場する。日本人女性が猫に裸を見られても恥ずかしく思わないと同じ感覚なのだ。ビルマ人にとって、同じ支配者でも、家畜扱いするイギリス兵と横柄でも人間扱いする日本兵に好感を抱くのは、ごく当たり前のことだと思う。

 単純かつ短絡的な私は、読み終わって、日本が米国に従属し、日本人がそれに慣れきってしまったことを思い起こし、本来の日本の、日本人のあるべき姿ではないと思い直した。

 1956年度の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われたが、それは経済に限ってのこと。戦後70数年を経ても、まだ戦後は終わっていないと思い至った。

 

 米朝の対立に関し、本ブログの2017年11月NO.78(「しゅうじん VS きゅうじん」)で、鼠(北朝鮮)に翻弄され猫(米国)の髭が切れて威厳を損なって終わるかもと書いた。狡猾な鼠とジャイアン似の猫が対等で核保有国同士のトップ会談をするとなれば、当たらずとも遠からずと言える。もっとも軍産複合体は儲けたと言わないまでも、元は取った。日本に核・ミサイル防衛関連機器を高値で購入させた。

 やはり、米朝対立は茶番だ。シナリオがあろうとなかろうと。戦争の兵力としては前世紀の遺物。環境の時代の21世紀の戦力は、サイバー攻撃、AI軍事技術・兵器、国際条約で禁止の生物・化学兵器となろう。軍産複合体は無用の長物を巨額の既得権ビジネスとして持続させるために、核の脅威を演出する。北朝鮮の非核化と言っても、米国まで届くICBMの開発を中止させるだけで、20~60ある北朝鮮の保有核は見て見ぬフリをするのではないか(猫に丸腰にされた鼠は猫が豹に変わった場合もう窮鼠にはなれない。それでは会談は実らない)。核・ミサイルビジネスにとっては核の脅威の火種は残しておかねばならない。

また、平昌五輪の参加を機に北朝鮮が挑発から対話に舵を切り出したと見るや、危機回避ムードに水を差すかのごとく、米国は新型の小型核兵器(戦術的核兵器)等でロシアを挑発し新たな核の脅威を演出しようとした。

核の脅威が演出される度、馬鹿を見るのは今回もそうだった日本だろう。軍産複合体の眼には、トランプ大統領に追従する安倍首相の背中にネギが背負われているのが映っていることだろう。

 日本が北朝鮮に名指しで非難する対象は拉致問題だ。核問題で圧力をかけるべきなのは、北朝鮮だけではなく、米国もロシアも同じだ。

 やはり、核を持つべきではないし、持つこともできない日本が採るべき選択は、核兵器禁止条約に参加し、非核EU諸国たちと一緒になって核廃絶を目指して行くこと。それこそが、唯一の被爆国としての使命と国益に合致するものだと思う。

 本ブログの2016年2月 NO.56(「ドイツ VS トイツ」)で、戯言だが“平和大三元論”を述べた。今の白牌(日本)は發牌(米国)の青いタトゥーが刻まれ、美しくない。タトゥーを削り、真珠の輝きをとり戻そう。そして發牌と対等になろう。しかし、現世界覇権国(最強軍事力+最上経済力)の發牌と次の世界覇権国を狙う中牌(中国)の狭間にある。NO.1を目指せば、両雄並び立たずの發牌と中牌が手を組み麻雀ゲームから白牌を追い出すだろう。白牌は美しく輝くOnly Oneになろう。それでも役満・大三元 (世界平和)には發牌と中牌と並んで白牌が不可欠という存在になろうではないか。

 

国内に目を転じれば、大企業トップが保身で不正を深刻化させる。政治家が我が身可愛さで首相にNOが言えない。最後の砦、日本の頭脳・財務官僚が公文書改竄、世も末だ。

今の財務官僚には大蔵時代と違い官庁中の官庁として自分たちが国を動かすという気概が見られない。なぜ賢者ならまだしもそうでないトップに隷従みたいなことをするのか。

朝日新聞に改竄をリークしたのは、大阪地検か財務省内部のどちらかとの憶測が飛び交っている。その中で、疑われている大阪地検が、わざわざ「電子鑑識で改竄後の文書であることは分かっていた」と後出したのは、地検の面子を守ったということだろう。

本省か近畿財務局(以下「近財」)かどちらかが(義憤の)リークをしたと私は見ている。首相夫妻に纏わる特例案件に対し、近財は、面従腹背し、決裁文書に本来残すべきでない特例事柄を書き連ねて近財組織全体で保身を図ったように私にはそう思える(昨年2/17に夫妻が関係していたら首相・議員を辞めると首相が後戻りできない発言をしてしまった後、何も知らない佐川理財局長が同2/24に国会答弁する為に改竄前の決裁文書を見たとしたら、驚愕したに違いない)。国益を損ない、いくらなんでも無理があると思うのであれば、近財は、腹をくくり、メディアに(正義の)リークをして潰してしまう方がよかったのでは。結果として、自分たちも守れず、財務省全体の権威を大きく傷つけてしまったのであれば。

 

詰め腹を切らされた佐川国税庁長官が辞めて、「大山鳴動して鼠一匹」では終わらない。自民党で唯一首相にNOを言い続けた村上誠一郎議員は「問題の出発点は安倍首相」と公言したが、今回は世論も同調している感がある。佐川氏の証人喚問がなされても真相解明が進むとは思わないが、加計問題でも今治市文書改竄が取り沙汰されている。首相から人心が離れていくのは避けられない。安倍政権は泥舟になり、鼠が逃げ出していくだろう。

 新しい首相が誕生すれば、ぜひ上記白牌を目指してもらいたいものだ。ただ、現在の日本が米国に従属している状態からすぐさま抜け出せるものではない。

 しかし、我々日本人一人ひとりの心持ちは変えることができるハズだ。敗戦を契機に、過信・盟主意識→自虐・属国意識に180度方向転換してしまった。国や会社の事ではなく、自身の事しか考えない。90度だけ元に戻そうではないか。

 

 

 

2018. 4  臨時号 NO.90 かつやく VS かくやく

 昨年の流行語大賞で「ちーがーうーだーろー!」が候補としてノミネートされた(結果は落選)。「違うだろ」は男言葉だと思うが、豊田真由子前議員はこの言葉で男性秘書を叱り、手も出したという。横綱と同様品格が求められる国会議員が、育ちも悪くないだろうに、なぜ女言葉で「違うでしょ!」と言わなかったのか?

