2013.1 NO.19  タイン と タイ

 

昨年の正月は台湾で元旦を迎えた。私の長男が台湾の女性と結婚することになり台湾で婚約披露宴を挙げるために渡航した。

 所変われば品変わるというが、日本と台湾では一事が万事かなり違う。

 台湾・松山空港に着き、地下鉄で台北駅に向かう時、車中でガムをかんでいたら義娘(新婦)に注意された。車中で食べていけないと(日本でも行儀が悪いが、ガムも駄目らしい)

日本の新幹線を導入した台湾新幹線で台北から台中に向かったが、駅のトイレにも留意が必要と言われた。ホテル以外の駅や民家のトイレでは使用した紙を流してはいけないらしい。そのためか日本より臭いが立つみたいだ。義娘の実家で用を足して出るとき、ドアを閉め切ってはいけないと教えられた(閉まっているのは誰かの使用中を意味するらしい)

 台湾では大晦日がめでたいということで婚約披露宴が行われた(日本で結婚式の日取りに選ぶ「大安」の語源は“泰安”と言われ、台湾の新竹州にあった泰安郷という地名に由来するという説もある)。旧正月の前日の大晦日は爆竹を鳴らしもっと賑やかだということだ。

婚約披露宴も、日本では披露宴等親族が末席に座っているが、台湾では新郎新婦と親らが一番前の中央テーブルに陣どる。台湾では一人に案内すると10人前後一緒に集まってくる。祝金も日本のようには必ずしも必要ではないらしい。10人席用のテーブルが30用意されたが、余ったのは1テーブルだけであった。主宰の新婦のご両親はさぞかし大きな散財になったことだろう。結婚式ならもっと凄いという話だ。

 当初は各テーブルにお酌に回ると聞きいていた。酒が強くない私は各返杯を受けていたらダウンしてしまうと心配した。が、新婦のご両親に付き添われて各テーブルに挨拶すればよいということになり、安心した。それでも28テーブルも廻りそれなりに大変だった。

 

 たった4日間での台湾滞在ではあったが、文明の恵みと引き換えに我々が失った、古きよき時代の日本の原風景がそこにあった。

 私どもが台湾に渡ったとき、向こうの親戚一同で熱烈な歓迎を受けた。帰るとき妻が感激のあまり泣いてしまうほどだった。日本統治時代の小学校で一時期日本語を話していた新婦の祖父達は、言葉の通じない私達を気遣って、日本語を思い出しながらなにかと話しかけてくれた。また、新婦の母方の祖父は風光明媚な日月潭に向かう貸切バスの中で日本の歌謡曲を歌ってくれた。日本に来たことがなく訪日を希望しているということなので、是非実現させたいと思っている。

 週刊文春で旅のエッセイの特集があったが、作家の角田光代さんは「はじめての一人旅をするなら」と題して、真っ先に台湾を薦めると書いてある。してその心は「台湾で感じる、ごくふつうだけど得難い善意」と言う。私も同感だ。我が妻は亡き岳父に似てやじろべぃのごとくやや体を左右に揺らしながら歩く。歩く後姿を見て、日本人なら「足でも悪いのかしら」と陰口で留まるが、台湾の親戚の女性達は、さぁーと駆け寄ってきて「足が痛いのかい? サンダルを買ってあげようか」と心配して声をかける。事情が分かって大爆笑だ。

 明るくて親切な台湾の人々と今般姻戚関係になったことを心から嬉しく思っている。

子供の結婚に際し国際結婚について聞かれることがあるが、火星人なら考えるが同じ地球人なのでと答えている。ましてや親日の台湾なので、無問題。

 結婚した長男は私の4つ上の実兄に良く似ている。DNAはシャッフルして継がれるので、兄に似ていても不思議ではないが、その兄も若いとき結婚まで至らなかったが中国人を好きになった。私の家系には漢民族?の血が入っているのではないかと思う(だからといって親中派ということではない)

 お笑いコンビ「ピース」の吉本イケメンランキング1位、熟女好きの方でなく、キモカワ系の又吉直樹さんは、超がつく文学青年で、エッセイ『第2図書係補佐』上梓した。その中で、こんなくだりがある。沖縄で生まれた又吉さんの祖父はハワイに渡り、当時としては珍しくアメリカ女性と結婚し、終戦後に又吉さんの祖母と再婚した。又吉さんの姉は子供の頃外人、外人と他人から言われ、又吉さん自身も小学校3年生まで金色の体毛が生えていたと書いている。祖父の前妻とは当然関係ない。私は又吉さんの祖父にはアメリカ人と同じ血が入っているからなのではと思う。

 TVで長く生き別れた親子が再会を果たした場面は涙なしには見られないが、探し求め合うのも、互いのDNAが呼びあっているのだと私は勝手にそう納得している。