2019.9 NO.121  たい VS たい(1)

 2020年の大イベントと言えば、日本では東京五輪。世界に目を転じれば、11月に米国大統領選があり、その前に1/11台湾で総統選がある。私自身の願望は、赤がシンボルカラーの共和党トランプ米大統領が負け(青の民主党候補が勝つ) 青の国民党が負ける(緑の民進党蔡英文現総統が勝つ)ことである。しかし、台湾だけ青が勝ってしまう可能性もなしとしない。その時は私の気分もブルーになる。

 2012年長男が台湾女性と結婚し台湾に親戚が出来たが、義娘の両親は、台中に住む自営業の本省人なので、当然民進党支持かと思ったらそうでもないらしい。台湾の政治情勢に疎い私だが、一次情報ソースもない。それでアメブロ掲載の『中国情報ジャーナル ディープな香港・中国・台湾』や台湾に関係する団体の会報紙等を参考にさせてもらっている。

それらによると、2018年末中華民国統一地方選では、独立志向に対する中国政府からの圧力、締め付け、貿易相手の中国経済自体の失速等から台湾経済が低迷し、それが主因となり民進党が大敗し蔡総統は党首を辞任した。しかし、危ぶまれた民進党内予備選において蔡総統は有力視された前行政院長頼清徳氏に勝利した。1月の習近平中国国家主席の一国二制度による中台統一発言に毅然たる反対姿勢を見せ、香港での「逃亡犯条例改正への大規模な反対デモ」が追い風となり、総統の再選も可能なほど蔡総統は人気を回復している。

 

苦境に立っていた蔡総統に対し、折れそうな心を奮い立たせ、精神的に支えているのが、生誕100年を記念して自伝が発刊された史明(本名施朝暉)氏だ。にわか台湾フェチの私は恥ずかしながら史明氏を知らなかった。が、長男に薦められ読んでみた。

 史明氏は100年の生涯を通じて台湾独立に命を捧げた。革命という手段については、殺戮、粛清、恐怖政治のイメージが付きまとい、共感はしない。が、その志の高さと行動力は畏敬の念を抱く。台湾が民主化されてからは平和的な方法に転じる。一時期革命を学ぶため中国共産党と行動を共にした(疑念を抱き入党していない)ことで未だに共産党員のレッテルを貼られているが、中国共産党の真の姿を熟知しており、台湾国民に警鐘を鳴らす。

「賢者でない大衆が賢者でないトップを支える」とイヤミのようなことを言うだけの私とは違い、中国への接近の危うさに「なかなか市民が気をつけようとしない」と嘆息するも100歳を超えた今も精力的に政治活動している。尊敬を集めるのは至極当然のことだ。

 史明氏は昔早稲田大学に学んでおり、日本に愛着を感じ、日本人に敬意を払っているように思われる。自伝に特記された前田光枝という日本女性に対しても。彼女は史明氏の手先となり台湾人の2人と共に台湾での地下工作員として活動していたが国民党の当局に逮捕された。台湾人の2人は取引に応じて直に口を割ったが、彼女は拷問とも言える尋問や辱めを受けても決して仲間を売ることはしなかった。釈放後東京に戻り史明氏に「台湾人は確固たる政治理念や信念がない。人として信用できない」と訣別し、消え去ったという。

これこそが台湾人から敬仰される日本人像の一つではないか。史明氏は、日本版司法取引でゴーン会長を売った日産や談合がバレたら仲間を裏切り真っ先に抜け駆けした建設大手の今の日本男子に対して、どう思っているのだろうか。

 

 台湾は1624年のオランダ支配から始まり終始外部からの支配を受けてきた。日本にも支配され日本の敗戦時本省人は犬(日本軍・行政府)が去り、豚(中国国民党)が来たと言った。

2.28事件以降白色テロで台湾人を弾圧した国民党を白豚とするなら、今度は赤豚(中国共産党)が来るかと危惧されている。歴史的に韓国も台湾同様の境遇で日本にも支配された。同じ境遇なのに、今韓国は「反日」で台湾は一番の「親日」。その違いはどうしてなのか。

 台湾より韓国(及び北朝鮮)の方に日本軍がより酷いことをしたと言うのは簡単だが、台湾でも、収奪もあり、反抗する者は弾圧され、二等国民と差別され、日本語を強要されたのは同じだ。台湾は帝国日本から受けたメリット、デメリットを分けて考えるが、韓国は全面否定する。『台湾物語』(筑摩選書)で著者の新井一二三氏は、「台湾人は清朝に愛慕や郷愁の念がなく、清朝が自分の利益を守るために台湾を捨石にしたという恨みに似た感情を持っていた。朝鮮人は自民族の李王朝が日本に潰された悲劇を目の当たりにした、その事情の差も対日感情の差として表れているのでは」と言う。

加えて、台湾は戒厳令(1949年~1987)が解かれ排日が止んで行ったのに対し、韓国は反日教育とメディアによる反日煽動が今日まで続いていることも関係していよう。

さらに、地政学的には、韓国は島国台湾と違い大国に陸続きで外部からのストレスを受けやすい。気候は韓国は夏暑く冬寒く厳しい。それに他の事由も合わさり「恨の文化」が生まれたか。

台湾は一年中温暖。義娘の台湾の両親が来日した際言葉の壁で意思疎通がもどかしく、カラオケBOXで日台歌合戦を行うことが多い。私たち夫婦は演歌で韓国のトロット(韓国演歌)と似た哀愁に満ちている曲を多く唄う。台湾の両親の歌う歌は、皆明るく、悲しい歌を聴いたことがない。 国民性の違いも大いに関係しているのではないか。

台湾人は大陸の中国人と同じく多くは漢族と言えるが、台湾人(本省人)のルーツは福建省辺りから渡って行った漢族男性(当時男性単身以外中国からの出国が禁止されていた)と台湾原住民族(これが憲法に明記された正式名称であり日本で使う「先住民」は台湾では否定されていると前述の新井氏が同書の中で述べている)の女性とのミックス。

台湾人と中国人、性格が似ているようで、そうでない。お酒の件で言えば、橘玲氏の『もっと言ってはいけない』(新潮新書)によると、「下戸遺伝子」というものがあり、その保有率は中国北部は15.1%にすぎないが、福建省辺りの南部は23.1%に上がる。日本も23.9%と酒が弱い人が多い。

 酒席における中国人と台湾人の違いについて、私が業界団体に属していた時のエピソードを披露する。

中国のある都市のCDCから主任医師と副主任医師の二人の医師が来日した。ブッシュ元大統領と小泉元首相が居酒屋会談した西麻布店ではないが『権太』渋谷店で歓迎会を催した。副主任医師は宴会部長?も兼ねており座が白けると無理やり酒をあおって場を盛り上げようとする。こちらの若い人をけしかけて酒を飲ます。場がお開きになりトイレから戻ってきたその若い彼は足腰が立たなくなり銀座線渋谷駅まで介抱された。その後ひとり渋谷駅の車庫と浅草駅の間を何往復かする中で吐き、のたうち、スーツ、携帯、カバンをダメにしたという。アルコールハラスメント(アルハラ)と言えないが、中国人が下戸の日本人を酔い潰して溜飲を下げているように思える。『魯迅と紹興酒』(東方書店)で藤井省三氏が「中国の学会の公宴では、酔っ払いは君子・淑女に非ずと見做される」と言う。それでは、なおさらにそう思ってしまう。

そんな中華思想の共産党独裁国家に日本が支配される日が来るとしたら、「真っ先に天皇制が否定される。我々はどんな目に遭わされるか」と思うだけで、ぞ~とする。

一方、台湾で国際シンポジウムを開催した時、まず台北に入り故宮博物院に訪れ、翌日新幹線で台中入りした。同行の義娘の母親と合流し手配してもらったバスに乗り換え、義娘と母親を添乗員として、古都台南で昼食を摂った後灌漑用ダムを造り、台湾人が今でも感謝の念を忘れない、技師八田與一の墓参り(地元の人か花が手向けられていた)に向かった。

翌日の国際シンポジウム後の大学教授達とのレセプションでは、台湾人、日本人は中国人のように酒を無理強いすることはないと中国人を肴に盛り上がった。下戸同士ウマが合う。と思う以上に日本統治時代の日本教育が今の台湾人にも息づいているのではと感じた。

 

2019.9 臨時号 NO.120  ぐち VS  ぐち

 また今年も終戦記念日がやって来た。敗戦から70余年経っても、太平洋戦争を避ける機会があったのではと識者たちは考える。その一つとして、1932年のリットン調査団の報告を受け入れておればと言う意見もあろう。その報告は日本にとって悪い話ではなかった。満州国の独立は認めないが、日本の潜在的主権は認めるということであった。しかるに、それを不服として、日本の松岡洋右全権大使が決然と国際連盟を脱退してしまった。

