2019. 9NO.119 ひげき VS きげき(1)

 日本競馬界の至宝ディープインパクトが17歳(人間換算52.5歳)で亡くなった。あと10年前後先の問題として今日69歳になる私とどっち先に逝くかと思っていたが、(馬と一緒にしては失礼だが)妻に先立たれた夫の気持ちがどんなものか少し分かった気がした。

 悲しみに堪えて、サラブレットにはない心があるばかりに、醜い姿を晒す人間界の話をする。

 

吉本興業(以下「吉本」)傘下の芸人入江慎也氏が仲介し宮迫博之氏、田村亮氏ら芸人数人が振り込み詐欺グループの会合に営業した過去の出来事が闇営業問題としてスクープされた。それが今や当該芸人に止まらず吉本の屋台骨を揺るがす大問題に発展している。

 この問題につき、独断と偏見気味ではあろうが私見を述べてみる。

私は昭和48年から平成5年末まで某銀行に所属した。暴対法が平成4年に制定されたので、在籍した20年のほとんどの期間おいて私の銀行でも暴力団との取引は存在した。

 私自身は営業の仕事をしていないので体験はないが、当時同僚に、組長の奥さんの所に定期的に預金を貰いに行っていた。敵対する組長同士が日本刀の突き刺された場に対峙している所に同席させられ震えあがった。組長に融資の引きを上げを通告した支店長が怖い思いをしたとか、そんな話を聞いていた。

その頃反社会的勢力という言葉はなかった。兵器に喩えれば、暴力団が核兵器で、反社会的勢力(以下「反社」)が大量破壊兵器ということになるか。

平成4年の暴対法が成立して以降暴力団が姿を変えていくのに対応して平成19年6月政府の犯罪対策閣僚会議幹事会申し合わせとして「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」が出されたが、法的拘束力がなかった。

それで、平成23年「暴力団排除条例」が全国で施行されることになる。断るのに窮していた芸能人や銀行員はさぞかし喜んだことであろう(かえって高齢者や弱者が詐欺被害に遭うケースが増えているのだが)。ただ、事の経緯からすれば、なぜ「反社会的勢力排除条例」ではないのか疑問が残る。排除条例自体を問題視する立場ではあるが。

 

平成25年9月銀行大手みずほ銀行が反社への融資を放置していたとして業務改善命令を金融庁から受け、世間は唖然とした。それならば、任侠の世界と過去密接な関係にあった興行の世界なら反社との関係の完全断ち切りはもっと困難と世間は思ったことだろう。

今回いち早く吉本と契約解除となった入江氏が直営業をしていることは、入江氏の年収が一億円とも言われる程手広く展開しているのなら、それを吉本の上層部が知らなかったと考えにくい。反社のグレーな先からの依頼の受け皿として入江氏の活動を見て見ぬふりをしていたのではないか。それならばこそ問題が表面化した時即切り捨てたのではないか。

お金は貰っていないとウソをつき世間のさらなるバッシングを受けた人気芸人の宮迫氏と田村氏両人は、所属の吉本から謝罪会見も許されず、吉本側の「静観」を「くさい物に蓋をする。自分らは闇に葬られる」と捉え、吉本に対する不信感が極まった。そして、当の二人は乾坤一擲捨て身の覚悟で謝罪会見を強行し、吉本に対して反撃する形となった。

 すると一転世間は二人に同情的になる。とくに朴訥ながら思いの丈を吐きだし潸然と涙する姿に心動かされ、田村氏は悲劇のヒーロー扱いとなる。

逆に吉本は釈明会見に追い込まれた。岡本社長は会見冒頭根拠も示さず宮迫氏の契約解除を撤回すると発表した。岡本社長の責任を問われると辞任しないと答え、社長が残る必要性を聞かれると沈黙が続いた後「みんなに、あとで聞いておきます」と答えた。吉本新喜劇の社長が一人芝居で新しい喜劇をしているのかと錯覚しそうになった。

 後日宮迫氏が完全否定したギャラ飲み疑惑のゴシップ誌側の反論記事が出ると、(宮迫氏を信じると言いながら)またすぐ契約解除の撤回の撤回もと発表する始末。まるで子飼い芸人より犯罪者グループの男の言うことを信じるかのように。

 

 宮迫・田村両氏と岡本社長の会見を見て、吉本自体が反社ではないか?と世間以上に驚いたのは行政だろう。今後国民が吉本を使う行政にも厳しい目を向けるから、行政は吉本に強い姿勢で臨むことになるに違いない。

国の公金を投入する多くの各省関連プロジェクトに吉本は参画している。それにふさわしいとは言えない組織なら、それは、現場マネージャー出身の大崎会長の手腕で急激に会社が大きくなり、家族経営的かつブラック企業的なオーナー企業のままで大手企業にふさわしい経営組織に脱皮できなかったということになろうか。

 財務、外務等主要ポストは経験がなく首相になり、官邸による独裁を行う安倍首相と大崎会長とはウマが合うのであろう。ただ、それでなくとも疑問視されていた吉本新喜劇の舞台に安倍首相が上がることはもうないであろう。

銀行に限らず大手企業では、キャリア・ノンキャリの区分はなく、トップになる人でも若い時は大崎会長のマネージャーのごとく現場の一線で働く。その後30年以上に亘りいろんな部署で試される。それをクリアしトップ候補になれば、人事、業務、企画の主要3部門長を歴任し他のトップ候補と併せその中からトップに任命される。会社の発展や環境変化に対応してふさわしいトップが選ばれる仕組みがシステム的に組織に内包されている。

 “令和の加藤の乱”と呼ばれる芸人加藤浩次氏はそれで大崎会長、岡本社長の辞任を求めたのか。しかし、狂犬と呼ばれた加藤氏でも大崎会長と会談後吠えなくなった。それだけ権力が絶大化している大崎会長の下では、内部の人間だけで国の仕事を請け負う企業にふさわしい組織体制への転換は難しいと言わざるをえない。できるものなら、吉本の東京本社を別会社にして、新会社の会長は大崎会長がなるにしても社長には会長と同じマネージャー上がりで会長に忠実な岡本社長ではなく、国の仕事を請け負う企業にふさわしい人材を外部から招聘する。その社長を補佐する社外取締役を置くのがよいと思うのだが。

若手芸人の不満を解消する待遇改善については、明石家さんまさんや(言動に私欲も見え隠れする? )松本人志さんのような吉本所属の大御所芸人の働きかけで可能だとは思うが。

 

2019.8 NO.118  あんらくし VS  あんならくし

市川海老蔵夫人小林麻央が亡くなって去る6月22日ではや2年、3回忌だ。美人薄命とはよく言ったものだ。神童モーツアルト、作曲家滝廉太郎、詩人石川啄木たちを見れば、「天才は夭折する」と言いたくなる。しかし、実際は、美人でなくても、天才でなくとも、早逝した人も多いハズ。惜しむ気持ちが、そう言わせるのだろう。

逆に、「憎まれっ子世に憚る」を地でいくような私がもし80歳を優に過ぎて生きているとしたら、知人らは、やはり「嫌われ者は長生きする」と言うだろう。忌々しいと思う気持ちがそう言わしめる。たしかに、(性格の)いい人は、ストレスを内に溜め込むかもしれないが、必ずしも短命になるとは限らない。長生きしている人も少なくないことだろう。

私はこうも思っている。銀行員時代仕事も遊びもエネルギッシュに活動していた人ほど早く亡くなっているとの印象がある。人生の充実度(内容の濃さ)と長生き度の積は皆同じ、一定なのでは。充実度比率(当該人物の充実度/国民平均充実度) ×長生き度比率(当該人物の寿命/国民平均寿命)≒1になるのではと思っている。歌舞伎役者で、お向こうをうならせ、私生活でも大いに浮名を流してきた故中村勘三郎、故坂東三津五郎は、充実度比率1.4×長生き度比率0.7≒0.98(共に52歳で没した昭和の二大スター故石原裕次郎、故美空ひばりも同様だろう)。ストレスもなくより薄っぺらな人生を送ってきた庶民は、充実度比率0.9×長生き度比率1.1≒0.99。もっともこれとて例外も多いことだろう。

例外がないのは、皆天寿を迎えること。長短があろうとも必ず人の命に終わりが来る。

その天寿を自らの意思で途中で終わらせてしまうことを自殺という。この「自殺」を「自死」と置きかえる動きがある。これに対して、本ブログ2013年9月号 NO.27(「ウクライナ VS ユウクライナ」)で、昔から「死」の文字は忌み嫌われているのに、なぜ、わざわざ「死」の文字を持ち出すのかと批判した。実際今でも、我々は、できるだけ死んだとは書かず、亡くなった、逝去した、永眠した、他界した、鬼籍に入ったなどと表現するハズだ。

 本ブログで反対してからもう6年弱になろうとする。毎週購読する週刊新潮にも「自死」の文字が躍る。今は昔ほど「死」の文字に対して抵抗がないという判断か。私一人が反対しても詮無い。百歩譲って広辞苑や大辞林に「自死」が載るのには黙認することにしよう。