 彼女独自の個性なのか。それとも、国会で男性議員に負けないためにそういう言葉使いになるのか。やくざに対峙する刑事がやくざと同じ風貌になっていくのと同じなのか。

 ジェンダーフリーが進化しても、生物が雌雄同体からオス・メス分化の道を選んだ生物学的性差は否定すべきではない。将来人工子宮ができ女が子を産まなくなっても千年万年単位では染色体のXXとXYが変わるものではない。

男女同一の政治家口調ではなく、女性らしい語り口で、しかも言うべきことをしっかり相手に伝える(拉致問題で拉致被害者の兄蓮池透氏と対立する)中山恭子議員の話し方に、女としての自信と奥深さを私は感じる。女の強さは、腕力ではなく、芯の強さと心得る。

 日本では、女らしさを求めているのは我ら男だけではなさそうだ。小池代表が「排除します」、「さらさら・・」と発言して風向きが一変し、希望の党は先の衆院選で惨敗したのは記憶に新しい。師匠の小泉首相なら大ウケする同じ手法をとっただけなのに。隠れ男尊女卑主義者だけならこんなに酷い負け方にはならない。女性選挙民も、いじめられている弱い立場の小池さんを応援するが、権力者の顔を見せた小池さんにNO!をつきつけた。

 某ジャーナリストによるレイプ被害を世に告発した女性に対して、その勇気を褒めたたえる意見だけだと思ったが、予想に反して、“女だてら”にと批判する日本女性が少なくないらしい。それも年配の女性だけではないという。男尊女卑でレディー・ファースト(リスク回避で女を前に行かせた)に女たちが反旗を翻した西洋とはすこし趣が異なる。

上述の豊田前議員も不倫問題で民進党を離党した山尾志桜里議員も東大卒。頭もいいし弁舌も立つ。攻撃する場合は舌鋒鋭く責め立てるが、自らが攻撃されると雲隠れしたり説明責任を果たそうとしない。男でもそんな態度をとる者がいない訳ではないが、女々しいと生き恥をかき、出馬もままならない。両女性議員はいざとなると女性(の甘え)が顔を出す。それに対して、男たちは「しょうがないなぁ」と言って追及の手がつい緩んでしまう。

日本には、映画『女神の見えざる手』のロビイスト女主人公みたいな、知力、強気、ち密さを兼ね備え、夜も眠らず働きチームを牽引する、男勝りなスーパーウーマンはいないようだ。東大法学部を首席で卒業し財務省に入省した経歴をもつ超エリートの山口真由弁護士(以下「山口女史」)がいる。著書『リベラルという病』(新潮新書)を読んだが、さすが才媛と思わせる。それでも、映画の女主人公みたいにはならない。

同じ年に生まれた中で最も頭の良い者が大蔵省(現財務省、今般決裁文書改ざんで権威失墜したが)に入省すると言われてきた。キャリア官僚は、受験勉強を何時間したとかは隠す。努力する姿は他人には見せないという。頭が悪いと思われるから。そんな人たちが昼夜問わず国の為に猛烈に働く。山口女史はそんなスーパーマンの巣窟から早々と抜け去り、一キャリアウーマンとして生きる道を選んだ。1日19時間半?受験勉強し、教科書を7回読んだと公言する。そんな山口女史だが、美貌と相まって、メディアからも引っ張りだこだ。

日本の男性が女性に甘くなる。それは女性蔑視になるのか。そうとは思わず愛しみのように捉える私は、絶滅危惧種ではなく、すぐさまあの世にワープされるべき罪人なのか。

 

日本では、男女平等が進まない。女性議員が少ない、と言われる。西洋と違い、宗主国中国の則天武后、呂太后ら悪女を見て女権力者を忌避し、韓国と同様儒教等で女を権力の座から遠ざけたのでは。とくに日本は「大和撫子」に仕向けた面もあるのではないか。

サッカー日本代表女子チームの代名詞(なでしこJAPAN)にもなっているが、ナデシコの花に喩え、清楚で美しい女性が日本の美徳とされてきた。その中に奥ゆかしさも含まれているが、それが日本女性の世界に類を見ない特質になった。女性の社会進出の遅れの一因かもしれないが、そのためになくなってもよいとは思わない。

その奥ゆかしさを備えた日本女性を日本男性だけではなく外国の男性も少なからず惹かれているのも事実だ。日本男子を対象とした?2014年マイナビウーマンのアンケート調査で回答した男子の68.2%が大和撫子タイプの女性と付き合いたいとしている。

ならば、男性がそれを望むなら、愛されたいと思う女性は大和撫子を目指すのかもしれない。この選択は、国が介入できない個人の幸福追求権の範疇だ。

涙腺が緩い私など涙なしでは読めない短編集・山本周五郎作『小説 日本婦道記』(新潮文庫)に登場する、夫や子の為に清く健気に生きる武家の女性のような、古風な女性はもういないだろうが、内助の功に努めたいとする専業主婦は少なくないのかもしれない。

そんな女性にとって、政府の打ち出した「一億総活躍社会」には戸惑いを覚える。家事だけでは活躍にならないのか。専業主婦になりたい女性は“仕事の嫌いな人”とのレッテルを、キャリアウーマン以外からも、貼られてしまうのか。

女性社会進出の後押しを謳い文句とする「一億総活躍社会」は国民が望む「一億総幸福社会」を確約しているわけではない。夫(正規雇用800万円)+妻(専業主婦) →夫(正規雇用400万円)+ 妻(非正規雇用300万円) or 夫(非正規雇用300万円)+妻(非正規雇用300万円)に時代が変わってしまったら、幸福と感じるだろうか。

長年の無策のツケを女性に押し付けるかの如く、全体主義戦前日本の国家総動員法みたいに、「皆の者働け!」と上から目線で言う国に対し、主権者たる国民を代表?して一主婦が日本死ね!とオヤジ言葉で反発した。家事と育児だけでも大変なのに生活の為に働かざるを得ない主婦やシングルマザーの悲痛な声も代弁して。

 

ここまで書いたが、幾つ問題があったろう。ジェンダーフリーに盾突く。LGBT(性的少数者)が抜けている。女々しい、男勝りは差別用語。ツッコミどころ満載だ。山口女史が上述書籍で書いているように、米国ではレッドハージならぬPCパージの嵐が吹き荒れているという。日本ではPCと言えば、まだパソコンを思い浮かべる人が多いだろうが、米国ではポリティカル・コレクトネス(政治的に正しい)のことを指す。ポストマンはダメ。ポストウーマンもダメ。ポストマン・ウーマンもポストウーマン・マンも正しくない。「どうすりゃいいのさ、この私」と『圭子の夢は夜ひらく』の替え歌でも口ずさみたくなる。絵に描いたようなエリートキャリアウーマンの山口女史でも、今の米国は息苦しいと言う。私のブログなど米国では直に差別主義者と大炎上するだろう(別段世の中が困ることはないが)。

老人介護を扱った犯罪小説『ロスト・ケア』で一躍有名となった葉真中顕氏のSF短編小説『政治的に正しい警察小説』(小学館文庫)のように言葉狩りがエスカレートしていけば、どうなるか。神しか言葉を発することはできないだろう。

いずれ、日本へもPCパージが飛び火してくるかもしれない。しかし、狂信的な行き過ぎたことまで米国に追随する必要はない。セクハラ撲滅は当然だが、ハリウッドの騒動は仏映画大女優カトリーヌ・ドヌーブ女史に行き過ぎではと窘められた。人種差別に苦しむ国を、憐れんでも、真似するべきではない(英語で論文を書く先生方には同情申し上げるが)。キリスト教でも普及・定着しないのだから、まぁ大丈夫か。日本が言いなりになっている暴君トランプ大統領がこのPC問題で日本に迫ってくることもあり得ないことでもあるし。

 

