2011年11月12日、お泊まりデイから迎えに来てもらって、車いすに乗せ退院しました。
お泊まりデイに着き、デイの看護婦さんに状況を話して、もらってきた薬などを渡しました。
夫は、すぐ落ち着き、笑顔も出て、くつろいだ様子をしていました。
落ち着かないようなら、しばらくの間、毎日通うかなと思っていましたが、この分なら大丈夫そうでした。

デイの人にも言われて、翌日は一日家で休みました。
何もする気が起きなくて、体がだるく少し熱っぽく、一日中ごろごろしていました。
夕方、いつもなら病院へ行って食事させてる頃だなと思い、もう行かなくていいんだと思ってほっとすると同時に、なぜか寂しくなりました。
これじゃだめだよ..元気にならないと..と自分を叱咤激励しました。

翌日、認知症の薬をもらいに、主治医のところへ行きました。
これまでのいきさつを、ざっと説明しました。
Sクリニックに入院したことは既に知っていて、生きて退院できて良かったねと笑いながら、半ばまじめに言われました。
以前、先生の患者さんがSクリニックに入院して、感染症で亡くなったそうです。
私は、大便がついた手や、寝具のまま放っておかれた話をし、ありうるかもと相づちを打ちました。

その日の先生はとてもものわかりがよく、痛み止めだけでいいの?と聞いてくれたりしました。
メマリーも、眠気がひどくて半分に減らした患者さんがいたらしく、この前と打って変わった対応で、10mg2錠でいいんでしょ?と言って、その処方箋を書いてくれました。

薬局で薬を買い、その足でお泊まりデイに行きました。
部屋に行ってみると、夫は、おとなしそうなお婆さんと並んでソファに座っていました。
私を見るとうれしそうに笑って、いい笑顔ですねと褒められていました。

看護婦さんに、持って来た薬を全部預けました。
排便を聞いてみたら、まだ出ていないそうでした。
これまで20日間、下剤を毎日飲まされていたので、止めると出ないかもしれないので、様子見て、減らしながら使うようにして下さいと頼みました。

ベランダに出ますか?と聞かれたので、行くことにしました。
椅子を二つ用意してもらいました。
ベランダに降りるところの段差が結構大きくて、階段1段分くらいあるのですが、両手をとってゆっくり降ろすと降りることができました。
お天気が良く、汗ばむほどでした。
夫にとっては、しばらくぶりの外気で、気持ち良さそうにしていました。
部屋に戻るときは、その段差をやっと上がりました。
その後、お風呂にも入れてもらい、おひげも剃ってもらって、さっぱりとしていました。

利用者さんは、夫も含めて男の人が3人、女の人が3人の計6人でした。
スタッフは、看護婦さんを含めて3人で、充分目が行き届いている感じでした。

もしかして、リハビリ病院は必要ないかもと思ったりしました。
でも、ほとんどの時間が、ソファに座ったきりの生活になっているみたいだし、歩かせると言ってもどこを歩かせるんだろうという感じなので、やはり必要だなと思い直しました。
これまで、お泊まりから帰ってくると、機嫌はいいけど、たまに、よろよろしているというのは、こうした環境だからなのだなと思いました。
とりあえず、今より歩けなくなることはないだろうから、これを維持してもらって、リハビリ病院へ繋いでもらおうと思いました。



一週間ほどして、リハビリ病院から電話が来ました。
お泊まりデイのほうに電話して、様子を聞いたそうでした。
一人で立ち上がる時があるので、その時は手引き歩行で対応していると言っていたとのことでした。
その場合、転倒の危険があるので、リハビリ以外の時間は抑制させてもらうかもしれないと言われました。
抑制とは何かと尋ねると、車いすに縛り付けるとのことでした。
一日3時間のリハビリ以外は、そうした抑制された生活だと、精神面でもよくないしとか、以前とは違って、入院を断りたいような雰囲気でした。


確かに、見知らぬ所に移されて、挙げ句の果てが抑制されたら、いい結果にならないなと思いました。
でもそうすると、ずっとお泊まりデイにお願いするしかなくなります。

このまま家に連れ帰って、私一人で介護するのは、できそうにありませんでした。
たまに一人で立ち上がることがあっても、大抵の場合は、二人がかりでないと立ち上がらせることもできませんでした。
それほど夫の認知症は進んでしまっていました。
ベッドに寝かせるのも起こすのも、一人ではとてもできそうにありませんでした。
そしてまた、連れ帰っても、階段を上れなければ、ずっと寝室にいることになるし、そうなると、お泊まりデイにいるよりもっと運動量が減るのは明らかでした。

私は、一日も早く家に連れて帰りたいし、きちんとしたリハビリを受けさせたいと答えました。
この頃、このままではもう夫は元通りにはならないかも..と薄々感じていました。
リハビリ病院だけが、頼みの綱でした。
結局、入院できる日が決まったら、また電話をくれるということになりました。



とりあえず、夫が家に帰る前に、手すりを取り付けておきたいと思い、補助が出るということなので、市役所に手続きに行きました。
ややこしい手続きでしたが、9割まで負担してくれるとのことなので、申し込みました。
階段の手すりは、家を建てたときからつけてあるので、トイレと浴室につけようと思いました。
手すりがないと、どうにもならないと思いました。



毎日来なくてもいいですよと言われてはいたけど、なにかにつけて、デイに通っていました。
利用者さん達とも顔なじみになりました。
一日中奇声を上げているお婆さんは、笑うととても愛嬌のある笑顔の人で、よく一緒にいて手を握って相手をしていました。
奇声に対して、うるさいと怒るお爺さんやら、車いすに腰掛けたまま体を傾けて眠り込んでいるお爺さんやらがいました。
最初見たとき、おとなしげで上品だったお婆さんは、不穏になると、誰彼構わず、ひっかいたりかみついたりしていました。
その中で、奇声も上げず、落ち着いて座っている夫は、一見、極くまともに見えました。

ある日の午後、奇声を上げ続けるお婆さんに対して、いつも怒るお爺さんが、うるさい!と怒鳴りました。
他にいた二人のお婆さん達も不穏な状態になり、部屋の空気が不穏そのものになりました。
何度目かの、うるさい!に夫が反応して、夫もうるさい!と怒鳴りました。
それまでとは違って、夫は認知症患者の目をしていました。
夫もまた、紛れもなく認知症患者でした..。

その時、改めて気がついたのですが、Sクリニックに入院して以来、夫が、私に対して不穏になるということが、全くなくなっていました。
グラマリールもとっくにやめて、向精神薬は全く使っていなかったのですが、あの暴力を振るっていた頃とは隔世の感がありました。
ただやっぱり、周りの状況で、不穏になることはあるんだなと思いました。


お天気のいい日が続いていて、祭日のその日も穏やかに晴れ上がってました。

世間では家族で出かけたり、食事をしたりしているんだろうな..
夫は、奇声を上げ続ける人や、虚ろな目をした人達の中で、何の楽しみもなく、ただただ時間を過ごしている..
この先になんの希望もなく..

自分の意思を言葉にできないというのは、どんな感じなんだろうか..
思い起こせば、去年の今頃から暴力のはしりみたいののがあったけど、私も自分の体調がひどく、きっと夫の気に入らないことをいっぱいしていたんだろうな..
夫の気持ちに添った対応をして上げていなかった..

それに対して抗議もできず、怒りの表情を見せるものの、それでも暴力行動にまでは至らなかった夫
私は、自分が入院したら、面倒を見て上げられなくなると思って、施設に入れようとしたり、その施設で転倒して、頭を打ったり..
そしてついに春には暴力が始まった
暴力は、私に対する無言の抗議だったのだろう..

そして今、再び穏やかになった夫がここにいる
見る影もなく弱々しくなってしまって..
家に連れて帰って、自分のソファでのんびりさせたいな..