 しかし、若者の「自殺」に「自死」を使うのは、止めてもらいたい。若者にとって、自死とは、ヴィクトール・フランクルが「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない」という中で、自分勝手に死ぬことだ。衝動的にしろ、何にしろ、親より先に逝くことだけでも親不孝なのに、自らを殺めるだけではなく、育てくれた恩に報いるべき遺族の心も殺してしまう(傷つくのは身内だけではない。安住紳一郎TBSアナは後輩で2008年自殺した川田亜子アナがSOSを発していたのに突き放したと今でも自責の念に苦しむ)。

そんな大罪なのに、遺族の心の負担を軽減するためとして「自殺」を「自死」置き替える。却って自殺者本人には美化してしまうことにならないのか。

いじめによる自殺をいじめがなかったことにする(一部の)学校・教育委員会のようなあくどさは感じないが、自治体は、若者の死因の第一位となっている自殺に対してもっと真正面から取り組むことが必要ではないのか。

 

若者の自殺が心の癌とすると、老人の域に達した我々は心の癌にならずとも臓器の癌(2人に1人)に向き合う運命にある。癌になれば、人生のゴールが突然目の前に迫り、人生の大きな選択を迫られる。二人の歌手が歌手の命でもある喉の癌を罹患した。つんくさんは、命を優先し、手術を選択した。故忌野清志郎は歌手生命を優先し、摘出しない癌治療を選択し3年後亡くなった。年齢、家族環境、人生観の違いもあり、その正否は問えない。

故大橋巨泉は、胃、中咽頭、リンパ節、肺、4度の手術や放射線治療を行った。私も前立腺放射線治療の経験があるが、治療というものは苦痛が伴うし、生活の質(QOL)が落ちる。それに何度も耐えられる巨泉の執念はすごい。寿々子夫人と再婚した際、子供に妻の愛情を奪われず独占したいとパイプカットした。我儘を通した分絶対夫人を一人きりにさせないと、癌と闘い続けた。最後は、私なら絶対にしない胃ろう(胃から直接栄養を摂取するための医療措置)までも巨泉は試みようとした(胃がん摘出で胃が小さすぎて出来ず)。夫人への深い愛と何としてでも約束を守ろうとする男気、私にはマネできるものではない。

一般論として、医師は「数%でも可能性があれば病気と闘うべきだ、あんな楽し、逝くのは人生の敗北」と言う。それはある面正しい。だが、患者が皆巨泉のようにはなれない。

私の母は背骨の小骨が折れて痛いと苦しんでいた。癌でないから天寿が分からない。担当医師にいつ死ねるのかと聞いていた。痛みが死の恐怖、この世の未練を薄れさせていく。

山中鹿之助が「我に艱難辛苦を与えたまえ!」と叫んだ時はまだ20代。人生が終わる段階で苦痛を耐えるためだけに生きるのに意味があるとは思えない。天寿まで待てない。

ベルギー、オランダ、ルクセンブルグでは、(積極的)安楽死と(医師による)自殺ほう助と両方法的に認められている(スイスは法的には自殺ほう助のみ?)。本人の自由意思と回復の見込みのない、耐え難い身体的苦痛を条件として。なお、スイスだけが安楽死を希望する外国人も受け入れしている。既に4名ほどの日本人がスイスで安楽死しているという。

先月NHKスペシャルが、『彼女は安楽死を選んだ』と題して、難病に苦しむ日本人女性がスイスで姉達に見守られて安楽死したのを取り上げ、問題提起した。未見の人はぜひ再放送を観て考えてもらいたい。私は、日本に於いても安楽死を認める方向で議論を進めてはと思う(「若者に生きる義務を、老人に死ぬ権利を」と言うのかとの批判もあろうが)。

問題は、死を迎える本人が人間としての尊厳を失う前に個人の信条に従い死ぬという、広義での「尊厳死」(延命措置を望まない消極的安楽死を尊厳死という場合があるが、それは狭義の意味での尊厳死)だ。

保守の論客西部邁が入水自殺したのはまだ記憶に新しい。自殺理由は、「言論」の無力感、妻に先立たれたこと、身体的不調(神経痛)と私は勝手に推察している(一番の理由が何にしろ上述の積極的安楽死の対象にはならない)。前から自殺をほのめかしていた。訃報を聞いた知人たちの第一声は、「えっ!?」ではなく「やっぱり」だろう。

工学博士今野浩氏は近著『工学部ヒラノ教授の終活大作戦』(青土社)で、「自殺計画」の章で、妻に先立たれ、娘も同書上梓前後に亡くした博士自身の自殺手段を明記している。読んだ私は「う~む」と唸るだけ。もし同じことを学生が書けば大騒ぎになるだろう。

我々は、若者の自殺と老人のそれと暗黙のうちに区別しているのでは。会社人生に喩えると、若者の自殺は中途退職。老人のは早期退職。定年(天寿)に準ずるものとして捉えているのでは。老人が自由意思で早期退職を選ぶ、それを「自死」と呼ぶべきなのではないか。

脚本家の橋田壽賀子女史もこの問題に対し大きな声をあげておられる。賢い人達は、死とちゃんと向き合う。どう死ぬべきか。自分らしくなくなって生きていると言えるのか。ボケたり、寝たきりになり迷惑をかけてまで生きたくない、と考える。

分別のある賢い人だけ、人生の早期退職・尊厳死を認める訳にはいかない。皆自死するからと定年(天寿)まで生きたい人に強迫観念を植え付けさせてもいけない。

我々が生きている間に(広義の)尊厳死が認められることはないだろう。

賢くはないが、あんぽんたんほどの可愛げもない、中途半端な私は、賢人達ほど真剣に死について考えていない。ただ、家族に迷惑をかけてまで生きたくないとは思っている。

私は、仕事は真面目で決して流連荒亡ではなかったが、生き方としては放縦だったと思う。吉村昭作『海も暮れきる』(講談社)で知った俳人尾崎放哉ほどの放埓ではないにしても。

「咳しても一人」(放哉の自由律俳句の代表作)にならず、家族の温もりの中で人生の幕を降ろせるのはひとえに出来た妻のお蔭。感謝の一言に尽きる。死ぬ間際まで迷惑はかけられない。「消極的安楽死」を希望するliving willを書いておこう。書かなくても、医師から「延命措置を講じましょう」と勧められたら、妻は「とんでもない!」と即答するだろうが。

 

 

2019. 7 臨時号 NO.117  テレビ VS  トレビ

私はテレビをよく観る。昔からテレビっ子だった。『月光仮面』は家で観ていなかったから、ドラマが終了した昭和34年7月以降に、当時そう呼んでいた三種の神器(白黒テレビ、洗たく機、電気冷蔵庫)の内先陣を切り、神戸貧乏長屋の我が家にもテレビが鎮座した。

 テレビが私にとっての娯楽で、子供の頃遊びで運動したと言えるのは小学生のときのインサ(神戸の方言。「がんばこ」というドッジボール使った遊び)、草野球、草相撲と中学1年の時の卓球ぐらい。同級生に西浦君という学年でダントツ一番の秀才がいたが、親御さんが神戸駅近くで時計卸の会社を営んでいた。当時その会社ビルの2Fには卓球台が置かれていた。そこで毎日のように数人で学校帰りに立ち寄った。西浦君がいなくとも勝手知ったるなんとかで勝手に卓球をさせてもらっていた。

高校時代は受験勉強に明け暮れテレビもあまり観れなかったが、デビット・ジャンセン主演の『逃亡者』と真空飛び膝蹴りの沢村忠のキックボクシングは毎週欠かさず観ていた。

大学では、勉強、バイト、麻雀、レコード鑑賞、たまに映画で、それ以外は彼女とのデートという浮いた話もなく、テレビを観て過ごしていた。とくにスポーツ番組が好きだった。土日は競馬中継や囲碁番組を毎週観ていた。本を読むのは教財と参考文献中心で、毎日小説を読むような文学青年ではなかった。

 

 卒職した今は、家に居るときは、午前中妻にろくでもないと言われる本ブログの原稿を書き溜める。あるいは、パソコンでニュース記事を読む。最近はとくに、日産会長ゴーン事件で特捜部を批判する郷原信郎弁護士のTwitterを日々確認している。この他、月曜は競馬の種牡馬リーディング、火曜日は内外のプロゴルフファーの賞金・世界ランキング、たまにテニス世界ランキング、将棋の順位戦の勝敗表などをチェックする。台湾に親戚ができ中国語の勉強も日課とするが、英語も不得意な語学の才能のない私はさぼってばっかり。

 昼食を自分で摂った後自室のベッドに横たわり飽きない様2冊(新書中心)を交互に読む。いつの間にか寝ていることもしばしば。時には近所の喫茶店にて読書することもある。

夕食も、妻の分も一緒に私が作る(女房族は稼がなくなった亭主に食事を作るのが一番のストレスらしい。この一点をもって、ポチ犬であれナメクジであれ生き物扱いで粗大ごみにならずに私は済んでいる)。食事を済ませた後は、自室でYou Tubeで音楽を視聴した後眠るまでテレビを観ていることが多い。

 