2018.4  NO.89  なんくった VS  なんつった

春と言ってもまだ肌寒い昼下がり、とあるインドカレー店にて。

A:「ナン喰った?」 B:「今なん言った?」

A:「ナンを食べたのかと聞いた」B:「そうだよなぁ。何釣ったかと聞こえた。どうして

 昨日釣りに行ったのを知っているのかと思った」

A:「バカか? 知る訳ないだろう。それでナンは喰ったのか?」

エイプリルフールではないけれど、週刊文春連載中の宮藤官九郎さんのコラム『いまなんつった?』をヒントにちょっと言葉遊びをしてみた。

(諸説あるが)本場インドからではなくイギリス海軍(海上では曜日の感覚がなくなるので毎週木曜がカレーとのこと。日本の海上自衛隊らは金曜日)から伝わったとするカレーは、今や国民食。大人から子供まで、もちろん私もカレーが好きだ。すこし、自身の華麗ではないカレー生活の変遷を振り返ってみる。

子供の頃、母の作るカレーは、かつお出汁に小間切れの牛肉で、とろみは片栗粉でつける和風カレーというべき代物であった。昭和47年前後の大学生の頃、高校も同じ同級生に明石にあるご自宅にお呼ばれした。店屋物ではなく家で揚げたとんかつが乗ったカツカレーをふるまってもらい、リッチだと思った。その折その同級生の許嫁も同席しており、彼我の境遇の差を感じざるを得なかった。

社会人となり、一人住まいしていた時、本格的なものではなく市販のルーを使ったカレーをよく作ったものだ。ハウス食品のジャワカレーの辛口が好みで、角切りの牛肉、ニンジン、じゃがいも、そのほかにセロリ、ローリエ、リンゴか梨のすりおろしを入れていた。仕上げにコーヒーの粉末を少量加えた。

 結婚し、子供がまだ小さい頃、妻に飼い馴らされた3人の子供たちは、「ヒデキ、感激!」でお馴染み (古すぎるか?) のバーモントカレーで作った妻のカレーの方を好むので、家でカレーを作ることはなくなっていった。妻の作ったお子ちゃまカレーは食べず、妻から可愛くない!と言われながらもレトルトを食べるか外食していた。

中高年になると、成人病が気になり、欧風カレーよりもさらっとしているインドカレーをより好むようになった。最近になって同じインドカレーと言っても、主として北インド料理と南インド料理があると分かったが、当時は違いなど理解していなかった。

辛さに強いわけではないが、結構辛いインドカレーを食していた。勤務地の最寄りの店にランチで出かけて行った。三越前にいるときは、『フジヤ』。当時は店主の息子と手伝いの母親で営むインドカレーの店。カウンター越しの親子の諍いは要らぬスパイスだと思った。雪が谷大塚では、『ヤーマ・カーマ』。スパイシーチキンカレーは辛くて辛いぐらい。でもこれを食べずしてこの店を訪れることは沽券に関わると思っていた。

しかし、前立腺肥大になって(後に前立腺がんも判明)からは辛いカレーを食べることができない。未訪の、激辛インドカレーで名の通った祐天寺『カーナ・ピ―ナ』や某歌舞伎役者が贔屓にするという福岡天神『ツナパハ』には残念ながらもうチャレンジできない。

前立腺と古狸の妻にはとにかく刺激を与えないのが鉄則。それで辛くないカレーを食べることになり下がるのだが、毒を吐かない時の私のようで物足りない。そこで大学生のとき感じ入ったあのリッチなカツカレーを思い出し、カツカレーの名店巡りと相成った。

かつてDancyuの特集『日本一おいしいカレーをあつめました』でカツカレー部門で取り上げられた町田の『リッチなカレーの店アサノ』に行くことにした。町屋は近いが町田は遠い(カツカレー1,450円と同程度の交通費がかかる)。そこで小旅行を仕立てた。まず、カリスマラーメン女店主で高名な『雷文』で昼食をとり宇都宮節子店主の尊顔を拝したあと、版画美術館に立ち寄り、その後南町田に出て映画を鑑賞したあと、町田に戻りようやくアサノでカツカレーを賞味した。さらさらのポークカレー。イタリアの国旗の色のように人参、インゲン、ポテトが一ずつあしらわれ、日本一かどうかは別として、カツもさくさくで胃にもたれないのはさすがだ。カツが1cmもない幅で細切りカットしてカレーにのせているのは、地元向島の洋食『牧野』を思い出す。食べやすい細切りカツにすることで、芸妓さんたちが着物を汚さずに済む心遣いなのだが、残念にも数年前閉店してしまった。

下北沢にあるタレント松尾貴史氏の店『般゜若(パンニャ)』にも行った。さらさらのインド風カレーにイカ墨を混ぜたパン粉で揚げられたトンカツがターメリックライスに乗ったマハーカツカレー。私が理想とするカツカレー(インドカレー+とんかつ)に近い。

カツカレーの名店はどこともトンカツが分厚くない。あくまで主役のカレーを喰ってはいけない(トンカツのカレーソースがけとは違う)。

千円未満の手頃なカツカレーでは、新御徒町『サカエヤ』(さらさらのポークカレー)を贔屓にしていた。「色々野菜のせイベリコ豚のカツカレー膳」の神保町『TAKEUCHI』にもよく寄る。カツカレーのほか、煮込みハンバーグカレー膳には、素揚げの野菜が多く盛られ、具だくさんの豚汁もつきコスパは最高。行きつけの店として外せない。

ちなみに、チキンカツカレーなら、恵比寿『焼きとり鶏梵梵』や秋葉原『たつみ屋』(マウンテンチキンカツカリー)に足を運ぶ。

 

しかし、そのカツカレーとも別れる日は思いのほか早く来た。“好事魔多し”ではないが、前立腺がんの放射線治療から数年経ち、前立腺肥大は残るものの違和感、不快感が薄れたことをよいことにハイになり、カツカレーや他のごはんものを好きなように食べていた。すると、尿酸値とともに血糖値が上がってしまった。痛風は、痛いがサーモスタットのようなもので怖くない。サイレント・キラーの糖尿病は癌と同じで忍び寄りたちが悪い。糖尿病を心配する者にとって、チャーハン、オムライス、カツ丼と並んでカツカレーは悪魔の食べ物。糖質、脂質、カロリーと三拍子揃う(それだけにめっぽう美味いのだが)。

本ブログの本年2月臨時号NO.86(「はいじゅ VS はいじょ」)で、美味しいものを食べるのを捨ててまで長生きしようとするのは糞喰らえだ!とイキがったが、正直糖尿病は怖い。銀行の組合専従をしていたとき、両目を失明しかけた人のところへ見舞金を持って行った。歌手の故村田秀雄が下肢を切断したことは有名な話だ。

武士なら二言はないところだが、軟弱にも舌の根も乾かぬうちに宗旨替えした私はカツカレーの名店巡りに終止符を打つことにした(溜池山王『まさむね』のカツカレーは、以前すごい行列で断念した。それが心残り)。

これから先は、スープカレーでもと銀座にある『イエロースパイス』や『札幌ドミニカ』に行ってみた。サラサラ好きと言っても(カレーを飲み物と称するデブタレさんでなくとも)飲み物みたい。俳優の故阿藤快ではないが「なんだかなぁ」

亡き母が晩年「歳はとりとみない」(神戸弁or播州弁の、歳はとりたくない)とよく口にしていた。その気持ちが理解できる年齢になってしまった。

 

 

 

 

2018.3 臨時号 NO.88 うそ VS  くそ

 私は嘘をつくのが好きではない。だから嘘はつかないと言えば、嘘をついたことになる。私はよく無邪気な嘘をつき妻をからかう。嘘ばかりで信用できないと妻から言われている。