そんなことを思うと、私は夫が不憫でたまらなくなりました。
家に帰って泣きました。
もう誰も、私の背中をさすって慰めてくれる人はいませんでした。


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2011年10月下旬、けいれん発作の後立ち上がれなくなり、救急病院で受診しました。
結果は、第一腰椎圧迫骨折とのことでした。
トイレで倒れた時、ひねってしまったのだろうと思います。

手術するレベルではなく、安静にするしかない、ここでは空きベッドがないので、転院して欲しいと言われました。
受け入れてくれる病院を2つ紹介されました。
地元なので、いろいろな噂は耳に入ってきてましたが、その2つともあまり評判のよくない所でした。
後になって、健康診断でお世話になっていた病院に入院させればよかったと悔やみましたが、その時は思いつきませんでした。

その2つのうち、片方は家から歩いて行けるところにありました。
私はこちらを選びました。


その日のうちに、救急車で運ばれ、Sクリニックに入院しました。
入院の手続きをして、院長面談をした後、病室に行きました。
細長い部屋でしたが、狭い所に7人の患者さんが入っていました。

夫はおとなしく寝ていましたが、看護婦さんに呼ばれていろいろ聞かれました。
座薬を入れられたらしく、その時暴力をふるったそうです。
拘束してもいいかと聞かれたので、いいと答えました。
薬を使われるよりマシだと思ったからです。

持参する品物のリストをもらい、また病室に戻ってみると、ちょうど食事を食べさせてもらっているところでした。
看護婦さんは私を見ると、スプーンを手渡して、さっさとどこかへ行ってしまいました。
まずそうな食事でしたが、食欲はあるようで、ちゃんと食べてくれました。

とにかく痛みが引かないことには仕方ないからね、また明日来るからねと言ったら、夫はわかったようでした。


翌日、お昼少し前にクリニックに行きました。
全く改善した様子が見られず、腕についている点滴の管に血がたまっていました。
両手にはミトンをはめられて、下半身はおむつのみで裸、バスタオルをかけただけでした。
顔つきも弱々しく、認知症が進んでしまった感じの顔でした。
夫は、私を見つけると、弱々しく笑って、よかった..と言いました。

どんな一夜を過ごしたのか...。
私にはどうしてやることもできませんでした。

隣の人を車いすに乗せようとしている看護婦さんの声が聞こえました。
言い方がひどかった..。まるで目下の者扱いをしていました。
夫もこういう扱いをされているんだろうなと、暗澹たる気持ちになりました。

食事の時間になって、看護婦さんが二人来て、夫の体を引き上げ、続いてベッドのハンドルを痛がるのも構わずぐいぐい回して背もたれを上げました。
見かねて、痛がっていますからと言ったら、ご飯を食べられないですよと言いながら、また元に戻し、中途半端な位置で、ひどい態勢にさせたまま、どこかへ行ってしまって、いくら待っても戻ってきませんでした。

ナースステーションまで行き、そこにいた人に、お忙しいでしょうけどと言って、頼んで来てもらい、体を引き上げるのを手伝ってもらいました。
その後、夫の様子を見ながら、ゆっくりハンドルを操作しました。
痛がるのであまり起き上がらせることはできず、60度位までしか上げられませんでした。

用意して来た小さな瓶にフェルガードを入れ、ヤクルトを入れて溶かし、飲ませました。
院長面談の時、サプリメントは絶対ダメだ、それを奨める医者はインチキだと言われているので、隠れて飲ませました。

食事は見るからにまずそうで、スプーンで食べさせましたが、半分くらいしか食べられませんでした。
昨日は完食してたのに..。

その後自宅に戻り、私も昼食にしました。
ケアマネさんが来てくれて、Sクリニックの評判の事など、いろいろ話しました。
ここに入院すると、歩けなくなって家に戻ると言うことでした。
半ば冗談なんでしょうけど、ともかく、痛みが引いて急性期が過ぎたら、即退院させて、後はこれまでお願いしているお泊まりデイに面倒を見てもらうのがいいということで、意見が一致しました。

またクリニックへ戻ってみると、さっき出るときはかなり普通の顔つきになっていたのに、また認知症顔になって、息づかいも荒く目を閉じていました。
両手にミトンがはめられていたので、脱がせました。
4時から点滴が始まりました。
点滴が終わる直前に夫が体をよじりながら動き始めました。
おそらく便意があったのだろうと思います。
トイレ行けないから、おむつの中にするしかないから、いいんだよと言ったら、わかったようでしたが、ずっと落ち着きなく体を動かしていました。

夕食もほんとにまずそうで、半分くらいしか食べられませんでした。
途中で、人がいないのを見計らって、BIOにフェルガードを溶かせて飲ませました。
飲んで間もなく、顔つきが正常になりました。
不思議なくらい変わりました。

おむつの中に手を入れて掻きむしり始めました。
ナースステーションに行って話したら、6時になったらおむつ交換するからと言われました。
まだ5時40分だったので、それから20分、夫の手をさすりながら待ちました。
6時10分になって、やっと看護婦さんが来てくれ、痒いところを清拭して、おむつを替えてくれました。排便はしていませんでした。


翌日もお昼少し前に行きました。
両手にミトンをはめられていて、右手の方は更に、さらしできつく縛ってありました。
お世話係の人を呼んで外してもらったら、手首に傷があり、赤く剥けていました。
手首の周囲が、縛り付けた事で赤く変色して、しわがよっていました。
どんなに固く縛り付けていたことやら...。

夫は今日も改善した様子はなく、反応も鈍い状態でした。
ただ、ベッドの背もたれは、ゆっくり回せば、ずいぶん上まで上げられるようになりました。
食事は相変わらず刻み食でしたが、今日はまぁまぁおいしそう。
スプーンで一口ずつ食べさせ、完食しました。

食後の薬は大量でした。
大きな錠剤が1、小粒の錠剤が2、粉薬が2袋で、中身はわかりませんでした。
これが一日3回ですから、この3倍ということになります。
その他に午前中いっぱいと、午後4時からと、毎日点滴をされていました。
大量の薬漬けになって、背骨の痛みは引いても、認知症が進み、結局歩けなくなってしまうのではないかと、心配になりました。
フェルガードを飲ませた後、普通の顔つきに戻るので、それだけが頼りでした。

午後4時すぎにまた行きました。
腕の点滴を引き抜いたらしく、血があちこちに飛び散り、点滴は足首にされていました。
顔色が赤く、浮腫んでいました。午前中に縛られた右手首が、赤く腫れ上がっていました。

排便がないことが心配で、看護婦さんに言ってみましたが、全く把握していませんでした。
調べてきたら、入院してから一度も排便がないとのこと。
もっとも、寝たままの排便は経験ないから、出せないのだと思いました。
浣腸か摘便をして欲しいと思いました。医師の指示がないとやってはくれないでしょうけど..。

それでも翌日には、座薬を入れてくれて、夜に、入院以来初めての排便がありました。
排便があっても、なかなかおむつを取り替えてくれませんでした。


一回排便があった後は、ベッドの上での排便になれたのか、出せるようになりました。
同時に、便意というものがなくなってしまったようでした。
この後、どこででも出てしまうようになりました。

排便があると、違和感があるのか、おむつの中に手をつっこんでしまい、手を便だらけにしていました。
一応拭き取ってはくれるのですが、いい加減で、よく指が黄色になっていました。
シーツや掛け布団カバーに便がついていても、取り替えてはくれず、いつまでも、シミがついたベッドに寝かされていました。

排便があっても、時間が来ないと取り替えてもらえず、そのまま食事を食べさせざるを得ない時が、多々ありました。

寝間着の背中が濡れているので、おむつから漏れていると思い、取り替えてもらおうとしたら、おむつは汚れてないとのこと。
この前のおむつを替えた人が、背中やシーツは濡れているのに、それはそのままで、おむつだけを替えたようでした。

首の後ろに垢が浮いていたので、清拭はしてもらえないんですか?と聞いたら、一週間に一度していますとの返事でした。
痒くて掻きむしれば、薬をつけてかゆみを押さえる対応でした。
背中を立てて、ベッドから離すことができるようになってからは、毎日熱く絞ったタオルで拭きましたが、その前は、重くて、体を一人で動かすのができませんでした。

私は自分が入院したこともないし、他の病院のことは知りませんが、これって普通なんでしょうか。
一日も早く退院させたいと思いました。


毎日、お昼前と、午後からの2回、クリニックに通いました。
いつも、ミトンがはめられていて、さらしで、ベッドの柵に縛り付けられていました。
点滴で暴れたのでしょうけど、それにしても終わったら外して欲しいと思いました。
赤く腫れ上がって治りそうもない手首が可哀想でした。

入院前は自分でお箸で食事を食べていたのに、全く自分では食べようとしなくなっていました。

入院して9日目に、コルセットができてきました。
週に一回だけ来る整形外科の先生が来て、夫を起き上がらせ、コルセットを着けて、立ち上がらせてくれました。
そのまま、歩いてみましょうとのことで、看護婦さんと両脇を支えながら、廊下の突き当たりにあるデイルームまで歩かせてくれました。
わずかな期間歩かなかっただけなのに、臑の筋肉がすっかり落ちて細くなっていました。
それでも、痛そうでもなく、夫は普通に歩くことができました。
かなり支えているんですか?と聞いたら、じゃ持ってみてと言われて、片方を渡されました。
それほど介助の力は必要なく、不安定ながら、ほぼ自力で歩いているようでした。



この時点で退院させ、自宅なり、お泊まりデイに連れて行っていれば、今の夫にはならなかったかもしれません。

でも、私は欲を出してしまいました。
このクリニックよりは遠いですが、やはり家から歩いて行ける範囲に、評判のいいリハビリ病院がありました。
ここでは、身体的なリハビリはもちろん、生活全般ができるようになって戻ってくるとのことでした。
電話をしてみたら、応対に出た相談員の人は、感じがいい人でした。
認知症があると、受け入れが難しいかもしれないが、一応、診断情報提供書とADL表と、血液データを出してくれと言われました。
その後で審査になるそうでした。
他も当たって下さいと言われ、無理かもなぁと思いました。

ケアマネさんに状況を報告したら、すぐ退院して、お泊まりデイに頼むのが一番いいと言われました。
リハビリ病院には入れないだろうとの見方でした。
お泊まりデイの方の空き状況を確認してくれるとのことでした。
その日のうちに連絡がきて、いつでも受け入れてくれるとのことでした。

