2018. 4 臨時号 NO.90 かつやく VS かくやく
昨年の流行語大賞で「ちーがーうーだーろー!」が候補としてノミネートされた(結果は落選)。「違うだろ」は男言葉だと思うが、豊田真由子前議員はこの言葉で男性秘書を叱り、手も出したという。横綱と同様品格が求められる国会議員が、育ちも悪くないだろうに、なぜ女言葉で「違うでしょ!」と言わなかったのか?
彼女独自の個性なのか。それとも、国会で男性議員に負けないためにそういう言葉使いになるのか。やくざに対峙する刑事がやくざと同じ風貌になっていくのと同じなのか。
ジェンダーフリーが進化しても、生物が雌雄同体からオス・メス分化の道を選んだ生物学的性差は否定すべきではない。将来人工子宮ができ女が子を産まなくなっても千年万年単位では染色体のXXとXYが変わるものではない。
男女同一の政治家口調ではなく、女性らしい語り口で、しかも言うべきことをしっかり相手に伝える(拉致問題で拉致被害者の兄蓮池透氏と対立する)中山恭子議員の話し方に、女としての自信と奥深さを私は感じる。女の強さは、腕力ではなく、芯の強さと心得る。
日本では、女らしさを求めているのは我ら男だけではなさそうだ。小池代表が「排除します」、「さらさら・・」と発言して風向きが一変し、希望の党は先の衆院選で惨敗したのは記憶に新しい。師匠の小泉首相なら大ウケする同じ手法をとっただけなのに。隠れ男尊女卑主義者だけならこんなに酷い負け方にはならない。女性選挙民も、いじめられている弱い立場の小池さんを応援するが、権力者の顔を見せた小池さんにNO!をつきつけた。
某ジャーナリストによるレイプ被害を世に告発した女性に対して、その勇気を褒めたたえる意見だけだと思ったが、予想に反して、“女だてら”にと批判する日本女性が少なくないらしい。それも年配の女性だけではないという。男尊女卑でレディー・ファースト(リスク回避で女を前に行かせた)に女たちが反旗を翻した西洋とはすこし趣が異なる。
上述の豊田前議員も不倫問題で民進党を離党した山尾志桜里議員も東大卒。頭もいいし弁舌も立つ。攻撃する場合は舌鋒鋭く責め立てるが、自らが攻撃されると雲隠れしたり説明責任を果たそうとしない。男でもそんな態度をとる者がいない訳ではないが、女々しいと生き恥をかき、出馬もままならない。両女性議員はいざとなると女性(の甘え)が顔を出す。それに対して、男たちは「しょうがないなぁ」と言って追及の手がつい緩んでしまう。
日本には、映画『女神の見えざる手』のロビイスト女主人公みたいな、知力、強気、ち密さを兼ね備え、夜も眠らず働きチームを牽引する、男勝りなスーパーウーマンはいないようだ。東大法学部を首席で卒業し財務省に入省した経歴をもつ超エリートの山口真由弁護士(以下「山口女史」)がいる。著書『リベラルという病』(新潮新書)を読んだが、さすが才媛と思わせる。それでも、映画の女主人公みたいにはならない。
同じ年に生まれた中で最も頭の良い者が大蔵省(現財務省、今般決裁文書改ざんで権威失墜したが)に入省すると言われてきた。キャリア官僚は、受験勉強を何時間したとかは隠す。努力する姿は他人には見せないという。頭が悪いと思われるから。そんな人たちが昼夜問わず国の為に猛烈に働く。山口女史はそんなスーパーマンの巣窟から早々と抜け去り、一キャリアウーマンとして生きる道を選んだ。1日19時間半?受験勉強し、教科書を7回読んだと公言する。そんな山口女史だが、美貌と相まって、メディアからも引っ張りだこだ。
日本の男性が女性に甘くなる。それは女性蔑視になるのか。そうとは思わず愛しみのように捉える私は、絶滅危惧種ではなく、すぐさまあの世にワープされるべき罪人なのか。
日本では、男女平等が進まない。女性議員が少ない、と言われる。西洋と違い、宗主国中国の則天武后、呂太后ら悪女を見て女権力者を忌避し、韓国と同様儒教等で女を権力の座から遠ざけたのでは。とくに日本は「大和撫子」に仕向けた面もあるのではないか。