 他人に嘘をつくのはお天道様が見ているとか、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるとかは思わないが、保身の為の嘘は自らを蔑む。以下に述べる体験も嘘をつくことを躊躇させる。

社団法人にいた頃トップは私より数段記憶力がよい人だった。過去の話をしているとき私の方が正しいと思っているのだが、こちらがすぐには具体的に思い出せないので、自分の方が間違っているという形で決着するのが口惜しかった。後で思い出しても後の祭り。

こんな具合だから、嘘などつけば後になって矛盾を指摘されることになる。それだけで済まず、「なぜあの時嘘をついたのか」と詰問される。こちらは嘘をついたこともよく覚えておらず返事に窮してしまう。嘘をつくとずっと覚えておかないといけないので、面倒だ。頭のよくない者は正直に限ると悟ったものだ。

 嘘をつくよりも、嘘をつかれるのは、もっと嫌い。医師は大勢の患者を相手にしているので、前何を話したことなどいちいち覚えていない。こちらはよく覚えているので、矛盾したことを言われるとコノヤロー!と腹を立てる。口には出さず、行かなくなる。

癌が不治の病だった頃、医師は患者に癌とは言わず別の病名を告げ、嘘をついていた。今は、告知するのが原則になっているが、却って死期を早めるからとの家族の意向で患者本人に癌と告知しない場合もある。それを嘘ついたと言っては医師が気の毒だ。「故あって本当のことを言わない」だけなのだから。

「嘘も方便」と言われ、糞は大便と呼ばれる。共に嫌われものだが、時には役に立つ。金文学氏は『日中韓 表の顔 裏の顔』(祥伝社黄金文庫)で、「糞」は「米」と「共」に「田」にあるという意味の漢字だと紹介している。糞は水田の肥やしになる。「便」が「便益」になるのだ。嘘も、人間関係を悪化させるだけではなく、人間関係の潤滑油にもなりうる。

 

政治家は、嘘をつく仕事と言えば言い過ぎだが、嘘がつきものだと思われている。確かに沖縄北方相を見ていると正直すぎるのは政治家に向いていないのかもと思い至る。

政治家の嘘には二種類ある。国民のために今は知らせない方がよいと思う場合などは嘘とは言わず、「政治的発言」をしたと理解される。政治家個人の保身で嘘を言う場合は「保身的ウソ」(以下「ウソ」という)をついたと糞害と同じ汚いものと見下されるべきだ。

 モリ・カケ問題では、安倍首相が、政治的発言ではなく、ウソをついたと国民に疑われ、内閣支持率を大きく下げた。相手の欠点ばかり見る私とは違い、日本人の大勢は他人の長所に眼が向いているものだが、さすがにこの疑惑には皆が怒った。

 嘘をつくとき、相手に嘘をついていると思われては嘘をつく意味がない。私の妻は嘘をつくとき笑ってしまう。社団法人に居たときある会員は嘘をつくときいつも小声になった。

安倍首相は平然と嘘をつくようには見える。ネット上ではアンチたちに根っからの嘘つきみたいな書かれ方もされている。その根拠と思われる、野上忠興氏の『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)を読んだが、首相の乳母兼教育係であった久保ウメさんも、著者も、そんなひどい言い方をしていない。私も、子供の頃よく「嘘つきは泥棒の始まり」と母親に叱られていたと思うから、子供はそんなものだ。私もアンチの一人ではあるが、生まれつきの嘘吐き呼ばわりするのはフェアではない気がする。

嘘つき呼ばわりされてもある面仕方ないと思えるのは、故佐藤栄作首相の方だろう。核持ち込みの密約がありながら非核三原則を高らかに唱えた。が、裏で非核三原則など無意味と言っていたというなら。それでノーベル平和賞もしれっと受賞しているのであれば。

安倍首相の嘘は、練りに練って吐かれた能動的な嘘ではなく、短気・強情な性格による相手の意見・攻撃に対して「即否定」するという防御的「ウソ」に過ぎない。宿題はと聞かれると「した」と言い、傘は忘れたと聞くと「忘れていない」と反射的に答える。

首相になっても、森友学園問題では「関係していない。夫婦で関係していたらすぐに首相を辞任する」と言ってしまう。加計学園問題では、加計学園が国家戦略特区の獣医学部新設に関わっていることを知ったのは、今治市とともに申請が決定された昨年の1/20だと答弁し呆れられた。すぐにウソをついていると思われることを言ってしまう。

完全犯罪ほどではないとしても、ウソをつき騙しとおすことは、容易ではない。とくに今の首相発言がメディアに半永久的に保存される時代にあっては。発言の矛盾をメディアからすぐに指摘されてしまう。

不倫問題で見るように、政治家や芸能人の不倫が雑誌社等に追及されると、動揺してついウソをつき否定しまうが、認めるまで傷口をさらに広げられ塩をすり込まれてしまう。

 君子危うきとウソに近寄らず。政治的発言は避けられないとしても、ウソをつかざるを得ない状況を極力つくらないことが肝要だ。モリ・カケ問題(ソバだけでなくスパも浮上)も、「李下に冠を正さず」(信用を旨とする、銀行に「お金をごまかしてはならない」、警察に「物を盗んではいけない」、との内部規定などない。それなら当然憲法に「首相は不正をしてはならない」との条文はない。疑われた時点で失格と戒めているのだ)と直諫できる人が周りに居れば、あるいは諫言に聞く耳をもっていれば、首相としての信頼を急激に損ねることにはならなかったであろう(真相はウヤムヤのまま。いくら芸人と交わっても芸人とは違い、オフホワイトではなくダークグレーのままでは信頼回復はそう簡単ではない)。

 切れ者でうるさ型の後藤田官房長官を大家老とした(敬仰している訳ではないが)中曽根大勲位とは器が違うと言わざるを得ない。

 嘘でもいいから聞きたいが、無理というものか。「2期6年全うできるのは望外の幸せ。優れた先輩総裁達も連続2期を守った。3選をお膳立てしてもらったが辞退したい」と。

 

トルーマン米大統領はウソをつき通した。

副大統領だったトルーマンはフランクリン・ルーズベルト大統領が急逝したために心の準備もなく大統領に昇格した。原爆投下は軍の主導で進められており、それを拒否する選択肢はトルーマン大統領にはなかった。一昨年放映されたNHKスペシャル『決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~』に見るように、歴史の検証が進み、広島に原爆投下されたときトルーマン大統領は事の重大さを知りひどく後悔していたとする。その段階で原爆使用の中止を命令しておれば長崎だけでも投下されることはなかったのだが。

自身が犯した大きな過ちを素直に認め懺悔すればよかったのだが、「原爆の使用は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うために必要だった」と強弁し、自らを正当化した。そのウソがひとり歩きし米国の公式見解となっていった。

その代償として、トルーマンは、二人のアドルフ(ヒトラーとアイヒマン)と並べられて有史上最も残虐非道な人物との烙印を押されてしまった。

唯一擁護する米国市民においても、今の若者の間では原爆投下の必要性に疑問を感じ始めている。大統領のウソは末代まで祟る。

 

2018.3 NO.87 ほご VS  ほこ

  2/9より平昌オリンピックが始まる。米朝対立は冬季五輪中休戦状態となるか。バランピックが終わる3月中旬以降、また北朝鮮が核・ミサイルの実験を再開するかもしれない。