そうだろうな..仕方ないな..と思い、リハビリ病院を断ろうとして、電話をいれたところ、例えばナースステーションのそばの病室にして、ベッドの下にセンサーマットを敷けば、対応できるんじゃないかなど、かなり前向きな返事をされました。
最短だと、来週には入れるかもしれない、ただし、ナースステーションの近くのいい部屋が空くかどうかはわからないとのことでした。
すぐには歩き回らないだろうから、時間的余裕があると思うと言ったら、それも含めて審議するので、とにかく診断情報提供書を出して欲しいとのことでした。

ケアマネさんに再度それを伝えたら、びっくりしていて、もし、そこで受け入れしてくれるならば、それが一番いいと意見を変えてくれました。

そこからが、長かったのです。
まず審議までに時間がかかりました。
引き受けてくれるという結論がでるまで、丸1週間かかりました。
条件があって、同じフロアでに療養で呼吸器とかをつけている人がいるので、もし、今後の状態(暴れるとか)があったら、退所してもらう、また、ベッドの関係で、これから一週間以内に受け入れできるかどうか保証はない、待てますか?と聞かれました。
それらの条件を飲んだ上で、入院申し込みをしました。

入院がいつになるかわからないので、それまでの間、お泊まりデイの方に頼んだ方がいいのではないかと、ケアマネさんにアドバイスを受けました。
間にそういう施設が入っても構わないかどうかを聞いてみたら、本来、直接病院から病院でないとダメだけど、聞いてみますとの返事でした。

翌日になって、連絡がきて、間に施設が入っても構わないということになりました。
これで晴れて退院できることになりました。
早速お泊まりデイの方に連絡してもらい、クリニックにも目途が立ったので退院させて下さいと言うことができました。


ここに辿り着くまでの間、夫は相変わらず、大量の投薬、点滴を受け、私がいるとき以外は、ベッドに寝たっきりでした。
週に3回、リハビリ専門の先生が来て、廊下を歩かせてくれました。
廊下の突き当たりのデイルームには、テープルと椅子がありましたが、そこまで一往復してくれるだけで、基本的にはベッドの上でした。

最初、私だけでは、歩かせてはいけないと言われましたが、リハビリの先生に許可をとってもらい、私だけでも歩かせていいことになりました。
毎日、デイルームまで、疲れない程度に何度も往復しました。
食事もデイルームで摂っていいことになり、お昼と夕食はそこで食べさせました。

尿でいっぱいになったおむつが垂れ下がって歩きにくそうにしていました。
それを言っても、替えてくれるわけでもなく、単に着け直してくれるだけでした。
時間にならないと替えない決まりがあるらしいので、仕方ないのかもしれませんが..。

おむつでは、トイレに連れて行けないので、頼んでリハパンにしてもらいました。
でも、トイレに連れて行っても座らせることはできませんでした。
もうすっかりトイレというものがわからなくなってしまっていました。


実際に退院して、お泊まりデイに移ったのは、リハビリ病院から連絡が来た2日後でした。
実に入院してから、20日が経っていました。


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暴力が激しかった2年前の夏、特養の申し込みをしました。
700人待ちということでした。
申し込みはしたものの、入れる当てもなく、そのまま忘れていました。

この特養は、海のそばで、眺めが素晴らしいところです。
広いホールは、食堂にもなり、利用者さんが思い思いにくつろぐ場所にもなっているようでした。
海に向かって大きな窓が連なっていて、開放感がありました。
見学に行った日は、お天気がいい日で、穏やかな海面がキラキラ光って、とても心落ち着いたのを覚えています。
家からは、電車一本で乗り換えなしで行けるので、私が通うのも便利だなと思いました。

今年の4月に、入所委員会にかけるため、訪問して話を聞きたいと連絡がきました。
4月中旬に担当の方がみえました。
次に空いた時に入る男性の候補者が3人いて、夫はそのうちの一人ということでした。
すぐかもしれないし、遅くでも1年以内だろうとのことでした。

私は包み隠さず、現状と自分の思っていることをお話ししました。
 正直なところ、ずっと家に置きたいと思っている。
 でも、最近は、階段の上り下りが覚束なくなってしまった。
 私自身、大腸がんの経過観察中の身の上なので、いつどうなるかわからない。
 私になにかあった場合、夫を看てくれるひとがいなくなってしまう。
 今回、辞退しても、優先順位を保っていて頂けるのだろうか..と。

まぁ虫のいい話ではありますが、そうお聞きしてみました。
そしたら、よくわかって下さって、優先順位はかなり上に保っておいて下さるとのことでした。
また、入居の時期も、階段の上り下りができなくなったらということで、了解していただきました。
それまでの間、特養に併設のショートステイを使っていて下さいと言われ、ケアマネさんにお願いして、申し込みをしてもらっていました。


来週、そのショートステイが始まります。
一回目はお試しということで、一泊二日です。
その後は、事前に予約を入れて利用していく形になります。

夫に話してもわからないけど、私は夫の目を見ながら話しました。
こういうわけで、ショートステイ頼んだから..と。
話しているうちに、涙があふれてきました。
まだ特養に入れるわけでもないのに...
でも、その一歩を踏み出してしまった感じがしてしまったのです。

こんなんじゃ、本当に特養に入れることになったら、どうなるんでしょね。

...ダメすぎ、私。


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夫が病気になってしばらくして、夫の目がちゃんと見えてないのではないかということに気がつきました。

元々視力はいい人でした。
その頃も、見えてない訳ではなくて、なんというか、ちゃんと見えてない?違った風に見えている?のではないかと、はたから見て違和感があるような動きをしていました。
既に言葉を失っていましたので、どういう風に見えるのかは聞き出すことができませんでした。

その後、ネットを彷徨い、私なりに探したところでは、この病気に罹ると、見え方が違ってくるというものでした。

床の色が違うと、断崖の上に立っているように見えるとか。
家の浴室は、ユニットバスです。
床の色は、濃いグレーです。
洗面所は木の床なので、茶色です。
洗面所から、浴室に入るとき、いつも嫌がって尻込みをしていましたが、断崖の上に立っているように見えるならば、当たり前ですよね。
それに気がついてから、私がまず洗い場に入り、正面から夫の両手をとって、だいじょうぶだから、こっちきて~と言いながら誘導しました。
うまくいって、それ以来、すんなり入ってくれるようになりました。


度々書いていますように、夫は階段の上り下りが非常に難しくなってきています。
段の高さを認識できないのか、途中の高さまで足を上げて、ぶつかってそのまま降ろしてしまいます。
踊り場の手前で立ち止まって、どうにも後一歩を出してくれないときがあります。
後方には登ってきた段が6段もあるので、もしもバランスを崩したら大変危険なことになります。
私は夫の手を引いて支えながら、どうすることもできず、立ち往生することがよくあります。

降りるときは、怖がって、尻込みして、最初の一歩を出してくれません。
やっと出しても、どっちの足に重心をかけていいのかがわからない状態で、もう片方の足が降ろせません。
そのまま腰砕けに、階段に座り込んでしまいそうになります。


「奥行きとコントラストの感覚が鈍くなっており、階段の空間がうまく認識できなくなって」という文章をネットで見つけました。
「階段を見下ろしても、一枚の壁のようにしか見えない」というのも。

 (これはちゃんと引用先を明記した方がいいのでしょうけど、使っていいかどうかの許可の取り方がわかりません。無断転載ですみません)

一枚の壁に見えるというのが、どういうものなのか、考えてみたけどわかりませんでした。
でも、確かに、奥行きとコントラストの感覚が鈍くなって、うまく認識できてないんだろうなと思いました。
家の階段室は、壁が白く、直線的な構成です。
ここになにかアクセントになるようなものをおけば、それを認識できて、奥行きもわかるようになるのではないかと考えました。

踊り場の隅に、何か飾り棚風のものを置いて、そこに目に付くものを飾れば、少し認識できるようになるかもと思いました。

そして、私のイメージにぴったりの小さな棚を通販のカタログで見つけ注文しました。
カタログの写真ではいい色だったけど、実際に届いたのは赤味が強くて、イマイチでしたが、まぁ、そこには目をつむることにしました。

早速設置してみました。


$若年性認知症の夫と二人暮らし-登り口から見上げる
明るさが足りなくて、ちょっとピンぼけです


$若年性認知症の夫と二人暮らし-飾り棚
家の飾り棚にあったものを適当に置いてみました



$若年性認知症の夫と二人暮らし-上から見たところ
二つ買って、踊り場の両隅に置きました

これでうまくいくかどうかは全くわかりません。
でも、やってみないことにはわからないので、やってみました。

まもなく夫がお泊まりデイから帰って来ます。
階段をうまく登ってくれるでしょうか。

楽しみです。



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8月下旬に思い切ってグラマリールを中止しました。
多少怒りっぽさが増したような感じでしたが、暴力に繋がるほどのものではありませんでした。
怒りがあっても長続きせず、すぐ機嫌が直っていました。

