2019. 11臨時号 NO.123  TOHO VS TOMO (1)

 TOTOは、昔東洋陶器と言った、トイレ等住宅設備機器のTOPメーカー。totoは、イタリアのtotocalcio(サッカーくじ)由来の日本のスポーツ振興くじ(販売元は日本スポーツ振興センター)roto(ロト)は自分で番号が選べる宝くじ。

 米国ではrotoに似た宝くじで女性が860億円を当てた。確率から言えば奇跡みたいなことだが、この女性は“宝くじの神様”から祝福されたのではない。試されているのだ。

当選直後に会社に明日から行かないと連絡した。もう人の道を外している。子がいれば、子があてにし真面目に働かなくなる。分けてもらえないなら早く逝け!と大合唱するかもしれない。さらに、蜜に向かう蟻のように他人が押し寄せてくる。銀行、証券、不動産ならまだしも、知らない親戚や詐欺師らが。誘拐を心配し、他人が信じられなくなる。

加えて、日本では欧米にはない「世間」というものから酷く妬まれるとして、当選者は公開されないし、高額当選者は口外するなと注意されるという。

 

TOHOは東宝。宝くじとは関係ない。東京の宝塚劇場の略ということか。TOHOシネマズのインターネット販売Vitを利用して、私は毎週のように映画館に勉強しに行く(妻は遊びだと譲らないが)。なるべく空いている平日に行くようにしている。

TOHOシネマズでは、月曜はauマンデー、火曜はシネマイレージデイ、水曜はレディースデイとか割引がある(私自身はシニア割引を利用している)が、その曜日は避け、木曜か金曜に行くことが多い。人が多いと集中できない。映画を観ながら食べている人も我慢ならない。子供じゃあるまいし2時間ぐらい我慢できないのか。周りに迷惑をかけないようにとアナウンスするTOHOは吸い過ぎに注意をと言うJTの親戚か。真っ暗になってから入場してくる人にもイラつく。それも横列の真ん中の方の席の人が(「そんなに文句言うなら家で見れば」てか。新作を早く見たいし、劇場では迫力が違う。昔梅田の劇場で初作『エイリアン』を見たが音響効果も相まって本当に怖かった)

 一番眉を顰めるのは、老人はオシッコが近いのが相場なのに真ん中の席に陣どって途中トイレに席を立ち数人に迷惑をかけていること。若者は老人を敬い、労わる。老人は若者に甘えず極力迷惑をかけない様にする。これが麗しい老若関係というものだ。

かくいう私自身は、劇場が明るい内に席に座るし、飲食物を口にしない。唯一懸念するのはトイレ。(前立腺がんの治療後はかなり改善しているが)前立腺肥大でトイレが近く途中トイレに立つことを想定して、ネットで予め出口に近い方の横列一番端の席を確保しておく。空いていれば頃合いを見て内側の席に移動したりする。端の席を予約しておけば安心でめったに途中でトイレに行くことはない。

 

 TOMOの会というのがある。江戸川病院のトモセラピー(TomoTherapy;強度変調放射線治療を行う専用機)による前立腺がんの放射線治療でがんと闘った患者、いわゆる戦友の会。

トモセラピーは360度あらゆる方向から、細い放射線ビームを病巣めがけて狙い打つため、標的(前立腺)にはたくさんの放射線をピンポイントで当て、他の正常細胞(直腸など)の損傷を抑えることができる。現在当病院はトモセラピーを3機保有しており、1機目で治療した患者を1()生と呼ぶ。私は2機生に当たる。本当の戦友ほどではないが、共にがんと闘った者同士の連帯感がある。1機生は大変だったと思う。放射線治療にも副作用があり、6か月後ぐらいに思いがけず直腸から出血する場合もある。「大腸がんになったか!?」と1期生はさぞかし驚いたことだろう。私など2機生は1機生の体験談やアドバイスを受け、不安を解消させることができた。

 私は治療を受ける5年ほど前に幼児のごとく通勤途中でオシッコが我慢できなくなり、それを契機に定期的に血液検査でPSA(前立腺腫瘍マーカー)を測ることにした。最初から4.00ng/mL(以下単位は省く)を超えており癌罹患のグレーゾーン(410)にあった。3年程ストレートに右肩上がりに数値は上がらず癌の可能性には半信半疑であった。がしかし、癌の場合を想定してどの治療方法を選ぶかネットや雑誌等で自分なりに調べ、癌と判明すれば、トモセラピーでの治療を選択することに自身で決めていた。

 生検で癌を調べる病院も決めており、癌と判明した時その病院は手術しかしていないので、その病院には悪いが、私のデータを添えて江戸川病院に紹介状を書いてもらった。

 

私が土日休日を除いて(仕事をしながら) 2012年9月から連続38回のトモセラピーによる放射線治療(放射自体は3)を終えた頃、当時勤務していた業界団体の3歳年上のある役員(以下A氏という)にアドバイスした。「PSAを測ったことがないなら一度調べた方がよい」と。私の助言を受けA氏はPSAの血液検査を受けたところいきなり10を超えていた。それで生検を受けると癌が見つかり、しかも悪性度を示すグリーソンスコアも私より悪かった。治療するにあたり私は自身における二度の全身麻酔による手術の経験、放射線治療の効用等を説明し江戸川病院によるトモセラピーを推奨したのだが。

しかし、前立腺がん患者としては先輩の私の言うことよりも癌治療が得意と言えない病院の医師の言うことをA氏は選択した。そして、手術を終え退院したA氏は私に「手術は金輪際こりごりだ。尿道カテーテル等管だらけにされた」と言った。それが1日だけではなく数日間強いられる。A氏は手術経験がなく私の話を軽く受け流していたのだろう。

 胃の摘出手術と違い体の奥まったところにある前立腺手術は簡単ではない。そんな大変な手術を、天皇(現上皇)70歳になられる年の2003 (平成15)1月にお受けになられた。当時高齢者には前立腺がんの手術をしなかったため、成人病予防で私が通っていた開業医は「陛下が手術されたので手術年齢が上がってしまった」と言っていた(後述するように陛下ご自身に責任がある訳ではない。念のため)

 

2019.11 NO.122 リウッド VS リウッド(2)

今回のテーマで本ブログを書くにあたって、その後に発刊された『神さまのカルテ3』とスターウォーズのエピソード1に相当する、主人公が一人前の医師になる前の医学生、研修医時代を描いた『神さまのカルテ0』とを文庫本で読んだ。

 『神様のカルテ3』で、主人公栗原一止内科医30歳、東西直美主任看護婦28歳と明示されている。作者の夏川草介氏もその分身である小説主人公一止も30歳なのだが、私は本からの印象では、40歳前後の人が書いていると思っていた。映画公開された20118月ては櫻井翔さんは29歳で年恰好はおかしくない。だが、アイドルたがら苦労を知らないとは思わないものの、慶応ボーイ、甘いマスクで、歳よりも若く見えてしまう。

作者も小説の主人公も国立信州大卒だが文系の私にとって馴染みがない。東大医学部に入った高校の同級生は、かつて「(東大でなくとも)医学部の人はみな優秀だ」と言っていた。

そんな優秀な医師が、救急病院で昼夜を問わず過酷な日常に追われ、その中で、誤診により患者を死なせる恐怖、家族から一方的な訴訟を受ける難儀、日進月歩の医療技術や知識から取り残されるとの焦燥感、神様のカルテ(私は天寿と理解)に対する医療の限界等それらが医師に重くのしかかる。実年齢よりも上に見えても不思議ではないと思う。

 医師でもある作者自身はどう見ているのか。第1作の映画化後の作品『神様のカルテ3』の話の展開の中心となる、自身の誤診により夫を膵臓がんで亡くす小幡女医が嵐の大ファンであるとの設定からすれば、櫻井さんで納得していると見るのが妥当ということか。

 

『神様のカルテ3』はまだ映画化されていない。しがない一ファンの願いではあるが、俳優を替えて、ぜひ映画化してほしいものだ。007シリーズ、スーパーマン、スパイダーマン等の映画でも主役が入れ替わっているから、問題ないだろう。

主人公の一止役には、齋藤工さんか、もっとさわやかさが必要なら向井理さんでは。

ちなみに、齋藤工さんは、第1作の映画が公開された2011年当時テレビ東京で『最上の命医』(原作漫画は小学館の『週刊少年サンデー』で連載)で小児外科医役を演じている。

私の好きな東西看護婦は、切れ長の目、色白、細長い腕と作者が書いているから、北川景子さんでどうだろう。主人公と妻ハル(榛名)との関係は武士とその妻のようであり、ハルは(日々愚妻にイビられる私にすれば)天使のようで現実味がない。医師と看護婦の関係ながら厚い信頼関係の中でタメ口で軽口をたたき合う主人公と看護婦との掛け合い場面が好きだ。独身の東西には恋心があると見ていたら、第3作でそれが本当だと分かった。賎陋な私でもベットシーンの挿入がお決まり?の経済小説とは訳が違うと理解しているが、消毒液の匂いが漂う病院で甘酸っぱい香りが一瞬立っただけで肩透かしを喰らった感じがした。映画化があるなら、二人の絡みをもう少し広げてもらえればと思う。