私は過去本ブログの2017年5月NO.71(「ロクサン VS ロクヨン」)、同11月NO.78(「しゅうじん VS きゅうじん」)等で書いたように、米朝の軍事衝突はないという立場にいまだ変わりはない。米国は中国の了解なしに北朝鮮を攻撃できない。中国は了解しない。北朝鮮の金正恩党委員長は愚かではない。たとえ狂って米国への攻撃を命じても軍幹部は従わない。家族、一族もすべて地球上から抹殺されるよりも暴君の排除を選択するだろう。

ただ、責任ある立場の政府が万が一の場合を想定し韓国在留邦人の救出の検討をすることは理解できる。昨年11月頃BS番組で元駐韓大使と防衛大臣が話をしていた。自衛隊が在韓邦人を救出するには韓国の承認が必要だが、それがネックと。防衛大臣はまだ韓国側と了解に至っていないとした。韓国側は、自衛隊が入国するのを嫌い同意はしないだろう。それで今、北朝鮮内で有事があった場合を想定して、在韓米人を救出する米軍艦にコバンザメのようにくっついて救出することを検討しているという。

米国なら、韓国でなくてもどこでも承認などとらず自国民を救出するだろう。いきなり主権侵犯せず事前承認を求めて断られたとしても、救出に向かうと思うが。

 日本は、紛争地での海外邦人の救出・保護を目的に自衛隊を派遣できる前提として、次の3要件を設けている。①相手国が公共の安全と秩序を維持している(戦争状態にない)こと。②相手国の同意があること。③相手国の関連当局との連携が見込まれること。

 北朝鮮軍と韓国軍とが偶発にしろ韓国内で戦争状態になった時、上記3要件の①に抵触し自衛隊は②③の韓国の同意の有無に関わらず在韓邦人の救出に向かえない。なぜか? 憲法第9条第2項に抵触する。北朝鮮が韓国日本人村を包囲したとき救出するには北朝鮮軍と交戦状態になることは避けられないが、それは憲法違反となる。

 安倍政権は散々危機感を煽っていながら、本ブログ2017年11月増刊号 NO.80(「かいげん VS かいけん」)でABE主義と批判した安倍総裁私案は自衛隊明記を加憲するだけ。適切な喩えではないが、相撲親方に内縁の妻がいるとする。正妻になれば妻本人にとってはめでたいが、従前と変らず弟子の世話や親身に相談に乗る、おかみさんとしての役割を果たせないなら、弟子にとって何の意味もない。安倍総裁私案に「ありがたい」とあえて媚びた?発言をした自衛隊幹部は何なんだ。心ある自衛隊員は複雑な思いをしているだろう。

 在韓邦人はどう思っているのか。私なら、こう声をあげる。「海外邦人は、戦前日本にあった(意味合いは違うが)二等国民なのか」「海外邦人の命より、憲法9条の方が大事なのか」

 生半可な知識もない、ド素人の私は、自信を持って怒ることはできないが、なぜ自民党議員だけではなく政治家たちは憲法改正論議に際し海外邦人救出問題をよく国民に目に見える形で議論しないのか。それを不思議に思う。

 本ブログの2016年11月NO.65(「アイヒマン VS アイスマン」(1) (2))で触れたが、ノンフィクション作家門田隆将氏が『日本遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』で数々の紛争事件での海外邦人を置き去りにしてきた薄情とも言える不甲斐ない日本政府の対応ぶりを批判・問題提起している。なぜ政治家は真摯に受け止めないのか。

 

安倍首相に、戦闘地域に海外邦人が取り残されたら、伝家の宝刀・国家緊急権を発動するという覚悟があれば、話は別だ。時間の猶予もなく首相が決断し、紛争地における邦人を救出するため首相が自衛隊の政府専用機で救出に向かう。たとえ憲法違反に問われ政界を去ることになっても、他の政治家から手本・鑑と崇められ、国民から英雄と長く後世に語り継がれれば、それこそが政治家としての本懐というものだろう。 

 自民党改憲案にその国家緊急権を改憲案に盛り込もうとしている。GHQに押し付けられたから改憲と言っていたのに今やその米国への従属を一層深めている。それなら自民党に改憲を急ぐ理由はないハズ。憲法9条は当て馬で国家緊急権が改憲の本命との見方もある。

しかし、月刊『新潮45』の今正月号で、橋爪大三郎氏は、「国家緊急権」とは何か、と題して、国家緊急権は憲法の条文に明記しない方が良いと言う。条文に入れれば、安易に、しかもなんでもありになり、その反面責任が追及できなくなるとして、国家緊急権は憲法違反にしておくのがよいとする。まったくもってその通りだ。海外邦人の救出など本来の目的ではなく国民をがんじがらめにすることに利用されかねない。

安倍首相は乱用しないとしても、後世乱用する者が現れるかもしれない。ドイツのワイマール憲法における緊急事態条項もヒトラーが創った訳ではない。既に存在していた条項をヒトラーが悪用したのだ(これを強く意識しているのかとの誤解を招く発言を行い世界から顰蹙を買った重鎮が現政権内にいる)。

 

 やはり憲法9条2項を改正するのが本筋というものだろう。憲法9条は立派な精神だが、それをいいことにして国の最も基本である国民の生命と財産を守る義務をかまけることになってはいけない。

核の抑止力問題はともかくとして、在韓邦人の救出までトランプ大統領に依頼する安倍首相を大統領はどう見ているのだろうか。藪中元外務事務次官はTV番組にて「トランプ大統領は強い男が好き。習近平総書記に一目を置いている」と言う。なんでもかんでも頼る安倍首相はそれでも武士(の国の長)か?と大統領に思われてはいないか。

 憲法9条があるから日本は平和というのは幻想にすぎない。武力はなくとも話をすれば解決すると言っていた有識者達もISには説得に行かないだろう。ホモ・サピエンスが進化し哺乳類・霊長類から分離独立する日が来ない限り、平和国家といえども国内の国民のみならず海外邦人も守るためには矛が必要である(刀を抜かずとも敵を威圧した勝海舟が理想形だ)。そこから日本人の凛とした美しさ、誇りを取り戻すこともできるのではないか。

9条2項を改正し、戦力を保持し交戦権を持てば、中国は日本がまた侵略国家を目指していると大声を上げるだろう。しかし、本音は、中国が沖縄、本土を侵略するのに不都合ということだろうから、本気で相手にする必要はない(周辺諸国の理解を得る方が大事)。

 2項改正の暁には、自衛隊を“国民と国土を守る”という意味の国防隊に変えよう。自衛隊は一旦解組すべきだ。自衛隊員の家族の中には「お父さんの仕事は災害救助」と思い込んでいる家族もいるかもしれない。神風特攻隊の時の真似はしてはいけない。家族の反対を押し切ってまで無理強いさせるべきではない。国防に空白は許されないが、自衛隊員を一旦全員解雇し、軍隊としての国防隊員を新規採用するのがよい。先走った話ではあるが。

 

2018.2臨時号  NO.86  はいじゅ VS はいじょ

私が銀行を辞め社団法人に在籍していた頃歴史学者でNHKの教養番組でお馴染みの東京大学名誉教授故木村尚三郎先生にお世話になった。トップが知遇を得ており、節目の記念講演の折何度か登壇いただいた。講演の案内資料を郵送すると先生から「拝受しました。」とFAXが送られてくるのが常だった。「拝受」という言葉は、銀行員時代には使わず(単に教養がないだけかもしれないが)、新鮮に感じ、その後自身でもよく多用させてもらった。