サッカー日本代表女子チームの代名詞(なでしこJAPAN)にもなっているが、ナデシコの花に喩え、清楚で美しい女性が日本の美徳とされてきた。その中に奥ゆかしさも含まれているが、それが日本女性の世界に類を見ない特質になった。女性の社会進出の遅れの一因かもしれないが、そのためになくなってもよいとは思わない。
その奥ゆかしさを備えた日本女性を日本男性だけではなく外国の男性も少なからず惹かれているのも事実だ。日本男子を対象とした?2014年マイナビウーマンのアンケート調査で回答した男子の68.2%が大和撫子タイプの女性と付き合いたいとしている。
ならば、男性がそれを望むなら、愛されたいと思う女性は大和撫子を目指すのかもしれない。この選択は、国が介入できない個人の幸福追求権の範疇だ。
涙腺が緩い私など涙なしでは読めない短編集・山本周五郎作『小説 日本婦道記』(新潮文庫)に登場する、夫や子の為に清く健気に生きる武家の女性のような、古風な女性はもういないだろうが、内助の功に努めたいとする専業主婦は少なくないのかもしれない。
そんな女性にとって、政府の打ち出した「一億総活躍社会」には戸惑いを覚える。家事だけでは活躍にならないのか。専業主婦になりたい女性は“仕事の嫌いな人”とのレッテルを、キャリアウーマン以外からも、貼られてしまうのか。
女性社会進出の後押しを謳い文句とする「一億総活躍社会」は国民が望む「一億総幸福社会」を確約しているわけではない。夫(正規雇用800万円)+妻(専業主婦) →夫(正規雇用400万円)+ 妻(非正規雇用300万円) or 夫(非正規雇用300万円)+妻(非正規雇用300万円)に時代が変わってしまったら、幸福と感じるだろうか。
長年の無策のツケを女性に押し付けるかの如く、全体主義戦前日本の国家総動員法みたいに、「皆の者働け!」と上から目線で言う国に対し、主権者たる国民を代表?して一主婦が日本死ね!とオヤジ言葉で反発した。家事と育児だけでも大変なのに生活の為に働かざるを得ない主婦やシングルマザーの悲痛な声も代弁して。
ここまで書いたが、幾つ問題があったろう。ジェンダーフリーに盾突く。LGBT(性的少数者)が抜けている。女々しい、男勝りは差別用語。ツッコミどころ満載だ。山口女史が上述書籍で書いているように、米国ではレッドハージならぬPCパージの嵐が吹き荒れているという。日本ではPCと言えば、まだパソコンを思い浮かべる人が多いだろうが、米国ではポリティカル・コレクトネス(政治的に正しい)のことを指す。ポストマンはダメ。ポストウーマンもダメ。ポストマン・ウーマンもポストウーマン・マンも正しくない。「どうすりゃいいのさ、この私」と『圭子の夢は夜ひらく』の替え歌でも口ずさみたくなる。絵に描いたようなエリートキャリアウーマンの山口女史でも、今の米国は息苦しいと言う。私のブログなど米国では直に差別主義者と大炎上するだろう(別段世の中が困ることはないが)。
老人介護を扱った犯罪小説『ロスト・ケア』で一躍有名となった葉真中顕氏のSF短編小説『政治的に正しい警察小説』(小学館文庫)のように言葉狩りがエスカレートしていけば、どうなるか。神しか言葉を発することはできないだろう。
いずれ、日本へもPCパージが飛び火してくるかもしれない。しかし、狂信的な行き過ぎたことまで米国に追随する必要はない。セクハラ撲滅は当然だが、ハリウッドの騒動は仏映画大女優カトリーヌ・ドヌーブ女史に行き過ぎではと窘められた。人種差別に苦しむ国を、憐れんでも、真似するべきではない(英語で論文を書く先生方には同情申し上げるが)。キリスト教でも普及・定着しないのだから、まぁ大丈夫か。日本が言いなりになっている暴君トランプ大統領がこのPC問題で日本に迫ってくることもあり得ないことでもあるし。