2018.6臨時号NO.96 イエローード VS イエローード

山口達也氏騒動でデヴィ夫人が、ブログで「たかがキスで」と発言した。世の流れに掉さす人が多い中で、流れを堰き止める勇気と強さに触発された。私も思うことを書いておこうと思った。

5/1の不起訴報道を受け、TOKIOの山口氏を除く4人が会見した。私は次のような会見があるかと思っていた。「山口はアル中でした。しかし、それを言い訳にできないことをやらかしました。ですが、私たちにとってかけがえない仲間です。本人も猛省しています。甘いと言われるかもしれませんが、もう一度彼にチャンスをください。お願いします」

実際は、「我々に報告しなかったのは許しがたい」「自分のことよりも被害者のことを」などうらみつらみを言っていたので、山口氏を除籍させるつもりの会見だと思ったが、それはまだ決まっていないという。自分達は苦悩しているという。何の為の会見なのか。

会見を見た人は、山口氏以外の4人は歳相応の分別があり、発言も大人としてしっかりしていると思ったことだろう。それが狙いだったのか。当の山口氏はその会見を見ていたら、いたたまれなくなったことだろう。5/6事務所に山口氏は辞任を申し入れた。そして、受理された。今度は会見時とは打って変わって(私に言わせれば)空虚なコメントが4人連名で出されただけだ。

被害者本人及び家族は、示談に応じ、被害届を取り下げ、「誰一人の人生の未来もこの事件によって奪われてほしくない」との旨を寄せていた。今回の契約解除が、山口氏以外の4人が言っていた被害者のことを一番考えていることになるのか。家族の願いは世間が早くこの件を忘れてくれることだったハズだが(分かっていながら今書いている私も愚かだが)。女子高生本人も山口氏の事務所との契約解除に自身を責めることにならなければよいが。

 ブログ前号NO.95(ゴロフキン VS ボロフキン)で支店長に無理やりキスされた女子行員を知っていると書いたが、それは私の妻の事。結婚する前だがら、40年弱前の出来事。結婚を前提に付き合い始めた頃、妻の実家にタクシーで送り届けたときタクシーから降り際に突然妻が「変なことをするんでしょ!?」と言った。「何を言いだすのか」と不審に思い、妻に聞くと、支店長にキスされたとのことであった。宴席などがあると次長が支店長の横にすわる様仕向けたと言うから、単なるセクハラではなくパワハラによるセクハラ(セクパワ)にあたる。妻は私に告白したのはキス程度で終わっていたからだろう。仮にレイプだったとしたら訴えるか、あるいは訴えないなら結婚相手の私にも告白などしないだろう。私も、元上司のその支店長に対して「元々徳がない人だと思っていたが、やっぱりな」と思うだけで、「断じて許せない。が、怖くて訴えられない」などとは全然考えにも上らなかった。その支店長は、私らの想いも知らず、結婚式で妻側の主賓として祝辞を述べてくれた(#Me Too運動に乗っかっている訳ではない。デヴィ夫人の見解も一理あると言いたいだけ)

 それから時代が進み、セクハラに対する取り組みが進化しているのは認めるが、何でもかんでもレットカードにする風潮は、いかがなものか、行き過ぎではと思っている。

 厳格な法の世界でも、例えば覚醒剤の件でも、一回でも使用すれば罪は罪だが、初犯では執行猶予がつく。いわばイエローカードだ(再犯率が高いのは分かっていながら一度は人の良心を信じようと司法といえども血が通っているように私には感じる)。再犯すればほぼ問答無用で刑務所に入れさせられる。

 私は、ファンでもなんでもないが、今回の山口氏の件はイエローカードでよいと思っている。警察もそう判断し起訴猶予としたと思う。それなら、山口氏が心から反省し、もう一度だけチャンスが与えられ、5人でのTOKIOで演奏した音楽が愛の鳥イエローバードとなってファンの心に届ことくになることを期待していたのだが。

 

 TVワイドナショーで、松本人志氏が、女子高生(JK)のハニートラップでは?などネット上での中傷に対して、男気を出して反論したのは好感を持った。だが、「高校生になんで電話(番号を)聞くのか」と言ったのは、どうなのか。素面の時に電話番号を聞いたからといってわいせつ目的とは限らない。たしかに、毎週のように映画館に足を延すジジイの私は、恋だの青春だのというJK対象の映画は見ない。だが見たいオジサンがいてもよいではないか。常識から外れたら変な奴だと疎外すべきではない。松本氏でさえ漫才界の常識から外れていたから人気者になったのではないか。ロリコンと言う言葉もある。聖職者でもなければJKにあらぬ妄想をしてもよいではないか。妄想が罪なら男性ホルモンに支配される男達はみな罪人になる。妄想を本当に実行してしまえば罪となるが、その一線を越えさせたのは山口氏の場合はお酒。それを言い訳にしてもいけないが、酌量の余地もあっていい。

 洋の東西を問わず、宗教は、人は愚かで過ちを犯すとの前提に立ち、「罪を憎んで人を憎まず」と教える。不寛容はアカンヨウと諫める。

今は、罪を憎んで、人も憎む、になっていないか。そんな風潮を警察が先導していないか。警察は、暴力団を憲法で結社の自由が保障されていると結社を許し、その一方で暴力団排除条例にて暴力団員の憲法で守られるいるハズの基本的人権を否定する。付き合う者も罰せられる。本当になくしたいなら暴力団の結社を禁止させればよいだけ。庶民に人を憎ませるようなことをさせる必要はなくなる。大いなる矛盾、欺瞞だ。

弱い立場の我らは、相手が芸能人だからといえ、関係ない者たちが池に落ち溺れかけている人に石を投げるようなことはすべきではない。弱い立場だからこそ、薬を使用した?レイプ事件(準強姦罪としては不起訴)の被害者伊藤詩織さんが容疑者の逮捕を不当に回避させたとして警察権力と闘っているのに対して支援の声をもっと上げるべきなのではないか。

 私の頭の中でビリー・ジョエルさんの代表曲『オネスティ』(誠実)が鳴り響いている。

         Honesty is such a lonely word

Everyone is so untrue

Honesty is hardly ever heard

And mostly what I need from you

 

 

 

 

 

 

2018.6NO.95 ロフキン VS ロフキン

 妻が私の部屋に入ってきた。手になにやら持っている。殺虫スプレーか。何かブツブツ言いながらベットで寝ている私の方に吹きかけようとしている。「何するんだ!?」と喚いたが、聞こえていないのか。壁の鏡に眼をやると、私の姿が映っていない。「エッ! 俺はダニになったのか!?」と思うや否やプシューと顔面に殺虫剤が。噴霧された私は「ううっ、苦じい~」と呻いたところで目が覚めた。思えば、新婚の頃のご主人様扱いからどんどん妻の私に対する扱いがぞんざいになっていった。それに伴って呼び名も、ダメ亭主、ハズレ、ポチ犬、ナメクジと落ちて行った。もう後はダニか粗大ごみしかないと思っていたので、こんな夢を見たのだろうか?

 今世紀最強ボクサーの呼び声高いゲンナジー・ゴロフキン世界ミドル級チャンピオンは、GGG(Gennady “God of war” Golovkin)つまり、神の拳を持つ男と崇められている。私は妻からKKK(Kusai Kitanai Kirai)と蔑まれている。妻の私の扱いは、ボロフキンと同じだ。真っ新なフキンは食器等を拭くのに使われるが、少し古くなると水周りのテーブルを拭くときに使われ、ボロボロになると汚れた床を足で拭くときに使われてしまう。

か弱い妻は歳と共に強くなった。他の女ならもっとそうだろう。女()の一生における呼び名の変遷を見ても分かる。稚女→少女→生娘→若妻→妊婦→ママ→おばさん(関西ではオバタリアン)→老婆。死後は妖怪・お化け。だんだん強くなり、どんどん怖くなる。

 日馬富士暴行事件の折久しぶりに下重暁子女史をTV報道番組で拝見した。NHKのアナウンサーの頃可憐で人の後ろからちょっと顔を覗かすような感じに見えたが、今は貫禄もあり強いと感じだ。白鵬関に批判が集中していた時だったが、「私は白鵬のファンなの。よく頑張ってるじゃないの」と平然と言いのける態度にさすがのやくみつる氏も反論せず首をひねるのが精一杯だった。ただ怖さは感じなかった。レスリングのパワハラ問題で、名古屋の至学館大学谷岡郁子学長の怒りの会見を見た時は、怖さを感じた。爬虫類を見て恐竜時代の遺伝子が震えるように、道鏡を寵愛した孝謙天皇時代の遺伝子が震えた。

 五輪4連覇の伊調馨氏のことを「選手ですか?」と言い放ったにも拘わらず、第三者委員会によるパワハラ認定のあと福田協会長が謝罪した記者会見の場に副会長でありながら同席もせず、頭を下げなかった。追いすがる記者に対して、伊調さんの件は認定されなかったと負け惜しみしか言わない。本ブログ本年4月臨時号NO.90(「かつやくVS かくやく」)にて豊田前議員や山尾議員にも同じ指摘をしたが、非を認めず直に謝ることをしない。