木村先生は「ゆっくりと美味なものを食している時間が至福の時だ」とよく仰っておられた。20年以上前の6月頃か札幌で講演会を開催した折、昨晩至福のときを迎えられたであろう講演者の木村先生をお迎えに宿泊ホテルに向かった時、膝関節が痛く、足を引きずるようにしか歩けなくなってしまった。

遡ること1か月程前東向島・白髭橋近くにある『カタヤマ』というちょっと名前の通った洋食店でオージービーフを300g食べたが、値段も手ごろで400gでもイケる。牛肉好きの私はこれからも手軽に至福の時が迎えられそうだとほくそ笑んだ。が、数日後足の親指にチクチクと痛みが走りガラスの破片でも踏んだか?と思った。それが痛風の始まりだった。

 残念なことに、同じ肉でも鶏肉は比較的大丈夫で、牛肉が私には一番痛風に悪く、それから10数年牛肉を食すること控えざるを得なくなってしまった。

 その頃は薬などできるだけ飲まないようにしていたので、食事内容はかなり制限されていた。尿酸値が高いだけではなく、高脂血症、中性脂肪も多い、血糖値も要注意と成人病のオンパレード。鶏卵は、細胞の多いイクラ、うにと違って、細胞が一つなので痛風には良いのだが、コレステロール値が高い。ちりめんじゃこも、カルシウムが取れるが、小さくても一尾一尾内臓がついているので尿酸値を上げる。前立腺肥大とか何かと体によい納豆も痛風にはよくない。あれこれ気に掛けると食べるものはなくなってしまう。

 加えて、前立腺肥大の症状が出てからは好きなカレーも冬には控えていた。前立腺肥大では体を冷やすと炎症を起こしやすい。カレーは基本体を冷やす。体を温めるということなら常夏のインドで常食しないだろう。日本でも夏に毎日鍋焼きうどんを食べないのと同じだ。コーヒーも体を冷やすので、ブラックでは飲まない。

冷たい食物は体を冷やす。冷たい女は心を冷やす。ともに避けるに如くはない。

 前立腺肥大と前立腺がんは別物なので、前立腺がんになるのを防ぐためにと数年間(滑稽なことにとっくに癌にもなっていたのだが)、元々あまり食さなかったヨーグルトやチーズを一切食べないようにしていた。前立腺がんの原因は分かっておらず(長時間座り続ける生活はよくないらしい。作家やタクシー運転手はどうなんだろう)、食品との因果関係もまだ解明されていない。北欧に前立腺がんが多いので乳製品が悪いのではないか。フランス人は比較的癌が少ないからワイン(ポリフェノール)がよいのかも。イタリア人もトマト(リコピン)が予防に有効?と研究されている段階だ。

 

前立腺がんと分かった瞬間から、ばからしくなって、何でも食べるようになった。成人病予防の薬など数種服用しながら(体調も悪くないのに定期的に病院に通う私は、内科と調剤薬局にとっては死ぬまで上客だ)、好きな物を食べる。留意していることと言えば、毎日きっちり三食とること(私の辞書にはブランチは載っていない)。毎食の最初に野菜を食べること(昼食をラーメンで済ませる時は野菜たっぷりのタンメンにする)。塩分を取り過ぎたと思うときは、バナナかアボカドでナトリウムを摂取すること、ぐらいか。

前立腺がん以外でも胃がんや大腸がんになったら、もう肉は食べないという人がいるが、どうなのか。数十年の食生活で癌になっている訳なのに急に肉を食べないからといってプラスに作用するとも思えない。

 肉を悪者扱いする人がいるが、癌との因果関係が解明されたとでも言うのか。赤肉と大腸がんは統計学的に有意だとしても、肉の広報大使・寺門ジモンさんや文字通り肉食系女性ヴァイオリニスト・高嶋ちさ子さんならいざ知らず、日本人はそもそも欧米人ほど肉を食さない。明治以降欧米の体格に追いつきつつあることや寿命が延びたのは、肉と牛乳のお蔭ではないか。私よりすぐ上の団塊の世代が日本の高度成長を支えてきたのに、中高年に差し掛かるといかにもお荷物だと言うのと同じではないか。

最近では、逆に、65、66歳からは肉を食べたほうが良いと推奨され始めている。血管を丈夫にし、免疫力も上がるとして。それで牛肉も日を決めて食べるようにしている。

過ぎたるは及ばざるがごとし。体に良いと言われる物でも食べ過ぎたら良くないのは当たり前。銀行員時代のある先輩の母親が「ホウレンソウが身体にいい」と山ほど食べた結果、緑色の大きな胆石(色素胆石)ができたという。

悪いと思える物でも頻繁に食さなければ影響は小さい。要はバランスの問題だ。

 

けだし、私が節制して長生きしてもだれも喜んではくれないだろう。憎まれ口をたたく私に妻は早く逝って! (ほんとはもっとひどい言い方なのだが)と言う。銀行員時代「高ければよいと思っている。ブランド品ばかり!」と妻が文句を言うと、「そんなことはない。嫁さんはブランド品ではない」と言い妻を逆上させた。最近も旅行から帰る新幹線の中でトイレから戻ってきた妻が、鏡を見てがっかりすると私に言った。本人より夫の方がもっとそう思っていると言い終わるや否や「痛たたた!」と私が声を上げたら、近くに座っていたよその子供がびっくりしてこちらを見ていた。

これに限らず、なにかと余計なことを言っては妻を怒らせる。他人に厳しいが自身にも厳しい貴乃花親方と違い、私は、自分自身には甘いが、周りやブログ上で勝手な正義感を振り回し毒を吐く。早く「排除」されるのを望むのは妻だけではないかもしれぬ。かの希望の党からではなく、この世から。

無理に節制したとしても効果があるとは限らない。ある80歳を優に超えた官僚OBは、同世代が逝くのを見送ってきた経験から「70歳ぐらいまでは自助努力で寿命をもたせることができるが、それ以降の努力はあまり関係ない。DNAでその人の天寿が決まっているのでは」という話をされていた。百寿や白寿の方の食生活を参考にしてもということになる。

老人の常套句を言う日が来るとは思わなかったが、この歳になると美味しい物を食べることぐらいしか楽しみがない。それを捨ててまで長生きしようとするのは糞喰らえ!だ。そうと決まれば、至福のときを求めて、早速B級グルメの名店探訪に繰り出すことにしよう。

 

2018.2 NO.85 いしば VS いしばし

 3月にロシア(連邦)大統領選がある。2008年の憲法改正により大統領の任期は4年から6年に変更された。連続3選は禁止されていたが、2期12年に延びるなら3選したのと変らない。プーチン大統領が今回再選されたら2024年まで大統領に居座る。その後はまた一旦首相に下がり、また2期12年大統領として君臨するつもりか。まさかではあるが。

 昨年10月中国共産党習近平総書記体制の2期目(任期5年)がスタートした。最高指導部政治局常務委員(通称:チャイナセブン)には後継者となるべき若手リーダーが入っていない。慣例に反して3期以上の長期政権を習総書記が狙っているという見方もある。

