かわいい猫や犬が見たくなったのでホームセンターのペットショップコーナーに行ったら、閉鎖されていた。もう営業はしないようだ。何があったのかはわからない。
気になってペットショップ事情についてネットで少し調べてみると、「命の売買」、「命を商業化」、「ペットは家族」、「欧米ではショップが減りつつある」など様々な記事がでてくる。ペットショップがなくなれば、入手方法は犬であればブリーダーや保護施設などから受け取ることもできるようだが、手乗りインコやハムスター、熱帯魚などは手に入れられなくなるようにも思う。
何かあると、「命」や「ペットは家族」という言葉が耳に入ってくるが、スーパーに行くと豚や牛、鳥の肉、魚の切り身や缶詰など大量の動物のいわば「死骸の一部」が陳列されている。野菜や果物、大豆を使った味噌や醤油まで命と言うならば、スーパーは、さながら命が失われた物の展示会場だ。日々どれほどの命が人間によって失われているのだろう。ニワトリやサンマを家族のように可愛がっている人にとっては、旅客機の客室に一緒に乗せたいと思うのかもしれない。しかし、いくら「多様性」がもてはやされている現代であっても、すべての人の全ての思いや自由をかなえることが理想であるとも思えない。
人間同士の殺し合いは、自分も死にたくないし残された家族も悲しい人生を歩むことになるので、法律などで禁止にするだろうが、よく考えればそれも人間の御都合主義にほかならない。後付けで、それぞれの人が自分に適した理屈を後付けで言葉に与える。それでいいだろう。異なる考えの者同士が非難合戦や口喧嘩をする話ではないし結論は出ないだろう。しかし、対立する両者間に利害関係が発生する時、どうしても一応何らかの折り合いをつけなければいけない。客室へのペット持ち込みもそうである。その場合は、結果はどうでもいいのであるが、便宜上話し合いでとりあえず法律や規則を決めるしかない。
命について、ことさらに取り上げて考え、仏の教えのごとく立派で理想的な主張することもないのかもしれない。
最終的には人間性でも道徳でも常識でもなく、「法(ルール)」のみで判断される。それは決して客観的・普遍的な正義とは関係のないものである。そして、法を破ったものに対しては他者が全体で罰を与える。集団でよりよく生きていくためにはこれがベストだろう。
現在、ウクライナやパレスチナで戦争が起きているが、これは「他者が全体で罰を与える」ということをしないから、法を破っている者がどこまでもエゴを通して戦争などが拡大し、平和が崩れているのである。「同盟国だから」など、理由に左右されることなく、「行動」が法(国際法など)に抵触するかどうかで判断するように、これも罰則を伴う法律として決めておかなければいけなかった。国連会議で理由(自己中の主張)などいらない。参加国が手を挙げて賛成か反対かを決めるようなことも不要である。「行動」が法に触れるかどうかの判断を機械的にやるだけでよい。そうしないと、「自己中をぶつけ合う口喧嘩をやって、最後はものわかれ」の繰り返しで、国連の存在意義がなくなる。もちろん、法に触れるかどうかコンピューターでも判断できるくらいに、法律は具体的かつ詳細に(具体例もつけて)成文化しなければいけない。抽象的な文言だと、その解釈でまた自己中の口喧嘩が始まって収拾がつかなくなる。