 得も言われぬ怖さを感じ、男女平等・同権の権利の裏側にある義務を果たそうとしない学長や議員の女性たちを見ていると、本ブログ20169NO.63(「おとこVS おとめ」)の話はあながち夢物語ではないと思ってしまう。男たちに則天武后や西太后を思い起こさせるようでは女性総理の誕生はますます遠のいてしまうのではないか(そうではなく、真の女性総理にふさわしい女性が少なからずいるが、奥ゆかしいから表に出ないだけなのか)

今パワハラ、セクハラに対するMe Too運動が盛んだが、それをよそに、男の私は違うことを考えている。正直女という者がよく分からず、権力を持たぬ女も怖いと思っている。

 社団法人に在籍の時、県からではない他からの出向者がバイトの女子大生と一対一で呑みに行き、店から出たところで女子の手をとり行こうと誘った。女子は何を勘違いしているのとか言って手を振りほどいた。それで終わったのだが、女子はトップに報告した。出向取り消しとなった。

 女子がとった行動は間違ってはいない。だから口にはしなかったが、「なぜいきなりレッドカードなのか。イエローカードというものがあるのでは?」と私は疑問に感じていた。

 今回の福田財務次官の問題も同じ。私が女性記者なら、4/4の件の後「セクハラは許せないので、もう会いません。これまでのはテープに録音済。今後も他の女性記者にも同じことすればテープを公開します」と次官にそう通告する。いきなりぶった斬りせず、芝居の「番場の忠太郎」のごとく、次官の反省の色がないことを確認してから、斬りすてる(女性記者にとっても、イエローカードでことが済むなら、財務省への出禁は覚悟しても、全官庁から敬遠される事態は避けられるのでは)

 なお、私が女性記者の父親であればテレビ局を許さない。夜に一対一で取材であれ何であれ女性にそんなことさせるのは、私が居た(20年以上前だが)銀行ではありえない。本来権力と対峙すべきメディア業界は、即刻協定?を結びそんな悪弊を止め、姿勢を正すべきだ。

 財務省は、一旦問題として公表されてしまったら、すぐ泣いて馬謖を切るべきだった。パワハラによるセクハラ(セクパワ)は、世界共通の正義の問題で問答無用。海外から日本の最強官僚組織がセクパワに無理解で日本は後進国と評されてしまった。省益を優先し国益を損ねてしまった。さらに女性記者に名乗り出られるものならとの態度は最悪だった。

福田前次官も、恥の上塗りになるようなこと、裁判は止めた方がよい。

世界的な数学者岡潔(1901年~1978)は日本の数学者では理解されず苦節数十年を経て海外で評価された大天才。数学の研究を終えると、日本はどんな国か、どう進むべきか書籍を多数刊行した。『日本民族』(月刊ペン社)を読んだだけでも歴史学者か歌人かと思ってしまう。とても同じ人間とは思えない。同じく数学者で『国家の品格』でお馴染みの藤原正彦先生も研究が一段落すると世のご意見番として活躍しておられる。福田前次官も高い能力を持つ者の使命を感じ、世に提言していくことが、不名誉を雪ぐ最良の策となろう。

最強官庁とは違い民間企業の職場では男は女に怯えているようにすら見える。私は何でもかんでもセクハラという今の風潮に違和感を覚えている。深刻な人種問題を抱える欧米を真似て職場の中までぎりぎりとセクハラ狩りをすることには賛成しない。たしかに、職場でもセクパワはあるだろう。昔銀行支店長にエレベーターの中で無理やりキスされた女子行員を私は知っている。職場内のセクパワも厳罰に処すことには異論はない。

しかし、例えば、イケメンで好意を持つ男子から肩に手を置かれ嬉し恥ずかしと思う女子社員に対して、それを見ていた(その女子社員が嫌いと思っている)別の男子社員が同じ事をしたとき、女子社員が上司にセクハラと訴えたら、それは正義の問題と言えるのか。

そもそもイケメンが肩に手を置かなければよいとなれば、殺風景な職場になっていく。

 私は思ったことをそのまま口に出すから、キレイと思えば「今日はとくに綺麗だね」と言ってしまう。それすらセクハラになるのか。ある弁護士は職場では一切容姿の話はしないと言っていた。冗談も通じないようなそんな職場は楽しいか。私ならそんなところで働きたくない。早く生まれてきてよかった。もう職場で働くことはないから。

 我が家は和やか。私が妻に「お~い、デブ!」と声をかけると、妻は「何よ、デブ、デブって。叩いて欲しいと思っているのね。今度言ったら100回叩いてあげる」と言い返す。妻は強くなったが、怖くはならない。職場も家族のように信愛があれば違うのだろうか。

 

2018.5増刊号 NO.94 かい VS  かい

  大阪地検が決裁文書の改竄問題で佐川前理財局長の立件を見送るとの報道があった。改竄部分は枝葉で核心の幹の所は変えていないからという。ならば、なぜ意味のないと思われる部分のために公文書改竄という前代未聞のことを財務省がやったのかに、戻ってくる。

 加えて、また加計問題がぶり返し、国会が空転したままだ。「連続国会空転事件」のドラマを見ているようだ。一視聴者としての私としても長い間みているとドラマの制作サイドが見えてきた。プロデューサーは官邸砦の3?(安倍首相、菅官房長官、今井総理秘書官)、ディレクターは、官僚道という踏絵を踏んでしまった、迫田元理財局長、佐川前理財局長、藤原前内閣府審議官、柳瀬前総理秘書官の4人。

プロデューサー兼主役の安倍首相の精神的スポンサーは、日本のマクダと称すべき櫻井よしこ女史、古参政治評論家の田崎史郎氏とI元経産官僚など。

 政権延命の為なら、ありえない解散総選挙まで噂さに上るが、精神的スポンサーのみなさんに、こう申し上げたい。「もうアンモニアで気付けするのはよして、タオルを投げてあげてはどうですか。」

 安倍首相は、父も、父方の祖父も、母方の祖父も、東大法学部卒で政治家。安倍首相は同じ道を進まず、神戸製鋼でサラリーマン人生を送っていたのに、無理やり政治の世界に引きずり込まれた。しかし、父を超えて総理になり、歴代総理の中でも長く君臨できた。もう十分ではないか。

 自民党反主流派は何を躊躇しているのか。本ブログ5月号NO.92(「かんりょう VS まんりょう」)で竹下島根藩と石破鳥取藩が薩長連合し、清和会幕府を討幕すべしと書いた。政権を奉還し禅定(岸田広島藩?)という形では、小泉首相からの流れを完全断ち切ることはできない。清和会幕府+岸田広島藩を想定して、竹下島根藩+石破鳥取藩を核とする反主流派が結集し9月に戊辰戦争を起こし政権を勝ち取らねばならない。戦争とは大袈裟だが、所詮国民が支持している(せざるを得ない)自民党というコップの中の嵐にすぎない。

 小泉首相は自民党をぶっ壊すと言って、経世会を壊し、政権を握ると、後継の安倍首相と相まって日本を壊した。国会を軽視、官僚制組織を歪め、失敗を認めずアベノミクスを無駄にふかし、日銀に機能不全の爆弾を抱えさせる。貧富の拡大により和の精神を歪める。米国への従属を深め、核兵器禁止条約不参加より世界から白い眼で見られ、ISから敵視され無辜なボランティアが殺された。北朝鮮にはロック・オンされてしまった。

 小泉首相の戦いは覇権を目的としていた。今回は正義の、救国の戦いだ。戦いと言っても本当の戊辰戦争のように血が流れる訳ではない。臆しているのかと見えるようでは、よくもそれで憲法改正、戦力の保持、交戦権の賦与などと言えたものだと思われてしまう。

 自衛隊は、「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域だ」と無責任極まりなくイラクに派遣された。こんな怖い目にあっていると言いたいところだが、首相に迷惑をかけてはと日報を無いことにして報告しなかった。そんな自衛隊員に対して、シビリアンコントロールを無視するのかと叱りつける。南スーダンの件も同じだろう。戦前の陸軍上層部となんら変らない。トップが代わっても自衛隊から心腹される存在にならなければ、軍隊に変わるとき自衛隊員は拒否反応を示すことだろう。

 

 私は佐川長官が詰め腹を切らされたとき、福田財務事務次官がどう出るか注目していた。(官邸に非があると思う)私なら、自らの部下に責任を押しつけ省の名誉を著しく傷つけた官邸を許さない。省のトップとして真相を知りうる立場にあるのだから反主流派の政治家と組んで倒閣させる。そんな折も折、次官のセクハラ問題が報じられた。セクハラ的言動は今に始まったことではないだろう。反官邸の動きを制するために報じられたのか。

そんな憶測記事が出ないところを見ると、単に個人の性癖の問題なのか。省の重大事にテープにとられたのは、改竄問題は自身に関係がないと気が緩んでいただけとするなら、何をか言わんやだ。官僚の象徴ミスター官僚がこの体たらくでは他の官僚は推して知るべし。