 一方、民主主義の宗主国米国では、独裁者にはなれない。暴君トランプ大統領をもってしても2期8年を変更することはできないだろう。もっとも、ロシアゲート疑惑を抱えるトランプ大統領は1期4年の任期も全うできるかどうかも怪しい。

 日本の県知事の権限は大統領に似ている。その大きな権力を有する知事の多選については、5選、6選もあるように制限がない。テレビで見たイメージでは、もっと長く務めてもという知事ほど早く辞めているというのが私の印象だ。元鳥取県知事の片山善博氏(2期:元旧自治官僚)、元三重県知事の北川正恭氏(2期:元衆議院議員)しかり。

 権力を持った者は、どんな立派な人でも変わっていく危険性がある。上記の2知事はそれを強く意識していたのではないか(民間においても、賢者なトップほど早く後進に道を譲ろうとし、そうでないトップほど長く居座ろうとする。そして、組織が歪んで行く)。

権力者の変貌は、通常次のような段階を踏んで変わると見られる。1段階:権力は必ず腐敗すると自戒して職務に臨む。2段階:周りからチヤホヤ、ペコペコされ、一度やったら辞められない。3段階:この重責が務まるのは自分自身しかいない。みんなもそう思っていると思い込む。4段階:「お言葉ですが」の「お」を聞いただけで烈火のごとく怒る。

 埼玉県の上田清司知事がこの好例?だ。1期目の2004年に任期を連続3期までとする「多選自粛条例」を知事自身が定めたのに(上記の3段階目なのか)4選目にも出馬し当選した。

 日本のトップ、首相には多選の制限がない。首相の専権事項は実質衆議院解散ぐらいで制限がなくてもよかったのか。だが、その解散権が乱用され、また、モリ・カケ問題が表面化し、首相の権限の私物化が問題になってきた。このままでよいのかとの疑問が残る。

 これまで首相にはほとんど自民党総裁が国会で選ばれてきた。これでは、自民党内で総裁の多選が決められると国民の意思には関係なく首相の多選も決まることになる。

 こうした問題を含め自民党内で十分な議論をすることなく、総裁の2期6年を3期9年に延長した。だが、今9月の総裁選で安倍総裁3選を阻止しようと自民党の反主流派が動きはじめた。自分達が総裁になったときを考えれば3選はよいが、安倍総裁の3選はダメということか。それとも安倍首相続投を望まぬ声が少なくないのを背に受けてのことか。

 

いずれにしろ、安倍総裁への対抗馬となりそうな議員を独断と偏見にて触れてみた。

安倍総裁の対抗馬最右翼は、側近が出馬を明言した石破茂元幹事長。

昨年9月頃「米国が本当に守ってくれるのか。本当に守ってくれるよう非核三原則を見直しすべき」と石破氏は核シェア論?を発信した。北朝鮮の核武装に対するカウンターパワーとしては現実的ではあるが、100年経っても米国の属国から脱却できないのでは。被爆国・平和国家としての自立への強い意志を、安倍首相との違いを、示してほしいのだが。

11月のBS番組で加計学園認可に対してMCに問われてもこの期に及んで煮え切らない返事。竹下亘総務会長でなくとも本当に安倍政権を倒す気があるのかと思ってしまう。

本ブログ2017年3 月NO.69(「いたがり VS いいたがり」)で同様な批判をしているが、かの世界的投資家ジム・ロジャーズ氏も「選挙に勝つことしか考えず日本の未来を壊す」と安倍政権を批判している。日本の未来を守る命懸けの姿勢を今国民に見せないと、気概の人・いしばし(石橋湛山)と一字違いで大違いと言われかねない。

安倍首相から禅定の二文字をチラつかされた?岸田文雄政調会長は、対抗止まりか。

週刊ポストで外務省OBの天木直人氏に「もともと安倍首相と政治の方向が違うのに、何も批判しなかったから4年間外務大臣を続けさせてもらった。その外交も外務省の役人のいいなり。政治家としての信念がなく、総理大臣にふさわしい器ではない」と酷評された。手厳しすぎるとは庇えない。9月の総裁選に出馬するのなら、核兵器禁止条約不参加決定の折決然と閣外に去り、広島選出の国会議員としての矜持を見せつけるべきだったと思う。

私は宏池会なら領袖の岸田氏より同派の林芳正参議院議員に期待したい。東大法学部卒で、バンド演奏もやる、典型な秀才タイプ。なにより政策通だ。しかし、非の打ち所がないと思ったら、昨8月の内閣改造で文科大臣を引き受けて仰天した。地元下関で親の代から宿敵である安倍首相の疑惑の尻ぬぐいをさせられる、嫌がらせのようなポストを引き受けた。それも、まるで初入閣組が呼び出しの電話を今か今かと心待ちするような、そんな場面をメディアに撮らせた。そして、案の定加計学園認可で泥をかぶってしまった。貸しを作って衆議院への鞍替えとの深謀遠慮とでも言うのか。人が好過ぎるとしか思えない。前からお公家集団と揶揄される宏池会だが、本家の公家はそんなお人好しではないハズ。

 穴としては、野田聖子総務大臣だが、風向きはよくない。女性議員の層と歴史(習熟)が少ない中で女性首相を急ぐ理由はない。首相候補と持ち上げられた、小渕優子議員、稲田朋美前防衛大臣、小池百合子都知事の顛末を見せられた今の国民はとくにそう思うだろう。

女であれ、男であれ、総裁選の立候補に必要な推薦人20人を自前で用意できる会派のリーダーになりうる、実力と人望を示すことが先決だ。

 将来の総裁候補と言うべき小泉進次郎筆頭副幹事長は、先の衆院選にてスカジャンを着た客寄せパンダとしてメディアからも神輿に乗せられワッショイ! ワッショイ!されていた。その後小泉氏本人は自民党の檻の中でパンダから吠える若獅子に変貌している。

父親譲りかパーフォーマンスが上手いのは分かったが、どういう政治理念やビジョンを持っているのか。メディアも真面目に「小泉進次郎は本物か?」との論調に変わっていかなければ、懐疑的な私を含め庶民には彼の本質が見えてこない。

ダークホースとして急浮上した河野太郎外相にも触れようとしたとき、「あれ? これじゃ、反主流派候補を貶しているだけじゃないのか? 」と気づいた。「いやいや、これでも叱咤激励なのだ。大企業の不正・不祥事が蔓延している折蕎麦屋じゃないがモリ・カケ問題を抱える安倍首相が『日本の経営者よ、姿勢を正すべきだ!』と訓戒を垂れても、様にならない。」

そう独り言ちてると、妻が部屋に入ってきた。「何ぶつぶつ言ってるの? あら、またろくでもないブログを書いてるの?」とぬかしおった。「ウルヘィ、ろくでなしがろくでもないブログを書いて何が悪い!?」と言い返した。「ふん! もっと社会に役立つことでもしたら」と妻は捨て台詞を、遺して逝った。否、残して行った。

 

2018. 1臨時号 NO.84 はくほう VS こくほう

 今から60年も前私がまだ小さかった頃、最初のヒーローは月光仮面だった。楠公さんの縁日の屋台でサングラス、白いマフラー、マントの衣装セットを買い、月光仮面となって外に出たときの嬉し・恥ずかしの気持ちは今も覚えている。昭和33年から昭和34にかけてTV放映されたので、家では見ていない。日曜の夜になると小遣いの10円をもってうどん屋に行き玉子とじうどんを食べながら見るか、テレビのある家にお邪魔していた。