この時点で、飲ませていた薬などは、
 アリセプト5mg
 メマリー20mg
 Newフェルガード1包、フェルガード100M1包
でした。

観察すると、排便がうまくいかなくて、便秘の時に怒りが多発するようでした。
便秘に効くという飲むヨーグルトを飲ませて、なんとか週3~5回の排便を確保していました。
排便があった後は、いつも上機嫌でした。

グラマリールを中止したのと関係があるのかどうかわかりませんが、排泄の失敗が少なくなり、トイレでしてくれる率が上がりました。
また足元も、しっかりしてきたように思いました。


ところが、またけいれん発作を起こしてしまったのです。
今度は、お泊まりデイにいるときでした。
明け方、トイレで排尿し、ベッドに戻る時に叫び声を上げて倒れたそうです。
救急病院へ搬送してもらい、私もかけつけました。
前回と同じく、検査しても、異常は見当たらず、そのまま帰ることになりました。
この事を主治医に報告したら、デパケンを飲ませないからこうなる、痙攣はこの病気の特徴だから、倒れてもいちいち救急車を呼ぶのはもっての他だ、主治医が適切な処置をしていないと言われてしまう、と言われました。


その後、トイレまでは行けるのに、パンツを下げないで排尿することが増えました。
この頃には、紙パンツを多用するようになっていました。
ネットの記事で、メマリーを飲ませてから失禁が増えたというのを度々見かけましたので、主治医に、メマリーを一時10mgに減らしてみてもらえないかと頼んでみました。

頭ごなしに否定されました。
その理由が、使用量が20mgに決められているものだし、自分が1年間保険料を負担しなくてはいけないからというものでした。
それでは10mgを2錠という処方にしてもらえないだろうかと聞きましたら、10mgは薬局でも常備していないし、20mg錠剤があるのに、わざわざ薬価の高い10mg2錠にする理由がない、どうしても10mgにしたいなら自分で割って飲ませなさい、全部止めてもいいんですよと言われました。

確かにもっともな理由ではありますが、私は更に食い下がって、10mgでやっている人達がいるみたいなんですけどと言いましたら、私のところは、全員20mgです、そちらへ行ってやって下さいと言われました。

アリセプト7.5mgから5mgに減らす時も、もしかしたら、レビーかもしれないと思うのでと言ったところ、私のところでは、レビーでも10mg出してますと言っていました。

素人があれこれ投薬に口だしするのは、確かにいけないことだったと思います。
でも、さすがにこの時は、主治医を変えようと思いました。
個々の患者の状態は全く考慮せず、単に決められたものを疑いもなく出す姿勢は、医者としてあり得ないんじゃないの?とも思いました。

この頃、主治医との関係は最悪でした。
主治医の方では、これが効くからと思って薬を出そうとしているのに、素人の私がなんだかんだと注文をつけたりしたのですがから、当たり前ですよね..。

私も、実のところは、メマリーを減らしていいものかどうかわかりませんでした。
以前個人輸入して飲ませていた塩酸メマンチンと、もしかして、メマリーには違う成分も入っていて、それが悪さをしているのかも?と思っただけなのです。
また、一律20mgというのは、夫には多すぎるのではないかと思っただけでした。
とにかく薬に対して、敏感に反応するというのが、ずっと気になっていました。

ネットのブログを読むと、一緒になって親身に相談にのってくれるお医者さんに診てもらっている方達が大勢いました。
そういうお医者さんに巡り会いたい...ほんとにそう願いました。
でも、通院できる範囲にいるどのお医者さんが、そういうお医者さんなのかは、知るすべがありませんでした。


紙パンツを履かせたおかげで、床掃除の割合はぐんと減りました。
その代わり、許容量を超えた紙パンツで、あちこちに座りました。
汚れたパンツを脱がせることが、どうしてもできませんでした。
そのままベッドに入り、シーツベッドパッドはもちろん、掛け布団までぐっしょりと濡らしていました。


9月の末に、100Mをやめ、Newフェルガード2包にしました。
懸念したように、更に怒りっぽくなり、一度はまた暴力がでてしまいました。
New1包、100M1包の時の方が、バランスがよく、穏やかで拒否も少なかったように思いました。
でも、当人は、少しでも物事を認識できるほうがいいんだし、もう少し我慢してみようと思って、そのままNew2包を続けました。

不穏になったときは、笑顔を作って回避しました。
こちらが笑顔だと、あれ?っていう感じでそれ以上暴力に発展することはありませんでした。
とにかく、何があっても怒らずに、笑顔を取り繕って接しました。
なかなかしんどい事でした..。

あるときは、デザートの食べ方がわからなくなっていたので、手助けしようとしたら、いきなり怒りだし、ふーーっと威嚇を始めました。
その時は笑顔を作る余裕もなく、悔しくて、情けなくて泣きながら片付けました。
泣いているのに気がつくと、そばに来て背中をなでてくれました。


10月中旬に、薬局で、メマリーを減らしたいと思っているという話をしたところ、それでは20mgを半分に割ってあげますよと言ってくれました。
お泊まりデイにも持参できるように、割ったものを個々の包装に入れてくれました。

間もなく一人でトイレに行き、排尿できるようになりました。
これが、メマリーを減らしたせいなのか、或いは、Newフェルガードを2包にした効果がでてきたせいなのか、結局はわからずじまいでした。


10月22日、またけいれん発作を起こしました。
やはり明け方のことで、トイレで排尿して、立ち上がった時に発作を起こし、そのまま前に倒れました。
私は正面にいたので、受け止めることができて、頭などは打たないで済みました。
でも、支えきれずにそのまま便器を両脚で挟むような格好で倒れてしまいました。
私の太もものあたりに頭をのせ、少しよだれを垂らしていました。
よだれには血が少し混じっていました。

私は、主治医に言われてることもあり、そのまま様子を見ました。
痙攣そのものは、すぐ収まり、10分もしないうちに気がつきました。
しばらくすると、自分で起き上がり、その場に座ることができました。
更にもう少ししたら、立ち上がって階段を登ることができました。
私は、これまでと同じように、なんでもなかったんだなと一安心しました。

ところが、翌日になって、立ち上がれなくなってしまいました。
下あごが下がって、目が虚ろで、以前グループホームでお試しに泊まって、転倒した時のような顔つきをしていました。
介護タクシーを頼んで、いつも行っている病院の整形外科に連れて行きましたが、あいにく先生は不在でした。
やむを得ず、そのまま前回搬送した救急病院へ行き、外来で受診しました。

この後の処置が、私の判断ミスもあり、夫を取り返しのつかない状態にしてしまったのです..。


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グラマリール50mgのおかげなのか、それとも、私の対応が多少マシになったせいなのか、6月の初めにもう一度110番せざるを得なかった以外は、ひどい暴力に発展することは少なくなってきました。

相変わらず排泄地獄は続き、こちらは更にひどさを増していきました。
排泄したくても、何かが邪魔してできないという感じでした。

トイレに連れて行っても、排泄できなく不穏になるばかりでした。
連れて行った直後、部屋の中で放尿したりしていました。
むしろ、放っておいたほうが、ちゃんと便器にしてくれることもありました。

私は、あきらめて、夫の自由にさせることにしました。
あらゆるところがトイレになりました。
汚したら掃除する..それを延々と繰り返していました。

昼夜逆転の傾向が出てきて、夜中起きて歩き回り、玄関や廊下、洗面所に放尿していました。
その度に起きて掃除をしました。
明け方まで眠れない日々が続きました。
耐えきれる限界って、どこまでなんだろ..時々私はぼんやりと考えていました。


6月の中旬にうなり声を上げ、立ち上がってふらつきました。
小さなことが、いっぱいできなくなってきていました。
靴を履くことができなくなった、ひげ剃りができなくなった、お風呂の時、浴槽に入ろうとして反対側に歩いて行くとか..方向の認識もできなくなっていました。

私はそれが薬のせいだと思いました。
主治医にアリセプトとグラマリールを減らしてもらうように頼みました。
アリセプトは5mgに減らしてもらいました。
その代わり、ガーデンアンゼリカが効いてくれるのを期待して、フェルガード100Mを1包Newフェルガードに変えました。
グラマリールは、もう少し落ち着いてからの方がいいと言われ、50mg継続になりました。


6月の下旬にけいれん発作を起こし、初めて救急車を呼びました。
7月に入ってすぐ、グラマリールを25mgに減らしてもらいました。
グラマリールを減らしても、相変わらずすぐ不穏にはなりましたが、殴りかかっては来なくなりました。

7月から、お泊まりデイを3泊に増やしました。
これでずいぶん私は楽になりました。
排泄地獄は相変わらずでしたが、夫のいない間、ゆっくり睡眠がとれるようになりました。
肋骨にヒビが入った脇腹の痛みもいつのまにか薄れていました。

7月下旬になると、ひげ剃りが再びできるようになりました。
心なしか反応がよくなり、笑顔も時々でるようになりました。
嬉しかったのは、パンツを立ったまま、どこにも寄りかからずに履けるようになったことでした。

