2018. 9臨時号NO.102 びぼう VS びんぼう
一時TV等で芸能人が、どれだけ貧乏だったか、競うかのように貧乏ぶりを披露していた。通知簿で、アヒルの行進(オール2)とか、軍隊の行進(1、2、1、2)とか自慢したりしない。
貧乏を卑下する必要はないが、自慢するものでもない。今も赤貧に苦しむ人が見ているかもしれない。どんなに貧苦だったかが重要なのではなく、そこから努力すれば抜け出せるという希望を見せることが芸能人、TVの役割ではないのか。
逆に、貧乏から抜け出しても、必ず幸せになるとも言えない。美貌をもって貧乏から抜け出し栄華を極めた美人もいる。だが、「ん」がつかないだけに、幸せな人生の結末を迎えるとは限らない。永遠のセックス・シンボルマリリン・モンローしかり、フィリピン元大統領夫人マルコス・イメルダしかり、20世紀最悪女独裁者エレナ・チャウシェスクしかり。
恵まれたタレント(才能)により貧しい生い立ちから政治家に出世した男達も、「ン」があっても「ヒン」がなければ政治家としての結末はめでたしとはいかないのかもしれぬ。
政治家、特にトップ層となれば、自分と同じ境遇の人だけではなく、いろんな人の上に立つ。品格を備えていること(国民が安心して託せると判断する重要な要素。前近代では血筋)が求められる。一時期首相候補と期待された橋下徹前大阪市長も、在特会会長との面談で、オマエ! オマエ!と怒声が飛んだ。カメラが回っているのに。我が目や耳を疑った。
橋下氏と同じく舛添要一氏も都知事に就任していなければ、叩かれず俊英な人物との評価だけで人生を全うできたものを。それが残念に思う。
ドイツ系移民の3代目トランプ大統領は世界から品がないと顰蹙を買い米国も恥ずかしい思いをしているだろう。故ケネディ大統領はアイルランド系移民の4代目。財を成した3代目の父ジョセフ・P・ケネディは駐英大使となり、息子が大統領に上り詰めた。政治家としては3代目にあたる小泉元首相も醜聞の真偽はともかく品があるとは思えない。4代目の進次郎氏とその兄の芸能人孝太郎氏の代に至って品が備わってきたと見受けられる。
私が思う戦後の政治家の双璧、岸信介首相と田中角栄首相との違いはお金との関わり方。マズローの7段階(元は5段階)欲求説によれば、人は下の欲求から段階を経て成長していくという。首相としては6段階の自己超越の段階(無私・利他)が理想的だが、貧しい生い立ちで最下の生理的欲求の段階から一代で駆け上がるのは至難の業ということなのであろうか。
今のナメクジではなく、ポチ犬と家で私がそう呼ばれた頃の話。品はないが、甲斐性はもっとない私には、妻から命じられた、土日のスーパーへの買い出しの務めがあった。売り出しの卵パックを求めてセールス開始時刻ぎりぎりに向かう。店内はごったがえしになっている。帰ってきて、「貧乏人ばかりで厭になる」とうそぶくと、妻娘から間髪入れず口を揃えて「アンタが一番貧乏人でしょ!」と叱責された。ハウス!と言われた私は、「ぼろは着てても こころの錦 どんな花より・・・」と唄いながらポチの部屋に戻って行った。
勘違い男の私はともかく、日本人というものは、貧しさはそれほど気にしないのではないか。それよりも心の貧しさを恥じ入る民族ではなかろうか?