TVが好きだと言っても、選り好みはある。喰わず嫌いの辛坊治郎氏、老いらくの北野武氏の番組は観ない。NHKもほとんど観ない。大相撲もたまにしか。朝ドラも中学生の時の『たまゆら』で終わった。自慢じゃないが、ゲゲゲもじぇ!じぇ!じぇ!も観ていない。ニュースも民放で事足りる。観るのはNHKスペシャルか日本オープンとかNHKでしか観ることができないスポーツ番組ぐらい。受信料は払っている。反NHKではなく、観ないでも困らないだけ(NHKしか観ないインテリの方は業況が反映する民放のCMは観た方がよい)。

 夜はテレビを観ながら毎夜目を腫らしている。人前では母が亡くなったときも、娘が結婚したときも涙を見せなかったが、自室では涙腺が緩んでいる。ちょっとしたことで涙ぐんでしまう。68歳にもなると、自身が悲しいとか悔しいとかで泣くことはない。ボランティア達人尾畠春夫氏に助け出される前、行方不明の二歳児の我が子に向かって自治体のスピーカーを通して必死に呼びかけていたお母さんの姿をニュースで見る度、涙が溢れた。

盲導犬が役目を終え里親の所に戻る場面も絶対ダメ。我儘で我慢のできない私は、思い出しただけでも涙する。一部の動物愛護家が虐待だと批判するが、どういう方法にしろ、その存在を否定することを虐待と言うのだと思う(批判は筋違い)。犬が好きな訳ではない。猫にしろ触れない。私は盲導犬を擬人化してリスペクトしているのかもしれない。

 今お気に入りの番組は、日本贔屓の外国人が日本を訪れる番組。月曜の『YOUは何しに日本へ?』とその後の『世界!ニッポン行きたい人応援団』。外国人にとって日本は天国だ。日本にも人種差別はないとは言えないが、外国はもっと難儀。黒人に対してだけではなく、白人の間でも、差別と言うほどでなくてもアメリカ人VSカナダ人、フランス人VSベルギー人など関係が微妙だ。日本人はそんなの関係ない。ユダヤ人もクリスチャンもムスリムも知ったことではない。分け隔てなくおもてなしする。そんなところが気に入られ、ペルシャ系インド人を両親に持つフレディ・マーキュリーを初めQueenのメンバーも大の親日家になったのだろう。とくに、まれびと信仰のなごりなのか、地方の心の温かさともてなしは格別で、それに触れた外国人だけではなく、観ているこちらも涙が滲んでしまう。

 日本行きを切望し番組により夢が叶った外国人は、日本人にとってもはや関心が薄い日本の伝統工芸・技術に対して光を与え我々に素晴らしさを再認識させてくれる。紙漉き、カラクリ人形、寄木細工、手延べそうめん等に対する愛執の強さ、半端ない知識、教えを乞う真摯な態度を見て、心打たれた日本の職人たちは惜しみなく秘技を伝授する。互いに心通わせハグする姿を観て、いつも感涙にむせぶことになる。

 この他、土曜の『出没! アド街ック天国』『美の巨人たち』や水曜特番のカラオケ採点番組等(視聴率で苦戦していると言われる)テレビ東京の番組を私は観ることが多い。

 他局では、テレビ朝日の『あいつ今何してる?』を欠かさず観ている。芸能人等の学生時代の親しい同級生の今を調査する番組。同級生の波乱万丈の半生や芸能人となった同級生を陰ながら応援している様子を見ていると涙目になってくる。

故有賀さつきが昨秋登場した時、病気だとは全く想像もしなかったが、「ぜひみんなに会いたい」と言わなかったことに少し?の印象を持ったのを記憶に留めている。

 

最近健康番組と並んでクイズ番組が多いように思うが、スポンサー収入の減少の中お手軽なのか。素人の真剣勝負は観ることがあるが、芸能人によるクイズ・バラエティーは観ない。ギャラを貰った高学歴な俳優・芸人に「どうだ、賢いだろう」とのドヤ顔を見せられて、そんなの面白いものか。ノーギャラで賞金を懸けて真剣勝負するなら観る気が起きるのかもしれないが。

 『パックンマックン』という米国人と日本人との異色漫才コンピがいるが、そのコンピが漫才をしているのを観たことがない。漫才も頭が必要だが、学才とは別物らしい。

パックンこと米国人パトリック・ハーラン氏はハーバード大卒(何でコメディアンにと思ったが、離婚して極貧に辛い思いをしていた母を笑わすことが子供の頃の務めだったことに起因するとか)。高学歴(学力、知識、ブランド)を活かして、クイズ番組よりも、大学講師、講演活動、報道番組のMCなど、日本社会に順応しかつ貢献しようとしている。その姿勢は、高学歴エリートとしての使命感みたいなものが感じとれ、私は好感を覚える。

地上波は見るべきものが少なくなり、勢いBSの情報番組、歴史番組を観ることが多くなった。WOWOW等で映画も見る。卒職して鈍さが増した頭を刺激してくれる。『ローマの休日』を観ると、イタリアに行きたいとの気持ちが蘇ってきた。以前高校の同級生夫妻とイタリア旅行の話もあったのだが、ISのフランステロもあり立ち消えてしまった。トレビの泉や真実の口のようなべタな所に一度は訪問したいと思い直した(会社員ながら大学に短期留学中の長男ファミリーに会いに今月訪仏するが、残念ながら伊まで足を延ばせない)。

また、アン王女に扮した故オードリー・ヘップバーンを見て、美人の定義とは? との疑問が浮かぶ人はまずいないだろうと思った。浮かぶ、そのことだけでもう美人とは言えない。大相撲の横綱の品格も同じことだと理解した。

 このままでは「地上波」は「痴情派」しか観なくなると本文を結ぶつもりで、ネットで確認すると、既に書き込みが多数見られた。このダジャレはもはや陳腐なんだと苦笑いした。だが、テレビマンは笑っている場合ではないぞ!

 

2019.7 NO.116  おもろい VS  おもろな

 私がかつて在籍した社団のトップは若い頃関西出身の上司に「ホカして」と言われ、大事に保管して呆れられたという。東京人は「捨てる」の関西弁「ほかす」が分からない。

 「おもろい」(おもしろい)はさすがに関東の人でも分かるのではないか。「おもろい」の否定形は「おもろない」。末尾の「い」を除き「おもろな」とも言う。穴党の競馬ファンが「何や、全然荒れへん。銀行レースか、おもろな!」と言うように。

 度量も狭く、文句たれの私は今とくに「おもろな!」と思っていることが3つある。

  1つ目は、正義がまかり通らないこと。日本体操協会のパワハラ問題、協会はパワハラのバーを恣意的?に上げた第三者委員会の後の特別調査委員会の報告を受け、宮川紗江選手が主張した問題につき、塚原千恵子女子強化本部長や塚原光男副会長に追加処分をせず(共に退任)、宮川選手には反省文の提出を求めた。これに対し、ネット記事によると、宮川選手を支援する高須クリニック高須院長は番組で「パワハラしたかどうかという問題検証での反省文は、加害者側とされる方が書くべき。被害者側に反省文を書かせるのは筋が違うのではないかと思う」と持論を述べたという。まったくもって高須院長の意見に賛同する

宮川選手の主張を認めることは本ブログ2018年10月号103号(「ぼうこうVSぼうそう」)で書いた「塚原夫妻の主導か否かは別にして体操協会が異端の二人を追放しようとしたと見られても仕方がない」に繋がりかねない。従って協会側が認めないとは思っていたが、宮川選手に反省文を書かせるまでのことをするとは。“盗人猛々しい”の語句を思い出した。

 被害者が加害者にされてしまう。その意味では、NGT48のメンバーでファンに暴行されたことをSNSにあげ、事件に蓋をするばかりの所属会社から加害者呼ばわりされた山口真帆さんも同じ。「正しいことをしている人が報われない世の中でも、正しいことをしている人が損をしてしまう世の中ではあってはいけないと私は思います。」と言ってNGTを卒業した。準強姦事件での被害者伊藤詩織さんが相手側から逆提訴されたのも同じだろう。

日本はいつからこんな不条理な国になったのだろうか?

