中国の蘇州市で、日本人の親子が地下鉄駅構内で突然襲われる事件が起きた。ちょうどその直前から、「南京事件」を題材にした映画が中国国内で公開され、反日感情をあおるような空気が広がっていた。

中国は、南京事件に限らず歴史認識を一方的に構築し、自国に都合のよい形で教育や映像作品に反映させてきた経緯がある。南京事件についても、被害の規模を物理的に裏付けるのが困難な数字を掲げ、日本を強く糾弾する内容が国民の間に浸透している。

今回の事件に関しても、当局は沈黙を貫き、現地メディアも報じない。都合の悪い事実は伏せるという姿勢が、結果として外国人に対するリスクを生んでいる。

日本人が仕事などで中国に行き、そうした体制下で暮らすということは、常に緊張と覚悟をもっていなければいけない。自業自得とは言わないが、そういう国だということをわかって住んでいるはずだ。

伊東市長が学歴詐称の疑いを受けながら、卒業証書を金庫にしまい頑なに提示を拒んでいる。公的文書の偽造が疑われる中で、証拠を見せずに逃げ続ける姿勢は、市民に対する裏切りと映る。

一度は辞職を表明しながら、それを撤回して市長を続けると宣言したことも、言動の一貫性を欠いており、自らの立場に固執する意図が透けて見える。真実を語らず、疑念を晴らす行動をとらないまま地位にとどまろうとする態度に、市民の不信と批判が高まっている。

誠実さや責任感が感じられず、このまま市政を任せてよい人物かどうか、根本的な疑問が突きつけられている。

ニュースを見たら、先の参院選で当選した新人議員たちが初登院する様子を報じていた。顔ぶれを見ると、この人たちに何かできるのだろうかと思う。

政治も経済も社会保障も教育も社会保障も、そして外交についても、主婦の感覚的・感情的井戸端会議レベルの知識しかないだろうし(正確な現状把握も法的知識も経験も能力も庶民レベル)、慣れてもいないだろうし、党や派閥の幹部、今の政治にどっぷりとつかった先輩たちの言うがままに動くのが精いっぱいだろう。

新人議員達のインタビューの最後の締めとして、ラサール石井氏が登場した。芸能人→大学院、又はコメンテーター→政治家という一つの流れが出来上がっている。

政治家とは、外交に失敗して国益を損なっても経済を悪化させても社会制度をコロコロ替えても非正規だらけで未婚の人が多い社会にしても、全く責任をとらなくてもいい仕事である。とりあえずやって、「あとは知~らない!」という仕事だ。しかも給料が非常にいい。これでは、不誠実で責任感のない人は全員政治家になりたがるだろう。

ニュース番組も政治も、バラエティ化の波に飲み込まれている。元アイドルもすでに政治家になって、たまに原稿を必死に読んでいる姿をニュースで目にするが、そのうち嵐やTOKIOなどのジャニタレ達も国会議事堂にやって来て、国民の生活や人生、そして日本の領土や財産を操作する日がやってくるかもしれない。

長崎市は8月9日の平和祈念式典にロシアやイスラエルの関係者が参列する見通しを発表した。しかし現在、これらの国は他国への軍事侵攻を続け、市民や街をミサイルやドローンで攻撃している。こうした状況にある国家の代表を平和を祈る場に迎えることは、侵略行為を正当化し、あたかも平和を望む国であるかのような誤った印象を世界に与える恐れがある。祈念式典は戦争の悲惨さを世界に訴える機会であり、加害を続ける国に「平和」の名を借りたプロパガンダの場を提供してはならない。参列の可否は慎重に判断されるべきであろう。

民主主義とは多数決である。しかし、そこで終わりではなく、多数決で決まったことは、全員に取り組む責任がある。その約束の基の多数決であるはずだ。

石破氏が党員選挙で選ばれたなら、任期満了まで協力するか、本人が辞任する以外に選択肢はない。安倍派や茂木派が復権を狙って一国の首相を引きずり降ろそうとする動き、若手が役職欲しさに騒ぐ行為は、民主主義を否定するものである。

メディアがそれを指摘せず黙認することで、政治家たちは「何をしても、とがめられないぞ」と勘違いし、自己中心的な行動を加速させる。日本で首相が頻繁に交代するのは、こうした未成熟な民主主義の表れにすぎない。

何十年たっても、政治家たちの質は向上しない。不思議である。政治家になる前は、一般市民同様に、威張らず誠実に嘘や詭弁を言わず責任逃れをせず、そして真剣に社会をよくしようと思っていたはずだ。それが政治家になったとたんに、派閥争いに明け暮れる。それほど、金と権力は人を変えるのか。

カムチャツカ半島でM8.7の地震が発生し、現在津波警報が出ている。津波の最大予想が高い所で3mと伝えている。これをやるから、みんなが逃げなのである。

「最大で3m」と言われると、「建物の3階以上にいれば大丈夫だな」、「家が少し高台にあるから逃げなくていい」と判断する。最大3mと言われれば、そう思うのが当たり前だ。それ以上の高さまでは津波が来ないと発表しているのだから。

しかし、東日本大震災の時には、当初の津波の高さ予想が岩手県や宮城県で3mだったので(場所によって異なるが)、それを聞いた多くの人は逃げなかった。最悪でも家の2階にあがれば3mより高くなるだろうと考える。だが、実際は岩手県大船渡市で16.7mの津波が来た。テレビでは後に予想の高さが訂正されたが、みながずっとテレビを見ているわけではない。テレビで3m情報を聞いてから、海岸近くに住んでいる親戚の家に向かった人もいた。園児たちを家に届けるためにスクールバスが海岸近くを走っていた。多くの人が津波で亡くなったのは、「3mの津波しか来ない」と不確実な情報を流したためで、まさに人災であった。「やはく高台に逃げて」の一言だけがあれば、多くの人たちの運命は変わっていた。だから、大規模震災に関わる注意報や警報では、予想において具体的な数字を出しては絶対にいけないのである。役人たちは、どうしても学ぶことができないようだ。