日本人は「社会的地位よりも義理堅さで人間を評価する」と『梅干と日本刀』(祥伝社新書)の著者樋口清之氏は言う。薩摩島津家『日新公のいろは歌』は、二番目のロで「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高きいやしき」と教える。住む家で人間の価値は判断してはいけない。心のあり方によってこそ真価が決まる (今で言えば、行方不明の2歳児を助け出した元魚屋ボランティア尾畠春夫氏が尊敬を集めているように) と諭す。
お隣中国の価値観は「貴・賤」と言われる。若い頃作家陳舜臣氏の『小説十八史略』を読んで、中国は4千年同じことを繰り返しているだけだ。人間はそんな簡単に進歩しないのだと感じた。乱暴な言い方をすれば、易姓革命(徳を失った皇帝から徳のある者が天命を受けてとって代わる)の衣を纏うが、革命が、賤の、貴に対する強烈な嫉妬心と野心から生まれるならば、独裁国家の誕生と滅亡が繰り返されその都度国名が変るだけ。そこから社会主義国家は生まれない(中国に限ったことではないが)。『真説 毛沢東』(ユン・チアン氏+・ジョン・ハリデイ氏)や遠藤誉女史の『毛沢東 日本軍と共謀した男』を読む限り、毛沢東とて同じ。世襲がないだけで、建国の同志を皆粛清した(周恩来重用は男色によるとの説も)。習近平総書記がその毛沢東を目指す。また独裁国家の存亡を見ることになるのか。
中国から帰化した某学者が言っていた。日本こそ唯一の社会主義国家だと。
封建制度の解体、身分制度の廃止等社会的な大きな変革があった明治維新において、革命と呼ばず中国古典の「詩経」由来の維新を使ったのは、私流の解釈によれば、天皇の権威を維持し、為政を新むる(為政者が、上級武士から下級武士に、あるいは幕府から薩長に、入れ替わる)にすぎない。天武天皇時代から13百年国名は「日本」から変わっていない。
その天皇制の下での、聖徳太子由来の和の精神から、奴隷がいない、労使間の所得格差は海外諸国より少ないこと、和を乱した制裁・村八分も八分まで(火事、葬式は協力)、軍隊での序列は社会的地位ではなく入隊順であること、国民皆保険であることに加え、戦勝国からの改革(GHQによる農地解放と財閥解体、シャウプ勧告による富の集中防止と相続税の高税率化)もあり、いわゆる「天皇制社会主義」(ナチスの国家社会主義と似て非なるというか、根本的に違う)が確立された。これが世界で類を見ない、OnlyOneであることは、3.11東北大地震での東北人の立ち振る舞いを見て世界は納得した。
しかし、その天皇制社会主義に翳りが見え出して来た。1980年頃から「格差社会」と言われだしたが、小泉首相時代から格差はさらに広がり、労使間だけではなく労働者階級の中で二層化し、今や「階級社会」だと『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)で橋本健二氏は指摘する。最下層の非正規労働者は平均年収186万円では結婚もできない。子供が出来ても教育格差から子供が東大に入り官僚になるとの道も閉ざされていく。天皇の下皆平等が崩れ、最下層から抜け出せず固定化していく。西欧のごとく、反日や過激な思想に走しる者が増え、日本社会にも不安・不穏が訪れることになるかもしれぬ。
私が若い頃「自己責任」とは、富裕者は自己責任で自由にやってもらう。貧しい人は国が目をかけると理解していた。今や、非正規労働者の苦境に対して、富裕者らは、自己責任、自業自得だと見下すがごとき(平昌五輪のスケート・パシュートで最後尾の韓国女子スケターを置き去りにしたのを思い起こす)。消費税増税が低所得者の重荷になる中ふるさと納税も「我が家の食材はすべて返礼品で賄う」と嘯く高額納税の富裕者がいても、所得の再分配に逆行するとの声は聞こえてこない。懐は豊かになったかもしれないが、心は貧しくなっているのではないか。本来官邸が是正指示できる立場にあると思うが、富裕層優遇を自ら旗振りしているのだから、始末が悪い。
世界に誇る和の精神も、裁判員制度や司法取引で崩されていく。司法取引に準ずるリーニエンシー(課徴金減免)制度もそうだ。リニア不正受注に見るように、事の是非はともかく、業界必要悪として談合したならば秘密を厳守すべきところ、バレたら我真っ先に抜けがけするのは、誇り高き日本人のすることとは思えない(韓国セウォル号の船長を嗤えない)。
さらに、秘密保護法、共謀罪、改憲案に盛り込まれる予定の国家緊急権により監視社会の影がちらつく。安倍政権は無理やり法案を通せばそれで満足している感があるが、いつか厳格に法を運用する、あるいは悪用する政権が現れるかもしれない。
人が人を裁き、人が人を売り、人が人を監視する。これまで漢字「人」を、左側のひとを右側のひとが支えていると見てきたが、これからは左側のひとが右側の人を押さえつけていると見るようになる日が来るかもしれない。
監視・密告社会の怖さを、「平和警察」という国家権力による現代版魔女狩りの形で、伊坂幸太郎氏のSF『火星に住むつもりかい?』(光文社文庫)が、我々に教えてくれる。