他の俳優には、大狸こと板垣先生役には西田敏行さん、小幡女医役には、(ジャニーズの若手との醜聞?を契機に糟糠の事務所女社長と袂を分け私の中で好感度が下がったが)吉田羊さんでどうだろう。西田さんとの面白いアドリブ合戦が見られるかもしれない。

 

 もう一冊映画化してもらいたい本がある。台湾の二・二八事件を題材したノンフィクション『汝、ふたつの故国に殉ず』(角川書店)がそれだ。日本人で台湾に渡った父と台湾人を母とする、畏敬すべき坂井徳章(台湾名・湯徳章)については、本ブログ20177月号 NO.73(「二・二八事件 VS 二・二六事件」)で触れた。国民党が内省人を弾圧した1947年二・二八事件の折、暴動の首謀者として濡れ衣を着せられ拷問されたが、決して台湾人の名前を挙げることなく、多くの台湾人の命を救った。その恩を台湾の人々は今も忘れない。

 それを映画化してほしい。主人公の坂井徳章役は風貌が似ている、西郷どんの鈴木亮平さんがいい。若い人に観てもらいたいからサブキャストは人気の若手俳優陣で固めて。

 なお、1989年に制作された台湾映画『悲情城市』は二・二八事件を題材にしておりベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞している。

反日が国是の中国や韓国とは違い、台湾は一番の親日国だ。植民地にされたこともあるのに、今も日本人を尊敬し(政治家をはじめ今の日本人がそれに値するか疑問だか)、日本にあこがれを抱く。それに対して、長男が台湾女性と結婚するまでの私のように、日本人は台湾人の想いに応えていない。映画を機に台湾との友好の絆が一層深まることを期待する。

 今1024日から日本で初めてのPGAツアーゴルフトーナメントが開催される(日本最高優勝賞金約2億円とタイガー・ウッズ選手やマキロイ選手が参戦ということで話題を呼ぶ)。そのスポンサーとなったファッション通販の社長がこの度退任し持ち株の大半も手放した。宇宙旅行実現の夢に取り組むという。

自身の才覚と努力で得たお金を何に使おうが勝手ではあるが、月旅行ができる財力があるなら、映画1本を作るぐらいのことはお安い御用だろう。

芸能人の彼女共々、やっかむ「世間」の好感度はいまだ地を這ったままのようだが、意義のある映画のスポンサーになるなら、好感度は先に月に到達するほど急上昇すると思うのだが。何!?「人様にものを頼む態度ではねーべー」てか。んだな。

 

2019.11 NO.122 リウッド VS リウッド(1)

 次の日曜日10/6に競馬の凱旋門賞が行われる。本題に入る前に少し触れたいと思う。

 日本から3頭が参戦する。挑戦するハズであった今年のダービー馬ロジャーバローズは引退で挑戦がなくなった。早い引退は誠に残念だ。が、もともと私は英愛仏のダービーやオークスに勝利すれば凱旋門賞にチャレンジする権利はあると思うが、馬場の違う日本のダービーを勝ったからといって挑戦資格があるとは思っていない。2016年日本ダービーを勝ちその年の凱旋門賞で惨敗した3歳牡馬マカヒキの二の舞になり、馬の受ける肉体的、精神的ダメージを懸念する。日本の現役最強牝馬・4歳アーモンドアイが血統(キングカメカメハ系)、斤量(58)、馬場適性、馬の負担等を勘案し断念したのは英断と言える。

3歳は斤量が有利」と言っても、凱旋門賞3連覇を狙う女傑エネイブルとの差は1.5(3歳牡馬56.5㎏、4歳以上牝馬58)に過ぎない。昨年58㎏でエネイブルは勝っている。

 ちなみに、2008年~2018年の最近の11年間における凱旋門賞馬の内訳は、3歳牝馬5頭、4歳牝馬3頭、3歳牡馬3頭。牝馬が圧倒的に優勢となっている。

 欧州の競馬と日本の競馬は別物。欧州を転戦した5歳ディアドラが日本調教の牝馬として史上初の英G1に勝ったことにより、馬場の馴れの問題とする見方が強まろうが、凱旋門賞は一流馬が勢揃いするハイレベル。日本で育成・調教され高速馬場で走る日本馬の中では圧倒的3冠馬のディープインパクト(以下ディープ)やオルフェーヴル級に挑戦資格があると思う。

 期待の4歳牡馬のフィエールマンには、今年は国内G1狩りに専念し、3冠馬ではないにしろ亡き父ディープの後継と認知される成績を残してから来年挑戦して欲しかったのだが。

それでなくても、今年は大本命の上述5歳エネイブルが今年も順調G1を連勝(通算10連勝中)しており、その後に英インターナショナルSG1連勝の3歳牡馬ジャパンがおり、その他仏ダービー馬ソットサスらの有力馬も出走する。

 とはいえ、「競馬はやってみないとわからない」と反論する向きもあろう。たしかに、2010年重馬場の凱旋門賞でクビの差2着になったナカヤマフェスタ(翌年良馬場で11)例もある。良馬場の方が凸凹して走りづらく重の方がかえって日本馬が対応できるという見方がある。重馬場になれば地元の馬の優位性がなくなるとの意見もある。他の2着日本馬も、エルコンドルパサーの1999年は不良馬場。2年連続2着となったオルフェーヴルの2012年、2013年も重馬場。今年も馬場が渋れば日本馬にチャンスがあるのかもしれない。

普段夜11時過ぎなら寝ているが、眠い目をこすりながらでも、ディープの直仔フィエールマンと外孫キセキ(母の父がディープ)が亡き父・祖父の果たせなかった夢を叶えるよう応援したいと思う。ディープの仔・孫ではないが日本馬プラストワンピースも一緒に。

 

さて、今回のテーマは映画。妻の「また行くの!?」とのイヤミを背に、週に一度は勉強と称して映画館に足を運ぶ。映画は卒職した身でのお気楽な日常から非日常の世界に誘ってくれる。精神を高揚させてくれる。

洋画は、ハリウッドの米映画界、人気俳優阿部寛さんが出演が夢と言ったというポリウッドと呼ばれるインド映画界に加え、ヨーロッパ(英、仏、独、伊、露等)やアジア(中・韓香港)等世界の映画界で制作される。いきおい邦画よりも洋画を観ることが多くなる。

 洋画では、ハリウッドの娯楽大作ももちろん観るが、ナチス、戦争、スパイ関連の映画を観ることが好きだ。戦争を知らない私にとって、戦争の悲惨さ、愚かさが実感でき、戦争に行った先達が二度と戦争を起こしてはならないとの訴えが理解できる。

心優しき我が妻は血が流れるバイオレンスを嫌う。女優マリオン・コティヤールさんがアカデミー主演女優賞に輝いた 2007年制作『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』の映画が夫婦で見た映画の中で一番好きだと言っている。妻と一緒に観る時は人情の機微を映し出すヨーロッパ映画かミュージカルを鑑賞するようにしている。

 邦画は、今JKを対象にした恋愛映画やアニメが多いのではないか。ガキがそのままシジイになった私でもさすがに観ようとは思わない。大人向けの映画が少ない中でジャニーズのメンバーが主演する映画は少なくない。賛否はあろうが、私は、ジャニーズの経営陣には不信の目を向けるが、ジャニーズのメンバー主演の映画を観ることに抵抗はない。

中でも木村拓哉さん(以下キムタクと呼ばせてもらう)の映画は、平成5年末銀行を辞めて夜外での飲食が減った以降、とくに型破りな検事役の『HERO』、パイロット役の『GOOD LUCK!』レーサー役の『エンジン』(堺雅人さんを初めて知る)等ほとんどのTVドラマを観ている。映画も同様で、『武士の一分』、劇場版『HERO』、『無限の住人』、『検察側の罪人』に加え、今正月公開された『マスカレード・ホテル』(私にはとてもホテルマンは務まらないと思った)も当然観ている。

 

私とはまったく正反対で「カッコいい」「何でもできる」「男らしい」。そんな20歳以上も年下のキムタクに憧れに似た想いを抱いていた。SMAPの独立騒動後もそれは変わらない。闇営業問題に端を発した吉本のお家騒動の折人柄のよさを垣間見せた明石家さんまさんがそうであるように。キムタクはSMAPファンから裏切り者扱いだが、私の性格なら女性経営陣に反発してメンバーと一緒に事務所を飛び出す。しかし、妻子のあるキムタクが家族と相談し残留したならば、それは責められない。家族を顧みず勝手に銀行を辞め妻子に迷惑をかけた私には(そもそもキムタクにしか、いい年した男たちに妻帯が許されなかった?ことがメンバーの不協和音の元凶ではないのか)

