テレビ朝日の玉川徹氏が、DJ SODA氏を責める声に対し、「じゃあ海とか行って露出の多い恰好をしていたら、触られても自業自得なんですかね」と発言。

 海に行く人が有名人と一般人では状況が異なるし、浜辺を歩いたりだまってすわっているのと興奮状態で音楽フェスでは状況が異なる。それらを一緒にして(同等に比較して)話を推し進める彼の論理は結論ありきの話のすり替えであり不適切である。彼女は有名人であり、場所は盛り上がっているトランス状態の音楽フェス会場であり、そこで水着のような服装で観客と触れ合うためにステージから降りて観客に近づいた。一般人が海水浴にいるのと同じところは一つもない。どこからこの発想(海のたとえ)が生まれるのだろうか。何でも言えばよいというものではない。あまりにも国民をバカにしていると思うのだが、実際ほとんどの視聴者は何とも思わず納得しながら聞いているのだろう。

 日常人と話をしていると、このようなすり替えというか、非論理的な話を非常に多く耳にする。人間の論理性の限界なのだろうと、訂正することもなくいつも聞き流している。しかし、玉川氏は電波を使って全国に言葉を発信し世論を操作できる立場の人である。あり得ないおかしな論理は許されない。これからも彼はこの能力を持って、全国民に様々な意見を発信していくのだろう。

 彼だけではなく、内容云々以前の論理自体がおかしい意見がテレビの中にはあふれかえっている。これが現実である。このような世界で人々は生活している。

「もう、どうにでもなれ」という思いである。

「現代アート」の展示場が、「とんち秘宝館」に見えるのは私だけなのだろうか。

「芸術」をどのように定義づけるかによって、どのような物でも芸術作品と言うことはできるのだろうが、制作技術の習得に年月を要さず、特別な才能もいらず、工場の溶接技術者が大喜利のような言葉遊びで作れるような作品を「芸術」と呼ぶことに(「アート」という言葉が付いた単語に)、私は違和感を覚えるのである。

 北朝鮮が弾道ミサイルを発射したが、複数に分離して落下した。北朝鮮国営の朝鮮中央通信は、衛星打ち上げの失敗を認めているとのことだ。

 ある国や人が、ミサイル攻撃や殺人など何かよくないことをした時、(その国や本人は)「認めているとのことです」とメディアは報道する。この報道の仕方に違和感を覚える。

 事実があり、法やルールに即して加害者が非難や罰を受ける。それだけであろう。ニュースでは事実を報じ、本人がとぼけているかどうか、どんな言い訳をしているかなどを、いちいち国民に伝える必要性が感じられない。国民や被害者には関係のないことだ。誰がどんな嘘や詭弁を言おうと、事実は変えられない。メディアは事実(現象)のみを伝えればよい。

 認めなければもしかしたらなかったことにできるかもしれない、あるいはごまかしきれるかもしれないといった考え方を世間に広げるような報道の仕方が、加害者側が否認したりとぼけたりする流れを作ることになり、ひいては一般の犯罪やロシア、中国、北朝鮮などを助長させることにつながるのではないだろうか。

 福一原発の処理水の海洋放出を、漁業関係者たちが反対している。

 日本国民は、本当に科学的調査の結果を信じていないのだろうか。放出したとしても、実際スーパーで売られている太平洋沿岸の魚もこれまで通り買って食べるだろうし、多少不安がよぎったとしてもそれしか近所の店になければ、それを買うだろう。

 それなのに福島の漁業関係者たちが猛反対していると、「科学的調査は、もしかして正しくないのだろうか」と不安になってくる。漁業関係者たちは、「そんな科学的調査結果は信じないで」と反対しているように見える。

 誰がどんなに反対しようと、処理水の海洋放出は絶対に行われる。そのあと、それこそ風評被害が起きないようにするために、科学的調査を無視して反対するような行動はやめたほうがよいと思う。天に唾することになる。

