歴代総理大臣は、不適切議員について「出処進退は自分で決めること」と言って処分することを避けてきたが、悪いことをした人、悪いことができる人が、自分の出処進退を決めてはいけない。悪い人なのだから、自ら役職を辞任したり議員を辞職したりするはずがなく、「逃げることなく、引き続き仕事を続けていくことで責任を取る(?)」と言って終わりになってきた。

「説明責任をはたしてもらいたい」ともいう。悪いことができる人の説明は、嘘や責任逃れに他ならない。それらを言えば、責任を果たしたことになって、責任を取らなくて済むという流れだ。悪い人に説明などさせる必要も意味もない。

 このように、総理大臣はやってはいけないことを平気で口にし、しかも驚くべきことに記者も学者も国民も非難をせずに黙認している。だから、総理大臣や議員たちはそのような言動を続けている。本来であれば、このようなセリフを当時の総理が最初に口にした十数年前に、記者の一人が「何をバカなこと言うんですか」と笑い飛ばして、二度とこのようなおかしなことが言えない雰囲気を作るのが普通ではなかったのだろうか。まさに、「嘘でも100回言えば真実になる」だ。

 総理大臣による、このおかしな表現はいつまで続くのだろうか。

 かわいい猫や犬が見たくなったのでホームセンターのペットショップコーナーに行ったら、閉鎖されていた。もう営業はしないようだ。何があったのかはわからない。

 気になってペットショップ事情についてネットで少し調べてみると、「命の売買」、「命を商業化」、「ペットは家族」、「欧米ではショップが減りつつある」など様々な記事がでてくる。ペットショップがなくなれば、入手方法は犬であればブリーダーや保護施設などから受け取ることもできるようだが、手乗りインコやハムスター、熱帯魚などは手に入れられなくなるようにも思う。

 何かあると、「命」や「ペットは家族」という言葉が耳に入ってくるが、スーパーに行くと豚や牛、鳥の肉、魚の切り身や缶詰など大量の動物のいわば「死骸の一部」が陳列されている。野菜や果物、大豆を使った味噌や醤油まで命と言うならば、スーパーは、さながら命が失われた物の展示会場だ。日々どれほどの命が人間によって失われているのだろう。ニワトリやサンマを家族のように可愛がっている人にとっては、旅客機の客室に一緒に乗せたいと思うのかもしれない。しかし、いくら「多様性」がもてはやされている現代であっても、すべての人の全ての思いや自由をかなえることが理想であるとも思えない。

 人間同士の殺し合いは、自分も死にたくないし残された家族も悲しい人生を歩むことになるので、法律などで禁止にするだろうが、よく考えればそれも人間の御都合主義にほかならない。後付けで、それぞれの人が自分に適した理屈を後付けで言葉に与える。それでいいだろう。異なる考えの者同士が非難合戦や口喧嘩をする話ではないし結論は出ないだろう。しかし、対立する両者間に利害関係が発生する時、どうしても一応何らかの折り合いをつけなければいけない。客室へのペット持ち込みもそうである。その場合は、結果はどうでもいいのであるが、便宜上話し合いでとりあえず法律や規則を決めるしかない。

 命について、ことさらに取り上げて考え、仏の教えのごとく立派で理想的な主張することもないのかもしれない。

 最終的には人間性でも道徳でも常識でもなく、「法(ルール)」のみで判断される。それは決して客観的・普遍的な正義とは関係のないものである。そして、法を破ったものに対しては他者が全体で罰を与える。集団でよりよく生きていくためにはこれがベストだろう。

 現在、ウクライナやパレスチナで戦争が起きているが、これは「他者が全体で罰を与える」ということをしないから、法を破っている者がどこまでもエゴを通して戦争などが拡大し、平和が崩れているのである。「同盟国だから」など、理由に左右されることなく、「行動」が法(国際法など)に抵触するかどうかで判断するように、これも罰則を伴う法律として決めておかなければいけなかった。国連会議で理由(自己中の主張)などいらない。参加国が手を挙げて賛成か反対かを決めるようなことも不要である。「行動」が法に触れるかどうかの判断を機械的にやるだけでよい。そうしないと、「自己中をぶつけ合う口喧嘩をやって、最後はものわかれ」の繰り返しで、国連の存在意義がなくなる。もちろん、法に触れるかどうかコンピューターでも判断できるくらいに、法律は具体的かつ詳細に(具体例もつけて)成文化しなければいけない。抽象的な文言だと、その解釈でまた自己中の口喧嘩が始まって収拾がつかなくなる。