官僚は、政治家のように定期的に国民の審判を受けない。一度の国家公務員試験をパスすれば、身分が保障され、主権者の国民から全幅の信頼を得た(とする)公僕となる。

官僚がその本分を弁えることができなくなったのは、米国の従属に慣れきって劣化してしまったのか。それとも、東大を出ても民間企業では学歴の低い者に負けることもある。学歴が保障される“両班”の方がよいとする志の低い官僚が増えたということか。

 両班と同じと言うべきキャリア待遇は、雑用をさせず、学歴コンプレックスを持ち嫉妬心も強い変な上司に潰されない様にし、心置きなく大所高所から天下国家を、日本の来し方行く末を考えることに専念してもらうという趣旨だろう。

 キャリア官僚が事の是非も考えず官邸に隷従するだけなら、そんな特権ははく奪するべきだろう。国家公務員試験を一本化し、真の実力主義に変え、内閣人事局が公正・公平に評価するのがよいだろう。

 

以前から鋭く安倍首相を批判し続けている哲学者・時事評論家の適菜収氏の新刊『問題は右でも左でもなく下である』(KKベストセラーズ)P43にて、チャーチル首相の第二次世界大戦での教訓を次のように紹介している。

「そこで、敗れた敵に永続的な軍備撤廃を強制するのは戦勝国である。そのためには二重の政策を実行しなければならない。第一には、自分自身十分の軍備を維持しつつ、常に監視を怠らず、権威をもって旧敵国の再軍備を禁止する条項を強制すること。第二には敗戦国内に最大限の繁栄をもたらすような恩恵的行為によって、その国民を運命に甘んじさせるように努力し、あらゆる手段によって真の友情と共通利害の基礎を作るよう努力し、それによって再び武器に訴えようとする衝動を絶えず減らすことである」

天国にいるチャーチルは、今の日本を見て、思惑通りとほくそ笑んでいることだろう。米英に復讐などしなくていい。戦争もまっぴらだ。しかし、正しく、清く、自立した日本、日本人に戻ろうではないか。

 

 2018.5臨時号 NO.93 ゴーストライ VS ゴーストライ

 米国人気俳優ニコラス・ケイジさん主演の映画『ゴーストライダ―』は、人間と悪魔が合体したアメコミ・アンチヒーローの実写版。罪なき命から血が流れるとき燃え盛る火に包まれた骸骨とバイクの火の玉ライダ―に変身する。女が怒髪天を衝くほど怒ったとき相手を含め周りを大やけどさせるが、その時私はこのゴーストライダ―を想起する。

 余談だが、続編の『ゴーストライダ―2』では、『ラスト・ターゲット』でジョージ・クルーニーさんと共演した、私好みのセクシーな伊歌手兼女優のヴィオランテ・プラシドさんがケバイ母親役で登場していたのには吃驚仰天した

 GhostRiderが火の玉に変身するのには火をつけるLighterは不要だが、アイドルが本を出版するには代わりに書いてくれるWriterが必要。これをGhostWriterという。

 天然で知られる歌手松本伊代さんはアイドル時代自身の出版本について聞かれ、「まだ読んでいない」と答えたのは有名な話。しかし、誰もそんなものだと思っているので問題にならない。企業や団体でも、筆が立つトップは下が書いた駄文を自身の名前で出されてはと自身で書く。が、それは少数で、普通年頭の挨拶など下の者が代わりに書くものだ。本当にトップが執筆したかなど、掲載する雑誌側や業界紙側も気にもかけない。

 書くことを本業とする作家や作曲家になると大きな問題になる。2014年に発覚した佐村河内事件をまだ覚えておられる人も多いのではないか。その事件の全貌を記した『ペテン師と天才』(文藝春秋)で著者神山典士氏が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

 地に落ちた佐村河内氏と天才作曲家新垣隆氏との関係は、偶然時を同じくして2014年に全米で公開された映画『ビッグ・アイズ』とそっくりだ。ペテン師の画家の夫を相手どり妻が「大きな瞳をもつ子供の絵はすべて私が描いたものだ」と訴えた話。1950年代の実話で裁判に及んでも夫はペテン師らしくなかなか認めようとしない。裁判官は業を煮やし、その場でビッグ・アイズの絵を描けと命ずるに及んで妻の主張が認められるに至った。

 有名になればなるほど、世間を欺いているという罪悪感、表に立つものに対する不信感と嫌悪感、本来ならば自分がとの自負心などが煮えたぎり沸点を超えた時、ゴーストライターはゴーストライダ―に大変身する。

勝訴した妻のマーガレット・キーンは世間から歓迎され、ペテン師の夫は無一文で寂しくこの世を去ったという。同じように、世間を欺いたのは共犯であるが、その作曲家としての才能と優しい人柄で新垣氏は世間から受け入れられた。告白した後に完成した新垣隆氏の新作交響曲「連祷─Litany─」がクラシックの世界的名門レーベル「Decca」から世界配信されるまでになった。

ミュージカルの世界にもゴーストシンガーがいる。『マイ・フェア・レディ』や『ウエスト・サイド物語』、『王様と私』など往年の大ヒットミュージカル映画でゴーストシンガーを務めハリウッドを救った陰の立役者と呼ばれる、マーニ・ニクソンだ。1950年代の当時ゴーストシンガーの存在はタブーで本人も絶対口外できないし待遇もひどいものだったらしい。ただ、『王様と私』が公開される直前の19563月に地元紙に主演デボラ・カーが暴露して大問題になる。マーニと友情を育んだデボラがその境遇に同情してのことだ。

 その後映画が下火になると、マーニはニューヨークに進出し、ゴーストシンガーとしてではなくミュージカル舞台女優として活躍し続けた。後輩たちに多大の影響を与えたが、2016(86)に没しレジェンドとなった。

 

 書く仕事に隠し事がつきものだ。ゴーストライターは珍しくないとなると、作品の熱狂的なファンの想いは次のようにエスカレートしていく。別人が書いた可能性もある→別人ならあの人であってほしい→あの作品の作者は絶対あの人でなくてはならない。

 その代表例がシェイクスピア。河合祥一郎氏の『シェイクスピアの正体』(新潮文庫)では7つの別人説が検証されている。哲学者フランシス・ベーコン説、劇作家クリストファー・マーロウ説、第六代ダービー伯爵ウィリアム・スタンリー説。紅一点として第二代ペンブルック伯爵夫人メアリー・ハーバー説ら。

 こうした別人説が出てくるのは、田舎町出身の役者風情に王族や貴族を題材にした傑作を何作も創作できるハズはないという思いと蔵書も原稿も残っていないということにある。

 別人説を唱える者に頭の良し悪しは関係ない。チャップリンやフロイト博士も別人説を支持していた。中には、狂信的となり、全財産を亡くした医師や終いには気がふれた女性もいた。恋愛、宗教と同じで反対されるとさらに燃え上がる。人間の不可思議で怖いところだ。別人説に共通するのは、ひとえに不都合な事実は無視するか脳が反応しないことだ。

 写楽の場合もよく似ている。美術研究家ユリウス・クルトが1910年に発刊した名著『Sharaku』により、写楽作品の芸術性(大胆な構図や人物のデフォルメ)が絶賛されてから評価が一変する。生きた化石と同じだ。シーラカンスは、不味い魚と漁民に見向きもされなかったが、学術的価値があるとなると俄然脚光を浴びた。

そうなると、本ブログ201212月号NO.18(「マネ モネ」)に書いたが、元々江戸時代に作者を示す記述があったにも拘わらず、阿波の能役者に書けるハズがないと多くの別人説が流布された。その中には後述する写楽のライバルの歌川豊国だとする説もあった。

 江戸時代の庶民にとって、浮世絵はプロマイドみたいなものだから、写楽よりもライバルの歌川豊国の方が断然人気があった。写楽が1年も経たず消えたが、豊国は役者絵の第一人者として浮世絵の最大派閥となる豊国一門隆盛(国貞、国芳等輩出)の礎を築いた。今観ても芸術に疎い私には、豊国作、例えば『四代目市川団蔵の毛谷村六助』の方がだんぜんカッコいいと思う。一応の決着を見た今なら後出しジャンケンで何とでも言えるが、私には豊国が写楽になる必要性が分からない。

 評価が海外から逆輸入されたと言えば、北野武映画監督の作品も同じだろう。我が国では、任侠、バイオレンスのイメージが強く賛否両論の様相を呈する。私は北野氏を映画監督としてではなく、天才芸人として、その才能と遊んても糟糠の妻を大事にする人となりを称賛させてもらっていた(その北野監督に愛人?報道が出たのは残念。不可解に事務所から独立した北野監督と30年来の腹心森社長との反目に影を落としているのでは。殿命のたけし軍団は否定し、元軍団の東国原氏は「その件は訴追の・・」とふざけてはぐらかすが)

しかし、写楽と同様作品の独創性、芸術性がフランス等で高く評価されている。独立を機に映画製作も終わるなら、それも写楽とそっくりと言えば、しゃらくさい!と叱られるか。

 写楽と違い、シェイクスピアの別人説はまだ決着をみていない。22世紀に向かって論戦がまだまだ続いて行こう。しかし、高度に情報化された現代社会において、天才芸人ビートたけしと映画監督北野武とは別人だとする説は100年経っても現れないことであろう。