 

2つ目は、趣味の話で、日本競馬界の至宝ディープインパクト(以下ディープ)の後継問題。強い巨人の時代にはファンも多いがアンチも多かった。同じようにディープのアンチたちが次の切り口で貶してくる。まず、ディープの産駒は早熟のマイラー(1,600m前後)だと。しかし、産駒のサトノダイヤモンドが菊花賞(3,000m)と有馬記念(2,500m)を、フィエールマンが菊花賞と天皇賞春(3,200m)を勝利した。早枯れの代表格として2歳チャンピオンのダノンプレミアムがやり玉に挙げられた。が、古馬として臨んだ今年の金鯱賞を初め連勝した(それでもアンチは明日の安田記念で後述牝馬アーモンドアイに負けると負けてない)。

そして、アンチはディープのサイアー(種牡馬)ラインを継ぐ大物の牡馬が出ていないと攻撃する。痛い所を突かれた、netkeiba の掲示板における主導的立場みたいなファンも感情的になり、明らかにヘイトしているアンチやアンチでないと言いながらファンの神経を逆なでするアンチらに引きずり込まれ場外乱闘に及ぶ。心あるファンは、「これが、日本競馬界の至宝ディープの掲示板なのか!?」と嘆いた。

 ディープの後継候補として、今年産駒がデビューするキズナを筆頭にリアルスティール、サトノダイヤモンド、現役だが期待の上述ダノンプレミアムとフィエールマン等がいる。

 ただ、シビアな生産者サイドは待ってはくれない。サイアーランキングでディープに次ぐNO.2の座にあった一歳上のライバルのキングカメカメハ(以下キンカメ)はロードカナロアという後継種牡馬をすでに得ている。ロードカナロア産駒には早くも牝馬3冠を達成し昨年の年度代表馬となったアーモンドアイという名牝がいる。牝馬だけかと思ったら、今年の皐月賞(2,000m)を無敗で制した牡馬サートゥルナーリアをも誕生させた。

キンカメ系は日本の高速馬場に適しており、しかも日本で飽和状態にあるサンデーサイレンス(以下SS)系(ディープ、ハーツクライ等)とサイアーラインが違う。数多いるSS系名牝を選り取り見取りできる。今首を痛め種付け中止中の17歳ディープ(5年後は人間換算で65歳)の次にその座にカナロアを据えようとするのは理には適っている。ただ、帝国のような生産者サイドの意向に(政界だけではなく)媚び、忖度し、競馬関係者、専門誌、テレビ局等が必要以上にロードカナロア産駒を持ち上げているように見えるのが、おもろない。

皐月賞でのサートゥルナーリアがアタマ差という辛勝(戦後6頭いる三冠馬はすべて半馬身以上の完勝)に終わったのに、ダービー、凱旋門賞へと囃し立てる。私は白けていた。

ダービーはともかく凱旋門へはないだろう。凱旋門賞(2,400m)を勝つには高速馬場の日本の3,000m台のG1を制するスタミナが前提になろう。なにしろ菊花賞も含め3冠戦すべて圧勝したディープやオルフェーヴルでさえタフな馬場の凱旋門賞のゴール前で失速した。

キンカメ系の産駒で3,000m台のG1を勝った産駒はキセキのみ(しかも母の父はディープ)。サートゥルナーリアは結局ダービーは4着。さすがに凱旋門賞へとはもう言えまい。

 素人の私が分かることを競馬関係者は当然承知していながらサートゥルナーリアを無理に持ち上げているとしか思えない。新馬が出る度に繰り返されるかと思うと、うんざりだ。

 

 最後は、心臓病ならぬSHINZO病。安倍首相のやることなすことに動悸と息切れでなく憤りが激しい。頭はまだ壊れていない。何にしろ首相が政治家の中で一番働いているとの認識はある。ただ、二階幹事長が何を思ってか3月4選に言及した時、めまいがした。

国会で問われた首相は自民党の内規に触れただけで、続投意志の有無に言及していない。

内心はどうなのか。自民党の支持議員の手前やレームダック化を避けるため、口に出せないが、任期満了でと思っても不思議ではない。モリ・カケ問題、裁量労働制をめぐる首相答弁の撤回。失踪実習生に関するデータ誤り、アベノミクス指標の操作疑惑等ここ数年野党に叩かれ続けてきた。それでなくとも首相の仕事は激務。疲れ果ててはいないか。

 レガシーに焦燥なのは任期を意識してのことか。拉致問題も憲法改正もダメ。前のめりになった北方領土問題は、安倍首相が北方領土で暮らす住民の「帰属問題」を持ち出すなど先走りロ国民を怒らせた。首相に反発するだけならまだしもロ国民の怒りの矛先が(支持率回復のテコと目論んでいた)プーチン大統領に向けられたので、プーチン大統領が怒るまいことか(交渉の難航は丸山議員の「戦争奪還」発言に責任転嫁されようが)。すると、根幹の「北方四島は日本に帰属する」が外交青書から消えてしまった。安倍首相の不用意かつ拙速な言動でロ側を怒らしたとはいえ、なぜ消してしまうのだ。

「安倍首相は外交(武器を持たない戦争)が強い」と言うのは、外遊の間違いではないか。

功を焦り、どこのトップにも靴を舐めるがごとく、次は「北朝鮮と無条件で会談」と首相が言い出した(独自制裁も更新し、先般の短距離弾道ミサイルも安保理決議違反と非難した日本がいまさら何を言うかと北朝鮮が本気で相手にするとは思えないが)。

見るに堪えないし、国益も損ないかねない。「もうレガシーは『3期連続9年を初めて全うした総理・総裁』でよいのでは」と安倍首相を諭せるのはゴッドマザーしかいないか。

 次の総裁改選期は2年後の2021年9月。東京五輪の反動、消費税増税?で不景気の風が吹き荒れ、また日銀財政不均衡の爆弾が破裂するかもしれない。今般のトランプ大統領との関税密約?による日本農業の大打撃という不安要素もあり、安倍政権の尻拭いをする貧乏くじは引ひきたくないと、自民党の反主流派も二の足を踏むかも。いかんせん石破氏、岸田氏への待望論も湧いてこない。新元号発表時に注目を浴び、「令和おじさん」と人気が上がった、無派閥の菅官房長官にショートリリーフならと思うのかもしれない。森友学園問題が燻り続けている安倍首相も、官僚の手のひら返しも菅氏が首相になるなら安心だろう。

しかし、菅氏が首相ならABE政治の継続を意味し、より独裁的になるかも。それならSHINZO病が治っても、新・SHINZO病に罹るだけ。おもろないと思うより、憂鬱だ。

それにしても、騎士道の国も酷いが、武士道の国も。ひと昔「警察は一流、経済は二流、政治は三流」と言われたが、皆1ランク下がったと言えないまでも政治は四流までに劣化したのではないか。“サラブレットの墓場”と揶揄された日本競馬は今や一流になったが。

 

2019.6 NO.115 さいばんVS さいだん

 開廷が待たれる日産ゴーン前会長事件の裁判は、ボクシングに喩えれば、チャンピオンの東京地検特捜部に対し無罪請負人弘中弁護士がチャレンジするタイトルマッチと言える。本ビッグマッチのオッズがあるとしたら、1.5:8.5でチャンピオンが圧倒的有利となろう。

マスコミは地検からのリークをそのまま垂れ流しているようで、それを大衆は好物がごとく鵜呑みする。ゴーン氏の拝金主義的強欲さに日本人が抱く嫌悪感がそうさせるのか。

ただ、本事件で猛然と特捜部を批判する郷原信郎弁護士や某会計評論家の発信内容を虚心坦懐に読むと、我々素人が、酷すぎる、特捜部が立件するのは当然と思っても、裁判では、それが犯罪と認定され、有罪になるとは必ずしも限らないとの理屈が理解できる。

公開スパーリングでは、ゴーン氏保釈時の変装脱出や中身のない会見動画等弁護側の調子が上がらないが、試合(裁判)では、リストン対カシアス・クレイの試合の再来になるかも。

 ボクシングではスプリットデジョンに判定が分かれても勝ちは勝ちだが、地検は起訴4件の内1つでも無罪になれば負けとハードルを上げ背水の陣の覚悟で臨んでいるとか。

年明けと見られる地裁でのタイトルマッチはどちらが負けても必ずリターンマッチがあろうし、それに負けても、3度目(最高裁)があり、雌雄を決するのは遠い先の話となる。

 仮に大衆が望む特捜部全面勝利になったとしよう。それでも、“試合に勝って勝負に負ける”ということもなしとしない。地検の得るものは少ない。特捜部の存続が確保される。天敵の弘中弁護士のカミソリが錆びついたと世間に知らしめ溜飲を下げる、そのぐらいか。

反面、「人質司法」と海外から批判され、日本でも、特捜部がなりふり構わず強権を振り回し、弘中弁護士だけではなく世の弁護士たちを憤慨させた。その捜査手法は日本司法の特異性よりも特捜部の負の側面・暴力性をことさら露見させた(現特捜部長は超エリートらしいが、裁判の結果とは関係なく、トップへの資質が内部で問われるのではないか)。

「強い検察」とは、戦前の特高警察のように強権を振りかざし、暴力的な捜査をすることではない。権力者らに敢然と立ち向かい、不正を暴き、世を正すことではないのか。

大きな花火を上げるハズの司法取引は日本版司法取引の問題点を浮かび上がらせただけでは。2019年5月号NO.113(「しほうVSいほう」)で郷原弁護士の解説を紹介したが、日本版の『他人負罪型』では、日本人が恥じる“他人を売っても”、検察は利するが、自らが得するか否かがよく分からない。また、前々からの指摘にあるように、「冤罪が生まれやすい」という問題点が日本版司法取引導入早々浮上した。ゴーン前会長も「日産の数人が私を陥れている」と主張している(裁判官が裁断しその主張を認めた場合に冤罪と言えるが)。

 武士の時代、家老は切腹してまでも主君の乱行を諫めた。今は、トップの独断専行を諫めるどころか逆に取り入り、おこぼれに与っておきながら、自分の身が危ないとなれば、検察と司法取引し、トップを売って(又は陥れて)自身だけ助かろうとする。そんな悪しき先例を作ってはならないし、逆に自身も助からないのなら、日本版司法取引など普及しない。

