・大きな音を出して咳やくしゃみをする人は、マスクをしていない。

・ノーパックの総菜売り場(トング方式)で大きな声で電話(おそらく相手は家族)をしている人は、マスクをしていない。

・大きな声で会話をしながら歩いている夫婦は、マスクをしていない。

 逆に、マスクをしている人は静かに買い物をしている。こういうことなんだよなあ。

 本日、「ジャニーズ性加害問題再発防止チーム」が会見を行う。焦点は次の5つになるだろうか。

①性暴力が行われていた期間と総被害者数

②多くの未成年者に対する性暴力を黙認しほう助してきた事務所の幹部たちの責任

③多くの未成年者に対する性暴力を黙認しほう助してきた(OBも含めた)ジャニタレ達の責任

④メディアによる忖度関係(番組へのジャニタレ優遇関係)の解消

⑤事務所の名前(今後も喜多川氏のニックネームである「ジャニー(ズ)」)を看板にするか)や、今後の管理者をだれにするか。

 政治家やロシアのような、とぼけと責任逃れの恐ろしい会見発表にならないことを祈りたい。警察と国連にも、しっかりと見ていてもらいたい。

 なぜ旅番組や街ブラ番組に、高確率でジャニタレが1人くっついてくるのだろうか。ジャニーズ事務所以外の芸能人はたくさんいるだろう。もちろん、ジャニタレが参加することでその旅が視聴者にとってたのしく魅力的なものになるようにできるのであればジャニタレでも構わないが、そうではない。むしろ他のメンバーや視聴者に気をつかわせる存在となってしまう。他の芸人メンバーにいじってもらわなければ何もできない。よくしゃべるジャニタレでも、特徴がないため張り切れば張り切るほど普通のコメントが多くなって、やはりつまらなくなってしまう。

 テレビ局には、ジャニーズ事務所への忖度を貫ぬこうとする強い覚悟が感じられる。これを壊すには、やはり国連人権理事会の働きに頼るしかほかにないと思う。

 高校野球における慶応の異様な応援について、慶応出身のTBSアナウンサー井上貴博氏が、自身のラジオ番組で大号泣しながら「選手に矛先を向けるのは違う」、「慶応だからとか、選手を批判する権利はない」などと意味不明な主張を展開。誰も慶応の選手たちを非難していない。

 誰しもが母校に愛着はもっているが、慶応の在学生や出身者の「慶応愛」は異常で歪んでいるように見える。仮に慶応や慶応の学生が悪いことをしたとしても反射的に擁護する発言をするだろうし(全員ではなく多くの人)、非難する者に対してはこのアナウンサーのように泣きさけんだり非常に怒ったりしながら牙を向ける。新興宗教の信者達を思い起こさせる。無条件に何かを信じこむことは、非常に危険だ。

 慶応高校の選手たちに矛先を向けた非難は、私は一つも見ていない。応援の仕方が不適切だったとみんなが非難をしているのだが、井上アナウンサーは興奮してそれさえもわからなくなっている。慶応関係者は一度冷静になって、応援や「慶応愛」のあり方について考えたほうがよいと思う。健全な母校愛には見えない。

 富士山の上のほうが、焚火をしたり立ち入り禁止区域や通路脇で寝たりなど海外からの旅行客による弾丸登山で大変なことになっているらしい。

 富士山は、登るというより下の湖あたりから見るために行くことが一般的で、登る場合はある程度トレーニングしたり周到な計画を立てたり服装や装備品を購入したりしてから行くイメージである。しかし、海外からの旅行客は富士山は頂上まで登るものだと思っている人が多いのではないだろうか。富士山に関する情報発信がうまくできていないと思う。

 国体の登山でも優勝した経験のあるものすごい技術と体力を持つ登山家を知っているが、その人が国内で登れなかった唯一の山が強風時の富士山だったという。強風時ではないにしても、他の山に比べると、天候の急変や温度の低下、気圧、登山道の状態や距離など、富士山は危険性がたくさんある山なのだろうと思う。普通の一般人が気軽に行って頂上まで行くような山ではない。

 政府や旅行会社、メディアなどは、富士山の美しさのみではなく、どんな山なのか、どんな危険があるのかなどといった実態や富士山登山におけるルールをもっと発信しなければいけない。登る人には登山道入り口で、危険性を知らせルールを守らせるための誓約書を提出させることも一つの方法であろう。

 動画を見ると、立ち入り禁止区域で夜に寝ている中国人にパトロールの人が注意をしたら、周りに登山客がたくさんいる中で逆切れして大声で叫び続けているものもあった。その中国人の団体が今後日本にたくさんやって来る。富士山登山は簡単ではない。装備もそれほどないだろう。下の湖あたりから美しい富士山を見てもらいたい。

 今年も「24時間テレビ」が終わった。30~40年前はとても楽しみに毎年ずっと見ていたが、今は見たいと思わなくなった。

 以前は様々なタレントが出て盛り上がっていたが、今は個性や魅力のないジャニタレが大半を占め、チャリティーが横に置かれて(手段となって)、ジャニーズ事務所の広報番組のようになってしまった。