 しかし、私はリットン調査団の報告を受け入れたとしても、結局戦争の時期が少しずれるだけで、やっぱり戦争になったと思う。

それは1989年の年末に日経平均が38,915円の史上最高値を記録したときの状況に似ている。翌新春には日経平均が4万円の大台になると囃し立てていた。中には、ケネディ大統領の父親が靴磨きが株の話をしているのを見て世界恐慌の導火線となる1929年のウォール街での株大暴落を予見した。それと同じく、バブルの中で庶民の主婦まで株の話をし始めたとして株の暴落を予知した人もいただろう。が、多勢に無勢、昭和恐慌を知らず、長らく一本調子に株が右肩上がりに推移するのをずっと見てきた人たちには、株が下がっても、すぐに回復するとしか思えない。38千円台で高値買しなかった人も30千円を割り込んだからと買いを入れて損をする。さらに株価が下がり「今こそ買う時機だ」と言って買い、結局皆損をしてしまう。

 米国の世界恐慌時における株価の調整局面は10年続いた。それを学んでいれば、日本もバブル崩壊からの株価の回復にも10年は要すると理解できるのだが(実際はバブル処理の失敗により、“失われた20年”と呼ばれるようになった)。人は経験のないことは理解しにくい。株は上がるものとしか思えない。大きな痛さを知って初めて株の本質(怖さ)を知る。

 

国際連盟を脱退して帰国すれば国民からの非難に晒されると危惧した松岡は逆に国民から英雄としてして賞賛された。であれば、リットン調査団報告を許諾したなら、国民から松岡は「そんな弱気でどうする!?」と罵倒されたのかもしれない。日比谷焼き討ち事件のごとく(戦争の実情を知らされていない大衆が大勝したと思う日露戦争後の講和条約に不満を抱き暴動となる)。真珠湾奇襲攻撃が成功したとき、大衆だけではなく知識人も戦勝に沸き返った。そんな国民からすれば戦争回避策はすべて弱腰と非難されただろう。

我々は、戦争責任を東條英機が率いる軍部に押し付けてはならない。あるいは、天皇に東條を進言した木戸幸一内務大臣に責任があると思ってもいけない。日清、日露に勝ち、部数拡大に走る新聞等に煽られ「不敗神話の神国日本は絶対に負けない」と思う国民にとって、東條でなくとも精神論でイケイケなトップなら、だれでもよかったのかもしれない。

 ドイツ人も、自らがナチスを生んだ、と言わないまでも、歓迎したことを認めず、ナチスを悪魔と非難するだけでは、反省したことにはならない。

 

 歴史に学ぶ学者でさえ、戦争での経験の有無が先の戦争の評価を変えていくようだ。中島岳志氏の『保守と大東亜戦争』(集英社新書)P258で、先の戦争を「侵略戦争」とする林健太郎と「アジア解放のための聖戦」と反論する中村粲との学者対立を紹介している。著者は、大東亜戦争開戦当時28歳だった林と7歳の中村とでは戦争体験をめぐる世代間ギャップが歴史認識のあり方に如実に反映されていると言う。

 私は、学者ではないので、All or Nothingの立場はとらない。真実は「侵略戦争」と「聖戦」の間にあると思っている。ただ、戦争を体験した侵略戦争派の根底には、目的は何であれ勝敗はどうであれ、悲惨な戦争はすべきではないとの想いが根底にあると思う。直接的な戦争体験がない聖戦派は、戦争の悲惨さに余り目を向けず、戦争の正当性を主張しているように、私には思える。

なお、自衛戦争ならまだしも聖戦というのは、耳障りがよく、それだけに危険でもある。

 ネット上のコラムを見ると、19443月の史上最悪の作戦と言われる『インパール作戦』でさえアジア解放のための聖戦としている。援蒋ルートの遮断を戦略目的として英軍拠点インド北東部の都市インパール攻略を目指したこの作戦で日本兵7万人が飢えに苦しむ中命を落としたとされる。この無謀な計画を食料など兵站問題で反対する師団長達は消極的、無駄口をたたくな!とばかりに愚将牟田口廉也中将に次々と更迭された。

 敗戦が濃厚の折、更迭された師団長達は、決して「アジアを解放するためになぜ我々がこんな無謀で拙速な作戦をしなければならないのか?」のような言い方はしていないハズだ。

ビルマ人やインド人が、日本のお蔭で独立できたと言っているのは、同じアジア人として、敗れた日本に対して、惻隠の情を示した。アジア人でも欧米人と対等に戦えるのかと目からウロコ、勇気もらったと感謝したということではないか。たしかに独立を支援した面はあろうが、日本は、敵の敵は味方と、ビルマ人やインド人に独立運動で英国に叛乱を起こさせようとしたのが本意だと思う。もし、日本が勝っていれば、大東亜共栄圏と言いながら、欧米の植民地主義のような奴隷扱いはしないが、二等国民として差別する植民地政策を採ると思われる。そうなれば、日本に対して独立運動が起こったに違いない。

 

戦後74年が経ち終戦当時20歳の人は今94歳にもなる。戦争の生き証人がほとんどいなくなっていく。本当の戦争の悲惨さを知らない人ばかりの、その危うい時代に、危うい政権がまだ続いていく。我々は世論としてまた大きな判断の誤りを犯してしまうのだろうか。

 「我々一人ひとりはアリのような小さな存在だから庶民の意見など意味をもたない」と思う人も少なくない。しかし、1万、10万、100万となれば、象も倒す大きな世論となる。

 今の国民主権ではなく、天皇主権の戦前においても、日米開戦に消極的な政府や現人神の天皇でさえ世論は無視しえなかった。世論が軍部に対して声を上げて反対していたら、武力で脅す軍部さえ政府は抑えられ、日本が日米開戦に舵を切ることはなかったかも。

 かくいう私も、学生時代からノンポリで政治に高い関心寄せ来なかった。ようやく、卒職に近づいた、本ブログを書き始めた頃から、少しずつ経験のないことは歴史に学び、右派、左派どちらのメディア情報も鵜呑みせず自分で考えだした、ばかりである。

 それで、私は自身が今は「保守」であることに気づいた。憲法に関して私が思う保守とは、「天皇制を維持し、平和憲法の精神を守り、その範囲内で、時代の変化に対応し、憲法を少しずつ改正し、日本を真の平和国家に昇華させていくこと」と捉えている。

この意味で言えば、安倍政権は決して保守とは言えない。天皇に対する向き合い方、憲法解釈による安保法制の強硬採決、米兵の為になっても紛争地の海外邦人救出の為にはならない改憲案を見れば。そうでないなら、天皇(現上皇)による(保阪正康氏が命名した)“平成の人間宣言”“平成の玉音放送”がなされることはなかったと思う。

 安倍政権を支持している人も、何をもって支持しているのか、終戦記念日のこの機によく自問してもらいたいものだ。戦前の愚を繰り返してはならない。

 

 

2019. 9NO.119 げき VS げき(2)

 次に、暴力団排除条例(以下「暴排条例」)について触れる。私は20145月号NO.35(「さっちゃん やっちゃん」)で暴排条例を批判した。本ブログ50号までを非買本にまとめるために知合いの印刷会社の支店長に依頼し、快諾してもらった。

校了寸前その支店長から申し訳なさそうに「前書きの文末に書かれている支店長への感謝の文言を削除してほしい」との連絡があった。協力者への感謝を書くのは慣例だと思うのだが、顧問弁護士?からか上記35号が暴力団を擁護していると注意されたらしい。私は擁護などしていない。憲法が保障する基本的人権から暴排条例を批判しただけだと反論したかったが、感謝している支店長を困らせてもと思い抵抗もせず削除した(本に詳しい人から、やっぱり素人は常識も知らないのだとは思われたくなかったが)

暴力団員だって人間。暴排条例は憲法の「平等権」に反している。それで法ではなく条例に落としたとの見方もある。「生存権」は憲法25条1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と書かれている。暴排条例の適用除外として、暴力団員でも医者に診てもらうことができる。コンビニ等で食物などは買わせてもらえる。生命を維持することだけは許してもらえる。後はよく分からない。文化的な最低限の生活を営む権利は、暴力団員にとって、家でテレビを観る。ステレオを聴くことだけなのか。

 洋の東西を問わず、古来から「罪を憎んで、人を憎まず」と諭されている。聖書(ヨハネ福音書8章)にも、孔子の書にも同じ意味のことが書かれているという。

 それでも、昔から日本の「世間」は犯罪者(刑期を終えた者でも)を「穢れ」として排除するきらいがある(この点については、別の機会に「さいばんVSさいはん」で触れることにする)。それで日本の「世間」は暴排条例に違和感を覚えないのか。

 

 人類は、1,000歳のアインシュタインを望まない。一定の年齢になれば癌という自爆装置が作動する(若い人の癌は誤作動。それとも免疫力の問題か。その原因も解明してもらいたい)。それが摂理なら癌はなくならない。しかし、医師は癌に色をつけ、退治しようと奮闘している。我々は良性腫瘍か悪性腫瘍か分からない。医師がその判別をしてくれる。