キムタクなら癌など病気になっても故高倉健や故萩原健一、故夏八木勲のように素振りも見せないだろう。男らしくない私は前立腺がんに罹患したとき周りに言いまくった。同情を得るかのように(カラオケ仲間の若い女性に「一度だけ、お願い!」と泣きついてみたが、すぐ逝く怖い癌ではないと知ってか、「一度だけじゃ、イヤ!」と軽くいなされてしまった)

そんな私でも、『SPACE BATTLESHIPヤマト』(201012月公開)だけは違和感を覚えた。主人公古代進役をキムタクが演じたのだが、一人浮いている感じがした。キムタクの為に書かれた脚本ならよいのだが、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』での主人公イメージが強いからなのだろう。一方、『武士の一分』も作家藤沢周平の『盲目剣谺返し』が原作なのだが、読んでいないので先入観もなく問題なかった。

 

 イメージが違うと言えば、映画『神さまのカルテ』(20118月封切)もそうだ。普段歴史小説ぐらいしか余り小説を読まない私がしかも医療小説を読んだ。『神さまのカルテ』(小学館)が発刊された2009(8)の前年私自身前立腺がんが疑われていた。その頃成人病予防で通院し癌の相談もしていた50代の開業内科女医がすい臓がんで半年かそこらであっと言う間に亡くなり大きなショックを受けていた。それで読む気になったのかもしれない。

 読んで感銘を受け、続いて20109月発刊された単行本『神さまのカルテ2』も直に購入した。知人らに進んで貸し出しもし、甥の看護師にも読むように勧めた。

この小説はきっと映画化されるに違いないと期待した。すると実際映画の話が進み、主人役にジャニーズ『嵐』の櫻井翔さんだと分かり、自身が思い描いて人物イメージと違い、(ファンには申し訳ないが)がっかりした。思い入れが強い分その反動で急速に関心を失っていった。

 

 

2019.9 NO.121  たい VS たい(2)

日本にも大きな影響を及ぼす、2月末の2回目の米朝首脳会談は物別れに終わった。しかし、後戻りできない米朝トップは、突如6/30に板門店で3回目の首脳会談が行われた。

北朝鮮の核保有はソ連、中国の大国に翻弄された朝鮮戦争の手痛い教訓から金日成の遺言?となり新憲法にも載る。核を完全放棄すれば金正恩委員長といえども失脚するだろう。

北朝鮮の最終的譲歩は新しい核は造らない(既保有核の完全なる廃棄はしない)ことではないか。日本にとって悪夢は、それをトランプ大統領がのみ、終戦宣言、平和協定に繋がり、ひいては韓国からの米軍撤退に帰結することだ。それでは、若き狼(北朝鮮)に赤ずきんちゃん(韓国)は飲み込まれてしまう。さらに一国二制度での中台統一が実現すれば、日本は完全に孤立する。核を持つべきではない、また物理的に持つことができない日本は在留米軍に撤退してもらうというよりは「ぜひ日本に留まってください」と懇願せざるを得ない。真の独立国家への道はますます遠のいてしまう。

日本の安全保障にとって重要なことは、韓国がSouthKoreaであり続けること。ロシア・中国・北朝鮮独裁国家に向かい、韓国が前衛に位置し、中衛に台湾と日本が位置し、後衛に大将米国が陣取り、「自由と民主主義」への防衛体制を維持強化しなければならない。米国とは同盟関係。台湾は無二の親友。韓国とは罵り合っても兄弟の縁は切ってはならない。

ところが、北朝鮮との統一を夢見る韓国文政権の日本に対する軽視や無視する態度に業を煮やし?韓国に対して行った輸出管理強化策は、文大統領に逆手にとられ、却って反日を煽る文大統領に対する国民からの支持率を一時的に上昇させた。

韓国の反発に対し、外務省OBは徴用工問題の報復の為にもと冒頭で口をすべらせてしまった失敗を論い外務省を外して行った官邸や経産省を暗に非難した。一方経産省OBはもともと「特別一般包括許可」制度があるので輸出規制でも何でもないと慌てて火消した。

韓国経済の一層の低迷を誘発させ2022年まで任期のある韓国文在寅政権のレームダック化と北朝鮮との融和を進める進歩派(反日はもとより反米、親中、親北)政権の継続阻止を目指した戦略的意図があるのかと思ったが官邸にはそんな意図はなかったということか。

それならば、安倍首相は最悪の事態を避けるべく文大統領とトップ会談すべきであった。が、癇癪を起したままで、そうしなかった。それを文大統領はまた利用(文大統領の最側近・法相候補曺国氏のスキャンダル報道から韓国民の目を逸らす)、あろうことか、米日韓防衛体制の象徴・軍事情報協定GSOMIAを破棄してしまった。

韓国民自体は、観光都市・首都ソウルで行政による日本製品不買運動の旗設置に対して抗議して撤去させた。GSOMIAの破棄への反対の声も多いことを考えれば、今回は「反日」ではなく、「反安倍首相」であり、疑惑の曺国氏を法相に任命強行した「反文大統領」では。

日本の安全保障の観点からに加え経済への影響も見過せない。政治の役割は経世済民。政治が徒らに経済を不振にして日韓両国民を苦しめることがあってはならない。

戦略的無視と言っているが、その後どんな絵を描いているのか。従来の日本がとってきた「とりあえずの謝罪、譲歩」はすべきではないが、官邸で独裁する首相と青瓦台で独裁する文大統領とでトップ同士の差しの話し合いを一刻も早くすべきではないか(首脳会談とは聞こえが良いが同盟国でもないプーチン大統領個人と友好を深めている場合ではない。北方領土の問題は安倍首相の拙速な言動でロ国民を怒らせてしまい少なくとも安倍首相の在任中は棚上げのままだろうに)

 

台湾においては、習近平国家主席による「台湾同胞の利益と安寧を守る」という一国二制度による平和的中台統一に支障が生じたと言えるだろう。

6月の香港の200万人を動員したデモ(現在は「逃亡犯条例改正」反対だけではなく要求を拡大させている。中国化への恐怖心、反中意識を露にしたデモ隊と香港警察との衝突激化に対して、とりあえず逃亡犯条例改正案が撤回され、武装警察による鎮圧は避けられた)は、一国二制度がまやかしであること世界に再認識させたと同時に台湾人に勇気を与えた。

 台湾は戦後40年に及ぶ国民党による恐怖政治を経た後民主化を得て30年になる。白色テロの時代に逆戻りすることを台湾人は拒絶するだろう。若者も外省人の三世ですら台湾人としてのアイデンティティを持っている。習近平国家主席が国民党を通じて「一国二制度」による中台統一を強行すれば香港以上の大規模なデモ、衝突が起きることになろう。

 中国共産党は、アラブの春ならぬ“アジアの春”が香港、台湾を経て中国本土に飛び火することを懸念する。中国共産党にとって、米国より怖いのが、10億人以上の農民層。賤が貴を倒し、新しい国名の独裁国家が生まれる歴史が繰り返されること。それを恐れる。

中国の価値観は「貴・賤」。中国農民は、貧富格差自体は是として、自らが賤に置かれていることに対して怒る(中国人の価値観は根本的に社会主義とは相容れない)

 任期中に習国家主席が平和的方法により中台統一を図ることは難しいと言えるだろう。

 

習国家主席は面子にかけて任期中に中台統一を図るべく武力行使することはあるのか。

人民解放軍は1979年中越戦争以降1989年に天安門で人民に戦車を向けたことしかしていない。それ以降“人民弾圧軍”は訓練と実験しかしていない。

今やロシアを凌ぐ世界第二の軍事大国とも言えるが、日清戦争の時と同じく「眠れる獅子ではなく、張り子の虎。軍兵士の人質が低い、愛国心が無い」と侮っている者達に「目にもの見せてやる」と人民解放軍はいきり立っているのか。

武力行使すれば、米国の台湾関係法に基づき米国と開戦することになる。中国が沖縄の嘉手納米軍基地を攻撃すれば、安保法制から否応なしに日本も戦争に巻き込まれる。

 2014年に日本語版が出た、トム・クランシーの遺作小説『米中開戦14(新潮文庫)では、台湾海峡における戦闘、サイバー攻撃等において中国側が優位とする視点に立ち、開戦を強行しようとする中央軍事委員会主席を米国政府の秘密情報組織が中国内で暗殺し、国家主席が自害することで話を終わらせている。

 現実の世界では、中央軍事委員会主席も兼務する習国家主席の目を国内に転じさせる。つまり、農民の蜂起を煽る、農民を束ねる指導者を支援することが考えられるか。それは現状米国のCIAに委ねるしかないし、簡単なことではない。

 一番良いのは、内には経済停滞、外には米国との軋轢と香港、台湾のナショナリズムの抬頭を招く習国家主席の「世界一の強国」を目指す強圧・強硬路線を中国北戴河会議のメンバーが危ぶみ習氏を失脚させる。あるいは、それを察知して習国家主席が軌道修正することではあるのだが。