8月に入ると、これまでの異常な怒りの発作はなくなりました。


例年8月は、健康診断に行っていました。
その年も、もう暴れることはないだろうと思い、連れて行きました。
思った通り、健康診断はとてもスムーズにいきました。
移動するとき、私のバッグを持ってくれたり、気遣いに関しても昔の夫のままでした。

ところが..。

会計を済ませ、振り向いたら、そこにいる筈の夫がいませんでした。
これまでも、一緒に出掛けていて、ふっといなくなることが度々ありました。
私が視界にいなくなると、探しに行こうとして、あらぬ方向へ歩いて行ってしまうようでした。

ぐずぐずしてはいられないので、挨拶もそこそこに外へ出て探しました。
午後0時25分でした。
いなくなったのはそんなに前ではない筈でしたが、もう姿は見当たりませんでした。
どっちへ行ったかわからなかったけど、とりあえず、駅の方向へ向かいました。
すごい人出で、これはとても探せないと思い、駅前の交番へ届けを出しました。
そこで20分位待たされました。
こうしている間もどこかへ行ってしまうと思って気が気ではありませんでした。

交番を出て、来た道を戻り、思い当たるところ全てを探しました。
その日は快晴で、真夏の太陽がぎらぎらと容赦なく照りつけていました。
健康診断を受けるため、その日は朝からなにも食べていませんでした。

2時過ぎて、暑くて、飲まず食わずで歩き回っていたので、ふらふらしてきました。
夫が今も外にいるなら、同じ状況だと思って、私だけ何かを飲もうとは思いませんでした。

その後も、足が痛くなるのも構わず探しました。
でもどこにもいませんでした..。
もしかして、ほんとにもしかしてだけど、家に戻っているかもしれないと思い、一旦家に帰りました。
そこに姉から電話が来て、これから来て一緒に探してくれるとのことでした。
車ならもっと遠くまで探せると思い、姉が来るのを待ちました。

姉が来てくれて、もっと広範囲に探しましたが、いませんでした。
駅前まで出て、また交番へ行き様子を聞きましたが、通常のパトロールのついでに不審者に気をつける程度のものだとの事でした。
もうどうしていいかわかりませんでした。

探すあてもなく、連絡を家で待っているしかありませんでした。
私は頭痛がして、少し吐き気もしていました。
前の晩もあまり寝ていないし、この暑さでたぶん熱中症気味になったのだと思いました。
姉が少し眠りなさいと言ってくれ、2時間ほど眠らせてもらいました。
姉はその後、私がお風呂に入るまでいてくれて、午前2時過ぎに帰っていきました。
足をお湯に浸からせることができたので、多少ましになりました。

その後も、ひとりでまんじりともせずに夜を明かしました。
いつしかうとうとと眠っていたのでしょう。
ケアマネさんの電話で目が覚めました。
心配して電話をしてきてくれました。

その日も既に日が照っていて、猛暑になりそうな日でした。
9時半に、いてもたってもいられなくなり、交番ではなく、本署の方に電話をしました。

重度のアルツハイマーであること、判断力が全くないこと、歩けるけどもゆっくりしか歩けないし、遠くには行けないこと、お金も持っていないし、電車に乗ることはできないということなどを話しました。

今生きているとしても、もう20時間以上飲まず食わずだし、今日の暑さでやられるだろうということ、病院の周囲を、半径1キロでも2キロでもいいから、くまなく捜索して欲しいということを話しました。

それに対して、本署の人は、「それでは、捜索願に切り替えますか?」と言うのです。
唖然として、めまいがしそうでした..。
私は「捜索願」を出したつもりでいました..。
私が交番に出したものは、単に「所在不明者」というものだったらしいです。
なんで言ってくれないのかと思いましたが、今更どうにもなりません。
ともかく、写真を持って手続きに来てくれとのことだったので、早速駆けつけました。
防災無線も使いますか?と聞かれたので、何でも使ってほしいと言って、その書類も提出しました。

家に戻ったのが、11時頃でした。
その頃には、うだるような暑さで、ああ..もう夫には逢えないかもしれないな...と思いました。
心細くて、悲しくて、私は息が止まりそうでした...。


12時ちょっと過ぎに、40キロ位離れた市の市役所から電話が来ました。
なんと夫を預かっているとのこと!!
捜索願で出した写真が決め手になったそうでした。

早速伺いますと返事して電話を置き、姉とケアマネさんに電話しました。
ケアマネさんは一緒に行きましょうと言ってくれました。
夫がどんな状態かわからないし、何かの時に一人で対処できないかもと思って、その言葉に甘えて一緒に行ってもらいました。

市役所の高齢者福祉課の奥の和室で、座布団を敷き詰めた上に、夫は眠っていました。
間もなく目を覚ましましたが、どこにも外傷はなく、服も汚れていず、元気そうでした。

前の晩の22時頃、急行が止まる駅の近くのアパートの敷地で、警察に発見されたとのことでした。
おそらく、トイレを探して敷地内に入り、不審者として通報されたのではないかと思います。
警察では身なりがちゃんとしているので、そんなに遠くから来たのではないと判断し、管轄内の該当者を捜し回ったとのことでした。

その後、警察署のソファに寝かせてもらい、お菓子とお茶をもらったとのことでした。
朝9時頃、市役所に連れてこられて、お昼には、おにぎり2個を食べさせてもらったらしいです。
ペットボトルのお茶も買ってもらったらしく、飲みかけで置いてありました。

お礼を言って帰るとき、その部屋にいた職員さん達が、全員立ち上がって挨拶をして下さいました。
口々に、よかったね、また今度はゆっくり遊びに来て下さいと言って下さいました。
その暖かさに涙が出ました。



夫は生きていてくれました。
怪我もなく、私の元に帰ってきてくれました。



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悪夢のようなあの時期、どうやって過ごしてきたのか..。

ありがたいことに、実のところ、辛かった記憶は薄れてしまっています。
今こうして書いているのは、当時の日記があるからです。
読み返すと、当時の記憶が生々しく蘇ってきて、胸が塞がりそうになるのですが..。

どんなに辛くて、もうダメだと思っても、それを日記に書いてしまうと、ほんの少しだけ楽になっていました。
ただひたすら、あったことをそのまま書き連ねて行くことが、危うい心のバランスをとってくれているようでした。


人に見せるつもりで書いたのではないので、恥ずかしいですが、一日分だけ公開しようと思います。
自分用なので、わかりにくいところがあるかもしれません。

110427 起きてみると、廊下に大便の固まりが、点々と続いていた 
     玄関に小便をした跡があった
     2階にいたので、呼んで、その大便を見せた 
     自分でやった認識はないみたいだった
     クィックルで掴んでは便器までもっていって捨てた 
     洗面所と便器のマットにはべったりとついていた 
     そこもできるだけ拭き取った
     後はどうしようもないので、そのまま洗濯機に放り込んだ

     スリッパを片方履いていて、裏を見たら便がこびりついていた 
     裸足の足の方はくるぶしまでついていた
     浴室でズボンを脱がせようとしたが、どうしてもダメ 
     足だけは洗わせた なかなかとれなかった
     ズボンの後ろに便が少量ついている 
     パンツからしみ出ているのかもしれない

     もう私の限界を超えているのかな..
     今も汚いズボンのまま歩き回っている
     どうしたらいいんだろう..もうダメだ..精神病院に入れるかな..
     ズボンを脱がせようとすると、憎々しげな目で私を睨む 
     これ以上やろうとするとまた暴力に繋がるのはわかっている
     そばに来ると臭い こっちの気が狂いそうだ

     一階の廊下と洗面所を、蒸気クリーナーで掃除した 
     力を入れると、脇腹がズキっと痛む
     屈んでも痛いし、何しても痛い

     食事をしていないけど、この大便臭のまま食事するのか..
     作る気にもなれない

     メロンパンが一個冷凍であったので、暖めて食べさせた 
     私は食べる気にならない

     薬も飲ませなかった 
     どのみち拒否だろうし、飲ませようとする気力がなかった
 
     お風呂に入りましょう作戦で、相当頑張ったが、結局ダメ 
     私一人で入った
     一人で体を洗っていたら、そばにきて肩を揉んでくれた 
     垢すりを渡すと背中を流してくれた
     でも結局、服を脱がすことはできなかった

     大便のついたズボンのまま歩き回っている 
     私のソファのクッションの上に座った
     臭いを嗅いでみたら大便臭がした やっぱりしみ出ている
     またこのままベッドに入るのだろうか..身震いがする 

     精神病院に電話してみた 認知症対応ではないとのこと 
     でも話は聞いてくれた
     外来で行って、相談してみるしかないかな..

     電話をしていた時、下に行って排尿の音がした 
     行ってみると、浴室のドアめがけて小便をしていた
     浴室用のマットはぐしょ濡れだった 
     溝に入ってしまって、掃除のしようがない
     内側からはシャワーをかけた ドアは紙で拭うしかできなかった

     ズボンは脱いであった パンツは便付きのまま 
     脱がせようとしたら、うるさい!!と怒鳴りだした
     そのままベッドに入っている もうシーツからなにから、便だらけだろう

     私にどうしろというのだ!!!私はそんなに悪いことをしてきたのか!?
     これは天罰なのか?あんまりだ...

