2020.2 臨時号 NO.128 ふっこ VS ふっこう
令和に元号が変って初めての正月を迎えた。明治の世は、大政奉還、王政復古より日本の近代化が進められた。令和の時代は、“往政復興”により、日本の良き時代における往年の政治を復活させ、劣化した日本経済社会の復興を成し遂げるべきではないか。
人は道を間違えたと思ったとき、間違えたと思うその時点まで戻るだろう。それはいつか。21世紀が幕開けしたときに誕生した小泉政権の時代と見ることもできるのではないか。
バブルの後始末の失敗による経済の低迷を「失われた20年」と評するが、政治の面では「失われるべき20年」と呼ぶべきではないか。
小泉首相発の新自由主義(ネオリベラリズム)の政治が、貧富の格差を拡大させ「格差社会」が「階級社会」へさらに深刻化させ、“天皇制社会主義”が揺らいでいる。天皇制社会主義とは、革命により誕生したソ連や中国のそれとは当然違う。革命が、賤の、貴に対する強烈な嫉妬心と野心から生まれるならば、そこに誕生するのは社会主義国家ではなく独裁国家。日本の唯一無二の天皇制社会主義とは、天皇の下に国民がみな平等であり、聖徳太子からの和の精神と、頻発する火山噴火、大地震、津波等の自然災害から助け合う心が醸成され、富めすぎる者も貧困にあえぐ人も作らない。身の貧しさよりも心の貧しさを恥じる。その日本人の美徳・価値観を表象したものだ。
小泉政治を安倍政権も継承している。アベノミクスも輸出企業と富裕層に利しただけ。それも日銀に無茶苦茶な無駄遣いをさせて。
「ふるさと納税」という寄付もしかり。返礼品は何件寄付しても負担は2千円だけ。高額納税者は家の食材をすべてふるさと納税で賄うと豪語し、その一方で少額年金生活者や低所得者は1件の利用すらできない。他自治体への寄付で税収が減った当該自治体の住民サービスの低下によるデメリットはふるさと納税を利用できない低所得者がもろに被る。
父親に情がないと言われた安倍首相はともかく、補佐する菅官房長官がふるさと納税の率先垂範の旗振りをしていると見られるのはどうしたことか。
「続 昭和の怪物 七つの謎」(講談社現代新書)で、著者保阪正康氏は、貧しさから身を起こし首相に上り詰めた田中角栄について、毀誉褒貶に触れる中で「庶民の視線を忘れず、政治信条は庶民の生活を守ること」と評した。似た境遇の出?の菅官房長官が新元号・令和の発表の際の上気した顔見て、この人物の政治家を目指した志は何なのかと訝った。
裁判員制度も小泉政権時代の遺産。司法制度改革推進本部が裁判員法を国会に提出し、2004年に成立。2009年より裁判員制度がスタート。私は、本ブログ2019年6月号NO.115(さいばんVSさいだん)等で抜本的な改革を忌避するために国民を巻き込んだまやかしと批判した。国民も制度への疑問、負担感が高まり、辞退する人が2/3に達する。
一方検察には、警察から上がってきた事件を立件するだけではなく、日本の美徳・価値観を守る役割があると思う。捜査に利するため他人負罪型の日本版司法取引を導入して、日本人が恥じる“他人を売らせ”、日本人の美徳を損なわせるなら、本末転倒であろう。
日本を統治するエスタブリッシュメントの一角を占める最高裁、検察の上層部に対して、「主権者たる国民を利用するような真似はすべきではない」と言えるのは、象徴天皇にその発言が許されないなら、三権分立とはいえ、一国の首相しかいない。しかし、モリ・カケ問題に続き「桜を見る会」で私物化が疑われる安倍首相にそんなこと言える訳がない。
新首相の下で、法曹の一元化を初めとする法曹界の抜本的な改革を議論してもらいたい。
ゴーン氏事件は検察の「人質司法」や日本版司法取引等の問題点を検察に縁のない善良市民にも広く知らしめた。国際世論の批判に応えて刑事司法制度の改変も着手すべきだ。
公権力の私物化が問題の折「行政」の中にある検察と権力者との関係も見直しすべき。安倍夫妻を震源とする森友学園問題に絡む文書改竄問題で佐川局長らを大阪地検特捜部が不起訴にしたのを選ばれた国民からなる検査審査会で「不起訴不当」の判断が下された。