 

2019.9 NO.121  たい VS たい(1)

 2020年の大イベントと言えば、日本では東京五輪。世界に目を転じれば、11月に米国大統領選があり、その前に1/11台湾で総統選がある。私自身の願望は、赤がシンボルカラーの共和党トランプ米大統領が負け(青の民主党候補が勝つ) 青の国民党が負ける(緑の民進党蔡英文現総統が勝つ)ことである。しかし、台湾だけ青が勝ってしまう可能性もなしとしない。その時は私の気分もブルーになる。

 2012年長男が台湾女性と結婚し台湾に親戚が出来たが、義娘の両親は、台中に住む自営業の本省人なので、当然民進党支持かと思ったらそうでもないらしい。台湾の政治情勢に疎い私だが、一次情報ソースもない。それでアメブロ掲載の『中国情報ジャーナル ディープな香港・中国・台湾』や台湾に関係する団体の会報紙等を参考にさせてもらっている。

それらによると、2018年末中華民国統一地方選では、独立志向に対する中国政府からの圧力、締め付け、貿易相手の中国経済自体の失速等から台湾経済が低迷し、それが主因となり民進党が大敗し蔡総統は党首を辞任した。しかし、危ぶまれた民進党内予備選において蔡総統は有力視された前行政院長頼清徳氏に勝利した。1月の習近平中国国家主席の一国二制度による中台統一発言に毅然たる反対姿勢を見せ、香港での「逃亡犯条例改正への大規模な反対デモ」が追い風となり、総統の再選も可能なほど蔡総統は人気を回復している。

 

苦境に立っていた蔡総統に対し、折れそうな心を奮い立たせ、精神的に支えているのが、生誕100年を記念して自伝が発刊された史明(本名施朝暉)氏だ。にわか台湾フェチの私は恥ずかしながら史明氏を知らなかった。が、長男に薦められ読んでみた。

 史明氏は100年の生涯を通じて台湾独立に命を捧げた。革命という手段については、殺戮、粛清、恐怖政治のイメージが付きまとい、共感はしない。が、その志の高さと行動力は畏敬の念を抱く。台湾が民主化されてからは平和的な方法に転じる。一時期革命を学ぶため中国共産党と行動を共にした(疑念を抱き入党していない)ことで未だに共産党員のレッテルを貼られているが、中国共産党の真の姿を熟知しており、台湾国民に警鐘を鳴らす。

「賢者でない大衆が賢者でないトップを支える」とイヤミのようなことを言うだけの私とは違い、中国への接近の危うさに「なかなか市民が気をつけようとしない」と嘆息するも100歳を超えた今も精力的に政治活動している。尊敬を集めるのは至極当然のことだ。

 史明氏は昔早稲田大学に学んでおり、日本に愛着を感じ、日本人に敬意を払っているように思われる。自伝に特記された前田光枝という日本女性に対しても。彼女は史明氏の手先となり台湾人の2人と共に台湾での地下工作員として活動していたが国民党の当局に逮捕された。台湾人の2人は取引に応じて直に口を割ったが、彼女は拷問とも言える尋問や辱めを受けても決して仲間を売ることはしなかった。釈放後東京に戻り史明氏に「台湾人は確固たる政治理念や信念がない。人として信用できない」と訣別し、消え去ったという。

これこそが台湾人から敬仰される日本人像の一つではないか。史明氏は、日本版司法取引でゴーン会長を売った日産や談合がバレたら仲間を裏切り真っ先に抜け駆けした建設大手の今の日本男子に対して、どう思っているのだろうか。

 

 台湾は1624年のオランダ支配から始まり終始外部からの支配を受けてきた。日本にも支配され日本の敗戦時本省人は犬(日本軍・行政府)が去り、豚(中国国民党)が来たと言った。

2.28事件以降白色テロで台湾人を弾圧した国民党を白豚とするなら、今度は赤豚(中国共産党)が来るかと危惧されている。歴史的に韓国も台湾同様の境遇で日本にも支配された。同じ境遇なのに、今韓国は「反日」で台湾は一番の「親日」。その違いはどうしてなのか。

 台湾より韓国(及び北朝鮮)の方に日本軍がより酷いことをしたと言うのは簡単だが、台湾でも、収奪もあり、反抗する者は弾圧され、二等国民と差別され、日本語を強要されたのは同じだ。台湾は帝国日本から受けたメリット、デメリットを分けて考えるが、韓国は全面否定する。『台湾物語』(筑摩選書)で著者の新井一二三氏は、「台湾人は清朝に愛慕や郷愁の念がなく、清朝が自分の利益を守るために台湾を捨石にしたという恨みに似た感情を持っていた。朝鮮人は自民族の李王朝が日本に潰された悲劇を目の当たりにした、その事情の差も対日感情の差として表れているのでは」と言う。

加えて、台湾は戒厳令(1949年~1987)が解かれ排日が止んで行ったのに対し、韓国は反日教育とメディアによる反日煽動が今日まで続いていることも関係していよう。

さらに、地政学的には、韓国は島国台湾と違い大国に陸続きで外部からのストレスを受けやすい。気候は韓国は夏暑く冬寒く厳しい。それに他の事由も合わさり「恨の文化」が生まれたか。

台湾は一年中温暖。義娘の台湾の両親が来日した際言葉の壁で意思疎通がもどかしく、カラオケBOXで日台歌合戦を行うことが多い。私たち夫婦は演歌で韓国のトロット(韓国演歌)と似た哀愁に満ちている曲を多く唄う。台湾の両親の歌う歌は、皆明るく、悲しい歌を聴いたことがない。 国民性の違いも大いに関係しているのではないか。

台湾人は大陸の中国人と同じく多くは漢族と言えるが、台湾人(本省人)のルーツは福建省辺りから渡って行った漢族男性(当時男性単身以外中国からの出国が禁止されていた)と台湾原住民族(これが憲法に明記された正式名称であり日本で使う「先住民」は台湾では否定されていると前述の新井氏が同書の中で述べている)の女性とのミックス。

台湾人と中国人、性格が似ているようで、そうでない。お酒の件で言えば、橘玲氏の『もっと言ってはいけない』(新潮新書)によると、「下戸遺伝子」というものがあり、その保有率は中国北部は15.1%にすぎないが、福建省辺りの南部は23.1%に上がる。日本も23.9%と酒が弱い人が多い。

 酒席における中国人と台湾人の違いについて、私が業界団体に属していた時のエピソードを披露する。

中国のある都市のCDCから主任医師と副主任医師の二人の医師が来日した。ブッシュ元大統領と小泉元首相が居酒屋会談した西麻布店ではないが『権太』渋谷店で歓迎会を催した。副主任医師は宴会部長?も兼ねており座が白けると無理やり酒をあおって場を盛り上げようとする。こちらの若い人をけしかけて酒を飲ます。場がお開きになりトイレから戻ってきたその若い彼は足腰が立たなくなり銀座線渋谷駅まで介抱された。その後ひとり渋谷駅の車庫と浅草駅の間を何往復かする中で吐き、のたうち、スーツ、携帯、カバンをダメにしたという。アルコールハラスメント(アルハラ)と言えないが、中国人が下戸の日本人を酔い潰して溜飲を下げているように思える。『魯迅と紹興酒』(東方書店)で藤井省三氏が「中国の学会の公宴では、酔っ払いは君子・淑女に非ずと見做される」と言う。それでは、なおさらにそう思ってしまう。

そんな中華思想の共産党独裁国家に日本が支配される日が来るとしたら、「真っ先に天皇制が否定される。我々はどんな目に遭わされるか」と思うだけで、ぞ~とする。

一方、台湾で国際シンポジウムを開催した時、まず台北に入り故宮博物院に訪れ、翌日新幹線で台中入りした。同行の義娘の母親と合流し手配してもらったバスに乗り換え、義娘と母親を添乗員として、古都台南で昼食を摂った後灌漑用ダムを造り、台湾人が今でも感謝の念を忘れない、技師八田與一の墓参り(地元の人か花が手向けられていた)に向かった。

翌日の国際シンポジウム後の大学教授達とのレセプションでは、台湾人、日本人は中国人のように酒を無理強いすることはないと中国人を肴に盛り上がった。下戸同士ウマが合う。と思う以上に日本統治時代の日本教育が今の台湾人にも息づいているのではと感じた。

 

2019.9 臨時号 NO.120  ぐち VS  ぐち

 また今年も終戦記念日がやって来た。敗戦から70余年経っても、太平洋戦争を避ける機会があったのではと識者たちは考える。その一つとして、1932年のリットン調査団の報告を受け入れておればと言う意見もあろう。その報告は日本にとって悪い話ではなかった。満州国の独立は認めないが、日本の潜在的主権は認めるということであった。しかるに、それを不服として、日本の松岡洋右全権大使が決然と国際連盟を脱退してしまった。

