2019.4 NO.112 つやの VS つやの                                                   

 つやのよる。通夜のことではない。それなら馬から落馬と同じだ。天才シンガーソングライターの井上陽水さんは遊び心で『リバーサイドホテル』の歌詞で「夜明けが明けたとき」「川沿いリバーサイド」「金属のメタル」とわざとダブらせているが。

『艶の夜』は、作家井上光晴氏の長女で同じく作家の井上荒野女史による小説の題名。まだ若いのに余命いくばくもない艶という男好きする、欲望のおもむくままに生きた女に絡まる男達の妻、愛人の揺れ動く心のひだを女流作家ならではの感性で描く。映画化もなされた。大竹しのぶさん、風吹ジュンさん、小泉今日子さん、真木よう子さんら豪華女優陣が“競艶”している。

  つやのひる。艶の生き方とは似ても似つかぬ亡き我が母の通夜に纏わる小話。亡くなってもう6年になる。昨年の暮れ7回忌だった。母が亡くなったときのことは、20134月号「さくら と さわら」で少し触れた。母が亡くなる前日に義母が亡くなり線香の番をして夜を明かそうとしたとき思いがけず兄から連絡が入った。急遽、義母の通夜に出る妻と子供を残し、線香の寝ずの番をした翌朝私一人が故郷神戸に向かった。

神戸に着くと既に母の遺体は葬儀会館の安置所に安置されていた。母の顔を見たが涙は流れなかった。

 

平成5末に銀行を辞めた私は翌正月単身上京したがすぐに二重生活が難しくなり、母を残し東京に家族を呼び寄せることになった。一旦帰郷し家財を整理した。ひとり東京に戻る夜の新幹線の中で外は真っ暗で景色は見えないのにずっと窓を見ていた。窓ガラスに泣顔が映っていた。以来母の分の涙は底をついたのか、母を思って涙を流したことはない。

心に棘が刺さったままの私の母を偲ぶ心情はすぎもとまさとさんの『吾亦紅』の歌詞に近い(「来月で俺 離婚するだよ そう、はじめて 自分を生きる」の部分は共感できないが)

親不孝の私は母に母の一生はどうだったかと聞くことはできなかった。さだまさしさんの『無縁坂』の歌詞どおりの人生ではなかったかと思っている。

思えば、よくぞ母は米寿近くまで生きたものだ。一病息災というものか。

敗戦後打ちひしがれていた日本人が自信を取り戻していくその一つのエポックとして昭和34年児島明子さんがミス・ユニバースで世界一になり世の中が沸き返った。私が9歳の頃だが、30歳半ばの母は胃下垂が腸に癒着し、50㎏を超えていた体が35㎏までやせ衰えていた(母の顔を書いたとき時骸骨の絵になったという。私は覚えていないのだが)。手術するとき麻酔でそのまま逝ってはと余り麻酔を利かせなかった。昔のことで泣き叫んでいる方が大丈夫だということらしい。母は「メスが入ったときバリバリと音がした。切腹させられた。金輪際こりごり」とよく言っていた。それから50年以上生きた。

検査等で一緒に病院へ行くとき子供心に母がもういなくなるのではと心細い思いをしていた。それがあるのか、アホな私は小学校の母の日の作文で「お母さんが死んだら、大きなおはかをたててあげる」と書いた。成人してからも母や兄によく冷やかされたものだ。

 

通夜は翌日だということで葬儀会館から近くのビジネスホテルを紹介してもらいそこに泊まった。通夜当日の昼頃葬儀会館に出向いた。控室で手持ち無沙汰で横になって土曜の競馬中継をぼんやり眺めていたら突然後ろの襖が開いた。死化粧が終わったので視てくれという。薄化粧とはいえ白く顔が塗られ口紅も赤く、見慣れた母親の顔ではなく戸惑いを感じた。熟視することもなく、すぐに「ありがとうございます」と頭を下げ終わらせた。

 通夜には昔長屋の隣同士だったご主人が来てくれていた。40数年振りに会ったが、もう90歳になるという。本人はここまで長生きするとは思わなかったとのことだ。他の長生きしている人もきっと結果論に過ぎないのだろう。身寄りの少ない、母の友達は寂しそうに泣いていた。次々と友らを送らなければいけないのなら、長生きするのも辛いものだ。

 

通夜が終わり、喪主の兄ら他の家族は皆家に戻り、私だけ控室で寝る。敷かれた布団を見て、怪訝に思った。たしか昼に死化粧を施された母の枕は北向きだった。同じ方向だから北向きではないか。会館の窓から確認してもどうやら北向きだ。神戸は東西に長く山側が北で分かりやすい。会館の人に指摘すると、返事は「仏さんに足を向けなければ、それでよい」ということだった。「ほんまかいな!? いくら無宗教の私でも60数年日本の風習の中で暮らしていると気になる。南向きに枕を移し寝ることにした。

 翌日葬式の朝別の階に個室の風呂があり朝風呂に入った。控え室に戻ると民宿にありがちな朝食メニューの数々が用意されていた。

 葬儀会館は至れり尽くせり、遠方から来るものにとってはありがたいことこの上ない。縁起でもないが、次の葬儀もここでやってもらえたらと身勝手にそう思った。

 

ただし、私自身のときは葬儀ビジネス、お寺ビジネスを利用するつもりはない。

本ブログ20123月号NO.9(「アダム サダム」)に書いたように、神仏を恐れるどころか、阪神大震災で壊れた神社に八つ当たりして以来もう20年程、きっぱり神社仏閣に手を合わせることはない。とはいえ、それを家族にも強要するようなことはしない。

ファミリーの祝い事でお参りするときは、内孫3才の七五三では富岡天満宮で家族と一緒にお祓いを受けた(その後すぐ神主が刃傷沙汰に遭ったが)。その後内孫が生まれた時も水天宮で、外孫が生まれた時は葛飾八幡宮で、皆と一緒にお祓いを受けている。

某住職の本を読むと、「坊主丸儲け」と言える大きな利権がある寺はほんの一握りでしかない。ほとんどの住職が兼業しないと立ち行かないことが分かったが、それでもNO!(僧衣反則切符問題よりも、もっと、いわば構造不況業種として抜本的対策を住職たちは考える必要があろう)

高校の大先輩白洲次郎に肖り「葬式無用」「戒名不要」と遺言している。火葬場でのど仏を妻が拾って持ってくれたら、それだけでいい。遠い神戸の墓には入らない。妻は、ちゃんとした墓に入りたいなら、死後離婚して自宅から歩いていける実家の墓に入ればよい。

 私にとっての位牌は、本ブログ50号までをまとめた非売本だ。私の存在を知る孫たちが高校生・大学生になり大人の話ができる頃には私は鬼籍に入っているだろう。ブログ本を読んで、祖父がどんな人で、どんなことを考えていたかを知ってもらえればと思う。私が見ることのない曾孫たちは、自慢にもならない曾祖父のことなど関心を持つ必要はない。

 

命日でなくとも、家族が集まったカラオケの時にでも、晩年吉幾三さんの『ありがとうの唄』の6分を超える長い歌を私がよく唄っていたことを思い出してくれたらそれでいい。

「ありがとう 言えるよな 最後であればいい お前にも子供もにも すべての人たちに」と唄っていたことを。