 この世から「悪」はなくならない(と私は思う)。なくなったら、警察は要らなくなる。それで、警察は暴力団に結社の自由を認め、その一方で暴排条例で抑えるのか。

 暴力団は生き残るため、色を消し、一線を画していたかたぎ社会に溶け込む。暴力団なりの矜持があり高齢者や弱者から金を奪うのを良しとしない。半グレとかを表に立て、暴力団は裏に隠れる。暴排条例以降振り込み詐欺認知件数は、暴排条例施行の前年平成22年と比較して倍増している(オレオレ詐欺は平成224,418件→平成309,145件、架空請求詐欺は同1,774件→同4,844件、還付金等詐欺は同83件→同1,904)

 米国からの外圧?からか、暴力団(米国のマフィアと同じとは思わないが)を減らすことに躍起になっているように見えるが、高齢者や弱者の被害が増えていることを警察はどう思っているのか。世の中がよくなったと思っているのか。

 我々市民は背広を着てネクタイを締めた、パリっとした恰好の男を見て、かたぎか反社か分からない。それは癌を判別する医師のごとく警察の仕事ではないか。反社と取引があると判明した企業に通告し、それでも取引を解消しない企業には罰則を与えるということでよいのではないか。それ以上のことを、本来警察が取り締まるべきことを、企業のコンプライアンスとして企業に要求するのはどうなのか。

 こういう視点から国家権力「警察」に問いかけ、問題提起するのがマスコミの役割ではないのか。しかるに、警察・検察のリーク情報を垂れ流しするのはまだしも、ゴシップ誌の記事を真偽を検証せず垂れ流す(テレ朝の玉川徹氏はいち早く自戒の弁を述べていたが)。さらに、宮迫氏や田村氏に高齢者等の詐欺被害者に謝れというようなことを煽り、世間の「穢れ」意識を刺激する。詐欺集団が高齢者からお金をだまし取るのに加担したのなら当然だが、そんなことはしていない二人にそこまで言うのは、誤って池に落ちて溺れかけている二人にバケツで頭に水をかけるのと同じだと思わないのか。ボランティアをしないといけないのは、不正販売をした日本郵便の役職員の方ではないか。

 

裁判員裁判で裁判員に選ばれたサラリーマンが「どうせ高裁で不公平と覆される」と思うも頑張って死刑判決を出した。仕事に戻り遅れを取り戻そうと踏ん張り大きな契約を得たが、後でじっくり調べたら反社と分かった。上司から「今月お前は一体何をしていたんだ!?」とドヤされた。こんな場合「俺は司法の下請けではないぞ!」と怒らないのか。それなら今の若い人は実に物分かりがよい。

 

2019. 9NO.119 げき VS げき(1)

 日本競馬界の至宝ディープインパクト17(人間換算52.5)で亡くなった。あと10年前後先の問題として今日69になる私とどっち先に逝くかと思っていたが、(馬と一緒にしては失礼だが)妻に先立たれた夫の気持ちがどんなものか少し分かった気がした。

 悲しみに堪えて、サラブレットにはない心があるばかりに、醜い姿を晒す人間界の話をする。

 

吉本興業(以下「吉本」)傘下の芸人入江慎也氏が仲介し宮迫博之氏、田村亮氏ら芸人数人が振り込み詐欺グループの会合に営業した過去の出来事が闇営業問題としてスクープされた。それが今や当該芸人に止まらず吉本の屋台骨を揺るがす大問題に発展している。

 この問題につき、独断と偏見気味ではあろうが私見を述べてみる。

私は昭和48年から平成5年末まで某銀行に所属した。暴対法が平成4年に制定されたので、在籍した20年のほとんどの期間おいて私の銀行でも暴力団との取引は存在した。

 私自身は営業の仕事をしていないので体験はないが、当時同僚に、組長の奥さんの所に定期的に預金を貰いに行っていた。敵対する組長同士が日本刀の突き刺された場に対峙している所に同席させられ震えあがった。組長に融資の引きを上げを通告した支店長が怖い思いをしたとか、そんな話を聞いていた。

その頃反社会的勢力という言葉はなかった。兵器に喩えれば、暴力団が核兵器で、反社会的勢力(以下「反社」)が大量破壊兵器ということになるか。

平成4年の暴対法が成立して以降暴力団が姿を変えていくのに対応して平成196月政府の犯罪対策閣僚会議幹事会申し合わせとして「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」が出されたが、法的拘束力がなかった。

それで、平成23年「暴力団排除条例」が全国で施行されることになる。断るのに窮していた芸能人や銀行員はさぞかし喜んだことであろう(かえって高齢者や弱者が詐欺被害に遭うケースが増えているのだが)。ただ、事の経緯からすれば、なぜ「反社会的勢力排除条例」ではないのか疑問が残る。排除条例自体を問題視する立場ではあるが。

 

平成259月銀行大手みずほ銀行が反社への融資を放置していたとして業務改善命令を金融庁から受け、世間は唖然とした。それならば、任侠の世界と過去密接な関係にあった興行の世界なら反社との関係の完全断ち切りはもっと困難と世間は思ったことだろう。

今回いち早く吉本と契約解除となった入江氏が直営業をしていることは、入江氏の年収が一億円とも言われる程手広く展開しているのなら、それを吉本の上層部が知らなかったと考えにくい。反社のグレーな先からの依頼の受け皿として入江氏の活動を見て見ぬふりをしていたのではないか。それならばこそ問題が表面化した時即切り捨てたのではないか。

お金は貰っていないとウソをつき世間のさらなるバッシングを受けた人気芸人の宮迫氏と田村氏両人は、所属の吉本から謝罪会見も許されず、吉本側の「静観」を「くさい物に蓋をする。自分らは闇に葬られる」と捉え、吉本に対する不信感が極まった。そして、当の二人は乾坤一擲捨て身の覚悟で謝罪会見を強行し、吉本に対して反撃する形となった。

 すると一転世間は二人に同情的になる。とくに朴訥ながら思いの丈を吐きだし潸然と涙する姿に心動かされ、田村氏は悲劇のヒーロー扱いとなる。

逆に吉本は釈明会見に追い込まれた。岡本社長は会見冒頭根拠も示さず宮迫氏の契約解除を撤回すると発表した。岡本社長の責任を問われると辞任しないと答え、社長が残る必要性を聞かれると沈黙が続いた後「みんなに、あとで聞いておきます」と答えた。吉本新喜劇の社長が一人芝居で新しい喜劇をしているのかと錯覚しそうになった。

 後日宮迫氏が完全否定したギャラ飲み疑惑のゴシップ誌側の反論記事が出ると、(宮迫氏を信じると言いながら)またすぐ契約解除の撤回の撤回もと発表する始末。まるで子飼い芸人より犯罪者グループの男の言うことを信じるかのように。

 

 宮迫・田村両氏と岡本社長の会見を見て、吉本自体が反社ではないか?と世間以上に驚いたのは行政だろう。今後国民が吉本を使う行政にも厳しい目を向けるから、行政は吉本に強い姿勢で臨むことになるに違いない。

国の公金を投入する多くの各省関連プロジェクトに吉本は参画している。それにふさわしいとは言えない組織なら、それは、現場マネージャー出身の大崎会長の手腕で急激に会社が大きくなり、家族経営的かつブラック企業的なオーナー企業のままで大手企業にふさわしい経営組織に脱皮できなかったということになろうか。

 財務、外務等主要ポストは経験がなく首相になり、官邸による独裁を行う安倍首相と大崎会長とはウマが合うのであろう。ただ、それでなくとも疑問視されていた吉本新喜劇の舞台に安倍首相が上がることはもうないであろう。

銀行に限らず大手企業では、キャリア・ノンキャリの区分はなく、トップになる人でも若い時は大崎会長のマネージャーのごとく現場の一線で働く。その後30年以上に亘りいろんな部署で試される。それをクリアしトップ候補になれば、人事、業務、企画の主要3部門長を歴任し他のトップ候補と併せその中からトップに任命される。会社の発展や環境変化に対応してふさわしいトップが選ばれる仕組みがシステム的に組織に内包されている。

 令和の加藤の乱と呼ばれる芸人加藤浩次氏はそれで大崎会長、岡本社長の辞任を求めたのか。しかし、狂犬と呼ばれた加藤氏でも大崎会長と会談後吠えなくなった。それだけ権力が絶大化している大崎会長の下では、内部の人間だけで国の仕事を請け負う企業にふさわしい組織体制への転換は難しいと言わざるをえない。できるものなら、吉本の東京本社を別会社にして、新会社の会長は大崎会長がなるにしても社長には会長と同じマネージャー上がりで会長に忠実な岡本社長ではなく、国の仕事を請け負う企業にふさわしい人材を外部から招聘する。その社長を補佐する社外取締役を置くのがよいと思うのだが。

若手芸人の不満を解消する待遇改善については、明石家さんまさんや(言動に私欲も見え隠れする? )松本人志さんのような吉本所属の大御所芸人の働きかけで可能だとは思うが。

 