 しかし、私はリットン調査団の報告を受け入れたとしても、結局戦争の時期が少しずれるだけで、やっぱり戦争になったと思う。

それは1989年の年末に日経平均が38,915円の史上最高値を記録したときの状況に似ている。翌新春には日経平均が4万円の大台になると囃し立てていた。中には、ケネディ大統領の父親が靴磨きが株の話をしているのを見て世界恐慌の導火線となる1929年のウォール街での株大暴落を予見した。それと同じく、バブルの中で庶民の主婦まで株の話をし始めたとして株の暴落を予知した人もいただろう。が、多勢に無勢、昭和恐慌を知らず、長らく一本調子に株が右肩上がりに推移するのをずっと見てきた人たちには、株が下がっても、すぐに回復するとしか思えない。38千円台で高値買しなかった人も30千円を割り込んだからと買いを入れて損をする。さらに株価が下がり「今こそ買う時機だ」と言って買い、結局皆損をしてしまう。

 米国の世界恐慌時における株価の調整局面は10年続いた。それを学んでいれば、日本もバブル崩壊からの株価の回復にも10年は要すると理解できるのだが(実際はバブル処理の失敗により、“失われた20年”と呼ばれるようになった)。人は経験のないことは理解しにくい。株は上がるものとしか思えない。大きな痛さを知って初めて株の本質(怖さ)を知る。

 

国際連盟を脱退して帰国すれば国民からの非難に晒されると危惧した松岡は逆に国民から英雄としてして賞賛された。であれば、リットン調査団報告を許諾したなら、国民から松岡は「そんな弱気でどうする!?」と罵倒されたのかもしれない。日比谷焼き討ち事件のごとく(戦争の実情を知らされていない大衆が大勝したと思う日露戦争後の講和条約に不満を抱き暴動となる)。真珠湾奇襲攻撃が成功したとき、大衆だけではなく知識人も戦勝に沸き返った。そんな国民からすれば戦争回避策はすべて弱腰と非難されただろう。

我々は、戦争責任を東條英機が率いる軍部に押し付けてはならない。あるいは、天皇に東條を進言した木戸幸一内務大臣に責任があると思ってもいけない。日清、日露に勝ち、部数拡大に走る新聞等に煽られ「不敗神話の神国日本は絶対に負けない」と思う国民にとって、東條でなくとも精神論でイケイケなトップなら、だれでもよかったのかもしれない。

 ドイツ人も、自らがナチスを生んだ、と言わないまでも、歓迎したことを認めず、ナチスを悪魔と非難するだけでは、反省したことにはならない。

 

 歴史に学ぶ学者でさえ、戦争での経験の有無が先の戦争の評価を変えていくようだ。中島岳志氏の『保守と大東亜戦争』(集英社新書)P258で、先の戦争を「侵略戦争」とする林健太郎と「アジア解放のための聖戦」と反論する中村粲との学者対立を紹介している。著者は、大東亜戦争開戦当時28歳だった林と7歳の中村とでは戦争体験をめぐる世代間ギャップが歴史認識のあり方に如実に反映されていると言う。

 私は、学者ではないので、All or Nothingの立場はとらない。真実は「侵略戦争」と「聖戦」の間にあると思っている。ただ、戦争を体験した侵略戦争派の根底には、目的は何であれ勝敗はどうであれ、悲惨な戦争はすべきではないとの想いが根底にあると思う。直接的な戦争体験がない聖戦派は、戦争の悲惨さに余り目を向けず、戦争の正当性を主張しているように、私には思える。

なお、自衛戦争ならまだしも聖戦というのは、耳障りがよく、それだけに危険でもある。

 ネット上のコラムを見ると、19443月の史上最悪の作戦と言われる『インパール作戦』でさえアジア解放のための聖戦としている。援蒋ルートの遮断を戦略目的として英軍拠点インド北東部の都市インパール攻略を目指したこの作戦で日本兵7万人が飢えに苦しむ中命を落としたとされる。この無謀な計画を食料など兵站問題で反対する師団長達は消極的、無駄口をたたくな!とばかりに愚将牟田口廉也中将に次々と更迭された。

 敗戦が濃厚の折、更迭された師団長達は、決して「アジアを解放するためになぜ我々がこんな無謀で拙速な作戦をしなければならないのか?」のような言い方はしていないハズだ。

ビルマ人やインド人が、日本のお蔭で独立できたと言っているのは、同じアジア人として、敗れた日本に対して、惻隠の情を示した。アジア人でも欧米人と対等に戦えるのかと目からウロコ、勇気もらったと感謝したということではないか。たしかに独立を支援した面はあろうが、日本は、敵の敵は味方と、ビルマ人やインド人に独立運動で英国に叛乱を起こさせようとしたのが本意だと思う。もし、日本が勝っていれば、大東亜共栄圏と言いながら、欧米の植民地主義のような奴隷扱いはしないが、二等国民として差別する植民地政策を採ると思われる。そうなれば、日本に対して独立運動が起こったに違いない。

 

戦後74年が経ち終戦当時20歳の人は今94歳にもなる。戦争の生き証人がほとんどいなくなっていく。本当の戦争の悲惨さを知らない人ばかりの、その危うい時代に、危うい政権がまだ続いていく。我々は世論としてまた大きな判断の誤りを犯してしまうのだろうか。

 「我々一人ひとりはアリのような小さな存在だから庶民の意見など意味をもたない」と思う人も少なくない。しかし、1万、10万、100万となれば、象も倒す大きな世論となる。

 今の国民主権ではなく、天皇主権の戦前においても、日米開戦に消極的な政府や現人神の天皇でさえ世論は無視しえなかった。世論が軍部に対して声を上げて反対していたら、武力で脅す軍部さえ政府は抑えられ、日本が日米開戦に舵を切ることはなかったかも。

 かくいう私も、学生時代からノンポリで政治に高い関心寄せ来なかった。ようやく、卒職に近づいた、本ブログを書き始めた頃から、少しずつ経験のないことは歴史に学び、右派、左派どちらのメディア情報も鵜呑みせず自分で考えだした、ばかりである。

 それで、私は自身が今は「保守」であることに気づいた。憲法に関して私が思う保守とは、「天皇制を維持し、平和憲法の精神を守り、その範囲内で、時代の変化に対応し、憲法を少しずつ改正し、日本を真の平和国家に昇華させていくこと」と捉えている。

この意味で言えば、安倍政権は決して保守とは言えない。天皇に対する向き合い方、憲法解釈による安保法制の強硬採決、米兵の為になっても紛争地の海外邦人救出の為にはならない改憲案を見れば。そうでないなら、天皇(現上皇)による(保阪正康氏が命名した)“平成の人間宣言”“平成の玉音放送”がなされることはなかったと思う。

 安倍政権を支持している人も、何をもって支持しているのか、終戦記念日のこの機によく自問してもらいたいものだ。戦前の愚を繰り返してはならない。

 

 

2019. 9NO.119 げき VS げき(2)

 次に、暴力団排除条例(以下「暴排条例」)について触れる。私は20145月号NO.35(「さっちゃん やっちゃん」)で暴排条例を批判した。本ブログ50号までを非買本にまとめるために知合いの印刷会社の支店長に依頼し、快諾してもらった。

校了寸前その支店長から申し訳なさそうに「前書きの文末に書かれている支店長への感謝の文言を削除してほしい」との連絡があった。協力者への感謝を書くのは慣例だと思うのだが、顧問弁護士?からか上記35号が暴力団を擁護していると注意されたらしい。私は擁護などしていない。憲法が保障する基本的人権から暴排条例を批判しただけだと反論したかったが、感謝している支店長を困らせてもと思い抵抗もせず削除した(本に詳しい人から、やっぱり素人は常識も知らないのだとは思われたくなかったが)

暴力団員だって人間。暴排条例は憲法の「平等権」に反している。それで法ではなく条例に落としたとの見方もある。「生存権」は憲法25条1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と書かれている。暴排条例の適用除外として、暴力団員でも医者に診てもらうことができる。コンビニ等で食物などは買わせてもらえる。生命を維持することだけは許してもらえる。後はよく分からない。文化的な最低限の生活を営む権利は、暴力団員にとって、家でテレビを観る。ステレオを聴くことだけなのか。

 洋の東西を問わず、古来から「罪を憎んで、人を憎まず」と諭されている。聖書(ヨハネ福音書8章)にも、孔子の書にも同じ意味のことが書かれているという。

 それでも、昔から日本の「世間」は犯罪者(刑期を終えた者でも)を「穢れ」として排除するきらいがある(この点については、別の機会に「さいばんVSさいはん」で触れることにする)。それで日本の「世間」は暴排条例に違和感を覚えないのか。

 

 人類は、1,000歳のアインシュタインを望まない。一定の年齢になれば癌という自爆装置が作動する(若い人の癌は誤作動。それとも免疫力の問題か。その原因も解明してもらいたい)。それが摂理なら癌はなくならない。しかし、医師は癌に色をつけ、退治しようと奮闘している。我々は良性腫瘍か悪性腫瘍か分からない。医師がその判別をしてくれる。

