猛暑日が続く七月、八月に、35度を超える炎天下で高校野球を行うのは、もはや教育の問題を超えて、命の危機に直結する重大な問題だ。極限状態の中でのプレーは、本人の意思によらず、実質的に強制されていると言ってよい。倒れ、命を落とす者が出なければ改善されないという社会の鈍さが問われる。大人の都合や習慣の影で、子ども達の命が置き去りにされていることに、気づかなければならない。

大会の開催時期を、気候が穏やかな5月や11月に移すことは、技術的にも制度的にも不可能ではないはずである。子ども達の健康と安全を第一に考える姿勢が大切だ。誰かの命を削ってまで守るべき都合や伝統など存在しない。

トランプ大統領が、SNSで「日本は私の意向に沿って5500億ドルを米国に投資し、米国は利益の90%を得る。この取引は数十万の雇用を生み出す前例がないものだ。最も重要なのは、日本が乗用車やトラック、コメ、特定の農産物、その他の品目で市場を開放することだ。日本は米国に対し、15%の相互関税を支払う。」と発表。

これで、日経平均株価が上がるなんて・・・。このまま実行された場合と、25%の関税をかけられた場合を比較すると、日本経済にとってどちらの方が被害が大きいかAIに分析してもらった結果、「日本にとっての被害は、「関税25%の方がまだマシ」であり、トランプ氏の投稿通りの「5500億ドル投資+市場開放+相互関税15%」の方が被害が大きい可能性が高い」というものだった。

石破首相は、メンツを守ったり手柄を立てたように見せられるほうが、日本経済や国民生活よりも重要なのだろうか。はっきり言ってしまえば、それが日本の政治家にとって自然なことではあるのだが・・・。

民主主義は、結局のところ多数決の仕組みである。だが多数決によって導かれた結論が、つねに最善とは限らない。多数を構成する人々がどのような情報を受け取り、どんな文脈で判断を下しているのか。その過程を抜きにして、結果だけを正当化することはできない。

人の意思は、意外なほど脆い。見聞きした情報に左右され、世間の流れや周囲の熱気に呑み込まれる。テレビで報じられ、新聞に書かれれば、自然とそれを「正しい」と感じてしまう。情報が統制され、方向づけられれば、民意すら誘導されうる。実際、かつては一週間で国民の空気を「勝つぞ、戦争だ!」という方向に持っていく手法が、国家の中に存在していたという。作家の小田実氏の知り合いがその作成に携わっており、そのことを小田氏から私が直接聞いた話である。

そう考えると、民主主義はあくまで手段であり、それ自体が「正しさ」や「適切さ」を保証するものではない。大切なのは、多数決に至るまでのプロセスと、それぞれが接する情報の質である。民主主義は万能ではなく、だからこそ不断の見直しと問い直しが必要なのである。

 民主主義は、正当性や適切性を約束しない。民主主義という名の安心感を疑うことを忘れないようにしなければならない。

参院選は、自民・公明の敗北に終わった。

国民民主党と参政党が、今回の選挙で一定の支持を集めた。ただ両党については、今後の政策運営や責任の取り方を注意深く見ていく必要があると感じている。特に気になっているのは玉木代表が不倫報道を受けた際の言動で、フォーマルな会見はそつなくこなしていたが、それ以外の地が出るような場面では反省や誠意に欠ける印象を受けた。こうした姿勢が、いざ政策が行き詰まったときにも、責任を回避したり説明を曖昧にしたりする対応につながるのではないかという不安がある。この二つの党の歴史は浅く実績もない。巧みな立ち回りやパフォーマンスで存在感を示してきたが、その実力は未知数だ。

求められるのは、自身の立場や党を守ることではなく、政策の結果に真摯に向き合い、責任を引き受ける姿勢であろう。

あす、参議院議員選挙が行われる。選挙演説も終わり、ようやく平穏な日常が戻ってくる。

選挙において立候補者はしばしば有権者の支持を得るために、「○○を実現します」といった力強い公約を掲げ、政策の実現を断言する。しかし、このような選挙演説での約束が実現可能であるかは疑問である。実際のところ、政治は単に選挙で当選することだけでは決まらず、むしろ自民党をはじめとする政党内の幹部や政策決定層の考えが大きな影響を与える。特に第一党である自民党の幹部の意向が政策に反映されるため、個々の議員が掲げる公約が実際に実現されることは稀である。この点で、選挙演説で候補者が掲げる公約は、当選後に実行できる保証がない場合が多い。

さらに、政党に所属せずに独立して立候補する者にとっては、政治の決定は最終的に多数決によって行われるため、自分の考えに基づいた政策や法案が通る可能性は低くなる。言い換えれば、個々の議員が自らの信念に基づいて独立して政策を推進することは、現実的には難しいということだ。そのため、選挙演説で候補者が掲げる公約の多くは、実現不可能な「確信的な嘘」に過ぎない場合が多い。

選挙は、結局のところ立派な演説や印象操作を行った候補者が勝利する仕組みとなっている。これが税金を使って全国的に行われる選挙活動の実態であり、市民を説得し、だますことが勝利に繋がる「壮大な茶番劇」とも言える。選挙活動における華々しい約束が実際には何の意味も持たないという現実を直視することも、今後の政治改革にとっては重要な要素の一つであろう。

全く新しい政治のしくみ、健全で実質的な民主主義が求められている。

今晩、テレビで「ターミネーター3」をみた。

 