「日本政府は日産とルノーが統合する可能性を阻止するため、昨年春に両社の協議に介入していた」と仏紙が報じた。それが事実なら、政府(経産省or官邸)が絡む国策捜査という見方は一転真実味を帯びてくる。だが、ルノーはゴーン氏を裁判を待たずに切り捨てた。裁判は、日産内部で処理すべき問題で、ゴーン氏個人の名誉回復と地検特捜部の看板とを賭けた争いに過ぎなくなった。ルノーによる経営統合への目論見はなんら変わっていない。

日本の国策産業の日産を仏政府の出資するルノーが支援するのを許しながら株主でもない日本政府の介入が続くのであれば、ゴーン氏逮捕の報復とみる向きもある、仏の予審判事によるJOC竹田恒和会長に対する東京五輪贈賄疑惑捜査に影響が出てくるのか。皇室に繋がる竹田会長が贈賄を疑われるリスクのあることを一存で指示したとは思えないだけに。

 ともあれ、動機に不純と言えないまでも問題があれば、事は上手く運ばないものだ。

 

動機が問題と言えば、裁判員制度もそうだろう。10年以上前から裁判官がおかしい。浮世離れした判決が出ると弁護士会、経済界から批判が相次ぎ(最近でも娘を性的暴行の父に無罪判決が出て物議を醸す)、陪審員制度の導入(私は反対だが)を要求された。これに対し、裁判所側は、法曹の一元化を図り、同じ難関な司法試験に合格し人生経験も豊富な立派な弁護士も登用すれば済むと思うのだが、それは頑として拒絶する。そればかりか(生え抜きしかいない)裁判官を締め付ける。

最高裁上層部(最高裁長官、事務総長ら)は日本の秩序を守る重大な責任を負っている。裁判官の意思を統一したいと言う気持ちは分からなくもない。しかし、司法試験を一発合格のごとくしかも優秀な成績を修めた若い逸材を裁判官に囲い込み、世間から遠ざけ、純粋培養して、金太郎飴にしていく。それが本当なら、日本の秩序を守るという使命感からというより、裁判官を支配したいという最高裁上層部のエゴ(権力欲)ではないかと思う。

『裁判官は劣化しているのか』(羽鳥書店)を読むと、目立つことをするだけでも出世コースから外されるのが垣間見える。著者の現役判事岡口基一氏は、苦学して東大法学部に入り、裁判官になった。他の裁判官等にも有用だと自身が作ったレジュメをまとめ、5版を重ねるベストセラー『要件事実マニュアル』(ぎょうせい)を発刊した。この他タブー視される判事や職員との本質論論議、外部との積極的な交流など金太郎飴から逸脱する行動は裁判所ではアウトサイダー。だが、裁判所にあり方に疑問を持つ私からすると裁判所改革の旗手になる人物だと思った。ところが、その岡口判事が白ブリーフでのパンツ一丁姿をSNSにアップさせた。何のために。ネット民の中では「目立ちたいだけ」と冷ややかな意見も。

さらに、岡口判事は、担当でない某裁判の原告に対して「感情を傷つけるツイートをした」として最高裁から裁判所法の「品位を辱める行状」にあたるとして戒告処分を受けた。

かの江川紹子さんは『「事件ウオッチ」第114回【Twitter投稿で戒告処分】』で「言論の自由がない裁判官に、言論の自由についての判断ができるのか」と岡口氏を擁護している。

 岡口判事自身も「言論の自由」「表現の自由」を主張している。私は賛同しない。釈迦に説法だが、安倍首相が国会で言論の自由と発言し識者らに失笑されたように、憲法21条に「言論の自由」などが謳われているのは、権力を持たない弱い立場の我々の「言論の自由」「表現の自由」を弾圧してはならないと権力者を戒めているのだ。“法の子”(本ブログ2011年11月号NO.5「サイパンとサイバン」参照)裁判官は権力者側にあると私は思っている。日本の裁判官が求めるべきは「最高裁上層部統制からの自由」ではないのか。

岡口判事ですら長い間裁判所に居ればこうなるというのなら、やはり法曹の一元化がと思ってしまう。だが、最高裁上層部はますます締め付けが必要と思うのだろう。

 

上記を背景として、2009年裁判所側は、陪審制、法曹の一元化は何としても阻止し、かつ弁護士側も乗りやすい妙案を考え、スタートさせた。それが裁判員制度だ。市民を参加させ批判をかわし、さらに元裁判官瀬木比呂志氏の『絶望の裁判所』(講談社)で暴露されたように、日陰に甘んじていた刑事裁判にスポットライトをあてるのが狙いだ。

善良な市民にとっては、民事の方が参画し易いのだが、馴染みのない刑事事件、しかも(絶対に裁判官が素人に裁かれることのない)死刑などの重大犯罪を担当させられる。何の因果で他人の命を奪わないといけないのか。見たくもない惨劇写真を見ないといけないのか。その苦痛を裁判員が訴えると惨劇写真をイラストに替えるという。検察が怒るまいことか。

 昨年裁判員裁判で辞退者が66%と過去最高となったという。市民の制度への理解が進み、選ばれるという一種優越感よりも制度への疑問、負担感が大きくなっているのではないか。

 “人が人を裁き”、“人が人を売る”。それがボディブローのようにじわじわと効き日本固有の美徳“和の精神”を壊していく。叫ぼうではないか!「It is never too late to mend!」

 

2019.5 臨時号 NO.114  けいぞく VS  かいぞく(2)

嫌われ者から英雄に評価が一変したと言えば、英首相チャーチルが挙げられる。昨年のアカデミー主演男優賞に輝き、日本人がメーキャップ部門でオスカーを手にした映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』で世界がまたチャーチルの偉業を再認識した。

 前首相のチェンバレンによるナチスドイツへの宥和政策が失政となり、保守党内で嫌われていたチャーチルが首相に就任することになった。ドイツのフランスへの侵略に対し英仏連合軍が劣勢となるも、チャーチルは断固ナチスと戦うことを決断する。フランス北東部ダンケルクから30万人の英兵士を引き上げるに際しドイツ軍を足止めさせるためにカレーに居た3千人の英兵士を犠牲にした(同じく事前通告なしで日本への原爆投下をトルーマンに迫ったという。その冷徹さと非情さは我ら凡人には決して真似できない。妻に頭が上がらないところは親近感もあるが)。

ナチスとの和睦を主張する戦時内閣の中で孤立し思い悩むが、国王ジョージ6世がチャーチルを支持する(チャーチルの首相就任を危ぶんでいた国王が首相支持に変わるところは映画ではやや唐突)。国王と二人三脚で英国民に勇気を与えドイツ軍に勝利する。

 

一方フランスは、ユダヤ人歴史家マルク・ブロック(ナチスにより銃殺)が従軍日記を『奇妙な敗北』と表題したように、陸続きのナチスドイツとの近代戦に質、量共対応できなかった軍上層部の怠慢と結束力の無さにより、いとも簡単にナチスの軍門に下った(チャーチルも『第二次大戦回顧録 抄』〈毎日新聞社〉のP41に「フランスは一大攻勢に出て生命を賭けるようには見えなかった」と述懐している)。そして、ナチスの非人道的な政策に加担し拭い去れない心の傷を負った。フランスには国民が心を一つにする存在がいなかった。

 イギリスは、海峡が壁となり、海軍、空軍共ドイツと互角以上であったが、それだけではなく、避難せず戦火の中で国民を鼓舞し続けた国王がいたからドイツに徹底抗戦できたと私はそう思う。同じバイキング(海賊)の国ノルウェー国王もナチスへの降伏を拒否した(その様子は映画『ヒトラーに屈しなかった国王』で描かれている)。

 自由・平等・基本的人権の理念に目を奪われてフランス革命を美化する人は革命の負の部分を見落としている。ロシア革命(とくに10月革命)、ドイツ革命(11月革命)も同じだが、革命により国王を倒した後は恐怖政治が待っている(文化大革命もそうだが、革命と聞くと血塗られたイメージが付き纏い嫌悪感を覚える。産業革命等経済用語としては良いのだが)。

権威と権力を併せ持つ前近代の国王は、失政すると国民から攻撃された。だが、権威としての国王(日本は天皇)は宗教の違いを超えて国民の心を一つにするのに不可欠。片時も欠かさず国、国民、皇統の安寧を祈念しておられる存在なのだから。

EUからの離脱問題で英国民が二分し大混乱に陥っているが、収拾させるのは、最後はエリザベス女王のお言葉しかないだろう。日本においても、被災地の人々がこの上なく癒されるのは、天皇皇后両陛下のお見舞いなのだ。

 権威としての国王の存在を目の上のナントカと思う者は、共産主義者か独裁者を目指す権力者とその仲間らなのであろう。

 

 映画はドイツに勝利したところで終わるが、その直後の総選挙でチャーチルは首相の座を手放した。ナチスから国民を守った英雄であり国民から人気は高かったが、選挙のアヤで党が敗北した為という(私が若い頃平時に戻れば戦争を起こした首相はもう要らないとの見方であったと思うが)。しかし、6年後1950年に70歳で首相に返り咲いた。

 映画の本編が終わり、エンドロールの前に、正確には覚えていないが「成功しても、失敗しても、続けることが大事」という旨のチャーチルの言葉が綴られていた。

 以上、3人の継続力を見てきたが、信念があれば誰でもということではない。信念を支える高い才能とそれが発現された蓄積がなければ継続力を持つことはできない。

 そんな話を妻にすると、「チャーチルの性格に似ているところがあるだけではダメということね。アンタはいつまでも嫌われたままなのよ」と憎たらし気にぬかしおった。細君ならぬ太君が養豚場から屠殺場に連れて行かれるのを助けてもらった恩を忘れおって。「そんなことを口にするから妻にも嫌われるのよ!」と聞こえた気がした。ん? 天の声か?