 この世から「悪」はなくならない(と私は思う)。なくなったら、警察は要らなくなる。それで、警察は暴力団に結社の自由を認め、その一方で暴排条例で抑えるのか。

 暴力団は生き残るため、色を消し、一線を画していたかたぎ社会に溶け込む。暴力団なりの矜持があり高齢者や弱者から金を奪うのを良しとしない。半グレとかを表に立て、暴力団は裏に隠れる。暴排条例以降振り込み詐欺認知件数は、暴排条例施行の前年平成22年と比較して倍増している(オレオレ詐欺は平成224,418件→平成309,145件、架空請求詐欺は同1,774件→同4,844件、還付金等詐欺は同83件→同1,904)

 米国からの外圧?からか、暴力団(米国のマフィアと同じとは思わないが)を減らすことに躍起になっているように見えるが、高齢者や弱者の被害が増えていることを警察はどう思っているのか。世の中がよくなったと思っているのか。

 我々市民は背広を着てネクタイを締めた、パリっとした恰好の男を見て、かたぎか反社か分からない。それは癌を判別する医師のごとく警察の仕事ではないか。反社と取引があると判明した企業に通告し、それでも取引を解消しない企業には罰則を与えるということでよいのではないか。それ以上のことを、本来警察が取り締まるべきことを、企業のコンプライアンスとして企業に要求するのはどうなのか。

 こういう視点から国家権力「警察」に問いかけ、問題提起するのがマスコミの役割ではないのか。しかるに、警察・検察のリーク情報を垂れ流しするのはまだしも、ゴシップ誌の記事を真偽を検証せず垂れ流す(テレ朝の玉川徹氏はいち早く自戒の弁を述べていたが)。さらに、宮迫氏や田村氏に高齢者等の詐欺被害者に謝れというようなことを煽り、世間の「穢れ」意識を刺激する。詐欺集団が高齢者からお金をだまし取るのに加担したのなら当然だが、そんなことはしていない二人にそこまで言うのは、誤って池に落ちて溺れかけている二人にバケツで頭に水をかけるのと同じだと思わないのか。ボランティアをしないといけないのは、不正販売をした日本郵便の役職員の方ではないか。

 

裁判員裁判で裁判員に選ばれたサラリーマンが「どうせ高裁で不公平と覆される」と思うも頑張って死刑判決を出した。仕事に戻り遅れを取り戻そうと踏ん張り大きな契約を得たが、後でじっくり調べたら反社と分かった。上司から「今月お前は一体何をしていたんだ!?」とドヤされた。こんな場合「俺は司法の下請けではないぞ!」と怒らないのか。それなら今の若い人は実に物分かりがよい。

 

2019. 9NO.119 げき VS げき(1)

 日本競馬界の至宝ディープインパクト17(人間換算52.5)で亡くなった。あと10年前後先の問題として今日69になる私とどっち先に逝くかと思っていたが、(馬と一緒にしては失礼だが)妻に先立たれた夫の気持ちがどんなものか少し分かった気がした。

 悲しみに堪えて、サラブレットにはない心があるばかりに、醜い姿を晒す人間界の話をする。

 

吉本興業(以下「吉本」)傘下の芸人入江慎也氏が仲介し宮迫博之氏、田村亮氏ら芸人数人が振り込み詐欺グループの会合に営業した過去の出来事が闇営業問題としてスクープされた。それが今や当該芸人に止まらず吉本の屋台骨を揺るがす大問題に発展している。

 この問題につき、独断と偏見気味ではあろうが私見を述べてみる。

私は昭和48年から平成5年末まで某銀行に所属した。暴対法が平成4年に制定されたので、在籍した20年のほとんどの期間おいて私の銀行でも暴力団との取引は存在した。

 私自身は営業の仕事をしていないので体験はないが、当時同僚に、組長の奥さんの所に定期的に預金を貰いに行っていた。敵対する組長同士が日本刀の突き刺された場に対峙している所に同席させられ震えあがった。組長に融資の引きを上げを通告した支店長が怖い思いをしたとか、そんな話を聞いていた。

その頃反社会的勢力という言葉はなかった。兵器に喩えれば、暴力団が核兵器で、反社会的勢力(以下「反社」)が大量破壊兵器ということになるか。

平成4年の暴対法が成立して以降暴力団が姿を変えていくのに対応して平成196月政府の犯罪対策閣僚会議幹事会申し合わせとして「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」が出されたが、法的拘束力がなかった。

それで、平成23年「暴力団排除条例」が全国で施行されることになる。断るのに窮していた芸能人や銀行員はさぞかし喜んだことであろう(かえって高齢者や弱者が詐欺被害に遭うケースが増えているのだが)。ただ、事の経緯からすれば、なぜ「反社会的勢力排除条例」ではないのか疑問が残る。排除条例自体を問題視する立場ではあるが。

 

平成259月銀行大手みずほ銀行が反社への融資を放置していたとして業務改善命令を金融庁から受け、世間は唖然とした。それならば、任侠の世界と過去密接な関係にあった興行の世界なら反社との関係の完全断ち切りはもっと困難と世間は思ったことだろう。

今回いち早く吉本と契約解除となった入江氏が直営業をしていることは、入江氏の年収が一億円とも言われる程手広く展開しているのなら、それを吉本の上層部が知らなかったと考えにくい。反社のグレーな先からの依頼の受け皿として入江氏の活動を見て見ぬふりをしていたのではないか。それならばこそ問題が表面化した時即切り捨てたのではないか。

お金は貰っていないとウソをつき世間のさらなるバッシングを受けた人気芸人の宮迫氏と田村氏両人は、所属の吉本から謝罪会見も許されず、吉本側の「静観」を「くさい物に蓋をする。自分らは闇に葬られる」と捉え、吉本に対する不信感が極まった。そして、当の二人は乾坤一擲捨て身の覚悟で謝罪会見を強行し、吉本に対して反撃する形となった。

 すると一転世間は二人に同情的になる。とくに朴訥ながら思いの丈を吐きだし潸然と涙する姿に心動かされ、田村氏は悲劇のヒーロー扱いとなる。

逆に吉本は釈明会見に追い込まれた。岡本社長は会見冒頭根拠も示さず宮迫氏の契約解除を撤回すると発表した。岡本社長の責任を問われると辞任しないと答え、社長が残る必要性を聞かれると沈黙が続いた後「みんなに、あとで聞いておきます」と答えた。吉本新喜劇の社長が一人芝居で新しい喜劇をしているのかと錯覚しそうになった。

 後日宮迫氏が完全否定したギャラ飲み疑惑のゴシップ誌側の反論記事が出ると、(宮迫氏を信じると言いながら)またすぐ契約解除の撤回の撤回もと発表する始末。まるで子飼い芸人より犯罪者グループの男の言うことを信じるかのように。

 

 宮迫・田村両氏と岡本社長の会見を見て、吉本自体が反社ではないか?と世間以上に驚いたのは行政だろう。今後国民が吉本を使う行政にも厳しい目を向けるから、行政は吉本に強い姿勢で臨むことになるに違いない。

国の公金を投入する多くの各省関連プロジェクトに吉本は参画している。それにふさわしいとは言えない組織なら、それは、現場マネージャー出身の大崎会長の手腕で急激に会社が大きくなり、家族経営的かつブラック企業的なオーナー企業のままで大手企業にふさわしい経営組織に脱皮できなかったということになろうか。

 財務、外務等主要ポストは経験がなく首相になり、官邸による独裁を行う安倍首相と大崎会長とはウマが合うのであろう。ただ、それでなくとも疑問視されていた吉本新喜劇の舞台に安倍首相が上がることはもうないであろう。

銀行に限らず大手企業では、キャリア・ノンキャリの区分はなく、トップになる人でも若い時は大崎会長のマネージャーのごとく現場の一線で働く。その後30年以上に亘りいろんな部署で試される。それをクリアしトップ候補になれば、人事、業務、企画の主要3部門長を歴任し他のトップ候補と併せその中からトップに任命される。会社の発展や環境変化に対応してふさわしいトップが選ばれる仕組みがシステム的に組織に内包されている。

 令和の加藤の乱と呼ばれる芸人加藤浩次氏はそれで大崎会長、岡本社長の辞任を求めたのか。しかし、狂犬と呼ばれた加藤氏でも大崎会長と会談後吠えなくなった。それだけ権力が絶大化している大崎会長の下では、内部の人間だけで国の仕事を請け負う企業にふさわしい組織体制への転換は難しいと言わざるをえない。できるものなら、吉本の東京本社を別会社にして、新会社の会長は大崎会長がなるにしても社長には会長と同じマネージャー上がりで会長に忠実な岡本社長ではなく、国の仕事を請け負う企業にふさわしい人材を外部から招聘する。その社長を補佐する社外取締役を置くのがよいと思うのだが。