 タレントの勝俣州和氏が、番組内で松本氏問題について、「文春で告白する女性たちが大体、同じ言葉を使うんですよ。『システムが確立されていた』とか。システムという言葉が私たちの中に残ると、たむら君とか松本さんが悪徳なチームに思えてくるんですよ」と興奮状態で大声で話していた。

 11人の女性が告白しているようだが、本当にその女性たちの大体が「システムが確立されていた」という趣旨のことを語っているのか、まず事実確認が必要だ。断定した表現で情報としてテレビを使って全国に伝えることには非常に大きな責任を伴う。もし誤情報であれば、番組内での訂正が必要であろう。

 勝俣氏の言うことが仮に事実であり、本当に大体の女性達がシステムがあった旨のことを話していたとすれば、松本グループがいつもやっていたことであるためにスムーズさや慣れを女性たちに感じさせたのであり、それは自然の流れであろう。勝俣氏は、松本グループの面々が、松本氏に女性をつけようとしていたことが信じられなくて女性達の証言を一方的に攻撃したのかもしれないが、被害者や加害者の証言が事実かどうかの判断は裁判所に任せるべきだった。彼の発言は、不公平で、仲間の擁護と取られても仕方がない。立場的に彼も松本氏側なのだから(松本氏は親分である和田氏の親友であり、仕事上の利害関係者)、そのような人は自分が思ったことは口にしないほうがよい。さらに言うなら、結果的に勝俣氏の発言は、国民全体をだます(松本氏側に誘導する)ことにもつながってしまう。

 続けて彼は「これは言葉の誘導で僕たち見る側も自分の中でちゃんと選択しないと(いけない)」と話す。被害者の証言は、果たして「言葉の誘導」なのだろうか。また、「ちゃんと選択云々」と言われても、「アッコにおまかせ」で、「平等に報じなければいけない」と司会者が言いながら、松本氏の(日常の)良い点のみを仲間に語らせ(松本氏が不利になるような日常のことは決して言わない)、勝俣氏などが被害者たちの証言について力強く大声で疑いを呈するような番組をつくっておいて、それを見た国民はちゃんと公平に選択などできるわけがない。彼はどこかで聞いた建前(理想)と自分の本音がごちゃまぜになっているように見える。

 意図的か能力かわからないが、芸能人(の一部)って本当にひどいと思う。テレビ局同様、絶対に忖度や不公平をやめることができないだろう。公務員や会社員は、同僚でも無感情で罰していく(処分される)。芸能人やテレビ局員はあまりにも幼く、社会常識や社会人マナー、コンプライアンスから隔離された独特の世界で生きる「昭和の落ちこぼれ集団」のように私には見えてしまう。

 本当にテレビ業界やそれになりふり構わず何でもありで必死にしがみついている一部の芸能人達を浄化、改革したいのであれば、まずはテレビ局が逃げ切ったジャニーズ事件に立ち返り、第三者委員会による公正・公平で詳細な内部調査と記者会見発表を行うところからスタートしないと、松本氏問題や「セクシー田中さん」問題、(元)ジャニタレ優遇措置等々、今後も忖度や癒着、不正やごまかし、芸能人による不適切な言動を積み重ねていくだけであると私は確信している。「反省なしに進歩無し」である。歴史に残るほどの大きな問題であったジャニーズ事件について、テレビ局や仲間の芸能人たちが、一切ごまかさずに「真の反省」ができるかどうかにすべてがかかっている(これが今後ジャニタレや仲間芸人に一切忖度しないということにつながる)。

「世界で最もLGBTQ+フレンドリーな国」に選ばれたカナダで、女子バレーボールの試合にトランスジェンダーの選手が5人出場し、議論になっているという。

 公平・公正で厳密な議論をせずに、感覚的・自己満足的に新語を叫ぶからこうなる。地獄の無限ループである。

 早く「ダイバーシティ」や「SDGs」、「LGBT」等々についても、真剣な議論を行ったほうがよいだろう。あり方というより、社会学的、生物学的、政治学的、環境学的に適切なことなのか、そして総合的に人類全体としてどう扱うかを決めなければ、これらの概念によって自分勝手がなんでも通ってしまう無秩序の社会になっていく可能性もある。自由や人権を振りかざして、他人や世界がどうなってもよい(変わるべき)と思っているのでは、本末転倒である。

「セクシー田中さん」問題で、原作者と脚本家の意思疎通ができなかったのは、両者の間に入ってドラマを制作していた日本テレビのプロデューサーに原因がある可能性が大きくなってきた。彼の身がいまだにだんまりを決め込んでいる。何らかの説明が必要だろう。