2019.8 NO.118  あんらくし VS  あんらくし

市川海老蔵夫人小林麻央が亡くなって去る622日ではや2年、3回忌だ。美人薄命とはよく言ったものだ。神童モーツアルト、作曲家滝廉太郎、詩人石川啄木たちを見れば、「天才は夭折する」と言いたくなる。しかし、実際は、美人でなくても、天才でなくとも、早逝した人も多いハズ。惜しむ気持ちが、そう言わせるのだろう。

逆に、「憎まれっ子世に憚る」を地でいくような私がもし80歳を優に過ぎて生きているとしたら、知人らは、やはり「嫌われ者は長生きする」と言うだろう。忌々しいと思う気持ちがそう言わしめる。たしかに、(性格の)いい人は、ストレスを内に溜め込むかもしれないが、必ずしも短命になるとは限らない。長生きしている人も少なくないことだろう。

私はこうも思っている。銀行員時代仕事も遊びもエネルギッシュに活動していた人ほど早く亡くなっているとの印象がある。人生の充実度(内容の濃さ)と長生き度の積は皆同じ、一定なのでは。充実度比率(当該人物の充実度/国民平均充実度) ×長生き度比率(当該人物の寿命/国民平均寿命)1になるのではと思っている。歌舞伎役者で、お向こうをうならせ、私生活でも大いに浮名を流してきた故中村勘三郎、故坂東三津五郎は、充実度比率1.4×長生き度比率0.70.98(共に52歳で没した昭和の二大スター故石原裕次郎、故美空ひばりも同様だろう)。ストレスもなくより薄っぺらな人生を送ってきた庶民は、充実度比率0.9×長生き度比率1.10.99。もっともこれとて例外も多いことだろう。

例外がないのは、皆天寿を迎えること。長短があろうとも必ず人の命に終わりが来る。

その天寿を自らの意思で途中で終わらせてしまうことを自殺という。この「自殺」を「自死」と置きかえる動きがある。これに対して、本ブログ20139月号 NO.27(ウクライナ VS ウクライナ」)で、昔から「死」の文字は忌み嫌われているのに、なぜ、わざわざ「死」の文字を持ち出すのかと批判した。実際今でも、我々は、できるだけ死んだとは書かず、亡くなった、逝去した、永眠した、他界した、鬼籍に入ったなどと表現するハズだ。

 本ブログで反対してからもう6年弱になろうとする。毎週購読する週刊新潮にも「自死」の文字が躍る。今は昔ほど「死」の文字に対して抵抗がないという判断か。私一人が反対しても詮無い。百歩譲って広辞苑や大辞林に「自死」が載るのには黙認することにしよう。

 しかし、若者の「自殺」に「自死」を使うのは、止めてもらいたい。若者にとって、自死とは、ヴィクトール・フランクルが「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない」という中で、自分勝手に死ぬことだ。衝動的にしろ、何にしろ、親より先に逝くことだけでも親不孝なのに、自らを殺めるだけではなく、育てくれた恩に報いるべき遺族の心も殺してしまう(傷つくのは身内だけではない。安住紳一郎TBSアナは後輩で2008年自殺した川田亜子アナがSOSを発していたのに突き放したと今でも自責の念に苦しむ)

そんな大罪なのに、遺族の心の負担を軽減するためとして「自殺」を「自死」置き替える。却って自殺者本人には美化してしまうことにならないのか。

いじめによる自殺をいじめがなかったことにする(一部の)学校・教育委員会のようなあくどさは感じないが、自治体は、若者の死因の第一位となっている自殺に対してもっと真正面から取り組むことが必要ではないのか。

 

若者の自殺が心の癌とすると、老人の域に達した我々は心の癌にならずとも臓器の癌(2人に1)に向き合う運命にある。癌になれば、人生のゴールが突然目の前に迫り、人生の大きな選択を迫られる。二人の歌手が歌手の命でもある喉の癌を罹患した。つんくさんは、命を優先し、手術を選択した。故忌野清志郎は歌手生命を優先し、摘出しない癌治療を選択し3年後亡くなった。年齢、家族環境、人生観の違いもあり、その正否は問えない。

故大橋巨泉は、胃、中咽頭、リンパ節、肺、4度の手術や放射線治療を行った。私も前立腺放射線治療の経験があるが、治療というものは苦痛が伴うし、生活の質(QOL)が落ちる。それに何度も耐えられる巨泉の執念はすごい。寿々子夫人と再婚した際、子供に妻の愛情を奪われず独占したいとパイプカットした。我儘を通した分絶対夫人を一人きりにさせないと、癌と闘い続けた。最後は、私なら絶対にしない胃ろう(胃から直接栄養を摂取するための医療措置)までも巨泉は試みようとした(胃がん摘出で胃が小さすぎて出来ず)。夫人への深い愛と何としてでも約束を守ろうとする男気、私にはマネできるものではない。

一般論として、医師は「数%でも可能性があれば病気と闘うべきだ、あんな楽し、逝くのは人生の敗北」と言う。それはある面正しい。だが、患者が皆巨泉のようにはなれない。

私の母は背骨の小骨が折れて痛いと苦しんでいた。癌でないから天寿が分からない。担当医師にいつ死ねるのかと聞いていた。痛みが死の恐怖、この世の未練を薄れさせていく。

山中鹿之助が「我に艱難辛苦を与えたまえ!」と叫んだ時はまだ20代。人生が終わる段階で苦痛を耐えるためだけに生きるのに意味があるとは思えない。天寿まで待てない。

ベルギー、オランダ、ルクセンブルグでは、(積極的)安楽死と(医師による)自殺ほう助と両方法的に認められている(スイスは法的には自殺ほう助のみ?)。本人の自由意思と回復の見込みのない、耐え難い身体的苦痛を条件として。なお、スイスだけが安楽死を希望する外国人も受け入れしている。既に4名ほどの日本人がスイスで安楽死しているという。

先月NHKスペシャルが、『彼女は安楽死を選んだ』と題して、難病に苦しむ日本人女性がスイスで姉達に見守られて安楽死したのを取り上げ、問題提起した。未見の人はぜひ再放送を観て考えてもらいたい。私は、日本に於いても安楽死を認める方向で議論を進めてはと思う(「若者に生きる義務を、老人に死ぬ権利を」と言うのかとの批判もあろうが)

問題は、死を迎える本人が人間としての尊厳を失う前に個人の信条に従い死ぬという、広義での「尊厳死」(延命措置を望まない消極的安楽死を尊厳死という場合があるが、それは狭義の意味での尊厳死)だ。

保守の論客西部邁が入水自殺したのはまだ記憶に新しい。自殺理由は、「言論」の無力感、妻に先立たれたこと、身体的不調(神経痛)と私は勝手に推察している(一番の理由が何にしろ上述の積極的安楽死の対象にはならない)。前から自殺をほのめかしていた。訃報を聞いた知人たちの第一声は、「えっ!?」ではなく「やっぱり」だろう。

工学博士今野浩氏は近著『工学部ヒラノ教授の終活大作戦』(青土社)で、「自殺計画」の章で、妻に先立たれ、娘も同書上梓前後に亡くした博士自身の自殺手段を明記している。読んだ私は「う~む」と唸るだけ。もし同じことを学生が書けば大騒ぎになるだろう。

我々は、若者の自殺と老人のそれと暗黙のうちに区別しているのでは。会社人生に喩えると、若者の自殺は中途退職。老人のは早期退職。定年(天寿)に準ずるものとして捉えているのでは。老人が自由意思で早期退職を選ぶ、それを「自死」と呼ぶべきなのではないか。

脚本家の橋田壽賀子女史もこの問題に対し大きな声をあげておられる。賢い人達は、死とちゃんと向き合う。どう死ぬべきか。自分らしくなくなって生きていると言えるのか。ボケたり、寝たきりになり迷惑をかけてまで生きたくない、と考える。

分別のある賢い人だけ、人生の早期退職・尊厳死を認める訳にはいかない。皆自死するからと定年(天寿)まで生きたい人に強迫観念を植え付けさせてもいけない。

我々が生きている間に(広義の)尊厳死が認められることはないだろう。

賢くはないが、あんぽんたんほどの可愛げもない、中途半端な私は、賢人達ほど真剣に死について考えていない。ただ、家族に迷惑をかけてまで生きたくないとは思っている。

私は、仕事は真面目で決して流連荒亡ではなかったが、生き方としては放縦だったと思う。吉村昭作『海も暮れきる』(講談社)で知った俳人尾崎放哉ほどの放埓ではないにしても。

「咳しても一人」(放哉の自由律俳句の代表作)にならず、家族の温もりの中で人生の幕を降ろせるのはひとえに出来た妻のお蔭。感謝の一言に尽きる。死ぬ間際まで迷惑はかけられない。「消極的安楽死」を希望するliving willを書いておこう。書かなくても、医師から「延命措置を講じましょう」と勧められたら、妻は「とんでもない!」と即答するだろうが。

 

 