しかし、「起訴相当」ほどの強制力はなく、再度検察の捜査が始まっても、三審制をとる裁判所と違い、同じ検察の別の検事か捜査しても権力者に絡む問題で違う判断をするとは思えない。実際そのとおりにまた不起訴になった。下々に寛容な面がある検察に起訴を猶予する権限を持たせる「起訴便宜主義」を変えるべきでないのなら、検察の不起訴判断が不当なら予審判事が担当するということも検討されるべき。1949年に予審判事が廃止された経緯を検証して。さらに、地検特捜部も、権力者に立ち向かえず、その反動がごとく、権力を持たない弱い立場の人々に傲慢に強権を振りかざす。そんな特捜部なら必要ない。
メリットよりもデメリットが浮き彫りになってきた「小選挙区制」は、小泉政権の産物ではない。小泉政権誕生の5年前に施行された。私が畏敬する後藤田正晴が生みの親だとも言われる。今の自民党を予見し中選挙区制からの移行に反対していたのが当時の小泉議員(言と裏腹に首相時最大限利用したが)というのは、私にとってはこれほどの皮肉はない。
たしかに、二大政党化に寄与すると見られ、簡単に政権与党が替わるが、本ブログ2018年5月号NO.92(「かんりょうVSまんりょう」)で指摘したように、生煮えの首相が誕生し、素材自体も悪ければ、それをありがたく頂戴する国民はたまったものではない。
民主党政権が瓦解すると、今度は小選挙区制が政権与党に有利に働きだした。議席に結び付かない「死票」が大量に出ることや民意と議席の乖離という弊害が露呈してきた。
それにとどまらず、小泉元首相が予見した通り、選挙公認という生殺与奪権を握った官邸による独裁体制が自民党内に敷かれた。それは政治家と官僚との関係も、Win-Winの関係からLose-Loseの関係に変えてしまった。国民の公僕として大所高所から日本を牽引するとの志に燃えた官僚が立案し、その果実を大臣や首相が得た。今や、『官僚たちの冬』(小学館新書)の田中秀明氏が言うように幹部官僚の人事をおさえた官邸の“下僕”に成り下がり、モラルとモラールを低下させた(官邸内の官僚以外の)官僚たちは、官邸からのオーダーを吟味することなく、おざなりな資料を作り、チェックもなおざりする。媚び、忖度し資料データーをいじる。問題が発覚すると、日頃の慇懃無礼な扱いの恨みを晴らさんばかりに野党議員にサンドバック状態されてしまう。テレビでそれを観た東大生は何と思うのか。
日本が模範とした英国の二大政党制も今や機能していない。そんなことなら、いっそのこと、中選挙区制に戻した方がよいのではないか。
武士道精神の流れをくむ官僚道を踏み外した佐川元理財局長はまた検察捜査の対象となった時、起訴如何に関わらず忸怩たる思いをしていたのではないか。『葉隠れ』の山本常朝が言うように、二者択一に際しては、死ぬ確率の高い方(左遷)を選ぶべきだったのだ。
過去それを具現したのが、なんと武士とは対極の昭和天皇であった。マッカーサーに対して「全責任は私にある」と言い(無論延命を期しての発言ではない)、敗戦日本の無血統治には天皇制が不可欠とするマッカーサーの思いを確信に変えさせた。天皇とは真逆の言動をとった、首相の近衛文麿は、次第に、マッカーサー、米国政府、日本国民からの反発を買い自裁に追い込まれた。天皇と同じスタンスであれば、A級戦犯(死刑)は免れないとしても、福田和也氏が著書『<新版> 総理の値打ち』(新潮新書)で明治以降の首相の中でダントツの最下位の点数を付けたように、後世の酷評に晒されることはなかったのではと思う。
外務省佐藤優氏も国策捜査の折上から鈴木宗男議員を売れと言われたが、断った。それで逮捕される目に遭ったようだが、芯を通し、周りから信頼も得て作家として大成した。
劣化した日本社会の今時こそ(他人を売る日本版司法取引とは真逆の)武士道精神の復活がぜひとも必要なのではないか。
令和の世は、問題や矛盾を抱えながら「和を命じる」時代ではなく、改めるに憚ることなく、不信も疑心もない「礼(節)をもって和(合)する」時代になってもらいたいものだ。