 仮に、このプロデューサーが適切にドラマ制作の進行していなかったとしたら、彼に大きな責任があるだろうが、同時に脚本家にも同等の責任があると思う。なぜなら、脚本家は身内の製作方法における問題や改善点だと思う点を本人であるプロデューサーや日本テレビに伝えればよいだけであって、制作手順などまったく関係のない全国民に向けて原作者を非難をするような表現で伝えてしまった。これは筋違いのことであり、自分の単なるうさ晴らしであり(確認もせず自分の誤解であった)、これが原作者が自殺した直接の原因ともなった。

 全く悪くなく、ドラマの世界とは関係のない原作者が、日本テレビやこの脚本家と関わったために命を落としたことは事実である。プロデューサーと脚本家は、責任逃れの弁を述べたり雲隠れしたりせずに、心から責任のある反省と謝罪の弁を述べる必要があるだろう。それすらもできないとなると、「セクシー田中さん」が好きだった私個人としては、2人を許すことはできない。寒い中、どんな思いで一人栃木の山奥に向かったのか、道中の気持ちを察すると、このままあいまいにしてはいけないと思う。

 パリ五輪の補欠(リザーブ)としての参加について、伊藤美誠選手が「私はリザーブというのは向かない。行かないと思う」と語った。

 五輪期間中、正選手たちの後ろで球拾いをしたり選手たちのかばんなどを運んだりすることは、プライドが許さないのだろうか。早田選手も平野選手もそれを経験したからこそ、今の地位まで謙虚に地道に登って来られたのだと思う。伊藤選手は、ゆがんだプライドを一度完全に壊してから新たにスタートしない限り、4年後に中国選手に勝って五輪シングルスで金メダルを取ることは難しいだろう(次の五輪まで心身が持たないと思う)。

 確かに伊藤選手自身が言うように、団体参加に向かない面もあると思う。彼女の試合に対する姿勢(「試合を楽しみたい」等)や他者に敬意を欠く振る舞い(相手をバカにするような笑い)、幼いふざけた雰囲気は、誠実に真剣にパリ五輪に向かう日本チーム全体に悪影響を及ぼすと私は思う。

 伊藤選手自身の成長を考えれば補欠参加をしたほうがよいと思うが、日本チーム全体のことを考えれば参加しないほうがよい。難しい判断である。やはり五輪は日本が勝つということが最優先であろうから、伊藤選手自身の「行かないと思う」という判断は適切なのかもしれない。

「セクシー田中さん」の脚本家である相沢知子氏が、コメントを発表した。

「いったい何が事実なのか、何を信じればいいのか、どうしたらいいのか、動揺しているうちに数日が過ぎ、訃報を受けた時には頭が真っ白になりました。そして今もなお混乱の中にいます。

SNSで発信してしまったことについては、もっと慎重になるべきだったと深く後悔、反省しています。もし私が本当のことを知っていたら、という思いがずっと頭から離れません。あまりにも悲しいです。

事実が分からない中、今私が言えるのはこれだけですが、今後このようなことが繰り返されないよう、切に願います。」

 まとめると、「私は騙されました。もし本当のことを知っていたらこうはなりませんでした。このようなことが繰り返されませんように」ということだ。自分が繰り返さなければよいだけの話なのだが・・・。

 身内の製作事情を、しかも真実かどうか確認もせずに、全国向けのSNSに投稿して、原作者を攻撃することは適切ではなかった。どうしても文句を言いたかったのであれば、直接日本テレビなり脚本家に言う筋のものだし、直接言えば自分の誤認識もわかったであろう。

 彼女のコメントからは、反省より「自分のせいではない」という他人事のような強い意思が伝わってくる。脚本家に対する最初のコメントでも感じたが、彼女には、自分は大事にされなければならない優れた脚本家だという歪んだ強いプライドが感じられる。それを捨てない限り、今回の事件の真相を彼女が理解することはできないと思う。一番の核心的で重要な問題点は、彼女がSNSに余計なことを書き込んだということである。

 いずれにせよ、両者の言い分が事実であれば、「重く受け止め・・・」以降はだんまりを貫いている、中間者の日本テレビが非常に怪しくなってくる。ジャニーズの時のように、今回も第三者委員会による調査を拒み、自分たちで都合の良いほどほどの調査結果を発表して幕引きを図ろうというシナリオを作成中ではないだろうか。だんまりを決め込んで偉そうに他のニュースばかりを伝えているnews zeroの有働氏まで、悪者に見えてくる(日テレの言う通りに動いているだけなのだが)。彼女は3月でやめるそうだが、ジャニーズ問題も含め、日頃の日テレの発想や行動に我慢ができなかったのではないだろうか。