2019. 7 臨時号 NO.117  レビ VS  レビ

私はテレビをよく観る。昔からテレビっ子だった。『月光仮面』は家で観ていなかったから、ドラマが終了した昭和347月以降に、当時そう呼んでいた三種の神器(白黒テレビ、洗たく機、電気冷蔵庫)の内先陣を切り、神戸貧乏長屋の我が家にもテレビが鎮座した。

 テレビが私にとっての娯楽で、子供の頃遊びで運動したと言えるのは小学生のときのインサ(神戸の方言。「がんばこ」というドッジボール使った遊び)、草野球、草相撲と中学1年の時の卓球ぐらい。同級生に西浦君という学年でダントツ一番の秀才がいたが、親御さんが神戸駅近くで時計卸の会社を営んでいた。当時その会社ビルの2Fには卓球台が置かれていた。そこで毎日のように数人で学校帰りに立ち寄った。西浦君がいなくとも勝手知ったるなんとかで勝手に卓球をさせてもらっていた。

高校時代は受験勉強に明け暮れテレビもあまり観れなかったが、デビット・ジャンセン主演の『逃亡者』と真空飛び膝蹴りの沢村忠のキックボクシングは毎週欠かさず観ていた。

大学では、勉強、バイト、麻雀、レコード鑑賞、たまに映画で、それ以外は彼女とのデートという浮いた話もなく、テレビを観て過ごしていた。とくにスポーツ番組が好きだった。土日は競馬中継や囲碁番組を毎週観ていた。本を読むのは教財と参考文献中心で、毎日小説を読むような文学青年ではなかった。

 

 卒職した今は、家に居るときは、午前中妻にろくでもないと言われる本ブログの原稿を書き溜める。あるいは、パソコンでニュース記事を読む。最近はとくに、日産会長ゴーン事件で特捜部を批判する郷原信郎弁護士のTwitterを日々確認している。この他、月曜は競馬の種牡馬リーディング、火曜日は内外のプロゴルフファーの賞金・世界ランキング、たまにテニス世界ランキング、将棋の順位戦の勝敗表などをチェックする。台湾に親戚ができ中国語の勉強も日課とするが、英語も不得意な語学の才能のない私はさぼってばっかり。

 昼食を自分で摂った後自室のベッドに横たわり飽きない様2(新書中心)を交互に読む。いつの間にか寝ていることもしばしば。時には近所の喫茶店にて読書することもある。

夕食も、妻の分も一緒に私が作る(女房族は稼がなくなった亭主に食事を作るのが一番のストレスらしい。この一点をもって、ポチ犬であれナメクジであれ生き物扱いで粗大ごみにならずに私は済んでいる)。食事を済ませた後は、自室でYou Tubeで音楽を視聴した後眠るまでテレビを観ていることが多い。

 

TVが好きだと言っても、選り好みはある。喰わず嫌いの辛坊治郎氏、老いらくの北野武氏の番組は観ない。NHKもほとんど観ない。大相撲もたまにしか。朝ドラも中学生の時の『たまゆら』で終わった。自慢じゃないが、ゲゲゲもじぇ!じぇ!じぇ!も観ていない。ニュースも民放で事足りる。観るのはNHKスペシャルか日本オープンとかNHKでしか観ることができないスポーツ番組ぐらい。受信料は払っている。反NHKではなく、観ないでも困らないだけ(NHKしか観ないインテリの方は業況が反映する民放のCMは観た方がよい)

 夜はテレビを観ながら毎夜目を腫らしている。人前では母が亡くなったときも、娘が結婚したときも涙を見せなかったが、自室では涙腺が緩んでいる。ちょっとしたことで涙ぐんでしまう。68歳にもなると、自身が悲しいとか悔しいとかで泣くことはない。ボランティア達人尾畠春夫氏に助け出される前、行方不明の二歳児の我が子に向かって自治体のスピーカーを通して必死に呼びかけていたお母さんの姿をニュースで見る度、涙が溢れた。

盲導犬が役目を終え里親の所に戻る場面も絶対ダメ。我儘で我慢のできない私は、思い出しただけでも涙する。一部の動物愛護家が虐待だと批判するが、どういう方法にしろ、その存在を否定することを虐待と言うのだと思う(批判は筋違い)。犬が好きな訳ではない。猫にしろ触れない。私は盲導犬を擬人化してリスペクトしているのかもしれない。

 今お気に入りの番組は、日本贔屓の外国人が日本を訪れる番組。月曜の『YOUは何しに日本へ?』とその後の『世界!ニッポン行きたい人応援団』。外国人にとって日本は天国だ。日本にも人種差別はないとは言えないが、外国はもっと難儀。黒人に対してだけではなく、白人の間でも、差別と言うほどでなくてもアメリカ人VSカナダ人、フランス人VSベルギー人など関係が微妙だ。日本人はそんなの関係ない。ユダヤ人もクリスチャンもムスリムも知ったことではない。分け隔てなくおもてなしする。そんなところが気に入られ、ペルシャ系インド人を両親に持つフレディ・マーキュリーを初めQueenのメンバーも大の親日家になったのだろう。とくに、まれびと信仰のなごりなのか、地方の心の温かさともてなしは格別で、それに触れた外国人だけではなく、観ているこちらも涙が滲んでしまう。

 日本行きを切望し番組により夢が叶った外国人は、日本人にとってもはや関心が薄い日本の伝統工芸・技術に対して光を与え我々に素晴らしさを再認識させてくれる。紙漉き、カラクリ人形、寄木細工、手延べそうめん等に対する愛執の強さ、半端ない知識、教えを乞う真摯な態度を見て、心打たれた日本の職人たちは惜しみなく秘技を伝授する。互いに心通わせハグする姿を観て、いつも感涙にむせぶことになる。

 この他、土曜の『出没! アド街ック天国』『美の巨人たち』や水曜特番のカラオケ採点番組等(視聴率で苦戦していると言われる)テレビ東京の番組を私は観ることが多い。

 他局では、テレビ朝日の『あいつ今何してる?』を欠かさず観ている。芸能人等の学生時代の親しい同級生の今を調査する番組。同級生の波乱万丈の半生や芸能人となった同級生を陰ながら応援している様子を見ていると涙目になってくる。

故有賀さつきが昨秋登場した時、病気だとは全く想像もしなかったが、「ぜひみんなに会いたい」と言わなかったことに少し?の印象を持ったのを記憶に留めている。

 

最近健康番組と並んでクイズ番組が多いように思うが、スポンサー収入の減少の中お手軽なのか。素人の真剣勝負は観ることがあるが、芸能人によるクイズ・バラエティーは観ない。ギャラを貰った高学歴な俳優・芸人に「どうだ、賢いだろう」とのドヤ顔を見せられて、そんなの面白いものか。ノーギャラで賞金を懸けて真剣勝負するなら観る気が起きるのかもしれないが。

 『パックンマックン』という米国人と日本人との異色漫才コンピがいるが、そのコンピが漫才をしているのを観たことがない。漫才も頭が必要だが、学才とは別物らしい。

パックンこと米国人パトリック・ハーラン氏はハーバード大卒(何でコメディアンにと思ったが、離婚して極貧に辛い思いをしていた母を笑わすことが子供の頃の務めだったことに起因するとか)。高学歴(学力、知識、ブランド)を活かして、クイズ番組よりも、大学講師、講演活動、報道番組のMCなど、日本社会に順応しかつ貢献しようとしている。その姿勢は、高学歴エリートとしての使命感みたいなものが感じとれ、私は好感を覚える。

地上波は見るべきものが少なくなり、勢いBSの情報番組、歴史番組を観ることが多くなった。WOWOW等で映画も見る。卒職して鈍さが増した頭を刺激してくれる。『ローマの休日』を観ると、イタリアに行きたいとの気持ちが蘇ってきた。以前高校の同級生夫妻とイタリア旅行の話もあったのだが、ISのフランステロもあり立ち消えてしまった。トレビの泉や真実の口のようなべタな所に一度は訪問したいと思い直した(会社員ながら大学に短期留学中の長男ファミリーに会いに今月訪仏するが、残念ながら伊まで足を延ばせない)

また、アン王女に扮した故オードリー・ヘップバーンを見て、美人の定義とは? との疑問が浮かぶ人はまずいないだろうと思った。浮かぶ、そのことだけでもう美人とは言えない。大相撲の横綱の品格も同じことだと理解した。

 このままでは「地上波」は「痴情派」しか観なくなると本文を結ぶつもりで、ネットで確認すると、既に書き込みが多数見られた。このダジャレはもはや陳腐なんだと苦笑いした。だが、テレビマンは笑っている場合ではないぞ!