 

 

2019.5 臨時号 NO.114  けいぞく VS  かいぞく(1)

新元号が「令和」に決まった。4/4のTV番組でかの室井佑月さんより、「今の天皇が好きだから退位されるのは寂しい。新元号に纏わる狂騒にはついていけない」との旨の発言があった。良いこと言うなぁと感心した。私自身も白けていた。有識者の検討会議で漏れないよう携帯の電波も遮断されたという。新天皇=新元号のその新天皇が即位される1か月も前の発表に事前に漏れたとして、どれだけの不都合が、誰が困ると言うのか。

それよりも、永久に残るものであり、時代にふさわしく、また異論がでない新元号を選ぶということが最重要課題であろう。

しかし、4/1の11時41分に新元号が発表されてすぐ、中国から「平和が零」と揶揄されたのはともかく、TV番組で「令和は和を命ずるという意味に通ずる」とゲスト解説者が言っていた(戦前の全体主義体制を想起する人もいよう)。TVでもお馴染みの歴史学者東大本郷和人教授に至っては「命令」「巧言令色」「令旨」を挙げ令の字を疑問視し「『令和』以外の5つはケチのつけようがない」とまで言い切っている。そんな問題点を有識者による「元号に関する懇談会」で誰も指摘していないのか。それなら、無理だと分かっちゃいるけど、皇太子殿下(新天皇)ご自身にお選びいただいた方がよかったと思うのは、私だけであろうか。

そんな雑音を消し去るかのように、5年も先の新紙幣が発表された。順序が違う。そんなのは新天皇ご即位の一連の儀式が済んだ後、祝砲のごとく発表すべきものだろう。

世間がお祭りムードの中でこんな話をするのは嫌われる。分かっちゃいるけど。

 

 昨年のことになるが、タイトルに惹かれて映画『あなたの旅立ち、綴ります』を映画館に足を運んだ。シャーリー・マクレーンさんが主演で、アマンダ・セイフライドさん(マンマ・ミーア!の続編『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』にも出演していた)が助演のヒューマンコメディ。夫とも別れ娘とも疎遠になった裕福だが一人孤独な老婆が生前中に自分の訃報記事を準備しようする。若い駆け出しの女性記者が担当し取材するが、誰からも嫌われていることしか聞けず良い訃報記事が書けない。一旦老婆は若い記者を詰るが、老婆は最高の訃報記事を書いてもらえるよう自分を変えようと考えを改める。若い女性記者と共に行動を起こし、ハッピーエンドで閉じる、地味だが後味の良い佳作。

 

この映画とは逆に、日本の芸能界には、自身は何も変わっていないのに、嫌われ者から大晦日の紅白の審査員になるほどに評価が180度変わったと言ってよいタレントがいる。

「ヤバいよ! ヤバいよ!」が口癖で、若い時は切れたナイフだったと不良ぶる出川哲朗氏だ。

そんな出川氏の芸能人としての存在を格式高い親戚筋は歓迎していなかったという。大伯父に八幡製鐵初代社長三鬼隆がいる。伝説の女優原節子も母方の遠戚にあたる。

それが今や中高生からキャー、キャー言われるほどの大人気。少し前まで「キャ‐ッ、やだーッ、出川よ!」と言われていたのに。一つには、出川氏がもう55歳になり、年齢的に若い女性の恋愛対象から外れたこともあると思う。長らく出川氏の代名詞「抱かれたくない男NO.1の称号も一昨年の週刊誌のランキングでトップの座をアンガールズの田中卓志氏に譲った。

 恋愛対象と見なければ、小柄で、本人曰く喉が赤ちゃんで、言い間違いも多く、ユニークな和声英語を繰り出す出川氏は見ていて楽しい。母性本能もくすぐられるだろう。

 しかし、それだけで今の人気を説明することはできない。危険を顧みず体を張るリアル芸人の第一人者として30年この方浮き沈みの激しい芸能界で第一線を張り続けてきた才能による継続力が彼の土台になっている。それがあってこその今の人気なのだ。

 神武以来の天才棋士で引退後お茶の間で人気の加藤一二三氏も同じだ。現役の将棋棋士時代から氏を知る私からすると、今若者から「ひふみん」と親しまれているのは、意外のなにものでもない。現役時代での奇行は有名。ネット上にも『加藤一二三伝説』となるものがあるように、米長棋士とのタイトル戦で旅館の(人工)滝を止めさせた。三浦弘行七段(現九段)との“冷房スイッチ、オン・オフ合戦もあった。対局中の昼、夜の食事は40年間うな重(木村一基九段は対局中に目の前で食べられたとのこと)などエピソードは事欠かない。三浦九段は加藤棋士との対局のコツは動揺しないことと言っていた。将棋ファンは贔屓の棋士が加藤棋士との対局にあたるとやきもきするのが常であったと思う。

 そんな加藤氏が意識してゆるキャラに変えたとは思えない。将棋一筋。他の事なら意に介さず、仮に笑われたとしても何とも思わないのだろう。

 1954年当時の史上最年少(中学生)棋士となり、爾来63年並み居る天才の中第一線で活躍し続けた。それにより、お茶目に映る加藤氏をほほえましく思っても嗤う人などいない。

 

 

2019.5 NO.113 しほう VS  いほう

 日産ゴーン(前)会長事件、無罪請負人の異名を持つ弘中惇一郎弁護士と東京地検特捜部との全面対決となろうその裁判はいつ行われるであろうか?

 本事件については、次第に内容が私にも見えてきた。仏政府からのルノーと日産自動車との経営統合要請に対し当初ゴーン会長が反対していたが、抗しきれず統合を進めようとするに至り、ゴーン会長の子飼い役員が統合を阻止すべくクーデターを起こした。起訴内容は本来社内の取締役会にて処理すべき問題にも拘らず、違法であった司法取引が解禁されたのを利用していきなり独裁者ゴーン氏を追放しようとしたと見える。

一方、司法取引の導入に尽力したという森本宏現特捜部長は、日本人に馴染むかとの疑念を払拭し司法取引を根付かせる為大きな花火を打ち上げたいと考えたのではと見られる。

しかし、双方の思惑どおりに事が進むか雲行きは怪しい。西川廣人日産社長は追放できると目論んだゴーン氏の特別背任容疑だけではなく、金融商品取引法違反(有価証券報告書への虚偽記載)における両罰規定から日産自体も起訴され、司法取引したにも拘わらず西川社長の責任も問われることになったのは誤算だろう。さらに、今も衣の下に鎧ならぬ経営統合の野心が見え隠れする仏政府・ルノーに弓を引いた事実は残る。保釈されたゴーン氏の復讐も始まろう。続投意欲を見せる西川社長は明智光秀にならずに済むものなのか。

地検特捜部の方も、「検察の正義とは何なのか?」と特捜部のあり方に疑問を抱き検事を辞めた郷原信郎弁護士が「ゴーン氏逮捕に正当性なし」と特捜部を猛然と批判している(弘中弁護士の弁護方針も同じか?)。「人質司法」と海外からの批判も浴び、大花火を打ち上げるハズが、絶対負けられない戦いとなり特捜部存続の瀬戸際に立たされていると言える。

 

 上述の郷原弁護士は、ゴーン会長の担当弁護士で2月に辞任した大鶴基成弁護士が特捜部長時代にライブドア事件を事件化したことに批判的であるが、私は「世直し」は検察にしかできないと思っている。堀江貴文氏や村上世彰氏のスーパーエリートが扇動する、日本人の美徳・美学に反する拝金主義的な風潮、価値観を払拭させたことを評価している。

 ただ、本件に大義はない。自動車という国策産業を外国企業に支援させるのを許しておいて、いまさら国策捜査はないだろう。また、司法取引も問題があると思う。「取り調べの可視化が義務付けられる見返りに司法取引を」と言われることに、それが本当だとすれば、違和感を覚える。テストでのカンニング防止のため学校側から監視カメラを設置すると言えば、生徒側から「それなら参考書の持ち込みを認めて欲しい」と言うのとどう違うのか。

