2019.5 NO.113 しほう VS いほう
日産ゴーン(前)会長事件、無罪請負人の異名を持つ弘中惇一郎弁護士と東京地検特捜部との全面対決となろうその裁判はいつ行われるであろうか?
本事件については、次第に内容が私にも見えてきた。仏政府からのルノーと日産自動車との経営統合要請に対し当初ゴーン会長が反対していたが、抗しきれず統合を進めようとするに至り、ゴーン会長の子飼い役員が統合を阻止すべくクーデターを起こした。起訴内容は本来社内の取締役会にて処理すべき問題にも拘らず、違法であった司法取引が解禁されたのを利用していきなり独裁者ゴーン氏を追放しようとしたと見える。
一方、司法取引の導入に尽力したという森本宏現特捜部長は、日本人に馴染むかとの疑念を払拭し司法取引を根付かせる為大きな花火を打ち上げたいと考えたのではと見られる。
しかし、双方の思惑どおりに事が進むか雲行きは怪しい。西川廣人日産社長は追放できると目論んだゴーン氏の特別背任容疑だけではなく、金融商品取引法違反(有価証券報告書への虚偽記載)における両罰規定から日産自体も起訴され、司法取引したにも拘わらず西川社長の責任も問われることになったのは誤算だろう。さらに、今も衣の下に鎧ならぬ経営統合の野心が見え隠れする仏政府・ルノーに弓を引いた事実は残る。保釈されたゴーン氏の復讐も始まろう。続投意欲を見せる西川社長は明智光秀にならずに済むものなのか。
地検特捜部の方も、「検察の正義とは何なのか?」と特捜部のあり方に疑問を抱き検事を辞めた郷原信郎弁護士が「ゴーン氏逮捕に正当性なし」と特捜部を猛然と批判している(弘中弁護士の弁護方針も同じか?)。「人質司法」と海外からの批判も浴び、大花火を打ち上げるハズが、絶対負けられない戦いとなり特捜部存続の瀬戸際に立たされていると言える。
上述の郷原弁護士は、ゴーン会長の担当弁護士で2月に辞任した大鶴基成弁護士が特捜部長時代にライブドア事件を事件化したことに批判的であるが、私は「世直し」は検察にしかできないと思っている。堀江貴文氏や村上世彰氏のスーパーエリートが扇動する、日本人の美徳・美学に反する拝金主義的な風潮、価値観を払拭させたことを評価している。
ただ、本件に大義はない。自動車という国策産業を外国企業に支援させるのを許しておいて、いまさら国策捜査はないだろう。また、司法取引も問題があると思う。「取り調べの可視化が義務付けられる見返りに司法取引を」と言われることに、それが本当だとすれば、違和感を覚える。テストでのカンニング防止のため学校側から監視カメラを設置すると言えば、生徒側から「それなら参考書の持ち込みを認めて欲しい」と言うのとどう違うのか。
郷原弁護士は、日本版司法取引では、かえって捜査の透明性が損なわれると、次のように批判する。「米国の『自己負罪型』(被疑者・被告人本人が自らの罪の一部を認める代わりに他の罪の処罰をしない旨の検察官との合意)であれば、司法取引が成立すれば、有罪答弁によって、裁判も経ることなく事件は決着するので、それはただちに表に出ることになる。しかし(日本版の)『他人負罪型』(他人の犯罪についての捜査公判についての協力の見返りに、自己の犯罪の処罰を軽減する合意)は、その『他人』の刑事事件の捜査の結果、その他人が起訴され、公判が開かれなければ、どのような司法取引が行われたのかが明らかにならない」と説く。これでは、我々第三者はもちろん当の日産側も検察との取引が有利なのか不利なのかはっきりしてこない。結局、検察の為の司法取引ということか。
この他、本事件により我が国の「司法」における問題点に目を向けることになった。
ゴーン会長拘留の長期化に対する今回の海外からの批判は、先月再審請求が棄却された「鈴木宗男事件」で連座した佐藤優氏の勾留期間(512日)、鈴木氏の勾留期間(400日以上)の異常さを思い起こさせる。当時私は「国策捜査なのか? 気の毒に」と思っただけだった。
鈴木、佐藤両氏は、知性も知力も気概もあり威信を賭けて戦い屈服することはない。しかし、無知あるいは無辜の庶民なら、弁護士と一緒に検事と対峙することは許されず孤立する中で長期に亘る苦痛からただただ逃れたいが為に、やってもいないことを想像して偽証自白してしまいかねない。それを裁判官が見抜けなければ、冤罪が生まれてしまう。