 

2018. 5 NO.92 んりょう VS  んりょう

 決裁文書の改竄が朝日新聞にリークされた件に関し、本ブログ前号No.91(「かいざん VS たいざん」)で、拙速にも財務省リーク説を採った。その後の報道を見ると大阪地検リーク説が有力になってきた。ただ、朝日新聞が情報源を秘匿している限り、財務省には悪いが、書き換えも訂正もしない。そのまま掲載し続けることにさせていただく。文全体の主旨、結論には影響しないことでもあるので。

 官邸からの改竄指示の有無について、財務省官房長は調査中としていたのに、3/27の証人喚問では、丸川氏の官邸等からの「指示」についての問いに対し、佐川氏は「指示」を全否定した。それでは、なぜ天下の財務省の中で前代未聞の決裁文書改竄がなされたのかについては(捜査対象の身だからと)佐川氏は答えない。「指示」がなかったとしても、官邸から「決裁文書にどうしてこんなに余計なことを書き連ねているのか。官邸に弓を引いているのか!?」と「詰問」されたとすれば、指示以上の改竄プレッシャーを感じたことだろう。

現時点の疑問は、昨年2/17の夫妻が関係していたらとの後戻りできない首相発言を受けて2/24の佐川理財局長が「学園との交渉記録は破棄し、残っていない」と国会答弁で強弁した後の記者会見で、なぜ菅官房長官が「基本的には、決裁文書は30年保存するのだから・・」と、佐川局長が口にしていない、問題の「決裁文書」にあえて言及したのか、ということ。

記録がないと言い張るなら、わざわざ改竄する必要はない。軽率な私と違いあの菅長官がそう発言した意図は何か。決裁文書を見せろ!と言われるのは明々白々なのに(2/17時点で首相の進退問題になっており改竄前決裁文書の内容を知らなかったとは考えにくい)

改竄前の決裁文書について官邸と佐川局長との間に事前協議があり、記録はないととりあえず時間稼ぎして、後で急いで改竄するということに決まっていたのか。その上で官邸は関与していないとのそぶりを見せたということなのだろうか。

 

 3/19に若手(3回生)のホープ齋藤健農水大臣の朝食セミナーに参加してきた。20年以上前にほんの少しよしみがあり、以前から『本音で語る朝食セミナー』の案内をもらっていた。10回目で初めて参加したのだが、予想をはるかに上回る400名前後が参加していた。私は年金生活者が場違いな所に来てしまったと感じた。

 齋藤大臣は挨拶の中で、平昌五輪で2連覇した羽生結弦選手の「ケガをしたから、金メダルが取れた」との発言に感銘を受けたと話していた。大臣自身も3年半の浪人生活があればこそ今日があると言うのだ。3年半の浪人生活を支えた人たちが本当の支援者なのだろう。私は何だか恥ずかしくなって、終了後大臣に挨拶もせずそそくさと会場を後にした。

 齋藤大臣は、自民党内で天皇の生前退位に最後までひとり反対し、どんなお咎めがあるかと思っていたら、はからずも農水大臣に抜擢された。理由は分からないと言っていた。私が推察するに、①極めて優秀であり、副大臣としての実績もある、②上記生前退位の件を見ても骨っぽい。従って③敵に回すより、ポスト安倍の石破茂氏をけん制する意味でも石破派に属する齋藤氏を大臣として政権内に取り込んでおく、ということではなかろうか。

参加者が聞きたかったであろう決裁文書の改竄問題には、安倍政権の現職大臣でもあり言葉を濁していたが、元通産官僚の立場から「官僚には官僚道があるハズだ」と述べた。

 

 私は佐川元理財局長が不運で気の毒だと思う。しかし、『葉隠』の山本常朝の「二者択一に際しては、死ぬ確率の高い方を選べ」 (本ブログ201712月臨時号NO.82「ぶし VS ぎし」ご参照) も思い起こす。佐川氏は、官邸の意向に逆らえば、左遷させられたに違いない。だが、今は大阪地検に起訴されようとされまいともっとひどい目に遭っている。

 官僚がヒラメになったのは、内閣人事局が出来たからと言う人がいるが、人事局の存在が悪い訳ではない。大企業に人事部がないところがあるのか。内閣人事局の役割は、例えば、内閣が外交を最優先課題とする場合、ある省がこれまで国内派から事務次官を出していたのを今回国際派から登用すべきと、その調整をする、あるいは、ある省で局長人事がある場合、武士道に似た官僚道を貫き、下からの人望も厚い者がいるのに、大した実績もなく上にこびへつらってきただけの者を傀儡として事務次官が局長に推挙することが仮にあるとしたら、それを正す、など人材の適材適所と人事の公正・公平を図ることにある。

問題は、政治主導の行政運営の実現という本来の目的から逸脱しているのではないか。官邸が、官僚道という踏絵を官僚幹部達に踏ませることを人事局にやらせているように見えることにある。隷従し、国民に知られてはいけないことを指示せずとも忖度して上手くやってくれる官僚だけを重用するためかのごとく。

 トップが官邸にそう指示し、あるいは黙認しているとしたら、官僚や官僚制組織をよく理解していない、甘く見ていた。それで自らの窮地を招いたと言うこともできようか。

TV歴史番組でもお馴染みの東大教授本郷和人氏の新刊『壬申の乱と関ケ原の戦い』(祥伝社新書)の中で、朝廷での出世コースが紹介されている。本筋のコースは、内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣とする。現代に置き換えると、幹事長(内大臣)→通産大臣or外務大臣(右大臣) →大蔵大臣(左大臣)→内閣総理大臣(太政大臣)となろうか。武家で初めてこの本筋のコースを駆け上ったのが明の臣下として日本国王を名乗った足利義満。現代では今太閤と呼ばれた田中角栄首相が挙げられる。田中首相はちゃんと段階を踏んで総理に上り詰めた。人心掌握術にたけ、官僚を押さえつけるのではなく、自身になびかせていた。

 内大臣から階段を飛ばし直接太政大臣になった格下のコースを進んだのが、「驕る平家は久しからず」の平清盛。今なら幹事長から主要大臣ポストを経ず総理になった安倍首相だ。

 民主党政権時代も同じことが言えるが、小選挙区制になり政権がオセロゲームのように簡単に与党から野党に変わるようになると、じっくり煮込まれず生煮えの総理が出来上がる。それで素材も悪いとくれば、それをありがたくいただく国民はたまったもんじゃない。

 

 佐川氏の証人喚問直後の週刊文春4/5(3/29発売)を見ると、『安倍政権「暗黒支配」と昭恵夫人の嘘を暴く』と容赦がない。3/30夜首相官邸前での大抗議デモを見て、総理は、5歳の頃岸邸前での祖父に向けられた日米安保改定反対デモの光景を思い出したことだろう。

直接関与の有無はともかく、モリ・カケ問題、裁量労働拡大法案での失態(官僚の忖度か士気低下か面従腹背か)等にて国会が長らく混乱、空転していることに対してトップとして自責の念があり、国民の信がなくなりつつあるのを痛感しているとすれば、安倍総理総裁が「任期満了時に政権を奉還する」といつ宣言してもおかしくはない。

それでも断固総裁3選に立つと言うのであれば、不利だとしても竹下島根藩と石破鳥取藩が合従連衡(薩長連合)して清和会幕府側と9月予定の総裁選決戦で戦うべきだ。象徴天皇は錦の御旗を授けることはできない。小泉進次郎議員がさしずめ竜馬となり国民の声援を背に自民党内で風を吹かせば、勝機は見えてくるのではないだろうか。

私は201951日に、明治維新ほど大きな変革ではないにしろ、“新元号維新”がスタートし、真の意味で、戦後レジームから脱却し、真珠のごとく白く輝く美しい国に向かって進んでいくことを期待して止まない。

 

2018. 4増刊号 NO.91 いざん VS  いざん

 故会田雄次京大教授が書いた『アーロン収容所』(中公新書)を遅まきながら読んだ。教授が学徒出陣し戦後2年間被武装解除軍人としてビルマ(現ミャンマー)の収容所に収監されていたことを初めて知った。1962年に発刊され今まで90回以上も改版されている。戦中派、戦後派等数多くの日本人に読まれたが、どんな感想を持ったのだろう。

 私は次のような感想を抱いた。著名な学者にとって隠してもよい過去をあえてさらけ出しても後世に伝えねばとの著者の強い思いを感じた。年初逝去した野中広務元官房長官が二度と戦争はしてはいけないと言い続けていたが、本を読んでその想いがよく理解できた。

私は、侵略戦争はしてはいけないが、守るべきもののためには戦う時もあるとの立場だが、戦争の生き証人がいなくなって行く今先達の戒めに心しなければと思いを新たにした。

 今年改版された同書のP140に、「戦前も捕虜中も現在(敗戦から17年後)もちょっとも変わりがなさそうだ。私たち日本人は、ただ権力者への迎合と物真似と衆愚的行動と器用さだけで生きてゆく運命を持っているのか。」と会田教授が述べている。それでは現政権に迎合する大衆、忖度する官僚がいても不思議ではない。権力者への迎合が変わらないとするなら、とりわけ日本の権力者自身が賢者でなくてはならない。