 郷原弁護士は、日本版司法取引では、かえって捜査の透明性が損なわれると、次のように批判する。「米国の『自己負罪型』(被疑者・被告人本人が自らの罪の一部を認める代わりに他の罪の処罰をしない旨の検察官との合意)であれば、司法取引が成立すれば、有罪答弁によって、裁判も経ることなく事件は決着するので、それはただちに表に出ることになる。しかし(日本版の)『他人負罪型』(他人の犯罪についての捜査公判についての協力の見返りに、自己の犯罪の処罰を軽減する合意)は、その『他人』の刑事事件の捜査の結果、その他人が起訴され、公判が開かれなければ、どのような司法取引が行われたのかが明らかにならない」と説く。これでは、我々第三者はもちろん当の日産側も検察との取引が有利なのか不利なのかはっきりしてこない。結局、検察の為の司法取引ということか。

 

この他、本事件により我が国の「司法」における問題点に目を向けることになった。

ゴーン会長拘留の長期化に対する今回の海外からの批判は、先月再審請求が棄却された「鈴木宗男事件」で連座した佐藤優氏の勾留期間(512日)、鈴木氏の勾留期間(400日以上)の異常さを思い起こさせる。当時私は「国策捜査なのか? 気の毒に」と思っただけだった。

鈴木、佐藤両氏は、知性も知力も気概もあり威信を賭けて戦い屈服することはない。しかし、無知あるいは無辜の庶民なら、弁護士と一緒に検事と対峙することは許されず孤立する中で長期に亘る苦痛からただただ逃れたいが為に、やってもいないことを想像して偽証自白してしまいかねない。それを裁判官が見抜けなければ、冤罪が生まれてしまう。

 罪を認めるまで保釈させたくないとの検事が思う気持ちは分からなくもない。しかし、保釈を認める立場の裁判所が証拠隠滅の一点をもって長期に拘束続ける検察に同調している(「推定無罪の原則」から逸脱している)と思われることはどうなのか(ゴーン氏保釈が、これまでの流れを断ち切ることになるのか、外圧による特例なのか、まだ分からない)。

それでなくとも、起訴するか否かは検察に権限があり、起訴した99%以上の刑事事案が裁判で有罪にとなる現状において裁判所は検察の追認機関かと揶揄する向きもある。

 今の日本においては、三権分立が機能しているとは言えない。最高議決機関としての「国会」は議論がなされず権威も失墜している。「行政」は官邸に幹部官僚の人事を実質握られ、官僚は官僚道を踏み外し、文書改竄、計数操作?してでも官邸に媚び、忖度する。とくに独立が求められる「司法」においては前述のとおり裁判所と(行政の中にある)検察との位置づけが逆転しているかのごとくにある。権力者を規制する憲法は、憲法解釈で変えられてしまう。まさに権力者による独裁体制にあると言っても過言ではない。現権力者が能力も大した思想もないからこれ位で済んでいるが、将来真の独裁者が生まれる余地がある。

 独裁体制の中では、とくに権力者の不正が懸念されるが、国会で野党が真相解明するのには限界がある。やはり取り調べのプロの検察に期待がかかるが、行政内(権力者の指揮下)にあれば及び腰になり易い。森友学園問題に係る財務省の文書改竄問題で、(「村木裁判」で弘中弁護士に検事による証拠改竄を見抜かれ信用失墜した)名誉挽回のチャンスでもあり大阪地検の女性特捜部長による真相解明が当初期待された。だが、文書の本幹部分が改竄されていないとの詭弁みたいな事由で佐川元理財局長らを不起訴とし(先月末大阪検察審査会が「不起訴不当」と議決)、当の女性特捜部長はさっさと函館に栄転して行ってしまった。

 警察・検察体制は、本来行政と切り離すべきと思うが、武力を有し時に(戦後の共産主義が吹き荒れたときなど)政府と敵対関係になりうる可能性が絶対にないと言い切れない限り行政の長の指揮下に置かざるを得ないのは理解できる。

韓国では、特別検察官制があり特別検察官が朴槿恵前大統領を捜査し、容疑を認定した。ただ事件化には国会の議決が必要。日本では証人喚問すらままならないので機能しないか。

仏にはJOC竹田会長の贈賄疑惑を捜査する予審判事がいるが、日本の特捜部検事は1949年に廃止した予審判事と同じではないか。それなら特捜部を地検から離脱させ、予審判事として権力者等に関わる重大事件の捜査の公正・中立性を確保した方よいのではないか。

 さらに権力者への規制で言えば、失政しようと思い失政する権力者はいない。だが、失政になっても失敗を認めず統計指標を操作?してでも失政を続ける権力者はいるかもしれない。権力を握った者に鈴をつけることは容易ではない。それで歯止めとして(自民党総裁の)多選禁止がある。だが、連続2期6年までを自民党は軽挙に3期9年に変更してしまった。

その総裁選で勝利し首相の3選が決まり、一番嘆いたのは、日銀マンではなかったか。

2019年2月号N.107(「たいざい VS たいがい」)で触れたが、首相がアベノミクスの失敗を認めない限り超金融緩和政策を変更できない(止めるに止められない事態に陥っているとしても)。6年間での日銀財政の惨状がもう3年さらに悪化する。英国紳士風を装いプライドも高い日銀マンが頭を抱えている姿を想像するに難くない。

小選挙区制以前の自民党では、自由闊達な議論がなされ自浄作用も期待できたが、選挙での公認という生殺与奪権で抑え込まれた自民党議員に昔の面影はない。そんな自民党に議員の利害で総裁はともかく総理(首相)まで勝手に多選させることを許してよいものか。

洋の東西を問わず、「権力は腐敗する」。党派を超えて議決し国民投票を経て、憲法に連続2期(6年)までとか、首相の多選禁止の条文を明記すべきであろう。

 

2019.4 NO.112 つやのよる VS つやのひる                                                   

 つやのよる。通夜のことではない。それなら馬から落馬と同じだ。天才シンガーソングライターの井上陽水さんは遊び心で『リバーサイドホテル』の歌詞で「夜明けが明けたとき」「川沿いリバーサイド」「金属のメタル」とわざとダブらせているが。

『艶の夜』は、作家井上光晴氏の長女で同じく作家の井上荒野女史による小説の題名。まだ若いのに余命いくばくもない艶という男好きする、欲望のおもむくままに生きた女に絡まる男達の妻、愛人の揺れ動く心のひだを女流作家ならではの感性で描く。映画化もなされた。大竹しのぶさん、風吹ジュンさん、小泉今日子さん、真木よう子さんら豪華女優陣が“競艶”している。

  つやのひる。艶の生き方とは似ても似つかぬ亡き我が母の通夜に纏わる小話。亡くなってもう6年になる。昨年の暮れ7回忌だった。母が亡くなったときのことは、2013年4月号「さくら と さわら」で少し触れた。母が亡くなる前日に義母が亡くなり線香の番をして夜を明かそうとしたとき思いがけず兄から連絡が入った。急遽、義母の通夜に出る妻と子供を残し、線香の寝ずの番をした翌朝私一人が故郷神戸に向かった。

神戸に着くと既に母の遺体は葬儀会館の安置所に安置されていた。母の顔を見たが涙は流れなかった。

 

平成5年末に銀行を辞めた私は翌正月単身上京したがすぐに二重生活が難しくなり、母を残し東京に家族を呼び寄せることになった。一旦帰郷し家財を整理した。ひとり東京に戻る夜の新幹線の中で外は真っ暗で景色は見えないのにずっと窓を見ていた。窓ガラスに泣顔が映っていた。以来母の分の涙は底をついたのか、母を思って涙を流したことはない。

心に棘が刺さったままの私の母を偲ぶ心情はすぎもとまさとさんの『吾亦紅』の歌詞に近い(「来月で俺 離婚するだよ そう、はじめて 自分を生きる」の部分は共感できないが)。

親不孝の私は母に母の一生はどうだったかと聞くことはできなかった。さだまさしさんの『無縁坂』の歌詞どおりの人生ではなかったかと思っている。

思えば、よくぞ母は米寿近くまで生きたものだ。一病息災というものか。

敗戦後打ちひしがれていた日本人が自信を取り戻していくその一つのエポックとして昭和34年児島明子さんがミス・ユニバースで世界一になり世の中が沸き返った。私が9歳の頃だが、30歳半ばの母は胃下垂が腸に癒着し、50㎏を超えていた体が35㎏までやせ衰えていた(母の顔を書いたとき時骸骨の絵になったという。私は覚えていないのだが)。手術するとき麻酔でそのまま逝ってはと余り麻酔を利かせなかった。昔のことで泣き叫んでいる方が大丈夫だということらしい。母は「メスが入ったときバリバリと音がした。切腹させられた。金輪際こりごり」とよく言っていた。それから50年以上生きた。

検査等で一緒に病院へ行くとき子供心に母がもういなくなるのではと心細い思いをしていた。それがあるのか、アホな私は小学校の母の日の作文で「お母さんが死んだら、大きなおはかをたててあげる」と書いた。成人してからも母や兄によく冷やかされたものだ。

 

通夜は翌日だということで葬儀会館から近くのビジネスホテルを紹介してもらいそこに泊まった。通夜当日の昼頃葬儀会館に出向いた。控室で手持ち無沙汰で横になって土曜の競馬中継をぼんやり眺めていたら突然後ろの襖が開いた。死化粧が終わったので視てくれという。薄化粧とはいえ白く顔が塗られ口紅も赤く、見慣れた母親の顔ではなく戸惑いを感じた。熟視することもなく、すぐに「ありがとうございます」と頭を下げ終わらせた。