3mなどと、不確実な具体的数字を言うのではなく、津波の到達予想時刻と「中程度の高さの津波予想。避難。今すぐ高い所に逃げて」だけでよい。そうして、幅を持たせたイメージを国民にさせるのである。そうすると、多くの人が確かなことがわからないために不安になり実際に避難を開始する。パニックになって大混乱をきたさないように、どんな時でも「中程度」にしておくのがよい。高程度、低程度といってもいけない。

発表の仕方は、気象庁や政治家達が決めたのだろうか。もしそうだとしたら、能力のない役人のせいで命を落としては、悔やんでも悔やみきれない。自分の命は自分で守るのが原則だ。

東芝は、短期的な利益を求める「物言う株主」からの干渉を避け、中長期的な視点で経営に取り組む環境を確保するため、非上場化を選択した。

伊東市長の学歴詐称問題が長期化している背景には、弁護士の助言により判断が先送りされている可能性が指摘されている。実際、彼女にはあのような文章を書いたり、自らの意思であのような行動をとったりすることはできない。

社会的に正当とされる職業の中には、自己の利益のために、悪意のない企業や個人を追い込んで利用するものがある。そうした行為が堂々とまかり通り、認められている現状に、違和感を覚えるのである。

 

弱り、不安でいっぱいの患者に対して傲慢な態度で暴言を吐いたり脅迫したりしてくる医師、嘘(一部の事実)と詭弁で口喧嘩に勝とうとする弁護士、自分達の悪行(責任逃れや隠ぺい、一部との癒着、違法行為のほう助、数十年にわたる数々のハラスメント行為等々)を棚に上げて他を攻撃するテレビ局、一匹狼の現首相をやめさせることに動く、不適切行為を行ってきた政治家等々、社会の中で「あこがれる職業」の人々には、一般人ではあまり見られないような「人として問題あり」があまりにも多すぎる。なぜなのだろうか。

学歴詐称問題の渦中にいる市長が市議会議長と面会し、出頭と証言を拒否する旨の回答書を手渡した。

回答書を全文読んだが、到底彼女が書けるような文章ではなかった。彼女を陰で操っているのは、記者会見時に横に座っていた弁護士であろう。彼女の言動を完全に管理しているように見える。

早期に解決してしまえば、弁護士への支払いも終わる。弁護士としては、できるだけ引き伸ばそうとするのは当然のことである。それにしても、市長を見ていると発言も行動も彼女らしくなく、見ていてとても痛々しい。

弁護士は、勝つためには詭弁や嘘も言い続けるのだろう(一部分の真実だけでは、全体として嘘となる)。目にしたくないことだ。弁護士という仕事にダークな面を感じるのは私だけであろうか。弁護士って、本来そのような仕事なのだろうか。

近年の大相撲では、横綱が優勝の可能性がなくなると早々に休場を選ぶ傾向が目立つ。優勝賞金を手にする見込みがなくなれば、土俵に立つ意味がないという判断なのだろう。横綱は休場しても給料や待遇が変わらないため、無理に出場を続ける必要がないという空気がある。横綱以外の力士たちが多少の不調や怪我を押して出場している中で、頂点の横綱だけが安易に休場する状況に悲しみを覚える。

たとえば、直近の横綱豊昇龍の休場も、危険な負け方ではなかったことから、本当に怪我によるものか疑問視する声もある。医師の診断書が出されているようだが、医師の法的責任についても検証が求められる。

横綱はただ強いだけでなく、相撲道の模範であるべき存在である。簡単に土俵を離れる姿勢が続けば、相撲に対する人気や信頼を失いかねない。

このような状況が生まれた背景には、相撲協会が黙認してきたために歴代横綱たちは「すぐ休場していいんだ」と認識するようになった可能性もある。過去には、ひじエルボーと顔へのパンチで勝ち続けた横綱もいたが、やはり相撲協会は黙認し続け、それによって横綱に「これでいいんだ」と誤解を与え続けた。

相撲協会は、横綱(特に習慣や考え方の異なるモンゴル勢)の行動に対して、適切な教育なり指導なりを行うべきであろう。

祇園祭が今まさに行われている。日本三大祭のひとつとされ、なかでも見どころは山鉾が交差点で方向を変える場面だという。ただ、それ以外の展開には大きな変化がなく、単調に感じられることもあるようだ。実際に訪れた人の感想には、炎天下の人ごみのなかで立ちっぱなしの時間がつらく、現地よりテレビで見る方が向いているという声もあった。しかし、生中継を見てみたが私はすぐに飽き、10分程でテレビを消してしまった。

山鉾は「動く美術館」と称され、美しい絨毯や飾りが施されているが、どこか無理があるように思える。山鉾本体が魅力的であるのではなく、箱のような構造に美術品を貼りつけたものが「魅力的」とされることに、違和感を覚えるのだ。それならダイヤモンドや有名な絵画でも張り付けて引っ張れば、魅力的な祭りになるというのだろうか。調べてみたら、東南アジアや中近東、ヨーロッパの美術工芸の粋が結集しているとのことである。一貫性がなく、せめて日本の物を付けてほしかった。そのような海外の寄せ集めは、京都を代表する祭りにはふさわしくない感じがする。

山鉾に乗り込んでいる人の多さにも違和感を感じる。山鉾の屋根にも5~6人程がおり、何をするわけでもなく暇そうに黙って座っている。

見せる祭りというより地元の人々が毎年の営みとして関わる、参加型の祭りなのかもしれない。