 GHQの将校が男女の営みを日本人のメイドに見られても何にも思わなかったという話を聞いたことがあった。同書にも、イギリス女将校が裸に近い状態のときに捕虜の日本兵が掃除で入ってきても驚かない場面が登場する。日本人女性が猫に裸を見られても恥ずかしく思わないと同じ感覚なのだ。ビルマ人にとって、同じ支配者でも、家畜扱いするイギリス兵と横柄でも人間扱いする日本兵に好感を抱くのは、ごく当たり前のことだと思う。

 単純かつ短絡的な私は、読み終わって、日本が米国に従属し、日本人がそれに慣れきってしまったことを思い起こし、本来の日本の、日本人のあるべき姿ではないと思い直した。

 1956度の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われたが、それは経済に限ってのこと。戦後70数年を経ても、まだ戦後は終わっていないと思い至った。

 

 米朝の対立に関し、本ブログの201711NO.78(「しゅうじん VS きゅうじん」)で、鼠(北朝鮮)に翻弄され猫(米国)の髭が切れて威厳を損なって終わるかもと書いた。狡猾な鼠とジャイアン似の猫が対等で核保有国同士のトップ会談をするとなれば、当たらずとも遠からずと言える。もっとも軍産複合体は儲けたと言わないまでも、元は取った。日本に核・ミサイル防衛関連機器を高値で購入させた。

 やはり、米朝対立は茶番だ。シナリオがあろうとなかろうと。戦争の兵力としては前世紀の遺物。環境の時代の21世紀の戦力は、サイバー攻撃、AI軍事技術・兵器、国際条約で禁止の生物・化学兵器となろう。軍産複合体は無用の長物を巨額の既得権ビジネスとして持続させるために、核の脅威を演出する。北朝鮮の非核化と言っても、米国まで届くICBMの開発を中止させるだけで、2060ある北朝鮮の保有核は見て見ぬフリをするのではないか(猫に丸腰にされた鼠は猫が豹に変わった場合もう窮鼠にはなれない。それでは会談は実らない)。核・ミサイルビジネスにとっては核の脅威の火種は残しておかねばならない。

また、平昌五輪の参加を機に北朝鮮が挑発から対話に舵を切り出したと見るや、危機回避ムードに水を差すかのごとく、米国は新型の小型核兵器(戦術的核兵器)等でロシアを挑発し新たな核の脅威を演出しようとした。

核の脅威が演出される度、馬鹿を見るのは今回もそうだった日本だろう。軍産複合体の眼には、トランプ大統領に追従する安倍首相の背中にネギが背負われているのが映っていることだろう。

 日本が北朝鮮に名指しで非難する対象は拉致問題だ。核問題で圧力をかけるべきなのは、北朝鮮だけではなく、米国もロシアも同じだ。

 やはり、核を持つべきではないし、持つこともできない日本が採るべき選択は、核兵器禁止条約に参加し、非核EU諸国たちと一緒になって核廃絶を目指して行くこと。それこそが、唯一の被爆国としての使命と国益に合致するものだと思う。

 本ブログの20162 NO.56(イツ VS イツ」)で、戯言だが“平和大三元論”を述べた。今の白牌(日本)は(米国)の青いタトゥーが刻まれ、美しくない。タトゥーを削り、真珠の輝きをとり戻そう。そして牌と対等になろう。しかし、現世界覇権国(最強軍事力+最上経済力)の發牌と次の世界覇権国を狙う中牌(中国)の狭間にある。NO.1を目指せば、両雄並び立たずの牌と牌が手を組み麻雀ゲームから白牌を追い出すだろう。白牌は美しく輝くOnly Oneになろう。それでも役満・大三元 (世界平和)には發牌と中牌と並んで白牌が不可欠という存在になろうではないか。

 

国内に目を転じれば、大企業トップが保身で不正を深刻化させる。政治家が我が身可愛さで首相にNOが言えない。最後の砦、日本の頭脳・財務官僚が公文書改竄、世も末だ。

今の財務官僚には大蔵時代と違い官庁中の官庁として自分たちが国を動かすという気概が見られない。なぜ賢者ならまだしもそうでないトップに隷従みたいなことをするのか。

朝日新聞に改竄をリークしたのは、大阪地検か財務省内部のどちらかとの憶測が飛び交っている。その中で、疑われている大阪地検が、わざわざ「電子鑑識で改竄後の文書であることは分かっていた」と後出したのは、地検の面子を守ったということだろう。

本省か近畿財務局(以下「近財」)かどちらかが(義憤の)リークをしたと私は見ている。首相夫妻に纏わる特例案件に対し、近財は、面従腹背し、決裁文書に本来残すべきでない特例事柄を書き連ねて近財組織全体で保身を図ったように私にはそう思える(昨年2/17に夫妻が関係していたら首相・議員を辞めると首相が後戻りできない発言をしてしまった後、何も知らない佐川理財局長が同2/24に国会答弁する為に改竄前の決裁文書を見たとしたら、驚愕したに違いない)。国益を損ない、いくらなんでも無理があると思うのであれば、近財は、腹をくくり、メディアに(正義の)リークをして潰してしまう方がよかったのでは。結果として、自分たちも守れず、財務省全体の権威を大きく傷つけてしまったのであれば。

 

詰め腹を切らされた佐川国税庁長官が辞めて、「大山鳴動して鼠一匹」では終わらない。自民党で唯一首相にNO言い続けた村上誠一郎議員は「問題の出発点は安倍首相」と公言したが、今回は世論も同調している感がある。佐川氏の証人喚問がなされても真相解明が進むとは思わないが、加計問題でも今治市文書改竄が取り沙汰されている。首相から人心が離れていくのは避けられない。安倍政権は泥舟になり、鼠が逃げ出していくだろう。

 新しい首相が誕生すれば、ぜひ上記白牌を目指してもらいたいものだ。ただ、現在の日本が米国に従属している状態からすぐさま抜け出せるものではない。

 しかし、我々日本人一人ひとりの心持ちは変えることができるハズだ。敗戦を契機に、過信・盟主意識→自虐・属国意識に180度方向転換してしまった。国や会社の事ではなく、自身の事しか考えない。90度だけ元に戻そうではないか。

 

 

 

2018. 4  臨時号 NO.90 やく VS やく

 昨年の流行語大賞で「ちーがーうーだーろー!」が候補としてノミネートされた(結果は落選)。「違うだろ」は男言葉だと思うが、豊田真由子前議員はこの言葉で男性秘書を叱り、手も出したという。横綱と同様品格が求められる国会議員が、育ちも悪くないだろうに、なぜ女言葉で「違うでしょ!」と言わなかったのか?

 彼女独自の個性なのか。それとも、国会で男性議員に負けないためにそういう言葉使いになるのか。やくざに対峙する刑事がやくざと同じ風貌になっていくのと同じなのか。

 ジェンダーフリーが進化しても、生物が雌雄同体からオス・メス分化の道を選んだ生物学的性差は否定すべきではない。将来人工子宮ができ女が子を産まなくなっても千年万年単位では染色体のXXXYが変わるものではない。

男女同一の政治家口調ではなく、女性らしい語り口で、しかも言うべきことをしっかり相手に伝える(拉致問題で拉致被害者の兄蓮池透氏と対立する)中山恭子議員の話し方に、女としての自信と奥深さを私は感じる。女の強さは、腕力ではなく、芯の強さと心得る。

 日本では、女らしさを求めているのは我ら男だけではなさそうだ。小池代表が「排除します」、「さらさら・・」と発言して風向きが一変し、希望の党は先の衆院選で惨敗したのは記憶に新しい。師匠の小泉首相なら大ウケする同じ手法をとっただけなのに。隠れ男尊女卑主義者だけならこんなに酷い負け方にはならない。女性選挙民も、いじめられている弱い立場の小池さんを応援するが、権力者の顔を見せた小池さんにNO!をつきつけた。

 某ジャーナリストによるレイプ被害を世に告発した女性に対して、その勇気を褒めたたえる意見だけだと思ったが、予想に反して、“女だてら”にと批判する日本女性が少なくないらしい。それも年配の女性だけではないという。男尊女卑でレディー・ファースト(リスク回避で女を前に行かせた)に女たちが反旗を翻した西洋とはすこし趣が異なる。

上述の豊田前議員も不倫問題で民進党を離党した山尾志桜里議員も東大卒。頭もいいし弁舌も立つ。攻撃する場合は舌鋒鋭く責め立てるが、自らが攻撃されると雲隠れしたり説明責任を果たそうとしない。男でもそんな態度をとる者がいない訳ではないが、女々しいと生き恥をかき、出馬もままならない。両女性議員はいざとなると女性(の甘え)が顔を出す。それに対して、男たちは「しょうがないなぁ」と言って追及の手がつい緩んでしまう。