     食堂のベンチの上に、防水マットを敷いてその上に座らせ、夕食を食べた
     グラマリールとエビクサは飲ませた

     一階で音がするので行ってみると、パンツを半分降ろして大便をしていた
     朝、排便があったから、便座を上げておいたのだが、そのまま跨がっていた

     便座を下げて座らせて、汚れたパンツを脱がせ、ウォッシュレットで洗った
     紙を渡したが拭けなかった

     じゃ、ついでにシャワーをあびちゃおうと言って浴室に誘ったらついてきた
     下半身にシャワーをかけて石けんで洗おうとしたが、すぐ不穏な状態になった
     浴室のドアを閉め切ると、暑かったのか、上も脱いだ
     お湯をかけると怒る 
     もうこのまま入ってと浴槽に入るのを奨めたら素直に入った

     浴槽に入っている間に、急に怒り出して、バカヤロウと叫びながら上がってきた
     私の腕をつかみねじり上げ、体をドン!っと押した 
     洗面台脇の引き出しに思い切りぶつけられた

     これはもうダメだと思い、二階に駆け上がり受話器を持った 
     二階まで追いかけてきたので、下へ逃げ外に出た
     幸い虫の知らせで、カギはかけていなかった

     しばらく経って覗いてみるとベッドに素っ裸で寝ていた
     私を見つけると牙を剥きだし、コノヤロウと叫びながら走ってきた 
     また外に出てドアを閉めた

     またしばらくして開けてみると、外履きのビーサンがない 
     玄関のたたき、廊下に小便をしていた
     ビーサンを片方履いたまままた飛び出してきて威嚇した

     なんでお風呂にいれてきれいにしてあげただけなのに、怒るの?殴るの?と聞いた 
     ら、しばらく不思議そうな顔をしていた 

     そこ掃除させてねと言ったら、うんというので、掃除した
     掃除洗濯が一段落して(もう蒸気クリーナーをかける元気はない)、風邪引くからと
     言って、Tシャツを着せた

     リハビリパンツを履かせようとしたが、これはダメだった 
     普通のパンツを出して渡したら自分で履いた  





こういった日々が、いつ果てるともなく延々と続いていました。
5月中旬にグラマリールを50mgに増やしました。
5月末には、体が前屈みになり、少し傾いてきました。
時々、ふらつくこともありました。

グラマリールのせいなのかもと思いました。
それでも私は、それを止めることも、減らすこともしませんでした。
できなかったのです。
それほどまで、私は追い詰められていました。  


若年性認知症は体力があり、暴れた場合収拾がつかないので、普通の施設では受け入れてくれません。
この苦境から逃げようとすれば、精神病院の選択肢しかありませんでした。  

毎日、心が揺れ動きました。
もう限界だ..やっぱり入れようと思っても、心細そうな様子をしている夫を見ると、いやいや..ダメだ、到底私は、入れることはできないと思ってしまうのでした。

友人のご主人が、同じ病気で、精神病院に入っていましたが、そのまま帰らぬ人となりました。
それも大きく私の心にのしかかっていました。

ケアマネさんを変えたいと思って、包括センターに相談しました。
紹介されてきたケアマネさんには、もう在宅で介護ができる時期を過ぎているから、一日も早く病院へ入れた方がいいですよと言われ、自分のところではケアマネを引き受けられませんと、断られました。


そうした中、ほんとに救われたのは、お泊まりデイでした。
110番をした翌週から、2泊3日で預かってくれました。
今にして思うと、よくあの状態で預かって下さったかと思います。

最初の泊まりの日に、夜電話をして様子を聞きました。
一日穏やかに過ごしていたらしく、お風呂にも入ったそうでした。
既にベッドに入っているらしく、何も問題ないですよと言われました。
うちは夜中に帰すような事はしませんから、安心してお休みくださいとも言われました。

涙が出るほどありがたかったと同時に、ああ、またケアマネさんが余計な事を言ったのだなと思い当たりました。
おそらく、最初のお泊まりデイでのいきさつを言ったのだろうと思いました。

このケアマネさんは、一言余計だし、介護関係の人達に対して、とても高圧的な態度をとっていました。
私のハンコがないと、お金がでないのですからと、二言目には言っていました。

思い起こせば、私が内視鏡検査入院するときのショートステイが、なかなか決まりませんでした。
いい返事が来ないんですよねぇと、ケアマネさんは言うばかりでした。
日にちは迫ってくるし、業を煮やして、私は直接ショートステイ先に電話して聞いてみました。
そうしたら、なんのことはない、お待ちしてますので、契約にいらしてくださいとの返事でした..。

とにかくケアマネさんを早急に変えないと、折角預かってくれているお泊まりデイでも、なにかトラブルを起こすかもしれないと思いました。
もう私は、このお泊まりデイがなければやっていけませんでした。


もともとこのケアマネさんは、主治医が紹介してくれた事業所の人でした。
主治医が、また別の事業所を紹介してくれました。

そこから来てくれたのが、今もお世話になっているケアマネさんです。
新しいケアマネさんは、ほんとに親身になって、助けてくれました。
話を聞いてくれて、プロらしいアドバイスをしてくれました。
いろいろな情報も持っていました。
市で、紙パンツおむつの補助をしてくれているというのも、教えてもらいました。
徘徊する人のためにネットワークができているのも知りました。

このケアマネさんと、お泊まりデイのおかげで、ほんの少し息を継ぐことができました。


一方、初期から通っていた、水中体操ができるデイには、ついに断られてしまいました。

夫が病気になって、介護認定を受け、デイサービスを使えるようになったとき、いくつかの施設を二人で見学に行きました。

どの施設も、利用者さん達は、親の年代の人達でした。
まだ症状も進んでいない頃でしたので、夫はあまりにも場違いな感じでした。

その中で、ここは、水中体操がメインだけど、終わった後泳がせてくれるということでした。
同年代の方もわずかながらいらっしゃいました。

無理にデイサービスを利用する必要もなかったのですが、一日中家の中で無為に過ごしているのを見ると、やっぱり外に行って、刺激を受けた方がいいのではないだろうかと思って、探した所でした。

病気が進んで、不穏な状況がでてくるようになってからも、よく面倒をみて下さいました。
そのデイの最後の日、連絡メモには、「お風呂には入れませんでした。お着替えだけをしています。すみません」という記載がありました。

持って帰った荷物はビニールに入っていて、洗ってあるようでした。
おそらく失禁して、着替えだけをしてくれたのでしょう。
あえて失禁しましたとは書いていなかったことに、スタッフの優しさを感じました。
爪もきれいに切ってもらっていました。
本当に長いことお世話になりました。

こうして少しずつ夫を取り巻く環境が変わっていきました。
私は息も絶え絶えになりながら、なんとか毎日を凌いでいました。



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2011年3月から夏にかけて、思い出す事さえ辛い日々が続きました。
もう私はダメだ..夫を病院に入れるしかないのかと思い詰める日々でもありました。


トイレの場所がわからなくなっていました。
連れて行っても、何かが邪魔して、うまく排泄することができなくなっていました。
出したくても出せないという感じでした。
切迫した尿意、便意を抱えて歩き回っていました。
そして..その結果、家中がトイレ状態になってしまいました。

丸一日汚さないで済んだ日はなくなりました。
やっときれいにしたと思ったら、また別のところを汚していました。
床掃除が果てしなく続きました。

尿や便で汚れてぐしょぐしょのパンツのままで、家中をうろつき、ソファに座ったり、ベッドに入ったりしていました。
取り替えようとすると怒り出しました。
猛獣の顔つきになり、ふーーっと威嚇されました。
その先の暴力が見えているので、私は恐怖が先に立って、どうすることもできませんでした。
その度に時間をかけてなだめすかし、必死になって夫と家の中を清潔に保とうとしました。
神経がすり減って、千切れてしまいそうな毎日でした。


いろいろな物を持ち出してそれを持って歩き回り、あちこちに置いていました。
洗面所のマットをリビングに持ってきたり、傘をベッドの脇に持ってきたり、捨てようとして洗ってあった空き缶とか..雑多なものでテーブルが埋まっていたり..。
片付けても片付けても、家がゴミ箱同然になりました。


あるときは包丁を持って歩き回りました。
右手に包丁を持って、私の方に向かって歩いて来たときの恐怖を忘れることができません。
それ以来、包丁はいちいち洗って拭いて引き出しに隠すようにしました。
調理中もそれをやりました。
でも、刻んだ物をお鍋やフライパンに入れる時に、どうしても一瞬包丁を放して作業しなければならないときがあります。
そのわずかな隙に、いつ包丁を掴んでしまうかと、おびえながら食事を作っていました。


テレビに向かって威嚇したり、テレビを叩いたりもするようになりました。
少しでも大きな音がしたり、大声を出すような番組は見られなくなりました。

今穏やかにしていても、次の瞬間殴りかかってこない保証がない、腫れ物に触るような生活でした。



時々、思い出したように正常になりました。
古紙回収日に、新聞を持って階下に行こうとしている私を見つけ、かけよって来て持ってくれました。
そこには、昔と変わらない夫がいました。