当時神戸の下町にはまだ裕福な家しかテレビかなかった。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズでもそんな場面があったが、テレビのある家にみんな集まっていた。私も四つ上の兄と一緒によく近所でテーラーを営む家に夜上がり込んでいた。家に戻ると、迷惑をかけるからと止められていた親に閉め出されてなかなか開けてもらえなかった。小学校2、3年生の頃の私はよく泣きべそをかいたものだった。

 月光仮面が終わると、大相撲の横綱初代若乃花とその若乃花の兄弟子にあたりプロレスに転じ空手チョップで一世を風靡した力道山がヒーローになった。昭和37年に若乃花が引退するとプロレスに夢中になっていった。昭和38年12月に39歳の若さで力道山が亡くなった時は、スーパーマンがそんな簡単にあっけなく死ぬものかと驚いた(前月にはケネディ大統領が暗殺されたばかりだった)。

 プロレスはそれ以来あまり見なくなって行った。ヒーローをまた相撲に求めていき、大鵬の後好きだった若乃花の弟貴ノ花(現貴乃花親方の父)が登場すると応援した。その子供達が相撲取りになり若乃花、貴乃花として横綱になったが当然惜しみなく声援を送った。初代若乃花一族の小柄ながら強靭な足腰とガチンコ精神で大きな関取を投げ飛ばすのが痛快だった。当時千代の富士が大横綱として君臨していたが、取組で小錦に跳ね飛ばされるのを見て31回もの優勝に疑問をも感じていた。数多いた千代の富士ファンとっては、そんなことよりも、その勇姿を長く見続けていたいというのがファン心理というものなのだろう。

 若貴が引退後相撲に対する関心が薄れていったが、10数年前社団法人に居たとき社員(会員)総会の記念講演で相撲の親方を呼ぶことを企画した。親方に連絡をとろうとしたが、日本相撲協会(2014年に公益財団法人になったが、前身の財団法人の時から公益法人として存在)に問い合わせしたら、「私ども公益法人だから協会を通せ」と言う。押っ取り刀で協会に依頼状を持参し、謝礼はと聞くと、また私どもは公益法人たから要らないみたいなことを言った。訝しく思うも薄謝で済むかと喜んだが、晴れて某親方に電話すると、「協会が何を言ったか知らないが、50万円でしか講演しない」と断言されてしまった。50万円も出して聴く話かと口には出さなかったが、親方を呼ぶことを断念した。建前と本音、協会と親方の二重構造みたいなものを垣間見て、さらに相撲界に対して興味を失っていった。

 いつの間にか、モンゴル出身の横綱が3人になっていたことを知り違和感を覚えた。白鵬関は認めていた。競馬ファンなら分かってもらえると思うが、朝青龍がオルフェーヴル(双方のファンから異議が出でそうだが)なら、白鵬はディープインパクト。優等生で相撲界の人間国宝にでもなるかと思っていた。32回の優勝をするまでは。千代の富士が31回で終わったのを強く意識したのであろう。大鵬親方に恭順の意を示し、白鵬関によれば、大鵬親方が「勝ち続けることが横綱の品格」と言った、とする。「横綱は勝ち続けなければいけないから32回を抜いていいんだよ」とは大鵬親方が言ったかもしれないが、横綱の品格を穢してまでとは大鵬親方が言うハズがない。

 32回を超える優勝を重ね、大鵬親方が亡くなると、大鵬夫人も苦言コメントを出したように、白鵬関の言動や取組が様変わりになった。私も本ブログ2015年12月54号(「

 みけつ VS しけつ」で白鵬関をすでに批判している。

白鵬関が猫を被っていただけなのか。それとも変節したのかは分からない。異国の地で体格や言葉の壁を死ぬほどの努力で克服して大横綱になり、一人横綱として角界を支えてきたのに、自身が思うほどに日本人は認めてくれはしないという思いから(過言かもしれないが)力尽く、独裁者としての道を選んだ。土俵の鬼ではなく、本当の鬼になったのか?

今般の日馬富士暴行事件で、一部に白鵬黒幕説が囁かれているが、私もそれに一票を投じる。私流の解釈では、大相撲のモンゴル相撲化で征服を図る蒙古襲来に対して執権北条時宗(貴乃花親方)が決然と立ち向かい、公家(相撲協会)はオロオロとうろたえている、そんな構図だ(史実と違うのは公家サイドが蒙古軍より執権サイドをより怖がっていることだ)。

モンゴル人3横綱で優勝を回していく。その抵抗勢力の一力士は潰したが、大反撃に遭い三本矢の大事な一矢が折れてしまった。神風ならぬ世間の風も大逆風として吹き荒れている。第一次元寇は失敗に帰したと見える。さらに、今回の件でモンゴル相撲の英雄である白鵬関の父は親方及び協会理事長の前提となる日本帰化の許諾を白紙にもどすと激怒しているという。その週刊誌報道が正しいとすれば、白鵬関は弱り目に祟り目だ。

 

 私の気性からして、貴乃花親方にシンパシ―を感じるが、ボクシングと同じになればよいとは思っていない。正義感を振り回す私にしてはと意外に思われるかもしれないが、八百長は嘘と似ていると思う。「嘘も方便」と言って、相手や周りを慮って嘘をつき、許される場合がある。病み上がりの柏戸に大鵬が負けた取組。武蔵丸が大けがをしていた貴乃花に負け、小泉首相が感動したと言った取組。八百長だという声があった。私は人情相撲(片八百長)と理解した(ガチンコに違いないのだが、負けた力士は始めから気合負けしてしまっている)。腐敗として問題にすべきなのは、ろくに稽古もせず星の貸し借りにて地位を守り、有望な若手力士の昇達の道を阻んでいる力士達がいるとすれば、まさにそのことだろう。

神事、興行、格闘技を三位一体とする国技の改革は、必ずしも貴乃花親方の考え方がすべて正しいとは限らない。仮にそうだとしても、貴乃花親方の進め方は、日本人社会に受けいれられにくい。

 たしかに、日本人の特質・和の精神は、互いに切磋琢磨しつつも、他人を思いやり、事あれば助け合い、心を一つにしていく、ということ。なれあう、もたれ合う、傷をなめ合う、くさい物に蓋をする、ということではない。澱みを除くために池に小石を投げ入れるのはよい。が、池の水を枯らすほどのドラスティックなやり方は日本人になじまない。三島由紀夫のごとく思い込みが激しい天才はクーデターまがいのことを起こすが、日本人は歓迎しない。天才にとってはのろくさいのかもしれないが、それも和の精神というものだ。

 改革はできなかった理事長ではあるが、北の湖理事長が存命なら、日馬富士事件も起こらないし、起こったとしても、貴乃花親方が協会にそっぽを向くことはなかっただろう。

戦前米国にまだ勝てる力はないと日米開戦に反対していた天才石原莞爾は陸軍の先輩東條英機をとかくバカにし、そんな石原を毛嫌いした東條は石原を予備役に追放したのを思い起こす。相撲界も戦前日本と同じく奈落の底へ向かってはいけない。貴乃花親方も八角理事長も最後は和の精神だ。