 伊藤美誠選手に、国内外から4年後に向けてエールが届けられている。

 今の心身の状態でパリに行っても、日本チームの雰囲気や自分のメンタルへ悪影響を及ぼしてしまう。

 1年程ゆっくり休養しながら、様々な人たちからアドバイスを受け、自分の何がよくなかったのか正確に分析することが必要だろう。さらに、がむしゃらに練習をしてもマイナスになるだけだと思う。まず彼女がやらなければいけないことは、全てのプライドを捨て、他人を敬い(笑ったりからかったりしない)、ハッタリをやめることの3つであろう。

 ハッタリとは、彼女は「試合を楽しみたい」といつも口にするが、これは緊張を必死に隠して余裕を見せるということで、自分に極度のプレッシャーをかけることにつながる。そもそも楽しめるかどうかは、試合の勝敗によるものである。負けたのに楽しかったということはないだろう。中国人選手など強い選手はもちろん、他の競技の上位選手は決してこんなことを言わないし思わない。彼女がパリに同行すると、仲間に「試合を楽しんでね」と言って、全てを壊してしまいそうなので、補欠(サポート)でも行かないほうがよいかもしれない。

 彼女の引退説も出ているが、上の3つができるかどうか、まず1年くらい変える努力をしてみて、精神的に(性格が)何も変わらなければ、その時に判断しても遅くないだろう。

 彼女の技術は金メダル級なので、非常に残念である。心の持ち方が原因で、実力を発揮できず、もがいている状況だ。彼女の欠点を優しく指摘でき、彼女もそれを素直に聞けるのは、やはり両親からの話ではないだろうか。私が彼女の近くにいるコーチなどであったら、半年以上は練習をさせない。そして心と体(腰?)を休ませる。そして彼女の両親に相談し、彼女と穏やかな環境でゆっくりと半年かけて少しずつ話し合ってもらうだろう。半年後、変な力が抜け、誠実で思いやりを持ち、つきものが取れたような穏やかな顔になれた時、4年後の金メダルに向けてスタートを切れるのだと思う。それができないまま猛練習を続けても、この2年間の繰り返しで結果を出せず、彼女の心身はどんどんボロボロになっていき4年後まで持たないだろう。

「セクシー田中さん」の原作者が自殺した件で、日本テレビはすぐさま自分たちはきちんと対応してきたから責任はない旨のコメントを発表したが、あまりにもひどいとの非難を各方面から受け、重く受け止めているとの第2報を出して幕引きを図った。

 その後日本テレビはだんまりを決め込み、ニュースや情報番組でも全く触れなくなったが、どこに原因があったのかの調査(自分たちが中心になって関わっていたので、握りつぶされないためにも第三者委員会による調査でなければいけない)をしたのだろうか。それとも、このまま闇に葬ろうとしているのだろうか。

 中丸氏や櫻井氏をはじめ、「ヒルナンデス」やドラマへの多くのジャニタレ出演は、限度を超えたものがある。おそらくジャニーズ問題が大きくなる以前より今のほうがひどい。

 日本テレビには、公正・公平・正義、プライドやプライド、恥というものがないのだろうか。私の目には、日本テレビという会社が「悪い会社」のように見える。

 総理大臣は、台湾や経済、災害などの有事について予算委員会などで質問を受けた時、よく「仮定の話についてはお答えできません」というが、「将来のことだから準備や対応は考えていません」、「発生してから場当たり的にやりますよ」ということなのだろうか。

 そもそも政治というのは、将来(過程)をよりよくするためにおこりうることを予見し、前もって対策を考えて実際に準備をしたり法案を成立させたりするのが仕事ではないのだろうか。

「個別のことについては回答を差し控えます」ともいうが、予算委員会で議論をしていることのほとんどは個別のことである。個別の改善で、結果として全体がよりよくなる。都合の悪いことから逃げる時に、言っているだけのように見える。

 不適切行為をした議員について「説明責任をきちんとすることが大切」とも総理はよく言うが、悪い人が嘘やごまかし、責任逃れを言えば、逆に罪はもっと重くなる。

 このような岸田氏をはじめ政治家がよく言うお決まりの言葉は、私にはとても悪い考え、悪い人に見えるので、これらのせりふを言うくらいなら何も言わないほうが、政治家本人にとっても不利にならないと思うのである。しかし実際は、このような言葉を政治家が言っても不利にはならず、誰からも「すごく悪い人だ」と思われることもない。おかしなことだが、そうなっている。原因は、マスコミも専門家も批判をせずに見逃しているためで、それによってこれらの言葉が免罪符のように政治家たちにうまく利用されるようになってしまっているのだろう。いじめも裏金も性加害も、黙っていることは認めることである(黙認)。