今にして思えば、それが夫を苦しめていたのだと思います。
正常な時は、自分が何もわからなくなっていき、何もできなくなっていくことに、ものすごい不安を感じていたのだと思います。

夫は好きこのんで大小便を床にまき散らしたり、家の中をめちゃくちゃにしたわけではありません。
それしかできなかったのです。
その絶望の果ての不穏であり、暴力であったのだと今にして思います。
夫の覗き込んだ暗い深淵はどれほどのものだったのでしょう..。
それを想う時、今でも胸が苦しくなります。

私は、そうした夫を支えてあげなければならなかったのです。
でも、その頃の私は、気力も体力も使い切って疲れ果て、目の前に見えることだけに振り回されていました。
私もまた、地獄の深淵を覗き込んでいました。



リスパ○ールを飲ませて、大変なことになってしまったので、代わりの向精神薬で、グラマリールが処方されていました。
最低量の一錠25mgでした。
不穏なときは頓服として、もう一錠飲ませなさいと言われていました。
リスパ○ールに懲りていた私は、なかなか飲ませる決心がつきませんでした。
でも連日の不穏、暴力に耐えきれず、4月の初めから、グラマリールを飲ませ始めました。
目立った副作用はなさそうでした。
でも、飲ませても効いている様子はありませんでした。
相変わらず不穏になり、いつもいらいらしていました。


その少し前から、私は救いを求めてネット上を探し回っていました。
直接助けを求めると、交番のお巡りさんのように、すぐ病院に入れなさいと言われてしまいます。
主治医は単に薬を出してくれるだけでした。
失禁も暴力も、この時期になれば当たり前と言われました。
ただそれだけでした。
ケアマネさんに至っては、本当に何の助けにもなりませんでした。

このケアマネさんは、初期の頃から来てくれていました。
当初は、周辺症状が全くなかったので、相談する事柄もなく、毎月一度、おしゃべりに来ているようなものでした。
だんだん困った症状が現れてきてからも、穏やかに過ごすのが一番ですからねとか言った位で、では、どうやったら穏やかに過ごせるのかという、現実的な、一番私が知りたい事は教えてもらえませんでした。
暴力が始まって、辛いと訴えた時、精神病院の電話番号をメモ書きしてきて、ここに電話して連れて行って受診して下さい、2,3ヶ月先には入れると思いますと言われました。
どうやって、すぐ不穏になってしまう夫を病院まで連れて行けばいいのか、当時の私は、介護タクシーの存在も知りませんでした。
それより、困っているのは今なのに、2,3ヶ月先にはとか...。


ネットで「コウノメソッド」を見つけました。
そこに書かれていることは、目から鱗のことばかりでした。
アリセプトが興奮を引き起こしているのも知りました。
ああ..この先生のところに連れて行って受診させたいなと切実に思いました。
でも私には、夫を遠く離れた名古屋まで連れて行ける手段がありませんでした。
暴れたときに押さえてもらえるような誰か男の人の付き添いをお金で頼めないかと思い、ケアマネさんに相談しましたが、できないでしょうねぇ..という返事でした。

せめてメソッドの中にあった、フェルガードを飲ませてみたいと思いました。
その前に主治医の意見を聞きたかったのですが、サプリメントなんてという感じで、全く取り合ってもらえませんでした。

アリセプトを減らしたいと言ったら、減らしてもいいけど、一気に進みますよと脅かされました。
素人の悲しさで、一気に進むと言われると、それでもとは言い張れませんでした。
それで、アリセプト7.5mgを継続してしまいました..。

なにが正しいのか、効くか効かないかもわからないけど、フェルガードにかけてみようと思いました。
夫にはもう時間がありませんでした。
フェルガードが最後の頼みの綱でした。


3月末からフェルガード100Mを一日2包飲ませ始めました。
飲ませた当日、不思議なことがありました。

一人で体をちゃんと洗えなくなってからは、一緒にお風呂に入っていたのですが、その時夫は、私の背中を流してくれていました。
かなり前から、それをしてくれなくなっていました。
その日、私が手を伸ばして自分の背中を洗っていると、突然気がついたかのように、浴槽から上がってきて私からタオルを取り上げ、背中を流してくれたのです。

その後、二人でテレビを見ていました。
旅行番組だったのか、画面にオーロラが出ていました。
それを見て夫は、「オーロラ?」と聞きました。
文字を読んだのか、画面で判断したのか、オーロラという単語を言ったので、びっくりし、そして嬉しくなりました。

もうフェルガード効果がでている??!
偶然だったのかもしれないし、あまり期待してがっかりするのもイヤでしたが、やっぱり期待してしまいました。


その後も、数ヶ月前の状態に戻ってると感じる事が多々ありました。
一方、易怒不穏は激しさを増して行きました。
グラマリールは全く効いてないようでした。



4月の中旬から、新しいお泊まりデイを利用することにしました。
二カ所見学に行ったのですが、片方は、普通の民家を改造して使っているところで、10人ほどのお婆さん達が、薄暗い一部屋にいて、お手玉をしていました。
一人だけお爺さんがいて、その人はみんなから離れて、廊下の隅の椅子ににぽつんと座っていました。

もう一つのデイは、マンションの部屋を何戸か使っていました。
あまり清潔感がなく、泊まりに使う部屋も、なんとなく薄汚れていました。
でも、何人かいたスタッフの人達が、皆明るく、気持ちのよさそうな人達でした。
こちらにお願いすることに決めました。

土日と泊まって、月曜に帰ってくるパターンにしました。
最初の週だけは、泊まりはなしで、毎日帰ってくることにしました。


順調に3日間デイに通い、機嫌良く帰ってきました。
この分なら来週からのお泊まりも実現するかもしれないと、期待が高まりました。
もう私は身も心もボロボロで、とにかく体を休めたい、ゆっくり眠りたい、一時的でも糞尿まみれの生活から解放されたいという欲求でいっぱいでした。

着替えやタオルなど、デイから持ち帰ったものを洗濯して始末し、二階に上がってみると、早速廊下に尿をまき散らしていました。
ズボンを下ろしてしたらしく、パンツは汚れていませんでした。
いつものように、蒸気の出るクリーナーを持ってきて掃除しました。

食事ができたので、手を洗わせようとしたら、断固拒否。
その後どうしても食べようとせず、そのまま下に行って寝てしまいました。
フェルガードを飲むようになって以来、反応が良くなってきているのを感じますが、反面、自我がはっきり出て、変なこだわりとして現れてきているようでした。

しばらく経って、起きてきた音がしました。
同時に床に放水するあの音も...。
身震いするくらい嫌な音です。

見に行くと、階段の登り口の廊下のところで、スリッパを片方履き、床の水たまりの中に立って、放尿を続けていました。
パンツを下げた様子もなく、そのまま漏らし続けていました。
何度も見てはいるものの、この凄惨な光景に耐えられなくて、私はつい、何してるの!!と怒鳴ってしまいました。

ぼーっとして訳が分からない顔をしていましたが、間もなく怒りの表情に顔をゆがめ、殴りかかってきました。
腕をねじり上げられ、殴られ、更に踊り場に追い詰められて、拳で脇腹を殴られました。
やっとふりほどいて、二階に駆け上がり、今回はもう、ためらわず110番をしました。
電話をしている間も殴られ続けました。
どうやって逃げ出せたか覚えてはいないのですが、とにかく逃げだし、一階に降り外に出ました。
下には追ってきませんでした。

間もなく警察官が二人到着しました。
階段の下に水たまりがあるので、どうしようと思ったら、じゃ外履きのままで失礼といいながら、そのままドカドカと上がっていきました。

夫は、まだ興奮している状態でしたが、警察官の説得で、食堂の椅子に座りました。
もう一人の警察官と下に降り、話をしました。
こういう110番依頼が、一日数百件あるとのこと。
逮捕させたい訳じゃないんでしょ?と聞かれ、もちろんそうです、ただ殴られ続けているので、誰かに来てもらって止めて欲しかったけど、他に当てがないので110番しましたと答えました。

大分落ち着いてきていたので、グラマリールを警察官に飲ませてもらいました。
何も食べてない空きっ腹だけど、仕方ありませんでした。
いつまでも警察にいてもらうわけにも行かず、パンツを交換する間だけいて下さいと頼みました。
パンツを替えに浴室に連れて行きましたが、やはり脱がせることができませんでした。
警察官が、男同士だからいいでしょ?脱ごうねと言いながら、脱がせて、シャワーもかけ、タオルで拭いてパンツを履かせてくれました。
警察官が帰ってからは、もう殴りかかろうとはしないで、放心した顔で、いつまでもソファに座っていました。