日本には、映画『女神の見えざる手』のロビイスト女主人公みたいな、知力、強気、ち密さを兼ね備え、夜も眠らず働きチームを牽引する、男勝りなスーパーウーマンはいないようだ。東大法学部を首席で卒業し財務省に入省した経歴をもつ超エリートの山口真由弁護士(以下「山口女史」)がいる。著書『リベラルという病』(新潮新書)を読んだが、さすが才媛と思わせる。それでも、映画の女主人公みたいにはならない。

同じ年に生まれた中で最も頭の良い者が大蔵省(現財務省、今般決裁文書改ざんで権威失墜したが)に入省すると言われてきた。キャリア官僚は、受験勉強を何時間したとかは隠す。努力する姿は他人には見せないという。頭が悪いと思われるから。そんな人たちが昼夜問わず国の為に猛烈に働く。山口女史はそんなスーパーマンの巣窟から早々と抜け去り、一キャリアウーマンとして生きる道を選んだ。119時間半?受験勉強し、教科書を7回読んだと公言する。そんな山口女史だが、美貌と相まって、メディアからも引っ張りだこだ。

日本の男性が女性に甘くなる。それは女性蔑視になるのか。そうとは思わず愛しみのように捉える私は、絶滅危惧種ではなく、すぐさまあの世にワープされるべき罪人なのか。

 

日本では、男女平等が進まない。女性議員が少ない、と言われる。西洋と違い、宗主国中国の則天武后、呂太后ら悪女を見て女権力者を忌避し、韓国と同様儒教等で女を権力の座から遠ざけたのでは。とくに日本は「大和撫子」に仕向けた面もあるのではないか。

サッカー日本代表女子チームの代名詞(なでしこJAPAN)にもなっているが、ナデシコの花に喩え、清楚で美しい女性が日本の美徳とされてきた。その中に奥ゆかしさも含まれているが、それが日本女性の世界に類を見ない特質になった。女性の社会進出の遅れの一因かもしれないが、そのためになくなってもよいとは思わない。

その奥ゆかしさを備えた日本女性を日本男性だけではなく外国の男性も少なからず惹かれているのも事実だ。日本男子を対象とした?2014年マイナビウーマンのアンケート調査で回答した男子の68.2%が大和撫子タイプの女性と付き合いたいとしている。

ならば、男性がそれを望むなら、愛されたいと思う女性は大和撫子を目指すのかもしれない。この選択は、国が介入できない個人の幸福追求権の範疇だ。

涙腺が緩い私など涙なしでは読めない短編集・山本周五郎作『小説 日本婦道記』(新潮文庫)に登場する、夫や子の為に清く健気に生きる武家の女性のような、古風な女性はもういないだろうが、内助の功に努めたいとする専業主婦は少なくないのかもしれない。

そんな女性にとって、政府の打ち出した「一億総活躍社会」には戸惑いを覚える。家事だけでは活躍にならないのか。専業主婦になりたい女性は“仕事の嫌いな人”とのレッテルを、キャリアウーマン以外からも、貼られてしまうのか。

女性社会進出の後押しを謳い文句とする「一億総活躍社会」は国民が望む「一億総幸福社会」を確約しているわけではない。夫(正規雇用800万円)+(専業主婦) →夫(正規雇用400万円)+ (非正規雇用300万円) or (非正規雇用300万円)+(非正規雇用300万円)に時代が変わってしまったら、幸福と感じるだろうか。

長年の無策のツケを女性に押し付けるかの如く、全体主義戦前日本の国家総動員法みたいに、「皆の者働け!」と上から目線で言う国に対し、主権者たる国民を代表?して一主婦が日本死ね!とオヤジ言葉で反発した。家事と育児だけでも大変なのに生活の為に働かざるを得ない主婦やシングルマザーの悲痛な声も代弁して。

 

ここまで書いたが、幾つ問題があったろう。ジェンダーフリーに盾突く。LGBT(性的少数者)が抜けている。女々しい、男勝りは差別用語。ツッコミどころ満載だ。山口女史が上述書籍で書いているように、米国ではレッドハージならぬPCパージの嵐が吹き荒れているという。日本ではPCと言えば、まだパソコンを思い浮かべる人が多いだろうが、米国ではポリティカル・コレクトネス(政治的に正しい)のことを指す。ポストマンはダメ。ポストウーマンもダメ。ポストマン・ウーマンもポストウーマン・マンも正しくない。「どうすりゃいいのさ、この私」と『圭子の夢は夜ひらく』の替え歌でも口ずさみたくなる。絵に描いたようなエリートキャリアウーマンの山口女史でも、今の米国は息苦しいと言う。私のブログなど米国では直に差別主義者と大炎上するだろう(別段世の中が困ることはないが)

老人介護を扱った犯罪小説『ロスト・ケア』で一躍有名となった葉真中顕氏のSF短編小説『政治的に正しい警察小説』(小学館文庫)のように言葉狩りがエスカレートしていけば、どうなるか。神しか言葉を発することはできないだろう。

いずれ、日本へもPCパージが飛び火してくるかもしれない。しかし、狂信的な行き過ぎたことまで米国に追随する必要はない。セクハラ撲滅は当然だが、ハリウッドの騒動は仏映画大女優カトリーヌ・ドヌーブ女史に行き過ぎではと窘められた。人種差別に苦しむ国を、憐れんでも、真似するべきではない(英語で論文を書く先生方には同情申し上げるが)。キリスト教でも普及・定着しないのだから、まぁ大丈夫か。日本が言いなりになっている暴君トランプ大統領がこのPC問題で日本に迫ってくることもあり得ないことでもあるし。

 

2018.4  NO.89  なんった VS  なんった

春と言ってもまだ肌寒い昼下がり、とあるインドカレー店にて。

A:「ナン喰った? B:「今なん言った?

A:「ナンを食べたのかと聞いた」B:「そうだよなぁ。何釣ったかと聞こえた。どうして

 昨日釣りに行ったのを知っているのかと思った」

A:「バカか? 知る訳ないだろう。それでナンは喰ったのか?

エイプリルフールではないけれど、週刊文春連載中の宮藤官九郎さんのコラム『いまなんつった?』をヒントにちょっと言葉遊びをしてみた。

(諸説あるが)本場インドからではなくイギリス海軍(海上では曜日の感覚がなくなるので毎週木曜がカレーとのこと。日本の海上自衛隊らは金曜日)から伝わったとするカレーは、今や国民食。大人から子供まで、もちろん私もカレーが好きだ。すこし、自身の華麗ではないカレー生活の変遷を振り返ってみる。

子供の頃、母の作るカレーは、かつお出汁に小間切れの牛肉で、とろみは片栗粉でつける和風カレーというべき代物であった。昭和47年前後の大学生の頃、高校も同じ同級生に明石にあるご自宅にお呼ばれした。店屋物ではなく家で揚げたとんかつが乗ったカツカレーをふるまってもらい、リッチだと思った。その折その同級生の許嫁も同席しており、彼我の境遇の差を感じざるを得なかった。

社会人となり、一人住まいしていた時、本格的なものではなく市販のルーを使ったカレーをよく作ったものだ。ハウス食品のジャワカレーの辛口が好みで、角切りの牛肉、ニンジン、じゃがいも、そのほかにセロリ、ローリエ、リンゴか梨のすりおろしを入れていた。仕上げにコーヒーの粉末を少量加えた。

 結婚し、子供がまだ小さい頃、妻に飼い馴らされた3人の子供たちは、「ヒデキ、感激!」でお馴染み (古すぎるか?) のバーモントカレーで作った妻のカレーの方を好むので、家でカレーを作ることはなくなっていった。妻の作ったお子ちゃまカレーは食べず、妻から可愛くない!と言われながらもレトルトを食べるか外食していた。

中高年になると、成人病が気になり、欧風カレーよりもさらっとしているインドカレーをより好むようになった。最近になって同じインドカレーと言っても、主として北インド料理と南インド料理があると分かったが、当時は違いなど理解していなかった。

辛さに強いわけではないが、結構辛いインドカレーを食していた。勤務地の最寄りの店にランチで出かけて行った。三越前にいるときは、『フジヤ』。当時は店主の息子と手伝いの母親で営むインドカレーの店。カウンター越しの親子の諍いは要らぬスパイスだと思った。雪が谷大塚では、『ヤーマ・カーマ』。スパイシーチキンカレーは辛くて辛いぐらい。でもこれを食べずしてこの店を訪れることは沽券に関わると思っていた。

しかし、前立腺肥大になって(後に前立腺がんも判明)からは辛いカレーを食べることができない。未訪の、激辛インドカレーで名の通った祐天寺『カーナ・ピ―ナ』や某歌舞伎役者が贔屓にするという福岡天神『ツナパハ』には残念ながらもうチャレンジできない。

前立腺と古狸の妻にはとにかく刺激を与えないのが鉄則。それで辛くないカレーを食べることになり下がるのだが、毒を吐かない時の私のようで物足りない。そこで大学生のとき感じ入ったあのリッチなカツカレーを思い出し、カツカレーの名店巡りと相成った。