若手芸人の不満を解消する待遇改善については、明石家さんまさんや(言動に私欲も見え隠れする? )松本人志さんのような吉本所属の大御所芸人の働きかけで可能だとは思うが。

 

2019.8 NO.118  あんらくし VS  あんらくし

市川海老蔵夫人小林麻央が亡くなって去る622日ではや2年、3回忌だ。美人薄命とはよく言ったものだ。神童モーツアルト、作曲家滝廉太郎、詩人石川啄木たちを見れば、「天才は夭折する」と言いたくなる。しかし、実際は、美人でなくても、天才でなくとも、早逝した人も多いハズ。惜しむ気持ちが、そう言わせるのだろう。

逆に、「憎まれっ子世に憚る」を地でいくような私がもし80歳を優に過ぎて生きているとしたら、知人らは、やはり「嫌われ者は長生きする」と言うだろう。忌々しいと思う気持ちがそう言わしめる。たしかに、(性格の)いい人は、ストレスを内に溜め込むかもしれないが、必ずしも短命になるとは限らない。長生きしている人も少なくないことだろう。

私はこうも思っている。銀行員時代仕事も遊びもエネルギッシュに活動していた人ほど早く亡くなっているとの印象がある。人生の充実度(内容の濃さ)と長生き度の積は皆同じ、一定なのでは。充実度比率(当該人物の充実度/国民平均充実度) ×長生き度比率(当該人物の寿命/国民平均寿命)1になるのではと思っている。歌舞伎役者で、お向こうをうならせ、私生活でも大いに浮名を流してきた故中村勘三郎、故坂東三津五郎は、充実度比率1.4×長生き度比率0.70.98(共に52歳で没した昭和の二大スター故石原裕次郎、故美空ひばりも同様だろう)。ストレスもなくより薄っぺらな人生を送ってきた庶民は、充実度比率0.9×長生き度比率1.10.99。もっともこれとて例外も多いことだろう。

例外がないのは、皆天寿を迎えること。長短があろうとも必ず人の命に終わりが来る。

その天寿を自らの意思で途中で終わらせてしまうことを自殺という。この「自殺」を「自死」と置きかえる動きがある。これに対して、本ブログ20139月号 NO.27(ウクライナ VS ウクライナ」)で、昔から「死」の文字は忌み嫌われているのに、なぜ、わざわざ「死」の文字を持ち出すのかと批判した。実際今でも、我々は、できるだけ死んだとは書かず、亡くなった、逝去した、永眠した、他界した、鬼籍に入ったなどと表現するハズだ。

 本ブログで反対してからもう6年弱になろうとする。毎週購読する週刊新潮にも「自死」の文字が躍る。今は昔ほど「死」の文字に対して抵抗がないという判断か。私一人が反対しても詮無い。百歩譲って広辞苑や大辞林に「自死」が載るのには黙認することにしよう。

 しかし、若者の「自殺」に「自死」を使うのは、止めてもらいたい。若者にとって、自死とは、ヴィクトール・フランクルが「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない」という中で、自分勝手に死ぬことだ。衝動的にしろ、何にしろ、親より先に逝くことだけでも親不孝なのに、自らを殺めるだけではなく、育てくれた恩に報いるべき遺族の心も殺してしまう(傷つくのは身内だけではない。安住紳一郎TBSアナは後輩で2008年自殺した川田亜子アナがSOSを発していたのに突き放したと今でも自責の念に苦しむ)

そんな大罪なのに、遺族の心の負担を軽減するためとして「自殺」を「自死」置き替える。却って自殺者本人には美化してしまうことにならないのか。

いじめによる自殺をいじめがなかったことにする(一部の)学校・教育委員会のようなあくどさは感じないが、自治体は、若者の死因の第一位となっている自殺に対してもっと真正面から取り組むことが必要ではないのか。

 

若者の自殺が心の癌とすると、老人の域に達した我々は心の癌にならずとも臓器の癌(2人に1)に向き合う運命にある。癌になれば、人生のゴールが突然目の前に迫り、人生の大きな選択を迫られる。二人の歌手が歌手の命でもある喉の癌を罹患した。つんくさんは、命を優先し、手術を選択した。故忌野清志郎は歌手生命を優先し、摘出しない癌治療を選択し3年後亡くなった。年齢、家族環境、人生観の違いもあり、その正否は問えない。

故大橋巨泉は、胃、中咽頭、リンパ節、肺、4度の手術や放射線治療を行った。私も前立腺放射線治療の経験があるが、治療というものは苦痛が伴うし、生活の質(QOL)が落ちる。それに何度も耐えられる巨泉の執念はすごい。寿々子夫人と再婚した際、子供に妻の愛情を奪われず独占したいとパイプカットした。我儘を通した分絶対夫人を一人きりにさせないと、癌と闘い続けた。最後は、私なら絶対にしない胃ろう(胃から直接栄養を摂取するための医療措置)までも巨泉は試みようとした(胃がん摘出で胃が小さすぎて出来ず)。夫人への深い愛と何としてでも約束を守ろうとする男気、私にはマネできるものではない。

一般論として、医師は「数%でも可能性があれば病気と闘うべきだ、あんな楽し、逝くのは人生の敗北」と言う。それはある面正しい。だが、患者が皆巨泉のようにはなれない。

私の母は背骨の小骨が折れて痛いと苦しんでいた。癌でないから天寿が分からない。担当医師にいつ死ねるのかと聞いていた。痛みが死の恐怖、この世の未練を薄れさせていく。

山中鹿之助が「我に艱難辛苦を与えたまえ!」と叫んだ時はまだ20代。人生が終わる段階で苦痛を耐えるためだけに生きるのに意味があるとは思えない。天寿まで待てない。

ベルギー、オランダ、ルクセンブルグでは、(積極的)安楽死と(医師による)自殺ほう助と両方法的に認められている(スイスは法的には自殺ほう助のみ?)。本人の自由意思と回復の見込みのない、耐え難い身体的苦痛を条件として。なお、スイスだけが安楽死を希望する外国人も受け入れしている。既に4名ほどの日本人がスイスで安楽死しているという。

先月NHKスペシャルが、『彼女は安楽死を選んだ』と題して、難病に苦しむ日本人女性がスイスで姉達に見守られて安楽死したのを取り上げ、問題提起した。未見の人はぜひ再放送を観て考えてもらいたい。私は、日本に於いても安楽死を認める方向で議論を進めてはと思う(「若者に生きる義務を、老人に死ぬ権利を」と言うのかとの批判もあろうが)

問題は、死を迎える本人が人間としての尊厳を失う前に個人の信条に従い死ぬという、広義での「尊厳死」(延命措置を望まない消極的安楽死を尊厳死という場合があるが、それは狭義の意味での尊厳死)だ。

保守の論客西部邁が入水自殺したのはまだ記憶に新しい。自殺理由は、「言論」の無力感、妻に先立たれたこと、身体的不調(神経痛)と私は勝手に推察している(一番の理由が何にしろ上述の積極的安楽死の対象にはならない)。前から自殺をほのめかしていた。訃報を聞いた知人たちの第一声は、「えっ!?」ではなく「やっぱり」だろう。

工学博士今野浩氏は近著『工学部ヒラノ教授の終活大作戦』(青土社)で、「自殺計画」の章で、妻に先立たれ、娘も同書上梓前後に亡くした博士自身の自殺手段を明記している。読んだ私は「う~む」と唸るだけ。もし同じことを学生が書けば大騒ぎになるだろう。

我々は、若者の自殺と老人のそれと暗黙のうちに区別しているのでは。会社人生に喩えると、若者の自殺は中途退職。老人のは早期退職。定年(天寿)に準ずるものとして捉えているのでは。老人が自由意思で早期退職を選ぶ、それを「自死」と呼ぶべきなのではないか。

脚本家の橋田壽賀子女史もこの問題に対し大きな声をあげておられる。賢い人達は、死とちゃんと向き合う。どう死ぬべきか。自分らしくなくなって生きていると言えるのか。ボケたり、寝たきりになり迷惑をかけてまで生きたくない、と考える。

分別のある賢い人だけ、人生の早期退職・尊厳死を認める訳にはいかない。皆自死するからと定年(天寿)まで生きたい人に強迫観念を植え付けさせてもいけない。

我々が生きている間に(広義の)尊厳死が認められることはないだろう。

賢くはないが、あんぽんたんほどの可愛げもない、中途半端な私は、賢人達ほど真剣に死について考えていない。ただ、家族に迷惑をかけてまで生きたくないとは思っている。

私は、仕事は真面目で決して流連荒亡ではなかったが、生き方としては放縦だったと思う。吉村昭作『海も暮れきる』(講談社)で知った俳人尾崎放哉ほどの放埓ではないにしても。