 

2019.7 NO.116  おもろ VS  おもろ

 私がかつて在籍した社団のトップは若い頃関西出身の上司に「ホカして」と言われ、大事に保管して呆れられたという。東京人は「捨てる」の関西弁「ほかす」が分からない。

 「おもろい」(おもしろい)はさすがに関東の人でも分かるのではないか。「おもろい」の否定形は「おもろない」。末尾の「い」を除き「おもろな」とも言う。穴党の競馬ファンが「何や、全然荒れへん。銀行レースか、おもろな!」と言うように。

 度量も狭く、文句たれの私は今とくに「おもろな!」と思っていることが3つある。

  1つ目は、正義がまかり通らないこと。日本体操協会のパワハラ問題、協会はパワハラのバーを恣意的?に上げた第三者委員会の後の特別調査委員会の報告を受け、宮川紗江選手が主張した問題につき、塚原千恵子女子強化本部長や塚原光男副会長に追加処分をせず(共に退任)、宮川選手には反省文の提出を求めた。これに対し、ネット記事によると、宮川選手を支援する高須クリニック高須院長は番組で「パワハラしたかどうかという問題検証での反省文は、加害者側とされる方が書くべき。被害者側に反省文を書かせるのは筋が違うのではないかと思う」と持論を述べたという。まったくもって高須院長の意見に賛同する

宮川選手の主張を認めることは本ブログ201810月号103(「ぼうこうVSぼうそう」)で書いた「塚原夫妻の主導か否かは別にして体操協会が異端の二人を追放しようとしたと見られても仕方がない」に繋がりかねない。従って協会側が認めないとは思っていたが、宮川選手に反省文を書かせるまでのことをするとは。“盗人猛々しい”の語句を思い出した。

 被害者が加害者にされてしまう。その意味では、NGT48のメンバーでファンに暴行されたことをSNSにあげ、事件に蓋をするばかりの所属会社から加害者呼ばわりされた山口真帆さんも同じ。「正しいことをしている人が報われない世の中でも、正しいことをしている人が損をしてしまう世の中ではあってはいけないと私は思います。」と言ってNGTを卒業した。準強姦事件での被害者伊藤詩織さんが相手側から逆提訴されたのも同じだろう。

日本はいつからこんな不条理な国になったのだろうか?

 

2つ目は、趣味の話で、日本競馬界の至宝ディープインパクト(以下ディープ)の後継問題。強い巨人の時代にはファンも多いがアンチも多かった。同じようにディープのアンチたちが次の切り口で貶してくる。まず、ディープの産駒は早熟のマイラー(1,600m前後)だと。しかし、産駒のサトノダイヤモンドが菊花賞(3,000)と有馬記念(2,500)を、フィエールマンが菊花賞と天皇賞春(3,200)を勝利した。早枯れの代表格として2歳チャンピオンのダノンプレミアムがやり玉に挙げられた。が、古馬として臨んだ今年の金鯱賞を初め連勝した(それでもアンチは明日の安田記念で後述牝馬アーモンドアイに負けると負けてない)

そして、アンチはディープのサイアー(種牡馬)ラインを継ぐ大物の牡馬が出ていないと攻撃する。痛い所を突かれた、netkeiba の掲示板における主導的立場みたいなファンも感情的になり、明らかにヘイトしているアンチやアンチでないと言いながらファンの神経を逆なでするアンチらに引きずり込まれ場外乱闘に及ぶ。心あるファンは、「これが、日本競馬界の至宝ディープの掲示板なのか!?」と嘆いた。

 ディープの後継候補として、今年産駒がデビューするキズナを筆頭にリアルスティール、サトノダイヤモンド、現役だが期待の上述ダノンプレミアムとフィエールマン等がいる。

 ただ、シビアな生産者サイドは待ってはくれない。サイアーランキングでディープに次ぐNO.2の座にあった一歳上のライバルのキングカメカメハ(以下キンカメ)はロードカナロアという後継種牡馬をすでに得ている。ロードカナロア産駒には早くも牝馬3冠を達成し昨年の年度代表馬となったアーモンドアイという名牝がいる。牝馬だけかと思ったら、今年の皐月賞(2,000)を無敗で制した牡馬サートゥルナーリアをも誕生させた。

キンカメ系は日本の高速馬場に適しており、しかも日本で飽和状態にあるサンデーサイレンス(以下SS)(ィープ、ハーツクライ等)とサイアーラインが違う。数多いるSS名牝を選り取り見取りできる。今首を痛め種付け中止中の17ディープ(5年後は人間換算で65)の次にその座にカナロアを据えようとするのは理には適っている。ただ、帝国のような生産者サイドの意向に(政界だけではなく)媚び、忖度し、競馬関係者、専門誌、テレビ局等が必要以上にロードカナロア産駒を持ち上げているように見えるのが、おもろない。

皐月賞でのサートゥルナーリアがアタマ差という辛勝(戦後6頭いる三冠馬はすべて半馬身以上の完勝)に終わったのに、ダービー、凱旋門賞へと囃し立てる。私は白けていた。

ダービーはともかく凱旋門へはないだろう。凱旋門賞(2,400)を勝つには高速馬場の日本の3,000m台のG1を制するスタミナが前提になろう。なにしろ菊花賞も含め3冠戦すべて圧勝したディープやオルフェーヴルでさえタフな馬場の凱旋門賞のゴール前で失速した。

キンカメ系の産駒で3,000m台のG1を勝った産駒はキセキのみ(しかも母の父はディープ)サートゥルナーリアは結局ダービーは4着。さすがに凱旋門賞へとはもう言えまい。

 素人の私が分かることを競馬関係者は当然承知していながらサートゥルナーリアを無理に持ち上げているとしか思えない。新馬が出る度に繰り返されるかと思うと、うんざりだ。

 

 最後は、心臓病ならぬSHINZO。安倍首相のやることなすことに動悸と息切れでなく憤りが激しい。頭はまだ壊れていない。何にしろ首相が政治家の中で一番働いているとの認識はある。ただ、二階幹事長が何を思って34に言及した時、めまいがした。

国会で問われた首相は自民党の内規に触れただけで、続投意志の有無に言及していない。

内心はどうなのか。自民党の支持議員の手前やレームダック化を避けるため、口に出せないが、任期満了でと思っても不思議ではない。モリ・カケ問題、裁量労働制をめぐる首相答弁の撤回。失踪実習生に関するデータ誤り、アベノミクス指標の操作疑惑等ここ数年野党に叩かれ続けてきた。それでなくとも首相の仕事は激務。疲れ果ててはいないか。

 レガシーに焦燥なのは任期を意識してのことか。拉致問題も憲法改正もダメ。前のめりになった北方領土問題は、安倍首相が北方領土で暮らす住民の「帰属問題」を持ち出すなど先走りロ国民を怒らせた。首相に反発するだけならまだしもロ国民の怒りの矛先が(支持率回復のテコと目論んでいた)プーチン大統領に向けられたので、プーチン大統領が怒るまいことか(交渉の難航は丸山議員の「戦争奪還」発言に責任転嫁されようが)。すると、根幹の「北方四島は日本に帰属する」が外交青書から消えてしまった。安倍首相の不用意かつ拙速な言動でロ側を怒らしたとはいえ、なぜ消してしまうのだ。

「安倍首相は外交(武器を持たない戦争)が強い」と言うのは、外遊の間違いではないか。

功を焦り、どこのトップにも靴を舐めるがごとく、次は「北朝鮮と無条件で会談」と首相が言い出した(独自制裁も更新し、先般の短距離弾道ミサイルも安保理決議違反と非難した日本がいまさら何を言うかと北朝鮮が本気で相手にするとは思えないが)

見るに堪えないし、国益も損ないかねない。「もうレガシーは『3期連続9年を初めて全うした総理・総裁』でよいのでは」と安倍首相を諭せるのはゴッドマザーしかいないか。

 次の総裁改選期は2年後の20219月。東京五輪の反動、消費税増税?で不景気の風が吹き荒れ、また日銀財政不均衡の爆弾が破裂するかもしれない。今般のトランプ大統領との関税密約?による日本農業の大打撃という不安要素もあり、安倍政権の尻拭いをする貧乏くじは引ひきたくないと、自民党の反主流派も二の足を踏むかも。いかんせん石破氏、岸田氏への待望論も湧いてこない。新元号発表時に注目を浴び、「令和おじさん」と人気が上がった、無派閥の菅官房長官にショートリリーフならと思うのかもしれない。森友学園問題が燻り続けている安倍首相も、官僚の手のひら返しも菅氏が首相になるなら安心だろう。

しかし、菅氏が首相ならABE政治の継続を意味し、より独裁的になるかも。それならSHINZO病が治っても、新・SHINZO病に罹るだけ。おもろないと思うより、憂鬱だ。

それにしても、騎士道の国も酷いが、武士道の国も。ひと昔「警察は一流、経済は二流、政治は三流」と言われたが、1ランク下がったと言えないまでも政治は四流までに劣化したのではないか。“サラブレットの墓場”と揶揄された日本競馬は今や一流になったが。

 

2019.6 NO.115 さいVS さい

 開廷が待たれる日産ゴーン前会長事件の裁判は、ボクシングに喩えれば、チャンピオンの東京地検特捜部に対し無罪請負人弘中弁護士がチャレンジするタイトルマッチと言える。本ビッグマッチのオッズがあるとしたら、1.5:8.5でチャンピオンが圧倒的有利となろう。