 逮捕された日大アメフト部員が、他の部員も違法薬物を使用していたと供述し、警察は学生寮の再捜索を行った。

 理事長や学長、副理事長たちが、すでに他の部員たちの練習をスタートさせてしまっているが・・・。部員たちも、自分から「やった」と言わず、知らん顔をして練習をしていた。かなりの悪者だと思う。普通であれば練習などできず、自分から白状するようなものだが。まさか、また副学長の所で止まっていたわけではあるまい。万が一そうであれば、副学長が違法薬物所持(1週間)や隠ぺいの疑いで捕まってもおかしくないと思う。

 ジャニーズ事務所の社長でも日大の理事たちでも、公になった時点で職を辞して新たなメンバー、体制で、調査や改革を行うのが適切であろう。能力がなかったり適切な判断ができなかったりしたから問題を起こしているわけで、他の能力のある者に変わらなければ、いつまでも繰り返されるのは自然の流れである。意思や努力の問題ではない。情報収集能力、分析力、思考力、想像力、判断力、調整力等々の能力の問題である。失敗した人はそのレベルの能力だったのだから(善悪の問題ではない)、責任をとるためというよりも、改善改革をするために公になった時点で他の人に交代するのがベストである。今からでも遅くない。あの会見をやった3人をはじめ、すべての現理事は職を離れ、これまで一度も大学運営に関わってこなかった日大の教授や大企業社長の経験者、国立大学長の経験者、弁護士など理事の全員を新しいメンバーにしないと、日大は変われないし、よくなっていかないと思う。

 高校野球で、慶応高校の異様な応援が話題になっている。国際大会での中国の応援団が思い出される。

 全国には、全校生徒の少ない高校もあるだろう。選手達には、両校の選手たちが力を出し切れるような公平な環境を提供することが重要だ。

「閣議決定」と「首相の独断」、何が違うのだろうか。

 しかし、同じだから予算委員会や国会での議論が大事だというのも違う。党の人数が決まっており最後は多数決なので、そこでの議論の前にすでに結論は決まっている。仕事が無くなるから、仕方がなく無意味な演技をしているように感じられる。

 日本は民主主義で国会議員は国民の代表といわれるが、国会議員は国民の意見ではなく党の意見によって動くから民意は国政に反映されることはない。そして、「国民に丁寧に説明していく」(=「結論は変えませんよ」)の一言で、すべてを推し進めていく。

 日本の政治は、全てとは言わないが、茶番劇が多すぎる。まずは、いてもいなくてもどうでもよい議員、いては国益や国民のマイナスになる議員、莫大な国税を無駄にする議員、二世・三世・四世議員、独裁議員などは排除し、少数精鋭の国会議員にしたいものである。その実現のためには、地域ごとに投票をするのではなく、例えば日本のため、国民のために議員になってもらいたい人をすべての立候補者から選んで5人程度投票できるようにし、上位150人位を国会議員にするのがよい。地方ごとにその地域での立候補者の中から選ぶと、立候補者の能力ではなく、選挙活動の時にニコニコして人柄がよさそうだったという一時的な印象をはじめ、血縁関係、これまでの繋がりなど、国民は国益と関係のない判断基準で重要な国会議員を選んでしまう。

 それからもう一つ、党はいらない。当選した議員は個人の考えで誠実に行動できるようにしたほうがよい。党があると、真の民主主義は成立しなくなる。議員が勉強をする場として、議員の誰でもが自由に参加でき何の拘束力もない純粋な勉強会は大いにやればよい。

 さらにいえば、参議院は芸能人やスポーツ選手ではなく、全員専門的立場の人がなるようにするのはどうだろうか(副業でもできるようにする)。そして、参議院の力を大きくし、参議院で反対多数であれば廃案とするようにするのがよいと思う。もし衆議院での法案が本当に適切であれば、参議院で否決されることもない。

 韓国の人気DJが大阪の音楽フェスに出演し、水着のような露出の多い服装で観客の近くに行った時に胸に触られるなどの性被害を受け告発をした。

 このニュースを聞いて、もし外国のかっこいい男性歌手が、興奮状態のコンサート中に自分の好きな服装(例えばビキニの水着姿など)で女性がたくさんいる観客席に突入したらどうなるだろうかと想像してみた。どんな服装でも、どんな状況でも、体に触れたらセクハラになるのだろうか。腕を引っ張ったら暴行罪なのだろうか。