殴られた脇腹の痛みが、翌日になっても引きませんでした。
翌火曜日は、これまでずっと通っていた水中体操のアクティビティがあるデイサービスです。
ここは、認知症対応ではなく、普通のデイサービスでしたが、こういう状態になっても引き受けていてくれました。
でも、ここでも不穏な状況になることが多くなって、お願いできるのもあとわずかだろうなと思っていました。
デイに送り出した後、私は整形外科に行きました。
レントゲンを撮ったところ、骨は折れてはいませんでした。
でも、肋骨にヒビが入っていて、それから2ヶ月位、痛みました。
体を動かすと痛み、咳をしても痛みました。
肋骨は、治療のやりようがなく、サポーターをして自然に治るのを待つしかありませんでした。


デイから帰ってきて、私の胸部サポーターを見つけると、びっくりしたように近寄ってきて、なでてくれました。
優しい夫..。
わけもなく涙がでて、止まりませんでした。



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毎年8月には、市の指定病院に健康診断を受けに行っています。
会社勤めの頃は、会社の健康診断を受けていましたが、離職してからは市の健康診断です。

一般的な身長体重血圧、血液検査尿検査の他に、オプションで肺がんや大腸がんの検診も受けられます。
私は3年前のこの検査で、大腸がんの疑いがあると言われ、翌年2月に内視鏡検査を受け、ポリープを切除してもらったところ、がんが見つかりました。
幸い、極く初期だったので、切り取っただけで済みました。
今は経過観察中の身の上です。

この病院は、夫もずっと昔から行っている病院です。
そういうわけで、健康診断は、夫と二人で毎年ここに行っていました。

去年、健康診断を受けるに当たって、もう無理なんじゃないかと思い、先生に相談しました。
先生が、とにかく連れてきなさいと言ってくれたので、去年も連れて行きました。
身長体重を測る時、サンダルを脱がせるのに苦労しました。
まっすぐ立たないので、ちゃんと測れませんでした。
尿検査で、お小水をとることができませんでした。

採血の時、針を刺されて一瞬驚いて不穏になりかけましたが、看護婦さんがとっても上手だったせいか、すぐ針を刺すことができ、その後はおとなしく採血を受けていました。
でもその様子を見て、来年はどうなのかなぁと危ぶんでいました。


さて、今年も健康診断の季節になりました。
ほんとに今年は悩みました。
ほとんど言葉を理解しないので、検査を受けられるとは思えませんでした。
また先生に相談しました。
今年もまた、とにかく連れてきなさいとのことでした。
やれる検査だけやりましょうとのことでした。

ケアマネさんにも相談しました。
このケアマネさんは、二人目のケアマネさんで、一昨年の6月からお願いしています。
ちょっとぶっきらぼうで、お世辞のない人ですが、親身になって相手のことを考えてくれる人です。
今回もこの話をしたら、当日朝、うちに来て手伝ってくれるとのことでした。

連れて行こうとしていた日は、先生の都合もあり、誰も来ない予定の日でした。
もしまたベッドから落ちていたりしたら、お手上げになる私は、ありがたくお願いすることにしました。

それが昨日のことでした。
約束通りケアマネさんが来てくれました。
起こして、昨日は紅茶ではなく麦茶を飲ませ、シャワーをかけ、いつもの手順で進めていきました。
身支度ができたので、ケアマネさんの車で病院へ行きました。
ケアマネさんは、ずっと付き添っていてくれました。
問診票に書き込みをしている間や、私の検査の時もずっと夫を見ていてくれたので、ほんとに助かりました。

今年も身長体重を測るところで難儀しました。
その後の採血が...。
今年は、暴れてしまって、どうしても腕に針を刺すことができませんでした。
看護婦さんが、4人がかりで押さえて、やっと手の甲に針を刺すことができ、そこから血をとりました。
全く聞き分けがなくなってしまった夫...。
見ているのが辛かったです。

その後は、胸のレントゲンでした。
技師の方が防護エプロンをして、夫に付き添ってくれました。
すぐ出てきたので、無事レントゲンは撮れたようでした。

尿検査は今年もできませんでした。
大腸がんの検査は、浣腸をした便では、腸壁を傷つけている可能性があり、正しい検査ができないとのことで、自然排便があったときの便をとらないといけないとのことでした。
難しいなぁと思っていると、先生がこう言ってくれました。

 知らない方がいいこともあるよ

仮に大腸がんの疑いがあると言われたところで、夫に内視鏡検査を受けさせるのは無理そうです。
私自身その検査を受けているのでわかるのですが、大量の下剤(ムーベン2リットル)を飲まないといけません。
これが夫には到底無理だろうと思われるのです。
疑いがあるけども、何もできない、まして治療もできないとなると、確かに知らないままの方がよさそうです..。
大腸がんの検査もあきらめることにしました。

認知症患者にとって、健康診断とは何なのでしょうか。
意味があるのかな..。
それとも、沢山の人達に余計な手間をかけさせるだけの、介護者の自己満足なのでしょうか..。

採血が終わった後、私は看護婦さんに言いました。
もう来年は無理そうですね..と。
看護婦さんは、いや大丈夫だから来年も連れていらっしゃい、やっぱり一年に一度は、血液の検査をして、どんな状態か知るのは大切なことだからと、言ってくれました。

迷惑かけて申し訳ないと思っていたので、その言葉に救われましたが、来年はどうしたらいいんでしょう..。
何か病気に罹って、それがひどくなって症状に現れる頃になってから、できる範囲での治療をする..その方がいいのでしょうか..。

悩みがまた一つ増えました..。


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週に一日だけ、誰も来ない、誰にも会わない日を作っています。

お泊まりデイでは、日中は大勢の人に囲まれています。
ここのデイは、普通のデイと、認知症対応のデイに分かれていて、認知症の方は利用者さんの人数は少ないのですが、それでもいつも6~7人はいます。
それから職員さん達。
夜は夜勤の職員さんと、一緒に泊まる利用者さんが5~6人ほど。

家にいるときも、入浴介助のヘルパーさん、マッサージの技術やさん、訪問看護婦さんと、入れ替わり立ち替わりに来てくれています。

夫は昔、よその人にとても気を使う人でした。
今ではそんなこともないでしょうけど、やはり、連日よその人がいる環境はストレスがたまるのではないかと思い、完全に誰も来ない日を作っています。

今日がその日です。
朝ベッドから起こすのはいつものことですが、この段階で汗びっしょりになります。
雨が降っているのに、ベッドはひさしぶりに洪水でした..。
気を取り直して、そばにあるロッキングチェアまで移動させ、そこでフェルガード入り紅茶を飲ませました。

再び立ち上がらせて、洗面所に移動。
濡れているパジャマを脱がせ、おむつを外し、洗い場に移動させました。

立たせたまま、シャワーをかけ、石けんで全身を洗いました。
少し前までは、立位が安定しないので、片手で支えながら、シャワーヘッドを持ち、更に体を洗うのは至難の業でした。
石けんで洗うことができなくて、下半身にシャワーをかけるだけで済ませていました。

今ではかなり安定して立っていてくれるので、ずいぶん楽になりました。
でも、すっかり洗い上げた頃には、私は汗だくになり、シャワーのハネと相まってびしょ濡れになっていました。

体を拭いて、乾燥止めのザーネを全身に塗り、赤くかぶれているところに薬を塗り、服を着せました。
夫は皮膚が弱く、湿疹ができたり、すぐかぶれたりします。
紙パンツの方が楽なのですが、どうしてもかぶれるので、日中は布パンツを履かせ、尿取りパッドを当てています。

手すりを持たせ、片足ずつ上げさせてパンツズボンを履かせました。
これは毎日やっているせいか比較的スムーズです。

その後2階に連れて行きましたが、これが大変...。
今日はなかなか登ってくれませんでした
後ろにそっくり返る心配は少なくなっているので、それが救いでした。
根気よく促して、やっと登ってくれました。

食事の支度をしている間、台所から食堂を行ったり来たりしていました。
足の運動にもなるし、そのままにしておきました。

ガタッと音がしたので、振り向いてみると、夫は食堂テーブルの脇に尻餅をついていました。
なぜか回転して床に落ちたようで、片方の手がお尻の下に入っていました。
おそらく、椅子に座ろうとして、何もないところに腰を下ろしたのだと思います。

頭は打っていませんでした。
慌てて駆け寄り上半身を私の膝に載せました。
できるのはそこまででした。
重くとても持ち上げることができませんでした。


やっぱり無理なのかな..私一人で夫を看るのは..。
夫を両腕に抱えたまま、私はどんどん気弱になっていきました。
自分の非力さが恨めしい..。
もう少し私に力があったら、こんなことはなんでもないのに..。
すぐ起こしてあげられるのに..。

仕方ない..。前やったように、階段の降り口まで引っ張ろう。
家の床は完全に平らで、段差は全くありません。
食堂から階段の降り口まで障害物はありません。

両脇に腕を入れ、引っ張ろうとしました。
ところが全く動きません。
前はこれで引っ張れたはずなのに..。
やむを得ず、片腕を両方の手で持って、引きずりました。

やっと階段まで連れてこれました。
足を階段に下ろさせ、後ろ側に回り、ベッドでいつもやるように、背中を力ずくで起こしました。
階段に腰掛けた態勢になったところで、両手をとって立ち上がらせることができました。


汗がしたたり落ち、目に入りました。
目が痛い..目からも汗がでました。




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