マスコミは地検からのリークをそのまま垂れ流しているようで、それを大衆は好物がごとく鵜呑みする。ゴーン氏の拝金主義的強欲さに日本人が抱く嫌悪感がそうさせるのか。

ただ、本事件で猛然と特捜部を批判する郷原信郎弁護士や某会計評論家の発信内容を虚心坦懐に読むと、我々素人が、酷すぎる、特捜部が立件するのは当然と思っても、裁判では、それが犯罪と認定され、有罪になるとは必ずしも限らないとの理屈が理解できる。

公開スパーリングでは、ゴーン氏保釈時の変装脱出や中身のない会見動画等弁護側の調子が上がらないが、試合(裁判)では、リストン対カシアス・クレイの試合の再来になるかも。

 ボクシングではスプリットデジョンに判定が分かれても勝ちは勝ちだが、地検は起訴4件の内1つでも無罪になれば負けとハードルを上げ背水の陣の覚悟で臨んでいるとか。

年明けと見られる地裁でのタイトルマッチはどちらが負けても必ずリターンマッチがあろうし、それに負けても、3度目(最高裁)があり、雌雄を決するのは遠い先の話となる。

 仮に大衆が望む特捜部全面勝利になったとしよう。それでも、“試合に勝って勝負に負ける”ということもなしとしない。地検の得るものは少ない。特捜部の存続が確保される。天敵の弘中弁護士のカミソリが錆びついたと世間に知らしめ溜飲を下げる、そのぐらいか。

反面、「人質司法」と海外から批判され、日本でも、特捜部がなりふり構わず強権を振り回し、弘中弁護士だけではなく世の弁護士たちを憤慨させた。その捜査手法は日本司法の特異性よりも特捜部の負の側面・暴力性をことさら露見させた(現特捜部長は超エリートらしいが、裁判の結果とは関係なく、トップへの資質が内部で問われるのではないか)

「強い検察」とは、戦前の特高警察のように強権を振りかざし、暴力的な捜査をすることではない。権力者らに敢然と立ち向かい、不正を暴き、世を正すことではないのか。

大きな花火を上げるハズの司法取引は日本版司法取引の問題点を浮かび上がらせただけでは。20195月号NO.113(「しほうVSいほう」)で郷原弁護士の解説を紹介したが、日本版の『他人負罪型』では、日本人が恥じる“他人を売っても”、検察は利するが、自らが得するか否かがよく分からない。また、前々からの指摘にあるように、「冤罪が生まれやすい」という問題点が日本版司法取引導入早々浮上した。ゴーン前会長も「日産の数人が私を陥れている」と主張している(裁判官が裁断しその主張を認めた場合に冤罪と言えるが)

 武士の時代、家老は切腹してまでも主君の乱行を諫めた。今は、トップの独断専行を諫めるどころか逆に取り入り、おこぼれに与っておきながら、自分の身が危ないとなれば、検察と司法取引し、トップを売って(又は陥れて)自身だけ助かろうとする。そんな悪しき先例を作ってはならないし、逆に自身も助からないのなら、日本版司法取引など普及しない。

「日本政府は日産とルノーが統合する可能性を阻止するため、昨年春に両社の協議に介入していた」と仏紙が報じた。それが事実なら、政府(経産省or官邸)が絡む国策捜査という見方は一転真実味を帯びてくる。だが、ルノーはゴーン氏を裁判を待たずに切り捨てた。裁判は、日産内部で処理すべき問題で、ゴーン氏個人の名誉回復と地検特捜部の看板とを賭けた争いに過ぎなくなった。ルノーによる経営統合への目論見はなんら変わっていない。

日本の国策産業の日産を仏政府の出資するルノーが支援するのを許しながら株主でもない日本政府の介入が続くのであれば、ゴーン氏逮捕の報復とみる向きもある、仏の予審判事によるJOC竹田恒和会長に対する東京五輪贈賄疑惑捜査に影響が出てくるのか。皇室に繋がる竹田会長が贈賄を疑われるリスクのあることを一存で指示したとは思えないだけに。

 ともあれ、動機に不純と言えないまでも問題があれば、事は上手く運ばないものだ。

 

動機が問題と言えば、裁判員制度もそうだろう。10年以上前から裁判官がおかしい。浮世離れした判決が出ると弁護士会、経済界から批判が相次ぎ(最近でも娘を性的暴行の父に無罪判決が出て物議を醸す)、陪審員制度の導入(私は反対だが)を要求された。これに対し、裁判所側は、法曹の一元化を図り、同じ難関な司法試験に合格し人生経験も豊富な立派な弁護士も登用すれば済むと思うのだが、それは頑として拒絶する。そればかりか(生え抜きしかいない)裁判官を締め付ける。

最高裁上層部(最高裁長官、事務総長ら)は日本の秩序を守る重大な責任を負っている。裁判官の意思を統一したいと言う気持ちは分からなくもない。しかし、司法試験を一発合格のごとくしかも優秀な成績を修めた若い逸材を裁判官に囲い込み、世間から遠ざけ、純粋培養して、金太郎飴にしていく。それが本当なら、日本の秩序を守るという使命感からというより、裁判官を支配したいという最高裁上層部のエゴ(権力欲)ではないかと思う。

『裁判官は劣化しているのか』(羽鳥書店)を読むと、目立つことをするだけでも出世コースから外されるのが垣間見える。著者の現役判事岡口基一氏は、苦学して東大法学部に入り、裁判官になった。他の裁判官等にも有用だと自身が作ったレジュメをまとめ、5版を重ねるベストセラー『要件事実マニュアル』(ぎょうせい)を発刊した。この他タブー視される判事や職員との本質論論議、外部との積極的な交流など金太郎飴から逸脱する行動は裁判所ではアウトサイダー。だが、裁判所にあり方に疑問を持つ私からすると裁判所改革の旗手になる人物だと思った。ところが、その岡口判事が白ブリーフでのパンツ一丁姿をSNSにアップさせた。何のために。ネット民の中では「目立ちたいだけ」と冷ややかな意見も。

さらに、岡口判事は、担当でない某裁判の原告に対して「感情を傷つけるツイートをした」として最高裁から裁判所法の「品位を辱める行状」にあたるとして戒告処分を受けた。

かの江川紹子さんは『「事件ウオッチ」第114回【Twitter投稿で戒告処分】』で「言論の自由がない裁判官に、言論の自由についての判断ができるのか」と岡口氏を擁護している。

 岡口判事自身も「言論の自由」「表現の自由」を主張している。私は賛同しない。釈迦に説法だが、安倍首相が国会で言論の自由と発言し識者らに失笑されたように、憲法21条に「言論の自由」などが謳われているのは、権力を持たない弱い立場の我々の「言論の自由」「表現の自由」を弾圧してはならないと権力者を戒めているのだ。“法の子”(本ブログ201111月号NO.5「サイパンとサイバン」参照)裁判官は権力者側にあると私は思っている。日本の裁判官が求めるべきは「最高裁上層部統制からの自由」ではないのか。

岡口判事ですら長い間裁判所に居ればこうなるというのなら、やはり法曹の一元化がと思ってしまう。だが、最高裁上層部はますます締め付けが必要と思うのだろう。

 

上記を背景として、2009年裁判所側は、陪審制、法曹の一元化は何としても阻止し、かつ弁護士側も乗りやすい妙案を考え、スタートさせた。それが裁判員制度だ。市民を参加させ批判をかわし、さらに元裁判官瀬木比呂志氏の『絶望の裁判所』(講談社)で暴露されたように、日陰に甘んじていた刑事裁判にスポットライトをあてるのが狙いだ。

善良な市民にとっては、民事の方が参画し易いのだが、馴染みのない刑事事件、しかも(絶対に裁判官が素人に裁かれることのない)死刑などの重大犯罪を担当させられる。何の因果で他人の命を奪わないといけないのか。見たくもない惨劇写真を見ないといけないのか。その苦痛を裁判員が訴えると惨劇写真をイラストに替えるという。検察が怒るまいことか。

 昨年裁判員裁判で辞退者が66%と過去最高となったという。市民の制度への理解が進み、選ばれるという一種優越感よりも制度への疑問、負担感が大きくなっているのではないか。

 “人が人を裁き”、“人が人を売る”。それがボディブローのようにじわじわと効き日本固有の美徳“和の精神”を壊していく。叫ぼうではないか!It is never too late to mend!