罪を認めるまで保釈させたくないとの検事が思う気持ちは分からなくもない。しかし、保釈を認める立場の裁判所が証拠隠滅の一点をもって長期に拘束続ける検察に同調している(「推定無罪の原則」から逸脱している)と思われることはどうなのか(ゴーン氏保釈が、これまでの流れを断ち切ることになるのか、外圧による特例なのか、まだ分からない)。
それでなくとも、起訴するか否かは検察に権限があり、起訴した99%以上の刑事事案が裁判で有罪にとなる現状において裁判所は検察の追認機関かと揶揄する向きもある。
今の日本においては、三権分立が機能しているとは言えない。最高議決機関としての「国会」は議論がなされず権威も失墜している。「行政」は官邸に幹部官僚の人事を実質握られ、官僚は官僚道を踏み外し、文書改竄、計数操作?してでも官邸に媚び、忖度する。とくに独立が求められる「司法」においては前述のとおり裁判所と(行政の中にある)検察との位置づけが逆転しているかのごとくにある。権力者を規制する憲法は、憲法解釈で変えられてしまう。まさに権力者による独裁体制にあると言っても過言ではない。現権力者が能力も大した思想もないからこれ位で済んでいるが、将来真の独裁者が生まれる余地がある。
独裁体制の中では、とくに権力者の不正が懸念されるが、国会で野党が真相解明するのには限界がある。やはり取り調べのプロの検察に期待がかかるが、行政内(権力者の指揮下)にあれば及び腰になり易い。森友学園問題に係る財務省の文書改竄問題で、(「村木裁判」で弘中弁護士に検事による証拠改竄を見抜かれ信用失墜した)名誉挽回のチャンスでもあり大阪地検の女性特捜部長による真相解明が当初期待された。だが、文書の本幹部分が改竄されていないとの詭弁みたいな事由で佐川元理財局長らを不起訴とし(先月末大阪検察審査会が「不起訴不当」と議決)、当の女性特捜部長はさっさと函館に栄転して行ってしまった。
警察・検察体制は、本来行政と切り離すべきと思うが、武力を有し時に(戦後の共産主義が吹き荒れたときなど)政府と敵対関係になりうる可能性が絶対にないと言い切れない限り行政の長の指揮下に置かざるを得ないのは理解できる。
韓国では、特別検察官制があり特別検察官が朴槿恵前大統領を捜査し、容疑を認定した。ただ事件化には国会の議決が必要。日本では証人喚問すらままならないので機能しないか。
仏にはJOC竹田会長の贈賄疑惑を捜査する予審判事がいるが、日本の特捜部検事は1949年に廃止した予審判事と同じではないか。それなら特捜部を地検から離脱させ、予審判事として権力者等に関わる重大事件の捜査の公正・中立性を確保した方よいのではないか。
さらに権力者への規制で言えば、失政しようと思い失政する権力者はいない。だが、失政になっても失敗を認めず統計指標を操作?してでも失政を続ける権力者はいるかもしれない。権力を握った者に鈴をつけることは容易ではない。それで歯止めとして(自民党総裁の)多選禁止がある。だが、連続2期6年までを自民党は軽挙に3期9年に変更してしまった。
その総裁選で勝利し首相の3選が決まり、一番嘆いたのは、日銀マンではなかったか。
2019年2月号N.107(「たいざい VS たいがい」)で触れたが、首相がアベノミクスの失敗を認めない限り超金融緩和政策を変更できない(止めるに止められない事態に陥っているとしても)。6年間での日銀財政の惨状がもう3年さらに悪化する。英国紳士風を装いプライドも高い日銀マンが頭を抱えている姿を想像するに難くない。
小選挙区制以前の自民党では、自由闊達な議論がなされ自浄作用も期待できたが、選挙での公認という生殺与奪権で抑え込まれた自民党議員に昔の面影はない。そんな自民党に議員の利害で総裁はともかく総理(首相)まで勝手に多選させることを許してよいものか。
洋の東西を問わず、「権力は腐敗する」。党派を超えて議決し国民投票を経て、憲法に連続2期(6年)までとか、首相の多選禁止の条文を明記すべきであろう。