「咳しても一人」(放哉の自由律俳句の代表作)にならず、家族の温もりの中で人生の幕を降ろせるのはひとえに出来た妻のお蔭。感謝の一言に尽きる。死ぬ間際まで迷惑はかけられない。「消極的安楽死」を希望するliving willを書いておこう。書かなくても、医師から「延命措置を講じましょう」と勧められたら、妻は「とんでもない!」と即答するだろうが。

 

 

2019. 7 臨時号 NO.117  レビ VS  レビ

私はテレビをよく観る。昔からテレビっ子だった。『月光仮面』は家で観ていなかったから、ドラマが終了した昭和347月以降に、当時そう呼んでいた三種の神器(白黒テレビ、洗たく機、電気冷蔵庫)の内先陣を切り、神戸貧乏長屋の我が家にもテレビが鎮座した。

 テレビが私にとっての娯楽で、子供の頃遊びで運動したと言えるのは小学生のときのインサ(神戸の方言。「がんばこ」というドッジボール使った遊び)、草野球、草相撲と中学1年の時の卓球ぐらい。同級生に西浦君という学年でダントツ一番の秀才がいたが、親御さんが神戸駅近くで時計卸の会社を営んでいた。当時その会社ビルの2Fには卓球台が置かれていた。そこで毎日のように数人で学校帰りに立ち寄った。西浦君がいなくとも勝手知ったるなんとかで勝手に卓球をさせてもらっていた。

高校時代は受験勉強に明け暮れテレビもあまり観れなかったが、デビット・ジャンセン主演の『逃亡者』と真空飛び膝蹴りの沢村忠のキックボクシングは毎週欠かさず観ていた。

大学では、勉強、バイト、麻雀、レコード鑑賞、たまに映画で、それ以外は彼女とのデートという浮いた話もなく、テレビを観て過ごしていた。とくにスポーツ番組が好きだった。土日は競馬中継や囲碁番組を毎週観ていた。本を読むのは教財と参考文献中心で、毎日小説を読むような文学青年ではなかった。

 

 卒職した今は、家に居るときは、午前中妻にろくでもないと言われる本ブログの原稿を書き溜める。あるいは、パソコンでニュース記事を読む。最近はとくに、日産会長ゴーン事件で特捜部を批判する郷原信郎弁護士のTwitterを日々確認している。この他、月曜は競馬の種牡馬リーディング、火曜日は内外のプロゴルフファーの賞金・世界ランキング、たまにテニス世界ランキング、将棋の順位戦の勝敗表などをチェックする。台湾に親戚ができ中国語の勉強も日課とするが、英語も不得意な語学の才能のない私はさぼってばっかり。

 昼食を自分で摂った後自室のベッドに横たわり飽きない様2(新書中心)を交互に読む。いつの間にか寝ていることもしばしば。時には近所の喫茶店にて読書することもある。

夕食も、妻の分も一緒に私が作る(女房族は稼がなくなった亭主に食事を作るのが一番のストレスらしい。この一点をもって、ポチ犬であれナメクジであれ生き物扱いで粗大ごみにならずに私は済んでいる)。食事を済ませた後は、自室でYou Tubeで音楽を視聴した後眠るまでテレビを観ていることが多い。

 

TVが好きだと言っても、選り好みはある。喰わず嫌いの辛坊治郎氏、老いらくの北野武氏の番組は観ない。NHKもほとんど観ない。大相撲もたまにしか。朝ドラも中学生の時の『たまゆら』で終わった。自慢じゃないが、ゲゲゲもじぇ!じぇ!じぇ!も観ていない。ニュースも民放で事足りる。観るのはNHKスペシャルか日本オープンとかNHKでしか観ることができないスポーツ番組ぐらい。受信料は払っている。反NHKではなく、観ないでも困らないだけ(NHKしか観ないインテリの方は業況が反映する民放のCMは観た方がよい)

 夜はテレビを観ながら毎夜目を腫らしている。人前では母が亡くなったときも、娘が結婚したときも涙を見せなかったが、自室では涙腺が緩んでいる。ちょっとしたことで涙ぐんでしまう。68歳にもなると、自身が悲しいとか悔しいとかで泣くことはない。ボランティア達人尾畠春夫氏に助け出される前、行方不明の二歳児の我が子に向かって自治体のスピーカーを通して必死に呼びかけていたお母さんの姿をニュースで見る度、涙が溢れた。

盲導犬が役目を終え里親の所に戻る場面も絶対ダメ。我儘で我慢のできない私は、思い出しただけでも涙する。一部の動物愛護家が虐待だと批判するが、どういう方法にしろ、その存在を否定することを虐待と言うのだと思う(批判は筋違い)。犬が好きな訳ではない。猫にしろ触れない。私は盲導犬を擬人化してリスペクトしているのかもしれない。

 今お気に入りの番組は、日本贔屓の外国人が日本を訪れる番組。月曜の『YOUは何しに日本へ?』とその後の『世界!ニッポン行きたい人応援団』。外国人にとって日本は天国だ。日本にも人種差別はないとは言えないが、外国はもっと難儀。黒人に対してだけではなく、白人の間でも、差別と言うほどでなくてもアメリカ人VSカナダ人、フランス人VSベルギー人など関係が微妙だ。日本人はそんなの関係ない。ユダヤ人もクリスチャンもムスリムも知ったことではない。分け隔てなくおもてなしする。そんなところが気に入られ、ペルシャ系インド人を両親に持つフレディ・マーキュリーを初めQueenのメンバーも大の親日家になったのだろう。とくに、まれびと信仰のなごりなのか、地方の心の温かさともてなしは格別で、それに触れた外国人だけではなく、観ているこちらも涙が滲んでしまう。

 日本行きを切望し番組により夢が叶った外国人は、日本人にとってもはや関心が薄い日本の伝統工芸・技術に対して光を与え我々に素晴らしさを再認識させてくれる。紙漉き、カラクリ人形、寄木細工、手延べそうめん等に対する愛執の強さ、半端ない知識、教えを乞う真摯な態度を見て、心打たれた日本の職人たちは惜しみなく秘技を伝授する。互いに心通わせハグする姿を観て、いつも感涙にむせぶことになる。

 この他、土曜の『出没! アド街ック天国』『美の巨人たち』や水曜特番のカラオケ採点番組等(視聴率で苦戦していると言われる)テレビ東京の番組を私は観ることが多い。

 他局では、テレビ朝日の『あいつ今何してる?』を欠かさず観ている。芸能人等の学生時代の親しい同級生の今を調査する番組。同級生の波乱万丈の半生や芸能人となった同級生を陰ながら応援している様子を見ていると涙目になってくる。

故有賀さつきが昨秋登場した時、病気だとは全く想像もしなかったが、「ぜひみんなに会いたい」と言わなかったことに少し?の印象を持ったのを記憶に留めている。

 

最近健康番組と並んでクイズ番組が多いように思うが、スポンサー収入の減少の中お手軽なのか。素人の真剣勝負は観ることがあるが、芸能人によるクイズ・バラエティーは観ない。ギャラを貰った高学歴な俳優・芸人に「どうだ、賢いだろう」とのドヤ顔を見せられて、そんなの面白いものか。ノーギャラで賞金を懸けて真剣勝負するなら観る気が起きるのかもしれないが。

 『パックンマックン』という米国人と日本人との異色漫才コンピがいるが、そのコンピが漫才をしているのを観たことがない。漫才も頭が必要だが、学才とは別物らしい。

パックンこと米国人パトリック・ハーラン氏はハーバード大卒(何でコメディアンにと思ったが、離婚して極貧に辛い思いをしていた母を笑わすことが子供の頃の務めだったことに起因するとか)。高学歴(学力、知識、ブランド)を活かして、クイズ番組よりも、大学講師、講演活動、報道番組のMCなど、日本社会に順応しかつ貢献しようとしている。その姿勢は、高学歴エリートとしての使命感みたいなものが感じとれ、私は好感を覚える。

地上波は見るべきものが少なくなり、勢いBSの情報番組、歴史番組を観ることが多くなった。WOWOW等で映画も見る。卒職して鈍さが増した頭を刺激してくれる。『ローマの休日』を観ると、イタリアに行きたいとの気持ちが蘇ってきた。以前高校の同級生夫妻とイタリア旅行の話もあったのだが、ISのフランステロもあり立ち消えてしまった。トレビの泉や真実の口のようなべタな所に一度は訪問したいと思い直した(会社員ながら大学に短期留学中の長男ファミリーに会いに今月訪仏するが、残念ながら伊まで足を延ばせない)

また、アン王女に扮した故オードリー・ヘップバーンを見て、美人の定義とは? との疑問が浮かぶ人はまずいないだろうと思った。浮かぶ、そのことだけでもう美人とは言えない。大相撲の横綱の品格も同じことだと理解した。

 このままでは「地上波」は「痴情派」しか観なくなると本文を結ぶつもりで、ネットで確認すると、既に書き込みが多数見られた。このダジャレはもはや陳腐なんだと苦笑いした。だが、テレビマンは笑っている場合ではないぞ!