かつてDancyuの特集『日本一おいしいカレーをあつめました』でカツカレー部門で取り上げられた町田の『リッチなカレーの店アサノ』に行くことにした。町屋は近いが町田は遠い(カツカレー1,450円と同程度の交通費がかかる)。そこで小旅行を仕立てた。まず、カリスマラーメン女店主で高名な『雷文』で昼食をとり宇都宮節子店主の尊顔を拝したあと、版画美術館に立ち寄り、その後南町田に出て映画を鑑賞したあと、町田に戻りようやくアサノでカツカレーを賞味した。さらさらのポークカレー。イタリアの国旗の色のように人参、インゲン、ポテトが一ずつあしらわれ、日本一かどうかは別として、カツもさくさくで胃にもたれないのはさすがだ。カツが1cmもない幅で細切りカットしてカレーにのせているのは、地元向島の洋食『牧野』を思い出す。食べやすい細切りカツにすることで、芸妓さんたちが着物を汚さずに済む心遣いなのだが、残念にも数年前閉店してしまった。

下北沢にあるタレント松尾貴史氏の店『般゜若(パンニャ)』にも行った。さらさらのインド風カレーにイカ墨を混ぜたパン粉で揚げられたトンカツがターメリックライスに乗ったマハーカツカレー。私が理想とするカツカレー(インドカレー+とんかつ)に近い。

カツカレーの名店はどこともトンカツが分厚くない。あくまで主役のカレーを喰ってはいけない(トンカツのカレーソースがけとは違う)

千円未満の手頃なカツカレーでは、新御徒町『サカエヤ』(さらさらのポークカレー)を贔屓にしていた。「色々野菜のせイベリコ豚のカツカレー膳」の神保町『TAKEUCHI』にもよく寄る。カツカレーのほか、煮込みハンバーグカレー膳には、素揚げの野菜が多く盛られ、具だくさんの豚汁もつきコスパは最高。行きつけの店として外せない。

ちなみに、チキンカツカレーなら、恵比寿『焼きとり鶏梵梵』や秋葉原『たつみ屋』(マウンテンチキンカツカリー)に足を運ぶ。

 

しかし、そのカツカレーとも別れる日は思いのほか早く来た。“好事魔多し”ではないが、前立腺がんの放射線治療から数年経ち、前立腺肥大は残るものの違和感、不快感が薄れたことをよいことにハイになり、カツカレーや他のごはんものを好きなように食べていた。すると、尿酸値とともに血糖値が上がってしまった。痛風は、痛いがサーモスタットのようなもので怖くない。サイレント・キラーの糖尿病は癌と同じで忍び寄りたちが悪い。糖尿病を心配する者にとって、チャーハン、オムライス、カツ丼と並んでカツカレーは悪魔の食べ物。糖質、脂質、カロリーと三拍子揃う(それだけにめっぽう美味いのだが)

本ブログの本年2月臨時号NO.86(「はいじゅ VS はいじょ」)で、美味しいものを食べるのを捨ててまで長生きしようとするのは糞喰らえだ!とイキがったが、正直糖尿病は怖い。銀行の組合専従をしていたとき、両目を失明しかけた人のところへ見舞金を持って行った。歌手の故村田秀雄が下肢を切断したことは有名な話だ。

武士なら二言はないところだが、軟弱にも舌の根も乾かぬうちに宗旨替えした私はカツカレーの名店巡りに終止符を打つことにした(溜池山王『まさむね』のカツカレーは、以前すごい行列で断念した。それが心残り)

これから先は、スープカレーでもと銀座にある『イエロースパイス』や『札幌ドミニカ』に行ってみた。サラサラ好きと言っても(カレーを飲み物と称するデブタレさんでなくとも)飲み物みたい。俳優の故阿藤快ではないが「なんだかなぁ」

亡き母が晩年「歳はとりとみない」(神戸弁or播州弁の、歳はとりたくない)とよく口にしていた。その気持ちが理解できる年齢になってしまった。

 

 

 

 

2018.3 臨時号 NO.88 そ VS 

 私は嘘をつくのが好きではない。だから嘘はつかないと言えば、嘘をついたことになる。私はよく無邪気な嘘をつき妻をからかう。嘘ばかりで信用できないと妻から言われている。

 他人に嘘をつくのはお天道様が見ているとか、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるとかは思わないが、保身の為の嘘は自らを蔑む。以下に述べる体験も嘘をつくことを躊躇させる。

社団法人にいた頃トップは私より数段記憶力がよい人だった。過去の話をしているとき私の方が正しいと思っているのだが、こちらがすぐには具体的に思い出せないので、自分の方が間違っているという形で決着するのが口惜しかった。後で思い出しても後の祭り。

こんな具合だから、嘘などつけば後になって矛盾を指摘されることになる。それだけで済まず、「なぜあの時嘘をついたのか」と詰問される。こちらは嘘をついたこともよく覚えておらず返事に窮してしまう。嘘をつくとずっと覚えておかないといけないので、面倒だ。頭のよくない者は正直に限ると悟ったものだ。

 嘘をつくよりも、嘘をつかれるのは、もっと嫌い。医師は大勢の患者を相手にしているので、前何を話したことなどいちいち覚えていない。こちらはよく覚えているので、矛盾したことを言われるとコノヤロー!と腹を立てる。口には出さず、行かなくなる。

癌が不治の病だった頃、医師は患者に癌とは言わず別の病名を告げ、嘘をついていた。今は、告知するのが原則になっているが、却って死期を早めるからとの家族の意向で患者本人に癌と告知しない場合もある。それを嘘ついたと言っては医師が気の毒だ。「故あって本当のことを言わない」だけなのだから。

「嘘も方便」と言われ、糞は大便と呼ばれる。共に嫌われものだが、時には役に立つ。金文学氏は『日中韓 表の顔 裏の顔』(祥伝社黄金文庫)で、「糞」は「米」と「共」に「田」にあるという意味の漢字だと紹介している。糞は水田の肥やしになる。「便」が「便益」になるのだ。嘘も、人間関係を悪化させるだけではなく、人間関係の潤滑油にもなりうる。

 

政治家は、嘘をつく仕事と言えば言い過ぎだが、嘘がつきものだと思われている。確かに沖縄北方相を見ていると正直すぎるのは政治家に向いていないのかもと思い至る。

政治家の嘘には二種類ある。国民のために今は知らせない方がよいと思う場合などは嘘とは言わず、「政治的発言」をしたと理解される。政治家個人の保身で嘘を言う場合は「保身的ウソ」(以下「ウソ」という)をついたと糞害と同じ汚いものと見下されるべきだ。

 モリ・カケ問題では、安倍首相が、政治的発言ではなく、ウソをついたと国民に疑われ、内閣支持率を大きく下げた。相手の欠点ばかり見る私とは違い、日本人の大勢は他人の長所に眼が向いているものだが、さすがにこの疑惑には皆が怒った。

 嘘をつくとき、相手に嘘をついていると思われては嘘をつく意味がない。私の妻は嘘をつくとき笑ってしまう。社団法人に居たときある会員は嘘をつくときいつも小声になった。

安倍首相は平然と嘘をつくようには見える。ネット上ではアンチたちに根っからの嘘つきみたいな書かれ方もされている。その根拠と思われる、野上忠興氏の『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)を読んだが、首相の乳母兼教育係であった久保ウメさんも、著者も、そんなひどい言い方をしていない。私も、子供の頃よく「嘘つきは泥棒の始まり」と母親に叱られていたと思うから、子供はそんなものだ。私もアンチの一人ではあるが、生まれつきの嘘吐き呼ばわりするのはフェアではない気がする。

嘘つき呼ばわりされてもある面仕方ないと思えるのは、故佐藤栄作首相の方だろう。核持ち込みの密約がありながら非核三原則を高らかに唱えた。が、裏で非核三原則など無意味と言っていたというなら。それでノーベル平和賞もしれっと受賞しているのであれば。

安倍首相の嘘は、練りに練って吐かれた能動的な嘘ではなく、短気・強情な性格による相手の意見・攻撃に対して「即否定」するという防御的「ウソ」に過ぎない。宿題はと聞かれると「した」と言い、傘は忘れたと聞くと「忘れていない」と反射的に答える。

首相になっても、森友学園問題では「関係していない。夫婦で関係していたらすぐに首相を辞任する」と言ってしまう。加計学園問題では、加計学園が国家戦略特区の獣医学部新設に関わっていることを知ったのは、今治市とともに申請が決定された昨年の1/20だと答弁し呆れられた。すぐにウソをついていると思われることを言ってしまう。

完全犯罪ほどではないとしても、ウソをつき騙しとおすことは、容易ではない。とくに今の首相発言がメディアに半永久的に保存される時代にあっては。発言の矛盾をメディアからすぐに指摘されてしまう。