人間は完全な機械を作り上げることができない。
飛行機は落ち、スペースシャトルは爆発し、新幹線も止まり、原発も故障で停止する。

AIも同様であり、どれほど改良を重ねても、50年後に完全な存在になるとは思えない。わずかな不具合や設計の隙間が、バグや誤作動、誤解や認識のズレと結びつき、思いがけない暴走を引き起こす可能性は常にある。にもかかわらず、人間は便利さや効率に目を奪われ、危険を「起きないこと」として扱いがちである。

原発もAIも、一度暴走すれば人間の手には負えない。ゆえに、人間が最終的に止められないような仕組みを、そもそも作ってはならないと思う。

技術の進歩そのものを否定するつもりはない。しかし、どこまで進めるかの判断には、倫理と慎重さが必要である。善悪の判断をAIに委ねることはできない。AIが危険なのではなく、それをどう作り、どう使うかを決める人間の側にこそ、本質的な危うさが潜んでいる。

私は、今の自分にできることを続けていく。たとえ小さな声でも、誰かが立ち止まり、考え直すきっかけになれば、それは無駄ではないと信じている。

スピードワゴンの小沢氏が慶應大生になっていたという。ロンドンブーツの田村淳氏もそうであった。

慶應大が、仕事で行き詰った芸人達が仕事の幅を広げるため(無責任に好き勝手に言えるコメンテーターの仕事を手に入れるため)の施設に見えてくる。実質、吉本興業の東京支所で、広報・営業部署としての役割を担っている面もあるのではないか。

慶應は確かに優秀な人もいるが、個人的には何人も学生から犯罪者が出たり、芸能人が学歴ロンダリングのために集う所だったり(AO入試や院の面接重視を利用して)、的外れなコメンテーターばかりが出たりする大学というイメージがどうしてもぬぐえない。上位と下位が多く、中間がいないのかもしれない。

とりあえずどこの大学もAO入試はやめたほうがよい。やはり一定の能力がないと、入学後に正攻法で学んでいくことはできない。他意があって癖の強い人が集まり、大学としての最低限のレベルが保てなくなる。

横綱豊昇龍は昨日も負け、優勝が難しくなったため、今日から休場するだろうなと思っていたら、本当に休場した。もはや、恥もプライドもないようだ。

優勝すれば賞金がもらえるので可能性があれば出場したいが、可能性が無くなれば出場して相撲を取る意味がないと考えているのだろう。

横綱とは全ての力士の頂点であり、手本や目標でもある。それにもかかわらず、横綱のみがそのような考え方、態度であることは適切ではない。全国民の希望にもそぐわない。これから名古屋場所が終わるまでの残りの数日分の横綱の給料は、何に対して支払われる対価(給料)なのであろうか。

相撲を金を稼ぐ手段としか思っていない外国人横綱たちの姿勢を許し続ける相撲協会にも、疑問を抱かざるを得ない。

伊東市長の学歴詐称疑惑で、出直し選挙への出馬を宣言し、「税金の無駄遣いをするな」などといったさらなる批判を招いている。

彼女は、学歴詐称疑惑を市議会議員に伝えた人について、「犯人の目星はついている」などと明かしたという。不正の告発者探しは、公務員に許されているのだろうか。そもそも、彼女自身が大学に確認して除籍になっていることを認めているように、卒業はしていなかった。これが事実である。告発内容は事実であったにもかかわらず、その人を「犯人」と呼ぶなど、彼女はやはり市長として、いや一般人として能力が劣っていると言わざるを得ない。これまでの人生において、豊かな経験をあまりしてこなかったのだろう。

あとは、偽物の卒業証書をだれが作ったのか(公文書偽造の罪を犯したのか)ということと、それを知っていて当選のために偽物を利用した市長に対する責任追及であろう。百条委員会で、彼女はニセの卒業証書を作成した知り合いを守り、ごまかし続けるだろう。すべてを明らかにするためには、やはり裁判しかない。

少なくとも、偽物をチラ見させたり公に見せようとしないことを考えると、彼女自身は偽物の卒業証書であるということを自覚しているといえる。この点について、今後非常に重要な彼女の責任論の話となる。

彼女は、一つ一つの判断や思い付き、言動が稚拙で幼く、場違いな仕事に就いてしまった感じを受ける。

仮に出直し選挙が行われ、彼女が再出馬し、市民が彼女を当選させたら、それこそ彼女の資質の問題ではなく、伊東市民の資質の問題となる。

理屈っぽい人と会話をしていると、「それはどこの何ページに書いてあるの」、「いつ、どこの誰が言ったの」、「その人は何といったか一字一句正確に教えて」などと、瞬時にわからないことを聞くことで、自分の主張を正当化しようとしてくる。もはや話の中身の議論ではない。

このような人は話し合いの目的が異なり(自分の思いをおしつけることが目的)、建設的な議論や話の内容についての調整を一緒に行うことは難しい。では、どのように対応するか。

基本は、まともな会話や議論を避けることであろうが、自身の経験則による分析結果を感想として話し、「○○さんはどう思う?」と相手にも即座に根拠を示せない自身の理解や思いを話すように促すことは、有効な手段の一つだと思われる。

子供のような罵りあいをさけ、経験則による蓋然性の高いやり取りに移行させることが重要であろう。理屈っぽい人はある程度論理性や分析力があるので、それなりに使いようもある。