 メディアは、ジャニーズ問題にけじめがついていない状況下でジャニタレを多く使うことによって国民の感覚を麻痺させたり事件を忘れさせたりしようと全力で向かってきている。先日国連人権理事会が出した一次報告書で指摘をされたメディアとジャニーズ事務所について、国連が早く詳細な捜査をして世界に日本の実態を広めてくれないと、日本のメディアはこのままジャニーズ問題をもみ消してしまう。

 正義ではなく、悪や不正が勝つ世の中になってしまう。後世のことを考えると、本当にそれで行って、よいのだろうか。今後数十年かかってこれが完全に普通の状況になってしまうと、元に戻すのに100年近くはかかってしまうだろう。

 世界陸上の男子400mリレーで、日本はバトンパスでもたつくミスがあり、わずかな差でメダルを逃した。

 日本のリレーに対する私のイメージは、「パスが下手」というものだったが、今回も日本はバトンパスに泣いた。

「2度あることは3度ある」。なぜ日本だけが毎回失敗するのか謙虚に分析をしなければ、またやると思う。

 科学に基づく分析や練習などを軽視して、専門的なコーチではなく選手たちに任せるところが大きくなっていなければよいのだが。

 前回、レース後の選手たちのコメントに明るさや「しょうがない」という感じを受け違和感を感じたが、今回のコメントにも同じようなものを感じた。国対抗なのだから、4人に任せきりにせず国として(専門グループで)きちんとリレーに取り組んだほうがよいと思う。

 旅番組が好きでよく見る。日曜の朝は、日本テレビの「遠くへ行きたい」とNHKの「小さな旅」の2つの旅番組があるが、どちらも番組始めの音楽(テーマ曲?)が個人的にはとても残念に感じられる。

 旅は、趣を味わったり自然を感じたり新しい発見をしたりなど、ポジティブな面が大きい。しかし先の2つの旅番組の音楽の曲調は、過去の悲しい思い出や不安を感じさせるような悲しいものである。音楽のことはよくわからないが、ピアノでいうと黒い鍵盤の音符を多用したり、伸ばし方に特徴がある曲の作り方になっているからではないだろうか。

 日曜の朝に2つも旅番組があるので近くなるとそれが楽しみになるはずだが、逆に「そろそろあの悲しく不安になる音楽を聴く朝が来るなあ」と、がっかりな気持ちのほうが大きいのである。日曜日の朝の旅番組なのに、見た後もすっきりと明るく楽しい気持ちになれない。音楽が変わってくれると、どんなに日曜の朝が爽やかになることか。

 

 誰かと話し合う場合、相手も自分と同じ質(長所や短所、肯定と反対の情報)と量の情報がなければ、建設的な議論は成立しない。情報量の少ない人、偏った情報のみに接していた人というのは、それを基に自分の結論を相手に主張するしかないし、そのような人に限ってこちらから新しい情報を与えても一つ一つ否定することに専念する。結論ありきで話してくるので、このような人と議論を行うことは無意味であろう。

 夏の高校野球で慶応が優勝したが、慶応の応援団の異様さが話題になっている。

 これは準決勝からすでに知られていたことだ。なぜ、決勝戦前に、慶応に対してルール(「応援での注意 高校野球代表校の手引き」)やマナーを指導できなかったのか。結果が、ゆがめられてしまった。

 決勝戦はもちろん、慶応が絡む試合では、両校の選手たちが自分たちの力を発揮できる公平な環境で試合をさせたかった。

 慶応の応援を動画で見たが、私には国際大会における中国の応援と重なって見えた。勝つためには何でもやるという本能のままの応援のように見えた。「慶応」の私のイメージは、逮捕者が時々出る、芸能人を入学させて芸能活動を支えてやっている、テレビ番組に深く関わっている(怪しいコメンテーターが多い等)といった、あまり良いイメージがない。だから、「ああ、またか」という感じをうけた。慶応の応援席には制服を着た慶応の幼稚舎の子供らしき人まで動員されていた。今回の相手チームへのリスペクトもマナーも感じられない異様な応援は他校では考えられず、自分のことだけを考えて行動する慶応だからできたことだと私は感じるが、間違っているだろうか。

 慶応には改善を求めると共に、高野連には特にひどかった慶応との準決勝と決勝戦を無効にして公平な試合の場を設定してもらいたい。それが、慶応の学生達はもちろん、対戦した高校の学生達への重要な教育ともなるだろう(相手の立場に立って考える重要性や不適切なことは正すことが大事という指導)。

 まずは、慶応の塾生は傲慢さ(偏差値の高さによるゆがんだプライド)を捨て、謙虚になることから取り組んだほうがよいと思う。謙虚な人が、人間的に素晴らしくなり、真の実力も身についていくものである。