 

2019.5 臨時号 NO.114  いぞく VS  いぞく(2)

嫌われ者から英雄に評価が一変したと言えば、英首相チャーチルが挙げられる。昨年のアカデミー主演男優賞に輝き、日本人がメーキャップ部門でオスカーを手にした映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』で世界がまたチャーチルの偉業を再認識した。

 前首相のチェンバレンによるナチスドイツへの宥和政策が失政となり、保守党内で嫌われていたチャーチルが首相に就任することになった。ドイツのフランスへの侵略に対し英仏連合軍が劣勢となるも、チャーチルは断固ナチスと戦うことを決断する。フランス北東部ダンケルクから30万人の英兵士を引き上げるに際しドイツ軍を足止めさせるためにカレーに居た3千人の英兵士を犠牲にした(同じく事前通告なしで日本への原爆投下をトルーマンに迫ったという。その冷徹さと非情さは我ら凡人には決して真似できない。妻に頭が上がらないところは親近感もあるが)

ナチスとの和睦を主張する戦時内閣の中で孤立し思い悩むが、国王ジョージ6世がチャーチルを支持する(チャーチルの首相就任を危ぶんでいた国王が首相支持に変わるところは映画ではやや唐突)。国王と二人三脚で英国民に勇気を与えドイツ軍に勝利する。

 

一方フランスは、ユダヤ人歴史家マルク・ブロック(ナチスにより銃殺)が従軍日記を『奇妙な敗北』と表題したように、陸続きのナチスドイツとの近代戦に質、量共対応できなかった軍上層部の怠慢と結束力の無さにより、いとも簡単にナチスの軍門に下った(チャーチルも『第二次大戦回顧録 抄』〈毎日新聞社〉のP41に「フランスは一大攻勢に出て生命を賭けるようには見えなかった」と述懐している)。そして、ナチスの非人道的な政策に加担し拭い去れない心の傷を負った。フランスには国民が心を一つにする存在がいなかった。

 イギリスは、海峡が壁となり、海軍、空軍共ドイツと互角以上であったが、それだけではなく、避難せず戦火の中で国民を鼓舞し続けた国王がいたからドイツに徹底抗戦できたと私はそう思う。同じバイキング(海賊)の国ノルウェー国王もナチスへの降伏を拒否した(その様子は映画『ヒトラーに屈しなかった国王』で描かれている)

 自由・平等・基本的人権の理念に目を奪われてフランス革命を美化する人は革命の負の部分を見落としている。ロシア革命(とくに10月革命)、ドイツ革命(11月革命)も同じだが、革命により国王を倒した後は恐怖政治が待っている(文化大革命もそうだが、革命と聞くと血塗られたイメージが付き纏い嫌悪感を覚える。産業革命等経済用語としては良いのだが)

権威と権力を併せ持つ前近代の国王は、失政すると国民から攻撃された。だが、権威としての国王(日本は天皇)は宗教の違いを超えて国民の心を一つにするのに不可欠。片時も欠かさず国、国民、皇統の安寧を祈念しておられる存在なのだから。

EUからの離脱問題で英国民が二分し大混乱に陥っているが、収拾させるのは、最後はエリザベス女王のお言葉しかないだろう。日本においても、被災地の人々がこの上なく癒されるのは、天皇皇后両陛下のお見舞いなのだ。

 権威としての国王の存在を目の上のナントカと思う者は、共産主義者か独裁者を目指す権力者とその仲間らなのであろう。

 

 映画はドイツに勝利したところで終わるが、その直後の総選挙でチャーチルは首相の座を手放した。ナチスから国民を守った英雄であり国民から人気は高かったが、選挙のアヤで党が敗北した為という(私が若い頃平時に戻れば戦争を起こした首相はもう要らないとの見方であったと思うが)。しかし、6年後1950年に70歳で首相に返り咲いた。

 映画の本編が終わり、エンドロールの前に、正確には覚えていないが「成功しても、失敗しても、続けることが大事」という旨のチャーチルの言葉が綴られていた。

 以上、3人の継続力を見てきたが、信念があれば誰でもということではない。信念を支える高い才能とそれが発現された蓄積がなければ継続力を持つことはできない。

 そんな話を妻にすると、「チャーチルの性格に似ているところがあるだけではダメということね。アンタはいつまでも嫌われたままなのよ」と憎たらし気にぬかしおった。細君ならぬ太君が養豚場から屠殺場に連れて行かれるのを助けてもらった恩を忘れおって。「そんなことを口にするから妻にも嫌われるのよ!」と聞こえた気がした。ん? 天の声か?

 

 

2019.5 臨時号 NO.114  いぞく VS  いぞく(1)

新元号が「令和」に決まった。4/4TV番組でかの室井佑月さんより、「今の天皇が好きだから退位されるのは寂しい。新元号に纏わる狂騒にはついていけない」との旨の発言があった。良いこと言うなぁと感心した。私自身も白けていた。有識者の検討会議で漏れないよう携帯の電波も遮断されたという。新天皇=新元号のその新天皇が即位される1か月も前の発表に事前に漏れたとして、どれだけの不都合が、誰が困ると言うのか。

それよりも、永久に残るものであり、時代にふさわしく、また異論がでない新元号を選ぶということが最重要課題であろう。

しかし、4/11141分に新元号が発表されてすぐ、中国から「平和が零」と揶揄されたのはともかく、TV番組で「令和は和を命ずるという意味に通ずる」とゲスト解説者が言っていた(戦前の全体主義体制を想起する人もいよう)TVでもお馴染みの歴史学者東大本郷和人教授に至っては「命令」「巧言令色」「令旨」を挙げ令の字を疑問視し「『令和』以外の5つはケチのつけようがない」とまで言い切っている。そんな問題点を有識者による「元号に関する懇談会」で誰も指摘していないのか。それなら、無理だと分かっちゃいるけど、皇太子殿下(新天皇)ご自身にお選びいただいた方がよかったと思うのは、私だけであろうか。

そんな雑音を消し去るかのように、5年も先の新紙幣が発表された。順序が違う。そんなのは新天皇ご即位の一連の儀式が済んだ後、祝砲のごとく発表すべきものだろう。

世間がお祭りムードの中でこんな話をするのは嫌われる。分かっちゃいるけど。

 

 昨年のことになるが、タイトルに惹かれて映画『あなたの旅立ち、綴ります』を映画館に足を運んだ。シャーリー・マクレーンさんが主演で、アマンダ・セイフライドさん(マンマ・ミーア!の続編『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』にも出演していた)が助演のヒューマンコメディ。夫とも別れ娘とも疎遠になった裕福だが一人孤独な老婆が生前中に自分の訃報記事を準備しようする。若い駆け出しの女性記者が担当し取材するが、誰からも嫌われていることしか聞けず良い訃報記事が書けない。一旦老婆は若い記者を詰るが、老婆は最高の訃報記事を書いてもらえるよう自分を変えようと考えを改める。若い女性記者と共に行動を起こし、ハッピーエンドで閉じる、地味だが後味の良い佳作。

 

この映画とは逆に、日本の芸能界には、自身は何も変わっていないのに、嫌われ者から大晦日の紅白の審査員になるほどに評価が180度変わったと言ってよいタレントがいる。

「ヤバいよ! ヤバいよ!」が口癖で、若い時は切れたナイフだったと不良ぶる出川哲朗氏だ。

そんな出川氏の芸能人としての存在を格式高い親戚筋は歓迎していなかったという。大伯父に八幡製鐵初代社長三鬼隆がいる。伝説の女優原節子も母方の遠戚にあたる。

それが今や中高生からキャー、キャー言われるほどの大人気。少し前まで「キャ‐ッ、やだーッ、出川よ!」と言われていたのに。一つには、出川氏がもう55歳になり、年齢的に若い女性の恋愛対象から外れたこともあると思う。長らく出川氏の代名詞「抱かれたくない男NO.1の称号も一昨年の週刊誌のランキングでトップの座をアンガールズの田中卓志氏に譲った。

 恋愛対象と見なければ、小柄で、本人曰く喉が赤ちゃんで、言い間違いも多く、ユニークな和声英語を繰り出す出川氏は見ていて楽しい。母性本能もくすぐられるだろう。

 しかし、それだけで今の人気を説明することはできない。危険を顧みず体を張るリアル芸人の第一人者として30年この方浮き沈みの激しい芸能界で第一線を張り続けてきた才能による継続力が彼の土台になっている。それがあってこその今の人気なのだ。

 神武以来の天才棋士で引退後お茶の間で人気の加藤一二三氏も同じだ。現役の将棋棋士時代から氏を知る私からすると、今若者から「ひふみん」と親しまれているのは、意外のなにものでもない。現役時代での奇行は有名。ネット上にも『加藤一二三伝説』となるものがあるように、米長棋士とのタイトル戦で旅館の(人工)滝を止めさせた。三浦弘行七段(現九段)との“冷房スイッチ、オン・オフ合戦もあった。対局中の昼、夜の食事は40年間うな重(木村一基九段は対局中に目の前で食べられたとのこと)などエピソードは事欠かない。三浦九段は加藤棋士との対局のコツは動揺しないことと言っていた。将棋ファンは贔屓の棋士が加藤棋士との対局にあたるとやきもきするのが常であったと思う。

 そんな加藤氏が意識してゆるキャラに変えたとは思えない。将棋一筋。他の事なら意に介さず、仮に笑われたとしても何とも思わないのだろう。

 1954年当時の史上最年少(中学生)棋士となり、爾来63年並み居る天才の中第一線で活躍し続けた。それにより、お茶目に映る加藤氏をほほえましく思っても嗤う人などいない。