 通夜には昔長屋の隣同士だったご主人が来てくれていた。40数年振りに会ったが、もう90歳になるという。本人はここまで長生きするとは思わなかったとのことだ。他の長生きしている人もきっと結果論に過ぎないのだろう。身寄りの少ない、母の友達は寂しそうに泣いていた。次々と友らを送らなければいけないのなら、長生きするのも辛いものだ。

 

通夜が終わり、喪主の兄ら他の家族は皆家に戻り、私だけ控室で寝る。敷かれた布団を見て、怪訝に思った。たしか昼に死化粧を施された母の枕は北向きだった。同じ方向だから北向きではないか。会館の窓から確認してもどうやら北向きだ。神戸は東西に長く山側が北で分かりやすい。会館の人に指摘すると、返事は「仏さんに足を向けなければ、それでよい」ということだった。「ほんまかいな!?」 いくら無宗教の私でも60数年日本の風習の中で暮らしていると気になる。南向きに枕を移し寝ることにした。

 翌日葬式の朝別の階に個室の風呂があり朝風呂に入った。控え室に戻ると民宿にありがちな朝食メニューの数々が用意されていた。

 葬儀会館は至れり尽くせり、遠方から来るものにとってはありがたいことこの上ない。縁起でもないが、次の葬儀もここでやってもらえたらと身勝手にそう思った。

 

ただし、私自身のときは葬儀ビジネス、お寺ビジネスを利用するつもりはない。

本ブログ2012年3月号NO.9(「アダム と サダム」)に書いたように、神仏を恐れるどころか、阪神大震災で壊れた神社に八つ当たりして以来もう20年程、きっぱり神社仏閣に手を合わせることはない。とはいえ、それを家族にも強要するようなことはしない。

ファミリーの祝い事でお参りするときは、内孫3才の七五三では富岡天満宮で家族と一緒にお祓いを受けた(その後すぐ神主が刃傷沙汰に遭ったが)。その後内孫が生まれた時も水天宮で、外孫が生まれた時は葛飾八幡宮で、皆と一緒にお祓いを受けている。

某住職の本を読むと、「坊主丸儲け」と言える大きな利権がある寺はほんの一握りでしかない。ほとんどの住職が兼業しないと立ち行かないことが分かったが、それでもNO!だ(僧衣反則切符問題よりも、もっと、いわば構造不況業種として抜本的対策を住職たちは考える必要があろう)。

高校の大先輩白洲次郎に肖り「葬式無用」「戒名不要」と遺言している。火葬場でのど仏を妻が拾って持ってくれたら、それだけでいい。遠い神戸の墓には入らない。妻は、ちゃんとした墓に入りたいなら、死後離婚して自宅から歩いていける実家の墓に入ればよい。

 私にとっての位牌は、本ブログ50号までをまとめた非売本だ。私の存在を知る孫たちが高校生・大学生になり大人の話ができる頃には私は鬼籍に入っているだろう。ブログ本を読んで、祖父がどんな人で、どんなことを考えていたかを知ってもらえればと思う。私が見ることのない曾孫たちは、自慢にもならない曾祖父のことなど関心を持つ必要はない。

 

命日でなくとも、家族が集まったカラオケの時にでも、晩年吉幾三さんの『ありがとうの唄』の6分を超える長い歌を私がよく唄っていたことを思い出してくれたらそれでいい。

「ありがとう 言えるよな 最後であればいい お前にも子供もにも すべての人たちに」と唄っていたことを。

 

2019.3 臨時号NO.111 ひゃく VS しゃく(2)

本ブログエッセイのこれまで掲載した中で、私自身が気に入っているものを取り上げてみた。各号の標題の一字違いについては、必ずしもオリジナルなものだけではない。初号の「オス と メス」や50号の一字違いの定番である「コンクラーベ と コンクラベ」なども使用している。

オリジナルで気に入っているのは、NO.13ちょうしゅうりき(長州力)としょうしゅうりき(消臭力)。NO.38 むりしで(無利子で)とむりして(無理して)。NO.49アンナカレーニナ(小説の主人公) と アンナカレーニシナ(杏奈カレーにしな)。NO.62ピペット(スポイトの類)VSパペット(操り人形)。NO.69いたがり(痛がり)VSいいたがり(言いたがり)。

 一字違いを探すのはまだ苦にはなっていない。色に関するだけでも、あかVSあお、きいろVSきんいろ。きんいろVSぎんいろ。しろVSくろは99号で使用したが、まだシロサギVSクロサギや白人VS黒人がある。

世に出ている面白いものに、ミランダ―カー(美人モデル)VSニランダカー(睨んだかー)、やくみつる(漫画家)VSやくみつゆ(東国原氏の芸能界復帰時没になった芸名候補)がある。

しかし、面白い一字違いがあっても、3千~4千字の文章を書くことは簡単ではない。とくに下ネタ等は。あげまんVSさげまん、あんこVSうんこ(うの字を他の字に換えても)、ドエスVSドエムなど、それを標題にするのも憚れるし、Storyも難しい。

 

そのStoryで私が気に入っているものは次の通り。裁判員制度を批判したNO.5サイパン(島)とサイバン(裁判)。甲斐性のない夫の末路を描いたNO.16アントキノイノチ(さだまさし氏の小説)とアントキノイノキ(ものまね芸人)。国民主権の欺瞞に触れたNO.41えいこく(英国)とばいこく(売国)。ABE主義と批判したNO.80かいげん(改元)VSかいけん(改憲)、武士道を思い起こしたNO.82ぶし(武士)VSぎし(義士)。紛争地の海外邦人救出の為の憲法第9条二項の改変をなぜ政治家は口にしないのかとの疑問を呈したNO.87ほご(保護)VSほこ(矛)。戦後は終わっていないと書いたNO.91かいざん(改竄)VSたいざん(大山)。“天皇制社会主義”が揺らぐと新自由主義を批判したNO.102びぼう(美貌)VSびんぼう(貧乏)。日本人の心・精神に武士道精神という火入れをと説いたNO.107はじ(恥)VSいじ(意地)。支持者に眼を覚ませ!と安倍首相の失政を総括したNO.109たいざい(大罪)VSたいがい(大概)。

それから女支配社会の夢物語NO.63おとこ(男)VSおとめ(乙女)。これは、その前月号のNO.62ピペットVSパペットの冒頭にて枕詞で「SMAP解散とSTAP細胞はともに幻に終わった。」と書いた。SMAP独立騒動でメンバーに公開処刑ならぬ公開謝罪をさせ、後日(経営面のトップではない?)代表のジャニー喜多川氏が解散はないと明言したと思ったのでそう書いた。が、アップして10日ぐらいあとに解散報道が出た。

「落日のジャニーズ帝国はどないなってんねん!?」と怒り心頭に達した。翌月号に訂正原稿を載せるべくすぐに着手したが、鈍い頭も怒ると回転がよくなるのか、私にしては上出来なStoryが出来た(ミソジニーのつもりはない。ただ女は怖いとは正直思っている)。災い転じて福となすと言ったところか。私にとって思い出深い号になった。

 

 私は人生のゴールを一応喜寿77歳に設定しているが、あと9年もある。ブログ掲載を月1に戻しても煩悩の数108もある。そこまでブログを書き続けるのは、如才はあるが文才のない私にとっては至難の業。畢生の事業とするには荷が重い。

 毎週愛読していた週刊新潮連載コラム『管言妄語』が昨年11月に10年を区切りに472号で残念にも終了した(保守の論客西部邁が亡くなり、「言論」の無力感からか劣化した日本社会に声高に喝!を入れてくれる大御所がいなくなっていく。執筆者の藤原正彦氏には世のご意見番の任は別の形でも引き続き担ってもらいたいが)。最終回で藤原先生は週1連載の大変さに触れられていた。

10年でもすごいことだと思うが、次のお二人はもっと凄い。

櫻井よしこ女史の同誌コラム『日本ルネッサンス』は800号を優に超える。年間48号前後とすると何と18年に及ぶ。1年間ですら、1週間で3号分書き溜めるほどの力量がなければすぐに自転車操業に陥りとん挫してしまう。安倍首相擁護の号は読むに堪えないが、何にしろこんな長期間掲載し続けられるのは称賛するに値する。

 高山正之氏の同誌連載コラム『変見自在』も800号を超えた。毎週知られざる逸話、裏話を披露する、それを延々と続けられることに感嘆を禁じ得ない。

 私にはとてもお二人のマネはできない。仕事でもないし、誰かに頼まれたわけでもない。ズタボロになる前に止めた方が賢明に違いない。ただ、ブログエッセイを止めてしまえば、怠け者の私は本を読まなくなるし、考えることもしなくなる。一気にボケてしまうだろう。

この歳になれば癌も怖いが脳が壊れる方をもっと恐れる(家族や知人はとっくに壊れていると言うだろうが)。とりあえず150号を目標としてなんとか書き続けて行こうと思う。