不倫問題で見るように、政治家や芸能人の不倫が雑誌社等に追及されると、動揺してついウソをつき否定しまうが、認めるまで傷口をさらに広げられ塩をすり込まれてしまう。

 君子危うきとウソに近寄らず。政治的発言は避けられないとしても、ウソをつかざるを得ない状況を極力つくらないことが肝要だ。モリ・カケ問題(ソバだけでなくスパも浮上)も、「李下に冠を正さず」(信用を旨とする、銀行に「お金をごまかしてはならない」、警察に「物を盗んではいけない」、との内部規定などない。それなら当然憲法に「首相は不正をしてはならない」との条文はない。疑われた時点で失格と戒めているのだ)と直諫できる人が周りに居れば、あるいは諫言に聞く耳をもっていれば、首相としての信頼を急激に損ねることにはならなかったであろう(真相はウヤムヤのまま。いくら芸人と交わっても芸人とは違い、オフホワイトではなくダークグレーのままでは信頼回復はそう簡単ではない)

 切れ者でうるさ型の後藤田官房長官を大家老とした(敬仰している訳ではないが)中曽根大勲位とは器が違うと言わざるを得ない。

 嘘でもいいから聞きたいが、無理というものか。「26年全うできるのは望外の幸せ。優れた先輩総裁達も連続2期を守った。3選をお膳立てしてもらったが辞退したい」と。

 

トルーマン米大統領はウソをつき通した。

副大統領だったトルーマンはフランクリン・ルーズベルト大統領が急逝したために心の準備もなく大統領に昇格した。原爆投下は軍の主導で進められており、それを拒否する選択肢はトルーマン大統領にはなかった。一昨年放映されたNHKスペシャル『決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~』に見るように、歴史の検証が進み、広島に原爆投下されたときトルーマン大統領は事の重大さを知りひどく後悔していたとする。その段階で原爆使用の中止を命令しておれば長崎だけでも投下されることはなかったのだが。

自身が犯した大きな過ちを素直に認め懺悔すればよかったのだが、「原爆の使用は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うために必要だった」と強弁し、自らを正当化した。そのウソがひとり歩きし米国の公式見解となっていった。

その代償として、トルーマンは、二人のアドルフ(ヒトラーとアイヒマン)と並べられて有史上最も残虐非道な人物との烙印を押されてしまった。

唯一擁護する米国市民においても、今の若者の間では原爆投下の必要性に疑問を感じ始めている。大統領のウソは末代まで祟る。

 

2018.3 NO.87  VS 

  2/9より平昌オリンピックが始まる。米朝対立は冬季五輪中休戦状態となるか。バランピックが終わる3月中旬以降、また北朝鮮が核・ミサイルの実験を再開するかもしれない。

私は過去本ブログの20175NO.71(「ロクサン VS ロクヨン」)、同11NO.78(「しゅうじん VS きゅうじん」)等で書いたように、米朝の軍事衝突はないという立場にいまだ変わりはない。米国は中国の了解なしに北朝鮮を攻撃できない。中国は了解しない。北朝鮮の金正恩党委員長は愚かではない。たとえ狂って米国への攻撃を命じても軍幹部は従わない。家族、一族もすべて地球上から抹殺されるよりも暴君の排除を選択するだろう。

ただ、責任ある立場の政府が万が一の場合を想定し韓国在留邦人の救出の検討をすることは理解できる。昨年11月頃BS番組で元駐韓大使と防衛大臣が話をしていた。自衛隊が在韓邦人を救出するには韓国の承認が必要だが、それがネックと。防衛大臣はまだ韓国側と了解に至っていないとした。韓国側は、自衛隊が入国するのを嫌い同意はしないだろう。それで今、北朝鮮内で有事があった場合を想定して、在韓米人を救出する米軍艦にコバンザメのようにくっついて救出することを検討しているという。

米国なら、韓国でなくてもどこでも承認などとらず自国民を救出するだろう。いきなり主権侵犯せず事前承認を求めて断られたとしても、救出に向かうと思うが。

 日本は、紛争地での海外邦人の救出・保護を目的に自衛隊を派遣できる前提として、次の3要件を設けている。①相手国が公共の安全と秩序を維持している(戦争状態にない)こと。②相手国の同意があること。③相手国の関連当局との連携が見込まれること。

 北朝鮮軍と韓国軍とが偶発にしろ韓国内で戦争状態になった時、上記3要件の①に抵触し自衛隊は②③の韓国の同意の有無に関わらず在韓邦人の救出に向かえない。なぜか? 憲法第9条第2項に抵触する。北朝鮮が韓国日本人村を包囲したとき救出するには北朝鮮軍と交戦状態になることは避けられないが、それは憲法違反となる。

 安倍政権は散々危機感を煽っていながら、本ブログ201711月増刊号 NO.80(かいVS かいん」)ABE主義と批判した安倍総裁私案は自衛隊明記を加憲するだけ。適切な喩えではないが、相撲親方に内縁の妻がいるとする。正妻になれば妻本人にとってはめでたいが、従前と変らず弟子の世話や親身に相談に乗る、おかみさんとしての役割を果たせないなら、弟子にとって何の意味もない。安倍総裁私案に「ありがたい」とあえて媚びた?発言をした自衛隊幹部は何なんだ。心ある自衛隊員は複雑な思いをしているだろう。

 在韓邦人はどう思っているのか。私なら、こう声をあげる。「海外邦人は、戦前日本にあった(意味合いは違うが)二等国民なのか」「海外邦人の命より、憲法9条の方が大事なのか」

 生半可な知識もない、ド素人の私は、自信を持って怒ることはできないが、なぜ自民党議員だけではなく政治家たちは憲法改正論議に際し海外邦人救出問題をよく国民に目に見える形で議論しないのか。それを不思議に思う。

 本ブログの201611NO.65(「アイヒマン VS アイスマン」(1) (2))で触れたが、ノンフィクション作家門田隆将氏が『日本遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』で数々の紛争事件での海外邦人を置き去りにしてきた薄情とも言える不甲斐ない日本政府の対応ぶりを批判・問題提起している。なぜ政治家は真摯に受け止めないのか。

 

安倍首相に、戦闘地域に海外邦人が取り残されたら、伝家の宝刀・国家緊急権を発動するという覚悟があれば、話は別だ。時間の猶予もなく首相が決断し、紛争地における邦人を救出するため首相が自衛隊の政府専用機で救出に向かう。たとえ憲法違反に問われ政界を去ることになっても、他の政治家から手本・鑑と崇められ、国民から英雄と長く後世に語り継がれれば、それこそが政治家としての本懐というものだろう。 

 自民党改憲案にその国家緊急権を改憲案に盛り込もうとしている。GHQに押し付けられたから改憲と言っていたのに今やその米国への従属を一層深めている。それなら自民党に改憲を急ぐ理由はないハズ。憲法9条は当て馬で国家緊急権が改憲の本命との見方もある。

しかし、月刊『新潮45』の今正月号で、橋爪大三郎氏は、「国家緊急権」とは何か、と題して、国家緊急権は憲法の条文に明記しない方が良いと言う。条文に入れれば、安易に、しかもなんでもありになり、その反面責任が追及できなくなるとして、国家緊急権は憲法違反にしておくのがよいとする。まったくもってその通りだ。海外邦人の救出など本来の目的ではなく国民をがんじがらめにすることに利用されかねない。

安倍首相は乱用しないとしても、後世乱用する者が現れるかもしれない。ドイツのワイマール憲法における緊急事態条項もヒトラーが創った訳ではない。既に存在していた条項をヒトラーが悪用したのだ(これを強く意識しているのかとの誤解を招く発言を行い世界から顰蹙を買った重鎮が現政権内にいる)

 

 やはり憲法92項を改正するのが本筋というものだろう。憲法9条は立派な精神だが、それをいいことにして国の最も基本である国民の生命と財産を守る義務をかまけることになってはいけない。

核の抑止力問題はともかくとして、在韓邦人の救出までトランプ大統領に依頼する安倍首相を大統領はどう見ているのだろうか。藪中元外務事務次官はTV番組にて「トランプ大統領は強い男が好き。習近平総書記に一目を置いている」と言う。なんでもかんでも頼る安倍首相はそれでも武士(の国の長)?と大統領に思われてはいないか。

 憲法9条があるから日本は平和というのは幻想にすぎない。武力はなくとも話をすれば解決すると言っていた有識者達もISには説得に行かないだろう。ホモ・サピエンスが進化し哺乳類・霊長類から分離独立する日が来ない限り、平和国家といえども国内の国民のみならず海外邦人も守るためには矛が必要である(刀を抜かずとも敵を威圧した勝海舟が理想形だ)。そこから日本人の凛とした美しさ、誇りを取り戻すこともできるのではないか。

92項を改正し、戦力を保持し交戦権を持てば、中国は日本がまた侵略国家を目指していると大声を上げるだろう。しかし、本音は、中国が沖縄、本土を侵略するのに不都合ということだろうから、本気で相手にする必要はない(周辺諸国の理解を得る方が大事)

 2項改正の暁には、自衛隊を“国民と国土を守る”という意味の国防隊に変えよう。自衛隊は一旦解組すべきだ。自衛隊員の家族の中には「お父さんの仕事は災害救助」と思い込んでいる家族もいるかもしれない。神風特攻隊の時の真似はしてはいけない。家族の反対を押し切ってまで無理強いさせるべきではない。国防に空白は許されないが、自衛隊員を一旦全員解雇し、軍隊としての国防隊員を新規採用するのがよい。先走った話ではあるが。