 今回SNSでこの情報を広めたり告発したりして注目を浴びている女性は韓国人のようだが、例えば欧米や日本の有名女性歌手が日本や自国でコンサートをやる時に、水着のような服装で、盛り上がった興奮状態のファンに近づいて触れ合うということはない。では、なぜやらないのだろうか。それは、歌手本人もそうだが、ファンにも悲しい思いをさせる結果になる恐れがあるからであろう。

 いろいろな点で「うーん」と思うところの多い出来事である。1つ気になったのは、情報番組を見ていると、すべての論調が「どんな服を着ていても触ってはいけない」という服装1点に絞って結論付けているが、今後のことも考えるとその論理でよいのだろうか。服装だけではなく、服装と場所・状況の関係が重要であるはずだ。

 結論は、胸を触ったことは法的に違法、違法行為の蓋然性がある行為は一般常識やマナーとしてやらない、ということではないだろうか。歌手本人も嫌だったであろうし、訴えられた観客も驚きとともに悲しさだけが残った出来事であった。お互い、改善すべき点はあるだろう。

 サッカー女子ワールドカップでスペインが優勝した。今大会でスペインが負けた唯一の国は日本だったという。

 なでしこジャパンとスペインの違いは何だったのだろうか。私は、気持ちの持ち方(精神力)の差だと思う。今回日本がある程度勝ち進んだのは、個人技の高い選手が数人いたこととチームプレーに長けていたためで、仮にこの2つの良さを保ちながら個々の精神力、チーム全体の気持ちが改善できれば優勝も見えてくるだろうが、これは日本人にとっては非常に難しいことだと思う。

 今の監督に、燃えたぎる情熱、選手たちを鼓舞する表現力が加われば、今後の世界大会も面白くなるのだが。

 東日本大震災の時、地震直後に宮城県には津波注意報が発令され、津波の予想の高さが1mと発表された。1mと聞いてすぐに高台やビルの上に避難する人はいるだろうか。

 地震による建物の崩壊で亡くなった人はほとんどおらず、2万人近くは津波で亡くなった。多くの人が亡くなったのは、天災であろうか。それとも人災であろうか。

 気象庁は、津波の高さの予想に100%の自信がない時点では、具体的な数値は入れないほうがよい。例えば、①巨大な津波のおそれ ②大きな津波のおそれ ③津波のおそれなど、3段階ほどの(幅を持たせた)あいまいな抽象的表現での発表が望ましいだろう。低いから大丈夫だという印象を与える表現は使わないほうがよいだろう。そして、確認(沖合での確認や他の地域での高さの確認など)ができた時点で、具体的な数値を入れればよい。

 初動で「1m」(の発表)さえなければ、どれほどの命が助かったであろう。役人は無能であれば、国や国民にいくら大きな損害を与えても無罪なのか。昔の2000円札や消えた国民年金等々、最近ではオリンピックの数々の変更やマイナンバー問題等でどれほどのお金を無駄にしてきたのか、津波での嘘情報やワクチンの遅れでどれほどの命を奪ってきたのか。いずれも気をつければ、少し考えれば、一般市民であれば防げることだった。その失敗を与えた役人達はなにごともなかったかのようにその後も仕事を続け、被害はすべて国民が負う。おかしくないだろうか。

 なぜ今頃このような記事を、と思われるだろうが、地震時にユーチューブで生配信(場所は東京)をしていた動画を先ほど目にし、そのなかで出演者は冷静に揺れを報告し、その画面の右側に視聴者の書き込みが表示されていた。書き込みは、「仙台の揺れがすごい」「津波が来るぞ」「早く逃げて」などというものが連続で大量に書き込まれ、その間に「津波注意報高さ1m」というものが時々入り込んでいた。当時の状況を目にして記事を書いた次第である。東北地方の人をはじめ全国の一般の人たちは、地震の大きさから「すぐ逃げて」という思いだったであろうが、それを結果的に行動にうつさせないように強烈に引き止めたのは、やはり「1m」(=「逃げるな」)という言葉だったのではないかと私は思うのである。